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「わたしたちの神の奉仕者」は重要な回復の業を始めるものみの塔 1978 | 10月1日
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「わたしたちの神の奉仕者」は重要な回復の業を始める
「そしてよそ人たちが実際に立ち,あなたがた民の羊の群れを牧し,異国人たちはあなたがたの農夫また園丁となるであろう。そしてあなたがたは,エホバの祭司と呼ばれ,わたしたちの神の奉仕者であると言われるであろう」― イザヤ 61:5,6,新。
1 国政にあずかる大臣たちは,何をするために今日大きな努力を払っていますか。どんな気持ちでそうしていますか。
国政にあずかる大臣たちは,第一次世界大戦によって必要となった,大がかりな再建の仕事に参与しました。しかし彼らが復興にあずかったものの大部分は,1939年から1945年までつづいた,はるかに悲惨な戦争によって再び破壊されてしまいました。再建の仕事が,しかも前よりはるかに大規模なものが,もう一度必要になりました。今日では公僕は,事物が荒廃状態に陥るのを防ぐために骨折っています。諸政府の内閣は難問をかかえています。
2,3 (イ)第二次世界大戦があったにもかかわらず,別のどんな種類のより重要な回復の業が進展しましたか。(ロ)そのことはどのような叙述的な言葉でイザヤ 61章4-6節の中で予告されていましたか。
2 しかし,もっと重要な別の種類の復興作業が,戦後の年の1919年に始まりました。第二次世界大戦が破壊をほしいままにしていたにもかかわらず,その業は断固継続され,何ものもそれを制止することはできませんでした。それは,人間の政府の諸省にないある力に支援された,霊的種類の回復の業でした。ローマ 13章4節に記されているところに従い,この世の上にある権威が神の公僕として,クリスチャンの益のためにさえ奉仕するのは事実です。しかし霊的種類の回復の業を開拓した人々は,神の上級の公僕です。その奉仕者たちが開拓した業は,神の霊感を受けた預言者イザヤによって次のように予告されていました。
3 「また彼らは久しく荒れ廃れた場所を必ず再建し,昔に荒廃した場所をも興すであろう。また,荒れ廃れた都市,代々にわたり荒廃している場所を必ず新しくするであろう。そしてよそ人たちが実際に立ち,あなたがた民の羊の群れを牧し,異国人たちはあなたがたの農夫また園丁となるであろう。そしてあなたがたは,エホバの祭司と呼ばれ,わたしたちの神の奉仕者であると言われるであろう。諸国民の資産をあなたがた民は食べ(るであろう)」― イザヤ 61:4-6,新。
4 どんな変化の時期にイザヤの預言は実現しましたか。イエス・キリストはどこでどのようにこのことをお示しになりましたか。
4 一世紀における回復の業を行なったイエス・キリストは,このイザヤの預言が実現し始める時をお示しになりました。その時とは,幾世紀もの古い歴史を持つ国民が衰微し,新しいより良い国民が生み出される時でした。その新しい国民は,イエス・キリストの弟子たち,神の霊によって生み出された人々で構成されます。その国民は霊的イスラエルとなります。しかしイエス・キリストは,先に引用したイザヤの預言の成就する時をどのようにお示しになったでしょうか。それはイエスがこの預言につながる言葉から引用し,その言葉を自分に適用されたときでした。それは西暦30年の過ぎ越しの後で,イエスはご自分の郷里ナザレの町の会堂に来ておられました。イエスは読むためにお立ちになりました。そしてイザヤの預言の巻き物の,現在61章として区分されている部分を開き,少なくとも1節と2節になっている部分を読み,それから聴衆に向かって,「あなたがたがいま聞いたこの聖句は,きょう成就しています」と言われました。―ルカ 4:16-21。
5,6 (イ)ギリシャ語を書いた歴史家ルカは,イエスのイザヤ書からの引用をどの翻訳に従って読むように書きましたか。(ロ)原語のヘブライ語本文では,イザヤ 61章1-3節はどのようになっていますか。
5 この出来事を記録した歴史家のルカは,イザヤの預言のイエスが引用された部分を,セプトゥアギンタ訳として知られているギリシャ語訳に従って読ませるようにしています。しかし,パレスチナのユダヤ人であったイエスが読まれたものにちがいない,原語のヘブライ語テキストの中ではその預言はどのように書かれているでしょうか。それは次の通りです。
6 「主権者なる主エホバの霊がわたしの上にある。穏和な者たちに良いたよりを告げるようエホバがわたしに油そそがれたがためである。心の砕けた者に包帯をかけ,捕らわれ人たちに自由を,囚人たちにも目が広く開かれることをふれ告げるため,エホバの側の善意の年とわたしたちの神の側の報復の日をふれ告げるため,嘆き悲しむすべての者たちを慰めるため,シオンについて嘆き悲しんでいる者たちに割り当て,彼らに灰の代わりに頭飾りを,悲しみの代わりに歓喜の油を,気落ちした霊の代わりに賛美のマントを与えるために彼はわたしを遣わされた。そして彼らは必ず義の大木,エホバの植えられたものと呼ばれる。彼が美しくされるためである」― イザヤ 61:1-3,新。
7 そのあと回復の業に関するどんな言葉がつづいていますか。
7 そのあと復興の業に関する言葉がつづきます。「そして彼らは久しく荒れ廃れた場所を必ず再建し,昔に荒廃した場所をも興すであろう。また,荒れ廃れた都市,代々にわたり荒廃している場所を必ず新しくするであろう」― イザヤ 61:4,新。
8 その預言の成就するときには,感情の面から言ってどんな人々がいますか。その人々に注意を向けることはなぜ急を要しますか。
8 イザヤの預言が成就するときには,「穏和な者たち」,「心の砕けた者」,「捕らわれ人たち」,また「囚人たち」や「シオンについて嘆き悲しんでいる者たち」がいることに注目しましょう。これらの人は正しい世話を受けることを緊急に必要としていました。そのための機は熟しました。なぜなら,それは「エホバの側の善意の年」と呼ばれた期間だったからです。「主権者なる主エホバの霊」によって油そそがれた者の登場が,エホバの善意の年を開始しました。その象徴的な「年」に次いで「わたしたちの神の側の報復の日」が訪れます。そのために,救出と自由をふれ告げる,霊をそそがれた者の業は確かに急を要するものでした。
9 イエスはナザレの聴衆にどんな変化を発表されましたか。彼らは「良いたより」を受け入れるほど「穏和」でなかったことを,どのように示しましたか。
9 イエスは地上での仕事を変えておられました。30歳になるまでは,イエスはガリラヤのナザレに住む大工でした。ナザレにはイエスがイザヤの預言の意味深い言葉を読まれた会堂がありました。イエスはイザヤ書 61章1,2節を読み終えた時に,ナザレ人の聴衆に対して職業を変えたことを発表し,「あなたがたがいま聞いたこの聖句は,きょう成就しています」と言われました。それからイエスは,以前大工だったような者にはとても話せない,と同郷の人々が考えた聖書の話をしてその事実を実証されました。彼らはイエスが医師になったと聞いていました。そこでイエスに,自分の「郷里」で,自分の町の町民をいやすことによって『自分をいやせ』と言いました。イエスは聖書にある事柄を例にしてご自分がそれをしない理由を説明されました。それで人々は大変きげんを損ね,イエスを殺そうとしました。彼らは自分たちが「良いたより」を受け入れるほど「穏和」な者でないことを強力に証明しました。―ルカ 4:21-30。
10 どんなときにイエスは聖霊で油そそがれましたか。
10 故郷の町でそのような扱いを受けたにもかかわらずイエスは,「主権者なる主エホバの霊」で油そそがれた目的をどんどん実行されました。西暦29年の秋にはナザレを去ってヨルダン川に行き,祭司ゼカリヤの息子ヨハネによりバプテスマをお受けになりました。イエスがバプテスマの水から上がられた直後,バプテストのヨハネは聖霊がハトのさまで現われてイエスの上に下るのを見ました。また同時に天からエホバの声があって,「これはわたしの子,わたしの愛する者であり,この者をわたしは是認した」と言うのを聞きました。(マタイ 3:13-17。ルカ 3:21,22。ヨハネ 1:29-34)イエスはその同じ霊に促されてユダの荒野に退かれ,40日間そこにおられました。
11 ナザレの会堂で話をされたとき,なぜイエスは依然として油そそぎの霊を有しておられましたか。
11 断食とみ父エホバとの親交の40日が過ぎたあと,悪魔サタンはイエスの前に三つの誘惑を置きました。もしイエスがそれらの誘惑に屈しておられたなら,油そそぎの霊を失っておられたことでしょう。しかし誘惑を退けることによって霊的油そそぎを保持されました。したがってイエスは,ナザレの会堂で話をされたとき,依然としてそれを有しておられました。―マタイ 4:1-13。ルカ 4:1-21。
12 西暦前537年以後ユダヤ人の地に起きたことを考えるとき,イエスが油そそがれた時のユダヤ人についてどんな疑問が生じますか。
12 イエスは西暦29年に聖霊で油そそがれましたが,それが起きたのは,イエスの属する民族が,西暦前537年に生じたバビロンへの捕らわれから解放され,荒廃した郷土ユダ州に帰還してから565年後のことでした。彼らはエルサレムを含め,その地の『荒廃した都市を新しく』し,エルサレムの神殿を再建していました。先に70年間荒れるままになっていた『荒廃した場所を興し』,幾分パラダイスを思わせるような所に変えていました。年に三度行なわれるユダヤ人の祝祭の時には,シオンすなわちエルサレムは幾百万もの崇拝者たちで満ちあふれました。ではなぜイエスが油そそがれたときに,心を砕かれたユダヤ人すなわちイスラエル人がいたのでしょうか。なぜ「捕らわれ人たち」がいたのでしょうか。なぜ「囚人たち」が,なぜ「シオンについて嘆き悲しんでいる者たち」がいたのですか。なぜ「良いたより」を必要とする貧しい,謙虚な,そして「穏和」な人たちがいたのですか。西暦29年になぜそういう人々がいたのでしょうか。
「良いたより」,解放および慰めを必要としている人々
13 「囚人」であったユダヤ人はバビロンから釈放されて帰郷したのち,どんなものに束縛されることになりましたか。
13 それは,イスラエル民族が陥っていた霊的状態のためでした。『囚人たちに帰途を開かない』支配者たちが治めてきたバビロニア帝国の上に,神が「報復の日」をもたらしたのは事実です。(イザヤ 14:17。エレミヤ 50:15,28; 51:6,11,36)「囚人」のユダヤ人は,その後郷土に帰還しましたが,文字通りの偶像をおがむ偶像崇拝のとりこにはなりませんでした。しかしそれよりもさらに大きなもの,すなわちユダヤ教という宗教制度に束縛されることになりました。それは,人間の教えや言い伝え,エホバ神の律法と戒めを無効にしたものに支配された制度でした。公認の書士とパリサイ人は,この宗教制度の中で顕著な存在になりました。彼らは「知識の鍵」を取り去ることによって人々を真理に盲目にし,彼らが神の王国に入るのを妨げ,自分たちは触れもしない重い荷を一般の人々にくくりつけました。―ルカ 11:52。
14 イエスの時代に,ユダヤ人の残りの者が「シオンについて嘆き悲しむ」理由があったのはどうしてですか。
14 そのうえにそれらユダヤ教指導者たちは,盲目の案内人のように,最後には民族の破滅というみぞに落ち込む方向に盲目のユダヤ人を導きました。彼らはシオンすなわちエルサレムを巧みにあやつって,真のメシアであるイエスを退けさせ,偽のキリストであるかのように杭につけて殺させました。それらの宗教指導者たちはエルサレムをして,預言者たちを殺す者,神がお遣わしになった者たちに石を投げつける者の道を歩みつづけさせました。(マタイ 23:1-37)そのために同民族の「穏和な」者たちは「良いたより」を知らされることを必要としていたのでしょうか。「捕らわれ人」たちは自由を告げ知らされる必要があったのでしょうか。また宗教的暗黒という土牢から出され,『目を広く開』いてもらう必要のある「囚人たち」がいたのでしょうか。エホバ崇拝の中心地としてのシオンすなわちエルサレムは,人を嘆き悲しませる真の原因になるほど宗教的に荒廃した状態にあったのでしょうか。その通りです。そして油そそがれたイエスは,そのような「嘆き悲しんでいる者たち」の残りの者が当時ユダヤ人の間にいるのをご覧になったのです。
15 バプテストのヨハネはどんな点で開拓者として奉仕しましたか。またイエスはどのように命と救いの開拓者となられましたか。
15 イエスはそれら嘆き悲しむ人,「捕らわれ人」,「囚人」,そして貧しく「穏和な」人々の必要を満たされました。イエスは病人をいやし,死者を生き返らすことさえされましたが,そのほかに「天の王国」の良いたよりを宣べ伝えることによってその嘆き悲しむ人々を慰めました。(マタイ 4:17; 11:4-6)しかし,シオンについて嘆き悲しむ人々のためにはさらに大きな慰めと自由が前途にありました。それはイエスの死,復活,そして罪を贖う犠牲の価値を神にささげるためにイエスが天に昇られたことによって訪れました。このようにしてご自身に関する聖書預言を成就することにより,イエス・キリストは,命を得させるその宣教を受け入れた人々に対し,命と救いの開拓者となられました。バプテストのヨハネはエホバのメシアに先だって行き,道を備えました。それでヨハネも開拓者と呼ぶことができます。(ルカ 1:76,クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳,1950年版〔英文〕)しかしイエスは,命と救いへの道を開拓するために,ヨハネよりも多くのことを行なわれました。
16 モファット訳の使徒 3章15節によると,ペテロはエルサレムの神殿でイエスをなんと呼びましたか。
16 それは使徒ペテロが,イエスの昇天後何週間かたってエルサレムの神殿でユダヤ人に大胆に語った通りでした。「あなたがたは命の開拓者を殺した。しかし神は彼を死人の中からよみがえらされた。それはわたしたち[ペテロとヨハネ]が証言できるとおりである」― 使徒 3:15,モファット訳。
17 使徒 5章31節によると,十二使徒はイエスをエルサレムのサンヘドリンでなんと呼びましたか。
17 後日イエス・キリストの十二使徒は,当時パリサイ人,サドカイ人それに書士たちで構成されていた,血の罪を負うエルサレムのサンヘドリンの前で,次のように証言しました。「神は彼をわたしたちの開拓者[ギリシャ語: アルケーゴス]また救い主としてご自身の右に高められた。それは悔い改めと罪の許しとをイスラエルに与えるためである」― 使徒 5:31,モファット訳。
18,19 使徒パウロは,ヘブライ 2章10節と12章2節の中でイエスをなんと呼んでいますか。
18 イエスをメシアすなわちキリストとして受け入れた,そして神の霊的子らとなったヘブライ人(ユダヤ人)の残りの者に手紙を書くにあたり,ヘブライ人の使徒パウロは言いました。「多くの子らを栄光に導くのに,彼が彼らの救いの開拓者[アルケーゴス]を苦しみを通して完全にしたのは,万物の存在の目的であり,また万物の存在の原因でもある方にとってふさわしいことであったのである」― ヘブライ 2:10,改訂標準訳; モファット訳。
19 また次のようにも述べています。「わたしたちの信仰の開拓者[アルケーゴス]また完成者であるイエスを見なさい。彼は自分の前に置かれた喜びのために,恥をものともせずに十字架を忍び,神のみ座の右に座しておられる」― ヘブライ 12:2,改標; モファット訳。
20 どのようにしてイエスはわたしたちの信仰の完成者となったばかりでなく,「わたしたちの信仰の……開拓者」ともなられましたか。
20 このようにイエスは,その弟子たちのための開拓者,命の開拓者,救いの開拓者,わたしたちの信仰の開拓者と言われています。イエスはメシアすなわちキリストに関する幾百もの聖書預言を実現させました。こうしてイエスは,エホバ神に対するわたしたちの信仰に新しい重要な要素を導入されました。それでイエスは,真のクリスチャンが今持っている完成した信仰の開拓者になられました。ですからイエスが「わたしたちの信仰の開拓者」と呼ばれているのは正しいことです。(ヘブライ 12:2,改標。ガラテア 3:24,25)それと同時に,エホバのメシアに関するわたしたちの信仰もイエス・キリストにおいてその完成を,すなわち大団円を見ます。イエス・キリストを退け,モーセの律法だけを固執したユダヤ人は,彼らの信仰を未完成のままにしてしまいました。
「義の大木」
21 復活後イエスが弟子たちに現われ彼らを慰められた結果,彼らはどの程度霊的成長を経験することになっていましたか。
21 イエス・キリストは復活後40日の間,弟子たちの信仰を築き上げるために,彼らにたびたび現われました。期待していたメシアについて嘆き悲しんでいた人々を慰めました。復活したイエス・キリストに慰められた人々はどうなったでしょうか。イザヤ 61章1-3節(新)の預言によると,油そそがれたイエスは彼らに,「灰の代わりに頭飾りを,悲しみの代わりに歓喜の油を,気落ちした霊の代わりに賛美のマントを与える」ことになっていました。そのために彼らは霊的成長を経験し,その結果,「義の大木,エホバの植えられたもの」と呼ばれました。「彼が美しくされるため」でした。
22 イザヤの預言では,「頭飾り」,「灰」,「油」,「マント」などの言葉は,どのように理解されるべきでしたか。それらはペンテコステ以後弟子たちにどのように当てはまりましたか。
22 イエスの使徒または弟子のだれかが頭に灰をかぶり,粗布を着ていたかどうかは伝えられていません。「頭飾り」,「灰」,「油」,「マント」などの預言的表現がひゆ的意味で用いられたことは明らかです。イエスが復活して姿を現わされたことは,問題に関する弟子たちの気持ちを一転させました。それは確かです。しかしそのあとのペンテコステの日に,主権者なる主エホバはみ子イエス・キリストを用いて,エルサレムで待っていた弟子たちの上に聖霊をそそがれました。霊がそそがれたことの表われとして,奇跡的な火の炎が彼らの頭の上に浮かんでいました。この表われはただ一時的なもので,イザヤの預言に予告されていた永久的な「頭飾り」ではありませんでした。彼らの頭はむしろ,婚礼の日の祭司の花婿の喜びに似た,神の是認という喜びで飾られました。(イザヤ 61:10)それはあたかも気持ちのよい油が頭にそそがれたかのようで,歓喜するまでに彼らの心をさわやかにしました。気落ちした霊は消散し,エホバ神に対する賛美は,彼らが「賛美のマント」を持つ者であることを示しました。ペンテコステに起きた光景を見ていた人々は,『わたしたちは,神の壮大な事がらについて彼らがわたしたちの国語で話すのを聞いているのだ』と言いました。―使徒 2:1-11。
23 (イ)イエスは弟子たちのためにどんな業を始められましたか。(ロ)イエスを通して油そそがれることにより,弟子たちは何を行なう使命を与えられましたか。
23 こうしたことすべてから,わたしたちは今日何を観察しますか。次の事実です。すなわちイエス・キリストはご自分が油そそがれたことと調和して,ご自分の弟子になった者たちに対し回復の業を始められたということです。エホバはイエスを用いて,バプテスマを受けた弟子たちに聖霊をそそがせ,その結果,それら聖霊を受けた人々自身,主権者なる主エホバの霊で油そそがれた人々となりました。(コリント第二 1:21。ヨハネ第一 2:20,27)そのとき彼らもまた,イスラエル民族の中の「穏和な」人々に良いたよりを伝え,捕らわれ人に自由を,囚人に釈放をふれ告げ,シオンのために嘆き悲しむ人々を慰める使命を与えられました。この方法で彼らは他の人々を助けることができました。彼らを慰め解放して彼らが「エホバの側の善意の年」を大いに喜ぶようになり,また油そそがれた者たちを通して彼らが再び神の恵みと助けを受ける立場を与えられたことでエホバを賛美するようにならせるために,彼らは用いられました。
24 ペンテコステ以降,イエスの弟子たちの霊的地所は,パラダイスが飾られたのと同じようにどのように飾られましたか。それはだれが美しくされるためでしたか。
24 霊のそそぎは,それで油そそがれた人たちにとって非常に大きな相違をきたしました。彼らは,養分の不足のためにしおれた弱々しい木ではなくて,エホバだけが植えキリストを通して生長させることのできる「義の大木」のようになりました。人間の最初の「楽しみの園」は種々の樹木で飾られていました。(創世 2:7-9)しかしペンテコステ以降,エホバは敵が荒らし荒廃させていた,ご自身の献身した民の霊的地所に「大木」をお植えになりました。そのひゆ的「大木」は,エホバ神の義のために高く育った雄々しい,しっかりした,動かすことのできないクリスチャンたちです。エホバ神は彼らを植えた者として,新しく設立されたクリスチャン会衆内に彼らがいることにより「美しくされ」ました。
25 ペンテコステにバプテスマを受けた人々はどんな責務を負いましたか。開拓者として彼らはどんな業において奉仕しなければなりませんでしたか。
25 ペンテコステの日には,120人ほどの弟子の最初の会衆のほかに,幾千もの人々が,悔い改め,メシアを受け入れ,そして十二使徒の手でバプテスマを受けてから,油そそがれた者となりました。(使徒 2:37-42)その人々もまた,キリストを通しエホバの霊で油をそそがれたことに伴う責務を負うようになりました。彼らの指導者イエスは,彼らが完成した信仰と命と救いを得る道を切り開いておかれました。彼らは「わたしたちの神の奉仕者」となりました。(イザヤ 61:6,新)彼らは今やそういう者として,キリストを通し神と和解すべく神との関係を求める人々のために,道を開拓しなければなりません。(コリント第二 5:20)このようにして彼らは神の復興の業の中で喜ばしい役割を果たすのです。
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「わたしたちの神の奉仕者」と今日の彼らの助け手ものみの塔 1978 | 10月1日
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「わたしたちの神の奉仕者」と今日の彼らの助け手
1 今日人類のためになされている最も偉大な公の奉仕は何ですか。そしてその業にあずかっている人々は預言的になんと呼ばれていますか。
神が行なわれている霊的に回復させ復帰させる業は今日人類のためになされている最も偉大な公の奉仕です。この業のために神が公僕として用いておられるのは政治家ではなく,預言的に任命されていた「わたしたちの神の奉仕者」です。(イザヤ 61:6,新)彼らの指導者また模範は,エホバ神の最も優れた公僕,イエス・キリストです。イエスは19世紀前,地上におられた間,哀れな人類を復帰させる驚くべき業を行なわれました。
2 イエスとその使徒たちはなぜパレスチナの地の環境回復に従事しませんでしたか。
2 イエス・キリストと弟子たちはその当時,彼らが神の王国の良いたよりを宣べ伝えていたパレスチナの地の環境を回復したのではありません。そのために働くのはむだなことだったでしょう。というのは油そそがれたイエスは十二使徒に,「神の側の報復の日」がユダヤ人の上に臨むと教えておられたからです。それは西暦70年から73年にかけてローマの軍団を通して実際に臨み,ユダ州を荒廃に帰せしめました。ローマ人の手に陥ったユダヤの最後のとりでは,死海のそばにあるマサダの要塞でした。しかし,イエスが開拓し,イエスの使徒たちが継続した霊的に復帰させる業はどうなったでしょうか。それはその試練の時の間ずっと,そしてその後も前進をつづけ,予告されていた「背教」すなわち反逆が使徒たちの死後はじまる時にまで及びました。―テサロニケ第二 2:3。
3 イザヤ 61章1-4節によると,だれが象徴的な「義の大木」ですか。彼らはどんな活動において働くことに専念していますか。
3 イザヤの預言の61章の中で,霊的に復帰させる業は,長期間荒廃していた土地とそこにある荒れ廃れた都市とを元の状態に戻すことになぞらえられています。ですから,霊的パラダイスに「義の大木」を生えさせることによって主権者なる主エホバが「美しくされる」ことをまず告げたあと,イザヤの預言はつづきます。「そして彼らは久しく荒れ廃れた場所を必ず再建し,昔に荒廃した場所をも興すであろう。また荒れ廃れた都市,代々にわたり荒廃している場所を必ず新しくするであろう」。(イザヤ 61:4,新)ここで語られている再建者たちは,前の三つの節の中で言及されている人々で,慰めを受け,宗教的自由を与えられ,エホバの恵みと「善意」を得られるようになった人々のことです。彼らは一意専心回復の業を行なうことを決意しています。
4 イエスはイザヤ 61章4節の成就をバビロン捕囚後のユダ州に適用されましたか。その預言の成就はどれほどの期間つづきますか。
4 イエス・キリストと使徒たちが神の王国をよく宣べ伝えたユダ州とエルサレムは,忠実なユダヤ人の残りの者が西暦前537年にバビロン捕囚から釈放され故郷に戻ったあと,彼らの手により久しい以前にもとの状態に復していました。しかし油そそがれたイエスはイザヤ 61章4節の預言を,ユダの実際の土地になされた過去の業績に適用されましたか。そうはされませんでした。ナザレの会堂でイザヤ書 61章の最初の二節を引用したとき,イエスはその章の成就が,イエスの時代に,イエスをもってはじまることをお示しになりました。それは霊的な意味を持っていて,人々の生来の状態,身体の状態,環境の状態の回復に適用するものでないことをイエスは示されたのです。ですからその預言の成就はこの20世紀まで,わたしたちの時代までつづきます。
5 第一次世界大戦後,エホバの民に関して回復の業の必要があったのはどうしてですか。それが始まったのはいつですか。
5 1914年から1918年までの第一次世界大戦は,献身しバプテスマを受けたエホバのしもべの油そそがれた残りの者に破壊的な影響を与えました。彼らの地的組織は多くの点でまひしました。その最初の全面戦争が終結したとき,エホバ神への奉仕と崇拝において先頭に立っていた幾人かの油そそがれたクリスチャンは,長期の懲役刑を受けてまだ刑務所にいました。しかし1919年に,実際の獄中生活から釈放されただけでなく,さらに重要なことに,(背教したキリスト教世界を含む)大いなるバビロンからも解放されました。それでさっそく霊的な回復の業が開始されました。
6 1919年のシーダーポイント大会は,どんな事実を世に知らせましたか。そのときエホバは,油そそがれた残りの者のために何を確立されましたか。
6 1919年にオハイオ州のシーダーポイントで開かれた国際聖書研究者協会の最初の大会は意義深いものになりました。主権者なる主エホバの霊で油そそがれた真のクリスチャンの残りの者が,死人の中から生き返ったかのように,再び元気を取り戻したことを,その大会は世界に知らせました。彼らはエホバの恵みの下に戻され,マタイ 24章14節に予告されていたように,すべての国民への証しとして『王国のこの良いたよりを宣べ伝える』ことを一層公然と活発に行なうようになりました。その霊的復帰のための最初の努力の影響は,この末の時期においてさえ,世界的な規模で見られます。エホバ神はご自分の誉れとなるよう,霊で油そそがれた残りの者のために,霊的パラダイスを確立されました。
だれが「わたしたちの神の奉仕者」を任命するか
7 イザヤ 61章5-7節によると,油そそがれた残りの者の霊的復帰は,どれほどの注意を呼び起こすことになっていましたか。
7 不思議に聞こえるかもしれませんが,エホバの油そそがれた残りの者の霊的復帰は,国際的注目を浴びることになっていました。イザヤの預言はそのことを予告していました。イザヤ 61章4節を調べたなら次を読んでみましょう。「そしてよそ人たちが実際に立ち,あなたがた民の羊の群れを牧し,異国人はあなたがたの農夫また園丁となるであろう。そしてあなたがたは,エホバの祭司と呼ばれ,わたしたちの神の奉仕者と呼ばれるであろう。諸国民の資産であなたがたは食べ,彼らの栄光[富]の中にあってあなたは自分について意気盛んに話すであろう。あなたがたの恥の代わりに二倍の分が生じ,屈辱の代わりに彼らは自分たちの分[分け前]に関し喜びに満ちて叫ぶであろう。したがって彼らは自分たちの土地にあって二倍の分をも所有することになる。定めのない時までの歓びが,彼らのものとなるのである」― イザヤ 61:5-7,新; 改標。
8 預言されていた悪い事柄はいつどのように臨みましたか。それはだれの扇動によりましたか。
8 次の点を見逃さないようにしましょう。それはつまり,励みになるこの預言の成就にあずかる人々は,最初は恥や辱めを忍び,自分の「分」を与えられないことに耐えねばならなかったということです。第一次世界大戦中に,そういう不愉快で不条理な事柄が,エホバの油そそがれた残りの者たちの身に降りかかりました。しかもそれは戦争に狂奔するキリスト教世界によってもたらされたのです。キリスト教世界の僧職者は今日に至るまで,霊的イスラエルの油そそがれた残りの者に数々の恥と屈辱を加えることをしつように行なっています。
9 どの場所では,油そそがれた残りの者はもはや恥や屈辱や食物の不足に悩むことがなくなることになっていましたか。どのようにして彼らはそこに行きましたか。
9 とはいえ,それら霊的イスラエル人はもはや大いなるバビロンの地にはおらず,その中で捕らわれているわけでも,投獄されているわけでも,宗教的に奴隷の状態でいるわけでもありません。1919年の春,キリスト教世界のバビロン的な僧職者が手下として用いる戦闘態勢にある国がなくなったとき,エホバは忠実な油そそがれた残りの者を自由にされました。エホバは彼らを,イザヤの預言が「自分たちの地」と呼んでいるものに戻されたのです。神が与えたその地所は,彼らがもはや恥や屈辱,霊の食物の欠如などに苦しむことのない所でした。彼らの地は霊的パラダイスになることになっていました。その中で彼らは「二倍の分」を受けます。
10 回復した残りの者が宗教上の敵たちにどう呼ばれるか,またエホバにどう呼ばれるかについて言えば,残りの者にとって重要なのは何ですか。
10 もとより,背教したキリスト教世界の僧職者と同世界のこの世的な情夫たちは,回復した残りの者を現存する一宗教団体として彼ら自身の呼び方で呼びます。しかしイザヤの預言には,回復した油そそがれた残りの者がなんと呼ばれるとありますか。イザヤ 61章6節(新)は回復した残りの者を対象にして次のように述べます。「そしてあなたがたは,エホバの祭司と呼ばれ,わたしたちの神の奉仕者であると言われるであろう。諸国民の資産をあなたがた民は食べるであろう」。彼らにとっては,油そそがれた残りの者をエホバがなんと呼ばれるかが重要なのであって,宗教上の反対者たちが彼らをなんと呼ぶかということではありません。
11 古代イスラエルでは,祭司職につくのはだれでしたか。しかし,イザヤ 61章6節の祭司に関する預言はだれに対して述べられましたか。
11 イザヤ 61章6節の預言は,預言者イザヤとイエス・キリストの属する民族においては決して成就し得ませんでした。なぜでしょうか。なぜなら,モーセの兄弟アロンの家系の資格ある男子だけが祭司として油そそがれたからです。レビ族の残りの者たちは神殿でアロン系祭司の助け手として奉仕しました。イスラエルの他の12部族は彼らの犠牲とささげ物をアロン系祭司のところへ携えてきました。また神殿のレビ人の援助も受けました。それら12部族は,祭司職およびレビ人の行なう奉仕から除外されていたので,自分たちは差別されていると感じたでしょうか。そういうことはありませんでした。彼らは主権者なる主エホバが任命された人々に従いました。したがってモーセの律法の下では,イスラエルは祭司の国民,すなわち全体が祭司だけで構成される国民とはなり得ませんでした。ところが,キリストの油そそがれた弟子たちの場合は,彼らが構成するクリスチャンのイスラエル全体に対して,「あなたがたは,エホバの祭司と呼ば……れるであろう」と言われています。
12 霊的イスラエルにおいては何人が祭司ですか。だれが大祭司ですか。
12 この霊的イスラエルの成員はすべて,エホバの任命による「祭司」です。彼らの開拓者であるイエス・キリストはエホバの大祭司です。この大祭司の下で「祭司」の国民は神に仕えます。
13 使徒ペテロとヨハネは,この取り決めが,大祭司イエス・キリストの油そそがれた弟子たちに適用することをどのように確証しましたか。
13 預言者イザヤは霊感を受けてこの事実を予告しました。イエス・キリストの使徒で霊感を受けていた人たちは,後日,主権者なる主エホバのこの取り決めが,天の大祭司イエス・キリストの油そそがれた弟子たちに適用するものであることを確証しました。そういう弟子たちに対し,使徒ペテロは次のように書いています。「[あなたがたは]自らもまた生ける石として,聖なる祭司職のための霊の家に築き上げられてゆくのです。それは,神に受け入れられる霊的な犠牲をイエス・キリストを通してささげるためのものです。しかしあなたがたは,『選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民』であり,それは,やみからご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださったかたの『卓越性を広く宣明するため』です。(ペテロ第一 2:5,9)また使徒ヨハネはイエス・キリストに愛された人々に次のように書き送っています。「わたしたちを愛しておられ,ご自身の血によってわたしたちを罪から解いてくださったかたに ― そして彼はわたしたちを,ご自分の神また父に対して王国とし,祭司としてくださったのである ― 実にこのかたにこそ,栄光と偉力が永久にあらんことを」― 啓示 1:5,6。
14 この事実は啓示 5章9,10節でどのように繰り返されていますか。
14 ヨハネはさらに,神の子羊イエス・キリストに対して発せられた,そして祭司職と関係のある,天における歓呼の声を,次のような言葉で記録しています。「あなたは……自分の血をもって,あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。そして,彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対して王として支配するのです」― 啓示 5:9,10。
15 1977年版のアメリカ百科事典には,宗教改革者たちの教えた「全信仰者の祭司職」についてどのように述べられていますか。
15 中世において,プロテスタント改革者たちはこの言葉を彼らの宗教的会衆に適用しました。1977年版のアメリカ百科事典,第22巻,681ページには,「全信仰者の祭司職」という小見出しで次のように述べられています。
「宗教改革の中心的教義は,全信仰者は祭司であるというものであった。救いは,信仰をもって受け入れる神の無償の恩寵によると信じていたので,改革者たちは説教やサクラメントによって救いを仲介するための職業的聖職者は必要でないと論じた。信者はだれでも救いの福音を伝えて聖職者のように行動でき,それを聞いた者は信仰をもってそれに応ずることができるというわけである。さらに,良い仕事は隣人に仕えることであるから,社会を益する仕事はみなクリスチャンの天職とみなされている。『プロテスタントの職業倫理』として知られているものは,日常の仕事を,神に仕えるための主要な範囲と見ることから発達した」。
16 「ドイツ国民のキリスト教貴族」に呼びかけた本の中で,マルティン・ルターは万人祭司についてなんと述べていますか。
16 アメリカ百科事典,1927,1929年版,第17巻,753ページの「ルター」の項には次のように書かれています。
「さてルターの態度を明示した,彼の筆になる注目に値する二つの著作が世に出た。『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』,および『バビロニア幽囚』がそれである。前者においては彼は万人祭司を宣言し,特別に設けられた僧職制をすべて認めないことを言明している。また彼は聖書を解釈する法王の権利に異議を唱え,それはすべての人の自由である,と宣言している」。
例えば,『貴族に与う』の中でマルティン・ルターは次のように書いています。「われわれはみなバプテスマの時に祭司となるべく聖別された。……法王または司教が塗油し,剃髪式を行ない,叙任し,聖別し,平信徒とは異なる衣服を着用させることは,その者を偽善者か愚か者に仕立てるかもしれないが,彼をクリスチャンすなわち霊的な人にすることは決してない」。
17 一世紀のクリスチャンはなぜ祭司の肩書を持っていませんでしたか。地上におられたときのイエス・キリストご自身はどうでしたか。
17 使徒時代の原始キリスト教徒のように,今日の油そそがれた残りの者も祭司の肩書を持っていません。なぜ持つ必要があるでしょうか。彼らはみな一つの霊的祭司職の仲間の成員ではないでしょうか。したがって互いに区別すべきでないのではありませんか。そうです。イエス・キリストの大祭司の職こそ主要素を成すもので,霊感によって書かれたクリスチャン・ギリシャ語聖書はそのことに注目させ,霊で油そそがれた会衆がそのことを考えるように促しています。(ヘブライ 3:1-6)イエス・キリストご自身でさえ,地上におられたとき,イスラエルの最初の大祭司,すなわちモーセの兄弟アロンの実体として奉仕しておられたにもかかわらず,ご自分のことを祭司と言われたことはありません。
18 (イ)人は長老,監督,奉仕のしもべなどを任命するのと同じように祭司を叙任しますか。(ロ)油そそがれた残りの者は今日,エホバの霊的神殿のどこにいますか。そこで何をしていますか。
18 パウロやバルナバのような使徒たちが,資格ある人々をクリスチャン会衆内の長老もしくは監督,奉仕のしもべなどに任命したのは事実です。しかし彼らは決して「祭司」に任命または叙任したのではありません。(使徒 14:23。フィリピ 1:1)エホバの祭司たちをイエス・キリストによって任命もしくは叙任するのはエホバご自身です。肩書こそ持っていませんが,今日の油そそがれた残りの者は,エルサレムの神殿の「祭司たちの中庭」が予示していたものの中にいるのです。エホバの霊的神殿のそのひゆ的中庭の中で,彼らは大祭司イエス・キリストを通して「霊的な犠牲」をささげます。―ペテロ第一 2:5。
19 (イ)イザヤ 61章6節の中で,霊的イスラエルはさらに何であると言われていますか。(ロ)そこで用いられているヘブライ語は,単なる「しもべ」として行動する以上のことを意味していますか。
19 さてもう一度イザヤ 61章6節に戻ってみますと,この節は,霊的イスラエルの油そそがれた成員たちに対して,「あなたがたは……わたしたちの神の奉仕者であると言われるであろう」とも述べています。ここで「奉仕者」と訳されている語はヘブライ語原文ではメシャルテイ(複数)で,イザヤ 65章13節にあるような「しもべ」を意味するエベドではありません。ヘブライ語のメシャルテイと動詞シャラトの他の形は,しばしばイスラエルの祭司に関連して用いられています。ヨエル 2章17節(新)には,「エホバの祭司たち,奉仕者たち」という表現が用いられています。(出エジプト 28:35,43)ヘブライ語聖書を初めて外国語に訳したとき,ギリシャ語を話す翻訳者たちは,ヘブライ語の二つの単語エベドとメシャルテイの間に違いがあることを認めたので,ギリシャ語七十人訳の中でイザヤ 61章6節を訳す際に,メシャルテイに対してレイトウルゴスというギリシャ語を当てました。
20 (イ)ギリシャ語レイトウルゴスの基本的な意味は何ですか。(ロ)クリスチャン・ギリシャ語聖書の中ではそれは人間に関して,また天の被造物に関して,どのように用いられていますか。
20 レイトウルゴスという語は基本的には「公務を行なう者」,すなわち行政官のような役人または大臣を意味します。(ローマ 13:6)それは神聖な立場で奉仕する人を指すこともあるでしょう。使徒パウロが自分のことを,「諸国民に対するキリスト・イエスの公僕となって神の良いたよりの聖なる業に携わり」と述べている場合などそれです。(ローマ 15:16)神の大祭司としてのイエス・キリストは,「聖なる所……真の天幕の公僕」と呼ばれています。(ヘブライ 8:1,2)ダビデ王の王子アムノンのような公人の場合,その人物にはべる者は公僕とみなされました。(サムエル後 13:18)天のみ使いたちは公僕と見られています。というのは使徒パウロが詩篇 104篇4節を引用するときにこう述べているからです。「また,み使いたちについてはこう言われます。『そして彼は自分の使いたちを霊とし,自分の公僕たちを火の炎とする』」。(ヘブライ 1:7)またヘブライ 1章14節で,パウロはみ使いのことを「公の奉仕のための霊」と語っています。
21 詩篇 103篇21節の中で,神の天の軍勢はなんと呼ばれていますか。
21 詩篇 103篇21節(新)はエホバの天の「軍勢」に向かって話されている言葉ですが,そこではみ使いたちは「その奉仕者たち」と呼ばれています。すべてを考えてみますと,イザヤ 61章6節(新)に出てくる「奉仕者」という語は,人がしもべとして行動する,あるいは神聖な奉仕をする以上のことを指しています。
22 (イ)イエス・キリストはだれよりも優れた公の奉仕を神に対し行なわれましたか。(ロ)フィリピ 2章17節の中で,パウロはクリスチャンの活動を何と述べていますか。
22 ヘブライ 10章11節には,古代イスラエルの祭司はみな,「公の奉仕を行なうため,また同じ犠牲を何度もささげるため」日ごとに自分の持ち場に着く,と述べられています。(ルカ 1:23もご覧ください)み使いたちに勝る神のみ子については,ヘブライ 8章6節にこう書かれています。「今,イエスはさらに優れた公の奉仕の務めを得たゆえに,それだけ勝った契約の仲介者でもあられるのです」。シリアのアンティオキアにあった会衆では,パウロとバルナバを含め,あるクリスチャンの預言者たちや教え手たちが,「エホバに対する公の奉仕を」していると言われていました。(使徒 13:1,2)マケドニアのフィリピに会衆を設立したパウロは,彼らの特別の奉仕の務めについて語り,「あなたがたが信仰のゆえにささげる犠牲と公的奉仕の上に,自分が飲みもののささげ物のごとくに注ぎ出される」と述べています。(フィリピ 2:17)したがって油そそがれたクリスチャンはみな神の公僕として行動しました。―イザヤ 61:6。
23 「ものみの塔」誌は1882年6月号の中で,キリストの霊的体の成員が行なう公の奉仕にどのように注意を引いていますか。
23 同様に,今日の霊的イスラエルの油そそがれた残りの者も,「忠実で思慮深い奴隷」級として「公的奉仕」を神にささげます。(マタイ 24:45-47)月刊誌「シオンのものみの塔」は,1882年6月号の7ページ,5節で,「人間の教師が必要」という主題のもとに,そういう神の公僕級の存在に早くから注意を引きました。その部分で発行者は次のように述べています。「……わたしたちはキリストの体の聖別された成員がすべて,なんらかの意味で奉仕者であり,全員が『喜びのおとずれを伝道すべく油そそがれた』と信じている。しかし,キリストの体すなわち教会を例示するのに聖書が用いている人体に,異なる器官と役目があるのと同じく,業の異なる部分に向いたさまざまの成員がいる」。ですから,キリストの霊的体の油そそがれた残りの者はすべて「わたしたちの神の奉仕者」と正しくみなされまた語られています。―イザヤ 61:6,新。
彼らは国際的な注目をあびる
24,25 「わたしたちの神の奉仕者」はどのような強奪に遭い,不当な扱いをうけるかもしれませんか。しかし,問題をしかるべきときに正すことをだれが約束していますか。
24 「わたしたちの神の奉仕者」は,神のみ前における彼らの立場を尊重する仕方で彼らの責任を遂行し,また身を処していかねばなりません。一般の人々は彼らを誤解し,彼らは正しくない,間違っていると見るかもしれません。彼らは悪い評判をたてられたり,当然認められてよい事を認められなかったり,考慮に値するのに考慮してもらえなかったりすることがあるかもしれません。(コリント第二 6:8-10)しかし最高審判者は,ご自分の目的にかなう時に問題を正されます。最高審判者は公正をよしとされます。イザヤ 61章8,9節(新)の中で彼はしいたげられた人々に対し次のように言っておられます。
25 「わたしエホバは公正を愛し,強奪を不義と共に憎んでいる。またわたしは真実のうちに彼らの報酬を与え,定めなく永続する契約を彼らに対して結ぶであろう。そして彼らの子孫は実に諸国民の間にさえ,彼らの後えいはもろもろの民の間に知られるようになる。彼らを見る者すべては彼らを認め,彼らがエホバの祝福された子孫であることを」。
26 霊的イスラエルの残りの者はどのようにして諸国民やもろもろの民の間で知られるようになりましたか。諸国民ともろもろの民は「エホバの祝福された子孫」をなぜ認めるようになりましたか。
26 「知られる」ためには霊的イスラエルの油そそがれた残りの者は,諸国民ともろもろの民の中に出て行かねばなりませんでした。第一次世界大戦中,そしてまた第二次世界大戦中にも,彼らは国際的な「強奪」に遭いました。宗教上の敵とその後援者によって不当に非難され,偽り伝えられたために,彼らは非常な迫害を受けました。エホバの公的奉仕における彼らの努力と活動が真に受けるに値する「報酬」を奪われたのです。しかしエホバは,彼らをご自分の証人とし,王国の良いたよりの伝道者とすることによって,ご自分はだれを是認しているかを示されました。(マタイ 24:14。イザヤ 43:10,12)エホバは聖霊によって,全世界に証言を行なう活力を彼らにお与えになりました。このようにして諸国民ともろもろの民は,「エホバの祝福された子孫」を知るようになりました。―イザヤ 61:9,新。
27 もろもろの民と諸国民の中のどんな人々は,当然認めるべき残りの者の立場を認めましたか。彼らはどこでだれと共に住み,神に仕えることを望みましたか。
27 そのもろもろの民と諸国民は,当然認めるべきエホバの油そそがれた残りの者を認めませんでした。しかし個々の人は認めました。公正と義と真理を愛する人々が現われました。とりわけ1935年の春から,その人々は油そそがれた残りの者の側に立つようになりました。それは彼らが「わたしたちの神の奉仕者」だったからです。「エホバの祝福された子孫」の霊的イスラエル人でないその人々は,そのとき以来「大群衆」となりました。1935年にワシントン市で開かれたエホバの証人の大会で,この霊的イスラエル人でない人々の数えつくせない「群衆」は,啓示 7章9節から17節の預言的描写に匹敵することが明らかにされました。霊的イスラエル人でないために,油そそがれた残りの者にとって彼らは「よそ人」また「異国人」でした。(イザヤ 61:5,新)彼らは残りの者が「義の大木」でよく目立つ霊的パラダイスに住み,都市のような会衆を持っているのを見ました。そして自分もそのような霊的パラダイスに住み,そこで神に仕えたいと考えました。―「ハルマゲドンを生き残って神の新しい世へ」(英文),296-299ページ,14-16節; 368ページ,No.30。
28 「大群衆」のとったどんな行動により油そそがれた残りの者は,イザヤ 61章5節の言葉が自分たちに成就したのを知りましたか。
28 自分の決意と行動の代価を十分に計算して,彼らは汚染し腐敗してゆく世の組織を捨てました。そしてエホバの見える組織に加わりました。もちろん,霊的イスラエル人として奉仕することはできませんが,キリストの治めるエホバの王国の良いたよりを布告する点で,油そそがれた残りの者を助けることを心から望みました。それでイエス・キリストの献身した追随者としてバプテスマを受けました。また霊的イスラエル人と共に活発に奉仕するようになりました。その結果,油そそがれた残りの者は,イザヤ 61章5節(新)の次の言葉が自分たちに成就するのを喜びを抱いて見ることになりました。「そしてよそ人たちが実際に立ち,あなたがた民の羊の群れを牧し,異国人たちはあなたがたの農夫また園丁となるであろう」。
29 謙そんな思いを抱く「大群衆」は,「わたしたちの神の奉仕者」のために何をすることを喜びますか。それからどんな成果が生まれますか。
29 「大群衆」は謙そんにも,イザヤ 61章6節(新)の中で「エホバの祭司」また「わたしたちの神の奉仕者」と呼ばれている人々と共に霊的パラダイスの中で奉仕することを,誉れとし特権とみなしました。エホバ神からそういう者として任命された油そそがれたクリスチャンは,エホバの霊的神殿で霊的な事柄に専門に従事しなければならないことを認識しています。したがって,油そそがれた残りの者がより重要な霊的事柄に専門に従事できるよう助け協力することにより,彼らを安堵させることを喜んで行ないます。このすべては,霊的パラダイスを美しくし実り豊かにして神に栄光を帰すのに役立ちます。
30 イザヤ 61章5節は,これらの「よそ人」と「異国人」がどんな奉仕をすることを示していますか。しかし啓示 7章14,15節は彼らの奉仕についてどのように述べていますか。
30 こうして今日の「よそ人」また「異国人」は,残りの者が,エホバの霊で油そそがれているゆえに彼らにかかっている責務を遂行できるよう彼らを助けます。イザヤ 61章5節の中では,助け手たちの仕事は,羊の群れの世話をし,農耕に従事し,ぶどう園の世話をすることのように描写されています。しかし啓示に出ている,すべての国民,部族,民,国語の中から来る異国人に関する幻の中では,彼らのことはこのように述べられています。「彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」― 啓示 7:14,15。
31 世が「大群衆」をどのように見ようとも,み座にいます神にとっては彼らは何ですか。
31 「大群衆」の人々はこのように,み座にいます宇宙の主権者なる主に神聖な奉仕をささげる者として描かれています。この世が彼らをどのようにみなそうとも,彼らは主権者なる主のしもべです。
32 イザヤ 61章5,6節は千年統治期間中に,残りの者と「大群衆」に関連して,より文字通りにどのように成就しますか。
32 その「よそ人」また「異国人」の「大群衆」はきたるべき「大患難」を生き残ります。そのあと,キリストの千年統治期間中に彼らが行なうことを,イザヤ 61章5節はなんと美しく描写しているのでしょう。その期間中,「わたしたちの神の奉仕者」である「エホバの祭司」は,天において大祭司イエス・キリストと共に高められます。そしてそこで全人類に対する祭司としての奉仕を,かつてないほど多く行ないます。(啓示 20:6)しかし「大群衆」は,全体が文字通りパラダイスに変えられる,清められたこの地球の上に残されるでしょう。そのとき神の足台である地球を元の状態に戻し美化する仕事を始めるのはだれでしょうか。それは,油そそがれた残りの者と共に霊的パラダイスに固くついて離れなかった,患難生存者の「大群衆」です。
33 そのとき「大群衆」は,人間が必要とするものや食欲をどのようにして満たしますか。エホバへの奉仕と崇拝において,彼らはだれのための開拓者となりますか。
33 そのとき衣服を作るのでしょうか。「大群衆」が世話をする羊の群れの毛は,それに十分間に合うでしょう。パンとか畑の他の産物が望まれるでしょうか。「農夫」はおう盛な食欲を満足させることができるようにするでしょう。園丁は,人の心を喜ばせる最上のぶどう酒を供給できるでしょう。「大群衆」が行なっているであろう地のパラダイス回復の作業の進みぶりは,死人の中からよみがえってくる人々すべての目を喜ばせるでしょうし,また大祭司に買い戻されたその人々すべてのために前もって用意がされていたことを示すことになるでしょう。こうしたことを行ないながらも「大群衆」は,神の霊的神殿の地上の中庭でイエス・キリストを通してエホバ神に神聖な奉仕を定期的に行なうことを怠りません。この点で彼らは率先し,死人の中からよみがえってくる人々すべてのために優れた模範となるでしょう。―ルカ 23:43。
[25ページの図版]
現代の「わたしたちの神の奉仕者」は,預言者イザヤが予告し,イエスがお始めになった霊的回復の業を行なっている。主権者なる主エホバは,全地の穏和な者たちに王国の良いたよりをふれ告げるための力を彼らにお与えになった。
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喜びに満ちあふれ,神にあって歓喜する理由ものみの塔 1978 | 10月1日
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喜びに満ちあふれ,神にあって歓喜する理由
1 なぜ霊的イスラエルの残りの者は今日,イザヤ 61章10節の成就で喜びに満ちあふれていますか。
偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンへの捕らわれから,そしてその獄中から解放された喜びは,言い表わせない喜びです。人が真の宗教の神の恵みと善意を再び受け得るようになったことを歓喜するのには理由があります。霊的イスラエルの油そそがれた残りの者は今日,エホバが彼らを救出し回復させてくださったことを思い巡らすとき,喜びに満ちあふれます。霊感を受けた預言者イザヤは,彼らの口に次の言葉を入れます。「必ずわたしはエホバにあって歓喜するであろう。わたしの魂はわたしの神にあって喜びに満たされる。彼は救いの衣をわたしにまとわせてくださった。義のそでなしの上着でわたしを包んでくださった。祭司の仕方にならって頭飾りを着ける花婿のように,また飾り物で身を飾る花嫁のように」― イザヤ 61:10,新。
2 油そそがれた残りの者は依然「救いの衣」を着ていますか。彼らが霊的パラダイスから追放されることが決してないのはなぜですか。
2 戦後の年1919年以降,エホバは霊的イスラエルの油そそがれた残りの者を大いなるバビロンおよび彼女のこの世的な情夫から解放することによって,彼らのために「救い」を作ってこられました。その後あらゆる宗教的迫害が加えられたにもかかわらず,油そそがれた残りの者は依然として「救いの衣」をまとっています。残りの者は,大いなるバビロンとその不道徳な情夫がきたるべき「大患難」において滅ぼされるまで,身分証明となるその衣を着用しつづけることを決意しています。そうするゆえに彼らは,エホバが1919年以来彼らを連れて来ておられる霊的パラダイスから追放され,流罪にされることはありません。
3 油そそがれた残りの者が「義のそでなしの上着」で包まれる必要が生じたのはどうしてですか。
3 「義のそでなしの上着」は,回復した残りの者にエホバがお着せになった美しい「救いの衣」
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