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エホバへの奉仕における満足ものみの塔 1963 | 2月15日
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から喜びと励ましを受けました。フランスの警察は私たちに好意的でしたから,私たちのうちで,ゲシュタポに逮捕された者はわずかしかいませんでした。
激烈な戦争が再びフランス全土をのみつくし,爆撃によって大きな破壊が行なわれました。わざはやはり禁止されていましたが,いまはもっと自由に,もっと効果的に活動できるようになりました。私は全時間を神の御国の事柄にささげることができるように,それまでもっていた世俗の仕事を放棄しました。
戦争が終わると直ちに私は,もう2人の兄弟に援助されて,禁止を解除してもらうための必要な手続を取りました。そして1947年8月31日,ものみの塔協会と私たちのクリスチャン活動は,政府によって再び法的に認められるところとなりました。私たちはまた,押収された財産を,裁判所の命令で返却させることにも成功しました。それから,協会長の指示に従いパリで家を一軒購入し,それが事務所とベテルの家になりました。
エホバは私たちの忍耐に対し,ゆたかに報いてくださいました。戦争がはじまった頃,全フランスには800人の伝道者がいました。しかし,禁止令が解除されたとき私たちは2800人になっていました。自由に集まれるようになってからあとの数年間に私たちが刈り取ったものの多くは,私たちが戦争中にまいた種の実でありました。御国奉仕者の数は増加をつづけて,1951年には7136名となりました。
フランスにおける伝道のわざはその後も発展しつづけ,現在では,良いおとずれを伝える奉仕者の数は1万6000名を突破しています。私たちは,印刷工場と支部の働き人たちの家庭がある6階建の新しい立派な建物をもっています。私はいま神の御国への奉仕において与えられた多くの特権を喜びをもって回顧しながら,1920年に,「映画 ― 劇」がストラスブールにきたことに心から感謝しています。この年月の間私は若くはなりませんでした。そして,戦争中にとりつかれた病気にいくらか体力を奪われましたが,それでもエホバの喜びは,私に力と深い満足を与えつづけています。―ネヘミヤ 8:10。(アンリ・ゲイガー兄弟は,1962年8月29日に,フランスのむすこの家で死亡し,その忠実な地上の生涯を終えました)
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「全聖句中の1000分の1」ものみの塔 1963 | 2月15日
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「全聖句中の1000分の1」
クリスチャン・ギリシャ語聖書の写本相互の間にはかなりのちがいがあると一般に言われています。それで本質的なちがい,すなわち実際に問題となるような相違はどのくらいあるのだろうかという事がときおり,疑問とされています。この点についてウエストコットとホートの二人が「新約聖書の序論」と題して述べている事は注目に価します。
「新約聖書中に使用されている莫大な数に上る言葉については…問題になるような相違,疑問となるような点はない。…すべての学者たちによってなんら疑問もなく認められている言葉は非常に多く,大ざっぱにみつもっても全体の8分の7以上である。したがって残りの8分の1が,しかもそれは順番の違いなどささいな相違が大部分であるが,論議の対象になっているのである。本版中私たちが従った原則が正しいものとすれば,(そしてそれは正しい方法として一般に認められている原則であるが)論議の対象になるような点はきわめてすくなくなる。それで,つづりの相違などを別にすれば,一つの言葉について二,三通りの読み方があってどちらか判断しかねる場合には独断的な判断を避けるという原則に従っても,なお疑問として残る言葉は新約聖書全体の60分の1になる。
「この計算の場合には,比較的とるにたりない違いの占める割合は先の場合よりはるかに大きい。それで,のこりの相違のうち実質的なちがいと言えるようなものはきわめてすくなく,全聖句中の1000分の1にも足りないだろう。写本相互の誤差を過大視する傾きがあって新約聖書に対する信用そのものまで低めるきらいがあるので,本文中の各部に使用された言葉によってやがては確証される事ではあるが,新約聖書に対しては聖句批評家の労をわずらわす必要が如何にすくないかを前以って理解していただくためにこのような序文を記したのである」。そうです,クリスチャン・ギリシャ語聖書中に使用されている数多くの言葉のうちわずかに1000分の1に足りない部分が,正しい読み方に関して疑問になっているにすぎません。
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神,考え,知恵ものみの塔 1963 | 2月15日
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神,考え,知恵
◆ 「エホバをおそるゝ人は知識の本なり」という箴言 1章7節の言葉について説明し,R・H・ホートンは自著「ザ・エクスポジターズ・バイブル」の中で次のように述べました。「神を認識することなくしては,真の知識も真の知恵も得られない。これは,聖書の中にときおり見られる,一見したところ独善的な教義と思われても,探求すれば探求するほど,その真実さを深める論点の一つである。今日私たちは無神論を吹聴する哲学と対決している。聖書に従えば,無神を唱える哲学は真実の哲学ではなく,単なる愚行にすぎない。『愚なるものは心のうちに神なしといへり』。
◆ 「神を精神的,社会的,そして政治的な進歩をはゞむものとみなして,神に関する概念そのものから完全に脱脚することを大きな使命と考える思想家は多い。しかし,聖書が述べるところは,神に関する概念を一切除去すれば,知識をとり入れるためのよりどころを失うことになり,秩序だった系統的な思考は不可能になるという事である。ここに両論互いに鋭く対立する。
◆ 「それでもし,我々自身もその一部を構成している宇宙は神の思考の所産であるとすれば,すなわち,宇宙は神のみわざ,神の活動の表われ,その広大な計画が徐々に展開されてゆくところとするなら,その思考の過程から根本となる神に関する概念を除くものは,宇宙を理解しようとどんなに努めても必ず失敗に終わる事は明らかである。一枚の絵を通して画家がなにかを表現しようとする意図を持っていた事を認めず,また,それを描いた画家そのものの存在をも認めないなら,その絵を理解しようとどんなに努力しても全て無駄になるのと同じである。
◆ 「しかし,もし宇宙が神の仕事,神の意志の表明ではないとするなら,すなわち,宇宙は,意識すべき目的をなんら抱かぬゆえに目的などなにも持たない,理性のない,いわば盲目的な力の作用の結果にすぎないとするなら,そして,長年にわたってあてどなく行なわれてきた進化の所産なる私たち人間が,かつて物事を考え得た最初の生物であり,今日全宇宙にあって思考する唯一の生物であるとするなら,当然の帰結として,盲目なるべき宇宙には存在に対する論理的な真の知識はあり得ず,愚かなるべき万物にはなんら思考も知恵も見出し得ぬ事になる。道理に従って物事を考えるならだれでもこの事実に気付くはずであり,これこそ箴言の言葉が指摘する所である。しかしこれは,神を認めなければ,なにも知識は得られないと言っているのではない。実験や観察の結果によって学ぶ事実はみな私たちの知識となる。しかしそれが思考,あるいは,知恵になるわけではない。神を認めないならば,たとえ知識は得たとしても,それを説明し,また,推論する方法がない。神を認めなければ,私たちの知識は完全なもの,知恵と呼ぶにふさわしいものとは決してならないと言っているのである。
◆ 「問題を別の言い方で説明すれば,理性ある心は,宇宙を思考の所産としてのみ理解できる。宇宙が思考の所産でないとすれば,理性ある心には決して理解できるものとはならず,それゆえ,真の意味で知識の対象とはならない。宇宙が思考の所産である事を否定するのは,知恵の存在を否定する事である。したがって,知識は神を知ることから始まるという言葉は独断説ではなく,論理にもとづく真理である」。
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神の目的とエホバの証者(その56)ものみの塔 1963 | 2月15日
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神の目的とエホバの証者(その56)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第34章 御国支配の40年を終えて50年目を迎える
ロイス: 今まで3ヵ月のあいだ,話していただいた事は思いもかけないほど,重大な出来事ばかりでした。実はあの最初の嵐の晩,マリアとあなたがいらした時,私は懐疑的でした。もちろん世界の情勢が一向によくならず,私の子供の時分とくらべて世の中が変ったことは知っていましたが,実際の原因と結果をつきとめるほど,この問題を真剣に考えたことはありません。今度のお話を聞いて考えをあらたにしました。
ジョン: それはよかったですね。というのは,エホバの証者の現代歴史のうち今晩の話は1954年と1955年を中心にしているわけですが,ここで私たちは現代史上,最も重大な出来である神の御国の誕生に注意を向けるからです。イエス・キリストが御父の右にあって王となり,支配する「神の国」は,1954年の10月1日頃,敵の只中における支配の40年目を終えました。1914年,第一次世界大戦の最中に支配を始めた神の国は,第二次大戦後,御国に敵対してきた東西両陣営の「冷戦」のさなかに40年目を終えました。神の目的の時と季を知るエホバの証者は,歴史上の出来事の発生に周期性を認めて1954年に関し,不吉な預言をした一部の宗教家に加わるとなく,御国の40年目を迎えました。エホバの証者は御国奉仕にいっそう働くことを計画しつつ,1954年を迎えたのです。その年の年鑑は次のように述べています,
エホバの御国の40年目を迎えたいま,手をゆるめることができるだろうか。そうではない。むしろ今を去る1900年以上の昔,イエスが杭につけられたことを思い起こすべきである。イエスは宗教家と政治家との陰謀によって苦しめられ,殺された。それはイエスの弟子たちにとって打撃であったに相違ない。この耳目をひく出来事が起きたのは西暦33年であった。イエスの弟子たちにとって事態は暗黒であった。彼らはそれよりも前,イエスによって伝道のわざに遣わされたのである。しかし時を経て五旬節の後,弟子たちはひるむことなく家から家に伝道をつゞけた。さてこの組織制度の終りの時にあたり,今まで何年にもわたって良いたよりを伝道してきた我々は,手をゆるめるべきだろうか。活動をやめて引退すべきであろうか。そうすることはできない。1914年,1918年,1931年,あるいは以前のどの時にまして,いま我々は御国をはっきりと認めることができる。我々は御国の力を感じ,その働きを見ている。ゆえにイエスの使徒たちと同じく,我々はエホバ神の栄光ある御国の音信を宣明し,教えつゞけなければならぬ。前途には大きなわざがある。新世社会はこれをなし遂げるであろう。a
1954年3月,アメリカが太平洋で新型の水爆を実験した時にも,エホバの証者は将来に対する恐れを抱きませんでした。心を騒がせることなく,彼らは更に多くの奉仕者を野外に送り出して設立された神の御国にいっそう大きな証を立てました。その年の3月,アメリカでは15万4367人の奉仕者が伝道活動を報告し,b翌4月にはこの最高数を更新する16万9015人が報告しました。c 他の国においても増加が見られ,1954奉仕年度の終わる8月末には全世界で58万498人の伝道者という最高数に達しました。これは前年にくらべ,一躍6万516人の増加です。d
移り変わる時を証しする
キリストの治める神の国のみが永続する平和の時代をもたらすとの証拠が全地にわたってますます明らかになるにつれ,万国の願わしい者が新世社会に集まり,神の目的の中に位置を占めるようになりました。エホバ神とその御約束に対する信仰のゆえに,彼らはそうすることを選んだのです。この世の「知者」は,このような信仰を持っていません。これら「賢い」人の多くは,時のしるしを見ていますが,その意義を理解していません。1955年3月1日号「ものみの塔」は「終りの時」と題する記事の中で次のことを述べています。
哲学者,科学者,賢人,そして歴史家というような,この世の「知者」の多くが,1914年以来に非常に変化が生じていると目覚く認めているのは,興味あるものです。哲学者バートランド・ラッセルは,そう古い昔ではありませんが,こう言いました。「1914年以来,世界は災難にむかって酩酊してよろめいている。」1945年3月30日付ワシントン・タイムズ ― ヘラルドの社説は,こう述べていました。「歴史において,全く『正常な』後の年は,第一次大戦の始まる前年,1913年であった。」原子爆弾の世界の指導的製造者の一人,ハロルド・シー・ウレイ博士は,次のように言いました。「我々は1914年以来,平和な世界を有してはいない。」(1951年12月9日,クリーブランド・プレイン・ディーラー)1954年8月1日,ピッツバーグ,サンテレグラムの社説記者は,こう述べました。「40年前に,世界は『黄金時代』から,血なまぐさい戦争の特色をもつ火山時代へと,一夜にして進軍した。」
1954年8月7日の日付であるカナダ・アルベルタのエドモントン日報の社説は,それ以上にこう説明しています。「20世紀の歴史が書かれる時に,戦争が欧州で一般普通になったあの日,1914年8月4日は,第二次世界戦争の勃発の日や,最初の原子爆弾の投下の日よりも,大きく見えるようである。その8月の日は,歴史の分割線であったと,我々は認め始めている。平和,進歩,そし安全の時代が終って,戦争と革命の時代が始まった。」コロムビア大学のバーナード単科大学,歴史学の準教授は,これと同じ観察をなし,1951年7月号の「科学日報」の中で,こう時きました,「我々の時代で転換点をなす年は,広島の年ではなくして全く1914年である。いまになってこそ我々は判るのであるが将来が第一次世界大戦以来,我々は混乱した過渡期に入ったのである。しかして,我々はその只中にいてよろめき,もがいているのである。」
さて1954年8月1日号のニューヨーク・タイムズ
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