ジンバブエ
この「年鑑」のおもて表紙の見返しを開けてください。アフリカ大陸の南部に指を走らせると,ジンバブエ(かつては南ローデシアおよびローデシア)として知られる,内陸の小さな国があります。この国はリンポポ川とザンベジ川にはさまれており,北はザンビア,東はモザンビーク,南と西は南アフリカおよびボツワナと境を接しています。
「ジンバブエ」という名前はこの国に幾つかある一群の古代石造建築物の遺跡に由来しています。その遺跡の大部分はもともと,モルタルを使わずに石を積んで建設されたもので,実に見事に造られています。ジンバブエとは,「石の場所」もしくは「尊ばれる家々」を意味するとされてきました。また,「酋長のやかた,もしくは大邸宅」という意味があるとする人もいます。その正確な意味が何であれ,かつて繁栄した社会の存在したことを示す,見事な石造建築物を指していることは間違いありません。そして今ではそれが国全体の公式の名前となっているのです。
政治面ではこの国はこれまで大体平穏でした。明らかにその例外だったのは,1970年代にほぼ10年の長きにわたって行なわれた熱い戦争です。それは多数支配実現のための戦争でした。1920年代初頭から1965年まで,この国は英国の自治植民地で,少数派である白人が政権を握っていました。1965年,多数支配に基づかない独立を英国が認めなかったため,少数派によるその政府は一方的に独立を宣言しました。不満の種が芽を出して育ち始め,遂に少数支配に対する反乱がぼっ発して全面戦争が始まりました。その戦争は1980年まで決着がつきませんでした。この国で多数支配を実現するための最初の投票が行なわれたのはその1980年のことです。それに伴い新しい国名は「ジンバブエ」になりました。
天然資源
気候について言えば,ジンバブエでは,望ましい気候条件がすべて満たされ,さらにそれ以上のものも経験できます。夏には気分をそう快にしてくれる涼しい雨が降り,冬には陽光あふれる暖かな日が続きます。気温ですか。国中ほとんどどこでも,ほぼ申し分のない気温です。首都のハラレ(以前はソールズベリーと呼ばれていた)では,夏の平均最高気温は摂氏28度で冬は摂氏18度です。
この穏やかな気候はこの国の農業の発達に大きく貢献してきました。この国にはほとんど何でもあります。読者がいちばん味覚をそそられるのは何でしょうか。バナナやパパイアやマンゴーのような芳潤で口あたりのよい熱帯の果物ですか。ジンバブエにはそれらの果物があります。それとも,リンゴやナシ,モモやネクタリンのような,さわやかな果物のほうがお好きですか。それなら,ジンバブエにはそれらの果物もあります。
景色の良いところとしては,この国の西部地方に現代の世界の七不思議の一つとされる有名なビクトリア滝があります。また東部には,東部高地と言われる風光明媚な山岳地域があります。その両者の間,全国各地には,野生動物の非常に豊富な自然動物保護区が散在しています。
さて,人目を引くものはたくさんありますが,わたしたちは一番望ましいもののことをぜひお話ししたいと思います。それは,エホバが預言者ハガイを通して(2:7)「あらゆる国民のうちの望ましいもの」と言われたものと関係しています。ジンバブエにも,その「望ましいもの」,つまり真の崇拝を奉ずる人々が確かにいるのです。しかしその人たちはどのようにしてこの国へやって来たのでしょうか。
早くから関心を持つ人がいた証拠
神の王国の音信がこの国に初めて伝わった正確な時を定めるのはたいへん難しいことです。しかし,北方のマラウィ(当時のニアサランド)と南アフリカで協会の英語の文書が1910年までにかなり頒布されていたことは記録に残っています。少なくとも1920年代初頭までに,その文書に載っていた音信が移動労働者を通して徐々にジンバブエ(当時の南ローデシア)に伝わっていました。それがささやかな始まりとなって,モザンビークとの国境にほど近いムタレから,西部のビクトリア滝に近い大きな鉱山町フワンゲまで,人口の集中するさまざまな地域で聖書研究のグループが作られるようになりました。
その当時に真理を学んだ人々の中に,南アフリカのプレトリアで長老として今なお忠実に奉仕しているハミルトン・K・マセコがいます。マセコはこう語っています。「1924年に私はニアサランドからブラワヨへ旅行し,そこで聖書研究者と交わるようになりました。その人たちが学んでいた事柄は納得のゆくもので,聖書の約束に対する理解を与えてくれました」。マセコはブラワヨに2年間滞在してから南アフリカへ行きました。
ナソン・ムカロンダも,ジンバブエで神の真理を宣べ伝えた初期の伝道者の一人です。事実,この人はジンバブエでバプテスマを受けた最初の人であったと思われます。それは1924年のことでした。ムカロンダは1947年に全時間奉仕を始め,1948年には巡回監督になり,82歳の現在なお元気で特別開拓奉仕をしています。
別個の発展
この国の事情により,王国の音信に対する関心は二つの方向に沿って,すなわち人種別に高まってゆきました。最初に,アフリカの言語を話す人々の間に見られた初期の発展の模様を調べてみましょう。
真理が実際に定着し始めたのは1924年のことだったと思われます。東部地区で,ネイサン・ムチングリが初めて真理を学んだのが1924年でした。ムチングリはこう語っています。「私たちに真理を伝えてくれたのはニアサランドから来た二人の人でした。その人たちは教理面での真理を教えてくれただけでなく,神の民になりたいなら心も行ないも清くなければならないと話してくれました」。ムチングリはその年にバプテスマを受け,後に,聖書文書をショーナ語つまり国民の大多数が用いている言語に翻訳する,協会の最初の翻訳者になりました。
そのほか,当時顕著な働きをしたのはウィルソン・スティマとロビン・マニオチの二人です。スティマ兄弟は最初1925年にマラウィで真理に関心を持つようになりました。その後ジンバブエに来てムタレに住み,その地の組織されたばかりのグループを大いに援助しました。後日ブラワヨへ移り,1948年にはこの国の初期の開拓者の一人になりました。スティマ兄弟は現在76歳ですが,1955年以来ずっと特別開拓者として奉仕しています。
もう一方の兄弟,ロビン・マニオチがその神権的な生涯を歩み始めたのは1929年のこと,ジンバブエで2番目に大きな都市ブラワヨにおいてです。しかしマニオチは,1932年にソールズベリー(現在のハラレ)でバプテスマを受けました。ハラレに着くと間もなく,マニオチは,その地域でただ一つの会衆を構成していたウィリー・クチョチャほか数人の人々と接触するようになっていました。
しかし間もなくその人たちは,会衆の成員が皆エホバの側に立つ真の証人であるとは限らないことに気づきました。では,マニオチ兄弟にどんなことが起きたのかを話してもらいましょう。
「1932年にケープタウンの事務所から,家から家の伝道を始めるようにとの手紙が届きました。それまで私たちは家から家への伝道を行なっていなかったのです。その指示に従うべきだと感じたのは,会衆内でカウンダ兄弟とその夫人,それにウィリー・クチョチャと私だけでした。ところが,そのために私たちは会衆から追い出されてしまいました。しかしあとでほかにも,家から家の業が聖書的であることを認める人が現われ,その人たちは私たちと交わり始めました。では,そのような伝道方法に反対した人たちはどうなったでしょうか。その後,1933年になって,エホバの証人の活動の増大に不安を感じた当局は,元の監督と補佐がその当時もなお会衆の『リーダー』であると考え,二人を国外に追放しました」。
マニオチ兄弟は真理に入って間もない数年間に変化に富んだ数多くの経験をしました。ある時,伝道の業を行なったことでその土地の地方弁務官の前に連れ出されたことがあります。そうしたことをどこで学んだのかと尋ねられ,マニオチ兄弟は地方弁務官に次のように答えました。「聖書からです。皆さんがここアフリカに持ってこられたあの本からです。私は聖書から学んだことを人々に説明しているにすぎません」。
ロビン・マニオチは現在85歳です。巡回の業を数年間行なった後,今でも妻のロシエと共に特別開拓奉仕をしています。ある巡回監督は最近マニオチ兄弟について次のような興味深い報告を寄せました。「このお年寄りはすばらしい働きをしていて,聖書研究をたくさん持っています。伝道者は大抵この兄弟を頼りにしています」。
英語を話す人々の間での早い時期の始まり
ここで,英語を話す人々のほうに目を向けてみましょう。真理の種がまかれ始めたのは,不思議なことに,アフリカの言語を話す人々の場合とほぼ同じころでした。もっとも真理の種が入ってきた経路は違っていました。ケープタウンにあった南アフリカ支部の3人の兄弟,すなわちヘンリー・アンケッティル,P・J・デジャジェル,P・ウィリアムズが1921年にこの国にやって来て短期間滞在し,ブラワヨとソールズベリーで講演を行なったのがそもそもの始まりでした。その後,1924年と1925年にほかの兄弟たちがやって来ました。その主な目的は業を法的に確立することにありましたが,成果は得られませんでした。
それら英語を話す証人たちの場合はいずれも,行なえることが非常に限られていました。人口の中で圧倒的多数を占めるアフリカの人々との接触を禁じられていたからです。とはいえ,真理の種はまかれていました。
王国の真理の種が本当に根づいた一つの場所は,この国の僻地にあった6,100平方㌔に及ぶ大牧場においてでした。ジャック・マクラッキーという人物がその牧場で働いていました。それは1928年のことでした。ジャックの妻ドレルは当時南アフリカにいて,その地でジャックの兄弟バートを通して王国の音信に接しました。その結果,「聖書研究」7巻がジャックの手に渡ったのです。
ジャックはそれらの本を非常に興味深く読み,その良いたよりを友人たちにぜひとも伝えたいとすぐに思いました。しかしそれはやさしいことではありませんでした。最寄りの郵便局は90㌔ほど離れており,近隣に住む人がほとんどなく,たとえ住んでいても遠く隔たっていました。交通手段と言えば,ラバか牛車しかありませんでした。ジャックはしりごみせずに,配布用の小冊子を注文する手紙を書きました。そして,農場で社交的な集まりがあると,機会を決して逸することなく王国に関して証言しました。事実,ジャックとその兄弟のバート(「ジャックおじさん」,「バーティーおじさん」の愛称で知られた)およびその家族は,非常に熱心になったので,真理はこの国の南部全域で「マクラッキーの宗教」として知られるようになりました。
1930年代に入る
王国の音信をあらゆる人種の間でしっかりと確立するという決意を捨てていなかったので,南アフリカ支部は1932年に4人の開拓者を派遣しました。その一人は現在オーストラリアにいるロバート・ニスベットでした。その旅行は問題のないものではありませんでした。入国してからわずか十日後に犯罪捜査部に呼び出されたのです。そして数日後には,48時間以内に国外退去せよとの命令を受け,控訴は認めないと言われました。それでも4人は控訴しました。そして,ニスベット兄弟の報告にある通り,「アフリカ人に対しては業を行なわないことを条件に6か月の滞在を許されました」。そのころ当局が大きな恐れを抱いていたのはアフリカ人に対して業を行なうことだったように思われます。
1932年のその訪問はほとんど成果を見ませんでした。しかし1938年に再び旅行が取り決められました。それは以前の場合よりも実を結びました。その時までに伝道者は,最初の英語会衆を形成するに足る人数になっていました。
別個の発展の障壁を取り除く
そのような進展が見られていた時,特にブラワヨ地域で業の一層の確立に大きく貢献することになる別の人物が登場しました。それはウィリー・マグレガーです。同兄弟は,現在80歳になりますが,ブラワヨにある会衆の一つで長老として奉仕しています。マグレガー兄弟は1924年に英国スコットランドでバプテスマを受け,1929年に若い銀行出納係としてジンバブエにやって来ました。1933年にブラワヨに住み着き,何年かの非常に困難な時期に兄弟たちにとってたいへん有用な働き人となりました。
その当時,政府は証人に対して,特にアフリカ人の兄弟たちに関して終始たいへん非協力的であったことを思いに留めてください。ロバート・ニスベットは次のように語っています。「政府および多くの白人ローデシア人からの反対は人間の見地からするととても克服できそうもありませんでした」。反対者たちは王国の音信がアフリカの言語を話す人々に広まるのを妨害しようと絶えず努力しました。
このことを考えると,この国で初めて人種の障壁を越えて組織的に行なわれた「ものみの塔」研究について知るのは興味深いことです。その研究は二人の通訳を介して司会されました。ではウィリー・マグレガーにその時のことを話してもらいましょう。
「研究が始まってから30分ほどたった時に,12人から15人の騎馬巡査がこちらにやって来るのが見えました。そのためある程度不安が生じました。私は,それまで通り研究を続けるように兄弟たちに求めました。到着すると巡査たちは,声の届くやや離れた所で馬の頭をこちらに向けて研究の集まり(戸外の1本の木の下で開いていた)をぐるりと取り囲みました。巡査たちは閉会の祈りまでとどまっていましたが,その時になると合図のもとに馬の向きを変えて立ち去りました」。逮捕も,干渉もありませんでした。その出来事は,別個の発展の障壁を除去する突破口となったでしょうか。非常にささやかながら,それが端緒となったことは確かです。
法的な戦いによって良いたよりが確立される
真理がジンバブエにしっかり根をおろすのを阻止できなかったため,政府の反対は新たな様相を帯びてきました。事実,1936年以降の10年間には,この国における業の歴史上かつてないほど激しい反対が当局からもたらされたのです。
同年,政府は治安法を制定して協会の出版物のうち14冊を扇動的文書であると宣言しました。その結果1937年に先例となる訴訟が行なわれ,裁判がなされました。その時に起きた事をウィリー・マグレガーは次のように述べています。
「出版物が扇動的であるとのブラワヨ治安判事の判決に対して控訴がなされ,ブラワヨにある高等法院は協会の出版物が治安法にふれる扇動的文書ではないとしました」。当時の政府がどれほどの決意をもって協会の聖書文書の配布をやめさせようとしていたかを示すものとして,「政府は次に,南アフリカのブルームフォンテインの控訴裁判所に上訴しました。1938年3月,同裁判所はブラワヨの高等法院の判決を支持し,文書は扇動的ではないとして上訴を却下し,政府に対して訴訟費用を要求しました」。
この事件は結果として優れた証言になりました。「ブラワヨ・クロニクル」紙は法廷の意見を全文掲載しました。協会のケープタウン事務所からジョージ・フィリップスがやって来て,裁判のあいだ協会の弁護士の横に座り,その弁護士が適切な聖句を見つけたり,扇動的文書であると宣言された出版物の抜粋の説明を行なうのを助けました。ついでながら,その時協会の弁護士を務めたのは,後にローデシア(ジンバブエ)最高裁判所長官となったヒュー・ビードル氏でした。
反対が激しくなる
まだ小さいとはいえ成長しつつあった,熱心なエホバの証人のグループの活動を抑えるため,1939年に反対者たちはさらに激しい運動を開始しました。そのころこの国の伝道者は477人になっていました。そのうち約16人は白人でした。反対の矢面に立たされたのはそれら白人の証人たちでした。
同じ年,ジンバブエに一家族が引っ越してきました。そのことは,その後の数年間王国の業に計り知れない影響を与えることになります。その家族とは,ジャック・マクラッキーの兄弟であるバートと妻のカルメンおよび二人の子供たちでした。85歳になる今日もなお,バート・マクラッキーは,その熱っぽい話し方とエホバに対するうむことのない熱意とで知られています。そのような熱意ゆえにマクラッキーとその家族は数々の興味深い経験や胸の躍るような経験をしました。それについては後ほど触れることにしましょう。
1940年中,エホバの民の活動は,特に宗教指導者の間で大きな心配の種,また非常な論議の的になりました。新聞紙上には,エホバの業の評判を落とすことを意図した手紙が掲載されました。それに対抗するため,協会のケープタウン事務所は「南ローデシアにおける宗教的不寛容」と題する印刷物を作成しました。その印刷物は「秩序を愛するローデシアの人々すべてに」あてられたもので,ブラワヨおよびその周辺の一般家庭,事務所および商業地域にもれなく配布されました。
次いで1940年11月に,政府は戦時中の病的興奮状態を利用して,協会の文書の輸入と配布を全面的に禁止しました。ジャック・マクラッキーとバート・マクラッキー,ウィリー・マグレガーのような熱心な兄弟をはじめとする一握りの兄弟たちは,その規則の法的効力を試すことにしました。それで文書を携えて出かけて行ったのです。こうして火花が散るようになりました。警察による検挙があり,訴訟がそれに続きました。最初のうちに,訴訟は裁判でほとんど却下されました。しかしやがて事態は変化しました。
バート・マクラッキーとジャック・マクラッキーが共に裁判を受けた時,興味深い事がありました。ジャックは厳密な解釈上の理由で釈放されるのを好まないタイプの人で,それくらいならむしろ刑務所へ行くほうがよいと感じていました。その時に起きた出来事を語るバートの話は興をそそります。
「私は,ジャックに不利な証人に質問する許可を得ました。私たち兄弟はとてもよく似ているので,あなた方に近づいて来たのは私ではなくてジャックだったと断言できますか,と証人たちに尋ねました。証人たちは断言できないことを認めたので,事件は却下され,ジャックは大いにくやしがりました」。
当時,禁止されていた文書を配布したことやクリスチャンの忠誠の問題などの理由でかなりの兄弟が投獄されました。ウィリー・マグレガーもその一人でした。マグレガー兄弟は,そのときには銀行の役員になっていましたが,銀行を解雇されました。同兄弟は投獄された時のことをこう語っています。「ヨーロッパ人の刑務所で重労働をさせられていた受刑者は私だけでした。ほかの受刑者は,殺人や盗みその他さまざまな暴力行為の罪で刑に処せられていたにもかかわらず,チェスやドミノをしたり読書をしたりして暇をつぶしていました。一方私は建物の外側のパイプや木造部分にペンキを塗る仕事をさせられました」。
1940年代に変化の兆しが見える
1940年代の初めには王国の業に対する当局の態度にほとんど変化が見られませんでした。1942年(この年バート・マクラッキーは再び刑務所で4か月半を過ごした)に,兄弟たちは「年鑑」を抜粋し,「エホバの証人: 彼らはどんな人々で,どんな業をしているか」と題する小冊子を印刷しました。それに続いてさらに多くの人が逮捕されました。小冊子に発行者の名前が記されていなかったことなど関係ありませんでした。その時逮捕された人の中にはウィリー・マグレガーおよびソールズベリー(現在のハラレ)に住んでいたバプテスマを受けて間もないギリシャ人の兄弟ゲリー・アルセニスがいました。
しかし事態は徐々に変化してきていました。柔軟な態度を示す証拠が表われるようになりました。「ブラワヨ・クロニクル」紙に寄せた長い手紙の中で,一婦人は次のように述べています。「マクラッキーその人が私どもの家へやって来ました。片手に聖書をしっかりと握って非常にもの静かにやって来て,私が応対に出ると,『奥さまにお伝えしたいことがあります。お聞きになりたいと思われますか』と,ていねいに言いました。『あなた方はまだ懲りないの』と,こちらが興奮して言うと,『何のことでしょうか。私たちが刑務所に入ったことがあるのでそうおっしゃるのですか』と言いました。私は『ええ,そうです』と言って主人を呼び,マクラッキーを始末してもらおうとしました。どうすることができたでしょうか。非常に礼儀正しく,聖書をしっかりと手にしています。主人は,マクラッキーをけ飛ばして戸口の昇り段から追い払うことはおろか警察を呼ぶことさえできませんでした。その人の振る舞いには文句のつけようがありませんでした。マクラッキーは私たちを当惑させ,来た時と同様,もの静かに立ち去りました」。
第二次世界大戦中,伝道者の数は増加し続け,1943年には1,090名に達しました。業が規制されていたにもかかわらず,翌年にはアフリカの言語を話す兄弟たちのために二つの大会,英語会衆のために一つの小さな大会が取り決められました。その三つの大会に合計1,101名の出席者があったことから,白人の兄弟がこうした苦難に直面していた期間中もずっと,アフリカ人の証人たちが非常に活発であったことを知ることができます。
制限が解除される
1946年に政府は,協会の文書の輸入と配布に対する制限を解除することを決定しました。兄弟たちはそのことを非常に喜びました。しかし,家から家の奉仕の点で,訓練が大いに必要とされていました。その時までに野外での指導の必要もさらに大きくなっていました。この必要を満たす点で一大進歩となる処置が1947年7月1日に取られました。南アフリカ支部の指導のもとで,協会の文書集配所をブラワヨに開設するようバート・マクラッキーが割り当てを受けたのです。
開拓者の業の開始
これまで開拓者の業のことにはほとんど触れませんでした。この業が本当の意味で始まったのは1947年のことでした。それ以前はわずか二,三人の開拓者が野外にいたにすぎず,一人もいない年も何年かありました。そして1947年には3人の開拓者がいました。そのうちの二人はナソン・ムカロンダとロビン・マニオチです。
それ以降開拓者の業は急速に増大するようになりました。1949年の平均開拓者数は114名でしたが,1950年には一挙に156%増加して292人になりました。また,1949年には最初の特別開拓者が生まれました。それはゼカライヤ・ノアです。こうして物事は進展するようになっていました。
前途の業のために組織する
その時までこの国の業は南アフリカ支部の監督のもとにありました。しかし幅広い影響を及ぼす変化が1948年に生じました。「年鑑」の中で「ギレアデからの贈り物」と述べられた,ギレアデ学校卒業生がその年の1月に初めてこの国に到着しました。それはエリック・クックでした。そのすぐ後に二人の訪問者,すなわちN・H・ノア兄弟とM・G・ヘンシェル兄弟もやって来ました。二人の訪問の結果,会衆の指導と組織の面での改善という方向へさらに大きな進歩が見られました。1948年9月1日にエリック・クックを支部の監督とする支部事務所が設立されたのです。
きめ細かな監督が野外で必要とされていることは明らかでした。そのころまでに伝道者は3,500人を上回っており,117の会衆に分かれて奉仕していました。それで1948年にはそれらの会衆は五つの巡回区に分けられました。およそ640㌔平方の国に巡回監督が5人しかいなかったのですから,当時の巡回監督の仕事がどれほどのものであったか,読者も想像できるでしょう。その旅行にバスや列車が使われることもありましたが,大抵は自転車が使われました。しかしそれが始まりだったのです。
助けとなる人々がギレアデからさらに到着する
覚えておられると思いますが,最初から業の妨げになっていたのは,ヨーロッパ人の兄弟たちがアフリカ人の地域で奉仕できないということでした。事実,そのころ原住民指定居住地と呼ばれていた所に白人の兄弟たちが入ることは,たとえ監督する目的のためであっても許されませんでした。そうした状況のところへ,ギレアデの第10期生4人が,1949年2月にやって来ました。それは,ジョージ・ブラッドリーと妻のルビー,マートル・テーラーおよびフィリス・カイトです。エリック・クックとマートル・テーラーは後に結婚し,現在南アフリカで宣教者として奉仕しています。
4人の新しい宣教者には国内滞在の許可が与えられましたが,それはあくまでも試験期間という条件でした。それというのも,出入国管理局局長によれば,エホバの証人はまだ『疑われていた』からです。しかし,ブラワヨで白人を対象に奉仕して数か月たった時,ジョン・クックは出入国管理局に呼ばれ,試験期間は終わったと告げられました。4人が全員永住を認められたのです。それは,ギレアデ卒業生が将来さらにこの国に入って来る道を開くものとなる勝利でした!
そのあと増加がみられる
アフリカ人のために指定された地域で白人が活動してはならないという制限がその勝利によって取り除かれることはありませんでしたが,英語を話す人々の地域における王国の業をさらにしっかりと確立することにその勝利は大きく貢献しました。例えば,支部と宣教者の家が最初に運営されたブラワヨでは英語の会衆の伝道者が1949年に54%増加しました。
この国からギレアデ学校へ行った最初の開拓者たちの一人,ドリーン・キルゴウルはこの会衆の出身です。同姉妹は1956年に卒業し,ここジンバブエで数年間奉仕してから南アフリカへ任命が変わり,そこで1983年2月まで宣教者として奉仕しました。その後,老齢の母親の世話をするためジンバブエに戻りました。姉妹は特別開拓者として引き続き立派な手本を示しています。
その期間に,急激な増加がみられました。1948年から1951年までの3年間に,伝道者の最高数は4,232人から9,088人に増え,会衆は117から191に,巡回区も五つから七つに増えました。1951奉仕年度には平均伝道者数が37%の増加を見ました。
思いがけない助け
エホバの証人に対する反感,エホバの証人がどんな動機を持っているか分からないという不安感を多くの人が持つようになっていたことについて少しの間お話ししましょう。支部事務所と宣教者の家が首都へ移った後の1950年6月に,ジョージ・ブラッドリーがソールズベリーで経験した事柄はそのことを示すよい例です。
ブラッドリー兄弟が街路での業を行なっていた時,立派な身なりの男の人が近づいて来ました。ブラッドリー兄弟が「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を堂々と掲げているのを見て幾らかショックを受けた様子でした。そして,「これは共産主義の文書ではないのかね」と尋ねました。そうでないことを納得すると,「わたしは国会議員のデンディ-ヤングです。あなた方の業についてわたしは何も知らないと言わねばなりません」と述べ,2冊の雑誌を受け取ると,翌日自分の事務所に来て欲しいと言いました。
次の日に訪問したところ,雑誌には有害なところが少しもない,あなた方の業の動機と目的を明確に述べた手紙を書くように,とデンディ-ヤング氏は言いました。なぜそのようなことを求めたのでしょうか。議会で破壊活動法の法案が論議されようとしており,デンディ-ヤング氏は,それに関連してエホバの証人のことも議題に上るような気がしていたからです。同氏は事実を示す手紙を議会で読みたいと考えていたのです。その約束通り,手紙の全文が朗読されました。
その法案は成立して法律になりましたが,エホバの証人の業にその法律が適用されたことは一度もありません。
輸入の問題
1950年代の初めに行なわれた大きな闘いは同国への文書の輸入に関するものでした。1947年に文書集配所が設立されて以来,米ドルの制限額の枠内で輸入することが1年ごとに許可されていました。それで1950年の初めに申請を出した時,いつものように許可されるものと考えていました。ところが大変驚いたことに,申請が却下されたのです。支部は,文書を無償の贈り物としてもらう取り決めのもとに申請を行ないましたが,それさえも受け入れられませんでした。どうしたらよいでしょうか。
当局者が態度を和らげ,文書の輸入を許可することを期待して申請し続ける以外に方法はありませんでした。ついに1951年8月,無償の贈り物であれば文書を輸入してもよいという承諾が得られました。そうすれば,外貨が国外へ流出せず,政府の外貨準備に影響がありません。
この取り決めのもとで最初に受けた許可によると,1万1,200㌦相当の文書を輸入できるということでした。これは何かの間違いに違いないとわたしたちは思いました。それで,許可が再び下りることはないかもしれないと考え,この機会を利用することにしました。許可が得られなくなる場合を考えて,制限枠いっぱいの注文をしたのです。その中には,「宗教は人類の為に何を成したか?」と題する本3万2,000冊も含まれていました。この本が聖書研究の優れた手引きになったのはうれしいことです。というのも,最初に注文した時に入荷したその書籍を,実に24年後の1975年までずっと配布し続けたからです。
必要を満たすためのより優れた組織
1948年に支部事務所が設立された後の数年間は非常に急激な増加の時となりました。数字は味気無いこともありますが,時には真実を伝えてくれるものです。例えば,1949年に開かれた五つの巡回大会の出席者の合計は7,415人,バプテスマを受けた人の合計は647人でした。続く3年間に,5,186人がバプテスマを受け,エホバへの献身を象徴しました。これは,支部が設立された年の全国の平均伝道者数を1,587人も上回る数です。
ほかにもこんな事がありました。1952年12月に再びノア兄弟とヘンシェル兄弟の訪問を受けました。ひどい雨期の真っ最中に屋外で開かれたこの度の大会で,二人の訪問者は1万5,000人の聴衆に話をしました。それは1949年の訪問の際の聴衆の2倍に当たります。
このように,あらゆる点からして,より優れた組織が必要とされていました。それでその訪問中,首都の中心部に1軒の家が購入されました。その家は以後20年間にわたって宣教者の家および支部事務所の所在地として使用されることになりました。
地域の業は益をもたらす
地域監督の仕事は1953年まで支部事務所が行なっていました。しかし専任の地域監督が必要なことは今や明らかでした。まず第一に,巡回区の数が13に増えていました。それで,その時から,専任の地域監督が任命されました。最初の数年間は主としてギレアデの卒業生がその任にあたりました。
地域監督が入れない地域がまだ幾つかありましたが,その業には確かに益がありました。一つとして,地域監督の働きにより,エホバの証人の業に対する誤った印象を捨てるよう助けられた農家の人や鉱山労働者は少なくありませんでした。
この国の南部の,ヨーロッパ人が農業や鉱業を営んでいる広大な地域にある小さな村ムベレングワで巡回大会が取り決められた時の一つの出来事はその一例です。大会の準備が進められている間,ルビー・ブラッドリーは証言に出かけ,ある鉱山に住む退職した紳士を訪ねました。この人は証人の活動に対して非常に偏見に満ちた態度を示し,証人の活動がアフリカ人に及ぼす影響を大変心配していました。
その人が自分の気持ちをすっかり述べた後,ブラッドリー姉妹は,「私たちがどのような業を行なっているかを説明させていただけないでしょうか」と言いました。構わないということだったので,ブラッドリー姉妹は王国の業の性質と目的を数分間説明しました。そして大きな鉱山会社の経営者たち(紳士はその一人を知っていた)が,アフリカ人の証人は正直で信頼できるという点について語った事柄をも話しました。男の人はその話に大変感銘を受け,書籍を4冊求め,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の両方を予約しました。
その訪問は大へん有益だったことが判明しました。大会に対する反対が強く,中止させようとする働きかけのあることは分かっていました。ところがその誠実な人は誤解を正すことを自ら買って出たのです。人々のたまり場になっている,村の宿屋に出かけて行って,自分が学んだことを人々に伝えました。その地域ではそれ以後大会に関連した問題は起きなくなりました。
当時そうした僻地において王国の音信に対する関心は著しく高まりました。地域監督とその妻が文書を配布し尽くして予約を提供することにしたという経験は珍しくありませんでした。
地域の業がもたらした別の益は,1954年の「躍進する新世社会」と題する映画を皮切りに上映された協会の一連の映画でした。初めて上映されたのはある巡回大会の時でした。その巡回区の伝道者の合計は700人ほどでしたが,出席者は3,378人に上りました。それはまさに胸の躍る出来事でした。それ以後,他の映画が上映された時にもやはり大勢の出席者がありました。出席者の中には,エホバの組織の世界的な規模での活動に対する驚きを表わす人が少なくありませんでした。
清める業が始まる
先にも述べた通り,1950年代の初めには非常に急激な増加がありました。しかしそれは問題なしにはすみませんでした。誤った習慣や慣行から実際に身を清めずにバプテスマを受けていた人が大勢いることが明らかになりました。一つには,巡回大会に出席しただけで,エホバに本当に献身してはいなかったのにバプテスマを受けた人が大勢いました。ほんの思いつきでバプテスマを受けた人もいれば,バプテスマを受けたのが新しいものに対する好奇心以外の何ものでもなかった人もいたのです。
その上,正当な法的手続きをしないで結婚関係に入っている人が大勢いました。ご存じの通り,白人がこの国へやって来るまで,結婚は,仲人や花嫁代償その他を含むアフリカの習慣に従って執り行なわれていました。結婚を民事当局に登録することを政府が要求するようになっても,そうした慣行はなくなりませんでした。その問題の対策として,政府は,1951年1月1日より前に部族の取り決めのもとで執り行なわれた結婚はすべて合法的であるとしました。しかしそれ以後は,結婚を正式に認めてもらうには必ず法律に従って登録しなければなりませんでした。言うまでもなく風習というものはなかなか廃れないものです。それで,古い慣行を守り続ける人が少なくありませんでした。
しかし協会は,1951年1月1日以降に部族の取り決めのもとで執り行なわれた,政府によってもはや認められていない結婚をよしとするわけにはゆきませんでした。(ローマ 13:1,2。ルカ 2:1-5)この問題全体が注意深く調べられ,聖書的な要求が諸会衆に知らされました。1951年1月以降に結婚し,その結婚を合法化していない人々はみな,6か月以内に結婚を登録するように申し渡されました。その期間の終わりまでに二人が何の手続きも取らず,酌量すべき情状もない場合,取るべき唯一つの道はそれらの人を排斥することでした。
わたしたちにとって励みとなったのは,そうした立場にあった人の相当数が,エホバへの愛に動かされて,結婚を聖書的にふさわしいものとするための処置を直ちに取ったことでした。それは簡単なことではありませんでした。結婚の登録手続きを進める許可を得る前に,近隣の国々へ出かけて行ったり,あるいはそれらの国から親戚に来てもらったりする必要のある場合が少なくありませんでした。
しかし,生活をエホバのご意志に調和したものとすることを本当には望んでいなかった人もかなりいました。こうして,1955年の初めに,エホバの義の規準を受け入れようとしない者たちが幾百人も排斥されました。当時排斥された人の中に,何年も後の最近になって結婚を合法的なものにして会衆に復帰し,現在喜びのうちにエホバに仕えている人がいることは大きな励みになっています。
開拓奉仕の後退
開拓奉仕には1949年以降拍車がかかり出しました。その年には114名の開拓者がいました。それからわずか3年後の1952年には平均開拓者数が949人になり,そのほかに6人の特別開拓者がいました。それは実にすばらしいことでした。しかし,時たつうちに,それら開拓者のかなりの人たちが正確な報告を送っていないことが明らかになりました。その多くは実際に野外奉仕に費やした時間を報告しないで,100時間という要求されている時間を報告していたのです。どうしてそうしたことが起きたのでしょうか。読み書きができず,したがって野外奉仕の記録を正確に付けることができない開拓者が多かったからです。
1955年にその問題について協会の本部の意見を求めた結果,読み書きのできる人だけを開拓者とするようにという助言が支部事務所に与えられました。そのため開拓者の数は減少しました。むろん,一度にそのような処置が取られたのではなく,それら開拓者が奉仕していた会衆を巡回監督が訪問した時に処置が取られていきました。会衆で読み書きのクラスが開かれた結果,1970年代に入ってからでさえ,当時の人々で開拓者の隊伍に再び加わる人がいたことをお伝えするのは喜びです。
認可を得る闘い
共同部落にある諸会衆をより良く監督するという問題をここで再び取り上げるのはふさわしいと思われます。地域監督たちはヨーロッパ人だったので,その時までこの国のそうした地区に立ち入ることが許されていませんでした。つまり,国土のほぼ半分が地域監督たちには立ち入り禁止になっていたということです。巡回監督と一緒に奉仕したり,巡回大会に出席したりすることはできましたが,それらの地区の外で行なわなければなりませんでした。それは,共同部落にある会衆を強めようとする協会の努力ににとって大きな障害となっていきました。
どうしたらよいでしょうか。根本的な問題は,エホバの証人が認可された宗教法人でないという点にありました。それで問題は,どうすれば認可してもらえるかということです。
1954年にギレアデ学校卒業後この国へ来て,その時支部の監督として奉仕していたレスター・デービーは,結婚式を執り行なう権利を得るなら認可を得ることに向けて大きく前進する結果になると考えました。すでに1949年当時からエホバの証人の結婚式司式官を持つ権利を求める申請が出されていましたが,それはいつも却下されていました。
エホバの証人の結婚式司式官を持つ上で大きな障害となっていた事柄の一つは,エホバの証人がみな奉仕者<ミニスター>であるという点です。当局の言い分は次のようなものでした。すなわち,キリスト教徒結婚法によれば認可された宗教の聖職者<ミニスター>はだれでも結婚式を執り行なえるので,エホバの証人はだれでも結婚式を執り行なえることになってしまうというものです。しかし,その目的で用いられる人は,協会の特別な代表者として奉仕する者,特別な叙任証明書を持つ者に限ることが保証されました。
それは遂に成功しました! 1956年5月,ギレアデ卒業生とベテルの兄弟7人が結婚式司式官として任命されたのです。全面的な認可への大きな前進でした!
勝利は続く
それから間もない1956年6月に,アメリカ人の夫婦,バッド・ミラーと妻のジョーンがこの国へやって来ました。ミラー兄弟はギレアデ卒業後,支部の監督になるために派遣されたのです。ヨーロッパ人の旅行する監督たちが原住民指定居住地に入る権利を取得する闘いがこの兄弟の指導のもとに引き続き行なわれました。エホバの証人が結婚式司式官を持つことを許可するという決定がなされたのは神の取り計らいによるものであることが分かったのはその時のことです。原住民課の課長の事務所とひんぱんに手紙のやり取りがなされました。次に紹介するのはその事務所から届いた手紙の一部です。
1956年9月27日付: 「ヨーロッパ人の監督者の,原住民指定居住地立ち入りの件。これは目下検討中である」。
1956年12月8日: 「法務内務課に結婚式司式官として登録されている貴協会のヨーロッパ人の監督者にのみ,原住民指定居住地および原住民地域への立ち入りを許可する」。
1957年1月14日付: 「名前の挙げられていた人々の,原住民指定居住地および原住民地域への立ち入り許可証をここに送付する」。
それまで入ることができなかった広大な地域にある会衆を地域監督が巡回監督と共に訪問することは遂に可能になりました。エホバは確かに,この国のあらゆる場所でそのご意志がなされるよう物事を取り計らっておられました。
減少の理由
先に述べた理由に加えて,この国の増加率がしばらくの間非常に低くなった理由がほかにもあります。本当に資格のある人だけがバプテスマを受けるようにするため,バプテスマ希望者はすべて,現在では「わたしたちの奉仕の務めを果たすための組織」と題する本の中で略述されている内容に類似した研究過程をまず終了しなければならないという条件が設けられました。それを終了すると,バプテスマ希望者各人は会衆の監督から承認されます。しかしそれがすべてではありません。巡回大会では地域監督の面接を受け,地域大会では協会の特別な代表者の面接を受けるのです。
その結果が当然どのようなものであったかご想像いただけると思います。やはり,バプテスマを受けた人の数は減少しました。例えば,1957年に開かれた,出席者が1万6,000人の大会でバプテスマを受けたのはわずか100名でした。これはそれまでの数からすれば大きな減少です。しかしその最終的な結果として諸会衆は,霊的に強いものに,つまり,正確な知識によって新しい人格を本当に身に着けた人々で構成される会衆になりました。―コロサイ 3:10。
伝道者の増加率が低かった別の理由として,報告が正確になされなかったということもありました。開拓者については既にこの問題が取り扱われましたが,伝道者の中にも正確に報告しない人が大勢いたのです。
1957年から1962年の5年間を見るとそうしたことの影響がうかがえます。その期間中に3,600人が新たにバプテスマを受けました。ところが伝道者は全く増えていないのです。事実,1962年から1967年にかけては減少が続きました。伝道者数が再び増え始めたのは1968年からのことでした。
全面的な認可はまだ先のこと
不思議に思えるかもしれませんが,政府の一つの部局でエホバの民が認可されたからといって,他の部局も認可するとは限りません。ですから,法務内務課と原住民課からやっと認可が得られたものの,教育課は依然として証人を認可しようとしませんでした。そのためにいろいろ面倒なことがありました。どんな面で問題があったのでしょうか。
当時,大都市から離れた土地での学校教育は大抵宗教組織に牛耳られていました。政令によれば,児童は平等に学校教育を施されるべきであり,親の意思に反した宗教教育を施されるべきではないことになっていました。
この問題に関する政令に従う宗教団体もありましたが,従おうとしない宗教団体もありました。後者のような宗教団体は,日曜学校や学校の授業以外の宗教の授業にも出なければ,エホバの証人の子弟が自分たちの学校で教育を受けることを許さないと決めていました。
ギレアデ学校卒業後,1955年に妻のマリーと共にこの国へやって来て,地域の業を行なっていたドン・モリソンは,「学校の要求に従わないエホバの証人を退学させ,翌年再入学を認めることもしないと公言している宗教団体もありました」と述べています。しかし,その問題が教育課に持ち出されると,学校側は施設の不足を主張したものです。受け入れられる児童生徒の数に限りがあって,学校側は,エホバの証人の子弟が決してその中に入らないようにしました。エホバの証人の子弟を退学させるのは,その子供たちが「不従順」であるからだと教育課に報告する学校もありました。その「不従順」とは,日曜学校に出席しようとしないということでした。しかし,教育課は児童にそうすることを要求していなかったのです。
したがって,他の問題と同様,この問題でも,宗教法人として認可されることが絶対不可欠になりました。
1950年にさかのぼりますが,たとえ証人の子弟を教育するためであっても宗教教育を施す目的でエホバの証人の成人が学校内に立ち入ることは許されない,という通知が教育課からすべての学校に通達されました。1956年の回答も同様のもので,「非常に残念ながら,児童生徒に宗教教育を施す目的にかなった宗派としてペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会を認める用意は教育大臣にはありません」となっていました。1957年の回答も同様のものでした。
教育課がようやくこの問題に関する立場を変えたのは何年も後のことです。しかしその事はあとで詳しく述べましょう。
経験のある兄弟たちは野外を強める
この国へ派遣された宣教者が大抵,どれほどの度量を持っていたか読者に知っていただくため,ここで二組の夫婦についてお話しするのはよいでしょう。
最初の夫婦,テッド・バッキンガムと妻のジョイスはギレアデ学校を卒業して1959年6月にこの国へやって来ました。その時から1970年代の半ばにシエラレオネへ任命が変わるまで,二人はおもに英語を話す人々の間で巡回の業を行なって奉仕しました。10年余りの間ほとんど毎週会衆から会衆へと旅行しました。二人の受け持ちの区域はこの国の全域でした。それが一つの巡回区だったのです。バッキンガム兄弟はシエラレオネにいる時に重い病気にかかり,アフリカを去って,英国ロンドンの支部事務所で奉仕するようになりました。ジンバブエの兄弟たちは今でもバッキンガム兄弟姉妹に温かな愛情を感じています。
もう一組の夫婦はジョン・マイルズと妻のバルです。このアメリカ人の夫婦は,地域監督の必要があって,1960年6月にザンビアからこの国へ任命が変わりました。二人が経験を書くとしたら1冊の本ができるに違いありません。次に挙げるのはその経験の一つです。幹線道路の近くのある小さな会衆を訪問していた時のことです。マイルズ兄弟はこう語っています。
「私たちは,会衆に近い幹線道路沿いの引っ込んだ魅力的な所に1週間キャンプをしようと決めていました。ところが,地元の兄弟たちはもっと近い別の場所にキャンプすべきだと考えていました。私たちは自分たちの選んだ場所のほうが好きでしたが,便利さの点からもっと近い所に移ることにしました。
「その週中,夕食を取っている時に,銃声のようなものを聞きました。しかしトラックがバックファイヤーを起こした音だろうと気にも留めませんでした。翌日,昼食を取っている時に,私たちがキャンプをしようと考えていた待避所で警官と“反体制運動家”との銃撃戦があったというニュースをラジオで聞きました。その戦いで“反体制運動家”3人が死亡し,警官数名が負傷しました。そのあと,キャンプ用のテーブルやベンチや周囲の木々に銃弾の跡を見た時の私たちの気持ちは,ご想像いただけるでしょう。キャンプ地を変える気にならせてくださったことをエホバに深く感謝しました!」マイルズ兄弟姉妹は現在レソトで忠実に奉仕しています。
地域の業での経験
地域監督たちが夫人と共に遭遇した珍しい経験をもっと聞きたいと思われますか。ドン・モリソンとマリーのことには既に触れました。国の西部にあるカリバという土地でのこと,ある晩モリソン兄弟はテントの外で腰を降ろし,タイプを打っていました。モリソン姉妹はテントの中で既に床に就いていました。モリソン姉妹はこう語っています。「テントで横になっていると,シューっという奇妙な音が聞こえました。ドンを呼びましたが,主人には私の声が聞こえませんでした。またシューっという音が聞こえました。今度は外のドンのところへ行って,そのことを主人に話しました」。
モリソン兄弟はこう話しています。「それで私は懐中電灯を持ってテントの中に入って行きました。テントの端と,テントの中に置いてあった幾らかの文書の間に人間の握りこぶしよりも太いヘビの胴体が見えました。私はすぐに外に出て鉄のパイプを取ると,テントの裏手に回りました。ヘビのしっぽの先が突き出ていました。私はパイプでそれをたたきました。ヘビの頭がぬっと現われました。ヘビはかま首をもたげ,私に向かって体をふくらませてシューっと音を出しました。それはパフアダーという毒ヘビでした。私は,既に弱っているヘビを鉄のパイプでたたいてその息の音を完全にとめました」。モリソン姉妹がその晩よく眠れなかったのは言うまでもありません。
ルビー・ブラッドリーはこんな経験を話しています。「初めてサソリに出会ったのは,地域の業で最初にテントを張った時のことです。ちょうどベッドに入ろうとしていた時,テントの下から何かがはって入って来るのが見えました。それはサソリでした。私たちはすぐにそれを殺しました。ところがまた1匹,また1匹と入って来るではありませんか。4匹殺してようやく,サソリが集まって来るのはテントの明かりのせいだということに気づきました。それで,最善の策として明かりを消すことにしました」。
1962年3月,別の宣教者の夫婦がこの国にやって来ました。それはジョン・マクブラインと妻のアイリーンです。マクブライン兄弟はギレアデ学校の10か月の課程を終え,支部の監督の務めを担うためにジンバブエに派遣されました。しかし,まず,この国の野外の様子に慣れるために地域の業を幾らか行ないました。同兄弟はそのときのことを次のように語っています。
「支部事務所のジョージ・ブラッドリーはアイリーンと私を,いちばん近い町まで約90㌔もある奥地で開かれる小さな巡回大会へ連れて行ってくれました。あいにく,私たちはハリケーンの最後尾部に巻き込まれてしまいました。それで,土砂降りの雨が降っていました。
「大会の会場は,それまで小さな流れだった川を越えた所にありました。ところがその川が今や激流になっています。その晩大会を開くことができないのは極めて明らかでした。それで,アフリカ人の兄弟たちはどこか避難できる場所を見つけました。
「私たちはどうしたらよいでしょうか。実際,待つ以外に何をすることもできませんでした。到着してすぐにテントを張ったのですが,激しい嵐になってテントが漏るかもしれないと思い,私たち3人はバンの中で眠ることにしました。ジョージは前の席に何とか横になり,アイリーンと私は後部にいました。その晩は何ともひどい晩でした! 外では,風速がさらに強くなり,嵐は一層激しさを増しました。ある時私たちはテントの中をのぞいて見ました。するとどうでしょう,床上10㌢ほどのところまで水がきていたのです! 自動車の中で寝ることにして,というより,寝るよう努力することにして本当によかったと思いました。
「翌朝には前日よりも明るい見通しが持てるようになり,雨も穏やかになっていました。間もなく,地元の兄弟たちは,大会の会場として使える学校の教室を見つけました。私たちよりも大変な思いをした兄弟たちが示してくださった温かな態度は,私たちの経験した事柄すべてを相殺して余りあるものでした」。
不穏な兆しが見え始める
1960年代の半ばに差し掛かったころ,穏やかならぬ批判の声が聞かれるようになりました。それまで旅行する監督たちは野獣から身を守らなければなりませんでした。一つの会衆から別の会衆へ向かう途中,うろついている獣から身を守るために,一晩中木の高い枝に体をゆわえつけることまでした監督たちもいます。しかし,今度は別の方面からの,つまり人間からの危険がありました。(コリント第二 11:23-27と比較してください。)政治的脅しが加えられるようになったのです。
その影響を最初に感じた兄弟たちの一人に,首都で会衆の監督として奉仕していたアリモン・ムリンガという兄弟がいました。ムリンガ兄弟は1965年1月12日に逮捕されたのです。それはどうしてでしょうか。「過去に暴力行為の罪を犯したことのある大勢の者の一人と」みなされたというのです。言うまでもなくそれは虚偽の言い掛かりでした。しかし,ムリンガ兄弟は,無実が証明されるまで1か月のあいだ非常につらい経験をしなければなりませんでした。
裁判もなく90日間の刑を言い渡されたために,ムリンガ兄弟は上訴を申し出ました。しかし上訴は認めないと言われました。それを不服として,ジョン・マクブラインは支部事務所を代表し,法秩序相に直接訴えました。その結果,ムリンガ兄弟の雇用者の優れた推薦もあって,投獄されてから1か月後にやっと釈放されました。
ところで,同兄弟は刑務所内でどのような扱いを受けたでしょうか。ムリンガ兄弟はこう語っています。「刑務所当局からはよい待遇を受けました。しかし,受刑者の中に手荒なことをする者が何人かいました。二度ほどひどく殴られ,いずれの場合も意識を失ってしまいました。私を無理やり自分たちの政党に入党させようとしてそのようなことをしたのです。この殴打は,重いベルトを使って,何も着けていない背中に加えられました。そして殴打されるごとに,少なくとも9人の男たちの激しい平手打ちを顔にくらいました」。
その間中ムリンガ兄弟はクリスチャンらしい非常に立派な行状を保ったので,最後には,ムリンガ兄弟を苦しめた人の中からムリンガ兄弟をかばう人も何人か現われるようになりました。同兄弟の確固たる態度はその後他の人々にとって励ましの大きな源となりました。
アフリカ人の地域監督
長年にわたり,監督の業は主として宣教者たちが行なっていました。しかし,1960年代に入って,アフリカ人の兄弟たちをもっと用いるのが賢明だと思われました。そして,そのような措置は神の摂理によるものだったことが明らかになりました。
地域監督として奉仕した最初のアフリカ人の兄弟はアイザック・チアッズワです。チアッズワ兄弟は妻のアイビーと共に1962年12月にこの業を行なうようになりました。次いで,1966年にはもう一人の経験豊かなアフリカ人の兄弟,シズル・クーマロも地域監督として奉仕するようになりました。同兄弟は,その後の極めて困難で多難な期間に,兄弟たちにとって優れた援助者となりました。
こうした兄弟たちが地域監督として奉仕したことには確かに益がありました。一つとして,土地の言語や習慣に通じていますから,伝道者たちの抱える問題の本質をつかむ点でより多くのことを行なえました。そして,兄弟たちのことや,兄弟たちが直面している事柄に通じていました。また,原住民なので,宣教者たちよりもずっと自由に動き回ることができました。緊張が高まり始めており,見知らぬ人はすぐに疑われました。その後の物事の進展からして,アフリカ人の兄弟たちが用いられるようになったことは確かにエホバの導きだったことが分かります。
非常事態下の条例により,巡回大会が影響を受ける
1965年11月11日にローデシア政府が独立を宣言すると,非常事態下の条例が制定されました。それはわたしたちの活動に影響を及ぼしました。一つとして,雑誌の各号を含め,国内に持ち込まれる出版物すべての見本を検閲委員会に提出することが政府から求められました。これは何よりも不便なことでした。というのは,文書の国内持ち込みを禁じられるような箇所を当局が出版物の中に見つけたことは一度もなかったからです。
さらに大きな影響を及ぼしたのは,公の集会に対する厳しい規制でした。規制監理局が許可した場合を除き,二,三人を超える集まりは禁じられていました。厳密に言ってこれは純粋に宗教的な集会には適用されませんでしたが,問題の多い地域の中には,そのような集まりも禁じられた所がありました。
わたしたちは大変失望させられるようになりました。支部事務所が規制監理局に巡回大会を開催する許可を申請すると,必ずと言っていいほど断わられたからです。それで,結局,巡回大会を開かないことにしました。その代わり,安全が十分に確保された場所で開く地域大会に全力を注いだのです。
1969年のある日,ブラワヨの幾つかの会衆から1通の手紙を受け取りました。その手紙に巡回大会のプログラムが添えられていたのでわたしたちがどんなに驚いたか想像がつくと思います。兄弟たちは,自分たちでプログラムを作成し,割り当てを与え,簡易食堂の取り決めをもうけて,自分たち独自の大会を開いたのです。そのように自分たちで事を進めるべきではなかったかもしれませんが,結局は成功しました。その大会には幾百人もの兄弟たちが集まりました。
このことはわたしたちにヒントを与えてくれました。協会が規制監理局に巡回大会の申請をする代わりに,地元の兄弟たちに地方当局へ申請を出してもらうのはどうでしょうか。こうして再び巡回大会が取り決められました。巡回監督は著名な地元の兄弟を選んで申請を出してもらいました。この方法は毎回うまくいきました。非常事態下の条令は依然存在してきたものの,その時から現在までどの地方でも巡回大会が開かれてきました。これがエホバの導きによるものであることに疑問の余地はありません。
長年の問題が落着する
ここで,宗教組織として全面的に認可を受けるための闘いに話を戻しましょう。エホバの民は既に政府の二つの省,すなわち原住民省および法務内務省の認可を得たものの教育省の認可を得ていなかったことを覚えておられると思います。
そこで,1966年2月,支部事務所は,宗教組織として認可して欲しい旨をしたためた詳しい手紙を書いて,この問題を再び表面化させました。3月8日に回答がありましたが,それは,「検討してみたものの,遺憾ながら貴協会の要請に応じかねる」というものでした。
わたしたちは直ちに電話をかけ,かなりの討論の末,文部大臣との会見の約束を取り決めました。その日取りは3月23日でした。会見後4か月が過ぎましたが何の回答もありませんでした。当局はわたしたちの要請を無視しようとしていたのでしょうか。
7月21日になって教育大臣から次のような手紙を受け取りました。「この問題を徹底的に検討し,教育省が認可した宗教団体の公式のリストにエホバの証人を加えることが決定された」。16年間闘った末,ついに勝利を得たのです! これにより,エホバの証人が,宗教教育を施すために学校に入る道が開かれたばかりか,エホバの証人の子弟が退学させられるという問題も解決されました。わたしたちはこのような勝利が得られたことをエホバに感謝しました!
マラウィから宣教者が来る
1968年から,この国の支部にとっての新しい一章が始まりました。すなわちマラウィの王国の関心事を監督するようになったのです。その発端になったのは1967年10月にマラウィでエホバの証人が禁令下に置かれたことです。同年11月,マラウィの宣教者は国外に追放されました。そのうちの二組の夫婦,キース・イートンと妻のアン,およびハル・ベントリーと妻のジョイスは結局ジンバブエに割り当てられました。
類例を見ない割り当て
ベントリー兄弟姉妹は類例を見ない割り当てを受けました。禁令が敷かれるまでマラウィ支部の管轄下にあったモザンビークで奉仕するという割り当てです。アフリカの地図を調べると,モザンビークはアフリカの東海岸にあるやや細長い国であることが分かります。南アフリカの北から,ジンバブエの東の国境沿いに伸び,さらに北のマラウィを両側から囲んだ形をしています。モザンビーク政府はこれまでエホバの証人の組織を一度も認可したことがありません。今までのところ法的認可を得るための努力はいずれも実を結んでいませんでした。しかし,ベントリー兄弟がその割り当てについて語ることに耳を傾けましょう。
「ジョイスと私が初めてモザンビークに割り当てられたのは1962年2月のことでした。最初の旅行には飛行機を使い,マラウィのブランタイアからモザンビークの首都ロレンソ・マルケス(現在のマプト)へ行きました。そこには,軍の敷地内にある陸軍軍曹の家で集まりを持っていた関心のある人たちから成る小さな群れがありました。
「この方法で二,三度行ったあと,キャンプの道具を持って陸路で観光客のようにモザンビークへ入ったほうがよいということになりました。そのためにフォルクスワーゲンのバンを使いました。ベイラを経由して海岸線を南下する道路はほとんど砂利道で,ひどくでこぼこしていました。距離は約1,600㌔あります」。
モザンビークに戦闘状態が見られたため,その後ベントリー兄弟姉妹はベイラからソールズベリーを経由してロレンソ・マルケスへ行かねばならなくなりました。それは,片道約2,000㌔以上の旅を意味しました。二人はその旅行を6か月に一度行ないました。陸路ではかなりの長い旅でした! しかし,二人には会衆の成長を見るという祝福がありました。
二,三年たって,ベントリー兄弟姉妹は訪れる地方をモザンビークの北部だけに限るようになりました。「そうした変更はおそらくエホバの計らいによるものだったということがあとになって分かりました。ロレンソ・マルケスの秘密警察は,私たちが今度やって来たらつかまえようと待ち構えていたからです」とベントリー兄弟は語っています。
ベントリー兄弟姉妹は,逮捕されたり,辛くも逮捕を免れたり,国外退去の命令を受けたりするなど,手に汗を握るような数々の経験をしました。しかし,二人は立派な業を行なうことができ,大勢の新しい伝道者や関心を持つ人々を強めました。ベントリー姉妹はベイラでの一つの経験を次のように語っています。
「ポルトガルで研究をしていた若い女性がモザンビークへ移って来ました。この女性は研究を続けられるかどうか問い合わせる手紙を協会に出しました。その人の住所と名前が私たちに送られて来ました。アパートを訪問すると,女の人が出て来ました。『クロテルデ・デ・ゴメスさんですか』と尋ねると,『私はクロテルデですが,デ・ゴメスではありません。クロテルデ・デ・アルメイダです』という返事が返ってきました。証言の機会を逃したくなかったので,私たちがその別の婦人を尋ねている理由をお話ししました」。その婦人はすぐに近所の人を呼びに行きました。その後,最初のクロテルデとも連絡がつきました。それはどんな結果になったでしょうか。
ベントリー姉妹はこう語っています。「私たちが会いたいと思っていた最初の人は今では献身した証人になっています。その人のご主人は長老で,5人の子供と,ご主人の両親それにご主人の兄弟が皆エホバの証人になっています。二人目の婦人もバプテスマを受けています。彼女が呼んで来た近所の婦人とそのご主人,それに息子さんもバプテスマを受けました」。
その奉仕の割り当てについてどのように感じているか尋ねたところ,ベントリー兄弟はかいつまんでこう述べました。「蒸し暑くなく,いつ逮捕されるか分からないという不安のないどこかの土地へ行けたらよいのにと感じたことも幾度かあります。しかし,振り返ってみると,この任命地で奉仕するのはすばらしい特権でしたし,エホバの祝福と保護が必ずあったことに気づきます」。
ベントリー兄弟姉妹は,その後,ボツワナへ任命が変わりました。二人はそこで引き続き宣教者として立派な手本となっています。
マラウィの迫害
さて,ここで,1967年10月にマラウィでエホバの証人が禁令下に置かれたことに話を戻しましょう。禁令が敷かれると,「この二十世紀における,クリスチャンに対する最も残忍で非道な迫害」とある雑誌が述べた迫害の波が起こりました。その同じ記事はこう言明しています。「残忍で卑劣をきわめ,胸のしめつけられるような,……受難の報告に匹敵する事態を探すとすれば,十五,六世紀のフランス南東部およびイタリアにおける初期新教徒ワルド派絶滅の悲劇までさかのぼらねばなるまい」。
どうしてこのような残虐行為がなされたのでしょうか。それはエホバの民が政治に対して厳正中立の立場を保ったからです。当時,これら真のクリスチャンたちがそのような仕打ちを受けた理由を尋ねられた時,証人の一人,ジャスティン・ザクルカ兄弟は,「それは,わたしたちが党員カードを買うのを拒んだためです」とはっきり答えました。世界中の他のエホバの証人たちと同様,それらのクリスチャンたちは,たとえこの上ない残酷な扱いに耐えなければならなくてもクリスチャンとしての中立の立場を曲げることをよしとしませんでした。事実,命を失った人さえいました。
忠節な人々に共通して見られた態度は,年配のサムソン・クフンバニイワの言葉に見事に要約されています。家や家具や衣類をはじめ所有物一切を失った同兄弟は,「わたしは,自分が決してひとりではなく,エホバが守ってくださることを知っています」と語りました。確かに,詩編作者も述べている通り,「義なる者の遭う災いは多い。しかし,エホバはそのすべてから彼を救い出してくださる」のです。―詩編 34:19。
窮乏している人々のための救援
迫害が厳しいため,マラウィの幾千人もの証人たちは,国から逃げることを余儀なくされました。一部の人はザンビアへ逃れましたが,結局マラウィへ送り返されました。他の幾千人もの人は,モザンビークへ逃げ込み,マラウィとの国境を隔てた所にあるミランジェへ向かいました。そこに1970年ごろまでとどまり,その後,徐々に故国へ帰り始めました。
モザンビークでは,兄弟たちは迫害者の手にかかる心配がありませんでした。しかし今度は別の問題に直面しました。衣食住に事欠いたのです。そうしたものは皆あとに残して逃げてきました。では兄弟たちはどうしたらよいでしょう。
モザンビークでエホバの証人は一度も認可されたことがありませんが,幸い,それらの難民は非常に親切な扱いを受けました。モザンビーク当局は,兄弟たちがマラウィとの国境から約160㌔モザンビーク側に入ったモクバという場所へ行く手段としてトラックを備えました。また,モクバでは土地を与え,家,斧,くわ,種子を供給しました。さらに,食糧品としてヒキワリ(トウモロコシをひいたもの)90㌔入りの袋を毎日幾つか供給しました。それは兄弟たちにとって非常にありがたいことでした。兄弟たちは,エホバがそのようにして自分たちを養ってくださっていると感じました。
しかし救援物資はそれだけでは十分ではありませんでした。モザンビーク政府から供給されたものに加えて,食糧,衣類,毛布,薬品が切実に必要とされていました。どうすればそうした必要を満たすことができるでしょうか。ジンバブエからそれらを輸送するには陸路を取るしかなく,しかもそれにはマラウィを通らねばなりませんでした! マラウィで生じたばかりの出来事からすると,必要な物資を携えてマラウィを通過する見込みが幾らかでもあるでしょうか。
興奮に満ちた旅行
このような不安を抱きながら,ジョン・マクブラインと宣教者のジム・ムンデルは,フォルクスワーゲンのバンに寄付された衣類と毛布を満載して1968年2月22日にソールズベリーを出発しました。ムンデル兄弟はそれより少し前に妻のキャシーとザンビアから追放され,ジンバブエに一時的に来ていたのです。出発に先立って,二人は,幾つもの国境検問所で荷物を通してもらうための税関通過許可証を得るためにあらゆる手を尽くしました。しかし様々な規則や制約のために許可証を得ることができませんでした。したがって,エホバの導きと指導に全幅の信頼を置く以外に道はありませんでした。国境の検問所に着くたびに気をもまねばなりませんでしたが,どの検問所も問題なく通過できました。まるで,道中ずっとみ使いがついているかのようでした。
それは楽な旅ではありませんでした。ソールズベリーから,モザンビークに接するマラウィの東側の国境までは約640㌔ありました。そのほとんどは大変なでこぼこ道で,モクバに至る残りの160㌔の道たるや,もっとひどいものでした。
期待はずれ
ジョン・マクブラインとジム・ムンデルがまず行ないたいと思っていた事の一つは,言うまでもなく,兄弟たちを,その住居となっている二つの難民キャンプに訪ねることでした。それで,2月24日の朝,さっそくその件で難民キャンプの管理者に会いに行きました。ところが,面会はできないと管理者から言われて,二人はとてもがっかりしました! どうしてでしょうか。エホバの証人は政府の認可を受けていないというのがその理由でした。
とはいえ,その管理者は親切な人で,政府当局に問い合わせるから待っているようにと言いました。二人は言われた通りにして,三日待ちました。やっと返事がきましたが,それは次のようなものでした。『モザンビークには,政府が人道主義的理由から援助を差し伸べてきた難民がいるだけで,エホバの証人はいない。難民キャンプの管理者を信頼しているなら,衣類を管理者に預けるべきであり,信頼できないなら,持ち帰るように』。何ということでしょう! わざわざやって来たのに,非常な忍耐を示した忠節な兄弟たちに会うことさえできないのです! しかし,残念ながら,二人にはどうすることもできませんでした。
では,衣類と毛布をどうするかを決めなければなりません。管理者を信頼する以外に何ができたでしょうか。二人は管理者を信頼することにしました。
むろん,バンで運んだ衣類と毛布はマラウィの兄弟たちの必要を満たすにはとても十分ではありませんでした。しかし,二人の兄弟は,マラウィの兄弟たちがさらに必要としているものを入手できるようにと寄付された基金も持っていました。二人の兄弟,政府の役人である管理者およびインド人の商人の間で取り決めが設けられ,署名がなされました。寄付された基金は管理者に預けられ,兄弟たちはその金額に相当する品物を商人に注文しました。商人は婦人服やズボン,さらに多くの毛布などを供給します。それが届くと,管理者は商人に金を支払い,兄弟たちの住む難民キャンプに品物を届けるのです。
喜ばしい結末
この話には,旅行の結果を示す続きがあります。帰路まだモザンビークを出ないうちに,二人の兄弟は,たたんだ毛布の大きな荷物を自転車に積んだ数人のアフリカ人を道路沿いで見かけました。確かにそれは兄弟たちでした! 管理者からそれらの毛布を受け取ったのです。管理者が約束を守って,直ちに事を運んでいるのを知って二人の旅行者が喜んだのは言うまでもありません。しかし,一番うれしかったのは,少なくとも難民キャンプの証人数名と接触できたことです。当然のことながら,それは旅行者にとっても難民キャンプの兄弟たちにとっても,互いに励まし合うすばらしい機会となりました。
その時から,マラウィとモザンビークの二つの国はジンバブエ支部の管轄下に置かれるようになりました。ジンバブエ支部は数年間マラウィを監督し,モザンビークはその後もジンバブエ支部の責任のもとに置かれています。
魔法 ― 対処しなければならない別の問題
このころ,ジンバブエの兄弟たちの多くは別の問題に直面していました。この国では幾世紀もの昔から魔法が行なわれてきました。しかし,意外な進展からそれが注目されるようになったのは1969年ごろのことです。そのために兄弟たちが直面するようになった問題を理解していただくために,背景となる事情を少し述べておくほうがよいでしょう。
イスラム教徒がわずかな割合を占めているほかは,ジンバブエのアフリカ人はほとんどすべて名目上のクリスチャンですが,迷信や魔法が今でも広く見られます。骨を使い,動物の皮や羽毛の頭飾りを付け,呪文を唱える祈祷師がいます。
魔法は二つの種類に分けられます。魔法使い,つまり黒魔術を行なう者であるムロイイと,占い師,つまり信仰治療を行なう者であるナンガです。ムロイイは殺し屋です。人に呪いをかけるのです。不慮の死や変死はムロイイのせいだと言われています。ムロイイは非合法になり,それを行なっているのが見つかると逮捕されて起訴されます。
一方ナンガは必ずしも殺し屋ではありません。人を殺す呪いをかけるために利用されることもありますが,ナンガは治療師です。また,ムロイイの呪いを解くことができるとも言われています。ナンガは政府の認可を受けられます。
1969年までに,ナンガは,魔法を行なう者たちを探し出せるということで注目を集めるようになっていました。共同部落(かつての指定居住地)においてばかりでなく,幾百人もの労働者が家族と一緒に住んでいることの珍しくなかった農場や鉱山においても注目されるようになっていました。魔法が行なわれたという報告があると必ずその地域にナンガが呼ばれました。それから地域の人々全員が招集されてナンガの前に出頭させられるのです。
一通り呪文を唱えると,おかかえの歌い手たちの助けを得て,ナンガは,魔法を使っている者がだれかを教えて欲しいと霊たちに頼みます。犯人が“判明する”と,首長はその者を法廷に引き渡します。そこで魔法禁止法によって裁判がなされます。むろん,その者は普通の法的手続きを経て有罪であることが証明されなければなりませんでした。
兄弟たちは試みられる
しかし,どうしてこれが兄弟たちに問題となったのでしょうか。ナンガは治療師で良い人であると考えられていますが,心霊術に関係していることに変わりありません。それが兄弟たちに問題となったのです。地域の人たちがナンガの前に招集される時,当然ながら兄弟たちは行くのを断わります。すると,首長や鉱山の経営者あるいは農場主などそれぞれ場合によって異なりますが,それらの人々が兄弟たちを無理やり連れ出したのです。
大多数の兄弟たちは確固とした立場を取りましたが,残念なことに,そうした状況に置かれて妥協した人もわずかながらいました。後になって,そのうちの幾人かは真の悔い改めを示し,今では再び喜びのうちにエホバに奉仕しています。
兄弟たち一般の態度を示す典型的な例としてポール・ヌドロブの経験を挙げることができます。同兄弟は当時67歳で,特別開拓者として奉仕していましたが,卒中にかかって体が不自由でした。無理やり首長の前に連れ出され,「ほかのみんながしているように[ナンガの立場を認めて]ひざまずいたほうが身のためだ」と言われました。ヌドロブ兄弟は明解にこう答えました。「人間に身をかがめることは偽りの崇拝行為ですから,だれに対しても身をかがめたくありません。よくご存じのように,私はエホバの証人の奉仕者です。この事に関してはあなたのご命令に従うわけにはゆきません」。
その確固とした態度に,首長はすっかり腹を立て,4人の警官を呼んで兄弟に手錠をかけさせ,無理やりナンガのいる部屋へ連れて行かせました。ヌドロブ兄弟はこう語っています。「その部屋に入れられると,習慣通り儀式の時にうたう歌をうたって私を迎えようと数人の歌い手が待っていました」。ヌドロブ兄弟はその人たちに何と言ったでしょうか。「私は悪霊崇拝を行なっていません。エホバの証人ですからあなた方に決してひざまずきません」。
確固とした態度を曲げなかったためにナンガは「真理」の本を寄付のお金と引き換えに受け取り,兄弟の確固とした態度は報われました。
真の崇拝の勝利
ほどなくして,その習わしは全国各地に広がるようになり,エホバの忠節な人々は数々の試みに遭うようになりました。北方の鉱山にあった一会衆の経験は,神の民の忠誠を破るためなら人々がどんなことまでしたかを示しています。魔法が使われたという報告を聞いて,古参の従業員たちがナンガを呼んで欲しいという要望を出しました。その事件に関する警察の報告書は,そのあとどんなことが起きたかを次のように伝えています。
「その事が鉱山の経営者に持ち出されると,経営者はナンガの資格を調べてそれが適切であることを確かめたあと,囲い地にいる人々が皆[下線は編者]参加するなら承諾すると言った。古参の従業員たちもそれに同意した。
「ナンガが儀式を執り行なう日,エホバの証人を除いて,囲い地の人々は全員,……ナンガの前に出た。古参の従業員たちは当派の人々を説得しようとしたが……それでも彼らは拒んだ。鉱山の経営者の所に連れて行かれたが,それは何にもならなかった。証人たちは,ナンガの前に出るくらいなら会社を辞めるほうがよいと経営者に言った」。
実際その通りになってしまいました。兄弟たちは全員解雇されたのです。しかし,それからどうなったでしょうか。
その会衆の人たちは全員別の鉱山へ移り,そこで兄弟たちはみな職を得ました。ですから,会衆はそっくりそのまま存在していました。責任の果たせる兄弟たちはそろっており,開拓者も一人いました。しかも,その鉱山は未割り当ての区域にあったのです。こうして,その地域は十分に組織された会衆の世話を突然受けるようになりました。実際,その会衆はクロムという会衆名を変える必要もありませんでした。というのは,兄弟たちは一つのクロム鉱山から別のクロム鉱山へ移ったからです。
ところで,エホバの証人の従業員を全員解雇した鉱山の経営者はどうなったでしょうか。最も優れた働き人を追い出してしまったことに気づいて非常に残念に思っていました。事実,あとで兄弟たちの幾人かを再び雇いました。その地方の地域監督に鉱山の経営者は,「うちで一番優れた働き手を辞めさせてしまった」と語りました。兄弟たちが忠実だった結果,本当に優れた証言がなされました。
1970年代に入る
1960年に,伝道者数の平均は1万2,487人という空前の最高数を記録しました。伝道者の最高数は1万3,493人でした。それから1967年まで下降傾向が見られました。事実,平均伝道者数は9,384人にまで減少しました。それは1952年以来最低の数でした。その理由は主として,実際にはエホバの証人でなかった人々を組織から一掃したことにあります。
1967年からは再び上昇傾向に転じ,1971年には平均伝道者数が1万1,430人,伝道者最高数が1万2,456人にもなりました。この傾向は1976年まで続き,その年から伝道者数は再び減少し始めました。どうしたのでしょうか。その年から1970年代の末までこの国は,その歴史上間違いなく暗黒時代の最たるものと言える時期を経験したからです。兄弟たちはそのためにどんな影響を受けたでしょうか。それを知るために1970年代の初頭に戻りましょう。
この10年間はエホバの民にとって試練と試みの多い時代となりました。その中には,雇用や中立の問題に関連した試練がありました。また,戦禍を被るという試練も受けました。そのために,家や家畜や畑を失ったり,身体的な虐待を受けたり,殺されることさえあったのです。反対者たちが,王国の業を禁令下に置くよう政府に圧力をかける企てもありました。石打ちに遭い,死んだものと思われてルステラの市外に放置された経験の後に使徒パウロが語った,「わたしたちは多くの患難を経て神の王国に入らなければならない」という言葉が思い出されます。―使徒 14:22。
エホバは助けを差し伸べてくださる
どのようにしてエホバの民は前途の試練に立ち向かう備えをされたのでしょうか。神の摂理により,それは二つの方法でなされました。その一つは,各会衆の長老と奉仕の僕を統治体に任命してもらうという取り決めです。この取り決めが実施されるようになったのは1972年で,これほど適切な時はなかったと言えるでしょう。
長老と奉仕の僕の任命に関しての聖書に基づいた統治体の指示に対する兄弟たちの反応には心温まるものがありました。聖書的な資格を検討した結果,幾つかの会衆では,長老や奉仕の僕の該当者がいませんでした。ある会衆からは次のような手紙が寄せられました。「巡回監督と一緒に資格を検討したところ,長老や奉仕の僕の資格にかなう人のいないことが分かりました。しかし,私たちは来年には資格を身に着けているよう努力するつもりです」。
支部委員の一人で,1966年からベテルで奉仕しているジェームズ・ムバタは,長老の取り決めが実施されると時を経ずしてその効果が会衆に表われたことについて最近こう語りました。「教える資格を持ち,会衆のために働けるようになった兄弟が増えただけでなく,教え手として既に用いられていた人々にも改善が見られるようになりました。その人たちが一生懸命努力したからです。それに加えて会衆の清さに一層の注意が払われるようになりました。1972年まで,僕たちが汚れに関する問題を直ちに扱わない会衆は少なくありませんでした。ところが,長老団が設けられると時を経ずしてそうした問題に注意が向けられました。そういうわけで,しばらくの間私たちはそうした事件の処理にかつてないほど忙しい思いをしました」。
この取り決め全体は諸会衆を霊的に大いに活気づけました。家族をふさわしく監督してその霊的成長を見届けることをおろそかにしたために資格を失った兄弟たちは,聖書の助言に従う必要に気づくようになりました。技術や能力を最大限に発揮し霊的進歩を最大限に生かす機会をそれまで与えられなかった他の兄弟たちは,会衆の益のためにそうした技術や能力を用いるようになりました。こうした事すべてにより,一層強い組織が出来上がりました。明らかにそれは数年後にやって来ることになっていたものに兄弟たちが立ち向かうのを助ける上でより良い立場にある組織でした。
支部の新しい施設
もう一つの,エホバからの時宜にかなった備えは,3階建てのりっぱな新しいベテル・ホームが建てられたことでした。1971年にジンバブエを訪れた時,ノア兄弟はジンバブエ支部がもっと広い宿舎と支部事務所を必要としていることに注目し,その事に多くの時間を割きました。当時ベテル家族の成員数人は近くのアパートに住んでおり,事務所や発送施設は甚だ不十分でした。1953年以来,ベテル家族は寝室が5部屋しかない平屋に住んでいました。事実,ノア兄弟が訪問した時,それら寝室のうち3部屋は事務所に改造されていたのです。それで,新しい施設を探すことが決まりました。
ほかの場所に自分たちの望むような建物を建てる許可を得るよう何度か試みたものの,成功しなかったので,古いベテル・ホームを壊してその敷地に新しい施設を建てることにしました。その建設は1972年12月に始まりました。そして,10か月後に私たちは入居しました。それは実に喜ばしい日でした。
その建設は,近ごろ王国会館の建設に見られる「二日間の奇跡」ではありませんでしたが,近所の人たちの話題になったことは確かです。実際,土地の役人と周辺地域の人々とに対する優れた証言になりました。幾百人もの老若男女が何らかの方法で建設を助けたことも大いに取りざたされる理由となりました。
好意的な意見を述べたのは市の建築検査官でした。その検査官は最初かなり冷淡でしたが,次第にみんなの友好的な態度にこたえ応じて好意的になりました。そしてこう語っています。「皆さんの進歩はすばらしいですね。ここではかなり良い仕事がなされています。金で人を雇っていたら,こんな良い仕事はしてもらえないでしょう」。道の向かい側で仕事をしていた建築請負業者もこう言いました。「これだけの事柄を行なうほど何かを固く信じている人がまだいることを知ってよかった」。実際このりっぱな建物はほぼ100%,自発的に提供された労力もしくは自発的な奉仕者の指導のもとに建てられたのです。
そうした自発心を示し自己犠牲を払った人々の名前をすべて挙げることは不可能ですが,顕著な例となった人々は幾人か挙げるべきだと思います。例えばピーター・ドレウェットはその一人です。この兄弟は世俗の仕事を辞め,妻と娘を連れて支部の所在する都市へやって来て,建設工事の全期間中トレーラーで暮らしました。ノール・エラマンも妻および二人の子供と共に小さなトレーラーをほこりっぽい建設現場のただ中へ移し,約8か月間,正に現場で生活しました。エリック・カーギルの名も挙げなければなりません。この人は実業家で,必要とされる建築機材と自分の会社の労働力の一部を提供しただけでなく,建設が完了するまで毎日自分の時間の半分をこの建設のために費やしました。
たばこの問題
先にも述べた通り,1970年代の初めに幾つかの問題が表面化しました。その一つはたばこの栽培,およびたばこの生産や加工に関係のある農場や会社で働くという問題でした。ジンバブエではこれは非常に大きな問題となりました。というのは,たばこはこの国の主要な収入源の一つだからです。たばこは主要な輸出品で,大いに必要とされる外貨をもたらしてくれるものです。
すでに1972年当時から,そうした場所で働いていた兄弟たちは自分たちの職業が聖書にかなっているかどうかということに疑問を持つようになっていました。事実,兄弟たちが初めて長老や奉仕の僕の推薦を受けていた時,数人の兄弟は良心上の理由で推薦を辞退しました。ある旅行する監督はこう語っています。「りっぱな記録からして長老の資格にかなっていたであろう兄弟が大勢います。兄弟たち自身が,たばこを栽培して梱包する農場で働いているために長老や奉仕の僕に推薦しないで欲しいと言いました。良心上の理由で,推薦しないで欲しいと言ったのです」。
たばこを栽培していた人たちの中にはほどなくして栽培をやめた人もいました。またやめる計画を立てた人もいました。ある人はこのように語りました。「わたしたちの多くは,神が妾をどうご覧になるか理解した時に妾と分かれました。ですからたばこの栽培をやめるのもきっと難しくはありません」。
兄弟たちは堅く立つ
兄弟たちが既にそのような考え方をしていたのは良いことでした。というのは,そうした考え方のおかげで兄弟たちはそれからわずか2年後の事態をはるかに容易に受け止めることができたからです。「わたしたちの職業を『隣人に対する愛』と調和させる」という主題の特別な折り込みが「王国宣教」に入っていたのは1974年の上旬でした。折り込みはこの問題に関する聖書の見解をはっきりと示していました。喫煙は肉を汚す行為であり,したがって排斥に値する罪です。そうであれば,クリスチャンがたばこを栽培したり加工したり,あるいは他の人に販売したりするのは正しいことでしょうか。聖書からすればその答えは明らかに否です。そのような事を行ないながら隣人に愛を示すことはできません。その折り込みの論旨はこのようなものでした。―ルカ 10:27。コリント第二 7:1。
兄弟たちの反応は実に感動的なものでした。それらの兄弟たちの立場に置かれたと仮定してみてください。たばこを生産する一農場の責任ある立場に就いているとします。そうした立場にあれば,住まいがあてがわれ自分の家畜を幾らか放牧できるような土地もあてがわれていることでしょう。ところが突然,重大な決定を迫られます。たばこの生産に携わりたくないならどこかほかで仕事を見つけるようにと雇い主に言われるのです。幼い子供を何人か抱えているかもしれません。あなたはどうしますか。
兄弟たちはりっぱでした。エホバの組織から除かれるより,そうしたもの一切を捨てることのほうをいとわなかったのです。多くの人は大きな経済的損失を被りました。しかし,エホバの恵みは失いませんでした。排斥されねばならなかった人の数は指で数えられるほど少数でした。神の義のためにこのように堅く立った愛する兄弟たちのことを考えると胸が熱くなります。
入り混じった反応
言うまでもなく,兄弟たちがこうした立場を取ったために,各方面から種々の反応がありました。その大半は批判的なものでした。新聞の記事や編集者あての手紙が毎度のように掲載されるようになりました。国会議員も,議院の内外を問わず,批判の声を上げ,中には厳しく非難する人もいました。それがどの程度に及んだかは,ある月刊雑誌に載った一記者の次の言葉が示しています。「エホバの証人は議院の内外で厳しく批判されてきた。……新しい法律下では,エホバの証人が市民権をはく奪され,国外追放の憂き目に遭うことも今やあり得る」。この記者はそれを「つまらないことでの大騒ぎ」と呼びました。
農場主側も入り混じった反応を示しました。中には悪意のある人もいました。エホバの証人に対する自分の意見を協会に手紙で書き送った人もいれば,電話をかけてくる人もいました。しかし,そういう人たちでも,自分の農場の責任ある地位にエホバの証人を就けておきたいと考えていたのです。
それで,なんとか兄弟たちの便宜を図ろうとした農場主も何人かいました。その人たちは,信頼できる良い働き人を失うより,たばこの生産に関係しない仕事を兄弟たちに与えることにやぶさかではなかったのです。兄弟たちがそれに感謝したのは言うまでもありません。
たばこの販売員として雇われていたある兄弟はこのような経験をしました。その種の職にとどまっていることはできないことを悟ったこの兄弟は退職願いを提出しました。しかし雇用者はそれを認めませんでした。そこで兄弟は出勤しないことにしました。出勤しない理由を知るために雇用者が兄弟の家へやって来たので,兄弟は事情を説明しました。すると雇用者は兄弟が正直なことをほめ,兄弟のような従業員は何としても失いたくないと言いました。
その機会を利用して兄弟は退職しない条件を持ち出しました。たばこに関連した仕事に従事できないばかりか,全部の集会に出席するための時間も欲しいと言いました。雇用者はそれを承諾しました。もっとも,そのために給料は少なくなりました。
その兄弟はこう結論しています。「世俗の職場で問題に直面しても,忍耐する限り祝福されるということを自分の経験から学びました。エホバの組織と共に前進するに際し,自分の霊的成長に一層の関心を払うことの大切さをも学びました」。この兄弟は現在,長老として奉仕しています。
逆境を通して良いたよりが広まる
実際,兄弟たちがこうして入れ替わったことは王国の良いたよりを広める点で大いに役立ちました。それにより,それまで孤立していた地域に新しい会衆が組織された例さえ幾つかありました。例えば,ある兄弟は孤立した地域に鉱山を持っていました。兄弟たちは,その兄弟が働き人を必要としており,困っている人たちを援助する気持ちがあるということを知りました。間もなく,その兄弟の所で20人の兄弟たちが働くようになりました。それらの兄弟たちは家族と共に一つの会衆を作り,その会衆は今も存在しています。自分のできるところで直ちに援助を差し伸べた人たちはほかにもいました。
たばこの問題で失業した人の中には郷里へ帰って行った人たちもいます。大抵の場合,それらの土地には会衆がありませんでした。結果として,それまで伝道されたことのない地域でエホバの言葉が伝道されるようになりました。
ところで,その問題は結局どうなったでしょうか。不思議なことに,最後にその問題を解決したのは,たばこ協会自身でした。同協会がたばこ栽培業者向けに発行している月刊の会報の一つに,協会の会長が声明を発表して,あっさり解決したのです。その声明によれば,それは証人の宗教上の問題であり,大きく取り上げる性質のものではないということでした。「ローデシア・タバコ・フォーラム」の1974年6月号には興味深い注解が載りました。その27ページにはエホバの証人に関してこう書かれています。「同記事[ある新聞の記事]によれば,農業長官は,……『経済に混乱を来たすことをもくろむ意図的な企てのようである』と述べたという。しかし,関係した人々の数はそうした憶測を確証するものとはとても思えない」。ローデシアたばこ協会自身のそうした論評により,事は収まったようで,兄弟たちはもはや煩わされなくなりました。実際,エホバの民の忠節さに関してりっぱな証言がなされました。
中立の問題が表面化する
アフリカ人の兄弟たちがたばこの問題の影響を受けていた同じ1972年に,別の問題が表面化しました。それは,最初,白人の兄弟たちだけに関係のある問題で,国家間の問題におけるクリスチャンの中立に関するものでした。「解放闘争」,つまり,一部の人々の言う「テロリスト戦争」が始まるに及んで,それは大きな波紋を投げかける問題となりました。言うまでもなく,その問題は白人の男子が徴兵されるようになった結果生じました。
特に国境沿いで戦闘が激化したため,国民全体を国防に当たらせる努力が強化されました。しかし,当初徴兵されるのは白人男子に限られていました。かなりの数の若い証人たちがその問題に巻き込まれました。良心上クリスチャンの中立の道を曲げないために懲役刑に服さねばならない若者が少なくなく,中には一度ならず投獄された人もいました。
その徴兵とは,1年のうち一定期間男子に幾度か召集がかかり,それが済めば,それぞれの世俗の仕事に引き続き携わることができるというものでした。ですから,兄弟たちは良心上召集に応じることを拒否するたびに裁判にかけられることもありました。したがって,一度刑期を終えても,また次の刑期を果たすというように,次から次に刑に服さねばならない可能性もあったのです。事実,まだ獄中にある身で召集令状を受け取った人さえありました。
妻子のいる若い男性はとりわけ難しい状況に置かれました。投獄されると妻子を後に残さなければならないからだけでなく,仕事の問題も関係していたからです。投獄されると仕事を失うため,釈放されたあと別の仕事を探さなければならないという場合が少なくありませんでした。勤め口を探すときには,必ず,兵役に関する立場を尋ねられました。事実を述べると,雇用者から次のような答えが返ってくることは珍しくありませんでした。「残念ですねえ。働いていただきたいのですが,軍事教練を受けていない人を採用するわけにはいきません」。ある人たちには,それが非常に重大な問題となりました。
初期の模範
ボブ・ホークスもそうした試練に耐えた最初の人たちの一人でした。ホークス兄弟は,エホバの証人と聖書を学び始める以前に軍事教練を受けたことがありました。聖書を学び始めてまだ半年しかたたない1973年1月に,ホークス兄弟は任務に就くため出頭するよう命令されました。その時のことをホークス兄弟自身に語ってもらいましょう。
「聖書研究を通して学んだ事柄に基づいて,私は出頭しないことに決めました。当時妻のモリーは妊娠2か月ぐらいでした」。
出頭しなかった結果どうなったでしょうか。
「出廷を命じられ,禁固30日,さらに執行猶予付き懲役3か月の刑を言い渡されました」。
兄弟にとってそれは切り抜けるのが難しい試練だったでしょうか。
「実に厳しい試練でした。バプテスマも受けていない時に刑務所に入っていたのですから。見ず知らずの世界でたった一人ぼっちになりました。全くわけが分かりませんでした。それからモリーが動揺して,私と別れるというような手紙を書いてよこしました。おまけに父が,エホバの証人を非難する文書をどっさり持って私に会いにやって来ました。私は,どんなことがあっても良心上の自分の立場を曲げない決意でいることを父に話しました。私にとって慰めになったのはエホバへの祈りだけでした」。
苦難が重なる
出所したボブ・ホークスは苦難が少しも過ぎ去っていないことを知りました。家に帰ると,妻のモリーはホークス兄弟に軍隊の装具を手渡して,“奥地”つまり戦場へ行くように勧めました。「無理やり私を行かせようなどと決してしてはならない,二度とそのような事を言ってもならないと妻に言い渡しました」とボブは語っています。
それからボブは元の職場へ行きましたが,即刻解雇すると言われに行ったようなものでした。ボブはこう語っています。「解雇されたことをモリーに話したのですが,モリーは私のもとを去って行きませんでした。真理に対しては依然冷淡であったので,それは不思議なことでした」。
その後間もなくボブはバプテスマを受けました。それから再び投獄されましたが,このたびは,6か月の刑期のほかに,先に執行猶予となっていた3か月の懲役が加えられました。ホークス兄弟は合計3回投獄され,最後の投獄の期間は8か月でした。
ではモリーのほうはどうだったか
「モリーさん,今話された事柄すべてについて何かお話しになることがありますか」と尋ねてみたらどうでしょう。
「二人で学んでいましたが,私には真理がそれほど大切には思えませんでした。ボブの場合はそれが違っていました。ある事を学ぶと,ボブはすぐに変化しました。ですから,喫煙やパーティーその他のことをしなくなりました。それから私は妊娠し,血の問題で悩みました。私たちの生活全体が影響を受けていました。
「それからボブが投獄されました。それはひどいことだと私には思えました。主人は家族に対してどうしてこんなことができるのだろうかと思いました。それで,主人に最後通告を出すことにしました。主人と別れるという脅しの手紙を書いたのです。でも心の底では,それが本心でないこと,別れることなどとてもできないということが分かっていました」。
何がきっかけになってモリーは変化し,真理を受け入れたのでしょうか。
「主に,姉妹たちが親切にしてくださったおかげです。食料品や肉やパンの包み,およびその他の物質的な援助がありました。でもそれに加えて,兄弟姉妹たちが愛ある関心を示し,私を霊的に築き上げてくれました。これは徐々に私に響いてきて,私は考えさせられました。それでバプテスマに向けて努力し始めたのです。ボブが最後に刑務所から出て来た直後に私はバプテスマを受けました」。
ホークス兄弟はその後もう一度召集を受けました。しかしこのたびは,別の国で就職する計画を持っていたので投獄されませんでした。
これは兄弟たちの幾人かが耐えた経験の典型的なものです。事実,徴兵年齢が50歳まで,そして遂には60歳にまで引き上げられたので,非常に多くの兄弟がこうした問題に巻き込まれました。しかし,その事については後ほどさらに述べましょう。
政治的な反対が起き始める
たばこやクリスチャンの中立といった問題がこのように世間に広く知られるようになったのですから,エホバの証人のことが盛んに報道されていたのも十分うなずけます。明らかに,証人の中立の立場を不愉快に感じて憤慨した一部の民衆に唆され,国会議員数人は,政府が伝道の業を抑制する措置を取るよう騒ぎ立て始めました。
報道機関の批判と攻撃の的になっていた上に,証人たちは議会審議の際に好んで議論の的にされるようになりました。防衛法と市民権法の改正案が議会で審議された1973年12月4日には特に証人のことが取り上げられました。以下はその時の審議の一部です。
「この宗派[エホバの証人]の信条は正統かつ伝統的な諸教会と著しい対照をなすものであります」― 国防大臣。
「要するに次の事を規定する意図があります。……すなわち,命令に従うことを宗教上の理由で良心的に拒否することにかかわる違反で,罰金の支払いを認められず6か月かそれ以上の実刑を言い渡されたエホバの証人は,市民権を失い,市民権がない者については国外追放される場合もあり得るということであります」― 国防大臣。
「[一般の良心的参戦忌避者の場合]その信念は普通,人命を奪うことを問題としており,したがって非戦闘員の任務に就くようにさせて融通をきかせることができます。……例外は……エホバの証人として知られる宗教集団もしくは宗派です。この宗派は有害な組織であると私は思います。兵役に対するその態度は何の根拠も正当な理由もないものです」― 国会議員。
「我々は,兵役義務のある,また兵役に就いている青年男子に対してエホバの証人が決して影響力を持たないようにしたいと思っているのであります」― 国防大臣。
兄弟たちの勇敢な態度は様々な仕方で影響を及ぼしていたようです。
緊張が高まる
1974年の終わりが近づくにつれ,緊張の高まるのが感じられました。ジンバブエ支部から協会の本部に寄せられた同年10月8日付の手紙の中にその事が述べられていました。その手紙はわたしたちの組織に対して「全面的な取り調べ」が行なわれるといううわさのあることについて触れ,そのあと一部次のように述べていました。「手紙を書いている現時点でそれ以上のことは何も聞いていません。また当局から連絡を受けてもいません。うわさによれば12月までに何らかの措置が取られるということですが,そうしたうわさの真偽を確かめることはこれまでのところ,できていません。
「全国的に住民の相当数が,わたしたちの活動,特に家から家への宣教に対して極めてあからさまに『強い反対を示して』います」。
「エホバの証人お断わり」という表示が至る所で見られるようになりました。事実,商魂たくましいある人物は『エホバの証人お断わり』の札を家から家を回って販売し始めました。そしてしばらくの間,大もうけをしました。
提案された措置
1975年2月の初めに支部事務所はある非常に重要な会議の議事録を入手しました。その会議は当時与党だったローデシア戦線の国家執行部の会議でした。1975年1月31日に開かれたその会議ではエホバの証人のことが主に取り上げられていました。エホバの証人に対して何らかの措置を取るべきであると感じている理由に関して多くの点が挙げられていました。
わたしたちがそのころどんな気持ちだったかご想像いただけると思います。これから何が起ころうとしているのでしょうか。エホバの証人は禁令下に置かれるのでしょうか。宣教者たちは国外に追放されるのでしょうか。どんな事が起きるのか,わたしたちには何も分かりませんでした。
政府に対してこうした提案を行なった人々は与党の党員であり,事実そのうちの幾人かは国会議員でしたが,政府自体はもっと道理にかなった見解を取ったようです。というのは,その時も,またその後も,伝道の業や組織に対して公式の措置が取られたことはなかったからです。わたしたちはそのことをエホバに深く感謝しています。
「戦闘」地域で中立を保つ
兄弟たちが世から離れて確固とした立場を取らねばならなかったのは軍隊の問題だけではありません。ほかにもいろいろな状況がありました。(ヨハネ 15:19)例えば,ウィル・バスルー兄弟の農場は戦争中,本当に「戦闘」地域となりました。同兄弟が長老として奉仕していた会衆と農場は約62㌔離れていました。少し向こうには“反体制運動家たち”の要塞がありました。それらの運動家と政府の治安維持軍との間でたびたび戦闘が行なわれました。
バプテスマを受けて間もないある日,バスルー兄弟は自宅で妻のジゼラと一緒に腰をおろし,聖書の詩編 112編7節を読んでいました。それは,「彼は悪い知らせをも恐れない。その心は揺るぎなく,エホバに依り頼んでいる」という聖句です。それから1時間もたたないうちに,警察官がやって来て,付近に「テロリスト」がいると人々に警告しました。そして,農場主も武装して身を守るべきだと言い張りました。バスルー兄弟はそれを拒みました。
同兄弟はこう述べています。「その時から,地域社会の自衛に私を加わらせようとする圧力がますます強くなりました。近所の人たちは私の態度が理解できませんでした。その人たちからすれば私は臆病者でした。ある日,野外奉仕を行なっていた時,一人の男の人が私に,『本当に戦闘が激しくなったら,あんたは真っ先に逃げるだろうよ』と言いました。その人は間違っていました。私は今でも農場にいますが,人々は皆いなくなってしまったからです」。
中立の立場は保護となる
近所の農場主たちに悩まされていましたが,バスルー兄弟とその家族は思いがけないところから慰めを受けました。ある日,巡回監督がバスルー兄弟に会いにやって来てこう言ったのです。「私はウームフーリ川の向こうからやって来たあなたの兄弟です。心配しないでください。あの地域の人たちはあなたの中立の立場をよく知っています。あなたに危険が及ぶことはありません」。その言葉は真実となりました。
それから幾日もたたないある日,バスルー兄弟が雇っているトラクターの運転手たちが畑で仕事をしていると,ゲリラの一味に突然声を掛けられました。一味は,「あの男のことは知っている。あの男のトラクターは焼きたくない」と言いました。その言葉通り,近所の人たちはトラクターを焼かれた上,ポンプ装置も破壊されましたが,バスルー兄弟の設備はそっくりそのまま残りました。その後,バスルー兄弟が家族と一緒に休暇で家を留守にしていた間,その地域の農家数軒が破壊されましたが,バスルー兄弟の家は無事でした。これはいずれも,政治的な事柄に関するバスルー兄弟たちの中立の立場が知られていたからにほかなりません。
こうした状態は相当の年月,事実,戦争が終結するまで続きました。その地域社会の代表者たちがバスルー家を訪れ,圧力をかけたり「侮辱したり」して,自己防衛や他の人々の防衛のために武装させようとすることもありました。その地域のほかの人たちは皆,外出する時には物々しく武装していました。ところがジゼラは「ピストルもライフルもいらない」ときっぱりと言った,とバスルー兄弟は述べています。
事態は悪化の一途をたどってゆきました。地元の雑貨店が焼き打ちに遭っていました。道路には地雷が仕掛けられました。夜間外出禁止のため子供たちが学校へ通うのは極めて困難になりました。それでとうとうバスルー兄弟は都市部に家を借りて家族を移り住ませ,自分は農場で仕事を続けることにしました。しかし,そうした経験すべてを通じてバスルー兄弟は,中立の立場を取ったゆえに,また聖書の言葉にある通り自分がエホバに全幅の信頼を置いていたゆえ真の保護がもたらされたのだと感じています。聖書にはこう書かれています。「あなたはいつ横たわろうとも,少しも怖れを感じない。あなたは確かに横たわり,あなたの眠りは必ず快いものとなる。突然の怖ろしいことも,……あなたは恐れる必要はない。エホバご自身が実際にあなたの確信となってくださり,あなたの足を必ず捕らわれから守ってくださるからである」― 箴言 3:24-26。
矛盾
実に奇妙なことがありました。白人の若い兄弟たちが投獄される理由となったのと同じ立場を取って,アフリカ人の兄弟たちのほうは,宗教組織やその他の組織などほかの組織が多くの場合享受しなかった自由を得たのです。
時がたつにつれ幾つかの地域でゲリラ活動が盛んになったため治安措置が強化されました。集会を開くことは禁じられ,学校や商店は閉鎖されました。野外宣教を行なったり,キリスト教の崇拝のために集まり合ったりする時に,兄弟たちはことさら用心深くあらねばなりませんでした。
1973年2月にそうした地域の一つで巡回大会を開くことが予定されていました。開催許可は得られるでしょうか。地元の兄弟たちはエホバの導きに全き信仰を置き,地方弁務官に手紙を書いてもらうため首長に近づきました。首長はその時手紙を書いてはくれませんでしたが,大会の準備を始めることは許可しました。
その後,地域監督のアイザック・チアッズワがその地域にやって来て,自分の存在を報告すると共に巡回大会のためその地域に入る許可を得る目的で地方弁務官の事務所へ行きました。チアッズワ兄弟はこう語っています。「ドティト地域へ入る許可を申し出ると,地方弁務官の事務所にいた人は皆笑って私を気違いだと思いました。あとで,『我々はあなた方を知っています。現情勢に対するあなた方の立場を承知しています』と役人の一人が言うのを聞いて,それらの人たちは非常に驚いていました」。
果たせるかな大会を開く許可が下りました。唯一の条件は,夜の催しを開いてはいけないということでした。首長も驚き,感心していました。
チアッズワ兄弟によれば,その当時地域監督として奉仕していてバリケードに行き当たることがよくあったということです。同兄弟はこう語っています。「エホバの証人だという理由で私はいつも通過できました。あるバリケードでは,検査のため全員が車の荷物を降ろすよう求められていました。私がバンから飛び降りると,警官はすぐに私の書類かばんを見ました。それを開けたあと,私に氏名と職業を聞きました。私がエホバの証人であることを告げると,警官は車から荷物を降ろさなくてもよいと言いました。たまたま車には文書と私たちの備品一切が満載してありました。別の警官がそれを聞き,私のバンから荷物を降ろさなくてもよい理由を知りたがりました。最初の警官が,『あの男はエホバの証人なんだ。あの人たちが問題を起こすことはないよ』と言っているのが聞こえました」。
この地域監督によれば,その地域の兄弟たちはみな,畑で働いている時でも協会の文書を携行していたということです。そのお陰で殴打その他の不当な虐待を免れることが少なくありませんでした。同一のグループに属する人々がある場合には当局からけぎらいされ,別の時には非常に好意を示されるというのは何とも奇妙なことでした。
この点については後でさらに触れますが,ここで話をマラウィに戻しましょう。
マラウィでの迫害
マラウィの兄弟たちについては,故国を後にしてマラウィの東方にあるモザンビークのミランジェへ逃れたことまでお話ししました。1970年ごろ,そのうちの少なからぬ人が故郷へ徐々に帰り始め,元の生活に戻ろうとしました。しかしそうした状況は長くは続きませんでした。
1972年に残酷な迫害の波が再び兄弟たちを襲ったのです。サンフランシスコ・イグザミナー紙はそれを「宗教戦争」と呼び,「信仰に対して力で対抗する,あまりにも一方的な戦い」と述べました。そのやり方は1967年に起きた迫害の波の時とあまり変わりませんでしたが,ただこのたびはその時よりもさらに激しくなっていました。
その「戦争」の先頭に立っていたのは青年同盟と青年開拓者運動の会員たちでした。「彼らは十数人から多い時は百人もの集団となって,棒や投げ棒,パンガや斧などで武装して村々をめぐり,エホバの証人を捜し出しては襲いかかって証人たちの所有物件を侵害しました」―「目ざめよ!」誌,1973年2月22日号。
姉妹たちは強姦されました。釘の出ている板材で残酷な殴打がなされることもありました。一人の兄弟は体に干し草をくくり付けられました。次いでそれに火が付けられたのです。その兄弟は文字通り焼き殺されました。
マイケル・ヤダンガ兄弟とその家族は,辺り一帯に野生動物のいる猟鳥獣指定保護区の真ん中に置き去りにされました。バスに乗るのに数キロ歩かなければなりませんでした。家に帰ると,党員カードを買うようまたもや脅されました。ヤダンガ兄弟は,人々にこう言いました。「私はカードを買わなかったので歯を失いました。カードを買おうとしなかったので仕事を失いました。激しく殴打され,所有物は破壊され,やむを得ずザンビアへ逃れねばなりませんでした。それもこれもカードを買おうとしなかったからです。今さらカードを買う気などありません」。その後,青年同盟がヤダンガ兄弟を捕らえに来る,と同同盟の親切な会員が警告してくれたので,兄弟と家族はモザンビークへ逃げました。
殴打その他の身体的虐待に加え,事業の閉鎖,銀行預金の凍結,財産の没収,作物の破壊や窃取,エホバの証人に対する強制的解雇などが行なわれました。証人たちはどうしたでしょうか。残された道は一つしかなく,その道を取りました。国から逃げたのです。
このたびは,ほとんどの人がザンビアへ逃げました。1万9,000人余りの人がスィンダ・ミサレに難民キャンプを設けました。
全世界の仲間からの援助
それから間もなく,それらの兄弟たちに援助が差し伸べられ始めました。世界各地から,金銭,衣類,食糧その他の品物が届いたのです。ザンビアの兄弟たちは何千トンにも及ぶ食料品や毛布,寝具類,園芸用具その他の物品を直ちに供給しました。南アフリカからはトラックに何台分もの,防水シート,毛布,ビニール・シート,シャベル,斧その他の品物が届きました。兄弟たちはスィンダ・ミサレまで約2,400㌔の道を運転してそれらの品物を運んだのです。運搬に当たった兄弟たちは様々な困難を経験しましたが,エホバの愛ある導きのもとで品物を届けました。食糧,衣類,薬品その他の物品が全部で幾トンもスィンダ・ミサレの兄弟たちに供給されました。
再び移動
残念ながら,ほっとしたのもつかの間でした。ザンビア政府は,それらの兄弟たちを他の場所へ移すと見せかけて,実際にはマラウィへ送り返したのです。迫害が再び一から始まりました。それで兄弟たちはまたもや国を逃れ,このたびはマラウィの西側にあるモザンビークのムランジェニへ行きました。
間もなくモザンビークに12の難民キャンプが設けられました。それらの難民キャンプで生活した人の最高数は約3万4,000人に上ります。その後1975年にモザンビーク政府は兄弟たちをムランジェニ地域からマラウィへ強制送還しました。大部分の人は東のほうから再びモザンビークへ逃げ込み,その多くが今もそこにとどまっています。
ここで,シリル・ロングと妻のイナの語る経験に読者はきっと大きな関心を持たれることでしょう。この夫婦は1972年に迫害が再度勃発した当時,マラウィのブランタイアに住んでいました。こう語っています。
「ある家族は,増水してあふれる川の上にかかった橋を渡っている途中で呼び止められ,党員カードを見せるように求められました。党員カードを携帯していない理由を両親が説明すると,欄干から下の荒れ狂う川に子供たちが投げ落とされました。その中には生後6か月の赤ん坊もいました。幸い,年上の子供たちは泳ぐことができ,赤ん坊を助けました。エホバのみ手が子供たちの上にあり,全員が死を免れました。
「別の兄弟は意識を失うまで打ちたたかれてから全身にガソリンをかけられ,火を付けて焼き殺されました。むごいことに,身重の妻と6人の子供たちはその残酷な仕打ちを一部始終見ていなければなりませんでした」。
迫害を受けていた人々に援助を差し伸べる
ロング兄弟は,強奪され殴打されている兄弟たちを助けるために何らかの手を打たなければならないことに気づいていました。それで,秘密の場所を設け,避難してくる兄弟姉妹たちをそこから自動車に乗せて国境へ運ぶという取り決めを設けました。第1回目の時,フォルクスワーゲンのバン2台で約30名の人を運びました。何人かの人は自転車を携えてきましたが,それを持って行けないと分かって,道路わきの茂みの中に自転車を捨てました。捨てた自転車を再び目にすることは決してないということをその人たちは知っていました。
イナはこう語っています。「道路沿いにはバリケードが幾つかありました。バリケードにさしかかるたびに兄弟姉妹たちは毛布をかぶって自動車の床にうつ伏せになったものです。車の中には白人のシリルの姿しか見えなかったので,調べられることなく,行けという合図を受けました。一行は午前3時にモザンビークの難民キャンプに無事到着しました。
「数日後,巡回監督がやって来て,ザンビアの難民キャンプには1万2,000人ほどの人が戸外で暮らしているため薬品と毛布を至急必要としているという話をしました。冬だったので,風邪を引いたり下痢をしたり,のどが痛んだり,そのほかの病気にかかっている人が大勢いました。その上,虐待されたために切り傷や打撲傷やひどいやけどを負っている人が何人かいました。その人たちを助けるため私たちに何ができるでしょうか。
「エホバに熱烈な祈りをささげた後,薬局へ行って薬を売ってもらうことにしました。その店の主人が当局に私たちのことを通報することは十分あり得たので,それは危険なことでした。しかし,私たちは薬局に近づいて事情を話しました。
「実は,その薬局の主人は,従業員の中でもとりわけ信頼できる,エホバの証人の従業員を政府の圧力で解雇しなければならず腹を立てていました。ですから,その人は,私たちのことを通報するどころか,手助けができることを喜んでくれました」。注文した品を翌日取りに戻り,難民キャンプの兄弟たちへの無償の贈り物として薬品の入った大きな箱二つを差し出された時の,シリル・ロングとイナの驚きと喜びを想像してください。二人が代金を支払おうとすると,薬局の主人はこう言いました。「不面目きわまりない仕打ちを受けているあのような忠節な人たちに,これぐらいのことはさせてください」。
それから間もなく,シリル・ロングはもう一人の兄弟と一緒に夜間車を走らせて難民キャンプへ行きました。このたびは毛布を積んでいました。ロング兄弟はこう語っています。「目にした光景に私たちは涙を流しました。一家6人が1枚の毛布の中に身を寄せ合い,互いの体で暖め合おうとしていました。ある姉妹は,ひどく殴打された上,何本かの熱い丸太を当てられてやけどをしていたので身を横たえることができませんでした。みんなはその姉妹を草の束で支えなければなりませんでした」。
最後に,ロング姉妹が非常に心を動かされたもう一つの経験を述べておきましょう。政府が兄弟たちの銀行預金をすべて凍結したので,だれも公共の交通手段を使って逃げるためのお金を預金から下ろすことができませんでした。ロング姉妹はこう語っています。「二人の兄弟が私たちの所にやって来て言いました。『私たちは凍結される前に預金を下ろすことができました。家族のためにバスの切符を買って,このお金はその残りです。だれか必要な方にこのお金を差し上げていただけませんか』。その兄弟たちは仕事を失っていましたが,兄弟愛に動かされて,手元に残ったものを他の人たちに分かち与えました。兄弟たちはエホバが備えてくださることを知っていたのです」。
その時のことを思い出すたびに,エホバの愛ある世話に対するシリル・ロングとイナ自身の信仰が一層強まることは言うまでもありません。
モザンビークへの旅
マラウィの西側のモザンビーク領内に難民キャンプがまだ存在していた1975年に,初期クリスチャン会衆で起きたのと同様の問題が生じました。(使徒 6:1-6)それは,救援物資の分配に関する問題でした。支部事務所の兄弟が直接訪問するのがその問題を解決する最善の方法だろうということになりました。それで,支部委員の一人,キース・イートンが1975年2月にそれらの収容所に向けて出発しました。そこまで行くのは容易なことではありませんでした。空路で遠回りの旅をしなければならなかったのです。ソールズベリーから,モザンビークの東海岸にあるベイラへ行き,そこで数人の兄弟たちを訪問して一晩滞在しました。それからザンベジ川のほとりにあるテテへ向かい,ビラ・コウティンホ(現在のウロングエ)へ行きました。そこには当時六つの難民キャンプがありました。
目的地へ行くのが容易でなかった理由の一つは,モザンビークがポルトガル人の少数支配から黒人の多数支配への転換に当たって産みの苦しみを味わっていたからです。ですから国境を越えることは,特にその地域の住民でない者にとっては容易ではありませんでした。
しかし,ビラ・コウティンホ空港で出迎えてくれた兄弟たちの援助により,イートン兄弟は難民キャンプを訪問することができました。そこで兄弟たちの問題を話し合い,自分たちの境偶に関する兄弟たちの悲痛な報告に耳を傾け,有益な提案を与えました。協会の代表者とのその直接の接触によって,兄弟たちが大いに力づけられたことに疑問の余地はありません。
難民キャンプでの背教
マラウィの東方,モザンビークのミランジェの難民キャンプにやっとのことで居を定めると,兄弟たちの暮らしはかなり落ち着いてきました。ところが時たつうちに,またもや問題が生じたのです。
1976年に数人の者が突然,油そそがれた者であると称え始め,会衆の集会とは別個に特別の集会を開くようになったのです。それらの者たちは,非聖書的な教えを唱道しました。その言い分によれば,自分たちは油そそがれた者で,1975年以来エホバが会衆と交渉を持たれるのはもはや長老たちを通してではなく,自分たちを通してであるということでした。
首謀者の一人は,モザンビーク国境にあるムランジェ山の近くで裸同然の状態のところを警官に発見されて,モザンビーク東部の,難民キャンプが幾つかある地域へ連れ戻されました。自分はモーセと同様,山へ登って指示を受けるようにというエホバからの召しに従っていたのだ,とその者は追随者たちに言いました。残念なことに,油そそがれた者であると称えたそれら偽りの教師たちに従った人が相当数いました。500人を上回る人が排斥されるまで背教は収まりませんでした。惑わされた人々のうちかなりの数の人がやがて自分たちの誤りに気づき,悔い改めの態度を示して戻り,会衆に復帰しています。
モザンビークにおける業に責任を持つその地の二人の兄弟が,支部委員のための5週間にわたるギレアデの訓練課程に参加できたのは大変うれしいことです。同国における業を神権的に十分監督する上でそれは大いに役立ってきました。
戦争のために問題が増大する
さてジンバブエに話を戻しましょう。戦争が激しさを増すにつれ,兄弟たちの直面する問題も増大し始めました。生活は極めて不安定なものになりました。多くの地域で,普通の生活を送ることは不可能になりました。多くの人にとって,明日はどうなるか分からないという有様でした。協会へ次のような手紙を書き送った兄弟の家族の立場に自分を置いてみてください。
「私の家族,つまり妻と5人の子供に起きたことをお伝えしたいと思います。妻と子供たちは我が家のトウモロコシ畑で作業をしていたとき九死に一生を得ました。畑をはさんで両軍の兵士たちが発砲し始めたのです。妻と子供たちは地面に身を伏せ,弾丸がその上を飛びかいました。わずか10㍍ほど先のところで迫撃砲が幾度もさく裂しました。私の家族は十字砲火のただ中に置かれましたが,無事難を逃れました。それはエホバの保護のお陰だと信じています。家の周囲の木立はバズーカ砲が当たってひどくやられましたが,家そのものは被害を受けませんでした」。
この兄弟は別の種類の問題が生じたことも伝えています。
「兵士たちが夜,私たちの家へやって来て私に幾つかの質問をしました。それで私は自分がエホバの証人だと話しました。兵士たちはその夜のために私の娘たちを連れて行きたいと言いました。娘たちは自分の意志でそれを断わり,行きたくないと言いました。兵士たちは来なければ殺すと脅しましたが,それでも娘たちは抵抗しました。娘たちは,以前に家族研究で話し合ったことのある,マタイ 10章28節および啓示 2章10節のイエスの言葉を念頭に置いていたのです。兵士たちはようやく,娘たちに手を出さないことにしました。
「同意して兵士たちに付いて行った,この世の娘たちは辱められました。危険な今の時代にこうしてエホバが引き続き私たちを顧みてくださっていることに私たちは深く感謝しています」。
残念ながら,若い姉妹たちの皆が,このように難なく逃れられたわけではありません。旅行する監督であるマイケル・チカラは,ある若い姉妹の経験した事柄を話しています。最初にその姉妹はあごを殴られました。次いで,「姉妹がその一撃から立ち直れないうちに,一群の男たちが姉妹を押さえつけて暴行しました。その結果,その姉妹には現在一人の子供がいます」。
チカラ兄弟は17歳の姉妹から聞いた経験についても話しています。その姉妹の悲しい話は次のようなものです。「私は4度にわたって兵士たちに無理やり連れて行かれて殴打されました。2度は一方の側の兵士たち,そして2度はもう一方の側の兵士たちにです。
「最初殴打された時,死んでしまうかと思いました。その時の傷がまだ治らないうちに,もう一方の側の兵士たちがやって来て,若い女性全員を集め,無理やり自分たちの集会に出席させました。
「この時,一人の男が私に毛布を床に広げるよう命じ,自分と一緒に寝るようしつこく迫りました。私は泣きながら逃げましたが,その男は追いかけてきました。別の男がそれに加担し,私に無理やり不道徳な行為をさせようとしました。私は銃の台じりで打たれましたが,大声で叫びながら倒れたので,二人はとうとう立ち去りました。それで私は出席者の人込みにまぎれ,その後,私に近づいてきた男たちには気づかれずに,暗闇の中を人に助けられながら家へ帰りました。
「それから二,三か月後,兵士の別の一隊がわたしたちの地域にやって来ました。そして,敵軍の兵士たちの女友達になっていたと言って,他の9人の少女と一緒に私を連れて行きました。もちろん,私の場合,それは真実ではありませんでした。私たちは全員,何週間も動けないほど打ちたたかれました。私は合計4回殴打されました」。
この立派な若い姉妹は,家族の中で真理にいるのは自分だけであるにもかかわらず,霊的強さを引き続き保っています。
人さらい ― よくあること
ある地域では十代の子供たちがさらわれることがよくありました。兵士の一隊が小さな村へやって来て,村人全員を空き地に召集します。そして大人たちに無理やり歌を歌わせ,その間に兵士たちは十代半ばの少年少女を選び出すのです。少年を兵士として訓練し,少女を料理人として働かせたり不道徳な目的に利用したりするためにそうしたことが行なわれました。我が子の姿を二度と再び見られない親たちもいました。
時にはわたしたちの兄弟たちもそのような非常に心の痛む経験をしなければなりませんでした。ある開拓者の兄弟は協会へ次のような手紙を寄せました。「私の娘は他の5人の子供たちと一緒にさらわれました。子供たちは6人とも献身しバプテスマを受けた証人です」。帰って来た子供たちはエホバの証人ではなくなっていて,軍事訓練を受けた兵士となっていたという悲しい経験をしたクリスチャンの兄弟も幾人かいます。しかし,そうした例はごくわずかでした。
年若くても勇敢な証人
一つの感動的な例があります。それは,東部地域の,キャサリン・ムボナという14歳の姉妹がさらわれたときの出来事です。この姉妹の両親(父親のマイケルは長年のあいだ開拓奉仕をしている)は娘を再び見ることはないかもしれないと思いました。数日後,その少女が無事村へ戻された時の両親の喜びと安堵の気持ちを想像してください。
「あの人たちにどんなことをされたの」と両親が尋ねると,キャサリンは「何もされませんでした」と答えました。
「じゃあ,連れて行かれていたあいだ何をしていたの」。
「みんなにエホバについて話していたの。証言していたのよ」。
数日後,兵士の部隊の隊長が村へやって来て,その子の二親を探し出しました。両親はその人がどうしてやって来たのかとても不安でした。しかし,その人は,娘を立派に育てた両親をほめるためにわざわざ村へやって来たのです。
保護村
「戦闘」地域となる村が増え,またそのうちの幾つかがゲリラ軍の潜伏地や拠点となっていったので,政府は,俗に“とりで”として知られていた柵に囲まれた地域すなわち保護村に,それらの村の住民を移し始めました。それは住民の保護のために行なわれたものでしたが,そのために村人たちは,持って行けるわずかな持ち物を除いて家や土地,家畜や作物その他一切を後にしなければなりませんでした。
1973年のこと,巡回監督の一人,ルベン・ムペッザはこう報告しています。「ムクンブラ,ムシングワおよびチウツィの各会衆について言えば,それらの地域の住民は政府によりその指定する場所へ移動させられています。兄弟たちの中にも移動させられたために家がなくなってしまった人がいます」。
自分と家族が着のみ着のままの状態で柵に囲まれた地域に突然置かれたらどんな気持ちがするか,ご想像いただけると思います。家屋もなく,衛生設備もなく,あるのはただ野宿をするための空き地だけです。兄弟たちはこうした状況にどう反応したでしょうか。巡回監督はその報告の中でこう述べています。「それでも,兄弟たちがこうした障害にもめげず,エホバの王国が苦悩する人類の唯一の希望であることを他の人々に熱心に宣べ伝えているのを知ると,励まされます」。
それらの“とりで”に対するエホバの証人の態度が,一般の人の場合と異なっていたのは興味深いことでした。ほとんどの人が物質を失って嘆いていたのに対し,エホバの証人たちは新しい状況に順応することに余念がありませんでした。事実,人々がかたまっていたので,兄弟たちにとっては王国の音信を伝えるのがずっと容易になったのです!
そうした場所の一つでは年配の姉妹たちが大変喜んでいました。夜間外出禁止令が出されていたり,会衆の区域の人々が離れたところに散らばって住んでいたりしたため,それらの姉妹はそれまで補助開拓奉仕ができませんでした。ところが,姉妹たちが語っているように,「今は人々がみなかたまっています。ですから補助開拓奉仕がしやすくなります」。
このように人々が移動させられ,保護村へ入れられたため,当然ながら,組織の世話を受けられなくなった会衆も幾つかありました。自分が目的地に着いたときには訪問する予定の会衆があるかどうか巡回監督たちにも分からないということがよくありました。しかし,戦争が終わって保護村が廃止されると,兄弟たちは徐々に元の家へ戻って行き,以前のように暮らそうと努めました。二,三年のあいだ巡回監督の訪問を受けなかった会衆も旅行する監督の訪問を再び受けるようになりました。
事態に対処するために組織される
戦争中,様々な状況に対処するため,幾つかの変更がなされなければならなかったことは容易に理解できます。
長老を援助するための取り決めとして,巡回監督と地域監督の司会による特別の集まりが各巡回区ごとに年に1度開かれました。その時のプログラムは支部事務所が準備したもので,当時の兄弟たちの必要を特に扱ったものでした。長老たちは,非常な悪条件のもとで牧羊の業を行なってゆく助けとしてまさに自分たちが必要としていたものと感じ,その取り決めに深く感謝しました。当の長老たちのみならず,兄弟たちの中にも,長老が受けた訓練から自分たちが大いに益を得ていることを協会に書き送った人々がいました。
その特別の取り決め,および王国宣教学校や巡回大会での特別な集まりを通して長老たちに与えられる通常の訓練が,戦争の全期間中,兄弟たちの団結に大いに寄与したことに疑問の余地はありません。
「木に縛って殺してしまえ」
老齢の兄弟,ジェレマイア・チェサがひどい目に遭ったのは,その長老たちの特別な集まりに出席した直後のことでした。チェサ兄弟は農村地帯に住んでいます。同兄弟は次のように話しています。
「兵士の一隊が夜,私を家から森林地帯へ連れ込み,『土曜日と日曜日にはどこに行っていたんだ』と質問しました。私は宗教的な集まりへ行っていたと答えました。『いいか,じいさん,お前の命も今日限りだ。おれたちは,お前のなんかよりずっと重要な人物を殺してきたんだぜ。犬蓄生め』と兵隊たちは言うと,『殺してしまえ!』と叫びました。
「しかし,そのうちの一人が,『それより,手足を木に縛って放置し,ひとりでに死なせよう』と言いました。ひもを手に入れると,兵士たちは,『お前の神の崇拝をやめるか,それとも死ぬか,さあどちらを選ぶか言え』と言いました。
「『率直に言って,崇拝するのをやめると言って皆さんをだましたくありません。私は昼も夜も崇拝します』と私は言いました。
「それに腹を立て,だれかが『木に縛って殺してしまえ!』と叫びました。それで私は木に縛られたまま一晩を過ごしました」。
翌日,昼ごろ,たまたま猟師が通りかかり,チェサ兄弟が木に縛られているのを見つけました。猟師はそれを見てショックを受け,少し怖がっていましたが,わたしたちの兄弟を自由にするだけの勇気は持っていました。それで兄弟は家へ帰りました。しかしそれからどうなったでしょうか。チェサ兄弟はさらにこう語っています。「二,三日後,兵士たちが家にやって来て,私がどのように木から降りたのか知りたがりました。私を森林地帯へ連れて行き,だれが私のひもをほどいたのか聞きました。その答えは聖書の詩編 146編5-7節にあります,と私は言いました。その聖句を読むようにとの命令が与えられました。
「その節を繰り返して読むよう命じられた5人の人は打ちたたかれました。というのは,指導者たちはその者たちが正しく読んでいないと思ったからです。兵士たちが興味深い会話を交わしているのが聞こえました。『本当はだれがあいつを逃がしたのだろう』。『あいつには手出しをせずに,帰らせたほうがよさそうだ』。『じいさん,お前は運のいいやつだ』」。
兄弟を殺そうとしていたそれらの兵士の考えが突然変わったのはどうしてでしょうか。彼らが読んだ聖句は一部こうなっています。『望みがその神エホバにある者は幸いだ。エホバは縛られている者たちを解き放っておられる』。チェサ兄弟は自由の身になって家へ帰りました。
「エホバはいつもあなた方と共におられます」
これは,エホバの証人でないある婦人が忠実な姉妹の一人に語った言葉です。こうした言葉が口をついて出たことにはどんな事情があったのでしょうか。その答えとして,タウゼン・チャワンダ兄弟は,東部地域の茶園で仕事をしていた時に妻と共に経験したことをこう語っています。
「1976年12月23日に,兵士の一隊が囲い地の私の家へやって来ました。人々を集合させるため,数人の兵士たちが全部の家へ遣わされました。私たちは工場の敷地へ連れて行かれ,輪になって座るよう命じられました。エホバの証人は私と妻だけでした。
「それから兵士たちは,後ろに立って夫が殺されるのを見ているようにと女性全員に命じました。妻と私は保護を求めて声を出してエホバに祈りました。妻が後ろへ歩いて行った時,ある婦人は妻にこう言いました。『エホバという救い主がついておられるからあなたのほうが有利よ。エホバはいつもあなた方と共におられますもの』。
「女の人たちが離れると,兵士たちは男の人たちに『お前たちに働くなと言ったはずだ。それなのにお前たちは働き続けただろう』と言いました。そして,二人の兵士が男の人たちに向かって機関銃を撃ちました。それから兵士たちはそそくさと立ち去りました。
「そのあとすぐ,婦人たちは,自分の夫が殺されたのかどうか分からず,夫たちのもとに走り寄りました。妻が私を抱き起こそうとした時,私は妻に,大丈夫だと言いましたが,最初,妻はその言葉を信じませんでした。他の婦人たちの夫はみな殺されていました。そして婦人たちは囲い地へ帰って行きました。そのあと,私も帰ったところ,それらの婦人が全員私の家に集まっていました。
「私が近づくと,先にエホバの保護について語った婦人が妻に,『私が言ったでしょ,エホバはあなたのご主人と共におられますって。ほら,神の保護のお陰でご主人は生きて戻ってこられましたよ』と言いました」。
不利な条件のもとで集まり合う
そうした試みの期間中ずっと地域大会と巡回大会を開催できたのはうれしいことでした。それは,主として,国の中でも比較的安全な地域で大会が開かれたことによります。危険な地域の巡回区の兄弟たちが別の巡回区の仲間のクリスチャンの大会に参加しなければならなかったことが二,三度ありました。とはいえ,少なくともそれらの兄弟たちはプログラムを見聞きし,霊的な強さを保てました。
しかし,大会よりも会衆の集会のほうが問題となった所が少なくありませんでした。それは主として,一つの場所から別の場所への移動を制限する夜間外出禁止令によりました。主の記念式は晩に開かなければならないので,時折,大きな問題が生じました。夜間外出禁止令は普通日暮れから夜明けまでですが,時として午後4時という早い時刻から翌日の午前9時にまで及ぶ場合もありました。
特に農村部の小さな会衆で記念式の時のその問題を克服するために設けられた一つの良い取り決めは,兄弟たちが全員一人の兄弟の家へ行くことでした。そこで適切な時刻にキリストの死を記念する式を祝います。もちろん式がすんでも家へ帰ることはできません。夜間外出禁止令が出ているため,兄弟の家から1㍍位しか離れることができなかったからです。それで,兄弟たちは王国の歌を歌ったり経験を話したりしてその夜を過ごしたものです。そして,翌朝,集まり合ってその最も重要な式を行なうようにというイエスの命令を守れたことを喜びつつ,家路に着いたのです。―コリント第一 11:23,24。
関心のある人々が益を受けた
実際,記念式のためのそうした特別な取り決めは,会衆の他の集会とあいまって,兄弟たち自身のみならず,そうした地域の関心のある人々にとっても大いに益となりました。殴打などの虐待を恐れて,関心のある人々はおおっぴらに集会に出席するのをちゅうちょしたものです。しかし,一晩滞在するというその計画に力を得たようでした。
13人の証人から成る一会衆のある兄弟は,伝道者数を90人余り上回る106名が記念式に集まったので本当に胸の躍る思いだったと支部事務所に書き送ってきました!
当時特別開拓者として奉仕していたマイケル・マファラという別の兄弟は,独特の方法で夜間外出禁止令の問題を克服し,関心のある人々をも援助しました。その兄弟の住む地域では非常に厳しい夜間外出禁止令が敷かれていました。外出が許されていたのは1日のうち正午から午後2時までの間だけでした。その会衆では兄弟たちが三つの群れに分かれており,唯一の交通手段は徒歩でした。どんな手段を講じることができるでしょうか。
マファラ兄弟はある方法を思いつきました。集会場所に使わせてもらえる家を3軒指定したのです。外出できる2時間のあいだに,兄弟姉妹たちは全員その3軒の家の1軒に集まります。その家に翌日の正午まで滞在して家路に着くのです。次の集会の時間には,残りの2軒のうちの1軒に集まるというふうにしていきます。兄弟たちは集会や仲間との交わりに多くの時間を費やすことができ,互いに霊的に励まし合えました。
その結果をマファラ兄弟は次のように書いています。「それらの群れを訪問した時,関心のある人も来ていて,集会に出席するために一晩滞在していました。会衆には伝道者が13人しかいませんが,この夜間外出禁止令の敷かれている間に,出席者は21人になりました。これは,夜間外出禁止令が敷かれる以前よりも多い数です」。
『風からの隠れ場のようになる』
預言者イザヤは,エホバの目に見える組織の中で牧者また監督として奉仕している人々について語り,そうした人々を,「風からの隠れ場,雨あらしからの隠れ場所」になぞらえました。(イザヤ 32:2)忠節な旅行する監督たちは,戦時中ずっと,まさにそうした人であることを示しました。
それらの監督たちは兄弟たちのために勇気を持ってあらゆる種類の苦難に耐えました。ある人たちは,幾つもの山を越え,危険な川を渡り,野宿して夜を明かし,森林地帯の中を幾日も歩いたものです。それはすべて,孤立した会衆や伝道者のところへ行くため,信仰をしっかり保つようそれらの人を励ますためにほかなりませんでした。
その一例として,巡回監督の一人,アイザヤ・マコレの経験を紹介しましょう。マコレ兄弟はオベット・ソセ兄弟と一緒に,この国の僻地で危険な地域にある三つの小さな会衆を訪問するために,そこまでの約128㌔の道のりを自転車で旅行しました。その帰途,二人は“反体制運動家たち”に呼び止められました。では,当の巡回監督にその時の模様を話してもらいましょう。
「およそ14㌔進んだ時,銃を持った男たちが茂みの中から私たちを呼んでいるのが不意に目に入りました。私たちは自転車を止め,それを引いて男たちの所へ行きました。すぐに,新しい腕時計やお金その他の物品を取り上げられました。私が所持していたお金の中には,訪問したばかりの会衆から預った,協会へ送金するはずのお金も含まれていました。
「金品が取り上げられている間,私たちが何者で,そこで何を行なっているかを尋ねられました。その男たちは私たちが政府の手先か公務員ではないかと疑っていたようです。自分たちの身にどんなことが起こるか分からなかったので,私は助けを求めて声を出さずにエホバに祈りました。特に,妥協しないよう助けてくださるようにと祈りました。あとから聞いた話ですが,ソセ兄弟も同じことをしていたということです。
「私たちがエホバの証人で宗教の奉仕者であることをその男たちにやっと納得してもらえました。大変驚いたことに,男たちは,私たちから取り上げたお金をそっくり返してくれました。もっとも,時計と他の一,二の品は返してくれませんでした。
「それから私たちに,行ってよいと言いました。私たちがまさに立ち去ろうとした時,軍用車のやって来る音が聞こえました。戦闘が始まりました! 間もなく,弾丸が四方八方に飛びかう中で私たちは地面に身を伏せていました。幸い私たちはかすり傷一つ負わずにそこから抜け出し,私たちの本拠地までの127㌔の道のりを引き続き自転車に乗って走って行きました」。
拷問に耐える
旅行する監督たちの中にも,兄弟や姉妹たちと同様,残酷な拷問を受けた人たちがいます。ジョン・フングカもその一人でした。一般にエホバの証人の中立の立場は知られており,尊重されていました。しかし,フングカ兄弟の場合は,エホバの証人として確固とした立場を取ったがゆえに過酷な仕打ちを受けたものと思われます。同兄弟はこう語っています。
「隣の会衆へ歩いて行く途中のことです。私は同行する兄弟と道で会うことになっていました。私たち二人がちょうど出会った時,突然兵士たちに取り囲まれました。人々を拷問して,敵の陣地の者たちについての情報を聞き出すための電気機械を兵士たちは持っていました。
「最初ムクワンボ兄弟がその種の拷問にかけられました。兵士たちは兄弟の体に繰り返しショックを与えて,兄弟の知らない情報を聞き出そうとしました。そうしたことが行なわれている時,私は兵士たちに背中を向けて座るよう命じられました。その場の模様を私に見せないためです。私が,信仰をしっかり守れるよう私たち二人を助けてくださいと無言のうちにエホバに祈りをささげたのはその時でした。ムクワンボ兄弟はついに気を失ってしまいました。
「今度は私が尋問されました。私がエホバの証人だということを知ると,兵士の一人が私に電気ショックを与え始め,私が気絶するまでそれを続けました。意識を取り戻すと,またもや尋問されました。私は自分の中立の立場について繰り返し話しました。私がエホバの証人という言葉を口にするたびに兵士たちの怒りは激しくなったように思われます。
「次いで兵士たちは私を裸にし,局部に電気機械を当てて,またもや私に電気ショックを与えました。そして,受けた仕打ちについて通報したら殺すぞと脅してから私を解放しました。ムクワンボ兄弟に助けられて,同兄弟の家へたどり着くことができました。翌日兄弟たちはムタレ行きのバスに乗せてくれました。私はそこで治療を受けました」。
ジョン・フングカ兄弟はこの経験についてどう感じたでしょうか。「そのように迫害されていた間中エホバの保護があることを疑いませんでした。むしろ,迫害を受けたことにより,かつてなかったほどエホバを身近に感じるようになりました。問題があってもその地域の兄弟たちを引き続き訪問する決意を堅くしました」。フングカ兄弟はまさにその通りのことを行ないました。そのすぐ翌週には同じ地域へ戻って行き,巡回の業を続けたのです。
中立の問題に話を戻す
アフリカ人の兄弟たち,特に地方の兄弟たちが厳しい信仰の試みに遭っていた時,白人の兄弟たちの中には依然として,法廷で信仰を擁護しなければならない立場にある兄弟がいました。実際,そのころにはさらに大勢の兄弟がその問題に直面していました。召集年齢が50歳にまで及ぶようになったからです。
それには確かに良い面もありました。それら年齢の高い兄弟たちの中には,長老となっている人が大勢おり,メシアの王国に対する自らの忠節について大胆に語る点でより優れた立場にあったのです。兄弟たちは数々の立派な証言を行ないました。例えば,ゴードン・ヘインは兵役免除委員会に対して物柔らかながらも確固とした口調でこう言いました。「あの壁のところに私を立たせて銃殺にしてくださっても構いません。それでも私はエホバとその王国を支持する立場を曲げるつもりはありません」。
クース・デウェットも,兵役免除委員会の前で立派な証言をする機会のあった兄弟の一人です。デウェット兄弟が聖書に基づく自分の立場を極めて明快に力を込めて説明したにもかかわらず,兵役免除の申請は認められませんでした。その後に生じた出来事についてデウェット兄弟はこう語っています。「免除を認めないことが決まると,保安要員局局長はその決定を個人的に伝えるために私のところへやって来ました。私は会話の中で,我が国と戦っている者たちの中にエホバの証人が一人もいないという点に局長の注意を促しました。それは分かっている,と局長は言いました。『どうしてご存じなのですか』と言ってから,私はこう付け加えました。『それはこの周辺の国々のエホバの証人が,今日あなたの前で私が取ったのと全く同様の立場を取っているからですね』。
「すると局長は,エホバの証人には手を焼いているが,これまで幾年かのあいだに,非常に望ましい宗教を持っている人々だということが分かるようになったと言いました」。
中立の立場が広く知られる
そのころには,エホバの証人がいずれの側にもくみしていないことが国中に知れ渡るようになっていました。共同部落に住む兄弟たちはそのことを十分に証明できます。
次の経験は1978年に起きた出来事です。「勝利の信仰」地域大会のことがすでに発表されていました。フルングウェ地区の兄弟たちはその大会に出席したいと思いました。それには貸切バスを手配しなければなりません。では,その時のことをデービッド・ムプフルリルワに話してもらいましょう。ムプフルリルワ兄弟はその当時地域監督として奉仕しており,現在では妻のベティーと共に特別開拓者として奉仕しています。
「“反体制運動家たち”はその特定の地域を掌握していて,その地域を出入りするバスの使用も統制していました。“反体制運動家”の許可がなければだれもバスを借り切ることができず,その土地を離れることさえできませんでした。また,たとえ許可が下りても,それで問題がなくなるわけではありませんでした。というのは,道路沿いに政府の治安維持軍のバリケードがあったからです。当局は,ゲリラの許可を得たバスでなければやって来れないことを知っていました。ですから,バスは怪しまれ,爆弾その他の凶器を積んでいないか,手荷物や包みに至るまで徹底的に調べられました。
「そうした状況のもとで,エホバの証人がバスを借り切ろうとしているという話が“反体制運動家”の指揮官の耳に入りました。すると指揮官は,バスの所有者のもとに部下を数人派遣して,事の真偽を確かめさせました。バスを借りたがっているのはエホバの証人だが,貸すかどうかまだ決めていないとバスの所有者は答えました。そのことは指揮官に報告されました。兄弟たちが聞いた話によると,次のような会話が交わされたということです。
「『指揮官,バスを借りようとしていた人たちがエホバの証人だということをご存じでしたか』。『知っていた』というのがその答えでした。『ではどうしてあらかじめそのことを話してくださらなかったのですか。私たちはあの人たちを検査して時間を浪費するようなことはしなかったでしょう。ご存じの通り,あの人たちは政治面では中立です。彼らはわたしたちにとっては危険な人物ではありません。実際,私は自分たちの仲間と一緒にいるより,あの人たちと一緒にいるほうがずっと安心です。あの人たちに貸切バスの使用を許可したいと思います』。
「その後,兄弟たちと話していた時,バスの運転士はこう言いました。『皆さんにはエホバが付いていますね。これまでにほかの教会もバスを借りようとしたんですが,“反体制運動家”にも治安維持軍にも断わられましたよ』」。
もう一つの関門
チンホイへ,地域大会へ向けて兄弟たちは出発しました。しかしやがてバリケードに差し掛かりました。今度は治安維持軍のバリケードです。全員がバスから降りるように命じられ,手荷物や包みを開けるように言われました。兄弟たちが命令に従って行動しかけた時,一人の兵士がお前たちはどこから来てどこへ行くのかと尋ねました。「私たちはエホバの証人で,宗教的な大会に出席するためにチンホイへ行くところなんです」と一人の兄弟が答えました。
「全員エホバの証人なのか」と兵士は尋ねました。
「はい,そうです」という答えです。
「それなら,荷物を元へ戻して,そのまま大会へ行きなさい」。
兄弟たちがバスに乗り込んでいると,二人の兵士が次のような会話を交わしているのが聞こえました。
「おい,どうしてあのバスを行かせるんだ」。
「あれはエホバの証人なんだ。あんなに平和的な人々はまたといないよ。調べるだけ,時間の無駄だ」。
ついでながら,その大会に関して,チンホイの“反体制運動家”たちは,心配しなくてよい,と兄弟たちに伝えてきました。大会を妨害しないというのです。事実その通りになりました。
戦時中の最も暗い時期
そのころには,戦時中で一番困難な時期に入っていました。安全な場所はどこにもありませんでした。政府軍にはさらに圧力が加わり,都市部や農村部の別なく,国のどの地域も戦場となる可能性がありました。1978年の初めになると,都市や町で爆弾や手りゅう弾がさく裂していました。首都では,ウールワース社所有のビルの一つが側面を爆破され,数名の死傷者が出ました。ムタレでは一人の女性が手りゅう弾を足に縛って百貨店へ入りました。手りゅう弾は爆発し,その女性のほか何人かの人が死亡しました。
そうしたことから,厳重な警戒措置がとられました。店に入る際には必ず身体検査を受けました。田舎の砂利道には地雷が仕掛けられ,大抵の幹線道路は軍の護衛のもと日中に一団となって通行することしか認められませんでした。
会衆に影響が及ぶ
こうした状況が会衆の諸活動に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもありません。多くの場所で会衆の活動は妨げられました。巡回監督たちは巡回区内の会衆の中に,自分たちの行けない会衆があることを知りました。その問題を解決するため,そうした会衆と全力を尽くして連絡を保つ任務が地元の信頼できる兄弟たちに割り当てられました。旅行する監督は大抵外来者でしたから,それら地元出身の兄弟たちのほうが有利な立場にありました。
そのような取り決めがあってもなお,連絡が全く取れず,二,三年のあいだ音信の途絶えた会衆が幾つかありました。会衆の人たちが全員自分の家から逃れて,安心して戻れるようになるまで丘のほら穴の中で暮らしていたという話が支部事務所に伝わりました。
言うまでもなく,こうした状況の影響は協会が受け取る報告にはっきりと表われました。事実,報告を提出していた平均伝道者数は減少の一途をたどり,1976年に1万2,127人だったのが1981年には1万87人になりました。それは主として当時の諸事情のせいです。
連絡が取れるようになると早速,巡回監督たちはそれら“行方不明の”会衆と連絡を取り始めました。ジョン・フングカは次のような非常に励みとなる報告を寄せています。
「これらの兄弟姉妹は戦時状態のために2年の間巡回監督の訪問を受けていませんでした。兄弟たちがどのように問題に立ち向かったかを聞くと励まされます。脅迫,暴力行為,武装した暴行魔から子供たちを守るために親は断固とした態度を示しました。そして,聖書の高い道徳規準を擁護しました。少なくとも2年のあいだ他のエホバの証人との接触を断たれていたのに,エホバの証人らしく振る舞っています」。
フングカ兄弟はさらに,その期間中に幾人かが不活発になったこと,また恐れのために中立の立場を曲げた人がわずかながらいることを伝えています。しかし,兄弟たちの大多数が献身した者として得ているエホバとの関係を損なうことなくそうした試練をすべて耐え忍んだというのは実に感動的なことです。
エホバにより頼んだ人々
その危険きわまりない時期を振り返ると,非常に顕著なことが一つあります。エホバに忠節な者たちが『心をつくしてエホバに依り頼んだ』こと,またエホバも,忍耐するための保護と助けをそれらの者たちに差し伸べてくださったということです。(箴言 3:5)二,三の経験を振り返ると,その点がよく分かるでしょう。
その時期の大部分を巡回監督として英語会衆を訪問して過ごしたエリック・ヒッツと妻のジェーンの状況を考えてみましょう。まず覚えておいていただきたいのは,特に戦争の末期になると,主要な道路は一団になって護衛付きで走行しなければ通行できず,砂利道の多くは地雷で穴だらけだったということです。しかも,兵士の一隊がいつ何時姿を現わすか分かりませんでした。
さて,ヒッツ兄弟姉妹はそのような道路を利用しなければならないことが少なくありませんでした。護身用の武器を携行するようにとの圧力を受けましたが,二人は携行しないことを心に決めていました。むしろエホバに依り頼んだのです。ヒッツ兄弟はこう語っています。「あの道を通るなど気違いざただ,絶対生きて帰れないだろうと言われたことが何度もありました。しかしエホバは私たちを守ってくださいました。当時私たちが訪問した先の兄弟たちの示してくださった優しい気遣いは特筆すべきもので,それによってすべての苦労が報われるように感じました」。
ヒッツ姉妹の話によると,ある会衆から出発するのが何かの理由で予定より1日遅れたことがあったそうです。翌日,旅を続けて行くと,護衛付きで一団になって走っていた車が襲われて黒焦げになっているのが見えました。予定通り前の日に出掛けていたら,ヒッツ兄弟姉妹はその一団の中に入っていたことでしょう。「同様の経験は何度もしました。これはその一例にすぎません」と同姉妹は付け加えました。
この忠実な夫婦はその後ギレアデ学校へ行き,現在はスイスで宣教者として奉仕しています。
スティーブン・グンポもエホバに全幅の信頼を置いた人でした。グンポ兄弟は現在妻のグラディスと共にベテルで奉仕しています。同兄弟は特別開拓奉仕をしていた,ジョン・フングカ兄弟と同様,電気機械の拷問に遭いました。こう語っています。「その機械に掛けられると,うそをつくことであれ妥協することであれ,どんなことでも,耐え難い痛みを逃れるためならどんなことでも実にたやすく行なってしまいます。耐え忍んでエホバに忠実でいられたのはエホバが力を与えてくださったからにほかなりません」。グンポ兄弟によれば,同様の仕打ちを受けて死亡した兄弟たちもいるということです。
復活の希望,忍耐するための助け
明らかにエホバが奇跡的に保護を差し伸べ,避けられそうもないような死を免れさせてくださったという例はたくさんありますが,だからといって,必ず死を免れられるわけではありません。時には,『死に至るまで忠実である』ことが,エホバへの忠節を実証し,それゆえに復活によって「命の冠」を受けられるとの確信を得る道となる場合があります。―ヤコブ 1:12。
復活を固く信じてエホバに信頼を置いていることを示したテンベ・ムチイワという非常に忠実な兄弟の手紙を読むと,悲しい気持ちになるものの,励みが得られます。この兄弟は戦争のために3人の息子を失いました。3人のうち二人は,乗っていた車が襲われて死にました。3人目はアブッテという名前で,巡回の業に携わっていた若い兄弟でしたが,一つの会衆から別の会衆へ自転車に乗って向かう途中で殺されました。わたしたちの知る限りでは,この兄弟は,戦時中エホバの証人であるという理由で殺された唯一のエホバの証人です。
ムチイワ兄弟によれば,友人や親族,また地域の首長さえ,先祖崇拝を拒んだから災いに遭ったのだと言って兄弟に大きな圧力をかけ,先祖をなだめさせようとしたとのことです。しかしムチイワ兄弟はそうした圧力にき然として抵抗し,復活の希望に対する強い信仰を保ちました。兄弟たちやエホバの組織から得た慰めが大きな支えとなったとムチイワ兄弟は語っています。この兄弟は今でも開拓者として,また長老として奉仕しています。
『エホバはどのように救い出すかを知っておられる』
この言葉の真実性は確かに実証されてきました!(ペテロ第二 2:9)ジェレマイア・ムポンディはそのことをはっきりと証言できます。ムポンディ兄弟は若い特別開拓者で,片方の耳がありません。どうしてそうなったのでしょうか。同兄弟は次のように話しています。
「巡回監督や伝道者たちと別れて[農村地帯にある]家へ戻ると,兵士たちが私たちを待っていました。兵士たちは私たちが巡回監督と一緒にいるのを見て,私たちを白人政府への協力者と思ったのです。お前たちを捕まえるために派遣されたのだと兵士たちは言いました。
「言葉を交わしているうちに,兵士たちは,『戦争を続行せよ!』とか『打倒イエス!』といったスローガンを私たちに大声で言わせようとしました。私たちはあくまでも叫ぼうとしませんでした。すると兵士たちは針金で兄弟たちを後ろ手に縛りました。また,文書を取り上げて焼きました。
「私たちの中に若い姉妹が一人いました。無理やりエホバの証人にさせられたことを認めるようにと兵士たちは姉妹に要求しました。姉妹がそれを拒むと,気を失うまで姉妹を殴打しました。意識を取り戻した時,無理やりエホバの証人にさせられたことをお前は告白したと兵士が言うのを聞いて,その若い姉妹は倒れたまま,『うそです。そんなこと言いません!』と叫びました。すると再び殴打されて気を失いました。
「別の兄弟と私は地面に横たわるよう強いられました。その兄弟は危うく失明するほど殴られました。私に対して,兵士たちは片方の耳をつかんでナイフを振り回しながら,スローガンを復唱しないと耳を切り落とすぞと言いました。私は黙っていました。すると,脅しの文句通り,耳が落ちました。その時から,私は,復活の希望を大いに頼みとしてそこから力を得るようになりました。
「それから迫害者たちはムチニ姉妹に向かって,『戦争を続行せよ!』,『打倒イエス!』というスローガンを唱えないなら姉妹の5か月になる赤ん坊を八つ裂きにすると脅しました。兵士たちがすでに行なったことを知っていましたが,そうした脅しを受けても,その忠節な姉妹はスローガンを復唱しようとはしませんでした。兵士たちはきっと心を打たれたのでしょう,赤ん坊は殺されませんでした。
「ようやく私たちは自由の身になりました。しかし,十日後に別の一団が私たちの前に立ちはだかり,同じように脅したり殴打したりしました。私たち5人は全員忠実を保ち続けました」。
そうした経験の最後のものとなったその機会に,ムボンディ兄弟は自分たちをひどく虐待している男たちにこう言いました。「そのために死ぬことになろうとなるまいと,私たちは宣べ伝えることや集まり合うことをやめるつもりはありません。エホバのお名前のために死ぬことも覚悟しているのです」。その後,立ち去って行く迫害者たちの中の一部の者が「エホバは真の神だ」と言っているのが聞こえました。
その直後にムポンディ兄弟は兄と共に開拓奉仕を始めました。それ以来,ムポンディ兄弟とパートナーのアーノルド・チャンブルカは特別開拓者として数々の胸の躍るような経験をしてきました。
戦後の復興
ようやく戦争が終わり,1980年の初頭から同年4月にかけての短い期間,英国の総督が暫定的に支配した後,この国に初めて多数支配が実現しました。それと同時に国名も改められ,ジンバブエとなりました。
そして,国家全般にわたって,またエホバの民の間でも復興の時が始まりました。新政府が設けた復興計画には現在に至るまで様々な問題が満ちていますが,エホバの民の場合はずっと着実な進歩が見られてきました。実際,それは,1世紀のクリスチャン会衆の成員の間に見られた状況を思わせるものです。苦難と迫害の時期がかなり続いた後のことについて,使徒たちの活動 9章31節の記録はこう述べています。「こうして,会衆はまさに,ユダヤ,ガリラヤ,サマリアの全域にわたって平和な時期に入り,しだいに築き上げられていった。そして,エホバへの恐れと聖霊の慰めのうちに歩みつつ,人数を増していった」。
これはまさにこの国での状況を述べているように思われました。政府が行なった大赦により,投獄されていた兄弟たちは釈放され,通常の営みに戻ることを許されました。安全のために戦争中家族を都市や町に住まわせていた兄弟たちは家族の者たちと再び一緒に暮らすようになりました。混乱状態にあった会衆も再び安定してきました。実際,平和な状況のもとで王国の証しの業は,次の表が示す通り,にわかに活発化し始め,わずか2年間に次のようなすばらしい増加が見られました。
平均 平均 記念式の
伝道者数 開拓者数 出席者数
1981年 10,078人 560人 28,103人
1983年 11,552人 750人 33,914人
この数字から分かるように,兄弟たちが有益で健全な神権的活動を始めるまでに長い時間はかかりませんでした。事実,個々の伝道者の業の各分野での平均も順調に増加しており,兄弟姉妹たちがそれぞれ,1981年以前よりもずっと業を拡大していることが分かります。
王国の音信に対する関心が高まる
終戦後しばらくの間,人々には王国の音信に耳を傾ける暇がありませんでした。戦時中多くの約束がなされ,人々は今やそれらの約束が実行されるのを見たいと願っていました。しかし,実際には実行されませんでした。
間もなく戦争の余波がはっきりと現われてきました。戦前にはこの国でほとんど見られなかった犯罪と暴力行為が増えたのです。必需品の不足という事態さえ生じて,それが初めて大きな問題となってきました。幾つかの地域では,誘拐や反対活動のために外出するのが危険になりました。
こうした状況は多くの人に少なからぬ影響を及ぼしました。自らの問題を処理する人間の能力に,大きな疑問を抱きだしていたのです。そうした人の中には,戦時中エホバの証人が取った立場,すなわち,人類の苦しみに対する唯一の救済手段として神のメシアによる王国を堅く支持する立場のことを思い出すようになった人が少なくありませんでした。例えば,ある人は協会に寄せた手紙の中でこう述べています。「戦時中,私はエホバの証人の取っていた立場のゆえに,皆さんに大変激しく反対しました。しかし今では,皆さんこそ確かに神の民であると思っています」。
事実,終戦以来,支部事務所はエホバの証人の援助を求める手紙をかつてなかったほど多く受け取ってきました。例えば,関心を持つある人は次のような手紙を寄せました。「友人から1冊の本をもらうまで,私は飲酒や喫煙を習慣にし,政治にかかわっていたので,このような良いたよりについて読ませていただき大変うれしく思っております。これまでは束縛されているように感じていましたが,今は解放された気持ちです。私に聖書を教えていただけないでしょうか。どうかお願いいたします。エホバの証人と聖書の研究ができるよう,聖書を送っていただけませんか」。
諸会衆の兄弟たちも同様の経験をしてきました。34年間全時間奉仕に携わってきた巡回監督のラブソン・ダニエルはそうした状況を手紙で知らせてきました。それによると,地域によっては,月末になるといつも人々が兄弟たちの家へ雑誌を求めに来るということです。開拓者の一姉妹は雑誌活動に出掛ける支度をしていて,まだ出掛けないうちに,持っていた雑誌をやって来た人々に全部配布してしまったということです。
協会は最近,学校の校長から手紙を受け取りましたが,それは,宗教教育の基礎教材として使えそうな本か小冊子を45冊欲しいというものでした。また,支部事務所は別の学校から次のような手紙を受け取りました。
「私はニアンガニ中学校の職員と生徒を代表してお便りをしています。1981年に創立された本校は発展途上にあり,図書館を設ける準備を過去数か月にわたって進めてきました。当然のことながら,私どもは宗教教育を教育の肝要な部分であると考えております。最近,貴協会の出版物が数冊本校に寄贈されました。それらの出版物は私どもの必要によく合っていることが分かり,さらに情報を得たいと思っております。例えば,『目ざめよ!』誌は読みやすく,広範にわたる記事を扱っています。
「現在の価格を載せた小冊子があれば,今後役立つに違いありません」。
問題がなくなったわけではない
言うまでもなく,状況が変化したからといって,エホバの僕たちの問題がなくなったわけではありません。一般の人々が直面していた問題にエホバの僕たちも直面しました。反政府活動があって危険な地域,犯罪,爆弾騒ぎなどは依然として切り抜けていかねばならない事柄でした。
こうした状況に加えて,兄弟たちはさらにほかの問題にも直面し,信仰を試されました。それは大抵,地元の政治組織が無理やりエホバの証人を政治に関与させようとして生じたものでした。エホバの証人は政治にかかわることを首尾一貫して拒んだため非常に悩まされました。しかし,その結果また,地方当局や大勢の人の前で証言する優れた機会が度々開かれました。
巡回監督のベン・マプランガはタウゼン・ブラウンという兄弟の経験を話してくれました。この兄弟は,政党に入ることを断わる理由を説明するため400人余りの人々の前に連れ出されました。しかしその前にまず,政治スローガンを復唱しない理由を説明させられました。その後ブラウン兄弟は神の王国とクリスチャンの中立の立場を擁護する優れた証言を行ないました。
ブラウン兄弟が説明し終えると,議長は出席しているエホバの証人全員に起立を求めました。証人たちが起立すると,議長は,「皆さんも政党カードを受け取らないという考えですか」と尋ねました。証人たちは全員,「はい,受け取りません」と熱意を込めて答え,さらに,「私たちも神の奉仕者ですから,同じ考えです」と言いました。すると,人々は証人たちを打ちたたけと叫びました。しかし議長はこう言いました。「打ちたたいてはなりません。この人たちに罪はありません。家に帰しなさい。この人たちは自分の立場を説明したのです」。
エホバの証人に対する政府の態度
全国各地で地方の政治団体,特に青年たちによる各種の運動が兄弟たちに圧力を掛けてその中立の立場を曲げさせようとしてきましたが,その点に関する政府のこれまでの公式の立場は非常に励みとなるものになってきました。エホバの民が妨害されることなく王国の業を続けられるようにするのが,概して政府の方針となってきました。
1983年の初頭に,ある町で政治集会が開かれ,それに一人の閣僚も出席しました。その閣僚の話の終わりに当たって,公開の質疑応答が行なわれました。証人たちが政治活動を支持するのを拒んでいたので,エホバの証人に関係した質問がなされました。閣僚は出席者たちに,「わたしたちが解放闘争をしていた間エホバの証人はわたしたちと戦ったでしょうか」と尋ねました。
「いいえ」。
「現在あの人たちはわたしたちと戦っていますか」。
再び,「いいえ」という答えです。
「ではほうっておきなさい。あの人たちはわたしたちの敵ではありません」。
ほかの幾つかの土地でも同様の質問がなされ,同様の答えが与えられました。
「二人を釈放して,伝道の業を続けさせなさい」
地域監督のカレブ・マンディワンザから寄せられた最近の一つの経験は,王国の業に対する政府当局の現在の見解がどんなものであるかについて一層の洞察を与えてくれます。マンディワンザ兄弟の話によれば,ある農村地帯で二人の兄弟が,その地方の政党の幹部の前に連れ出され,党員カードを受け取ろうとしない理由を説明させられました。二人の説明は認められませんでした。それどころか,党の幹部は,大きな都市にある党の本部へ兄弟たちを送ることに決めたのです。兄弟たちはそこでも,自分たちの立場の聖書的な理由を説明する機会を得ました。
またもや二人をどう扱うべきかに関して混乱が生じました。そこで二人の兄弟は警察本部へ送られました。警察は,ハラレにある政府の本部へ電話を入れてはどうかと提案しました。提案は実行されました。どんな返事が返ってきたでしょうか。「政府はその組織を知っている。二人を釈放しなさい。二度と連れて来てはならない。二人を釈放して,伝道の業を続けさせなさい。彼らを煩わせたり,あなた方の[政治]集会に呼び出してはならない」というものでした。
「良いたよりの前進に役立つ」
フィリピ会衆に宛てた手紙の中で使徒パウロは,自分の身に降り懸かった事柄が『良いたよりの前進に役立つ結果となった』と述べました。(フィリピ 1:12)それは今の時代にも当てはまります。今紹介した経験も,結果的には,二人の兄弟が住んでいる地域において非常に優れた証言となりました。一人の婦人が,所属していた宗教団体を正式に脱退し,エホバの証人との聖書研究を申し込んできたのです。また,パウロの言葉をさらに例証する別の経験があります。
特別開拓者のケニアス・チェメレは,教師,校長その他の人々との研究を何件か持っていました。そのうちの6人は自分の学んでいる事柄が真理であることを認め,その地方の政党から脱退しました。そのために騒動が起きました。地元の地方議員はその件を取り上げ,自分の管轄下にある地域のエホバの証人は数週間以内に全員立ち退くように,という命令まで出すに至りました。
その特別開拓者と巡回監督のステイン・マダクチェクワは支部事務所の提案に従って,その問題を地域行政官のところへ持っていきました。その問題は地域行政官のところから警察へ回されました。その結果,エホバの証人に地域から立ち退くよう命じた議員に対し,エホバの証人をほうっておくようにという警告が与えられました。また,地元の政党の委員長にも同様の警告が与えられました。その委員長がチェメレ兄弟にこう語った通りです。「あなた方の件はなかったことになりましたよ。わたしたちは強い警告を与えられましてね」。
どんな結果になったでしょうか。確かに,「良いたよりの前進に役立つ」結果になりました。新しい聖書研究が幾つも始まりました。また,既に真理に関心を示していた人々が確固とした立場を取るよう動かされ,中にはバプテスマを受ける用意をするようになった人さえいました。その特別開拓者は別の任命地へ移ることになっていましたが,王国の音信に対する関心が急に高まったので,巡回監督は,チェメレ兄弟が引き続きその土地で奉仕することが許可されるよう強く要請しました。
最近同様の経験をしたほかの二人の若い特別開拓者は,自分たちの地域で得られた結果について書き送ってきました。こう語っています。「会衆全体が中立の立場を取った時激しく反対したある男の人は,現在わたしたちと聖書研究を行なっています。そして,とてもよく進歩しています。25年間行なっていた喫煙の習慣を1週間でやめました。自分の所属している宗教が大いなるバビロンの一部であることを知ると,その宗教グループとの関係を絶ちました」。
『活動の大きな戸口』がわたしたちのために開かれていることを示す同様の経験を,ほかにもたくさん紹介できます。(コリント第一 16:9)このようによく実を結ぶ畑を与えてくださったことを,わたしたちはエホバに感謝しています。しかし,パウロも述べているように,「反対者も多くいます」。それは予期しなければならないことです。しかし,兄弟たちが脅迫されないようにする措置を政府が取っているので,事態はずっと平穏になっており,わたしたちは以前よりも自由に業を行なっています。
りっぱな業に熱心
兄弟たちは,現在の状況をすかさず活用して王国の関心事を促進してきました。「わたしの聖書物語の本」という出版物は児童生徒や教師の間で非常な人気を集めています。教師であるシェバ・マワス兄弟は,「校長は,『聖書物語』の本が聖書を教える際の教授細目に最適であると結論しました。うれしいことに,校長は自分の授業で現在この本を使っています」と語っています。
この兄弟は自分の立場を利用して,2年生では「読み書きを学ぶ」という出版物が,また上級生には「あなたの若い時代,それから最善のものを得る」という出版物が使われるよう取り計らいました。
非常に積極的な別の若い兄弟は,学校での問題を克服する方法を知りました。この兄弟は,学校で他の生徒と一緒に政治的な歌を歌ったり祈りに加わったりすることを拒みました。また,ある種の娯楽に参加することも断わりました。それで,次のようなことが起きました。
「私が歌や祈りに参加していないことを聞くと,校長先生は私を校長室に呼びました。そして,私が参加していない理由をお尋ねになりました。私はその理由を話してから,私たちが自分たちの歌を歌うのを聞きたいかどうか校長先生に尋ねました。校長先生は同意されました。間もなく,エホバの証人の子供やほかの生徒たち,そして先生方も,『若い日にエホバを崇拝せよ』という歌を歌うようになりました」。
ジェラシ・ニアクリタというその若い兄弟は在学中補助開拓奉仕を行ない,現在は正規開拓者になっています。
関心をかきたてる
これらの活動や,「ものみの塔」,「目ざめよ!」両誌および他の出版物の優れた記事は,王国の音信に対する関心を大いにかきたてました。支部事務所には感謝の手紙が次から次に寄せられています。一例として,ある高校生の手紙の一部を紹介しましょう。
「皆さんのご親切に何と言って感謝してよいか分かりません。神ご自身が私を祝福してくださったように思えるからです。私を援助するために忠節で愛のある使者を遣わしてくださって本当にありがとうございます。『最善の生き方を選ぶ』という本のような有益な本の印刷を含む,その業を引き続き行なってください,とエホバの証人の皆さまに申し上げたいと思います。皆さんの本の中には批判できるようなところが一つもありませんでした」。
関心を持つ人々の中には,現在エホバの証人のいない地域で出版物を用いて他の人々と研究をしている人さえいます。そうした人の一人は,「ものみの塔」誌の予約購読料を4件分送ってきました。その人は手紙の中でこう書いています。「私たちは辺ぴな土地に住んでいる者ですが,ここで『ヌハリレ』[ショーナ語の「ものみの塔」誌]を読み始めています。私たちを指導し援助してくださる方を派遣してくださるよう,もう少ししたらお願いするつもりです。約7家族,12名ほどの人がいます」。
今では地方の当局者さえエホバの証人を勧迎しています。つい最近,一人の特別開拓者が孤立した地域に任命されました。その地域に所有地のあるチナンホラ兄弟は,当局者のところへ行って,その土地に特別開拓者が入ることを伝えました。地元の政党の村の委員長はチナンホラ兄弟に,「それは良いことを伺いました。わたしたちのところへその人を連れて来てください。家から家へ伝道する人がこの土地に来ることや,その人を悩ませないよう党員に話しておきましょう」と言いました。
土地の副首長は,「それは良いことですね。おかげでここも愛のあふれた場所になり,この土地の犯罪も減りますよ」と言いました。読者が特別開拓者だったら,このような任命地に行ってみたいと思わないでしょうか。
干ばつ ― 現在の問題
ここ3年のあいだ,別の種類の問題が持ち上がってきました。南半球の他の幾つかの国々と同様,ジンバブエも厳しい干ばつに見舞われたのです。事実,史上最もひどい干ばつになりました。家畜がばたばた死んでゆく場所もあります。野生の動物は水分を摂ろうとして,木の皮をはいで食べています。言うまでもなく,これは兄弟たちを含め,人間にも大きな影響を与えています。
仲間の安否を気遣う兄弟姉妹たちは,時を移さず,自分たちより恵まれないクリスチャンの仲間の必要を顧みるべく援助に立ち上がりました。一つの方法として,現在この問題は巡回区を通して取り扱われています。地域監督が巡回大会で長老たちと問題を話し合います。次いで,長老たちが,提供される援助を必要の最も大きな所へ持って行く責任を委ねられます。こうすることにより,衣類や食料品などの救援物資を不届きな郵便局員に盗まれずにすみます。受けた援助に対する感謝の手紙が支部事務所に何通か届いています。
この報告も終わりに近づきましたが,大きな喜びのうちにこの報告を結ぶことができます。過去24年の間,この国では,1万3,493人というそれまでの伝道者最高数を超えることができませんでした。ところが,1984年4月に,1万3,621人という新最高数が得られたのです。加えて,正規開拓者と補助開拓者の数の以前の最高数は1,191人でしたが,4月にその数はそれまでの最高数のほぼ2倍にあたる2,114名になったのです。また,1984年の記念式の出席者は3万8,000人を上回りました。これは伝道者数の3倍にあたり,1983年の出席者最高数3万3,914人を約4,000人上回っていました。確かにエホバは増加をもたらしておられます。
エホバはわたしたちの助け手
エホバの民は前向きな民ですから,「昔は良かった」という言葉はその語いの中に含まれていなくてもよい言葉です。わたしたちの前途には余りにも多くの事があるので,昔を懐古している暇はありません。しかし,過去を振り返って大変益になる場合もあります。そして,過去を振り返ると,ダビデが詩編 34篇19節で言い表わした次のような結論に必ず行き着きます。「義なる者の遭う災いは多い。しかし,エホバはそのすべてから彼を救い出してくださる」。ジンバブエにおいてこのことは確かに真実でした。
この国で王国の業の基礎が築かれていた初期のころを振り返ると,ナソン・ムカロンダ,ロビン・マニオチ,ウィルソン・スティマ,ウィリー・マグレガー,マクラッキー家の人々その他,しっかりとした人々のことが思い出されます。これらの人はみな老いてなお盛んです。エホバがご自分の民を支えてあらゆる試練を乗り越えさせ,現在のような霊的繁栄の状態に導かれたその有様を目の当たりにしてきたこれらの人々は,深い喜びを味わっているに違いありません。
私たちの業に対して非常に優れた態度を示してきた政府当局に,私たちは感謝しています。そして,「わたしたちが,敬虔な専心を全うし,まじめさを保ちつつ,平穏で静かな生活をしてゆくため」,政府の当局者について祈りをささげます。(テモテ第一 2:2)しかし,それと同時に,ご自分の民を保護し,民に愛ある世話を施されるのはエホバ神ご自身であり,ご自分の造られる義の新秩序へと導き入れて救ってくださることをわたしたちは知っています。たとえ何が起ころうとも,エホバは,他のあらゆる場合と同様,『苦難の時にも要塞』となってくださるでしょう。なぜなら,わたしたちはエホバのもとに避難したからです。―詩編 37:39,40。
[173ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ジンバブエ
シンホイ
ビクトリア滝
ハラレ
フワンゲ
ムタレ
ブラワヨ
ザンビア
ボツワナ
モザンビーク
ウロングエ
テテ
ミランジェ
モクバ
ベイラ
マラウィ
ムランジェ山
ブランタイア
インド洋
[114ページの図版]
1924年にハミルトン・K・マセコ(左)はブラワヨで証言を始めた。ナソン・ムカロンダはジンバブエでバプテスマを受けた(1924年)最初の人
[117ページの図版]
ウィルソン・スティマ(76歳)とロビン・マニオチ(85歳)は1920年代に真理を学んだ。二人とも特別開拓奉仕を行なっている
[119ページの図版]
ジンバブエとマラウィにおける初期の伝道の業で顕著な役割を果したマクラッキー家の一部の人々
[122ページの図版]
ウィリー・マグレガーは1929年にジンバブエに行き,ブラワヨ地域における王国の業の確立に大いに貢献した
[127ページの図版]
ジンバブエの最初の支部の監督となったエリック・クック(妻のマートルと共に写っている)
[129ページの図版]
1955年,ヘンシェル兄弟の訪問の際に開かれたジンバブエの大会
[130ページの図版]
1955年の大会におけるバプテスマ
[143ページの図版]
ジョン・マイルズ(妻のバルと共に写っている)は1960年から1979年までの間,地域の業を行ない,また支部事務所で奉仕した。1979年にマイルズ兄弟姉妹は宣教者としてレソトで奉仕する任命を受けた
[145ページの図版]
現在ジンバブエで奉仕しているギレアデの卒業生。氏名は各列とも左から右に記入されています。後列: ジョージ・ブラッドリー,アイリーン・マクブライン,レスター・デービー,キース・イートン,ドン・モリソン; 前列: ルビー・ブラッドリー,ジョン・マクブライン,アン・イートン,マリー・モリソン
[146ページの図版]
ギレアデ卒業生のシズル・クーマロは,巡回監督および地域監督として,アフリカ人の兄弟たちを大いに援助してきた
[151ページの図版]
ハル・ベントリーは妻のジョイスと共にマラウィで奉仕した後,ジンバブエに任命された
[164ページの図版]
1973年に完成したジンバブエ支部事務所
[195ページの図版]
木に縛られて放置され,殺されそうになったジェレマイア・チェサ
[203ページの図版]
旅行する監督たち,ジョン・フングカ(電気機械による拷問を受けた)とマイケル・チカラ
[212ページの図版]
ジェレマイア・ムポンディは,「打倒イエス!」といったスローガンを叫ぼうとしなかったので,片方の耳を切り落とされた