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エホバ聖書に対する洞察,第1巻
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特質や規準の変わらない方 エホバはイスラエルの民にこうお告げになりました。「わたしはエホバであり,わたしは変わっていない」。(マラ 3:6)それは,神が人間を創造してから約3,500年後,また神がアブラハム契約を結ばれてから約1,500年後のことでした。中には,ヘブライ語聖書で啓示されている神は,イエス・キリストやクリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちによって明らかにされた神とは異なっていると主張する人もいますが,よく調べてみると,そのような主張は何ら根拠のないものであることが分かります。弟子ヤコブが神について,「父には影の回転による変化もありません」と述べたのはもっともなことです。(ヤコ 1:17)エホバ神の性格は何世紀もの間に“熟成”したわけではありません。なぜなら,熟成する必要などなかったからです。クリスチャン・ギリシャ語聖書で明らかにされているエホバの厳しさが,エホバがエデンで人間を扱い始められた時よりも和らいだり,エホバの愛がその時よりも大きなものになったりしてはいません。
性格上の相違と思えるものは,実際には変わることのない同じ性格の異なった側面にすぎません。それは,状況や扱われる人々が異なり,異なった態度もしくは関係が求められるゆえに生じるのです。(イザ 59:1-4と比較。)変わったのはエホバではなく,アダムとエバのほうでした。エホバの不変の義の規準によれば,両人はもはやエホバの愛する宇宙的な家族の成員として扱ってはもらえないような立場に自ら立ちました。二人は完全でしたから,自分たちの故意の悪行に対して全責任を負っており(ロマ 5:14),したがって両人は神の憐れみの及ぶ限界を越えていました。それでも,エホバは二人に衣服を着用した生活を始めさせ,エデンの聖域の外で何世紀も生きて,自分自身の罪深い歩みの影響のためにやがて死んでしまう前に子孫を生み出すことを許すという過分の親切を示されました。(創 3:8-24)アダムとその妻がエデンから追い出された後,この二人に対する神からの意思の伝達はすべて終わったようです。
エホバが不完全な人間を扱うことができる理由 エホバはご自分の正しい規準にしたがって,アダムとエバの子孫に関してはその二親の場合とは異なった仕方で扱うことができました。なぜでしょうか。なぜなら,アダムの子孫は罪を受け継いだ,したがって不本意にも生まれつき悪行に走る傾向のある不完全な被造物として生活し始めたからです。(詩 51:5; ロマ 5:12)ですから,それら子孫に対しては憐れみを示すべき根拠がありました。エデンで裁きの宣告が行なわれた時に語られた,エホバの最初の預言(創 3:15)の示すところによれば,エホバはご自分の最初の人間としての子供たち(それに,霊の子たちのひとり)が反逆したにもかかわらず,苦々しい気持ちを抱いたり,その愛の流れを枯渇させたりはされませんでした。その預言は,反逆によって生じた状況が正され,彼らの当初の完全な状態が回復されることを象徴的な言葉で指し示していました。そして,その十分な意味は何千年も後に明らかにされることになりました。―啓 12:9,17; ガラ 3:16,29; 4:26,27の「蛇」,「女」,「胤」という象徴的な表現と比較。
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光聖書に対する洞察,第2巻
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エホバは「天の光の父」であられます。(ヤコ 1:17)また,「昼の光のために太陽を,夜の光のために月と星の法令を与える方」であるだけでなく(エレ 31:35),あらゆる霊的な啓発の源でもあられます。(コリ二 4:6)神の律法,司法上の定め,み言葉は,それによって導かれようとする人々にとって光です。(詩 43:3; 119:105; 箴 6:23; イザ 51:4)詩編作者は,「わたしたちはあなたからの光によって光を見ることができる」と言いました。(詩 36:9。詩 27:1; 43:3と比較。)ちょうど太陽の光が夜明けから「日が堅く立てられる」まで輝きを増し続けるように,義なる者たちの道筋は敬虔な知恵に照らされて,いよいよ明るさを増してゆきます。(箴 4:18)エホバが略述しておられる道を進むことは,エホバの光のうちを歩むことです。(イザ 2:3-5)一方,不純な仕方で,またよこしまな意図をもって物事を見る人は,ひどい霊的な闇の中にいます。イエスが言われたとおりです。「目がよこしまであれば,あなたの体全体は暗いでしょう。あなたのうちにある光が実際のところ闇であれば,その闇はどんなにかひどいことでしょう」― マタ 6:23。申 15:9; 28:54-57; 箴 28:22; ペテ二 2:14と比較。
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