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霊聖書に対する洞察,第2巻
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まず最初に,古い翻訳に見られるヨハネ第一 5章7節の「天において……御父,御言葉,御霊……この三つは一つなり」(欽定)という言葉は,実際には元の本文に付け加えられた偽筆の句であることに注目できます。カトリックの翻訳であるエルサレム聖書の脚注は,これらの言葉は「初期のギリシャ語写本,もしくは初期の翻訳のいずれにも,またウルガタ[訳]そのものの最良の写本にもない」と述べています。「ギリシャ語新約聖書の本文に関する注解」という本の中で(1975年,716-718ページ),著者ブルース・メツガーはその偽筆の章句の歴史を詳細にたどっています。同書によれば,その章句はまず最初に,「リーベル・アポロゲーティクス」と題する4世紀の論文に見いだされており,西暦6世紀から聖書の古ラテン語とウルガタ訳の写本に現われ始めています。カトリックとプロテスタント双方の現代の翻訳は全体として,偽筆であるというその性格を認めているゆえに,この句を本文の主文には含めていません。―改標,新英,新ア。
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水聖書に対する洞察,第2巻
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使徒ヨハネは後日こう書きました。「これは,水と血によって来た方,すなわちイエス・キリストです。……証しをするものは三つあるのです。霊と水と血であり,その三つは一致しています」。(ヨハ一 5:5-8)イエスは「世に」来る時,つまり神のメシアとして宣教と犠牲の歩みを始める時,水の浸礼(罪の悔い改めとしてではなく,自分に対する神のご意志を行なうために自分自身を神に差し出す行為として)を受けるために,バプテスマを施す人ヨハネのもとに来られました。(ヘブ 10:5-7)そのあと,神の霊がイエスの上に下り,そのことは,イエスが神のみ子またメシアであることの一つの証となりました。(ルカ 3:21,22)イエスの受けたバプテスマの水は,イエスの犠牲の血と調和し,神の霊と調和して,メシアに関するその偉大な真理について同一の証しをしているのです。
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