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苦しむことを喜ぶものみの塔 1972 | 7月1日
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8 イエスはアンデレとピリポに説明して何と言われましたか。
8 「『人の子の栄光を受くべき時きたれり。誠にまことに汝らに告ぐ,一粒の麦,地に落ちて死なずば,唯一つにて在らん,もし死なば,多くの果を結ぶべし,己が〔魂〕を愛する者は,これを失ひ,この世にてその〔魂〕を憎む者は,之を保ちて永遠の生命に至るべし。人もし我に事へんとせば,我に従へ,わが居る処に我に事ふる者もまた居るべし。人もし我に事ふることをせば,我が父これを貴び給はん。今わが心騒ぐ,我なにを言ふべきか。父よ,この時より我を救ひ給へ,されど我この為にこの時に到れり。父よ,御名の栄光をあらはし給へ』爰に天より声いでて言ふ『われ既に栄光をあらはしたり,復さらに顕さん』」― ヨハネ 12:23-28〔新〕。
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苦しむことを喜ぶものみの塔 1972 | 7月1日
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10 イエスは一粒の麦にかんする事がらをどのようにご自身にあてはめられましたか。
10 次に,ヨハネ伝 12章24,25節で述べられている,犠牲の死の必要を示すすぐれた考え方と適切なたとえに注目してください。一粒の麦は地にまかれて死ななければ,実を結んで,さらに多くの穀粒をもたらすことはできません。これはイエスの場合,特別の意味であてはまりました。もしみ父の意志に反して,自分の人間としての命を利己的に固守したなら,イエスは失敗したでしょう。それに,一時的な益を他の人びとに与ええたにすぎなかったでしょう。しかしながら種の偉大なまき手であられるエホバのさしずどおり,ご自分の魂つまり命を『この世で』喜んで捨てるなら,イエスは,神の新秩序で『それを保ちて永遠の生命に至る』だけでなく,無数の他の人びとの『とこしえの父』ともなれるのです。パウロが述べるとおり,「それキリストの死にて復生き給ひしは,死にたる者と生ける者との主とならん為」なのです。―イザヤ 9:6。ロマ 14:9。
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