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偏見 ― みんなの問題目ざめよ! 1985 | 2月8日
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偏見 ― みんなの問題
「明日,来社していただけますか。仕事をお世話して差し上げられると思いますよ」と,求職先の経営者は言いました。イボンは勤め先が決まったものと確信して受話器を下ろしました。大学を中退して以来家事手伝いの仕事をしてきた彼女にとって,事務の仕事は良い気分転換になるでしょう。
翌日,新しい仕事を得るためにその会社に出向いたイボンは,電話で話をした女性を見つけ,自己紹介をしました。ところが,イボンの“奇妙な”名字を改めて耳にし,今回イボンのまぎれもない東洋系の容貌とその名字とが結びつくと,その女性は口をあんぐりと開けました。「彼女は落ち着きのない態度で言葉を濁し,最後に,仕事の空きはないと言いました」と,イボンはその時のことを語っています。しかし,なぜ自分が“家事手伝い求む”の広告をもう一度丹念に調べなければならなくなったか,イボンにはよく分かっていました。それは人種偏見のせいです。
だれにとっての問題か
偏見の話になると,大抵の人が幾らか穏やかならぬ気持ちになるのも理解のできないことではありません。これほど論議を呼ぶ,あるいは人を感情的にならせる話題は余りないのです。しかし,それが人事であるかのようにこの問題を無視したりやり過ごしたりすることはできません。偏った見方は人間関係のあらゆる分野を侵していると言ってもよいくらいです。長いあいだ保たれてきた男性上位の社会通念のために,大勢の女性は低賃金に甘んじ,就職の機会も最低限に抑えられてきました。宗教の相違はアイルランドにおける暴力行為に油を注いでいます。フランス語を話すカナダ人は英語を話す同国人とぶつかります。インドではカースト制度が非合法とされているにもかかわらず,カーストに属するヒンズー教徒は“不可触賤民”と道路の同じ側を歩こうとはしません。富と伝統的な名声とに基づくヨーロッパの社会階級は,上流階級と平民とを対立させています。黒人と白人が何のわだかまりもなく付き合うブラジルのような国々においてさえ,表面には出ない人種的な敵意があることを伝える観測筋もあります。
文化的な誇りが過大視されて,同じ人種の間に障壁を築き上げることもあります。カルとデューペの経験はその一例です。二人はどちらも生まれながらのナイジェリア人でしたが,デューペの母親(ヨルバ族の出)は自分の娘がイグボ族の者と結婚することを禁じました。カルの父親もやはりデューペを退け,「ヨルバ族の娘と結婚したりすれば,勘当してやるからそう思え」と言いました。
ですから偏見は,単に人種の問題や黒人対白人の闘争などではないのです。偏見は,異なった言語や文化や社会階級に対する普遍的な反応の仕方のように思われます。暴力行為という形で爆発するにしろ,爆発寸前でくすぶっているにしろ,偏見は痛ましい結果をもたらしかねません。偏見の犠牲になるほうの側には貧困・悩み・人間の尊厳の喪失などをもたらし,偏見を示すほうの側には大低の場合罪悪感と良心の呵責をもたらします。偏見のあるところには,恐れや不安や思い煩いの傾向も存在します。人種的な緊張のために一定の地域全体が立ち入り禁止区域と宣言されます。不必要な不信感や誤解によって,さもなくば育めたはずの友情が損なわれてしまいます。
ですから,偏見は実際に“みんなの問題”なのです。では,偏見はどこから来るのでしょうか。偏見を除き去ろうと人間が最善を尽くしているのに,それがうまくゆかないのはなぜでしょうか。こうした疑問に対する幾らかの洞察を得るために,広く見られる偏見の一形態である,人種に関する偏った見方にスポットライトを当ててみることにしましょう。
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偏見の表われ方目ざめよ! 1985 | 2月8日
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偏見の表われ方
ある研究者が一人の男性に特定の民族に対するその人の見解を求めました。するとその人は,「あの人たちは気まぐれで,短気だ。そういう血が流れているのだ」と答えました。
「この民族の中に知っている人がいますか……それも個人的に」という質問がなされました。
『ええ,一人知っています。彼は高校時代わたしたちの学年の生徒会長でした』。
『その“生徒会長”はこの民族に対するあなたのイメージ通りの人でしたか』。
「いいえ,彼は冷静で,気持ちの良い人でした」とその人は認めました。
『それではその人には,「気まぐれで,短気」な「血が流れて」いたとは言えませんね』。
少し間を置いてから,その人はこう答えました。「彼は例外ですよ」。
偏見を抱く(「早計な判断」を下す)とは,公正に吟味をすることなしに,他の人々を裁くことです。こうして全く見ず知らずの人が十把ひとからげに,何の根拠もなく,先入観に基づいて,“なまけもの”,“こうかつな人間”あるいは“危険人物”といったレッテルをはられてしまいます。これは偏った見方をする人が,個人ではなく集団を見るからです。その人にとって,ある民族に属する人は「みな同じような人間」,個性を持たないクローンのような存在です。そして冒頭に挙げた例からも分かるように,偏見を持つ人は大抵の場合,自分の持つ偏った見方をあくまでも守り,事実を挙げられて間違っていることが証明されても自分の考えを曲げません。「今日の心理学」誌が取り上げているように,偏見を持つ人々は,「[ある]人が一つの決まった型に当てはまると思える行動を取るときにはそのことに注目し,それを覚えるきらいがある一方,その決まった型とは相入れない証拠のほうは受け入れようとしない」と言われています。
偏見は偏見そのものによって培われます。不利な鋳型に入れて鋳込まれた人々は,大抵の場合に自尊心を失ってしまう結果,期待されている程度のことしか実際に行なわなくなります。あるいは,聖書が伝道の書 7章7節で述べている通りの結果になります。「単なる虐げが賢い者に気違いじみた行動を取らせることがあ(る)」。虐げの犠牲になる人々はうらみの気持ちに捕らわれてしまうことがあります。偏った見方に対して異常なほど敏感になって時に過激な反応を示し,実際に偏見がないのに偏見があると思い込むことがあります。別の人種の人と見れば相手かまわず不当に疑惑の目を向けたり,敵になりかねない者とみなしたりします。ですから偏狭な態度は何も一つの人種あるいは国民の専売特許ではないのです。
人の考え方が一度偏見に捕らわれると,ほとんどすべての民族を嫌うようになりかねません。幾人かの大学生が,32の実在する国々や人種と三つの架空のグループ(「ダニエリア人」,「ピレニア人」そして「ワロン人」)に対する自分の感情を言い表わすよう求められたことがありました。奇妙に思えるかもしれませんが,実在する民族に対して偏見を抱いていた学生たちは,「ダニエリア人」,「ピレニア人」そして「ワロン人」もそれと同じほど好ましくないと感じていました。
偏見 ― どのように表われるか
偏見を抱く人は必ずしも敵意をあらわにする人ではありません。また,必ずしも,『自分の親友の中には』このグループあるいはあのグループに属する人がいると偽善的に公言しておきながら,そのような人が近所に住むようになることやそのような人と姻戚関係になることを考えるとしりごみするような人だというわけでもありません。偏った見方にはさまざまな程度があります。偏見を抱く人は確かに別の人種の友人を持っているかもしれませんが,なかなか消え去ることのない優越感を巧妙な仕方でたびたび表に出します。趣味の悪い,人種差別的な言葉を使って,友人たちの忍耐を試みるかもしれません。あるいは,それらの人たちを自分と平等な人間として扱わず,恩着せがましい態度を取り,友達になってやっているというような行動を取るかもしれません。
人が偏見をあらわにする別のやり方は,ある人に普通より高い水準の出来栄えを要求しながら,その人を余り高く評価しないというものです。そして,そのような人が失敗をすると,その失敗を人種のせいにしたがるかもしれません。あるいは自分と同じ人種の人が行なっても大目に見るような行為を別の人種に属する人がすると,それを非とするかもしれません。それでも,自分が偏見を持っていると少しでも言われようものならひどく憤慨します。完全に自己欺まんに陥っているのです。詩編作者がかつて述べた通りです。「彼は自分の目から見て非常に滑らかに自分に対して行動したので,自分のとがを見いだしてそれを憎むこともできない(の)です」― 詩編 36:2。
「4歳になるまでに」
しかし,どうして人々は偏見を抱くようになるのでしょうか。人はどれほど早い時期に偏見を抱くようになるのでしょうか。社会心理学者のゴードン・W・オールポートは,「偏見の本質」と題するその古典的な著作の中で,「分類の助けを借りて物を考える」という人間の思考の傾向に注目しました。これは幼い子供にさえ見られます。子供たちはほどなくして,男と女,イヌとネコ,木と花,それに“黒人”と“白人”の違いをさえ識別することを学びます。幼い子供は“人種の区別をしない”という概念とは裏腹に,さまざまな人種に接する幼児はほどなくして,「皮膚の色,顔の造り,髪の毛の種類など身体的な特徴の相違」に注目するようになり,「子供たちは……概して,4歳になるまでに人種的な集団を十分意識するようになる」という点で研究者たちの意見は一致を見ています。―「ペアレンツ」誌,1981年7月号。
しかし,そうした相違に気づくだけで,子供たちは偏見を抱くようになるのでしょうか。必ずしもそうではありません。ところが,「子供の発達」誌に載せられた最近の研究論文は,「5歳児が幼稚園に入る時には,同じ皮膚の色の仲間と交わり合うことのほうをはっきり好むようになっている」と伝えました。それ以上に当惑させられるのは,「子供たちが同じ皮膚の色の遊び仲間を選ぶ傾向は幼稚園にいる期間中に強まる」(下線は本誌。)という観察です。他の研究者たちもやはり,幼い子供たちが大抵の場合に人種についてだけでなく,人種の暗示するところにも気がついているという結論を出しています。ジョーンという名の4歳の少女はかつて,次のような,ぞっとするようなことを言いました。「白い人は上に行ってもいいわ。茶色い人は下へ行かないとだめ」。
子供たちがどうしてそのような偏った見方を身に着けるのかは研究者たちにもよく分かっていません。しかし,その原因ではないかと主に考えられているのは,親の影響です。なるほど,自分の子供に別の人種の子供と遊ばないよう直接命ずる親はほとんどいないかもしれません。それでも,親が別の人種の人に対して偏った見方をしていたり,単に態度がぎくしゃくしていたりするだけでも,それを観察すれば,子供は自分も同じように消極的な態度を取るようになるでしょう。次いで,文化の相違,仲間やマスメディアの影響,およびその他の要素が一緒になって,この偏見を強化することがあります。
いやな経験
とはいえ,ある人々にとって,偏見はいやな経験に対する度を超えた反応であるとも思えます。一人の若いドイツ人の女性は夫に同伴してある仕事のプロジェクトのためにアフリカへ出掛けました。この女性はそこでさまざまな問題に直面しました。彼女が女性であるという理由で,またヨーロッパ人であるという理由で,ある人たちは彼女に対して偏見を抱いているように思えました。一部の人々の態度も,ヨーロッパ育ちの彼女の感性に衝撃を与えました。ほんの一握りの人々の引き起こした問題のことをくよくよと考えているうちに,黒人すべてを嫌うようになってしまいました。
20年ほど前に米国に住んでいた西インド諸島出身の学生の場合にも同様のことが言えました。きちんとした身なりで礼儀正しく振る舞っていたにもかかわらず,この人はあるレストランで食事を出してもらえませんでした。「ここにはあなたのような人に出す食事はありません」と言われたのです。それまで人種差別を経験したことがなく,当時存在していた人種間の緊張についても知らなかったので,この学生は食事を出すよう要求しようとしました。その結果即座に逮捕されてしまったのです。市長がこの人を釈放するよう命じ,警察を譴責しましたが,この事件は彼に苦々しい気持ちを抱かせました。長い年月を経た後も,この人は白人に対し依然として敵意を抱いていました。
ほかの場合には,「偏見の本質」の中で指摘されている通り,他の人を卑しめることが高い地位に対する人の飽くことのない渇望を満たすように思われます。それは,『自分のことを必要以上に考える』ことです。(ローマ 12:3)ある特定のグループに対する抑圧を“正当化”するために,人種の優越性に関する社会的通念が作り出されるかもしれません。例えば,米国で奴隷貿易が行なわれていた悪名高い年月の間,黒人が精神的に劣っているとか普通の人間以下であると宣言されるのは珍しいことではありませんでした。こうした考え方が極めて広く見られたために,歯に衣を着せずに奴隷制を批判したa 米国の大統領トマス・ジェファーソンでさえ,かつて,「黒人は……心身両面の才能の点で白人よりも劣っている」という「疑念」を言い表わしました。そのような考えを維持することはできないことが科学により証明されているにもかかわらず,人種差別はいつまでもなくなりません。
なぜでしょうか。研究者たちが見過ごしているとはいえ,最も基本的な理由は聖書の中にはっきりと示されています。「それゆえ,一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がったのと同じように」。(ローマ 5:12)物事に対する人の見方や考え方は受け継いだ罪のためにゆがめられています。相違があることに興味を覚えたりその相違を楽しんだりするよりも,人はそうした相違に対して恐れや不安感をもって反応します。そして,幼い子供の不完全な心の中からも,驚くほど多くの「邪悪な推論」が出て来て,それが破壊的な偏見へと育ってゆくことがあります。(マタイ 15:19)では,偏見を克服することは可能でしょうか。
[脚注]
a ジェファーソンは,「すべての人は平等に作られている」と宣言したアメリカ独立宣言を起草しました。また,かつて奴隷制を「恐怖の塊」と呼んだことがありますが,自らは奴隷所有者でした。
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ほんの一握りの人々の引き起こした問題のことをくよくよと考えているうちに,皮膚の色の違う人すべてを嫌うようになってしまった
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偏見のために,人々が互いに疑いを抱くようになることがある
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偏見は克服できる!目ざめよ! 1985 | 2月8日
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偏見は克服できる!
社会学者のフレデリック・サミュエルズによると,偏見は「一個の人間の人格構造の基本的な要素になり……本人の自尊心や自分に対して抱く心像とかかわっている。……特定の態度や集団心像を捨てるのは,腕や足を切り捨てるのと同じほど困難であろう」と言われています。
しかし,各人種が共に働き,互いを知り合うようになりさえすれば,偏見はなんとかなくなるのではないかと考える人は少なくありません。残念ながら,どちらかといえばこれは机上の空論に終わっています。統合がかえってやぶへびになり,人種間の敵意をあおることもあります。一方,米国の南部にある,黒人差別のないとされる一つの学校について考えてみてください。そこでは黒人と白人の生徒が共に,比較的平穏にやっています。偏見に終止符が打たれたのでしょうか。「人種差別のない学校: アメリカにおける実験に対する評価」の著者たちは,生徒たちが依然として自分と同じ人種の人と一緒に座り,ほとんど専ら同じ人種の人々と交際することを選ぶとの観察をしています。研究者たちはそれを,「非公式の差別」と呼んでいます。
ですから,人種間の融和といっても大抵の場合は,平和共存に毛のはえたほどのものにすぎません。異なった人種の人々が互いに愛し合い理解し合うことを学ぶには,単に互いを接触させる以上のことが行なわれなければなりません。では,何をしたらよいのでしょうか。国際連合は,「人種差別撤廃第二回世界会議」(1983年8月1日から13日)を主催して,わずかながら努力を払っています。しかし案の定,その会議の成果として出て来たものは,さらに多くの理論と仰々しい美辞麗句ばかりでした。
人種と国籍に対する新たな見方
人々は強力な動機づけがない限り,自分たちの心の奥底にある態度や偏見を捨てようとはしません。そして,幾千幾万もの人々の場合,聖書を研究することによりそのような動機づけが除々に強まってゆきました。聖書は世界にあるほかのどんな本にもできないような仕方で,心を動かし,行動を促します。「神の言葉は生きていて,力を及ぼ(す)」からです。(ヘブライ 4:12)かりに,読者がある人種や国籍の人に対して敵意を抱いているとしましょう。聖書を研究するようになれば,ほどなくして,『神は人の外見にしたがって事を行なったりはされず』,「どの国民でも,神を恐れ,義を行なう人は神に受け入れられる」ということがその中で教えられているのに気がつくでしょう。―ガラテア 2:6。使徒 10:34,35。
神が『一人の人からすべての国の人を造った』ということを受け入れるなら,他の人種の人々に対する自分の見方を再評価せざるを得なくなります。(使徒 17:26)一人の人からすべての国の人を造られた神との交友関係を培ったのであれば,皮膚の色や髪の毛の質,人種によってそれぞれ特徴のある目鼻立ちなどの点で自分とは異なる人々を,どうして自分より劣っているとみなせるでしょうか。
確かに,人種が異なれば顕著な人格特性も異なるように思われ,そうした特性には良いものも悪いものもあります。しかし,聖書は次のような注意を与えています。「早計な判断[「偏見」,今日の英語聖書]を下すことなくこれらの事を守り,何事も偏った見方で行なうことのないようにしなさい」。(テモテ第一 5:21)ですからクリスチャンは,人の価値を皮膚の色や人種によって判断するのではなく,各人に『自分の業がどんなものかを[実証]させ』ます。―ガラテア 6:4。
例えば使徒パウロは,クレタの住民には「偽り者,害をもたらす野獣,無為に過ごす大食家」というかんばしくない評判のあることを挙げています。(テトス 1:12)しかし,それだからといって,こうした特性が何らかの意味で生まれつきのものであるとか,すべてのクレタ人にそれが見られるということではありませんでした。パウロはクレタでそのような状態を脱却した人々を探し,そのような人を会衆内での責任のある立場に任命するようテトスに指示したからです。―テトス 1:5。
なるほど,特定の民族特性の“血が流れている”という結論を出したくなる時があります。例えば特定の人種集団にはぶらぶらしていて定職のない人が数多くいるかもしれません。『あの人たちは全く怠け者だ』と性急に結論を下す人もいます。しかし,クリスチャンは人々に対して同情心を持っています。この敵意に満ちた,他の人のことを気遣おうとしない世のために,多くの人が「痛めつけられ,ほうり出されて」いることを知っています。(マタイ 9:36)実際,多くの国で,人々は人種的な偏りや経済情勢のためにふさわしい職から締め出されているのです。ですから,怠惰だと思えても,実は絶望状態や失意に沈んだ状態にあるのだということが分かることは少なくありません。そのような人たちが必要としているのは,厳しい批判ではなく,霊的な助けと理解のある態度です。
この点で思い出されるのは,何事を行なうにも,「他の人が自分より上であると考えてへりくだった思いを持(つ)」ようにという使徒パウロの助言です。(フィリピ 2:3)この助言を受け入れるには,物の考え方を根本から変えることが必要かもしれません。1世紀当時と同様,多くの人は世俗の教育があるからとか高い社会的な地位があるからという理由で,自分のほうが「上である」と感じています。しかしパウロは1世紀のクリスチャンに,「神は世の愚かなもの……また……見下げられたもの……を選ん(だ)」ことを思い起こさせています。(コリント第一 1:26-28)それら身分の低い人々には謙遜さや誠実さがあり,それゆえ神の目にはその人たちのほうが「上である」と映りました。他の人に対するこうした神のような見方をするとしたら,偏見を抱くことなどできるでしょうか。
偏見の的になるほうの側
一方,読者は長年のあいだ偏見の犠牲になってきており,偏った見方を克服しようとする人が実に少ないということに気づいておられるかもしれません。現在の曲がった社会秩序に公正を期待しても無駄だということを認識するのに聖書は役立ちます。「曲がっているものは,まっすぐにすることはできない」とソロモンは言いました。(伝道の書 1:15)それで神は,すべての不公正をやがて除き去ることを約束しておられます。そのことを知っていれば,それは慰めの真の源になるでしょう。―詩編 37:1-11; 72:12-14。
とはいえ当面,偏見に対処する方法を見いださなければならないかもしれません。偏狭な態度に対する反応として,自らも偏見を育み,別の人種の人はだれしも偏った見方をしているとの結論に達します。過度に神経質になり,ごくたわいもない言葉に傷つきます。しかし,聖書は伝道の書 7章9節で,「自分の霊にせき立てられて腹を立ててはならない」と警告しています。人を善意に解釈することを学べば,多くの場合いら立たずに済むでしょう。
また,イエスがしばしば自分の同国人であるユダヤ人から退けられたことを思い起こしてください。それでもイエスは,楽観的な態度で人々に接するようご自分の弟子たちを励ましました。イエスは,「どこでも家の中に入ったなら,まず,『この家に平和がありますように』と言いなさい」と言われました。(ルカ 10:5,6)確かに,平和な関係を持つことを期待し,またそれを願って人々に接するほうが,人に接するに当たって身構えるよりも優れています。
しかし,アパートを借すと約束していた英国の家主にその約束を破られたナイジェリア人の一夫婦のように,不公正な仕打ちの犠牲になっている場合はどうしたらよいでしょうか。(この夫婦の場合,近所に黒人が住むのは困ると人々が苦情を言ったのです。)人の尊厳に対する何という侮辱でしょう。それでもなお,聖書は,『互いに対決を迫る』ことがないようにと警告しています。(ガラテア 5:26,1984年版新世界訳,参照資料付き聖書)それは通常,偏った見方や憎しみを一層深めるにすぎません。怒りをもってそれに対応すれば,ただでさえ悪い状況を一層悪化させるにすぎないのが普通です。
イエスは次のような助言をお与えになりました。「邪悪な者に手向かってはなりません。だれでもあなたの右のほほを平手打ちする[あなたを侮辱するような行動を取る]者には,他のほほをも向けなさい」。パウロはさらにこう付け加えています。「だれに対しても,悪に悪を返してはなりません。……できるなら,あなた方に関するかぎり,すべての人に対して平和を求めなさい。……悪に征服されてはなりません。むしろ,善をもって悪を征服してゆきなさい」。(マタイ 5:39-44。ローマ 12:17-21)憎しみに対して親切な態度でこたえ応じるには,真の精神的な強さが求められます。しかし,偏狭な態度のために憤りで満たされてしまわないようにするなら,そうした態度を超越できます。
他の人の益を求める
一人のジャマイカ人の花嫁は,偏見を克服することについてさらに別の教訓を学びました。アフリカ人である夫の家族からどちらかといえばつまはじきにされた時,この人は相手の見地から物を見るようにしました。次のように思い出を語っています。「偏見を抱いているといえば,私の方にもその非難が当てはまることを悟りました。私は彼らと同様の衣服を着ようとしませんでしたし,彼らの食べ物を嫌い,彼らの言語を学ぼうとする努力を払いませんでした。そこで,その言語で幾つかの表現を学ぶよう努力してみることにしました。その言語で私が何か言うと,その度に,『おや,お前もいよいよ我が家の一員になってきたね!』という熱烈な反応が返ってきました」。
確かに,他の人々の文化の健全な面に敬意を払ったからといって何一つ失われるものはなく,かえって多くのものを得ることになります。例えば,人々が快活に振る舞う傾向の強い国の出身であれば,人々が遠慮勝ちな態度を示す国へ移り住んだ場合,自らを幾らか調整するほうがよいでしょう。聖書はいみじくも,「おのおの自分の益ではなく,他の人の益を求めてゆきなさい」と述べています。(コリント第一 10:23,24,31-33)偏見の根本にあるのは大抵の場合,利己心と不寛容であることを忘れてはなりません。
偏見が克服される!
このように聖書には,個々の人が偏見を克服し,また偏見に対処するのに役立つ実際的な助言が満ちています。しかし,敬虔なクリスチャンにとってさえ,それを実践するのは必ずしも容易ではありません。少し前に,エホバの証人の大会の休憩時間中に起きた出来事について考えてみましょう。食物を載せたトレイを持って歩いていた女性がいすにつまずき,飲み物を別の婦人の脚の上にこぼし,すっかりぬらしてしまいました。一つの事実を除けばこれは大したことでないように思えたかもしれません。その事実とは,一方の女性が黒人で,もう一方が白人だったということです。
そのあとに続いた短い,しかし怒りを含んだやり合いは,うっ積した人種的な敵意を明らかにするものでした。普通なら,謝って済ますことなどとてもできないような状況でした。事の成り行きを見ていた一人の人の助けを得て,この二人の女性は自分たちがクリスチャンであることを思い起こさせられました。二人は人種偏見が間違っていることを知っており,互いに平和な関係にならなければ,神の恵みのもとにはとどまれないことを承知していました。(ヨハネ第一 4:20)この二人の婦人が涙ながらに抱き合い,互いに謝罪し合うのを見るのは確かに感動的でした。さらに大切なこととして,二人はその出来事を忘れ,古くからの友人であるかのように話し合っていました。
このように,偏った見方を除き去る面でエホバの証人にはかなりの進歩が見られます。ご自分で確かめてみてください。神の言葉には確かに力があるという事実,偏見をも克服するに足るだけの力があるという事実の生きた証拠となる文字通り幾百万ものエホバの証人がいるのです。
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神が『一人の人からすべての国の人を造られた』のであれば,どうして別の人種の人々を自分たちより劣っているとみなせるだろうか
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憎しみに対して親切な態度でこたえ応じるには,真の精神的な強さが求められる
[10ページの拡大文]
偏狭な態度のために憤りで満たされてしまわないようにするなら,そうした態度を超越できる
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聖書を研究すると,ほかの人種の人々に対する自分の感情を再評価しなければならなくなる
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教会の壁画の修繕費請求書目ざめよ! 1985 | 2月8日
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教会の壁画の修繕費請求書
幾世紀も昔のこと,英国南部のテルスコムにある教会は,その教会内の壁画を修繕させました。例によって,その壁画は幾つかの非聖書的な偽りの教理を取り上げたものでした。しかし,教会の当局者に提出された古代の請求書はなかなか興味深いものです。それには成し終えられた仕事の明細が書いてあります。
「天を修繕し,星を調整し,大祭司の僕を洗ってそのほほに紅を入れ,地獄の炎を鮮やかにし,悪魔に新しいしっぽをつけ,地獄に落ちた者たちに少し手を加え,十戒を修正するための費用」。
これは締めて幾らだったでしょうか。何と5,520円に相当する額でした!
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傷をいやすはち蜜目ざめよ! 1985 | 2月8日
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傷をいやすはち蜜
JAMA(「アメリカ医師会ジャーナル」)誌の編集者が英国諸島のロンドン市チェルシーのロバート・ブロムフィールド博士から受け取った手紙には,はち蜜についての次のような珍しい報告が記されていました。「私は勤務先の,事故および救急部門で過去数か月間天然の純粋はち蜜を使ってきたが,二,三日に一度傷口に塗って乾いた包帯で巻くようにすると,はち蜜はこれまでに私が使ったほかのいかなる外用薬よりもよく,潰瘍ややけどの治癒を促進する」。
ブロムフィールド博士はさらにこう述べています。「はち蜜は切り傷やすり傷も含め,他のいかなる外傷にもすぐつけることができる。私はすべての医師に,非常に安価で重宝な,消毒および治療薬としてはち蜜を推奨できる。しかも,おいしい味までついている!」
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