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読者からの質問ものみの塔 1975 | 2月15日
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読者からの質問
● 使徒パウロは,結婚について論ずるさいに,「若さの盛りを過ぎており」ということを述べていますが,どういう意味でそう言ったのでしょうか。
基本的には彼は,人の性欲が初めて盛んになる,または強くなる時の過ぎたことについて述べていました。
コリント第一 7章36節には次のように書かれています。「人が自分の童貞性にふさわしくないふるまいをしていると考え,若さの盛りを過ぎており,a しかもそれが当然の道であれば,その人は自分の望むことを行ないなさい。その人は罪を犯すのではありません。その人たちは結婚しなさい」。この助言は,文脈に照らして考えるときに一番よく理解できます。
パウロはそのすぐ前で,結婚していないクリスチャンは,結婚に伴う種々の気遣いから自由である,ということを指摘しています。ですから,男女を問わず,結婚していない人は,「気を散らすことなく……主に」注意を集中することができます。(コリント第一 7:32-35)しかしながら,ある独身者たちの場合は,自分の情欲によって,危険な緊張と誘惑のもとに置かれるかもしれません。そのような人たちにとっては,「情欲に燃えるよりは結婚するほうがよい」でしょう。(コリント第一 7:9)しかし,自分はそのような状態にあるから結婚すべきだ,と決める前に,考慮すべき要素が一つあることをパウロは指摘しました。
もしかしたら,その人の欲望は,最初の性的な情熱の高まり,あるいは盛り上がりであるにすぎず,それは自分で抑制でき,情欲に『燃える』ことなく独身でいることができるかもしれません。少年でも少女でも,思春期を過ぎると,自然の性欲が大きくなり始めることをパウロは理解していました。おとなになるとこの欲求は相当強いものに思えることもあります。そのために自制が必要です。しかし,性衝動があるということは,結婚したほうが絶対によいということなんだ,と性急に決めるようなことをしないでいると,時のたつうちに,欲望に悩まされることなく独身を保てることが分かってくるかもしれません。
ですからパウロは,彼に,あるいは彼女に,自分の状態と境遇とをよく考えてみるように助言していたのです。もし最初の欲望の高まりが過ぎたのに情欲が引き続き問題となっているなら,「その人は自分の望むことを行ないなさい。その人は罪を犯すのではありません。その人たちは結婚しなさい」。しかし,性欲が「若さの盛りを過ぎており」,絶えず情欲に悩まされることもなければ,独身でいることができるかもしれません。そのような状態にあって独身を保つことを心の中で決意している人は,さらによい,ということです。―コリント第一 7:37,38。
霊感によるこの助言には確かに,若い人々の心のかてとなるものが含まれています。というのは,性欲が『盛んに』,つまり強くなったとたんに結婚するなら,情欲の高まりが,いつだれと結婚するかを決めるのに最も大きな影響を及ぼすことになる可能性は十分にあります。しかし,最初の欲望の高まりの期間が過ぎたなら,自分の感情や生活状態をより客観的に評価できるようになります。
さらに,今日のほとんどあらゆる社会における十代の人々の結婚はその非常に多くが,不幸と失敗と離婚に終わることを特徴としています。若くて結婚する人々は,ロマンチックな気分と,依然発達しつつある肉体的欲望とに不当に影響される場合が少なくありません。多くの場合彼らは,結婚を成功させることに寄与する,自制のような資質をまだ発達させていません。(ペテロ第二 1:5-8。ガラテア 5:22,23)ですから,若い男子にせよ女子にせよ,ある期間,肉体的欲望を自制してきた人のほうが,結婚生活において,自制やその他のりっぱな資質を示せる可能性が強いのではありませんか。
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読者からの質問ものみの塔 1975 | 2月15日
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a ここで「若さの盛りを過ぎており」と訳されているギリシャ語は,ヒペル(超えて)と,アクメー(花の一番盛りの時,満開の時)から来た,ヒペラクモスです。
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