神殿
(しんでん)(Temple)
崇拝のために用いる,物理的もしくは霊的な,神の住まい,神聖な場所,または聖なる所。「神殿」と訳されるヘブライ語のヘーカルという言葉は「宮殿」をも意味します。ギリシャ語のヒエロンやナオスはどちらも「神殿」と訳されており,神殿建造物群全体を指すこともあれば,その中心的造営物を指すこともあります。ナオスは「聖なる所」,あるいは「神の住まい(住みか)」を意味する語で,特に神殿の神聖な奥の部屋を指すことがあります。―「聖なる場所」を参照。
ソロモンの神殿 ダビデ王は「天幕布のただ中にとどまって」いた契約の箱を納める家をエホバのために建てたいという強い願いを抱きました。エホバはダビデの申し出を喜ばれましたが,ダビデは戦いで多くの血を流したので,その子(ソロモン)が神殿を建てる特権にあずかるであろうとダビデにお告げになりました。これはダビデがエホバのみ名とその民のために行なった戦いを神が是認されなかったということではありません。しかし,その神殿は平和の人により平和裏に建てられることになっていたのです。―サム二 7:1-16; 王一 5:3-5; 8:17; 代一 17:1-14; 22:6-10。
費用 後にダビデは,モリヤ山上のエブス人オルナン(アラウナ)の脱穀場を神殿の敷地として購入しました。(サム二 24:24,25; 代一 21:24,25)ダビデは金10万タラント,銀100万タラント,それにおびただしい量の銅や鉄を集めました。そのほかに,自分個人の資産の中から金3,000タラントと銀7,000タラントを寄進しました。ダビデはまた,君たちからの寄進物として5,000タラント1万ダリク相当の金,1万タラント相当の銀,それに大量の鉄や銅を受け取りました。(代一 22:14; 29:3-7)その総合計は,金10万8,000タラント1万ダリクと銀101万7,000タラントに上り,これは現在の評価額で483億3,704万7,000㌦に相当します。ダビデの子ソロモンはその全部を神殿の建立に費やしたわけではありません。残りは神殿の宝物庫に収めました。―王一 7:51; 代二 5:1。
職人たち ソロモン王はその治世の第4年(西暦前1034年),第2月,ジウの月に,ダビデが霊感により受けていた建築計画に従ってエホバのための神殿を建て始めました。(王一 6:1; 代一 28:11-19)工事は7年余りの期間続きました。(王一 6:37,38)ティルスの王ヒラムは小麦,大麦,油,およびぶどう酒と引き換えに,レバノン産の材木を木や石の細工師たち,それに一人の特別な専門家と共に提供しました。その専門家もやはりヒラムという名の人で,父はティルス人,母はナフタリの部族のイスラエル人の女でした。この人は金,銀,銅,鉄,木,石,および織物の立派な職人でした。―王一 5:8-11,18; 7:13,14,40,45; 代二 2:13-16。
ソロモンは工事を組織するに当たり,イスラエルから3万人の男子を徴用し,1か月に1万人ずつ交代でレバノンに送りました。それらの人々は交代の合間の2か月間は家にいました。(王一 5:13,14)ソロモンは国内の「外人居留者」の中から7万人を荷物運搬人として,また8万人を石を切る者として徴用しました。(王一 5:15; 9:20,21; 代二 2:2)ソロモンは550人の男子を工事をつかさどる現場監督として任命し,3,300人の人々を補佐として任命したようです。(王一 5:16; 9:22,23)それらの人々のうち,250人はイスラエル人で,3,600人はイスラエル内の「外人居留者」であったと思われます。―代二 2:17,18。
用いられた「キュビト」の長さ 三つの神殿 ― ソロモン,ゼルバベル,およびヘロデによって建立された ― の大きさに関する以下の論考では,1キュビトを44.5㌢として計算します。しかし,約51.8㌢の長尺のキュビトが用いられた可能性もあります。―代二 3:3(ここでは,「長さは以前の尺度によるキュビト」と述べられており,これは一般に用いられるようになったキュビトよりも長いものかもしれない),およびエゼ 40:5と比較。「キュビト」を参照。
設計図と資材 極めて壮麗な建造物であった神殿は,大体において幕屋の設計図に従って建てられました。しかし,聖所と至聖所の内側の寸法は,幕屋のそれよりも大きなものでした。聖所は長さが40キュビト(17.8㍍),幅が20キュビト(8.9㍍)で,高さは30キュビト(13.4㍍)だったようです。(王一 6:2,17)至聖所は一辺が20キュビトの立方体でした。(王一 6:20; 代二 3:8)さらに,至聖所の上には,高さ約10キュビト(4.5㍍)の屋上の間がありました。(代一 28:11)また,神殿の周りの三方の側には,倉庫用の脇間などのある脇屋がありました。―王一 6:4-6,10。
用いられた資材はおもに石材や木材でした。それらの部屋の床にはねず材の板が張られていました。内側の壁はケルブややしの木や花の彫刻を施した杉の板でできており,壁と天井には全体に金がかぶせられました。(王一 6:15,18,21,22,29)聖所の扉(神殿の入口の扉)はねずの木で造られ,模様が彫り刻まれ,金ぱくがかぶせられていました。(王一 6:34,35)同様に,油の木で造った扉にも模様が彫り刻まれ,金がかぶせられており,聖所と至聖所の間の入口となっていました。その扉が正確にはどの位置にあったにせよ,幕屋において有効であった垂れ幕の取り決めに完全に取って代わったわけではありません。(代二 3:14と比較。)至聖所では,油の木で造られて金をかぶせられた2体の巨大なケルブがその場所を占めていました。それらのケルブの下に契約の箱が置かれていました。―王一 6:23-28,31-33; 8:6。「ケルブ,II」1項を参照。
聖所の器具はすべて,金でできていました。それらは香の祭壇,供えのパンの十の食卓,および十の燭台とその付属品です。聖所(第一の仕切り室)の入口のそばには「ヤキン」と「ボアズ」と呼ばれる2本の銅の柱が立っていました。(王一 7:15-22,48-50; 代一 28:16; 代二 4:8。「ボアズ,II」を参照。)奥の中庭は良質の石と杉材で造られていました。(王一 6:36)中庭の備品,犠牲の祭壇,大きな「鋳物の海」,水盤のための10個の運び台,その他の器具は銅でできていました。(王一 7:23-47)中庭の周囲には幾つもの食堂が設けられていました。―代一 28:12。
この神殿の建設工事の際立った特色の一つは,石材がすべて石切り場で切られたので,神殿の敷地で寸分たがわず組み合わされたことです。「つちや斧,その他の鉄の道具の音は,家が建てられるとき,その中では聞かれなかった」のです。(王一 6:7)工事は7年半(西暦前1034年の春から西暦前1027年の秋[ブル,第8月]まで)で完成しました。―王一 6:1,38。
奉献式 ソロモンの治世の第12年(西暦前1026年)と思われますが,その年の第7月,エタニムの月に,ソロモンは神殿の奉献式と仮小屋の祭りを執り行なうためイスラエルの男子をエルサレムに召集しました。そして,幕屋とその聖なる家具が運び上げられ,契約の箱が至聖所に置かれました。(「至聖所」を参照。)その時,エホバの雲が神殿に満ちました。次いで,ソロモンはエホバとイスラエルの会衆をほめたたえ,銅の犠牲の祭壇の前の特別な演壇の上に立ち(「祭壇」を参照),長い祈りをささげて,エホバを賛美すると共に,エホバを恐れてエホバに仕えるためエホバに心を向けるイスラエル人と異国の人々の両方のために愛ある親切と憐れみを願い求めました。そして,牛2万2,000頭と羊12万頭という立派な犠牲がささげられました。その奉献式が7日,それに仮小屋の祭りが7日かかり,その後,ソロモンはその月の23日に民を去らせ,人々はエホバの善良さと寛大さゆえに喜びと感謝の気持ちに満たされて家路に就きました。―王一 8章; 代二 5:1–7:10。「ソロモン」(神殿の奉献式)を参照。
歴史 この神殿は西暦前607年にネブカドネザル王の率いるバビロニア軍に滅ぼされる時まで存続しました。(王二 25:9; 代二 36:19; エレ 52:13)イスラエルが背いて偽りの宗教を奉じたために,神は諸国民がユダとエルサレムを悩まし,時にはその神殿から財宝を奪い取るのを許されました。神殿も,ある期間なおざりにされたことが幾度かありました。エジプトの王シシャクはソロモンの子レハベアムの時代(西暦前993年)に,つまり神殿の奉献式のわずか33年ほどの後に神殿から財宝を奪いました。(王一 14:25,26; 代二 12:9)アサ王(西暦前977-937年)はエホバの家に対して敬意を抱いていましたが,エルサレムを守るために,愚かにも神殿の財宝の中から金銀を取ってシリアの王ベン・ハダド1世にわいろとして贈り,イスラエルの王バアシャとの契約を破らせようとしました。―王一 15:18,19; 代二 15:17,18; 16:2,3。
ある期間,騒乱が続き,神殿がなおざりにされた後,ユダのエホアシュ王(西暦前898-859年)は神殿の修理を監督しました。(王二 12:4-12; 代二 24:4-14)その子アマジヤの時代には,イスラエルのエホアシュ王が神殿の物を奪いました。(王二 14:13,14)ヨタム王(西暦前777-762年)は神殿域で建設工事を幾らか行ない,「上の門」を建てました。(王二 15:32,35; 代二 27:1,3)ユダのアハズ王(西暦前761-746年)は神殿の財宝をアッシリアの王ティグラト・ピレセル3世にわいろとして送っただけでなく,ダマスカスの祭壇をかたどって祭壇を築き,神殿の銅の祭壇をそれに取り替えさせて神殿を汚すこともしました。(王二 16:5-16)そして,ついにはエホバの家の扉を閉じました。―代二 28:24。
アハズの子ヒゼキヤ(西暦前745-717年)は,父の悪い業をぬぐい去るために,できる限りのことをしました。ヒゼキヤはその治世の最初から,神殿を再び開けて清めさせました。(代二 29:3,15,16)ところが後に,アッシリアのセナケリブ王を恐れるあまり,扉と自ら金をかぶせさせた神殿の戸柱を切り離し,それらのものをセナケリブのもとに送りました。―王二 18:15,16。
しかし,ヒゼキヤが死んだ後,神殿は半世紀間,神聖さを汚された,破損したままの状態になりました。その子マナセ(西暦前716-662年)は邪悪さの点でユダの以前の王のだれをもしのぎ,「エホバの家の二つの中庭に天の全軍のために」祭壇を築きました。(王二 21:1-5; 代二 33:1-4)マナセの孫ヨシヤ(西暦前659-629年)の時代には,かつては壮麗だったその造営物は破損したままの状態でした。それは混乱した,もしくはごった返した状態にあったようです。というのは,大祭司ヒルキヤが律法の書(モーセ直筆の元の巻き物であったと思われる)を見つけたことが,胸を躍らせるような発見だったからです。(王二 22:3-13; 代二 34:8-21)神殿が修理され,清められた後,預言者サムエルの時代以来最大の過ぎ越しが祝われました。(王二 23:21-23; 代二 35:17-19)それは預言者エレミヤが奉仕の務めに携わっていたころのことでした。(エレ 1:1-3)その時から,神殿は破壊される時まで開かれたままの状態で祭司たちにより使用されましたが,祭司の多くは腐敗していました。
ゼルバベルの建てた神殿 エホバの預言者イザヤが予告したように,神はペルシャの王キュロスをバビロンの権力のもとからイスラエルを解放する者として起こされました。(イザ 45:1)エホバはまた,ユダの部族のゼルバベルの指揮下にあったご自分の民がエルサレムに帰還するよう,彼らを奮い立たせられました。彼らはエレミヤが予告していたように,70年間の荒廃の後の西暦前537年に神殿を建て直す目的で,確かに帰還しました。(エズ 1:1-6; 2:1,2; エレ 29:10)その建造物はソロモンの神殿の輝かしさにはとうてい及ぶものではありませんでしたが,その神殿よりも長く存続し,西暦前515年から実際,西暦前1世紀の末まで,ほぼ500年間持ちこたえました。(ソロモンの建てた神殿は,西暦前1027年から607年までの約420年間役立った。)
キュロスは布告の中で,「外国人としてとどまっているどの場所からの者でも,残っている者については,その場所の人々が,エルサレムにあったまことの神の家のための自発的な捧げ物と共に,銀,金,財貨,家畜をもってその人を援助するように」と命じました。(エズ 1:1-4)キュロスはまた,ネブカドネザルがソロモンの神殿から持って来ていた5,400個の金銀の器を返しました。―エズ 1:7-11。
西暦前537年の第7月(エタニム,もしくはティシュリ)に祭壇が設置され,その翌年,新しい神殿の土台が据えられました。かつてソロモンがしたように,建築者たちはシドン人やティルス人を雇ってレバノンから杉材を運ばせました。(エズ 3:7)ところが,建築者たちは反対され,それも特にサマリア人からの反対によって意気をくじかれてしまいました。それから約15年後,それら反対者たちはペルシャの王を唆して工事を禁止させることさえしました。―エズ 4章。
ユダヤ人は神殿の建築工事をやめて,他の事柄に注意を向けていました。それで,エホバはダリウス1世の第2年(西暦前520年)に,改めて努力するよう彼らを奮い立たせるため,ご自分の預言者であるハガイとゼカリヤを遣わされました。その後,キュロスの最初の命令を擁護し,建築者や祭司たちの必要な物を供給するために王の資金からお金を提供することを命じた布告が出されました。(エズ 5:1,2; 6:1-12)そして,建築工事は遂行され,エホバの家はダリウスの第6年のアダルの3日(多分,西暦前515年3月6日)に完成しました。その後,ユダヤ人は建て直された神殿を奉献し,過ぎ越しを執り行ないました。―エズ 6:13-22。
この第二神殿の建築計画の詳細についてはほとんど知られていません。キュロスの布告により建設が認められたのは,「その高さは六十キュビト[約27㍍],その幅も六十キュビト,所定のところにころで運ばれる石の層は三段,材木の層は一段」ある建造物でした。その長さについては述べられていません。(エズ 6:3,4)その神殿には食堂や貯蔵室があり(ネヘ 13:4,5),確かに屋上の間もあり,ソロモンの神殿と同じ手法で,その建造物にも恐らく他の建物が付随していたことでしょう。
この第二神殿には契約の箱はありませんでした。その箱は西暦前607年にネブカドネザルがソロモンの神殿を攻略して略奪する以前に消失していたようです。外典のマカベア第一書の記述(1:21-24,57; 4:38,44-51)によれば,ソロモンの神殿とは異なり,燭台は10基ではなく,1基しかありませんでした。金の祭壇,供えのパンの食卓,および器類のことが指摘されており,また焼燔の捧げ物の祭壇のことも述べられていますが,その描写によれば,それはソロモンの神殿の祭壇のような銅の祭壇ではなく,石の祭壇でした。この祭壇はアンティオコス・エピファネス王により(西暦前168年に)汚された後,ユダ・マカバイオスの指図のもとに新しい石で建て直されました。
ヘロデにより建て直された神殿 この神殿については聖書中に詳細なことは何も述べられていません。おもな情報源はヨセフスです。彼は直接その建造物を見ており,その建設に関し,ユダヤ戦記,およびユダヤ古代誌の中で報告しています。ユダヤ人のミシュナも幾らかの情報を提供していますが,考古学からは情報はほとんど得られていません。ですから,ここでの説明はそれらの情報源に基づいたものであり,その情報源は場合によっては疑わしいこともあります。―第2巻,543ページの図版。
ヨセフスはユダヤ戦記(I,401 [xxi,1])の中で,ヘロデがその治世の第15年に神殿を再建したと述べているものの,ユダヤ古代誌(XV,380 [xi,1])の中では第18年のことだったとしています。学者たちは一般にこの後者の年代を受け入れています。とはいえ,ヘロデの治世がいつ始まったか,あるいはその治世をヨセフスがどのように算定したかは確証されていません。聖なる所そのものは18か月かけて建てられましたが,中庭その他の建設には8年かかりました。西暦30年に,一部のユダヤ人がイエス・キリストに近づいて,「この神殿は四十六年もかけて建てられた」(ヨハ 2:20)と言いましたが,それらのユダヤ人は中庭や建物の造営物群に関連して当時まで続けられていた工事のことを話していたようです。その工事が終わったのは,西暦70年に神殿が破壊される約6年前のことでした。
ユダヤ人はヘロデに憎しみと不信の念を抱いていたため,ヘロデが神殿の再建を提案しても,彼が新しい建物のために準備万端整えるまでは,建て直すのを許可しようとはしませんでした。ユダヤ人がこの神殿を第三神殿とは考えず,単に建て直された神殿とみなし,第一および第二神殿(ソロモンの神殿とゼルバベルの神殿)のことしか話さなかったのも同様の理由によります。
ヨセフスの記している測定値について,スミスの「聖書辞典」(1889年,第4巻,3203ページ)はこう述べています。「彼の記している水平面の測定値は詳細な点まで非常に正確であるため,執筆の際,ティツスの軍隊の主計総監の部門で作成された,その建造物の何らかの平面図を目の前に置いていたのではないかと思えるほどである。その水平面の寸法は高さに関して彼が記している寸法とは奇妙な対照をなしている。その高さについては,寸法はほとんど例外なく誇張されており,大抵2倍になっていることを示すことができる。攻囲が行なわれた際,その建造物は皆,倒壊したので,各部の高さに関して彼に間違いを悟らせることは不可能であった」。
柱廊と門 ヨセフスは,ヘロデが神殿の境内の広さを2倍にし,モリヤ山の側面を大きな石の城壁で囲い込み,山頂の地区を平らにならしたと書いています。(ユダヤ戦記,I,401 [xxi,1]; ユダヤ古代誌,XV,391-402 [xi,3])ミシュナ(ミドット 2:1)によれば,その“神殿の山”の面積は500キュビト(223㍍)平方でした。神殿の境内の外側の端には柱廊がありました。その神殿は以前の神殿と同様,東に面していました。その東側には,大理石の柱が列に並んだ二つの側廊から成るソロモンの柱廊がありました。冬の時期のある時,その柱廊のところでイエスは,近づいて来たあるユダヤ人たちから,キリストなのかどうかと尋ねられました。(ヨハ 10:22-24)北側と西側にも柱廊があり,南側にはそれらを小さく見せるような“王の柱廊”がありました。その柱廊には合計162本のコリント式円柱が4列に並んでおり,側廊が3列ありました。柱の円周は3人の男子が両腕を伸ばして手をつながなければ囲めないほど大きく,その柱はほかの柱廊のそれよりもずっと高いものでした。
神殿の境内に通じる門は八つあったようです。西側に四つ,南に二つ,そして東と北に一つずつありました。(「門,門口」[神殿の門]を参照。)これらの門があったので,第一の中庭,つまり“異邦人の中庭”は公道の役をも果たし,旅行者は神殿の境内の外側を回る代わりに,その公道を通って行くことを好みました。
異邦人の中庭 “異邦人の中庭”と呼ばれる広い敷地は柱廊で囲まれていました。そのように呼ばれていたのは,異邦人もそこまでは入ることを許されていたからです。イエスはその中庭から二度,つまり地上で宣教を行なわれた初めのころに一度,またその終わりごろにもう一度,ご自分の父の家を売り買いの家にしていた者たちを追い出されました。―ヨハ 2:13-17; マタ 21:12,13; マル 11:15-18。
人が主要な建物,つまり聖なる所そのものの所へ行く時には,幾つかの中庭を通りました。中庭は順を追って一つずつ神聖さの度合いが高くなってゆきました。“異邦人の中庭”を通ると,通り抜けるための開口部のある,高さ3キュビト(1.3㍍)の壁の前に出ます。その壁の上にはギリシャ語とラテン語の警告文を刻んだ大きな石が置かれていました。そのギリシャ語の碑文には(ある翻訳によれば),「異国の者は聖域の周囲の柵と垣の内側に入ってはならない。見つけられた者は責任を問われ,死をもって罰せられる」と記されていました。(新ウェストミンスター聖書辞典,H・ゲーマン編,1970年,932ページ)使徒パウロはある時,神殿で暴徒に襲われましたが,それはパウロが異邦人を禁制域に入らせた,といううわさをユダヤ人が流したためでした。わたしたちはキリストがユダヤ人を異邦人から隔てていた『壁を取り壊して』くださったと書かれている箇所を読む時,この壁のことを思い起こします。もっとも,パウロは「壁」という語を象徴的な意味で使っていました。―エフェ 2:14,脚注; 使徒 21:20-32。
婦人の中庭 そこから階段で14段高い所に“婦人の中庭”がありました。婦人たちはそこに入って崇拝を行なうことができました。“婦人の中庭”には色々な物がありましたが,宝物庫の箱も置かれていました。イエスはそれらの一つの箱の近くに座っておられた時,あるやもめが自分のものをすべて与えたのを見てそのやもめをお褒めになりました。(マル 12:41-44; ルカ 21:1-4)この中庭には幾つかの建物もありました。
イスラエルの中庭と祭司の中庭 大きな半円形の階段を15段上ると,“イスラエルの中庭”に出ます。この中庭には儀式的な清めを受けた男子が入ることができました。この中庭の外壁を背に幾つかの倉庫の間が設けられていました。
次に,幕屋の中庭に相当する“祭司の中庭”がありました。その中庭には切り石でない石で築かれた祭壇がありました。ミシュナによれば,その祭壇の基部の平面は32キュビト(14.2㍍)平方でした。(ミドット 3:1)ヨセフスはそれより大きな数字を挙げています。(ユダヤ戦記,V,225 [v,6]。「祭壇」[流刑後の祭壇]を参照。)祭司たちは斜面を上って祭壇の上部に達しました。ミシュナによれば,「洗盤」も使われました。(ミドット 3:6)この中庭の周りにも様々な建物がありました。
神殿の建物 以前の場合と同様,神殿本体はおもに二つの仕切り室,つまり聖所と至聖所から成っていました。この建物の床は“祭司の中庭”から階段で12段上にありました。ソロモンの神殿がそうであったとおり,この建物の脇にも種々の間が建てられ,階上の間もありました。入口は,各々高さ55キュビト(24.5㍍),幅16キュビト(7.1㍍)の金の扉で閉ざされていました。この建物の正面は背面よりも幅が広く,両側に20キュビト(8.9㍍)ずつ突き出た翼,つまり突出部がありました。聖所の内部は長さが40キュビト(17.8㍍),幅が20キュビトでした。聖所には,燭台,供えのパンの食卓,および香の祭壇がありました。それらはすべて金でできていました。
至聖所の入口は美しい装飾の施された厚い垂れ幕,もしくは垂れ布でした。イエスが亡くなられた時,この垂れ幕が上から下まで二つに裂け,至聖所には契約の箱のないことがあらわになりました。その箱の代わりに石の厚板があり,大祭司は贖罪の日にその上に血を振り掛けました。(マタ 27:51; ヘブ 6:19; 10:20)その部屋は長さが20キュビト,幅も20キュビトでした。
西暦70年にエルサレムがローマ人により攻囲されていた時,ユダヤ人は神殿の境内を城砦,もしくは要塞として用いました。ユダヤ人自ら柱廊に火を放ちましたが,あるローマの兵士がローマ軍の司令官ティツスの意に反して,神殿そのものに火をつけたため,神殿の建物に関しイエスの言われた,「石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは決してないでしょう」という言葉が成就しました。―マタ 24:2; ユダヤ戦記,VI,252-266(iv,5-7); VII,3,4(i,1)。
エホバの偉大な霊的な神殿 モーセの建てた幕屋やソロモン,ゼルバベル,およびヘロデの建立した神殿は,予型的もしくは描画的なものにすぎませんでした。そのことについては,使徒パウロが,幕屋は「天にあるものの模型的な表現また影」であったと書いて示しています。その幕屋の基本的な特色は後代の神殿にも含まれていました。(ヘブ 8:1-5。王一 8:27; イザ 66:1; 使徒 7:48; 17:24も参照。)クリスチャン・ギリシャ語聖書はその予型によって表わされていた実体を明らかにしています。その聖書が示すところによると,幕屋や,ソロモン,ゼルバベル,およびヘロデの建てた神殿はその特色と共に,エホバの大いなる霊的な神殿,つまり「人間ではなくエホバの立てた真の天幕」を表わしていました。(ヘブ 8:2)その霊的な神殿とは,その様々な特色によって表わされているとおり,イエス・キリストのなだめの犠牲に基づき崇拝においてエホバに近づくための取り決めのことです。―ヘブ 9:2-10,23。
霊感を受けて記されたヘブライ人への手紙によれば,この霊的な神殿の至聖所は「天そのもの」,つまり神ご自身のおられる領域です。(ヘブ 9:24)至聖所だけが「天そのもの」なのですから,聖所と祭司の中庭,それにその特色は,地上の物事,つまり地上で奉仕の務めに携わっておられた時のイエス・キリストと「天の召しにあずかる人たち」であるその追随者たちとかかわりのある物事に関係しているに違いありません。―ヘブ 3:1。
垂れ幕は聖所を至聖所から隔てる障害物でした。イエスの場合,それは「彼の肉体」を表わしていました。イエスは対型的な至聖所である天に入ることができるようにするため,その肉体を犠牲としてなげうち,永久に捨てなければなりませんでした。(ヘブ 10:20)油そそがれたクリスチャンも,天の神のみ前に近づくことを妨げている肉体の障害物を通過しなければなりません。したがって,聖所は,天的な命の見込みを伴う,霊によって生み出された神の子としての彼らの状態を表わしていると考えてよいでしょう。彼らは死んで,自分たちの肉の体を脱ぎ捨てる時,その天的な報いを受けるのです。―コリ一 15:50; ヘブ 2:10。
これら聖霊で油そそがれ,また従属の祭司としてキリストと共に仕える人たちは,なお対型的な聖所にいる間,燭台から照らされるかのように霊的な啓発を受け,供えのパンの食卓から頂くかのように霊的な食物を食べ,また黄金の香の祭壇で芳しい香をささげるかのように祈りと賛美を神にささげたり,神に奉仕したりすることができます。予型的な神殿の聖所は外部の人々からは見えないように仕切り幕で隠されていました。同様に,自分が霊によって生み出された神の子であることを人はどのようにして知るのかということやそのような者として経験する事柄も,そうでない人々には十分認識することができません。―啓 14:3。
古代の神殿の中庭には犠牲をささげるための祭壇がありました。これは,神がご自分の意志にしたがって,アダムの子孫を贖うための完全な人間の犠牲を備えることを予表するものでした。(ヘブ 10:1-10; 13:10-12; 詩 40:6-8)霊的な神殿の中庭そのものは,その犠牲とかかわりのある状態と関係があるに違いありません。イエスの場合,中庭とはご自分が完全な人間であられたことでした。そのような状態であったゆえに,イエスの命の犠牲は受け入れられるものとされたのです。イエスの油そそがれた追随者たちの場合,これらの人は皆,キリストの犠牲に対する信仰に基づいて義と宣せられており,またそれゆえに彼らは肉体でいる間も,神により罪のない者とみなされているのです。―ロマ 3:24-26; 5:1,9; 8:1。
神の偉大な霊的な神殿である「真の天幕」の特色は,西暦1世紀にすでに存在していました。そのことは,パウロがモーセの建てた幕屋に関して,その幕屋は「今すでに来ている定められた時のための例え」,つまりパウロがその手紙を書いた時に存在していたもののための例えであると書いたことに示されています。(ヘブ 9:9)イエスがご自分の犠牲の価値を至聖所の中で,つまり天そのものにおいてささげた時にその神殿が存在していたことは確かです。その神殿は,イエスがエホバの大祭司として仕えるために聖霊で油そそがれた西暦29年に実際に存在するようになったに違いありません。―ヘブ 4:14; 9:11,12。
イエス・キリストは霊によって生み出されたクリスチャンに,征服する者,つまり終わりまで忠実に忍耐する者を「わたしの神の神殿の中の柱とし,彼はもはやそこから決して出ない」と約束しておられます。(啓 3:12)それで,そのような人には対型的な至聖所である「天そのもの」の中に永久の場所が与えられます。
啓示 7章9-15節は,その霊的な神殿で清い崇拝にあずかる,エホバのほかの崇拝者たちの「大群衆」のことを明らかにしています。この「大群衆」を構成している人たちは,従属の祭司であることを明らかにするような言葉遣いで描写されてはいません。この「大群衆」を構成する人たちは,「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」と言われています。彼らはキリストの犠牲に対する信仰ゆえに義なる立場を有する者とみなされ,その立場のゆえに「大患難」を切り抜けて生き残ることができるので,生存者として「大患難から出て来る」と言われています。
イザヤ 2章1-4節とミカ 4章1-4節には,「末の日」に「エホバの家の山」が『高められる』ことが述べられており,「すべての国の民」の人々がその「エホバの家」に集まって来ることが予告されています。西暦70年以来,エルサレムにはエホバの物理的な神殿はないので,それは何らかの物理的な構造物のことではなく,「末の日」にエホバの民の生活の中で真の崇拝が高められ,すべての国の民の人々が大勢エホバの偉大な霊的な神殿で共々に崇拝に加わるために集まって来ることを指しているに違いありません。
エゼキエルの神殿の幻 エゼキエル 40-47章にも,エホバの一つの神殿に関する詳しい説明がありますが,その神殿はかつてエルサレムのモリヤ山上に建てられた神殿でもなければ,そこに収まるような神殿でもありません。それは幻の中の神殿であり,神の偉大な霊的な神殿の例えではありません。その記述の中では,神殿から出る数々の備えや,その中庭の崇拝者の一人になるのに適さない者たちを締め出すための予防処置が講じられることに特に考慮が払われています。
エルサレムとそこにあったソロモンの神殿が滅ぼされてから14年目の西暦前593年に,祭司であり預言者であったエゼキエルは幻の中で,ある高い山の頂に移され,エホバの偉大な神殿を眺めました。(エゼ 40:1,2)エゼキエルは流刑に処せられたユダヤ人を辱め,悔い改めさせるため,また間違いなく忠実な者たちを慰めるためにも,自分の見たことをことごとく「イスラエルの家」に話すよう指示されました。(エゼ 40:4; 43:10,11)その幻の中では詳細な寸法に細心の注意が払われています。尺度の単位は「葦」(長い葦,3.11㍍)と「キュビト」(長キュビト,51.8㌢)でした。(エゼ 40:5,脚注)このように寸法に注意が払われているため,中には,この幻の神殿は流刑後の時期にゼルバベルが建てた神殿のための型となるものであったと考えた人もいます。しかし,そのような考えを裏付ける決定的な証拠は何もありません。
神殿の境内全体は一辺が500キュビトの正方形だったようです。その境内には外の中庭とそれよりも高い奥の中庭,神殿と祭壇,様々な食堂があり,神殿の西すなわち後方には一つの建物がありました。神殿の外の中庭や奥の中庭に入る通路となっていたのは六つの巨大な門口で,外の中庭のために三つ,奥の中庭のために三つありました。それらの門口は北,東,および南に面しており,奥の門は各々,それに対応する外の門の真後ろ(一直線上)にありました。(エゼ 40:6,20,23,24,27)外側の城壁の内側には下の舗装がありました。その幅は50キュビト(25.9㍍)で,門口の長さと同じでした。(エゼ 40:18,21)その舗装がしてある所には,人々が共与の犠牲を食べる場所と思われる食堂が30ありました。(エゼ 40:17)外の中庭の四隅には,人々のささげる犠牲のうちの人々の受け分が律法の要求にしたがって祭司たちにより料理される場所がありました。次いで人々は,設けられていた食堂でそれら自分たちの受け分を食べたようです。(エゼ 46:21-24)下の舗装箇所と奥の中庭に通じる門との間の外の中庭の残りの部分は,幅が100キュビトあったようです。―エゼ 40:19,23,27。
祭司たちの食堂は民の食堂とは別になっており,もっと神殿に近い所に置かれていました。祭司たちの食堂のうちの二つは神殿の歌うたいのための二つの食堂と共に,巨大な奥の門口のそばの奥の中庭にありました。(エゼ 40:38,44-46)また,祭司たちは聖なる所そのものの北と南にも食堂群を持っていました。(エゼ 42:1-12)それらの食堂はそれ自体の極めて明白な用途のほかに,祭司たちが外の中庭に入る前に神殿での奉仕に用いた亜麻布の衣を着替えるための場所でもありました。(エゼ 42:13,14; 44:19)また,その区画には食堂群の後ろのほうに,煮たり焼いたりするための祭司たちの場所がありました。そこは外の中庭にある食堂と基本的には同じ目的で,ただし祭司たちだけのために設けられていました。―エゼ 46:19,20。
外の中庭を横切り,奥の門口を通って進むと,奥の中庭に入ります。外の中庭の東,北,および南の端から奥の中庭の端までは150キュビト(77.7㍍)ありました。奥の中庭は幅が200キュビト(103.6㍍)ありました。(エゼキエル 40:47によれば,奥の中庭は100キュビト平方でした。これは奥の門口から入った,神殿の前の区画だけを指しているようです。)奥の中庭で目立っていたのは祭壇でした。―エゼ 43:13-17。「祭壇」(エゼキエルの神殿の祭壇)を参照。
聖なる所の第一の部屋は長さが40キュビト(20.7㍍),幅が20キュビト(10.4㍍)で,その部屋には二つの折り戸の付いた扉が二つある戸口から入りました。(エゼ 41:23,24)その部屋には,「エホバの前にある食卓」である木の祭壇がありました。―エゼ 41:21,22。
聖なる所の外側の壁には幅4キュビト(2㍍)の脇間があり,それは壁に,壁を背にして組み合わされていました。脇間は3階建てで,西側と北側と南側の壁を覆っており,各階に30の間がありました。(エゼ 41:5,6)3階のそれぞれの階に上るため,北と南には円形階段のような,らせん状の通路が設けられていました。(エゼ 41:7)神殿の後ろ,つまり西側には,北から南に縦長だったであろうビンヤーンと呼ばれる建造物,つまり「西に向いている建物」がありました。(エゼ 41:12)一部の学者はこの建物を神殿もしくは聖なる所そのものと同一視しようとしていますが,エゼキエル書にはそのように同一視すべき根拠は一つもないようです。一つの点として,「西に向いている建物」は聖なる所の建物とは形状も寸法も異なっていました。この建造物は聖なる所で行なわれた種々の奉仕に関連して,何らかの機能を果たすものだったに違いありません。ソロモンの神殿の西側にも同様の建物が一つ,あるいは幾つかあったのかもしれません。―王二 23:11および代一 26:18と比較。
至聖所はソロモンの神殿のそれと同様の形をしており,広さは20キュビト平方でした。エゼキエルは幻の中でエホバの栄光が東の方から来て神殿を満たすのを見ました。エホバはこの神殿のことを「わたしの王座のある場所」と描写されました。―エゼ 43:1-7。
エゼキエルは神殿の周りの各々の側の壁は500さお(1,555㍍)であったと述べています。一部の学者はこの壁を中庭から,すなわち「聖なるものと俗なるものとを区分するため」の壁に囲まれた場所から約600㍍離れた所にあった壁のことであると解してきました。―エゼ 42:16-20。
エゼキエルはまた,水が『家の敷居の下から東の方に』流れ,祭壇の南を通り,アラバを流れ下って“塩の海”の北端に注ぐ時には深い強力な奔流となって流れているのを見ました。その海の北端ではこの水のために塩水がいやされたので,そこは魚で一杯になりました。―エゼ 47:1-12。
油そそがれたクリスチャン ― 霊的な神殿 地上の油そそがれたクリスチャンは,幾つかの事物に例えられ,神殿にも例えられています。そのように神殿になぞらえるのは適切なことです。なぜなら,神の霊は油そそがれた者たちの会衆の内に宿っているからです。パウロは,『キリスト・イエスと結ばれていた』エフェソスのクリスチャンに,すなわち「約束の聖霊をもって証印を押された」人たちに手紙を書き,「あなた方は使徒や預言者たちの土台の上に築き上げられているのであり,キリスト・イエスご自身は土台の隅石です。彼と結びあって建物全体は調和よく組み合わされ,エホバのための聖なる神殿に成長してゆきます。彼と結びあってあなた方も共に築き上げられ,神が霊によって住まれる所となってゆくのです」と述べました。(エフェ 1:1,13; 2:20-22)土台としてのキリストの上に据えられる,それら「証印を押された」人たちの人数は14万4,000人であることが示されています。(啓 7:4; 14:1)使徒ペテロはそのような人たちのことを,「聖なる祭司職のための霊的な家に築き上げられてゆく」「生ける石」であると述べています。―ペテ一 2:5。
それら従属の祭司たちは「神の建物」なのですから,神はこの霊的な神殿を汚されるままにはなさいません。パウロはこの霊的な神殿の神聖さと,これを汚そうとする者の直面する危険を強調し,「あなた方は,自分たちが神の神殿であり,神の霊が自分たちの中に宿っていることを知らないのですか。もしだれかが神の神殿を滅ぼすなら,神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその神殿なのです」と書いています。―コリ一 3:9,16,17。コリ二 6:16も参照。
エホバ神と子羊は『その神殿である』 ヨハネは新しいエルサレムが天から下って来るのを見て,こう述べています。「そして,わたしはその中に神殿を見なかった。全能者なるエホバ神がその神殿であり,子羊もそうだからである」。(啓 21:2,22)新しいエルサレムの成員はエホバご自身のみ顔の前に直接近づくのですから,神に近づく手だてとしての神殿を必要としません。(ヨハ一 3:2; 啓 22:3,4)新しいエルサレムを構成する人たちは,大祭司である子羊イエス・キリストのもとで直接,神への神聖な奉仕を行ないます。そのようなわけで,その子羊はエホバと共に事実上,新しいエルサレムの神殿となるのです。
かたりを働く者 使徒パウロは来たるべき背教について警告した際,「不法の人」が自らを高めて『神の神殿に座し,自分を神として公に示す』ということを述べました。(テサ二 2:3,4)この「不法の人」とは背教者,つまり偽教師のことです。ですから,そのような人が実際に腰を下ろす所は自分がその神殿であると偽って唱える所にすぎません。―「不法の人」を参照。
例証的な用法 ある時,ユダヤ人からしるしを求められたイエスは,「この神殿を壊してみなさい。そうしたら,わたしは三日でそれを立てます」とお答えになりました。ユダヤ人はイエスが神殿の建物のことを話しているのだと考えましたが,使徒ヨハネは,「イエスはご自分の体の神殿について語っておられた」と説明しています。イエスが死後3日目に,み父エホバにより復活させられた時,弟子たちはイエスのその言葉を思い起こし,それを理解し,その言葉を信じました。(ヨハ 2:18-22; マタ 27:40)イエスは復活させられましたが,その肉体を着けて復活させられたのではありません。その肉体は贖いの犠牲としてお与えになったのです。それでも,その肉体は腐敗したのではなく,ちょうど犠牲が祭壇の上で焼き尽くされたように,神により処分されたのです。イエスは復活させられた時,新たな住みか,つまり霊的な天のために作られた新たな体を備えた同じ方,同じ性格を持つ方でした。―ルカ 24:1-7; ペテ一 3:18; マタ 20:28; 使徒 2:31; ヘブ 13:8。