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良心の問題に立ち向かうものみの塔 1973 | 1月15日
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9 (イ)クリスチャンには聖書の律法や原則があるのに,なお良心にかかわる問題が生ずるのはなぜですか。(ロ)問題の正邪を決定するにさいして,個人の良心がどれほど大きな役割を果たすかは,普通何によって決まりますか。
9 このように,多くの行為や習慣は聖書の中で明確に是認され,あるいは非とされています。また他の多くの行為や習慣は,聖書に載せられている原則に一致していること,あるいはもとることがはっきりしています。しかし,地上の各地で発達した現代の複雑な社会においては特に,当人自身の良心にもとづく個人的な決定が要求される事態や状況がやはり存在します。ですから,生活上の多くの事柄は程度の問題です。やさしくたたくことと,ひどく打つことの差は,力の程度の問題です。単なる敬意 ― たとえば,支配者や国家の象徴に対する敬意など ― と,うやうやしい崇拝との間のちがいもまた程度の問題です。極端な場合はなにも問題はありません。問題が生ずるのは,物事がいわば『中間の領域』にあるとき,つまり正しいことがはっきりしている事柄と,まちがっていることがはっきりしている事柄との境界線に接近しているときです。問題がそのような『境界線的状態』に近ければ近いほど,決定にさいして当人の良心が果たさねばならない役割は大きなものになります。そのような状況に直面したなら,どうすべきでしょうか。
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良心の問題に立ち向かうものみの塔 1973 | 1月15日
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13 (イ)自分の良心に基づく決定をする人に対する正しい態度について,ロマ書 14章4,10-12節は何を示していますか。(ロ)しかしながら,そういう人びとにかんして,会衆内の責任ある地位にいる人びとの良心はまた,どういう働きをしますか。
13 そのような『境界線』的問題が生じた場合,わたしたちは,自分自身の良心に基づいて決定を下さねばならない人の審判者になるようなことをすべきではありません。また,『境界線』的問題に対するその人の決定が,自分ならこう決定するだろうと考えていたことと全く同じでなくても,その人のことを,まだ是認された神のしもべの立場にいる,というような見方をして,過失を犯したという自覚に悩まされるようなことがあってもなりません。神がその人の審判者なのです。(ロマ 14:4,10-12)一方,クリスチャン会衆内で責任のある地位にいる人びとも,会衆を監督するにさいし自らの良心を働かせなければなりません。彼らは,特定の問題において,ある兄弟が下した決定に対し,自分なら別の決定を下しただろうと考えることがあっても,聖書がその問題を明らかに個人的決定の範囲に入れているために,彼らの良心の抗議はきわめて穏やかなものかもしれません。もしその人が,明らかな良心をもって行動した証拠を示すなら,彼らの良心は,その人に責任をゆだねること,あるいは責任のあるなんらかの地位に推薦することを許すかもしれません。しかしそうは言っても,彼らの良心が問題について十分に強い力をもって語るので,そのような仕方ではその人を良心的に推薦することができない,という場合もあるでしょう。この場合もやはり神が彼らの審判者であって,彼らを非とすべきではありません。
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