『これらのことを保ち続けなさい』
『自分自身と自分の教えに絶えず注意を払いなさい。これらのことを保ち続けなさい。これをすることによつて,自分自身を救うのみならず,あなたの言葉を聴く人をも救うであろう。』― テモテ前 4:16,新世。
1 ただ一つの価値のある業は何ですか。イエスと使徒たちは,このことをどのように表明しましたか。
神の御心を行うことと,この道を行いつづけることは,唯だ一つの価値のある業です。イエス・キリストの時に,この師が価値のある業をしていたことは明白に示されました。彼は自分の持つ奉仕の特権に目ざめていました。彼はヱホバの御国の良いたよりを伝道していました。それは神の御心であると彼は知つていました。彼は,ヨルダン河でヨハネによつて洗礼を受けた時から死ぬ時にいたるまで,その仕事を行い続けました。彼は中止せずに伝道しました。熱心に教えました。心と体両方の病気の者を癒しました。彼は,自分の弟子になる多数の忠実なユダヤ人を見出しました。彼は12の使徒たちを自分の身許近くに保ち,毎日訓練を与えました。そして,御国の良いたよりを伝道するという神より与えられた仕事を行いつづける仕方を示しました。これらの忠実なユダヤ人たちは,メシヤを待ち望んでいて,いまやキリスト・イエスこそそのメシヤなるを知り彼と共に止まりました。
2,3 (イ)永遠の生命を得る為には,どんな良いことをせねばならぬかと尋ねた富める若者に対して,イエスはどのように答えましたか。(ロ)永遠の生命を得る為の真実の秘訣はどこにありましたか。なぜイエスは,「持ち物を売りなさい」とさとしましたか。
2 イエスがヱホバに献身していることを認めた他の人たちも多ぜいいました。一人の金持は特に,次のように語りました,『先生,永遠の生命を得るためには,どんな良いことをしたらいいでしようか。』(マタイ 19:16,新口)そのときから,何百万人という多くの人々が,それと同じ質問を尋ねて来たではありませんか。生きるということは,そのように自然の欲望なのです。人は死にたいとは欲しません。イエスは,より充実した豊かな生命を人々に与える力を持つと,しばしば表明いたしました。彼は病人を癒し,めくらの目を開き,死人を墓からよみがえすことすらいたしました。人々は永遠の生命を持ち得ると彼は語り,もしイエスに従つて彼の教え通りに生活するなら容易に得られるだろうと語りました。この富める人は,若い時から十のいましめを守つてきましたが,どうすればその望んでいた永遠の生命を得ることができますか。イエスは彼にこう告げられました,『もし命に入りたいと思うなら,いましめを守りなさい。』(マタイ 19:17,新口)『どのいましめですか』との問に対して,イエスは続けてこう言われました,『「殺すな,姦淫するな,盗むな,偽証を立てるな。父と母とを敬え。また自分を愛するように,あなたの隣人を愛せよ。」この青年はイエスに言つた,「それはみな守つてきました。ほかに何が足りないのでしよう。」イエスは彼に言われた,「もしあなたが完全になりたいと思うなら,帰つてあなたの持ち物を売り払い,貧しい人々に施しなさい。そうすれば,天に宝を持つようになろう。そして,私に従つてきなさい。」この言葉を聞いて,青年は悲しみながら立ち去つた。たくさんの資産を持つていたからである。』― マタイ 19:18-22,新口。
3 悲しい思いをしたこの富める人は,『あなたの持ち物を売り払い,貧しい人々に施しなさい。』と告げられました。生命を得る為に,なんという値を払わねばならないのでしよう! しかし,人の生命はそれだけの価値があるではありませんか。しかしながら,それ以上の事柄もあつたのです。神の御心をなす大いなる師が,『私に従つて来なさい』とつけ加えて言われるのを聞いたのです。それこそ,永遠の生命を得る為の真実の秘訣でした。先ず第一に,この世の煩い事に専心没頭するようなことがあつてはなりません。それは,あなたが何の重荷もなしにイエス・キリストの足跡に従つて歩き,天の御国の良いたよりを伝道し得る為です。もし良いたよりの伝道に専念するならば,この富める者のごとく沢山の資産について思いわずらう時間というものはありません。昔のその時でも,また今であつても,キリスト・イエスに正しく従う弟子たちは,この古い世の煩い事に専心没頭するようなことをしません。いまから1900年のむかし,その富める者はクリスチャンになるために自分の資産を処分してキリストに従うことが必要でした。それであるなら,いまキリスト・イエスに従つて御国の業をしたいと欲する人が現在の生活の思いわずらいから身を自由にしなければならぬことは,猶更いつそうに真実ではありませんか。キリストは今は地上に居らず,私たちに個人的な助言を与えません。しかし,ヱホバ神は彼の言葉と彼に忠実に従つた者たちの言葉を書き記すようにいたしました。それは,この組織制度の終りに臨んでいる私たちに訓戒を与えて,学ばせる為です。
4 キリストが盗人のごとく戻るとき,キリストは自分の弟子たちに何を期待いたしますか。弟子たちにとつてそれは何を意味しますか。
4 聖書の示すところによると,キリストは目に見えぬ様で再臨しました。そして,イエスが黙示録をヨハネに与えたとき,キリスト・イエスなる彼はハルマゲドンという全能の神の戦いのすこし前に,盗人のごとく来ると指摘しました。そのとき,クリスチャンと称する者たちは義務を為し行い目を覚まして警戒を怠らず,その御国の義務を見守るとイエスは期待しています。彼らがイエスの足跡に従つて歩み,そして『私に従つて来なさい』と富める者にすすめた行いを為していると,イエスは期待いたします。クリスチャンであることは全時間の仕事であつて,休暇の期間はなく宗教を変えるということもなく,しばらくの間中止するということもありません。人は真実にキリスト・イエスの足跡に従つて歩むとき,生活の商売に全時間を捧げるということをしません。クリスチャンは,自分を弟子に召された方をよろこばせたいと欲します。それは,キリストとその業に第一の注意を与えるという意味です。
5 (イ)使徒パウロは,キリストの奉仕に活潑な者たちの立場をどのように表わし示していますか。(ロ)パウロはどんな経験をすることにより兵士になる意味を認識しましたか。今日,私たちはその事柄をどのように見なすべきですか。
5 パウロはその事柄を明白に,また力強く記し,クリスチャンは兵士としてキリストの奉仕に召されていると語つています。すべてのクリスチャンは一つの事柄に専念しなければなりません。彼らは兵士として彼らを召した者を見つめ,そして従わねばならないのです。キリストに使われて,キリストに従つているのですから,彼らはただ一つの事だけをすることができます。『キリスト・イエスの良い兵卒として,私と苦しみを共にして欲しい。兵役に服している者は,日常生活の事に煩わされてはいない。ただ兵を募つた司令官を喜ばせようと努める。』(テモテ後 2:3,4,新口)キリスト・イエスの兵卒は,自分の関心事を分けず,また分けることができません。彼は,利己的な商売をしながら,同時に兵士になろうとしません。人が兵士としてやとわれるとき,それは彼の仕事となり,王の福祉を守るように任ぜられるときには,眠りにつきません。クリスチャンは自分に任命されたことを保ちつづけます。彼は自分の責任に目ざめています。以前にはタルソのサウロであつたパウロは,兵士になることの意味を知つていました。サウロがクリスチャンを迫害する為につかわされたとき,彼は任命の仕事を持つていて,それを果しました。彼は命令に従つたのです。彼が改宗してキリスト・イエスの弟子となり,パウロという名前を持つたとき,彼はクリスチャン軍隊内の正しい種類の兵士になろうと決意し,神より与えられた武具をつけ,兵士である為に生ずるいかなる試錬や困難にも耐え忍ぼうと決意しました。パウロの時代にクリスチャンになるために,忠実で目ざとい兵士になることが必要でした。それでは,今日でもまつたく同様なことが要求されているのです。イエスは富める者に向かつて,そのことを明白に述べました,『あなたの持ち物を売り払い,……私に従つて来なさい。』パウロもそのことを明白に示し,『兵役に服している者は,日常生活の事に煩わされてはいない』と語りました。それでは,今日自らクリスチャンと呼ぶ者は,その事柄をどのように見るべきですか。それと異つた見方をしてはなりません。彼は学んだ事柄を保ちつづけ,正直な弟子にならねばなりません。偽善者であつてはなりません。
今日,要求の変化はない
6 この世の生活の仕方とか宗教的な実践が変化したにもかかわらず,私たちの時代に対する神の要求については何が言えますか。残念なことに,キリスト教国には何が欠けていますか。
6 今日,クリスチャンは自分の奉仕の召に対して忠実であり,献身していなければなりません。丁度キリストや,使徒たちや,そして初期クリスチャンたちがそれぞれ自分の奉仕の召に対して忠実であり,献身していたのと同じでなければならないのです。今日のクリスチャンに対する要求に,すこしのちがいもありません。彼らは今でも目を覚まして義務に目をさましつづけ,自分の責任を果さなければなりません。たしかに,この時代はキリストの時代よりかなりの年月が経つており,実際のところ1900年も経つています。生活の仕方は変りました。人々の考えや哲学,そして人々の習慣は全くちがうものです。キリスト教国は,時勢と共に推移し,旧式になることを欲しません。今日の多数の牧師は現代主義者になつて聖書を捨て,ノアの物語りとかアダムとエバの創造は単なる神話であり,キリストが苦しみの杭の上で死んだことは救いに必要でないと言います。キリスト・イエスやキリストの弟子たちの持つていた質朴な信仰は,キリスト教国全部に亙つて欠けています。しかし,聖書は使徒の時代から変つてはいません。クリスチャンに対する神の御心は変つていません。ヱホバは変りません。彼の真理は永久に存続します! それで,今日のクリスチャンになるためには,『私に従う者になりなさい。』パウロはその一人でした。しかし富める者はその一人になることになげき悲しんで立ち去りました。パウロは,背教の起ることを語りました。彼は次のように述べています,『御霊は明らかに告げて言う。後の時になると,ある人々は,……信仰から離れ去るであろう。』(テモテ前 4:1,新口)今日,キリスト・イエスの足跡に従つて歩くことから離れ去ることは,一番多くなされているのです。当時のクリスチャンたちにパウロは次の言葉を告げることが重大なものであると見てとりました,『自分自身と自分の教えに絶えず注意を払いなさい。これらのことを保ち続けなきい。これをすることによつて,自分自身を救うのみならず,あなたの言葉を聴く人をも救うであろう。』これは,今日において猶更いつそう適用されるものです。クリスチャンと称する人で,キリストの教えを傍に押しのけて無視することのできる人はひとりもいません。聖書は神の言葉です。イエスは聖書を信じて聖書通りの生活をしました。イエスに従うと称する者は,みな自分自身とキリストの教えに絶えず注意を払わなければなりません。それは彼が奉仕の特権に目をさましていることのできる為です。
7 (イ)今はどんな肝要な音信を伝道すべき時ですか。この面に関して,キリスト教国はどのように失敗しましたか。(ロ)キリスト・イエスに従う真の弟子たちは,神の御国,その設立,そしてそれに関連する彼らの義務について,どのように感じますか。
7 イエスが天の御国のすばらしい音信を紹介してから1900年経つている今でも,その音信を宣べ伝えねばなりません。それは今でも人類に対する唯一つの希望です。イエスは次のように祈れと弟子たちに教えました,『御国が来ますように。みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように。』(マタイ 6:10,新口)キリスト教国はその言葉を唱え,歌い,そして時には朗読して祈りますが,その宗教家たちはそのことを信じません。もし信ずるならば,そのことを伝道するでしよう。キリスト・イエスの真実の弟子たち ― ヱホバの証者はキリストの真実の弟子と証明されています ― は,今でも人類唯一つの希望として神の御国の良いたよりを伝道しています。そして,彼らは心をこめ,思いをこめ,魂をこめ,かつ力をこめて,それを信じています。また,設立した神の御国が強力な天の軍勢をひきいてハルマゲドンをなす時について目をさまして警戒しています。クリスチャンであるヱホバの証者は,自分たちの御国伝道を守り行う責任を感じます。その御国伝道は異邦人の時の終りまでなされるのでなく,悪魔の制度のすべての国民が終る時までなされます。人類世界が,いまの時代の重要性を見出すか否かは,何の影響も及ぼしません。キリスト・イエスは御国に来ました。ヱホバは,キリストにより統治します。神の御国は支配しています! そして,キリスト教国の宗教家たちが彼の良いたよりを伝道していない理由は,彼らが眠つているからです。世の終りの近づいているという警告は,全世界にわたり,特にキリスト教国内で与えられています。私たちはこの組織制度の終りの日に住んでいます。そして自分の任命された仕事に忠実なヱホバの証者は神の御国の支配していること,および世の終りの近いことを主要な言語によつて世界に知らせています。キリスト教国は,私たちの住んでいる時代に関して無智の中に取り残されているのではありません。
8 (イ)キリスト・イエスの使徒たちの表明したどんな興味を,キリスト教国は示すのに失敗しましたか。(ロ)どのような仕方でこの古い世は終りますか。しかし,どんな業が先ず最初に為されるとイエスは言いましたか。
8 キリスト・イエスの使徒たちは,キリストが再び現われる時と,その時の世界の状勢に深い関心を持つていました。しかし,キリスト教国とその宗教指導者たちは,この事柄に興味を示しません。『イエスがオリブ山に坐つていると,弟子たちがひそかに彼のところに来て言つた,「お話しして下さい。これらのことは何時起るのですか。あなたの臨在とこの組織制度の終りの兆はどんなものですか。」』(マタイ 24:3,新世)イエスは,組織制度の全部が共に『終つて』行く時に,世界に存在する状態を明白に説明しました。それはすこしずつばらばらに終つて行くのでもなく,各区分ごとに終つて行くのでもなく,この結合した終りは『地の全面に住むすべての人にのぞむ』のです。イエスはこうも言われました,すなわち「その組織制度がことごとく終る」日には,『この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。』― マタイ 24:14,新口。
9 『苦難の初まり』を示すとイエスの言つたどんな事柄は,私たちの時代の中に成就しましたか。世の憎しみを受けているにもかかわらずヱホバの証者はどんな行いをいたしましたか。
9 イエスは綜合のしるしを与え,起るべき多くの事柄を示しました。すなわち民は民に反対し,国は国に反対すること,食糧の不足,あちらこちらに生ずる地震などです。これらの事柄はみな『苦しみの初まり』になつています。真実のクリスチャンに関しては,イエスは次のように語りました,『そのとき人々はあなた方を苦しみに合わせ,また殺すであろう。またあなた方は,私の名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。』(マタイ 24:9,新口)このことは,なんと真実だつたのでしよう! しかし,憎しみを受けたにもかかわらずヱホバの証者は警戒をして目をさまし,注意を払つていました。そして神の御国を伝道し,この終りの日に関してキリスト教国と人類のすべての世界に警告を与えました。この宣明をおそくすることをせず,また全き終りが来るまでおそくするようなことをしないでしよう。
10 黙示録 16章15節の適用される時は何時ですか。なぜあなたはそう答えますか。
10 この組織制度の全部が亡びてしまう全き終りの前に,ヱホバの証者は眠つていることを欲しません。彼らは,黙示録 16章15節(新世)のキリスト・イエスの言葉を認識しています,『私は盗人のごとく来る。裸のままで歩かないように,又その恥のところを見られないように,目ざめていて,その上衣を保つ者は幸福である。』クリスチャンは目を覚ましており,ハルマゲドンの戦いにおける全き終りまで良いたよりを是非とも伝道しなければなりません。1959年2月1日号の『ものみの塔』は,この聖句について明白かつ詳細な説明をなしており,この聖句が成就している時はハルマゲドンの戦いの直前であると明瞭に示しています。前後の文脈の示すごとく,かえるのごとく見え,竜の口から獣の口からそして偽りの予言者の口から出て来る三つの汚れた霊感の表現は,実際には『悪鬼の霊感した表現』で,多くのことを語ります。かくのごとく語りつづける彼らは『全世界の王たちのところに行き,……ヘブル語でハルマゲドンという所に,王たちを召集した。』この最終的な戦いの為にこの大きな集める業が最高潮に達するとき,キリスト・イエスは『盗人のごとく』来ます。そして,宮の制度内で見張りの義務についている者たちに対し大きな関心を示します。この聖句の適用される時はまた次のときです。すなわち,極めて悪いこの組織制度が『全能の神の大いなる日の戦争』における全き終りに集められる時です。諸国民がこのようにどんどん集められている間,ヱホバの集められた民,すなわち残れる者と他の羊は,キリスト・イエスの『見よ!』という言葉を聞きます。たしかに,彼は彼らの注意を引き,彼らは彼が次のように言うのを聞きます,『私は盗人のごとく来る。裸のままで歩かないように,又その恥のところを見られないように,目ざめていて,その上衣を保つ者は幸福である。』― 黙示 16:15,新世。
キリスト教国は眠つている
11 ヱホバの霊的な宮の内における奉仕に対して無関心な者たちには,何が生じますか。
11 ヱホバの霊的な宮の内で見張りという奉仕の特権と任命に対して無関心であり,眠つているのを見つけられることは,非常に悪いたいへんな事柄です。そのような者は,鞭打たれて,その衣服を剥ぎ取られ,人々にその恥を見られるのに値します。
12,13 最近に出版されたどんな言明文は,真実のクリスチャン証者たちの火のごとき熱心と目をさましている状態と対照して,キリスト教国がキリスト・イエスの臨在に対して眠りこけ,無関心であると示していますか。
12 ニュージャージー州のローマ・カトリック・ネワーク管区とパターソン教区の公式出版物である『提唱者』(英文)という新聞は,『眠れる汝よ,起きよ』という題をかかげて述べておりました。この記事から,キリスト教国の眠つていること,宗教家たちが時代のしるしに目ざめていないこと,またキリスト・イエスの臨在や良いたよりの伝道に目ざめていないことを知ることができます。しかし,この新聞は,しつかり目を開いていて,非常な熱心に満ちている群れのあることを認めています。彼らのあいだには,自己満足とか,無関心はありません。『提唱者』は次のように述べています。
我々が学校に行つて公教要理を研究したとき,カトリック教会には三つの区分のあることを学んだ。すなわち(1)勝利の教会,(2)苦難の教会,そして(3)軍役の教会である。第4番目の区分をつけ加えて,それを れる教会,又は満足し切つた教会と呼んでも良かろう。この群れを形成する人々は,実際には軍役の教会員であるべきだが,見たところその言葉の意味を忘れたようだ。彼らは転轍器のところで眠つており,どんなものにも気を向けないようである。……ヱホバの証者の熱狂的な物語は,ニューヨークでの最近の大会中,全世界の注目を惹いた。この群れの人々は宗教心の厚い者たちで,全世界に約80万人の成員を持つ。彼らの教理は不思議なもの奇妙なものだ。しかし,彼らは25万人を大会に集めた。かくも多ぜいの人を集めるのは,何によるのかたいていの人は理解できない。しかし,ともかく何かによつてこの途方もない大多数の出席者数が生じたのである。
彼らがたしかに持つているものは火のごとき熱心である。彼らの間には自己満足とか無関心はなく,またどんな犠牲も彼らを阻止することはできない。彼らの中の各人は,毎週12時間を働いて仲間の人間の改宗に努めると誓約する。
カトリック教徒のあいだにそれ程の熱心と忍耐があるなら,我々は地の表面を変えることができよう。有名な一カトリックの伝道士はかつてこう言つたことがある,『人間の標準,業務標準から判断すると,カトリック教会は非常な失敗である。20世紀の後でも人間種族の3分の2は今でも異教徒である。』― 1958年9月19日,「提唱者」(英文)
13 カトリック制度は,自分たちの眠つていることを認めています。彼らの非クリスチャンとしての裸の状態はばくろされています。彼らは神の御国に対して熱心でなく,またそれを伝道する為の努力をすこしも払つていないのです。それでは,新教徒についてはいかがですか。北ダコタ州の『リッチビレ・ブルティン』(英文)は,新聞紙上の求人広告欄で,次のように記していました,『ルーテル教会区の会員100名を失う。復活祭以来見えぬ。日曜日の朝,リッチビレのノース・ラモア教会かハースティング・ルーテル派教会に戻れ。質疑は一切なし,ボブ・ハリソン牧師』
14 キリスト教国の裸の状態は,どのようにばくろされましたか。そして,なぜ?
14 キリスト教国の代表者たちであるカトリックと新教徒制度にキリスト・イエスが訪問するとすれば,彼は何をするでしようか。彼は彼らの上衣を剥ぎ取つて,人々に恥のところを見させる為,裸かで歩かせるでしよう。しかし,このことは真のクリスチャンたちの目の前ですでに行われたのです。キリスト教国の裸の状態は,彼らにばくろされています。キリスト教国は仕事を怠慢に行つて人々の期待を裏切りました。キリスト教国は聖書を否定しました。キリスト教国は,天の御国は近づいたという聖書の主要な音信を教えて居らず,また宇宙の神,ヱホバという大いなる御名を崇めてもいません。しかし,キリスト教国についてはこれまでにしましよう。真のクリスチャンたちについてはいかがですか。
15 ルカ伝 21章34-36節に記録されているどんな強い訓戒の言葉を,キリストは自分の弟子たちに与えますか。
15 今はクリスチャンが手をゆるめて無関心になる時ではありません。たしかに私たちは,この組織制度の終りの日に住んでおります。そして,イエスが綜合のしるしを詳細に述べているルカ伝 21章では,イエスは御自分の弟子たちに極めて強い訓戒の言葉を与えています。もし読者が彼の弟子であると言われるなら,次の彼の言葉に耳を傾けなさい,『あなた方が放縦,泥酔や,世の煩いのために,心が鈍つているうちに思いがけないとき,その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように,よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから,これらの起ろうとしているすべての事からのがれて,人の子の前に立つことができるように,絶えず目をさまして祈つていなさい。』(ルカ 21:34-36,新口)ここにも又『よく注意していなさい』と述べられています。なぜですか。何が生じますか。人はこの世の心づかいや食べること,飲むこと,そして生活の心配などに,すぐ心がにぶつてしまいます。あるいは,新世訳の脚註の言うごとく,『生活についての心配懸念』で一杯になつてしまいます。
16 自分の弟子たちが生活の心づかいで心が鈍くなるのを避けるよう援助するため,イエスは更にどんな助言を与えましたか。私たちの注意を払わねばならぬ真実の重要な事柄とは何ですか。
16 イエスは,その時の自分の忠実な弟子たちに戒めを与え,生活の事柄について,つまり『何を食べようか,何を飲もうか,何を着ようかと自分のからだのこと』について思いわずらつてはならぬと訓しました。(マタイ 6:25,新口)彼らは『まず神の国と神の義とを求め』るべきです。(マタイ 6:33,新口)それこそ富める若者に告げた事柄ではありませんか。あなたを富ませたすべての事柄を振り捨てなさい。あなたに生計の資を得させたそれらのものを貧しい者に施しなさい。そして私に従つて来なさい。大切な事柄は,「先ず御国と神の義を求める」ことです。イエスが使徒たちに祈るように教えた祈りの中で,彼は『私たちの日ごとの食物を,今日もお与え下さい』と言いました。彼はそれ以上のものを求めませんでした。私たちは,敬虔と共に食物,衣服,そして住居に満足すべきです。それですから,食べ過ぎ,飲み過ぎ,そして生活の心配に没頭し過ぎてはなりません。なぜですか。もしこれらのものが生活上の重要な事柄,つまり富める者の生活の場合のごとく生活の主要な理由になるなら,キリスト・イエスの足跡を歩いて,彼に従う時間というものがなくなるからです。私たちの興味を持つているものが食べることや,飲むこと,そして生活の心づかいであるなら,そしてそれらのものを多く得る為に商売のことだけに専念没頭するなら,私たちはキリスト・イエスの兵士になり得ません。両者を一緒にして行くことはできません。
終りの時の期間中に目ざめている
17 現在のこの悪い世と共に滅びるのを避けるため,各人には何が要求されていますか。
17 イエスは,ルカ伝 21章の中でこの終りの日における生活を述べています。そして全き終りは突然に起るため,その日は罠のごとく私たちの上に速かに臨むと言つています。それから,何が生じますか。それは地の表面に住むすべての者の上に来ると,イエスは言いました。彼は例外を設けていません。使徒たち,そして勿論今日のクリスチャン達に対する彼の強いさとしの言葉は,次のようでした,『これらの起ろうとしているすべての事からのがれて,人の子の前に立つことができるように,絶えず目をさまして祈つていなさい。』たしかに,全能の神の大いなる日の戦いの際に,刑を受けずに済むのがれの道はあります。そののがれの道は,目をさましてクリスチャンとして生活し,神の前に祈りを捧げることです。そうするならば,悪魔の組織制度に一時に降りかかつて来るあらゆる困難や,災害からのがれることに成功するでしよう。それらは,政治制度,宗教制度,そして商業制度で成り立つ悪魔の組織制度を全く一掃し,この世界を支配する悪鬼共や,悪魔そのものをも底無い坑に投げ入れるでしよう。神の霊的な宮でクリスチャンとして警戒し,その場所で目ざめていることは,つまり人の子の前で是認を受けた立場を保つという意味です。彼は,現在の悪い世を滅ぼすハルマゲドンの戦いの際にあなた方を生き残らせ,神の正義の新しい世に入れられるでしよう。
18 なぜノアの日に世は滅びましたか。終りの時に住む人々の為にノアとその家族は,どんなすばらしい模範を残しましたか。
18 これは,世界の滅びる最初ではありません。それは以前のノアの時代にも起りました,『神が寛容をもつて待つておられ……その箱舟に乗り込み,水を経て救われたのは,わずかに八名だけであつた。』(ペテロ前 3:20,新口)ヱホバは,ノアの時代に住んでいた人々を滅ぼす正当な理由を持つていました。彼らは神にすこしの注意をも払わず,またその時の世の終りについてノアに伝道せしめた神の音信にも注意を払わなかつたのです。しかし,彼らは食べたり飲んだりして楽しく時を過し,御馳走を食べ,自分自身のことや生活の心配だけを考えていました。彼らは食べ過ぎや暴飲に没頭し切つていました。ハルマゲドンの戦い以前の私たちの時代は,ノアの時代のときと良く類似しているであろうと,イエスは私たちに告げています,『人の子の現れるのも,ちようどノアの時のようであろう。すなわち,洪水の出る前,ノアが箱舟にはいる日まで,人々は食い,飲み,めとり,とつぎなどしていた。そして洪水が襲つてきて,いつさいのものをさらつて行くまで,彼らは気がつかなかつた。人の子の現れるのも,そのようであろう。』(マタイ 24:37-39,新口)この洪水は,ノア時代の地の表面に住むすべての者の上に臨みました。同様なことは,ハルマゲドンの戦いのときにも生ずるでしよう。クリスチャンは眠つていることができません。「目ざめていて,その上衣を保つ者は幸福である」とイエスは言われました。ノアは,箱舟の建造ということに関しては眠つていませんでした。彼はその建造に忙しく働きました。それに加えて,彼は伝道しつづけました。ノアといつしよにいた3人の息子とその妻たち,およびノア自身の妻はみなノアと共に忙しく働きました。そして,洪水が来たときには彼らは用意が整つていて目をさましており,すべての動物と共に箱舟の中にいて,その時の世に生き残り清められた地に入ることができたのです。ノアと彼の家族は目を覚まして,働きをなし,そして雨が降つて来たときには用意が整つていました。目を覚ましていることは,報償のあることです! あなたは神の宣教の上衣を失いません。
19 第1世紀のクリスチャンたちは,エルサレムについてどんな警告を受けましたか。それで,彼らは,自分の目ざめている状態を示すどんな行いをいたしましたか。
19 もしノアが自分の世話に委ねられた事柄を保たなかつたなら,彼は自分自身を救うこともできなかつたでしようし,自分の愛する他の者たちをも救わなかつたでしよう。現在為し得るただ一つの賢明な事柄は,目を覚ましつづけ,私たちに与えられる責任を良く果すということです。丁度,エルサレムの滅びる直前,初期クリスチャンたちの為したごとくすることです。(西暦)70年にエルサレムの滅びた時よりも幾年も昔に,クリスチャンたちはイエスの与えた予言の言葉により,そのことの警告を受けていました。『エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば,そのときは,その滅亡が近づいたとさとりなさい。そのとき,ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は,そこから出て行くがよい。また,いなかにいる者は市内に入つてはいけない。それは,聖書に記されたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ。』(ルカ 21:22,新口)五旬節<ペンテコスト>の日から間もなくして,多くの人々は真理の知識を得てヱホバの奉仕に献身し,そして洗礼を受けました。実際のところ,1日の中に3000人は洗礼を受けました。エルサレム内にはたくさんの集会所があつたにちがいありません。神の民はその場所に集まつて互いに神の言葉を研究し,伝道活動を準備しました。しかし,彼らが聖書を研究している時でも,彼らはいつも見張りをなし,エルサレムの滅びについてキリスト・イエスの予言した危険な状態について目を覚ましていました。それですから,66年にローマの軍隊がエルサレムを囲んだとき,滅びは間近いものと彼らは知つたにちがいありません。これらの軍隊がちよつとの間撤退したとき,エルサレムにいたクリスチャンはみな都の門から出て山の方に逃げ,ユダヤの山を越えてヨルダンの谷を下り,河を渡つて安全な山々であるギレアデに行きました。警告を受けるときに,なぜ滅びの起る場所にとどまるのですか。目を覚まして義務につかねばならぬこの危急の時に,なぜ眠つているのですか。それらの初期のクリスチャンたちは,自分たちの責任に目ざめていました。彼らはエルサレムの滅亡後でも,御国の良いたよりを伝道しつづけ得る為に,自分たちの生命を保ちつづけようと欲しました。彼らは生命を保つたのです。
20 霊的に目ざめていることを示すどんな事柄は,今日のヱホバの証者について真実であると言えますか。
20 今日,キリスト教国は上衣を着ていないため,真のクリスチャンには裸の状態をあらわに示しています。これは,奉仕というクリスチャンの特権に眠りこんでしまつたからです。しかし,ヱホバの証者は全世界にわたつて神の御国を伝道しつづけ,神の御心に注意を払いつづけます。ヱホバの聖所内に来て崇拝を捧げる者たちが清い者であるよう彼らは注意を払います。丁度,夜番に当つた見張りがヱホバの宮を保護して,汚れたものを一切内に入れず,宮を汚すとか,宮のものを盗ませなかつたことと同じです。この終りの日でも,御国の事柄は『忠実にして慧い奴隷』級に委ねられており,そして今では,あらゆる国民,種族,言語から『他の羊』の『大いなる群衆』が来て彼らに加わつています。これらの者たちも,地の極にまで伝道することにより御国の事柄を守るという特権を持つています。現在70万人以上を越えるこれらの御国奉仕者の大いなる群れは,食べ過ぎとか飲み過ぎとか,またはこの生活の煩い事で心がにぶくなつていません。彼らは次のことに目ざめています。すなわちキリスト・イエスはハルマゲドンの時に盗人のごとく突然,急に来るということ,そしてこの滅びが地に来るとき,それは地の表面に住むすべての者に影響を及ぼすということです。それで,彼らは目を覚まし,人の子の前に立場を保ちます。そして,御国の事柄を守り,宣教の衣服を着用し,自分たちの責任に対して認識を持つていると示します。これらの衣服を持つことにより,彼らはヱホバ神の恵みを受けており,そして聖所内でヱホバの聖なる奉仕をしていると証明します。