あなた方の忍耐に敬虔な専心を加えなさい
『あなた方の信仰に忍耐を,忍耐に敬虔な専心を加えなさい』― ペテロ第二 1:5-7。
1,2 (イ)1930年代以降,ナチスの統制下にあった国々に住むエホバの証人には何が起きましたか。なぜですか。(ロ)エホバの民は,そうした過酷な仕打ちを受けた時にどうしましたか。
それは,20世紀の歴史の暗黒時代でした。1930年代以降,ナチスの統制下にあった国々に住む大勢のエホバの証人は不当にも逮捕され,強制収容所に送り込まれました。なぜでしょうか。エホバの証人は勇敢にも中立の立場を保ち,ハイル・ヒトラーと言うことを拒否したからです。彼らはどんな仕打ちを受けたでしょうか。「聖書研究者[エホバの証人]のように親衛隊員のサディズムにさらされた……受刑者のグループはほかにない。それは,果てしなく続く肉体的拷問と精神的拷問を特徴とするサディズムであった。それを言葉で言い表わすことなど到底できない」― ドイツの元政府役人,カール・ウィティヒ。
2 エホバの証人はどうしたでしょうか。クリスティーン・E・キング博士は,「ナチス国家と新しい宗教: 非国教主義に関する五つの事例研究」という本の中で,「政府も[他の宗教団体とは対照的に]証人だけは屈伏させることができなかった」と述べています。そうです,エホバの証人は,たとえ数百人の証人たちが耐え忍んで死を迎えたとしても,全体としてじっと踏みとどまりました。
3 エホバの証人は何によって,厳しい試練を耐え忍ぶことができましたか。
3 エホバの証人は何によって,ナチスドイツだけでなく,世界中でそのような試練を耐え忍ぶことができたのでしょうか。彼らの天の父は,彼らの敬虔な専心のゆえに,耐え忍ぶための助けをお与えになりました。「エホバは,敬虔な専心を保つ人々をどのように試練から救い出すか……を知っておられるのです」と,使徒ペテロは説明しています。(ペテロ第二 2:9,10)ペテロはその同じ手紙の前のほうで,『あなた方の信仰に忍耐を,忍耐に敬虔な専心を加えなさい』とクリスチャンたちに助言しました。(ペテロ第二 1:5-7)ですから,忍耐と敬虔な専心の間には密接なつながりがあります。現に,終わりまで耐え忍ぶには,『敬虔な専心を追い求めて』,それを表わす必要があります。(テモテ第一 6:11)しかし,厳密に言って,敬虔な専心とは何でしょうか。
敬虔な専心とは何か
4,5 敬虔な専心とは何ですか。
4 「敬虔な専心」に相当するギリシャ語の名詞(エウセベイア)は,字義通りに訳せば,「よく崇敬の念を示すこと」となるかもしれません。a (ペテロ第二 1:6,王国行間逐語訳)これは,神に対する温かい心からの感情を指しています。W・E・バインによれば,形容詞のエウセベースは,字義通りには「よく崇敬の念を示す」という意味で,「神に対する聖なる畏敬の念の命じるところにしたがって,献身的な活動のうちに表われるエネルギー」を指しています。―ペテロ第二 2:9,行間。
5 ですから,「敬虔な専心」という表現は,エホバに対する崇敬や専心と関係があります。それがあれば,わたしたちはエホバに喜ばれることを行ないたいという気持ちになります。難しい試練に直面する時でさえ,そのことに変わりはありません。わたしたちは心からエホバを愛しているからです。これは,わたしたちの生き方の中に表われる,エホバに対する忠節で個人的な愛着です。真のクリスチャンは,「敬虔な専心を全うし,……平穏で静かな生活をして」ゆけるように祈ることを勧められています。(テモテ第一 2:1,2)辞書編集者のJ・P・ローとE・A・ナイダはこう述べています。「多くの言語で,テモテ第一 2章2節の[エウセベイア]は,『神がわたしたちに望まれるとおりに生活する』,あるいは『神がこう生活するべきだと告げてくださったとおりに生活する』と訳すのが適切かもしれない」。
6 忍耐と敬虔な専心の間には,どんな関係がありますか。
6 こうしてみると,忍耐と敬虔な専心の関係がいっそうよく分かります。わたしたちは,神が望まれるとおりに ― 敬虔な専心をもって ― 生活しているので,この世の憎しみを買い,それが常に信仰の試練をもたらします。(テモテ第二 3:12)しかし,そのような試練を耐え忍ぶ動機づけが得られるのは,天の父に対する個人的な愛着があるからこそです。さらに,エホバはそうした心からの専心にこたえてくださいます。考えてもみてください。神が天から下を眺めて,ご自分に対する専心のゆえに,あらゆる種類の反対にもめげずにご自分を喜ばせようと努力している人々をご覧になるなら,どのような気持ちを持たれるでしょうか。『敬虔な専心を保つ人々を試練から救い出し』たいと思われるのも不思議ではありません。
7 敬虔な専心を培わなければならないのはなぜですか。
7 しかし,わたしたちは敬虔な専心をもって生まれたわけではありません。またそれは,敬虔な親から自動的に得るものでもありません。(創世記 8:21)むしろ,それは培わなければならないものです。(テモテ第一 4:7,10)わたしたちは,忍耐や信仰に敬虔な専心を加えるよう努力しなければなりません。ペテロが言うとおり,それには「真剣な努力」が必要です。(ペテロ第二 1:5)では,どうすれば敬虔な専心を得ることができるでしょうか。
どうすれば敬虔な専心が得られるか
8 使徒ペテロによれば,敬虔な専心を得るためのかぎとは何ですか。
8 使徒ペテロは,敬虔な専心を得るためのかぎを説明し,こう述べています。「過分のご親切と平和が,神およびわたしたちの主イエスについての正確な知識によってあなた方に増し加えられますように。それは,その神からの力が,栄光と徳とによってわたしたちを召された方についての正確な知識を通して,命と敬虔な専心に関するすべての事柄をわたしたちに惜しみなく与えたからです」。(ペテロ第二 1:2,3)ですから,わたしたちの信仰や忍耐に敬虔な専心を加えるには,エホバ神とイエス・キリストに関する正確な知識,つまり十分な知識,あるいは完全な知識において成長する必要があります。
9 神とキリストに関する正確な知識を持つことには,単にお二方の名前を知る以上のことが関係しているという点を,どんな例えで説明できますか。
9 神とキリストに関する正確な知識を持つとは,どういう意味でしょうか。これには明らかに,単にお二方の名前を知る以上のことが関係しています。例えで考えてみましょう。皆さんは隣の家に住んでいる人の名前を知っているかもしれません。また,名前を呼んであいさつすることもあるかもしれません。しかし,だからといって,その人に多額のお金を貸したりするでしょうか。その人がどういう人なのか本当に知っているのでない限り,そのようなことはしません。(箴言 11:15と比較してください。)同様に,エホバとイエスを正確に,あるいは十分に知るとは,単にお二方の存在を信じているとか,お二方の名前を知っているといった程度のことではありません。たとえ死に至るとしても,そのお二方のためなら喜んで試練を耐え忍びたいという気持ちになるには,お二方を本当に親しく知る必要があります。(ヨハネ 17:3)それには,どんなことが関係しているでしょうか。
10 エホバとイエスに関する正確な知識を持つことには,どんな二つの事柄が関係していますか。なぜですか。
10 エホバとイエスに関する正確な知識,あるいは完全な知識を得ることには,次の二つの事柄が関係しています。(1)お二方を人格的な存在として知る,つまりその特質や感情や方法を知るようになること,(2)お二方の手本に倣うこと。敬虔な専心には,エホバに対する心からの個人的な愛着が関係しており,それはわたしたちの生き方によって明らかになります。ですから,敬虔な専心を得るには,エホバを個人的に知るようになり,人間に可能な範囲で神のご意志と方法を徹底的に理解することが必要です。確かに,エホバを知るために,神の像に創造されたわたしたちは,そのような知識を活用し,神に似た者となるよう努力しなければなりません。(創世記 1:26-28。コロサイ 3:10)また,イエスは言動に関してエホバを完全に見倣っておられたので,イエスについて正確に知ることは,敬虔な専心を強める上で貴重な助けになります。―ヘブライ 1:3。
11 (イ)どうすれば,神とキリストに関する正確な知識を得ることができますか。(ロ)読んだ事柄について黙想するのが大切なのはなぜですか。
11 しかし,神とキリストに関するそうした正確な知識を得るには,どうしたらよいでしょうか。聖書と聖書に基づく出版物を勤勉に研究することです。b とはいえ,個人的な聖書研究の結果として敬虔な専心を得たいのであれば,読んだ事柄について黙想する,つまり思い巡らしたり,よく考えたりするための時間を取ることがどうしても必要です。(ヨシュア 1:8と比較してください。)そのことが大切なのはなぜでしょうか。敬虔な専心とは,神に対する温かい心からの感情であることを思い出してください。聖書の中で,黙想は心,つまり内面の人と何度も結びつけられています。(詩編 19:14; 49:3。箴言 15:28)読んだ事柄を感謝の気持ちで思い巡らすなら,それは内面の人にまで浸透し,結果としてそれは気持ちをかき立て,感情を奮い立たせ,考えに影響を及ぼします。そのようにして初めて,わたしたちは研究によってエホバに対する個人的な愛着を強め,困難な状況や難しい試練に直面した時でも神に喜んでいただける生き方をしたいという動機づけを得ることができます。
家庭で敬虔な専心を実践する
12 (イ)パウロによれば,クリスチャンはどのように家庭で敬虔な専心を実践できますか。(ロ)真のクリスチャンが高齢になった親の世話をするのはなぜですか。
12 敬虔な専心は,まず家庭で実践しなければなりません。使徒パウロはこう言っています。「やもめに子供や孫がいるなら,彼らにまず,自分の家族の中で敬虔な専心を実践すべきこと,そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみ前で受け入れられることなのです」。(テモテ第一 5:4)高齢になった親の世話をすることは,パウロが述べているように,敬虔な専心の表われです。真のクリスチャンは単に義務感からではなく,親を愛しているからこそ,そのような世話を行ないます。しかし,それだけではありません。真のクリスチャンは,エホバが家族の世話を重視しておられることを認めています。助けが必要な時に親を見捨てるとすれば,『キリスト教の信仰を否認する』のと同じであることをよく知っているのです。―テモテ第一 5:8。
13 家庭で敬虔な専心を実践することが時として難しい課題になるのはなぜですか。しかし,親の世話をすることからどんな満足感が得られますか。
13 確かに,家庭で敬虔な専心を実践するのは必ずしも容易ではありません。家族はそれぞれ,かなり遠い所で離れて生活しているかもしれません。成人した子供たちは自分の家族を養っていて,経済面で苦労していることもあります。親が必要とする世話の性質や程度からして,世話をする人たちの身体的,精神的,感情的健康には相当な負担がかかるかもしれません。それでも,親の世話をすることは「当然の報礼」になるだけでなく,「天と地のあらゆる家族がその名を負う」方に喜ばれることなのです。そのことを知れば,本当の満足感が得られるはずです。―エフェソス 3:14,15。
14,15 子供たちが敬虔な態度で親の世話をした実例について述べてください。
14 本当に感動的な実例について考えてみましょう。エリスと5人の兄弟姉妹は,家庭で父親の世話をすることに関して難しい問題にぶつかりました。「1986年に父は脳卒中を起こし,体が完全にまひしてしまいました」と,エリスは説明します。6人の子供たちが,入浴させることから,床ずれを防ぐために定期的に姿勢を変えてあげることまで,協力して父親の面倒を見ました。「父のために何かを読んであげたり,話しかけたり,音楽を演奏したりします。父が周りで起きていることに気づいているのかどうか,わたしたちには分かりません。でも,わたしたちはあたかも父が何でもよく分かってくれているかのように接しています」。
15 この子供たちがそのようにして父親の世話をするのはなぜでしょうか。エリスはこう続けます。「1964年に母が亡くなってから,父は独りで私たちを育ててくれました。その時私たちは,一番下が5歳で一番上が14歳でした。そのころは父が私たちの面倒を見てくれました。今度は私たちが父の面倒を見る番です」。もちろん,そのような世話をするのは容易なことではありません。この子供たちも確かにがっかりすることがあります。「しかし私たちは,父の状態が一時的な問題であることを知っています。私たちは,父が健康を取り戻し,みんなで母と再会できる時を楽しみにしています」とエリスは言います。(イザヤ 33:24。ヨハネ 5:28,29)確かに,子供が親を敬うことをお命じになった方は,親に対するそうした献身的な世話を見て,心に温かいものを感じておられるに違いありません。c ―エフェソス 6:1,2。
敬虔な専心と宣教
16 わたしたちが宣教で何を行なうにしても,そのおもな理由は何であるべきですか。
16 「絶えずわたしのあとに従いなさい」というイエスの勧めを受け入れる時,わたしたちは王国の良いたよりを宣べ伝え,人々を弟子とするという神からの任務を受けることになります。(マタイ 16:24; 24:14; 28:19,20)確かに,宣教に参加することは,この「終わりの日」におけるクリスチャンの責務です。(テモテ第二 3:1)しかし,宣べ伝えて教える活動を行なうわたしたちの動機は,単なる義務感や責任感以上のものでなければなりません。エホバに対する深い愛こそが,宣教において何を行なうにしても,どれほどのことを行なうにしても,そのおもな理由でなければならないのです。「心に満ちあふれているものの中から口は語る」と,イエスは言われました。(マタイ 12:34)そうです,エホバに対する愛がわたしたちの心にあふれる時,わたしたちはエホバについて他の人々に証言したいという衝動を感じます。神への愛がわたしたちの動機であれば,わたしたちの宣教は敬虔な専心の有意義な表現となります。
17 どうすれば,宣教に対する正しい動機を強めることができますか。
17 宣教に対する正しい動機を強めるには,どうしたらよいでしょうか。エホバを愛することに関して,エホバご自身が与えてくださった三つの理由を感謝の気持ちで思い巡らすことです。(1)わたしたちは,エホバがすでにわたしたちのためにしてくださった事柄のゆえにエホバを愛します。神が贖いを備えることによって示してくださった愛よりも大きな愛はありません。(マタイ 20:28。ヨハネ 15:13)(2)わたしたちは,エホバが現在わたしたちのためにしてくださっている事柄のゆえにエホバを愛します。わたしたちは,祈りを聞き届けてくださるエホバに,はばかりのないことばで語りかけることができます。(詩編 65:2。ヘブライ 4:14-16)また,王国の関心事を優先させる時,生活の必要物が得られます。(マタイ 6:25-33)わたしたちは,直面する問題に対処するのに役立つ霊的な食物を確実に受け取っています。(マタイ 24:45)さらに,世界の他の部分からはっきり区別されるクリスチャンの世界的な兄弟関係の一員であるという祝福があります。(ペテロ第一 2:17)(3)わたしたちは,エホバがこれからわたしたちのためにしてくださる事柄のゆえにもエホバを愛します。わたしたちは神の愛のゆえに,「真の命」― 将来の永遠の命 ―「をしっかりとらえ」ます。(テモテ第一 6:12,19)エホバがわたしたちに示してくださる愛について考える時,わたしたちの心は,神と神の貴重な目的について他の人々に語る活動に献身的に参加するようわたしたちを駆り立てるはずです。宣教において何を行なうべきか,どれほどのことを行なうべきかについて,他の人から指示してもらう必要はありません。わたしたちの心が,できるだけのことを行なうようわたしたちを駆り立てるのです。
18,19 ある姉妹は,宣教に参加するためにどんな障害を克服しましたか。
18 難しい状況にぶつかった時でさえ,敬虔な専心によって奮起した心は語らずにはいられません。(エレミヤ 20:9と比較してください。)この点は,極端に内気なクリスチャンの女性,ステラの場合からも分かります。ステラは最初に聖書を研究し始めた時,『戸別訪問なんて絶対にできない』と考えました。「私は普段からほとんどしゃべりませんでした。ほかの人にこちらから話しかけて会話を始めることなど絶対にできませんでした」と,ステラは説明しています。しかし,研究を続けてゆくうちに,エホバに対する愛が深まり,彼女は神について他の人々に話したいという燃えるような願いを強めてゆきました。「聖書研究の司会者に,『話したいという気持ちはすごく強いんですが,私にはできません。それが本当につらいんです』と話した時のことを覚えています。その時の司会者の言葉は決して忘れられません。『ステラ,あなたが話したいという気持ちになっていることを感謝してね』」。
19 やがてステラは,隣の家の人に証言するようになりました。それから,彼女は自分にとって非常に大きな一歩を踏み出しました。初めて家から家の宣教に参加したのです。(使徒 20:20,21)彼女はこう思い出を語っています。「自分の言うことを全部書いておきました。でも,気が動転してしまい,目の前にあるにもかかわらず,緊張の余りメモを見る余裕すらありませんでした」。それから35年以上たった今,ステラの性質は今でも非常に内気です。しかし,彼女は野外宣教を愛しており,引き続き有意義な仕方で宣教に参加しています。
20 迫害や投獄でさえ献身的なエホバの証人の口を封じられないということを,どんな例が示していますか。
20 迫害や投獄でさえ,献身的なエホバの証人の口を封じることはできません。ドイツのエルンスト・ゼリガーとヒルデガルト・ゼリガーの例について考えてみましょう。彼らは信仰のゆえに,ナチスの強制収容所や共産主義者の刑務所の中で,二人合わせて40年以上を過ごしました。刑務所の中でさえ,二人は他の受刑者にたゆまず証言しました。ヒルデガルトはこう思い出を語ります。「刑務所の当局者は私を特に危険な人物とみなしました。ある女性看守が言ったように,私は一日中聖書について話していたからです。それで,地下の独房に入れられることになりました」。ゼリガー兄弟姉妹は最終的に自由になった後,クリスチャンの宣教に全時間をささげました。二人とも亡くなるまで忠実に奉仕し,ゼリガー兄弟は1985年に,姉妹は1992年に亡くなりました。
21 忍耐に敬虔な専心を加えるには,何をしなければなりませんか。
21 わたしたちは,神の言葉を勤勉に研究し,学んだ事柄を感謝の気持ちで黙想するための時間を取ることによって,エホバ神とイエス・キリストに関する正確な知識において成長してゆきます。そうすることによって今度は,あの貴重な特質,つまり敬虔な専心をいっそう十分に得ることができるようになります。敬虔な専心がなければ,クリスチャンであるわたしたちに降り掛かるさまざまな試練を耐え忍ぶことは決してできません。ですから,使徒ペテロの助言に従って,これからも『わたしたちの信仰に忍耐を,わたしたちの忍耐に敬虔な専心を加えて』ゆきましょう。―ペテロ第二 1:5-7。
[脚注]
a エウセベイアについて,ウィリアム・バークレーはこう述べています。「崇敬や崇拝を意味しているのは,この語のセブという部分[語根]である。エウはギリシャ語で,よくに相当するので,エウセベイアは,よく,また正しく示される崇拝,崇敬ということになる」―「新約聖書の用語集」。
b 神の言葉の知識を深めるための研究方法を説明した記事としては,「ものみの塔」誌,1993年8月15日号,12-17ページをご覧ください。
c 年老いた親に対して敬虔な専心を実践する方法を詳しく説明した記事としては,「ものみの塔」誌,1987年6月1日号,13-18ページをご覧ください。
あなたはどう答えますか
□ 敬虔な専心とは何ですか
□ 忍耐と敬虔な専心の間には,どんな関係がありますか
□ 敬虔な専心を得るためのかぎとは何ですか
□ クリスチャンはどのように家庭で敬虔な専心を実践できますか
□ わたしたちが宣教で何を行なうにしても,そのおもな理由は何でなければなりませんか
[18ページの図版]
ラベンスブリュックにあったナチスの強制収容所に拘禁されていたエホバの証人は,忍耐と敬虔な専心を示した