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天的なかしらの権のもとで地的な会衆はどのように導かれるかものみの塔 1973 | 3月15日
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イエスはご自分の弟子たちの個人個人を,「真の萄葡の樹」としてのご自身に連なる枝にたとえました。(ヨハネ 15:1-5)ということは,クリスチャンについても,「すべての男の頭はキリストなり」といえる以上,クリスチャンはイエスの真の弟子の残りの人たちとは別に,かしらとしてのキリスト・イエスと別個の,また独自の関係を保つことができるという意味でしょうか。(コリント前 11:3)決してそうではありません。使徒パウロが書きしるしたとおりです。『キリストの平和をして汝らの心をつかさどらしめよ,汝らの召されて一体となりたるは,これがためなり』。(コロサイ 3:15)『平和のつなぎのうちに努めて御霊の賜う一致を守れ。体は一つ,御霊は一つなり。汝らが召しにかかわる一つの望みをもて召されたるがごとし。主は一つ,信仰は一つ,バプテスマは一つ,すべての者の父なる神は一つなり。神はすべてのものの上にいまし,すべてのものを貫き,すべてのものの内にいましたもう』という勧めに従うことによって,わたしたちは自分がキリスト・イエスと結ばれていることを示します。(エペソ 4:3-6)ゆえにキリスト・イエスは,からだに似た会衆の取り決めを通してご自分のかしらの権を個々の人に対して表明されるのです。その取り決めから離れることは,キリストのかしらの権を退けることを意味しています。そうする人は,からだを支配するかしらとしてのキリストの能力を疑っているか,あるいはキリストのそうした支配の仕方に不満をいだいているかのどちらかであることを示していると言えるでしょう。
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読者からの質問ものみの塔 1973 | 6月15日
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不信者の夫がそうしたはなはだしい不自然な行為にいっしょに加わるよう,あくまでも要求する場合,クリスチャンである妻はどうしますか。『妻は己が身を支配する権をもたず,これをもつ者は夫なり』と述べた使徒のことばは,妻が夫のそうした要求に服すべき根拠を与えるものとなりますか。(コリント前 7:4)いいえ,そうではありません。なぜなら,夫のもつそのような権威は相対的なものにすぎないからです。神の権威こそ相変わらず常に最高のものなのです。(コリント前 11:3。使行 5:29)そのうえ,文脈からもわかるとおり,使徒は正常な性関係について述べているのです。汚れた行為に加わるのを拒むと,妻が苦しみや迫害をさえこうむる場合があるのは事実です。しかし,そうした事態は,ある種の偶像崇拝,血の誤用,不正その他同様の悪行に加わるよう夫から要求されるような場合と同じです。
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