11章
背教 ― 神に通ずる道がふさがれる
1,2 (イ)キリスト教世界の歴史の最初の400年間は,なぜ重要な期間ですか。(ロ)イエスは選択に関するどんな真理を表現されましたか。
キリスト教世界の歴史の最初の400年間は,なぜ極めて重要な期間ですか。その理由は,子供の人生の最初の数年間が重要な時期であるのと同様です。というのは,その数年間は子供の将来の人格の基礎を据える発育期なのです。キリスト教世界の初期の何世紀かの期間は,何を明らかにするものとなりましたか。
2 この疑問に答える前に,イエス・キリストが次のように表現された,一つの真理を思い起こしてみましょう。「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです」。便宜主義の道は広いものですが,正しい原則の道は狭いものです。―マタイ 7:13,14。
3 キリスト教が始まった時,どんな二つの歩み方が可能でしたか。
3 キリスト教が始まった時,俗受けしない,その信仰を奉ずる人たちにとって,取り得る道は二つありました。つまり,妥協を排する,キリストと聖書の教えや原則を固守するか,それとも当時の世と妥協する,安易な広い道に引かれるかのどちらかでした。これから見てゆきますが,最初の400年間の歴史は,大多数の人々がやがてどの道を選んだかを示しています。
哲学の誘惑
4 歴史家デュラントによれば,異教のローマは初期の教会にどのように影響を及ぼしましたか。
4 歴史家ウィル・デュラントはこう説明しています。「教会はキリスト教時代以前の[異教の]ローマで普通に行なわれていた種々の宗教的習慣や儀礼 ― 異教の祭司のストラその他の祭服,香や清めのための聖水の使用,ろうそくをともすことや祭壇の前で絶えずともす明かり,聖人崇拝,バシリカ建築,教会法の基礎となったローマ法,最高の司教を意味するPontifex Maximus(「最大の司教」の意)という称号,および4世紀にはラテン語 ― を取り入れた。……やがて,ローマ人の長官よりもむしろ司教のほうが諸都市の秩序の源,および権力の座を占める者となり,首都大司教,もしくは大司教が地方長官を押しのけないとすれば,同長官を支持し,司教区会議が地方議会に代わることになった。ローマ教会はローマ国家の足跡に従ったのである」―「文明物語: 第3部 ― カエサルとキリスト」。
5 異教のローマ世界と妥協する態度は,初期キリスト教の著作の言葉とどのような対照を示していますか。
5 ローマ世界と妥協する,このような態度は,キリストや使徒たちの教えとは際立った対照をなしています。(下の囲み記事をご覧ください。)使徒ペテロは次のように助言しました。「愛する者たちよ……わたしは……思い出させるためにあなた方の明せきな思考力を呼び起こしているのです。それはあなた方が,聖なる預言者たちによってあらかじめ語られたことばと,あなた方の使徒たちを通して与えられた主また救い主のおきてを思い出すためです。したがって,愛する者たちよ,あなた方はこのことをあらかじめ知っているのですから,無法な人々の誤りによって共に連れ去られ,自分自身の確固たる態度から離れ落ちることのないように用心していなさい」。パウロははっきりとこう助言しました。「不釣り合いにも不信者とくびきを共にしてはなりません。義と不法に何の交友があるでしょうか。また,光が闇と何を分け合うのでしょうか。……『「それゆえ,彼らの中から出て,離れよ」と,エホバは言われる。「そして汚れた物に触れるのをやめよ」』。『「そうすればわたしはあなた方を迎えよう」』」。―ペテロ第二 3:1,2,17。コリント第二 6:14-17。啓示 18:2-5。
6,7 (イ)初期教会の“教父たち”はギリシャ哲学の影響をどのように受けましたか。(ロ)ギリシャの影響は特にどの教えにはっきりと現われましたか。(ハ)パウロは哲学に関するどんな警告を与えましたか。
6 このような明確な訓戒があったにもかかわらず,2世紀の背教したクリスチャンは,異教ローマの宗教の外面的な飾りを身に着けました。彼らは聖書的な純粋な起源から離脱し,かえって異教ローマの衣装や称号で自らを装い,ギリシャ哲学に染まりました。ハーバード大学のウルフスン教授は「キリスト教の厳しい試練」という本の中で,「哲学を教え込まれた異邦人」が2世紀に大挙してキリスト教に入ったと説明しています。それらの人々はギリシャ人の知恵を称賛し,ギリシャ哲学と聖書の教えの中に類似点を見いだしたと考えました。ウルフスンはさらにこう述べています。「彼らは時々,聖書が直接の啓示によってユダヤ人に与えられた神からの特別の贈り物であるように,哲学は人間の理性によってギリシャ人に与えられた同様の賜物であるという趣旨の自分たちの考えを様々な仕方で述べている」。そして,さらにこう続けています。「教会の教父たちは……アカデメイア,リュケイオン,およびストア[それぞれ哲学上の論議が行なわれた中心地]で作り出されたあいまいな専門語で表わされた,哲学者たちの教えが,聖書それ自体の中でその考えを述べるのに好んで使われている平凡な言葉遣いの背後に,どのように秘められているかを体系的に示す仕事に取りかかった」。
7 このような態度が取られたため,ギリシャ哲学とその用語が,それも特に三位一体の教理や霊魂不滅に対する信仰の分野で,キリスト教世界の教えに浸透する道が開かれました。ウルフスンが述べているように,「[教会の]教父たちは哲学的専門用語の山の中に二つの格好な専門語,一つは三位一体の三者各々の特殊性という現実を明示する言葉,もう一つはそれら三者に共通な基本的一致を明示する言葉を見いだそうとするようになった」のです。ところが,「三者一体の神という概念は人間の理性では解明できない秘義である」ことを認めざるを得ませんでした。それとは対照的に,パウロはコロサイやガラテアのクリスチャンにあてて,「気をつけなさい。もしかすると,人間の伝統にしたがい,また世の基礎的な事柄にしたがってキリストにしたがわない哲学<フィロソフィー>[ギリシャ語,フィロソフィアス]やむなしい欺きにより,あなた方をえじきとして連れ去る者がいるかもしれません」と書き送った時,そのように「良いたより」が汚染されたり,『ゆがめられ』たりする危険があることをはっきりと認識していました。―コロサイ 2:8。ガラテア 1:7-9。コリント第一 1:22,23。
復活は無効になる
8 人間はどんな謎と絶えず戦ってきましたか。大抵の宗教はその謎をどのようにして解こうとしてきましたか。
8 この本の随所で述べられているように,人間は,死をもって終わりを告げる,限られた,短い命という謎と絶えず戦ってきました。ドイツの著述家ゲルハルト・ハームが自著,「ケルト人 ― 闇の中から出て来た民族」の中で,「宗教とは,とりわけ墓のかなたのより良い生活,再生,あるいはその両方に関する約束によって,いつかは死ななければならないという事実に人々が甘んじられるようにするための一つの方法である」と述べているとおりです。宗教はほとんどすべて,人間の魂は不滅で,死後,来世への旅をする,もしくは転生して別の生き物に変わるという信条に依存しています。
9 スペインの学者ミゲール・デ・ウナムーノは復活に関するイエスの信仰についてどんな結論を出しましたか。
9 今日,キリスト教世界の宗教団体もほとんどすべて,そのような信条に従っています。20世紀のスペインの著名な学者ミゲール・デ・ウナムーノはイエスについて次のように書きました。「彼は[ギリシャの]プラトン風の魂の不滅性ではなく,むしろ[ラザロの場合のような(248-250ページをご覧ください)]ユダヤ風の肉体の復活を信じていたのである。……このことを示す証拠は,誠実な仕方で解釈を述べている本なら,どれにでも見いだせる」。そして,「霊魂不滅は……異教の哲学的教義である」と結論しました。(「キリスト教の苦悩」)キリストは明らかにそのような考えを持っておられなかったにもかかわらず,その「異教の哲学的教義」はキリスト教世界の教えに浸透したのです。―マタイ 10:28。ヨハネ 5:28,29; 11:23,24。
10 霊魂不滅に対する信仰はどんな種々の結果をもたらしましたか。
10 ギリシャ哲学の及ぼした巧妙な影響は,使徒たちの死後に起きた背教の主要な要因でした。霊魂不滅に関するギリシャ人の教えは,魂の様々な行き先,つまり天国,地獄の火,煉獄,楽園<パラダイス>,リンボなどが必要であることを示唆しました。a 聖職者階級にとって,そのような教えを巧みに扱うことにより,自分たちの羊の群れを服従させたり,来世に対する恐れを抱かせて贈り物や寄付をさせたりすることが容易になりました。このことを考えると,キリスト教世界の独立した聖職者階級はどのようにして起こったのだろうかという,もう一つの疑問が生じます。―ヨハネ 8:44。テモテ第一 4:1,2。
僧職者階級が形成されたいきさつ
11,12 (イ)背教が起きたことを示す,もう一つのどんなしるしがありましたか。(ロ)エルサレムにいた使徒や長老たちはどんな役割を果たしましたか。
11 背教が生じたことを示す,もう一つの事柄は,イエスや使徒たちが教えたようにクリスチャンはすべて一般的な奉仕の務めに携わるという考え方が後退して,キリスト教世界で発達した専属聖職制および教階制に取って代わられたことです。(マタイ 5:14-16。ローマ 10:13-15。ペテロ第一 3:15)イエスの死後,1世紀中,使徒たちは,エルサレムにいた霊的に資格のある他のクリスチャンの長老たちと共に,クリスチャンの会衆に助言を与えたり,会衆を指導したりするために奉仕しました。他の人に対して優越感を抱いて威張る人はいませんでした。―ガラテア 2:9。
12 西暦49年に,それらの人々は一般のクリスチャンに影響を及ぼす問題を解決するため,エルサレムで会合することが必要になりました。聖書の記述によれば,率直な討議が行なわれた後,「使徒や年長者たち[プレスビュテロイ],また全会衆は,自分たちの中から選んだ人々を,パウロおよびバルナバと共にアンティオキアに遣わすことがよいと考えた。……そして,彼らの手によってこう書き送った。『使徒や年長者の兄弟たちから,アンティオキア,またシリア,キリキアにいる,諸国民からの兄弟たちへ: あいさつを送ります』」と記されています。明らかに,使徒や長老たちは,広範囲にわたって存在したクリスチャンの諸会衆を管理する,一つの統治機関としての役割を演じました。―使徒 15:22,23。
13 (イ)初期のクリスチャン会衆を各々直接監督するためのどんな取り決めがありましたか。(ロ)会衆の長老たちにはどんな資格が求められましたか。
13 さて,エルサレムにあった,その統治集団はすべてのクリスチャンに対する全般的な監督を行なうための初期キリスト教の取り決めだった以上,クリスチャンの間には地方的なレベルのどんな指導体制がありましたか。テモテにあてられたパウロの手紙は,霊的な長老たち(プレスビュテロイ)である監督たち(ギリシャ語,エピスコポス,「監督の<エピスコパル>」という言葉の語源),つまり仲間のクリスチャンを教えるのに行動や霊性の点で資格のある男子たちが会衆にいたことを明らかにしています。(テモテ第一 3:1-7; 5:17)1世紀のそれらの男子は独立した僧職者階級を構成しませんでしたし,決して独特の服装をしたりもしませんでした。彼らの特徴はその霊性でした。実際,会衆には各々,長老たち(監督たち)の一団があったので,君主制による単独支配が行なわれたわけではありません。―使徒 20:17。フィリピ 1:1。
14 (イ)クリスチャンの監督たちはやがて,どのようにキリスト教世界の司教たちに取って代わられましたか。(ロ)司教たちの間で首位権を求めて奮闘したのはだれでしたか。
14 エピスコポスb(監督,監督者)という言葉が,教区内の僧職者の他の成員に対して管轄権を持つ聖職者を意味する“bishop”(司教)という語に変えられたのは,かなり時がたってからのことでした。スペイン人のイエズス会士,ベルナルディーノ・イョルカが述べているとおりです。「最初,司教と長老(英語,presbyter)は十分区別されておらず,これらの言葉の意味にのみ注意が向けられていた。司教は監督者の同義語であり,長老は年長者の同義語である。……しかし,その区別は少しずつ明らかになり,司教という名称は,最高の聖職者の権威,および按手をして聖職の身分を授ける権能を有する,一層重要な監督者を指すようになった」。(「カトリック教会の歴史」)事実,司教たちは特に4世紀初頭以降,一種の君主体制を推進させる働きをするようになりました。教階制,つまり僧職者による支配機関が確立され,やがてペテロの後継者であると称するローマの司教が,多くの人々により,最高の司教,ならびに教皇として認められました。
15 初期クリスチャンの指導者の地位とキリスト教世界のそれとの間にはどんな大きな隔たりがありますか。
15 今日,キリスト教世界の様々な教会の司教の地位は,名声と権力を伴う地位であって,司教は普通,相当の報酬を受けると共に,多くの場合,それぞれの国の支配階級のエリートの一員とみなされています。しかし,それら司教たちの高められた誇らしげな立場とキリストと長老たち,もしくは監督たちのもとにあった初期クリスチャンの諸会衆の組織の簡素さの間には,非常な相違があります。それにペテロと,バチカン宮殿の豪勢なたたずまいを背景にして支配してきた,いわゆるペテロの後継者たちとの間の大きな隔たりについては何と言えるでしょうか。―ルカ 9:58。ペテロ第一 5:1-3。
教皇権と名声
16,17 (イ)初期のローマ会衆が司教,もしくは教皇の支配下にあったのでないことは,どうして分かりますか。(ロ)“教皇”という称号はどのようにして使用されるようになりましたか。
16 エルサレムの使徒や長老たちの指示を受け入れた初期の会衆の一つは,恐らく西暦33年ペンテコステ後のある時期にキリスト教の真理が伝えられたと思われるローマの会衆でした。(使徒 2:10)同会衆には当時の他のすべての会衆と同様,長老たちがおり,それらの長老はだれ一人首位権を持たない監督たちの一団として仕えていました。そのローマ会衆の最初期の監督たちは,確かにだれ一人として同時代の人々から司教,もしくは教皇とはみなされませんでした。というのは,ローマの君主制監督団はまだ発達していなかったからです。君主制,もしくは単独監督団が存在し始めた時期を明確に定めるのは困難なことですが,証拠はそれが2世紀に発達し始めたことを示唆しています。―ローマ 16:3-16。フィリピ 1:1。
17 “教皇”(英語,pope; 「父」という意味のギリシャ語パパスの変化した語)という称号は最初の2世紀には使用されませんでした。元イエズス会士ミカエル・ウォールシュはこう述べています。「ローマ司教が初めて“教皇”と呼ばれたのは3世紀からのようであり,この称号は教皇カリストゥスに与えられた。……5世紀末までに,“教皇”は普通,ほかならぬローマ司教ただ一人を意味するようになった。しかし,教皇がその称号はただ自分だけに当てはまると主張することができたのは,11世紀になってからのことである」―「図解教皇史」。
18 (イ)自分の権威を乱用したローマの最初の司教の一人はだれでしたか。(ロ)首位権を有するという教皇の主張は何に基づいていますか。(ハ)マタイ 16章18,19節はどのように正しく理解できますか。
18 自分の権威を乱用したローマの最初の司教の一人は教皇レオ1世(在位,西暦440-461年)でした。ミカエル・ウォールシュはさらにこう述べています。「教皇レオは,4世紀末までローマ皇帝によって使われ,今日でも教皇たちにより依然として使用されている『最大の司教』という,かつての異教の称号を我がものにした」。同レオ1世はマタイ 16章18節と19節にあるイエスの言葉に関するカトリックの解釈に基づいて行動しました。(268ページの囲み記事をご覧ください。)同1世は,「聖ペテロが使徒のうちの第一人者だったのだから,聖ペテロの教会は諸教会の中で首位権を付与されるべきであると宣言し」ました。(「人間の宗教」)レオ1世はこの処置により,皇帝が東のコンスタンティノープルで暫定的な権力を行使する一方,自らは西のローマから霊的な権力を行使することを明らかにしました。教皇レオ3世が西暦800年に神聖ローマ帝国のカール(シャルルマーニュ)皇帝に戴冠させたことは,この権力のほどをさらによく示す例でした。
19,20 (イ)現代の教皇はどのようにみなされてきましたか。(ロ)教皇の公式の称号を幾つか挙げてください。(ハ)教皇の行動とペテロのそれとの間にはどんな対照が見られますか。
19 1929年以来,一般の政府はローマの教皇を独立した主権国家,バチカン市国の支配者とみなしてきました。ですから,ローマ・カトリック教会は他の宗教組織とは異なり,外交代表者,つまり教皇使節を世界の諸政府に派遣できます。(ヨハネ 18:36)教皇は多くの称号を得て名誉を受けていますが,その幾つかはイエス・キリストの代理者,使徒の頭の後継者,普遍教会の最高の司教,西ヨーロッパ総大司教,イタリア首座大司教,バチカン市国元首などです。教皇は虚飾と儀礼をもって人手で運ばれたり,国家主席に帰せられる栄誉を受けたりします。これとは対照的に,ローマの百人隊長コルネリオが,ローマの最初の教皇,ならびに司教と言われているペテロの足もとにひれ伏して敬意を表した時,ペテロがどのように反応したかに注目してください。「ペテロは彼の身を起こして言った,『立ちなさい。私も人間です』」と記されています。―使徒 10:25,26。マタイ 23:8-12。
20 ここで,次のような疑問が生じます。初期の何世紀かの時期の背教した教会に一体どうしてこれほど大きな権力と名声がもたらされたのでしょうか。キリストや初期クリスチャンの質素さや謙遜さは,どのようにしてキリスト教世界の尊大さや虚飾に変わったのでしょうか。
キリスト教世界の土台
21,22 コンスタンティヌスの生涯にはどんな大変化が起きたと言われていますか。彼はそれをどのように活用しましたか。
21 ローマ帝国のこの新しい宗教にとって転換期となったのは,“キリスト教”へのコンスタンティヌス皇帝のいわゆる改宗が行なわれた西暦313年でした。その改宗はどのようにして行なわれましたか。西暦306年にコンスタンティヌスは父の跡を継ぎ,やがてリキニウスと共にローマ帝国の共同統治者になりました。コンスタンティヌスはキリスト教に帰依していた母親と神の加護に対する自分自身の信仰の影響を受けていました。西暦312年のローマ近郊,ミルウィウス橋頭の戦いに出陣する前のこと,彼は“キリスト”を表わす組み合わせ文字 ― ギリシャ語のキリストという名称の最初の2文字であるギリシャ語字母キーとロー ― を兵士たちの盾に描くよう夢の中で告げられたと唱えました。c コンスタンティヌスの軍勢はこの“神聖なお守り”を携えて,同帝の敵マクセンティウスを打ち破りました。
22 コンスタンティヌスはその戦いで勝利を得た後,ほどなくして,自分は信者であると主張しましたが,それでも彼がバプテスマを受けたのは24年ほど後の臨終のほんの少し前のことでした。彼は「[ギリシャ語の字母]キー・ロー[アートワーク ― ギリシャ文字]を自分の標章として採用する」ことにより,同帝国の自称クリスチャンの支持を受けるようになりましたが,「しかし,そのキー・ローという文字は,すでに異教,およびキリスト教双方の背景をなす事物の中で合字[字母を連接したもの]として使われて」いました。―アーノルド・トインビー編,「キリスト教の厳しい試練」。
23 (イ)ある注解者によれば,キリスト教世界はいつ存在するようになりましたか。(ロ)キリスト教世界の土台を据えたのはキリストではないと言えるのはなぜですか。
23 その結果,キリスト教世界の土台が据えられました。英国の時事解説者マルコム・マガリジが自著,「キリスト教世界の終わり」の中で,「キリスト教世界はコンスタンティヌス皇帝と共に存在するようになった」と述べているとおりです。しかし同解説者は,「キリストは自ら,ご自分の王国はこの世のものではないと述べることにより,キリスト教世界が存在するようになる前から同世界を廃止されたとさえ言えよう。この言葉はキリストの述べた言葉の中でも極めて広範囲に及ぶ,極めて重要なものの一つである」という明敏な注解をも述べました。そして,その言葉はキリスト教世界の宗教上,ならびに政治上の支配者たちにより,この上ないまでに甚だしく無視されてきた言葉です。―ヨハネ 18:36。
24 コンスタンティヌスの“改宗”と共に,教会にはどんな変化が生じましたか。
24 キリスト教世界の宗教はコンスタンティヌスの支持を得て,ローマの公式の国教となりました。宗教学の教授エレイン・ペイゲルスはこう説明しています。「かつて,逮捕,拷問,および処刑の対象とされたクリスチャンの司教たちは,今や,税の免除,帝国政府の資金からの贈与,名声,および宮廷での影響力をさえ得た。彼らの教会は新たな富,権力,および顕著な地位を獲得した」。彼らは皇帝の友,つまりローマ世界の友となっていました。―ヤコブ 4:4。
コンスタンティヌス,異端,および正統的信仰
25 (イ)コンスタンティヌスの時代までに,神学上のどんな激しい議論が行なわれていましたか。(ロ)4世紀以前は,キリストとみ父との関係に関する理解の点で,どんな状況が見られましたか。
25 コンスタンティヌスの“改宗”はなぜ極めて重要な事柄でしたか。なぜなら,皇帝としてのコンスタンティヌスは,教理上分裂した“キリスト教”の教会の事柄に及ぼす強力な影響力を持つと共に,自分の帝国の一致を図りたいと考えていたからです。当時,「『言葉』,すなわちイエスのうちに化身した『神』の『み子』と,今では『み父』と呼ばれて,そのみ名ヤハウェが大方忘れられていた『神』との関係」に関して,ギリシャ語を話す司教とラテン語を話す司教との間で激しい議論が行なわれていました。(「コロンビア世界史」)一部の人々は,キリスト,つまりロゴスは創造された方であり,それゆえにみ父よりも下位の方であるという,聖書の裏づけのある見解を支持しました。(マタイ 24:36。ヨハネ 14:28。コリント第一 15:25-28)そのうちの一人はエジプト,アレクサンドリアの司祭アリウスでした。実際,神学教授R・P・C・ハンソンは,「アリウス論争が持ち上がった[4世紀]以前は,東方,あるいは西方教会のいずれにせよ,神学者たちはおしなべて,ある意味でみ子のことをみ父よりも下位の方とみなしていた」と述べています。―「神に関するキリスト教の教理の探求」。
26 三位一体の教えに関するどんな状況が4世紀初頭まで見られましたか。
26 一方,他の人々はキリストを下位の方とみなす見解を異端視し,イエスを“神の化身”として崇拝する方向に向かっていました。しかしハンソン教授は,問題の時期(4世紀)は,「公然の異端[アリウス主義]による攻撃に対する,合意を得て解決された[三位一体の]正統的信仰の弁護の歴史の時期ではなかった。論議の主要な的とされていたその論題に関しては,まだ何ら正統的教理はなかった」と述べ,さらに,「いずれの側も自分たちの見方のほうが聖書の権威により支持されていると考えており,各々の側が他方のことを非正統的,非伝統的,ならびに非聖書的であると評した」と指摘しています。宗教上の高位者たちはこの神学上の問題で完全に分裂していました。―ヨハネ 20:17。
27 (イ)コンスタンティヌスはイエスの性質を巡る議論を解決しようとして何をしましたか。(ロ)ニケア公会議は教会をどのように代表するものでしたか。(ハ)ニケア公会議により,発展中の三位一体の教理に関する論争は解決されましたか。
27 コンスタンティヌスは領土内の一致を図りたいと考えていたので,西暦325年に配下の司教たちをニケア(ニカイア)の公会議に召集しました。ニケアは同帝国東方のギリシャ語圏の領土の新しい都コンスタンティノープルの対岸,ボスポラス海峡の向こう側に位置していました。同公会議には司教総数からすればごく少数の250人から318人ほどの司教が出席したと言われていますが,それら出席者はほとんどギリシャ語圏の地域の司教で,教皇シルウェステル1世さえ出席しませんでした。d 激烈な議論が戦わされた後,正しく代表されなかったその公会議で,三位一体思想にひどく偏ったニケア信経が生まれたのです。しかし,それは教理上の論議を解決するものとはなりませんでした。同信経は三位一体神学の神の聖霊の役割をはっきりと説明しませんでした。激しい議論が何十年も続き,最終的な一致を図るために多くの公会議や様々な皇帝の権威や追放処置が必要でした。神学が勝利を収め,聖書を固守した人々が敗北したのです。―ローマ 3:3,4。
28 (イ)三位一体の教理がもたらした結果の幾つかを挙げてください。(ロ)マリアを“神の母”として崇敬すべき聖書的な根拠が一つもないのはなぜですか。
28 三位一体の教えが何世紀にもわたって説かれてきた結果の一つとして,唯一まことの神エホバはキリスト教世界の神なるキリストに関する神学の泥沼に沈められてきました。e その神学のもたらした次の当然の結果として,イエスが本当に神の化身だとするならば,今度はイエスの母マリアは明らかに“神の母”とみなされたでしょう。そのために,イエスの生物学上の慎ましい母f以外の何らかの重要な役割がマリアにあったことを示す聖句は皆無であるにもかかわらず,長年にわたり,マリアが多種多様な仕方で崇敬の対象とされてきました。(ルカ 1:26-38,46-56)ローマ・カトリック教会が何世紀にもわたって神の母に関する教えを発展させ,礼賛してきた結果,多くのカトリック教徒は,神を崇拝する場合よりもはるかに熱烈な態度でマリアを崇敬しています。
キリスト教世界の教派
29 パウロはどんな事態の進展について警告しましたか。
29 背教のもう一つの特徴は,背教が分裂と崩壊をもたらすということです。使徒パウロは次のように預言していました。「わたしが去った後に,圧制的なおおかみがあなた方の中に入って群れを優しく扱わないことを,わたしは知っています。そして,あなた方自身の中からも,弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事柄を言う者たちが起こるでしょう」。また,次のように述べたパウロは,明確な助言をコリント人に与えていました。「さて,兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなた方に勧めます。あなた方すべての語るところは一致しているべきです。あなた方の間に分裂があってはなりません。かえって,同じ思い,また同じ考え方でしっかりと結ばれていなさい」。パウロの勧告にもかかわらず,やがて背教と分裂が根を下ろしました。―使徒 20:29,30。コリント第一 1:10。
30 初期の教会にはやがてどんな状況が生じましたか。
30 使徒たちの死後,二,三十年以内にクリスチャンの間にはすでに教派がはっきりと見えるようになりました。ウィル・デュラントはこう述べています。「ケルサス[キリスト教の2世紀の反対者]自身,クリスチャンは『各人がそれぞれ自分の党派を持ちたがっているので,実に多くの党派に分裂して』いると皮肉っていた。[西暦]187年ごろ,イレナエウスは20種類のキリスト教を列挙し,[西暦]384年ごろ,エピファネスは80種類を数えた」―「文明物語: 第3部 ― カエサルとキリスト」。
31 カトリック教会にはどのようにして重大な分離が生じましたか。
31 コンスタンティヌスは今日のトルコの領土に新しい広大な首都を建設させることにより,自分の帝国のギリシャ人の住む東部のほうを好み,その首都をコンスタンティノープル(現代のイスタンブール)と命名しました。その結果,何世紀にもわたってカトリック教会は分極化し,言語と地理双方のために分離し,ラテン語を話す西のローマとギリシャ語を話す東のコンスタンティノープルとが対立しました。
32,33 (イ)キリスト教世界はさらにほかのどんな原因で分裂しましたか。(ロ)聖書は崇拝の際の像の使用について何と述べていますか。
32 依然,進展途上にあった三位一体の教えの種々の面に関する,対立を招く議論は,引き続きキリスト教世界の騒動を起こしました。西暦451年にはキリストの“性質”の特徴を定義するため,別の公会議がカルケドンで開かれました。西方教会は同会議の定めた信経を受け入れましたが,東方教会は異議を唱えたため,エジプトやアビシニアのコプト教会,ならびにシリアやアルメニアの“ヤコブ派”の諸教会が形成されました。神学上の難解な問題,とりわけ三位一体の教理の定義を巡って生じた分裂のために,カトリック教会の一致は絶えず脅かされました。
33 分裂を招いた別の原因は,画像崇敬の問題でした。8世紀には東方教会の主教たちがこの偶像崇拝に反対し,いわゆる聖像破壊時代,つまり画像破壊の行なわれた時代が始まりました。しかし,彼らはやがてイコン(聖画像)を再び使用するようになりました。―出エジプト記 20:4-6。イザヤ 44:14-18。
34 (イ)何がカトリック教会の主要な亀裂をもたらしましたか。(ロ)その亀裂はどんな最終結果をもたらしましたか。
34 さらに,西方教会が聖霊はみ父とみ子の双方から出ることを示唆するため,“フィリオクェ”(「また御子から」の意)というラテン語の言葉をニケア信経に付け加えた時,重大な試練が訪れました。6世紀のこの修正のもたらした最終結果は,「876年にコンスタンティノープルで開かれた[主教]会議が教皇に対して,その政治活動,ならびに“フィリオクェ”条項という異端を正さなかったことの両方の理由で有罪宣告を下した時」に生じた亀裂でした。そして,「その処置は,教会に対する普遍的な統治権を有するという教皇の主張を全面的に退けた東方正教会の処置の一部」でした。(「人間の宗教」)1054年には教皇代表がコンスタンティノープルの総主教を破門し,次に同総主教は教皇に呪いをかけました。その亀裂はやがて幾多の東方正教会 ― ギリシャ,ロシア,ルーマニア,ポーランド,ブルガリア,セルビア各正教会,および他の自治制の諸教会 ― を生み出すものとなりました。
35 ワルド派とはどんな人々のグループでしたか。その信条はカトリック教会のそれとどのように異なっていましたか。
35 また,別の運動も教会内に騒動を起こすようになりました。12世紀に,フランス,リヨン出身のピエール・ワルドは「何人かの学者を雇って,聖書を南フランスのオック語[地方語]に翻訳させ,その翻訳を熱心に研究して,クリスチャンは使徒たちのように ― 私有財産を持たずに ― 生活すべきであるという結論に達し」ました。(「信仰の時代」,ウィル・デュラント著)彼はワルド派の運動として知られるようになった伝道活動を開始しました。同派の人々はカトリックの聖職,贖宥,煉獄,化体説その他,カトリックの伝統的な慣行や信条を退けた上,同派の教えは他の国々にも広がりました。トゥールーズ会議は1229年に聖書関係の書物の所持を禁止して,彼らの活動を阻止しようとしました。ただ,祈とう書だけ,それも死語と化したラテン語のものだけを読むことが許されました。しかし,もっと多くの宗教上の分裂や迫害がなお後代に起きようとしていました。
アルビ派に対する迫害
36,37 (イ)アルビ派とはどんな人々のグループでしたか。彼らは何を信じていましたか。(ロ)アルビ派はどのように抑圧されましたか。
36 ところが,12世紀にフランス南部で,もう一つの運動,つまり多くの追随者がいたアルビという町の名にちなんでつけられたアルビ派(カタリ派としても知られた)の運動が始まりました。この派には同派特有の独身の僧職者階級があり,僧職者たちは崇敬の念のこもったあいさつを受けることを期待していました。彼らは,イエスが最後の晩さんの際,パンについて,「これはわたしの体である」と述べた時,比喩的な意味でそう言われたのだと考えました。(マタイ 26:26,新ア)彼らは三位一体,処女降誕,地獄の火,および煉獄などの教理を退けました。ですから,彼らはローマ教会の教えに対する疑念を積極的に示しました。教皇インノケンティウス3世はアルビ派を迫害するよう命令を出し,「必要とあらば,剣をもって彼らを鎮圧せよ」と命じました。
37 それら“異端者たち”は十字軍の攻撃を受け,カトリックの十字軍はフランスのベジエで2万人もの男女子供を虐殺しました。大変な流血が行なわれた後,1229年に平和が訪れたものの,アルビ派は敗北しました。ナルボンヌ公会議は,「平信徒が聖書のいかなる部分をも持つことを禁じ」ました。カトリック教会にとって問題の根源は,民族の言語に訳された聖書の存在でした。
38 異端審問所とは何でしたか。同審問所はどのように運営されましたか。
38 教会が次に取った処置は,異端審問所,つまり異端を禁止するための裁判所を設置することでした。すでに不寛容の精神に取り付かれていた人々は,迷信を信じており,実際進んで“異端者”を制裁したり殺害したりしようとしました。13世紀の状況は,教会が権力を乱用するのに適していました。しかし,「教会により有罪宣告を受けた異端者は“俗権”― 地元の当局者 ― に引き渡され,火刑に処せられることに」なりました。(「信仰の時代」)教会は実際の処刑の執行を世俗の権威にゆだねることにより,表面上流血の罪を免れたように見えました。異端審問所と共に宗教上の迫害の時代が始まり,その結果,虐待,匿名の偽りの告発,殺害,強奪,拷問などが行なわれ,あえて教会の教えとは異なったことを信じた何千人もの人々が徐々に死に追いやられました。宗教的な表現の自由は抑えられました。まことの神を求めていた人々にとって,何らかの希望がありましたか。その答えは13章で得られます。
39 7世紀には宗教上のどんな運動が始まりましたか。どのようにして始まりましたか。
39 このすべてがキリスト教世界で起きていた間に,中東の一アラブ人が自分の民族の宗教的な無関心さや偶像崇拝を非とする態度を取りました。その人は7世紀に,今日のおよそ10億人もの人々の従順と服従を要求する,ある宗教運動を起こしました。その運動とはイスラム教のことです。次の章では,その預言者で,開祖となった人物の歴史を考察し,彼の教えの幾つかとその源について説明いたします。
[脚注]
a 「霊魂不滅」,「地獄の火」,「煉獄」,および「リンボ」などの表現は,原語のヘブライ語聖書やギリシャ語聖書のどこにも出て来ません。これとは対照的に,「復活」という意味のギリシャ語の言葉(アナスタシス)は42回出て来ます。
b ギリシャ語のエピスコポスという言葉は,文字通りには『見張る者』という意味です。この言葉はラテン語ではエピスコプスとなり,古英語では“biscop”に変えられ,後に中期英語で“bishop”(司教)に変えられました。
c 民間伝説によれば,コンスタンティヌスは“イン ホック シグノ ヴィンチェス”(「このしるしによって征服せよ」の意)というラテン語の言葉の記された1本の十字架の幻を見たとされています。中には,“エン トゥートイ ニカ”(「これをもって征服せよ」の意)というギリシャ語の言葉だったとするほうがもっと当たっているかもしれないと言う歴史家もいます。一部の学者は,年代上の誤りがあるとして,その伝説を疑問視しています。
d 「オックスフォード教皇辞典」はシルウェステル1世に関して次のように述べています。「教会にとって劇的な出来事の生じた画期的時代である,コンスタンティヌス大帝(306-337年)のほとんど22年間の治世中,教皇はいたものの,起きていた重大な出来事で何ら重要な役割を演じてはいなかったようである。……確かに,コンスタンティヌスの親友となって,同大帝とその教会政策を一緒に考慮した司教たちはいたが,[シルウェステル]はその一人ではなかった」。
e 三位一体を巡る議論について詳しく考慮したい方は,ものみの塔聖書冊子協会が1989年に発行した,「あなたは三位一体を信ずるべきですか」と題する32ページのブロシュアーをご覧ください。
f イエスの母マリアのことは名指しで,あるいはイエスの母として四福音書の24箇所の異なった聖句の中で,また「使徒たちの活動」の書でも1回言及されていますが,使徒たちの手紙で,マリアに言及しているものは,1通もありません。
[262ページの囲み記事]
初期クリスチャンと異教のローマ
「キリスト教の運動がローマ帝国内で起きるにつれて,異教徒の改宗者にとっても自分たちの態度や行ないを改めるのは挑戦となった。結婚を本来,社会的,経済的取り決め,同性愛関係を男性教育の予期された要素,男女双方の売春行為を正常で,しかも合法的な事柄,離婚,妊娠中絶,避妊,および望まれない幼児を遺棄して[死なせる]ことなどを実際的な便宜主義の問題とみなすように育てられた多くの異教徒が,そのような慣行に反対するキリスト教の音信を受け入れて,家族の者を驚かせた」―「アダム,エバ,および蛇」,エレイン・ペイゲルス著。
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キリスト教 対 キリスト教世界
ティルス出身の3世紀の哲学者で,キリスト教の反対者だったポルフュリオスは,「キリスト教の独特の形態に関して責任があったのはイエス自身ではなく,むしろイエスの追随者だったかどうかに関する」疑問を提起し,「ポルフュリオス(と[4世紀のローマ皇帝で,キリスト教の反対者であった]ユリアヌス)は新約聖書に基づいて,イエスが自らを神とは呼ばなかったこと,また自分自身ではなく,万物の神なる,ただひとりの神について伝道したことを示した。イエスの教えを捨てて,(神ではなく)イエスを崇拝と敬慕の対象にした独自の新たな方法を導入したのは,その追随者たちであった。……[ポルフュリオスは]キリスト教の思想家を悩ませている問題を的確に指摘した。問題は,キリスト教の信仰はイエスが伝道した事柄に基づいているか,それともイエスの死後の後代の弟子たちによって考え出された思想に基づいているかということである」―「ローマ人から見たクリスチャン」。
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ペテロと教皇職
マタイ 16章18節で,イエスは使徒ペテロにこう言われました。「それで,わたしはあなたに告げておく。あなたはペテロ[ギリシャ語,ペトロス]である。この岩[ギリシャ語,ペトラ]の上に,わたしはわたしの教会を建てる。死の力がそれに打ち勝つことはない」。(改標)ローマ・カトリック教会はこの句に基づいて,イエスがご自分の教会をペテロの上にお建てになったと主張しています。そして,このペテロは,ローマの連綿と続く歴代の司教でペテロの後継者である人々の最初の人物であると言われています。
イエスがマタイ 16章18節で指摘しておられる岩とはだれのことですか。ペテロですか,それともイエスですか。文脈によれば,この論議の要点は,ペテロ自身が告白したように,「キリスト,生ける神のみ子」としてのイエスの実体を明らかにすることでした。(マタイ 16:16,改標)ですから,キリストを3回否んだペテロではなく,イエスご自身が教会の土台のその硬い岩であると考えるのは筋の通ったことでしょう。―マタイ 26:33-35,69-75。
キリストが土台の石であられることはどうして分かりますか。それは,次のように書き記したペテロ自身の証言から分かります。「確かに彼は人には退けられましたが,神にとっては選ばれた貴重な石であり,あなた方は,生ける石に対するように彼のもとに来て(います)……というのは,聖書にこうあるからです。『見よ,わたしはシオンにひとつの石を据える。選ばれた石,土台の隅石,貴重な石である。これに信仰を働かせる者は決して失望に至ることがない』」― ペテロ第一 2:4-8。エフェソス 2:20。
ペテロが仲間の間で首位権を持っていたという証拠は聖書にも,歴史の中にもありません。ペテロは自分の記した手紙の中で,その首位権に少しも言及していませんし,また他の三つの福音書も ―(ペテロがマルコに述べたと思われる)マルコの福音書も含めて ― ペテロに対するイエスのその言葉にさえ言及していません。―ルカ 22:24-26。使徒 15:6-22。ガラテア 2:11-14。
ペテロがかつてローマにいたという絶対的な証拠は一つもありません。(ペテロ第一 5:13)パウロがエルサレムを訪問した時,「ヤコブとケファ[ペテロ]とヨハネ,すなわち柱と思えた人たち」がパウロを支持しました。ですから,当時,ペテロは少なくともその会衆の3本の柱の1本でしたが,“教皇”ではありませんでしたし,またそのような存在として,あるいはエルサレムの大“司教”として知られてもいませんでした。―ガラテア 2:7-9。使徒 28:16,30,31。
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キリスト教世界の三位一体の秘義を表わす三角形
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バチカン(下に示されているのは国旗)は世界各国の政府に外交官を派遣しています
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後に三位一体の教理となった教えの土台はニケア公会議により据えられました
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中央の幼児を抱くマリアに対する崇敬は,もっと古い異教の女神の崇拝を反映しています ― 左はエジプトのイシスとホルス,右はローマの母神マトゥタ
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東方正教会 ― ブルガリア,ソフィアの聖ニコライ堂,下は米国,ニュージャージー州の聖ウラディミル聖堂
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“クリスチャン”の十字軍は,エルサレムをイスラム教から解放するためのみならず,ワルド派やアルビ派などの“異端者”をも虐殺するために組織されました
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スペインの残虐な異端審問所を指導したドミニコ会修道士トマス・デ・トルケマダ。同審問所では無理に自白させるための拷問用の道具が使われました