-
書き込みのいきさつ ― ヨハネ第一 5:7,8ものみの塔 1964 | 7月15日
-
-
書き込みのいきさつ ― ヨハネ第一 5:7,8
現代の聖書学者は,少しもためらうことなく,自分の翻訳する聖書から,ヨハネ第一書 5章7,8節の偽りの語句を省きます。「あかしをするものが,三つある」という部分の続きに付け加えられたのは次の言葉です。「天においては,御父と御言葉と聖霊,この三つは一致する。〔8節〕地において証明するのは三つ」。<ドンボスコ>社刊,口語訳新約聖書(アメリカ標準訳,アメリカ訳,モファット訳,新英訳聖書,フィリップス訳,ロザハム訳,改訂標準訳,スコンフィールド訳,ウェード訳,ワンド訳,ウェイマウス訳などからは除外されている)この言葉について,著名な学者であり,高位の聖職者でもあったB・F・ウエストコットは,「普通のギリシャ語原本に書きこまれているこの言葉は,単なる注釈がいかにして使徒の残した原本に導入されるかを示す好例である」と述べています。1 では,この一節が書きこまれるに至ったいきさつはなんですか。また,原典批評学は,この一節が霊感による神の言葉,すなわち聖書の一部でないことをいかに明らかにしましたか。
この一節が初めて現われた時
真のキリスト教からの脱落とほぼ時を同じくして,三位一体説に関する議論が盛んになりました。しかし,この教義を論ずるにはもっとも適切であると思われるにもかかわらず,初期の教会著述家は一度もこの言葉を用いませんでした。ヘシチウスおよび,ラテン人にアンブローズ,また大レオと呼ばれたレオ,アレクサンドリアのシリル,オエキュメニウス,ベイスル,ナジアンサスのグレゴリー,ギリシャ人ニセタスなど,ヨハネ第一書 5章6節から8節までを引用した人は数多くありますが,その引用句の中に問題の一節が出て来たことは一度もありません。一例をあげれば,西暦256年ごろに書かれた,「再浸礼について」と題する本は,著者不明ですが,次のように述べています。「というのは,ヨハネはその書簡の中で,(ヨハネ第一 5:6,7,8)我々をさとしてこう言っているからだ。『これは水と血とによって来た者,すなわち,イエス・キリストである。たゞに,水によるだけでなく,水と血とによるのである。そして,あかしをするものは御霊である。なぜなら,御霊は真理だからである。あかしをするものは三つある。御霊と水と血である。そして,これらの三つは一つになる』」。2 ジェロームさえ,自分の翻訳の中にこの言葉を入れませんでした。この句を弁護する序文があり,ジェロームのものとされていましたが,今日それは誤りであったことが明らかにされています。
この偽造聖句は一般に「ヨハネの一節」と呼ばれていますが,これは4世紀末,スペイン一宗派の指導者プリシリアンの著作に初めてあらわれました。3 その後5世紀に,ヴァンダル族の王ハンネリックに献じられた信仰告白の中に含まれ,それがタプサスのヴィギリウスにより,ラテン語文献中に色々なかたちで引用されました。またこの句は西暦445年から450年ごろにかけて書かれた「コントラ・バリマダム」(Contra Varimadum)の中にも見られますし,そのしばらくのちには,アフリカの司教フルジェンチウスがこの言葉を用いています。
この時まで,「ヨハネの一節」は本文第8節の解釈として扱われたにすぎません。しかし,それがひとたび広く認められた解釈となると,本文の注釈としてラテン語聖書写本の欄外に書き込まれるようになりました。欄外の注釈は容易に本文の省略とみなされて,後の写本の際に本文の行間に移され,ついには,8節の前に来る場合と後に来る場合と時によって位置は異なりましたが,ラテン語聖書写本の正式の一節として扱われるようになりました。(7節と8節が入れかわっているジョン・ウエスレイの新約聖書を参照)数年前,フランスのパリ国立図書館が所有する258のラテン語聖書写本を対象に興味ある調査が行なわれました。その結果は次の通りです。時代とともに,挿入句を含む写本の数がふえていく事に注意して下さい。
1215年,法王インノセント3世が召集した会議により,三位一体説を扱ったアボット・ヨハヒムの著作が排撃されましたが,その際,この句はいよいよ進出の機会を得ました。会議が採択した決議文の中に,ラテン語のバルゲイト訳から,問題の一節を含んだままの聖句がそっくり引用され,それがのちにラテン語からギリシャ語に翻訳されました。ギリシャ語系の著作家がこの句を得たのはここからであり,その例として,14世紀のカレカス,15世紀のブリエニウスなどがあげられます。
エラスムスとステフェンス
印刷術の発明によって,聖書原本が数多く作られるようになりました。しかし,エラスムス(1516年と1519年),アルダス・マヌチウス(1518年),ゲルベリウス(1521年)などが作ったギリシャ語原本は,ヨハネ第一書 5章7,8節の挿入句を入れませんでした。ところがこの一節を入れなかったことにつき,エラスムスは,後にイギリス,ヨークの大司教となったエドワード・リー,および,1514年に印刷を終え,ただ法王の認可を待っていた数ヵ国語対照聖書「コンプルテンシャン」の編集者の一人J・L・スタニカにより激しく攻撃されました。エラスムスに対するこの反対がどんな見解に基づいてなされたかは,マルチン・ドープがエラスムスに宛てた手紙から明らかです。それによると,ラテン語のバルゲイト訳はカトリック教会公認の聖書であるから,誤りのあるはずがない,という事がその主張でした。
エラスムスは,ギリシャ語写本のうち,「ヨハネの一節」を本文中に入れているものはひとつもないことを確信していましたので,返事の手紙で,もしその一節を入れたギリシャ語写本が一つでも見つかれば,版を改める際に,自分の原本にもこの句を入れると,書きました。この時彼が知らされたのは,コデックス・モントフォーティアナスとして知られる,16世紀初めの写本,コデックス・ブリタニカスです。それゆえ,エラスムスは約束どおり,1522年に出した第3版に問題の語句を挿入しましたが,その挿入に反対する長い注釈を付けました。
コデックス・モントフォーティアナスを注意深く調べると,おもしろい事が明らかになります。この写本の校合をしたO・T・ドビンは次のように書いています。この写本のヨハネ第一書 5章7,8節は,「他の部分と異なっているだけでなく,明らかにラテン語から翻訳されたと思われるようなギリシャ語で書かれている」。たとえば,ラテン語では,「父」「子」「聖霊」などの言葉の前に定冠詞をつけていないので,この翻訳者は定冠詞をつけぬままそれぞれの語をギリシャ語で表現しています。それゆえ,このギリシャ語写本にどれほどの価値がありますか。時に参照されるラテン語とギリシャ語のコデックス・オトボニアナス298の場合にも同様の誤りが見られます。1527年に出した第4版の中で,エラスムスは定冠詞を付け加えましたが,それは文法上の正確さを期すためでした。
この時以来,エラスムス版に従った他のギリシャ語原本の中にも,挿入句がはいるようになりました。次いで1550年,ロバート・ステフェンス版があらわれて問題はさらに複雑になりました。これは15のギリシャ語写本を批較対照してまとめた原本であり,そのヨハネ第一書 5章7節のところには半円形の記号を付して,欄外を参照するように指示しています。その欄外は,本文のうちわずか3語だけ省略される場合があることを述べ,その例として,7つの写本を引用しています。しかし,その後の原典批評家の研究により,半円形の記号の位置が誤っていたこと,また,その記号は「ヨハネの一節」全体を含むべきであったことが実証されました。このステフェンス版にはこうした記号の位置の誤りが多くあります。さらに悪いことには,7つの写本だけが例として出されていたため,ステフェンスの用いた残りの7つの写本にヨハネの手紙そのものが付いていなかった事を知らない人々は,それら残りの7つには挿入句がはいっているものと考えました。したがって,問題の一節を入れたギリシャ語写本は一つもなかったのです。
しかし,すでにここまで来ると,問題の語句が他の言語の聖書に紹介されるのは容易です。すでにウイックリフの英訳聖書(1380年)にはこの一節がはいっていました。ウイックリフはギリシャ語の知識を持たず,ラテン語写本から翻訳したからです。しかし今やギリシャ語からなされた翻訳にもこの一節があらわれるようになりました。ティンデールやクランマーのものがその例ですが,両者はいずれもこの句をイタリック体で印刷し,しかもかっこに入れています。しかし,1557年のジュネーブ訳のころまでには,こうした区別も行なわれなくなり,一節は通常の聖句と全く同じ体裁で印刷されるようになりました。こうして挿入句は1611年の欽定訳聖書にもはいりました。
再び燃えあがった議論
「ヨハネの一節」に関する議論はこれで結着がついたのですか。17世紀がすすみ,欽定訳聖書が広まるにつれ,一般にはそう思われたかも知れません。しかし,ささやきの声はいつまでも残り,不思議なコデックス・ブリタニカスを探す努力は続けられました。なぜならこの写本は,エラスムスに問題の聖句の事が告げられたのち,すがたを消したからです。17世紀の終りに,他ならぬアイザック・ニュートン卿が,その科学的探求心をこの聖句に向けました。1690年,ニュートンは,「著名な聖句改悪例二つに関する歴史的な説明」と題する論文をジョン・ロックに送りました。その小論は,問題の聖句が偽りであることを理由を上げて明確に説明しており,ニュートンの友人数人に小冊子のかたちで配られましたが,その後70年たつまで出版されませんでした。しかも出版されたのは原文に忠実なものではありません。
その間に発展して新たな力を得たのは原典批評学です。まずリチャード・シモンがこの聖句を取り上げ,次いでジョン・ミル博士は反論の材料を集めました。ミルはこの聖句を弁護する立場を捨てませんでしたが,トーマス・エムリンがミルの集めた反証を手に入れ,1717年に召集された英国議会両院に宛て,問題の語句の削除処置を求め,「削除することだけがこの語句に対する正当な処置である」と述べました。5 しかしユトレヒトのフレンチ教会マーチン牧師がこれにすぐさま反論し,その長大で巧みな回答は問題を一掃するかのように見えました。これに再度反論を試みたエムリンに対にしては,マーチンから第二の長い手紙が寄せられました。遠まわしな論議が多かったため問題の所在さえ不明になることもありましたが,多数の支持者を得たのはエムリンです。
1729年,英国ではダニエル・メイスの手になる,クリスチャン・ギリシャ語聖書のダイグロット版(二国語版)ができました。メイスは14頁に及ぶ注を設けて,ギリシャ語やラテン語の写本,古い翻訳,ギリシャ,ローマの初期文献など,問題の語句を含まぬものを列挙し,その結論としてこう述べました。「これだけの証拠をもってなお,聖ヨハネの書簡中の一節が虚偽であることを証明するに不十分だと言うなら,書簡中の他の語句の純正さを立証する証拠をどうして得られようか」。6 こののち,ヨセファスの翻訳で知られるウイリアム・ウイストンの訳(1745年)やジョン・ワースリーのもの(1770年)など,問題の語句を省略した翻訳が次々にできました。
1781年に,「ローマ帝国衰亡史」を著したエドワード・ギボンが,その時すでに歴史の車はひと回りしたと考えたなら,それは正しくありません。ギボンは彼特有の風刺をきかせて,この一節を「敬虔なる作りごと」と呼びました。しかしその後,もう一人の挑戦者が立ちました。聖公会の大執事ジョージ・トラビスです。彼はかなり極端な挿入句弁護を試みましたが,リチャード・ポーソン教授とハーバート・マーシュ主教の強力な反論を誘うだけに終り,挿入句の不当性はいよいよ明白になりました。
最後のとりでくずれる
ポーソンとマーシュののちにこれという進展はありませんでした。19世紀の学者の多くは,問題はすでに解決したものと見なしたからです。しかしなお,一つのとりでが残っていました。それはローマカトリック教会です。
1897年にもなって,「ヨハネの一節」の真実性を疑ってはならない,という法王布告が出されました。その一部は次の通りです。
「宗教裁判聖省事務局。ヨハネ第一書 5章7節の真実性に関して。(1897年1月12日,水曜日)
「聖なるローマ教会宗教裁判所において……次のような疑問が提出された。
「『この聖句(ヨハネ第一 5:7)の真実性を否定し,あるいは疑問視することは許されるか……』
「すべての事柄を極めて慎重に調査考量し,また,諮問官の見解をも採用した結果,前記の枢機卿台下は,『こたえは否定である』と発表した。前記の年月の15日,金曜日……宗教裁判所主席審査官は前記の議事の過程を法王レオ13世に正確に報告し,法王は,これら教父たちによる議決を受け入れ,かつ確認した……」。―Acta Sanctae Seolis, vol. 29. 1896-7.p. 637.
しかしレオ法王は,自分がつけ込まれたことを悟り,1902年聖句のいっそう詳細な研究を目的とする委員会を設け,ヨハネ第一書 5章7,8節を最初の仕事とするように指示しました。委員会の報告は以前の布告と逆の内容となったため採用されませんでしたが,法王は死ぬ時までこの問題を気にかけていました。そのうち,ローマカトリックの学者の中にも,法王布告を無視する者がでてきました。ボーグル博士は1920年に出版した自分のギリシャ語聖書から問題の語句を省略しています。他の人々はなお警戒的な態度をとりました。
1931年に出版された新約聖書のローマカトリック・ウエストミンスター訳は,そのヨハネ第一書 5章7,8節に脚注を付して,原本にはその部分の語句がぬけている事を示したのち,次のように述べています。「ローマ法王庁によってなんらかの処置がとられるまで,カトリックの編集者が忠実なる人々の使用のためになされる翻訳からこの語句を省くことは許されない」。8 しかし,1947年に1巻にまとめて再出版された同じ訳の中で,書き込みの言葉は除かれており,その編集者クースバート・テッティは,同じように挿入句を省略したイエズス会の学者A・マークのギリシャ語原本を参照しています。
それゆえ,1848年にJ・スコット・ポーター教授の述べた言葉は文字どうり実現しました。同教授はヨハネ第一書 5章7,8節に関する自分の見解をまとめたのち,「一般配布用の聖書を出版する人々が,広く知られた書き込みの言葉を聖書の一部としたことを恥とするような時がまもなく来るだろう」と書きました。9 近年,コデックス・シナイティカスなどの古写本が発見されて,問題の一節を霊感による神の言葉の一部とすべきでないことをいよいよ明らかにしました。
この記事の要約として,世に知られた原典批評学者F・H・A・スクリブナーの言葉をここに引用しましょう。「長年の論議を呼んだ問題の語句に対する我々の確信を表明するのになんのためらいも必要ない。これは聖ヨハネによって書かれたものではない。はじめ第8節の正統的で敬虔な解釈として欄外にあったものが,ラテン語原本の本文に書き移された。ラテン語原本から後期のギリシャ語写本2,3に移り,次いで印刷されたギリシャ語原本にもはいった。しかしそこは,本来その語句がはいるべきところではない」。10
こうして,「ヨハネの一節」の由来をふり返り,私たちが今日手にする聖書の正確さをあかす豊富な証拠を検討するなら,神の言葉に対する私たちの信仰がおのずと高まるのを覚えます。
参考文献
1 B・F・ウエストコット著「ヨハネの書簡」(The Epistles of John)第4版,1902年,202頁。
2 「N・ラルドネルの作品」(The Works of N. Lardner)3巻,68頁。
3 Corpus Scriptorum Ecclesiasticorum Latinorum,18巻,1889年,G・シェープス著,6頁。
4 O・T・ドビン著「ザ・コデックス・モンティフォーティアナス」,校合,1854年,9頁。
5 T・エムリン著「ヨハネ第一書 5章7節の正当性に関する十分な調査」(A Full Inquiry into the Original Authority of the Text,1 John 5:7)第2版,1717年,72頁。
6 「希英新約聖書」(The New Testament in Greek and English)1729年,第2巻,934頁。
7 E・ギボン著「ローマ帝国衰亡史」(The Decline and Fall of the Roman Empire)37章,チャンドス版,第2巻,526頁。
8 「ウエストミンスター訳聖書」(The Westminster Version of the Sacred Scriptures)第4巻,146頁。
9 J・スコット・ポーター著「原典批評の原則」(Principles of Textual Criticism)1848年,510頁。
10 F・H・A・スクリプナー著「新約聖書原典批評入門」(A Plain Introduction to the Criticism of the New Testament)第4版,1894年,第2巻,407頁。
-
-
火のない地獄ものみの塔 1964 | 6月15日
-
-
火のない地獄
何世紀もの間キリスト教国の宗教指導者は,罪人が火の地獄におちて耐えられない苦しみを受けると説いてきました。説教の中でも宗教の本の中でも,彼らは想像をほしいまゝにして,いわゆる地獄におちた人が受ける永却の苦しみなるものを描写してきました。しかしそれは火の地獄を目撃したからではなく,文字に書かれた神のことばの中に火の地獄の描写があるからではありません。宗派によっては火の地獄をなお教えていますが,教職者のあいだで次第に優勢になりつゝあるのは,地獄が火の燃える熱い場所ではなく火のない場所であるという考えです。
地獄に対する今日の神学者の見解について,ニューヨーク,第一長老派教会のジョン・メリン牧師は次のように述べています。「今たいていの神学者は,神からの分離を地獄と定義している。それは現世における経験であり,同時に死後にも継続される過程である。人々は火の燃える地獄という考えからますます離れつゝある」。英国聖公会神学校のドーレイ牧師は次のように述べました,「地獄を火の燃える責苦の場所と考えた中世の思想は何世代ものあいだ人々の心の中にあった。しかしこの考えは正しくない」。火の燃える地獄という考えは正しくないばかりか,聖書とも合っていません。地獄を「現世における経験」としたメリンの言葉は一般の考えを表わしているにしても,聖書の観点から見れば決して正しいものではありません。人々は地獄について神のことばの教えることを知らねばなりません。
聖書の中に地獄(日本語聖書では黄泉)や苦しみや火のことを述べた句はありますが,悔い改めない罪人が火の地獄に永久に閉ぢ込められ,罪の罰を受けて苦しむと述べた句はありません。罪に対する罰は苦しみではなく,死であるというのが聖書の教えです。(ロマ 6:23)金持ちと貧乏人ラザロのことを述べたルカ伝 16章はよく引きあいに出されます。この聖句は地獄あるいは黄泉,燃える焰,苦しみについて述べていますが,これはたとえ話であって現世あるいは来世の経験を述べたものではありません。その事はこれが他のたとえ話と同様,「ある金持ち」という表現で始まっていることからもわかります。ルカ伝 16章19節を同じ章の1節またルカ伝 19章12節とくらべて下さい。
-