-
外人居留者聖書に対する洞察,第1巻
-
-
クリスチャンは,この世の一部ではないという意味で「外国人」また「一時的居留者」と呼ばれています。(ヨハ 15:19; ペテ一 1:1)彼らは,神と敵対関係にある世の慣行に従わないという点で外国人です。(ペテ一 2:11)異邦諸国民の,かつては「約束にかかわる数々の契約に対してはよそ者」で,希望もなく,「世にあって神を持たない者」であった人たちが,今ではキリストを通して『もはやよそ者や外人居留者ではなく』,「聖なる者たちと同じ市民」となり,「神の家族の成員」となっています。(エフェ 2:11,12,19)同様に,イエスが「一つの群れ」の中に集めると言われた「ほかの羊」も,神の恵みを受け,命の希望を抱いて,世から離れた立場を取ります。―ヨハ 10:16; マタ 25:33,34,46。啓 7:9-17と比較。
-
-
アジア聖書に対する洞察,第1巻
-
-
西暦33年のペンテコステの時,ユダヤ人は様々な地方からエルサレムに来ていましたが,ルカはそれらの地方のことを指摘して,カパドキア州,ポントス州,パンフリア州と共にアジア州を挙げています。(使徒 2:9,10。ペテ一 1:1と比較。)ルカは使徒 2章のその箇所でアジアとは別にフリギアを挙げており,使徒 16章6節でもそうしています。西暦1世紀のローマの著述家,大プリニウスも同様の記述を残しています。(博物誌,V,XXVIII,102)使徒 16章6,7節の記述によれば,パウロは2回目の宣教旅行の際(西暦49-52年ごろ),西に向かって旅をしていた時,「アジア地区でみ言葉を語ることを聖霊によって禁じられ」ました。それで,フリギアとガラテアを通って北方のビチニア州へ向かいましたが,再び進路を西に変えさせられ,ミシアを経て,マケドニアに向かって船出するのにうってつけのトロアスの海港に向かいました。パウロはその場所で幻を与えられ,「マケドニアへ渡って来て,わたしたちを助けてください」という招きを受けました。(使徒 16:9)それで,パウロは実際にアジア州の北部を通りましたが,マケドニアとアカイアでの業を終えて帰路につくまではアジア州で時を過ごしませんでした。その後,パウロはエフェソスで少しの時間を過ごし,会堂で宣べ伝えました。そして,別れに際して,戻って来ることを約束しました。―使徒 18:19-21。
-
-
予知,あらかじめ定める聖書に対する洞察,第2巻
-
-
『召され,選ばれた者たち』に関する事柄をあらかじめ定める まだ残っているのは,クリスチャンの「召された者たち」や「選ばれた者たち」について論じている聖句です。(ユダ 1; マタ 24:24)それらの人は,「神の予知にしたがい……選ばれた」者たち(ペテ一 1:2),『世の基が置かれる前から選ばれ』,『神の養子となるようあらかじめ定められた』者たち(エフェ 1:3-5,11),『救いのために初めから選び出され,ほかならぬこの定めに召された』者たち(テサ二 2:13,14)であると述べられています。これらの聖句に関する理解は,そうした聖句がある個々の人をあらかじめ定めることについて述べているのか,それとも人々の級,すなわちクリスチャン会衆,もしくは天の王国でキリスト・イエスの共同相続人となる人々の「一つの体」(コリ一 10:17)をあらかじめ定めることについて説明しているのか,ということによって違ってきます。―エフェ 1:22,23; 2:19-22; ヘブ 3:1,5,6。
もしこれらの言葉が,とこしえの救いを受けるようあらかじめ定められている特定の個人に当てはまるのであれば,それらの個人が不忠実になったり,自分たちの召しに関して失敗したりすることは決してあり得ないということになります。彼らに関する神の予知が不正確であるということはあり得ず,彼らをある運命にあらかじめ定めたことが実現しなかったり,妨害されたりすることも決してあり得ないからです。しかし,霊感によって前述の言葉を記した同じ使徒たちは,『買い取られ』,キリストの贖いの犠牲の血によって「神聖にされた」人々,また「天からの無償の賜物を味わい」,『聖霊と,来たるべき事物の体制の力にあずかる者となった』人々の中から,悔い改めが不可能なところまで離れ落ち,自ら滅びを被る者が出ることを示しています。(ペテ二 2:1,2,20-22; ヘブ 6:4-6; 10:26-29)使徒たちは一致して,自分たちが手紙を書いた人々を次のように激励しました。「自分の召しと選びを自ら確実にするため,……力を尽くして励みなさい。これらのことを行なってゆくなら,あなた方は決して失敗することはないからです」。「恐れとおののきをもって自分の救いを達成してゆきなさい」。(ペテ二 1:10,11; フィリ 2:12-16)「イエス・キリストの使徒となるために召された」パウロも(コリ一 1:1),自分が個人としてとこしえの救いを受けられるよう前もって運命が定められているなどと考えていなかったことは明らかです。パウロは,「神からの賞である上への召しのため,目標」を達成しようと奮闘していることや(フィリ 3:8-15),自分自身が「何かのことで非とされる」ことがないようにしたいと考えていることについて語っているからです。―コリ一 9:27。
同様に,そのような人々に提供されている「命の冠」は,試練のもとで死に至るまで忠実を保つことを条件に与えられます。(啓 2:10,23; ヤコ 1:12)神のみ子と共にあずかる彼らの王権の冠は失われることがあります。(啓 3:11)使徒パウロは,「義の冠」が自分のために「定め置かれてい(る)」ことに対する確信を言い表わしましたが,その言葉はあくまでも,パウロが「走路を最後まで走り」,その終わりが近づいていることを確信した時に述べた言葉にすぎません。―テモ二 4:6-8。
一方,前に引用した聖句が,一つの級,つまりクリスチャン会衆,あるいは召された者たちから成る一団としての「聖なる国民」に当てはまると考えれば(ペテ一 2:9),それは,神がそのような級(それを構成する特定の個人ではない)が生み出されることを予知し,そのことをあらかじめお定めになったという意味になります。また,それらの聖句は,すべて神の目的により,やがてその成員となるよう召される人々すべてが従わなければならない『型』を神が規定された,あるいはあらかじめお定めになったという意味になります。(ロマ 8:28-30; エフェ 1:3-12; テモ二 1:9,10)神はまた,そのような人々が行なうよう期待されている業や,彼らが世からもたらされる苦しみのゆえに試みられるということをあらかじめお定めになりました。―エフェ 2:10; テサ一 3:3,4。
-