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魂を得るために信仰を保ちなさいものみの塔 1963 | 2月15日
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31,32 (イ)霊的な幼な子にとって,積極的に行動するとは何をすることですか。(ロ)ヘブル書 10章23-27節は,悪い習慣を警告して何を告げていますか。
31 霊的な進歩をこれ以上おそくしたり,前途にある困難を克服するのにたゆまない努力と働きが必要なのを見てひきさがるのは,積極的に行動することではありません。積極的に行動する人は,個人的な聖書の勉強に励むばかりでなく,集会に出席してエホバの証者の新世社会と共に学び,他の人のことも考えます。エホバの現代クリスチャン証者と共に集まることをあえて怠るのは,退く第一歩になります。つづけるうちに,それは遂に習慣となるでしょう。ヘブル書 10章23-27節(新口)は,そのことをいましめ,集まりを怠ってはならない理由を述べています,
32 「愛と善行とを励むように互に努め,ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか。もしわたしたちが,真理の知識を受けたのちにもなお,ことさらに罪を犯しつづけるなら,罪のためのいけにえは,もはやあり得ない。ただ,さばきと,逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを,恐れつつ待つことだけがある」。
33 ことさらに集会を休むならば,ヘブル書 2章1節に関して何をしていることになりますか。どのようにすれば押し流されるのを防ぐことができますか。
33 愛と善行を励ますための集まりをことさらに休むならば,それは何をすることですか。それはヘブル書 2章1節の命ずること即ち神の御子から聞いた事柄に普通以上の注意を払うことですか。あるいはそれ以下の注意しか払わないことになりますか。たとえ家でどれほど聖書を勉強しても,それでは普通以上の注意を払っていることにはなりません。滅びにむかって押し流されないため,神の御子に聞き従うことが必要です。御子はすぐれて重要な方だからです。
34 信仰を全きものにするため,だれを仰ぎ見なければなりませんか。したがって昔のヘブル人はなぜ信仰を完成することができませんでしたか。
34 永遠の生命を得るに至る信仰を保ち,かつ全うすることを望むならば,神の御子イエスに全く聞き従わなければなりません。「信仰の完成者」であるイエスを仰ぎ見ることが必要です。イエスは19世紀前に来ましたが,その時まで昔のヘブル人はメシヤの来ることに信仰を持ち,それを待ち望んでいました。しかしメシヤに対するその信仰は多くの面で不完全でした。当時まだ成就していなかったメシヤにかかわる預言を理解できなかったためです。メシヤすなわちキリストに関する預言がどのように成就するかについては,天使でさえもうかがい見たいと願っていました。(ペテロ前 1:10-12)従って彼らの信仰はいまだ全うされていませんでした。
35,36 だれが来たとき,真の信仰が表われましたか。なぜそうでしたか。
35 しかしイエス・キリストが来て伝道し,死ののち天の生命に復活して,御父である神のもとに戻り,天において神の右に坐したとき,当時まで理解できなかったキリストに関する預言が成就しました。そのとき,メシヤすなわちキリストに関する信仰は歴史的な事実で満たされるようになりました。このようにしてキリストと共に真の信仰があらわれたのです。つまりキリストおよびキリストと神との関係を正しく理解したうえでの信仰です。そこで以前はモーセの律法の下にあり,いまはクリスチャンとなったヘブル人に対して,ガラテヤ書 3章23-25節(新口)は次のように述べています,
36 「しかし,信仰が現れる前には,わたしたちは律法の下で監視されており,やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は,信仰によって義とされるために,わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし,いったん信仰が現われた以上,わたしたちは,もはや養育掛[モーセの律法]のもとにはいない」。
37 ゆえに私たちの信仰に関して言えば,イエスはどんなかたですか。本当の意味においてイエスと共に何が始まりましたか。
37 この事実のゆえに,イエスは真に私たちの信仰の指導者にして先駆者,君となったかたです。このイエスは神の御心を行なって,メシヤに関する預言の成就をもたらしました。それを知って,私たちはこれら聖書の預言に信仰をおくことができるのです。正しい信仰は,19世紀前にイエス・キリストと共にあらわれました。
38 その当時以来,イエスはどのように弟子たちの信仰を完成に導いてきましたか。
38 復活して50日後,西暦33年の五旬節にイエスは天にあって神の右の座から,エルサレムにいたヘブル人の弟子たちの上に聖霊をそそぎました。その時に至るまで,イエスは御自分に対する弟子たちの信仰を完全にすることを目ざして働いてこられました。西暦36年,無割礼で非ヘブル人の信者にはじめて聖霊をそそいだとき,イエスは御自分に対する弟子たちの信仰を,更に完成の域に高めました。(ヘブル 2:4)使徒ヨハネがその福音書,手紙とヨハネへの黙示録を書くまで,イエスは天から地上の弟子たちとかかわりを持たれ,その間に弟子たちの信仰を,救われるために十分なものとなるまで完全にしました。さて過去90年ほどの間に,地上の弟子たちに対して預言の成就となる事柄を行なってきたイエスは,この時代の必要に対処するため,私たちの信仰を完全なものにしてきました。それは私たちの永遠の救いのためです。
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私たちはエホバの制度を必要とするものみの塔 1963 | 3月15日
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イエス・キリストは,エホバの崇拝者たちを,群れをなす羊にたとえましたが,それには相当の理由がありました。エホバの崇拝者たちは羊のように,互いを必要とし,また,羊飼の愛のこもった導きを必要とするからです。彼らが,ばらばらになって霊的に分離した生活をするのでなく,一つの群れとして一緒にいることこそエホバの御心であるということは,ヨハネ伝 10章のイエスの言葉から明らかです。その11節でイエスは,ご自分を彼らの羊飼として,つぎのように述べておられます。「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は,羊のために命を捨てる」。さらに16節では,「わたしにはまた,この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも,わたしの声に聞き従うであろう。そして,ついに一つの群れ,ひとりの羊飼となるであろう」と言われています。エホバの奉仕者たちを一つの群れに集めるというこのことは,彼らが互いに密接な交わりを保つことこそエホバの御心であることを物語っています。もしクリスチャンたちが一つの組織の中で一緒になることが神の御目的でなかったなら,イエスは彼らを羊の群れにたとえることをされなかったでしょう。神の霊は,立派な羊飼と羊の群れのあるところにあります。もし人が,その群れから離れて,霊的に孤立した生活をすることを望むなら,どうしてその霊の影響を受けつづけることを期待できるでしょうか。それは,一個の炭火をたくさんの炭火から離すようなものです。その炭火は,離されたためにすぐに消えてしまいます。それと同じく,もし献身したエホバのしもべが,エホバの霊のある群れから意識的に離れるなら,彼の中の霊的ほのおはすぐに冷えて消えてしまいます。
迷える羊についてイエスはこう言われました。「あなたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり,その中の一匹が迷い出たとすれば,九十九匹を山に残しておいて,その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら,よく聞きなさい,迷わないでいる九十九匹のためよりも,むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように,これらの小さい者のひとりが滅びることは,天にいますあなたがたの父のみこころではない」。(マタイ 18:12-14,新口)神の組織の群れと一緒にいれば安全です。しかしそれから迷い出ると非常に危険です。
クリスチャンの群れの中にいるということには,キリスト教の教理を信じているというだけのことではなく,それ以上のことが含まれています。つまりそれは,エホバの崇拝者たちの組織と接触していることも意味します。羊が群れになっているときは,互いに身体的交わりを持ちます。クリスチャンにもそれが必要です。使徒パウロは,つぎのように述べて,そのことを明確にしています。「愛と善行とを励むように互いに努め,ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか」。(ヘブル 10:24,25,新口)もし人が,クリスチャンの群れと実際に交らないで,霊的に孤立した生活をしようとするなら,それは,献身したエホバの崇拝者との集まりを捨てているのではないでしょうか。エホバの崇拝者たちにとって,クリスチャンの制度が必要であることをイエスが認めておられなかったなら,イエスはクリスチャンたちを羊の群れにはたとえられなかったことでしょう。
初期クリスチャンの制度
使徒たちは,初期クリスチャンの制度の主要な監督になりました。クリスチャンになった人々は,彼らを,神が真の崇拝によって自分たちを教え導くために用いておられる経路として頼りました。彼らの間に論争が起きた時は,使徒に決定してもらうのが常でした。その一つの例は,シリヤのアンテオケの会衆で,割礼の問題をめぐって論争が起きたときでした。会衆はパウロとバルナバとを,エルサレムにあったクリスチャンの制度の本部に送って決定を求めました。「そこで,パウロやバルナバと彼ら〔会衆をかきまわしていた者たち〕との間に,少なからぬ粉糾と争論とが生じたので,パウロ,バルナバそのほか数人の者がエルサレムに上り,使徒たちや長老たちと,この問題について協議することになった」。(使行 15:2,新口)エルサレムでは,統治体によって決定が下され,その決定はすべての会衆に送られました。「それから彼らは通る町々で,エルサレムの使徒たちや長老たちの取り決めた事項を守るようにと,人々にそれを渡した」。―使行 16:4,新口。
第1世紀のクリスチャンの制度の統治体は,巡回する代表者たちを送り出し,彼らは新しい会衆を設立し,またすでに設立されている会衆を訪問しました。(使行 14:23)テモテ前書 3章の1節から13節には,統治体の代表者であったパウロが,監督および奉仕のしもべたちに関して与えた,制度の指示がいくつか書かれています。それによって,初期クリスチャンたちが,一つの組織を形成していた一つの群れであったことがわかります。彼らはその中でエホバの御霊を受け,神に喜ばれる方法で,霊的知識,正しい助言,しっかりしたこらしめ,信頼しうる導きを受けました。
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