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手と聖書ものみの塔 1963 | 2月1日
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クリスチャン・ギリシャ語聖書の中では,奇跡的ないやしをほどこす場合に手が使われた事が出ています,「日が暮れると,いろいろな病気になやむ者をかかえている人々が,皆それをイエスのところに連れてきたので,そのひとりびとりに手を置いて,おいやしになった」。聖霊を分け与える時にも手がおかれました,「ふたりが手を彼らの上においたところ,彼らは聖霊を受けた」。そしてアンテオケの会衆が聖霊によって,パウロとバルナバを特別な仕事のために派遣するのは神の御心であると知った時,「一同は,断食と祈とをして,手をふたりの上においた後,出発させた」。ついでのことながら,この任命によってバルナバは,イエスが遣わした12使徒の一人ではありませんが,アンテオケのクリスチャン会衆によって派遣された二人の使徒の一人になりました。―ルカ 4:40。使行 8:17; 13:1-3; 14:14,新口。
聖書の中では,人間の力あるいはエホバ神の力を表わすために手という言葉が用いられています,「エホバの手おもくアシドド人にくははり」。ユダは次の約束を受けました。「汝の手はなんぢの敵のくびを抑へん」。―サムエル前 5:6。創世 49:8。出エジプト記 6:1; 9:3もごらん下さい。
また,手は行為や協力を意味する場合もあります。予言者オデデは忠実な王アサに励まして言いました,「汝ら強かれよ汝らの手を弱くするなかれ,汝らの行為にはむくいのたまものあるべければなり」。サウロ王は,ダビデに協力したという事を理由に何人かの祭司を殺しました,「彼らの手もダビデとともにあったのだからエホバの祭司を殺せ,」。―歴代下 15:7。サムエル前 22:17,新世。
人を殺害する者は,手で人の生命を奪うので,「なんぢらの手には血みちたり」と言われています。ピラトは自分の責任を免れようとして,文字通り手を水で洗いましたがむだな事でした。―イザヤ 1:15。マタイ 27:24。
手を含めてすべて神から与えられたものに感謝する気持のある人はだれでも,次の助言の言葉に注意を払うでしょう,「すべて汝の手にたふることは力をつくしてこれをなせ」。そうです,何事をするにも,私たちは力をつくして,すなわち,心をつくして行なうべきです。―伝道之書 9:10。コロサイ 3:23。
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奉仕に忍耐を示す事は報われるものみの塔 1962 | 11月1日
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奉仕に忍耐を示す事は報われる
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