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命聖書に対する洞察,第1巻
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啓示 20章11-15節の裁きの場面では,キリストの千年統治の期間中に「命の巻き物」が開かれて追加の名が記入されることが示されており,教えの巻き物も開かれます。こうして『不義者の復活』の際に戻って来る人たちは,もし従順に教えの巻き物に調和した行ないをするなら,自分の名を「命の巻き物」に書いてもらう機会を得ます。(使徒 24:15)言うまでもなく,『義者の復活』の際に戻って来る,神の忠実な僕たちは,すでに「命の巻き物」に名が記されていることでしょう。彼らは神の教えに対する忠節な従順により,その巻き物に自分の名をとどめ得るのです。
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復活聖書に対する洞察,第2巻
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「義者と不義者」 使徒パウロは,やはり復活の希望を抱いていたユダヤ人の一グループに対して,「義者と不義者との復活がある」と述べました。―使徒 24:15。
聖書はだれがこの「義者」であるかを明らかにしています。まず最初に,天への復活を受ける人たちは義と宣せられています。―ロマ 8:28-30。
さらに聖書は,アブラハムのような古代の忠実な人たちを義人と呼んでいます。(創 15:6; ヤコ 2:21)ヘブライ 11章にはそれらの人たちの名前がたくさん挙げられており,筆者は彼らについて,「しかしなお,これらの人々は皆,その信仰によって証しされながらも,約束の成就にあずかりませんでした。神はわたしたち[パウロのように霊によって生み出された,油そそがれたクリスチャン]のためにさらに勝ったものを予見し,わたしたちを別にして彼らが完全にされることのないようにされたからです」と述べています。(ヘブ 11:39,40)ですから,彼らを完全にすることは,「第一の復活」にあずかる人々が完全にされた後に行なわれます。
それに啓示 7章に描かれている「大群衆」がいます。彼らは「証印を押された」14万4,000人の一員ではないので,霊によって生み出された者としての霊の「印」を持っていません。(エフェ 1:13,14; コリ二 5:5)彼らは大患難の生存者として「大患難から出て」来ると描写されています。このことからすると,このグループを集める業は,その患難の少し前の終わりの日に行なわれるようです。彼らは信仰によって義とされており,子羊の血で洗った白くて長い衣を着ています。(啓 7:1,9-17)彼らは一つの級としては復活させられる必要はありませんが,このグループのうち大患難前に死ぬ忠実な人たちは,神のご予定の時に復活させられます。
また,シェオル(ハデス)つまり人類共通の墓,もしくは「海」つまり水の墓に埋葬されている大勢の「不義」者もいます。そのような人々と,地上に復活させられる「義者」とが裁かれることについて,啓示 20章12,13節に次のような説明があります。「そしてわたしは,死んだ者たちが,大なる者も小なる者も,そのみ座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事柄により,その行ないにしたがって裁かれた。そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた」。
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復活聖書に対する洞察,第2巻
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ですから,ヨハネ 5章29節に取り入れられている見方は,パウロが「義者と不義者」の復活について語っている使徒 24章15節にある見方と同じではありません。パウロが言及しているのは明らかに,単に今ある命において神のみ前における義にかなった立場か不義な立場を占めていて,将来復活させられる人々のことです。彼らは「記念の墓の中にいる者」です。(ヨハ 5:28。「記念の墓」を参照。)イエスはヨハネ 5章29節で,そのような人たちが記念の墓から出て来た後の姿と,彼らがイエス・キリストおよび王また祭司である仲間たちによる統治期間中の歩み方によって,とこしえの「命」の報いを得る従順さか,神からの相応な「裁き[有罪宣告]」を受ける不従順さを示した後の姿を見ておられるのです。
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