ケニアとその近隣諸国
今から144年前,ロンドンは興奮でざわめいていました。ドイツの探検家ヨハネス・レープマンが,東アフリカで頂上に雪を頂くほど高い,大きな山を見たと報告したからです。多くの人はこの衝撃的なニュースに驚きましたが,専門の地理学者たちは信じませんでした。赤道上に雪があるなんて,レープマンの想像に過ぎないと,彼らは結論しました。
何年か後,他のヨーロッパの探検家たちは,これまで白人が見たことのない,森の中に住む,原始的で小人のような人間について伝え聞いた話を持ち帰りました。今回も専門家は疑ってかかりました。そんな話はきっとおとぎ話だというのです。
しかし,どちらの場合も間違っていたのは専門家たちでした。その後の探検によって,万年雪で身を飾ってそびえ立つキリマンジャロの存在が確証されたのです。さらに確証されたのは,平均身長が1㍍37㌢のピグミーの存在でした。
東アフリカは何と不思議な土地なのでしょう。地球上のどの場所を見ても,アフリカのこの地域ほど興奮や色彩,美しさ,魅力に満ちたところはほとんどありません。この地域には雪を頂いた山だけでなく,灼熱の砂漠もあります。そこに住んでいるのは世界で最も背の低い人々だけでなく,身長2㍍10㌢ほどの人も珍しくないツチ族(ツシ族)やディンカ族のような,最も背の高い人々もいます。
住民と言語
ここは非常に変化に富んだ土地です。1億5,000万人の住人は350以上の種族に分かれています。タンザニアだけで約125の種族があります。ケニアには,ナイロビの近代的な商業地区によく代表されるキクユ族から,牛のミルクと血を主食にしている牧畜民マサイ族に至るまで,約40の種族がいます。
東アフリカで話されている言語が非常に多いとしても驚くにはおよびません。そうした言語は基本的には幾つかの主要な語族に分けることができますが,語派や方言を含めると,その数は何百にも上ります。エチオピアだけでも100以上の言語が話されています。その中には東アフリカだけでなく全世界を一致させる「清い言語」も含まれています。―ゼパニヤ 3:9。
山と湖と動物
東アフリカのほとんどは熱帯に属しますが,高い台地から成る内陸部は暑い沿岸部と比べると涼しい気候です。グレートリフトバレーと呼ばれる長さ6,400㌔に及ぶ地殻の裂け目が,この地域を南北に貫いています。この谷に沿って死火山が幾つかあります。そのうち最も有名なのはキリマンジャロ山です。高さは約6,000㍍あり,アフリカで一番高い山です。少し北に行くとケニア山があります。地理上矛盾しているように思えますが,ケニア山のふもとは太陽の照りつける赤道上にあるのに,その山の二つ並んだ頂上は万年雪に覆われています。
谷間にある湖には,ペリカン・カワセミ・ガン・ガチョウ・ツル・サギ・コウノトリ・トキ・ヘラサギなどをはじめとする非常に多くの種類の水鳥が多数住んでいます。炭酸ナトリウムを多く含んでいる谷間の湖にはフラミンゴになくてはならないブラインシュリンプや藍藻植物が繁殖しています。この優美な鳥は東アフリカに約200万羽生息しています。この大陸で最も興奮を引き起こす光景の一つは,フラミンゴの大群が飛んでいるところです。それはちょうど大空の青い天井を横切るピンクの斑点のようです。
興奮を誘う風変わりな美しい鳥がいたる所で見られます。虹色のタイヨウチョウは花の蜜を吸い,鮮やかな黄色をしたハタオリドリはパピルスの間に手の込んだ巣を作ります。ハゲワシは,やすやすと雲の間を滑空します。
もちろん,大型の動物もいます。草原には,ゾウ・シマウマ・サイ・アフリカスイギュウ・キリン・ライオン・ヒョウ,さらに60種類以上のレイヨウがいます。また,1万頭ものヌーの群れが平原を雷のように駆け抜けているところや,サバンナモンキーがアカシアの木からじっとこちらを見つめているところや,ひょろりとしたダチョウが食べ物をあさっているところなども見ることができます。
そうです,地球上で最も暑いところの一つであるダナキル平原,ゴリラが歩き回る“月の山々”,百歳以上のカメがはい回る白い砂浜など,どれを見ても,東アフリカは他のどんな場所とも違うことに気づくでしょう。
多種多様な宗教
昔から,東アフリカの人々は部族宗教に従うのが普通です。エチオピアだけは例外で,西暦4世紀以来,そこではエチオピア正教会が支配を行なってきました。しかし紅海をはさんでちょうど向かい側にメッカがあり,季節的な貿易風に乗ってアラブ人のダウ(帆船)がペルシャ湾から東アフリカの沿岸にやってきたため,すぐにイスラム教の信者が生まれました。18,19世紀にかけて行なわれたもうけの大きい奴隷貿易の際,主にアフリカの幾つもの大きな湖とザンジバルの港にまたがる地域から奴隷を集めたため,イスラム教徒はさらに南や内陸部へと足を踏み入れてゆきました。現在,東アフリカの人口の約40%がイスラム教を信仰しています。ただし,ウガンダ,ケニア,ルワンダ,セーシェルといった一部の国々では,その割合はもっと低くなっています。
19世紀にはヨーロッパから探検家や宣教師もやってきて,植民地主義の土台を据えました。大英帝国は,アングロエジプトスーダンや英領東アフリカとして知られるようになった所に対する権利を主張しました。ソマリランドは英国,フランス,イタリアによって分割されました。ベルギーはルワンダとウルンジ(現在のブルンジ)を管理しました。一時期イタリアはエリトリア(エチオピア)を支配し,ドイツは現在のタンザニア,つまりドイツ領東アフリカを支配しました。a キリスト教世界の宣教師はこれらの地域を勢力範囲に分け,特定の一つの“教会”がある地域における独占権のようなものを持つことを許可しました。学校が建設され,病院が設立され,聖書が多くの言語に翻訳されました。
今日,ケニアの人口の3分の2は名目上のクリスチャンですが,東アフリカ全体ではその割合は半数をわずかに下回ります。幾つかの部族はアニミズムを信仰し続けており,現在こうした伝統的宗教を信仰しているのは,人口の5分の1から4分の1の人々です。アジアからの移民は東洋の宗教を守り続けています。
ごく近年になって,アフリカでは民族主義が盛んになり,1960年代には次々といろいろな国が独立してゆきました。ほとんどの場合,これによって大きな崇拝の自由がもたらされました。さらに民族主義によって,多くの新たな自称預言者たちに門戸が開かれ,彼らはキリスト教世界の宗教をアフリカ化し,幾百もの新しい宗派を創始しましたが,その結果,互いに対抗や混乱が多く見られます。そうした信条の相違が憎しみに変わると,ある宗教の信者に対する迫害の炎が燃え上がりました。
キリスト教世界の教会は植民地支配の政治や事業の投機に関係し,キリストのような模範を示すことも,また大半の信者に対して永続する道徳的変化をもたらすこともありませんでした。しかし,聖書の真理が東アフリカに輝きわたる時が来ようとしていました。
初期の開拓者は火をともす
有名な探検家リビングストンとスタンレーがタンガニーカ湖の湖畔で出会ってから約60年後,ナイル川の最南端の水源がまだ発見されていなかったころ,アフリカのこの地域に聖書の真理の光を伝える最初の努力が払われました。このころまでに,聖書研究生はすでに世界の他の場所で非常に意欲的に活動して,宗教の欺まんを暴露し,当時起きていた出来事の重大さについて人々に警告していました。アフリカでのその業は,西海岸と,大陸の最南端にあるケープ州から始まりました。
国際聖書研究生がエホバの証人という聖書に基づく新しい名称を採用した1931年に,ケープタウンにあるものみの塔協会の支部事務所は,大陸の東岸に,そして内陸部の可能なところに聖書の真理の種をまく方法を探していました。グレー・スミスとその兄フランクという,ケープタウン出身の二人の勇敢な開拓奉仕者が,良いたよりを広める見込みを調査するために英領東アフリカに赴きました。デソートという車を改造してトレーラーハウスにし,40カートンの書籍と共に船に載せ,ケニアの海港モンバサに向けて船出しました。その少し前にモンバサとウガンダはケニアの高地を横切る鉄道で結ばれていました。それでモンバサに着くと,二人は貴重な書籍を列車でナイロビに送りました。ナイロビは標高約1,600㍍に位置する首都でしたが,その20年ほど前にはつぶれそうな鉄道の補給物資倉庫数棟のほかには何もないところでした。
それからスミス兄弟たちはナイロビまでの約580㌔におよぶ旅に乗り出しました。今なら旅行者は近代的な舗装道路を使ってこの距離を約7時間で行くことができますが,そのころ荷物を積み込んだトレーラーハウスでそこを通るのは本当に冒険でした。当時ものみの塔協会の会長だったジョセフ・F・ラザフォードのもとに送られ,「ものみの塔」誌,1931年8月1日号(英文)に載った報告を読むと,その旅行とナイロビでの証言の業をかいま見ることができます。
「親愛なるラザフォード兄弟
「まだ奉仕されていないこの地に南アフリカから来て業を行なう特権を与えてくださったことを,弟と私は今まで何度もあなたに感謝してきました。
「私たちは蒸気船ランテファー号にトレーラーハウスを載せてケープタウンからモンバサまで順当に運びました。そして快適な航海の後,今まで経験した中で最も恐ろしい悪夢のような自動車旅行が始まりました。モンバサからナイロビまでの約580㌔を,夜は野生動物に囲まれて茂みの中で眠りながら,終日走りずくめで4日かけて旅行しました。
「少し進むごとに,ショベルを持って車から降り,道をならしたり,穴を埋めたり,そのうえネピアグラスや木を切って,ぬかるみにはまった車輪にかませたりしなければなりませんでした。私たちは何としても証言をしたくて,日中も夜に入ってからも進んでゆきました。
「赤道と中央アフリカに近い,ケニアの首都ナイロビにとうとう到着しました。愛する主は私たちの努力を祝福してくださり,世界記録を樹立することができました。二人とも,土曜と日曜日を含めて21日間働き,この短い期間に600冊の小冊子と,9巻一組の本を120組配布しました。警察を呼ぶと言って脅され,うそつき呼ばわりされ,侮辱され,事務所から出て行くように命令されました。しかし,私たちは業を続け,ほとんど終わらせました。最も暗いアフリカ全土を照らす火がともされました。聞くところによると,この業は信心深いナイロビの人の間に大混乱を引き起こしたようです。
「私はケープタウンに戻りますが,弟の方はコンゴと北ローデシアに音信を伝えてからケープタウンに帰る計画を立てています。次の特権に備えてケープタウンで私たちは合流する予定です。
主の奉仕に共に仕える,
コルポーター,F・W・スミス」。
植民地支配のもとで,アフリカ人との接触は制限されていました。それで,スミス兄弟たちは書籍の大半をインド西海岸のゴアから鉄道の建設のためにやってきたカトリック系のゴア人たちに配布しました。しかしカトリックの司祭は,聖書文書に説明されている真理に怒り狂い,集められる限りの本を集めて焼いてしまいました。
その後スミス兄弟たちは,多くの旅行者の命を縮めてきた病気であるマラリアにかかりました。グレーは4か月入院した後に回復しましたが,兄のフランクはケープタウンに着く前に亡くなりました。
勇敢に後に続く
さて,話は南アフリカに戻ります。開拓者であるロバート・ニズベットとデービッド・ノーマンは最初の冒険の後に続く準備をしていました。ロバート・ニズベットは,スコットランドからケープタウンの支部事務所に到着したときに,東アフリカに送る準備の整った200カートンの書籍を見せられたことを覚えています。これはスミス兄弟たちが持って行った量の何と5倍に当たります。
マラリアの感染を防ぐために蚊帳の中で眠り,毎日キニーネを飲みながら,タンガニーカの首都ダルエスサラームで1931年8月31日に彼らの証言活動が始まりました。これは簡単な割り当てではありませんでした。ニズベット兄弟はこう述べています。「舗装道路からの太陽の照り返しや,猛烈な蒸し暑さや,書籍がいっぱいに入った重い荷物を家から家に運んで行かなければならなかったことは,わたしたちが直面した難しい状況のほんの一部にすぎません。でも,わたしたちは若くて丈夫だったので,それを楽しむことができました」。
商店,事務所,住宅などを訪問して,この二人の開拓者は2週間で1,000冊近い書籍や小冊子を配布しました。その中にはレインボーセットと呼ばれた,聖書を説明した人目を引く異なる色の9冊の本と11冊の小冊子から成るセットが多く含まれていました。しばらくするとカトリック教会は,すべてのカトリック教徒にこのような本を自宅に置いておくことを禁じる通知を発表しました。
二人の開拓者はダルエスサラームから,大陸の沖合い約40㌔の海上にあるかつての奴隷貿易の中心地,ザンジバル島に移動しました。細くて曲がりくねった迷路のようになった通りのある,島と同じ名前を持つ古い町はいつもチョウジの香りに包まれていました。ザンジバルはこの香辛料の主要な輸出地でした。当時約25万人だった人口のほとんどはスワヒリ語を話すイスラム教徒でした。書籍は英語で書かれていたので,その大半は英語を話すインド人かアラブ人に配布されました。
ザンジバルに10日間滞在した後,開拓者たちはケニアのモンバサ行きの船に乗り込み,ケニア高地に向かいました。モンバサから列車で旅行し,鉄道沿線の区域で宣べ伝えながら赤道のすぐ南にあるビクトリア湖に到着しました。
次に彼らは,ボートでウガンダの首都カンパラに向かい,そこで多くの書籍を配布し,「黄金時代」誌(現在「目ざめよ!」として知られている)の予約を得ました。一人の男性は友人が「政府」の本を夢中になって読んでいるのを見て,兄弟たちに会うために約80㌔の道のりをやって来て,入手できるすべての本を求め,それに加えて「黄金時代」を予約しました。
それから二人の開拓者は,ビクトリア湖岸のジンジャとキスムを通って,モンバサに戻りました。そこで二人は再び多くの書籍を配布し,聖書講演を2回行ないました。講演には多くのゴア人が出席しました。そこから5,000㌔におよぶ航海を経てケープタウンに戻りました。ニズベット兄弟とノーマン兄弟は全部で5,000冊以上の書籍と小冊子を配布し,それに加えて多くの予約を得ました。
アフリカの半分を貫く陸路
聖書の理解が深まって,地上の楽園で生活する大群衆の収穫が明らかにされた1935年に,4人の証人から成るグループが東アフリカでの3回目の証言活動を行ないました。その4人とは,最初の証言活動を生き残ったグレー・スミスと,その妻オルガ,それに二人のニズベット兄弟,つまりロバートとジョージでした。ジョージは3月にケープタウンに到着していました。b
今回は750㌔積みの2台のバンという立派な備えがありました。その車は中に住めるような設備が施されており,ベッドや台所,給水設備,予備のガソリンタンク,蚊を防ぐための取り外し可能な網戸が完備されていました。高さ約3㍍の草が生い茂った道も時々ありましたが,これでさらに多くの町に到達することができました。これらの開拓者たちはしばしば荒野で眠ったので,アフリカの力強い鼓動を見,聞き,感じることができました。そこはまっすぐに広がる地平線があり,野生生物に満ちています。夜にはライオンがほえ声を上げ,昼間は不気味な風采のサイやゾウと共にシマウマ,ガゼル,キリンがのどかに草をはんでいます。
彼らはケープ・カイロ道路の一部の区間を走りました。華々しい名前とは裏腹に,この道路は長く寂しい,ほこりだらけの道または砂利道で,所々に泥だまりや柔らかい砂地があって,川を幾つも渡らなければなりませんでした。タンガニーカに着くと4人は別行動をとりました。ニズベット兄弟たちはナイロビに向かい,一方,スミス兄弟姉妹は当時イギリスの支配下にあったタンガニーカに努力を集中しました。
スミス兄弟姉妹は間もなく警察に逮捕され,南アフリカに戻るよう命じられました。二人はそうする代わりにニズベット兄弟たちの後を追い,北のナイロビに向かいました。そこで地元の警察に払い戻しのきく保証金160㌦を払って,やっと滞在許可を得ることができました。開拓者たちは熱心に働き,3,000冊以上の書籍と,約7,000冊の小冊子を配布し,「黄金時代」誌の予約をたくさん得ることができました。結局,宗教的な反対が高まり,退去命令が出されました。退去命令に対する精力的な抗議もむなしく,開拓者のうちの3人は南アフリカに戻る旅を始めました。ロバート・ニズベットは腸チフスにかかっていたので,ナイロビの病院にとどまりました。感謝すべきことに,ロバートは回復し,南アフリカに戻ることができました。
その後,ロバート・ニズベットとジョージ・ニズベットはものみの塔ギレアデ聖書学校に出席する特権を与えられ,1951年,インド洋に浮かぶ島,モーリシャスに宣教者として任命されました。ロバート・ニズベットは現在オーストラリアにいますが,弟のジョージは1989年に亡くなるまで南アフリカの支部事務所で奉仕しました。
使徒たちの活動の書に記されている1世紀の宣教者たちのように,これらの開拓者たちは困難や危険にもかかわらずエホバと仲間の者たちに対して深い愛を示しました。東アフリカに来た6人の開拓者のうち,4人は長期間入院し,一人は亡くなりました。しかし証しの業は行なわれ,書籍は実を結びました。例えば約30年後,ケニアの片田舎の区域で働いていた一人のエホバの証人は,「和解」の本を1935年に入手して持っていた男性に会いました。この男性は現在ではエホバの証人になっています。
隠された帝国にいたもう一人の開拓者
それとだいたい同じころ,もう一人の勇敢な開拓者クリコール・ハツァコルツィアンは,霊的な啓発を母国語のアルメニア語だけでなく,ギリシャ語やフランス語でも広めるためにエチオピアに入りました。それはいろいろな点で異なった国に入って行くという冒険でした。国土の大部分は平均標高約2,000㍍の,三角形をした広大な高原です。そこには,そびえる山頂や,頂上が切りとられて肥沃な平原となり,周りを谷に囲まれたむき出しの山頂があります。青ナイルはここに源を発し,目を見張るような峡谷を流れてゆきます。同様に,テケゼ川は,一部の旅行者に北米のグランドキャニオンを思い起こさせるような峡谷を流れてゆきます。エチオピアはこの山岳地形によって,西のスーダン低地と東のダナキル砂漠やオガデン砂漠から分断されています。
エチオピアは歴史の初期から独立した帝国を形成していました。皇帝エザナは4世紀のニケア公会議のころにキリスト教世界の信仰を取り入れました。マリア崇拝と十字架を強調し,古代のユダヤ教との結びつきもあるエチオピア正教会は,エチオピアの歴史に強力な影響を及ぼしてきました。そのため,この教会は低地からのイスラム教の進出に抵抗して,エチオピアを隠された“キリスト教の”帝国としてきたのです。“三位一体の神の力”という意味の名前を持つ皇帝ハイレ・セラシエは“王の王”,“ユダのライオン”,“神の選ばれた者”といった称号を持っていました。さらにこの皇帝には教会の利益を守るという憲法による義務がありました。しかし,人々はずっと霊的な暗闇の中に置かれ,狂信的な行動へと容易に駆り立てられることがありました。
こうした中,1935年に,ハツァコルツィアン兄弟は開拓者のパートナーがいなかったにもかかわらず,エホバに全幅の信頼を置いていました。その活動を伝える手紙の以下の抜粋は,「ものみの塔」誌,1935年11月1日号(英文)に掲載され,兄弟が直面していた状況についてわたしたちに教えてくれます。
「私は義のために迫害されることを少しも不思議には思いません。さらに迫害が続くと思います。……万軍のエホバは過去において私を助けてくださいましたし,将来もそうしてくださるでしょう。
「ある日の正午ごろ,私は奉仕を終えて家に戻るところでした。サタンの代理人が物陰から突然出てきて,大きな棒で私の頭を二度殴りました。その男は私をひどく殴ったため,その棒は折れてしまいました。しかし主の助けにより,また近所の人も驚いたことに,私のけがはたいしたことはありませんでした。二日寝込んだだけでした。別のときには,敵の中の主立った者たちがナイフを手にして私を襲ってきました。しかし,ちょうど彼らが私を刺そうとしたその時,何か不思議な力の影響で彼らはナイフを投げ捨て,私を残して逃げて行きました。
「しかし迫害は続いています。今回彼らは私に関する偽りの申し立てをし,皇帝の前に立たせるために私を首都(アディスアベバ)に送りました。首都での滞在中(4か月),私はいろいろな場所に出かけて行っては,家から家に,またホテルや喫茶店でも証言を行ないました。最後に私は皇帝の前に連れて行かれました。皇帝は私の言い分を聞いてくださり,どこにも罪が見いだされなかったので私を自由にし,家に帰るようにと命じてくださいました。この勝利に対して主がほめたたえられますように!」
この国の人々は恐れと当惑を感じつつ暮らしていますが,私は主にあって歓びます。全能のエホバが皆さんを豊かに祝福してくださり,与えてくださった業を成し遂げることができるように強めてくださいますように。
キリストによって結ばれたあなたの兄弟,
K・ハツァコルツィアン」。
第二次世界大戦の動乱の時期,ハツァコルツィアン兄弟からの音信は途絶えてしまいましたが,1950年代の初め,ギレアデで訓練を受けた宣教者たちがアディスアベバに到着した時,「あなたたちと同じようなことを話す」男性がディレダワにいるといううわさを耳にしました。ヘイウッド・ウォードはこの東部の町に行き,英語の話せない一人の老人を見つけました。宣教者が自己紹介をすると,この老人はどっと泣きだし,天を見上げて,アルメニア語でエホバのお名前を含む言葉をつぶやきました。その人はハツァコルツィアン兄弟だったのです。兄弟はこの日をどれほど待ちわびていたことでしょう。うれしさのあまり涙を流しながら兄弟はウォード兄弟を抱き締めました。それから兄弟は古びた箱を誇らしげに引っ張り出して,使い古した「ものみの塔」誌や書籍を見せ,その間じゅうウォード兄弟には理解できない言語でうれしそうに話していました。
ウォード兄弟はこの兄弟に会えたことをとても喜び,もう一度訪問しようと思いました。しかしそれは実現しませんでした。他の宣教者たちが会いに行ったとき,人々は嘆き悲しんでいました。ハツァコルツィアン兄弟は亡くなったのです。
宣教者たちにとってハツァコルツィアン兄弟は「メルキゼデク」のような存在でした。(ヘブライ 7:1-3)答えの見つからない疑問が数多くありました。彼はだれなのでしょう。どこから来たのでしょうか。どこで真理を学んだのでしょうか。第二次世界大戦の騒然とした期間に彼の身にどんなことが起きたのでしょうか。いずれにせよ,ハツァコルツィアン兄弟はエチオピアに入った初期の勇敢な開拓者でした。
ついにケニアに新しい土台が据えられる
1949年の11月に,メアリー・ウィッティングトンは3人の幼い子供たちと共にイギリスからケニアに移民しました。それはナイロビの東アフリカ鉄道公社で働いていた夫と共に住むためでした。この姉妹はほんの1年前にバプテスマを受けたばかりでしたが,すぐに自分一人でやってゆくことを学びました。強い開拓者精神を持つ,細身で規律正しいこの婦人は,故国イギリスよりも大きなこの国で寂しいなどとくよくよ考えることなく,この広大な国土を聖書の真理を広める機会とみなしました。
当時は人種差別が強制されていた植民地時代だったため,近所で家から家に伝道し始めたとき,ウィッティングトン姉妹は話す相手をヨーロッパ人だけに限らなければなりませんでした。家の人は非常に友好的で,しばしば家の中に招き入れてくれて,聖書文書を受け取りました。ウィッティングトン姉妹はよくこのように尋ねられました。「あなたたちはどこで集まりを開いているのですか」。姉妹の答えは,自分の知っている限りでは私がこの国中でたった一人のエホバの証人です,というものでした。
すぐに忠誠に対する試練が起こりました。3か月もしないうちにウィッティングトン姉妹の夫は,警察が妻の宣教活動に反対していることを職場の上司から知らされました。もし姉妹が宣教を続ければ植民地から追放されるかもしれません。それで夫はウィッティングトン姉妹に,友人だけに宣べ伝えるようにと言いました。姉妹は,ケニアには友人がおらず,クリスチャンとして忠実であるためにはこの業を避けて通ることはできないと答えました。夫は,姉妹が追放されても子供たちを連れて行くことは許さないと告げました。
数か月後,警察の特別課のメンバーがウィッティングトン氏の仕事場を訪れ,姉妹が配布している書籍のサンプルを要求しました。ウィッティングトン姉妹は喜んでたくさんの書籍を渡しました。これらの書籍を返しに来た警察官は,楽しんで読んだと言いました。また,宣教活動は禁止しないが,アフリカ人には宣べ伝えないようにと強く言いました。その当時,このことは別に問題になりませんでした。なぜならナイロビにいる非アフリカ系の住民の間で業を行なうだけでも手いっぱいだったからです。
間もなく仲間が現われましたが,その現われ方はウィッティングトン姉妹の予想とはやや違っていました。ものみの塔協会の北ローデシア支部は,聖書の話に関心を寄せるバトラーという名の夫人のことを知らせて来ました。セーシェル出身のオルガ・バトラーはタンガニーカで10年以上にわたって協会の出版物を受け取り,最近夫を亡くしてナイロビに引っ越してきたのです。手紙で連絡をとり,ナイロビの繁華街の喫茶店で会う約束をしました。すぐに聖書研究が始まりました。最初は公園で行なわれました。人種の異なる人との付き合いは依然として禁止されていたからです。2年後にオルガ・バトラーはウィッティングトン家の浴槽でバプテスマを受けました。
援助するための努力
この広大な区域を開拓し,孤立しているウィッティングトン姉妹を助けるために,宣教者を送り込む努力が払われましたが,植民地政府は許可してくれませんでした。1952年に,ものみの塔協会の会長ネイサン・H・ノアとその秘書ミルトン・G・ヘンシェルはナイロビを訪れ,ケニアとウガンダの兄弟姉妹の小さなグループと晩のひとときを過ごしました。もう一度宣教者を送る申請をしましたが,またもや拒否されてしまいました。
状況をさらに難しくする別の出来事が生じました。マウマウ運動が高まるにつれ,非常事態宣言が出され,事前に政府に登録しない限り,10人以上の集会を開くことは違法とされました。1956年に,クリスチャンの集会を登録する申請をしましたが,受理されませんでした。こうしたことが何年も続いている間に,多くのエホバの証人が外国からやってきてケニアに短期間滞在しました。しかしメアリー・ウィッティングトンとその子供たち,そしてオルガ・バトラーだけが良いたよりの伝道を続けました。
ギレアデ卒業生の到着
このような状況のもとで,1956年,スコットランド出身のギレアデ卒業生,ウィリアム・ニズベットとミュリエル・ニズベットがナイロビに到着しました。ウィリアム・ニズベットは,1930年代に南アフリカからケニアに来た初期の二人の開拓者の実の兄弟でした。ケニアにとどまるためにニズベット兄弟は仕事を見つけなければなりませんでしたが,それでも小さな聖書研究の群れを監督することができました。一方,ニズベット姉妹はウィッティングトン姉妹と一緒に毎朝平穏のうちに家から家の活動に携わりました。
ニズベット夫妻にとってナイロビは美しい任命地でした。その都市はよく整備された近代的な大都市に成長しつつありました。穏やかな気候や,町外れにあるヌゴング丘陵は,生まれ故郷のスコットランドを思い出させるものでした。よく晴れた日に南東の方角を見ると,頂上を雪に覆われたアフリカの最高峰キリマンジャロが,太陽の光を浴びて輝くのを見ることができました。北には,ケニア山の鋸状の輪郭が見えます。この国の名前はこの山から来ています。さらに動物愛好家の楽園,ナイロビ国立公園は目と鼻の先です。そこにはライオン・チーター・サイ・アフリカスイギュウ・キリン・シマウマ・レイヨウなどがいます。
しかし,ニズベット夫妻の主な関心事は新しい聖書研究を始めることでした。そのうちの一つは警察の特別課の警官の家族との研究でした。ニズベット夫妻は気づいていませんでしたが,この警官はエホバの証人を取り調べるようにという任務を受けていたのです。取り調べは期待していたものとは異なる結果になりました。警官はわたしたちの活動について好意的な報告を提出しただけでなく,真理という極めて貴重な宝を見いだしたのです。やがて,この家族は4人とも全員バプテスマを受けてエホバの証人になりました。
ほかの人々も研究を行ないました。残念なことに,依然として緊急事態宣言のもとにあったので,10人以上の集会に出席すると追放されるか,最高3年の懲役刑が課されました。兄弟たちは小さなグループで集会を開かざるをえませんでした。
1958年 ― 忘れられない年
この年はクラーク夫妻とザネット夫妻という,さらに4人のギレアデ卒業生をナイロビに迎えることによって幕を開けました。ニズベット兄弟と同様,二人の兄弟たちは妻が開拓奉仕を行なう間,世俗の職業に就かなければなりませんでした。伝道者数は35人の新最高数に達しましたが,ほとんどは外国人でした。
この年は,世界各国から25万人以上の人々が集まった,『神の御心』国際大会がニューヨークで開かれた年でもありました。メアリー・ウィッティングトンにとって,その大会に出席し,ケニアでの活動の短い報告を行なうのはわくわくする経験でした。その年に喜びを増し加えたもう一つの出来事は,エホバの証人で満員になったローデシアからのチャーター便の飛行機が,ニューヨークに向かう途中でナイロビに立ち寄り,互いに霊的に鼓舞し合う機会を持てたことです。
ニューヨークの大会では,資格のあるエホバの証人は王国伝道者の必要が大きい国々に移動するように,と呼びかけられました。そして,ケニアもそのリストの中に入っていました。それで,1958年12月から1959年9月までの間に,カナダ,米国,イギリスから30人以上の兄弟姉妹が,ケニアでの業を援助するために引っ越して来ました。これら新たに到着した人たちの幾人かは,美しい砂浜のあるケニアの海沿いの町モンバサに赴きました。他の人たちは地溝帯にある町,ナクルに行って伝道を始めました。ここには町と同じ名前の湖があり,百万羽のフラミンゴの住みかとして有名です。
「必要の大きな所で奉仕する人たち」の貢献
これら「必要の大きな所で奉仕する人たち」は熱心で,クリスチャンの円熟の立派な模範を示しました。彼らは友人や仕事や快適な暮らしを後にしましたが,豊かな祝福を受けました。ケニアは彼らにとって現代のマケドニアでした。―使徒 16:9。
多くの人を代表して,イギリス出身のロン・エドワーズはこう語っています。「この期間のまさに最初から,必要の大きな所で奉仕するためにやって来た人たちの間では,愛と愛情の強力な絆が育ってゆきました。これはわたしたちの目的が一致していて,状況が似通っていたからにほかなりません。わたしたちのほとんどはほぼ同年代(30歳から40歳)で,結婚しており,こちらに来る前に安定した家庭生活を送っていました。しかし,わたしたちは家を後にして,協会の呼びかけに応じて未知の将来に乗り出したのです」。
何年もの間に,多くの人は健康や,労働許可証といった個人的な事情のためにこの国から去らなければなりませんでした。しかし中には,アリス・スペンサーのように長年とどまることのできた人もいます。姉妹は25年以上の間モンバサの暑さをものともせずに立ち向かいました。さらに,80歳を超えるマーガレット・スティーブンソンは,ケニアに30年以上も住み,今でも正規開拓者として奉仕しています。c 宣教者としての熱意をもって働いたこれらの兄弟姉妹は,多くのケニア人が真の崇拝に対する愛を築き上げるための土台を据えるのに大きく貢献しました。
しかし,「必要の大きな所で奉仕する人たち」が殺到したにもかかわらず,活動にはまだ障害がありました。宣教は主にヨーロッパ人,つまり外国から来た白人や,アジア系社会の中で行なわれていました。外国から来た証人たちの中にはスワヒリ語を学んだ人もいましたが,たいていは使用人に証言することしかできませんでした。
さらに拡大するための取り決め
1959年に,ノア兄弟は再びナイロビを訪問しました。その時までに,最初9人だった群れは,二つの群れからなる伝道者54人の会衆になっていました。指導の任に当たることのできる兄弟たちが増えていたので,ノア兄弟は二つの群れを四つに分けました。ニズベット兄弟は巡回監督に任命され,世俗の仕事を行ないながらこれらの群れを訪問することになりました。その時期に外国人の間で,関心を持つ人たちが驚くほど大勢見いだされました。
植民地支配が終わりに近づいたころ,エホバの証人が初めて原住民に接触しました。そのことは次の経験に示されています。一人のヨーロッパ人の姉妹が町で靴を買おうとしていた時のことです。姉妹は店員にどこに住んでいるのかを尋ねました。店員は「ジェリコです」と答えました。それで姉妹は,「ジェリコならよく知ってるわ。よくそこに行くのよ」と答えました。すると店員はすぐに,「あら,じゃああなたはエホバの証人ね」と叫びました。
そのときケニアで王国の業は前進していました。でも,その先に進む前にちょっと一休みして,良いたよりを宣べ伝える努力が同じように払われていた近隣の国々を見てみることにしましょう。
“アフリカの真珠”― ウガンダ
ケニアの西隣の国ウガンダは青々とした国です。ここでは緑に覆われたビクトリア湖の岸辺を散歩したり,雪を頂いたルウェンゾリ山地(伝説の月の山と考えられている)に登ったり,ナイル川を船で下ったり,壮大な熱帯雨林の中をドライブしたりすることができます。大量の雨が降るので,綿花やコーヒーだけでなく良質の野菜やくだものもたくさんとれます。暑さは我慢できる程度のもので,常夏の気候はイギリスの行政官やアジアのビジネスマンに喜ばれました。そうした人々はクラブハウスやゴルフコース,プール,陸上競技場,クリケット場などの屋外で楽しく過ごしました。ウガンダが“アフリカの真珠”と呼ばれたのも不思議ではありません。
1950年4月に,若いエホバの証人の夫婦が聖書の知識を他の人に伝えたいという意欲を持ってイギリスからウガンダにやってきたとき,ここでの生活は静かで楽しいものでした。1年もしないうちに,彼らは一人のギリシャ人と,イタリア人の家族が真理を認識するよう援助しました。
ローマのように七つの丘の上に建てられた都市カンパラに小さな会衆が設立されました。宣教活動は徐々にアフリカ人の区域でも始められました。英語がウガンダの共通語になっていたので本当に助かりました。地元の言語が初めて使われたのは,アフリカ人の聴衆が50人出席した公開講演がガンダ語に通訳された時でした。1953年までに,6人の伝道者が活動していました。
2年後,エンテベの近くのビクトリア湖でウガンダで最初のバプテスマが行なわれました。バプテスマを受けた5人の中にいた熱心なジョージ・カドゥは,今でもカンパラで長老として忠実に奉仕しています。
しかし,危機が訪れました。ある人々が悪行を犯し,排斥されたり,国を去ったり,他の人々をつまずかせたりしたのです。それで,1957年の終わりごろ,ウガンダに伝道者として残ったのはカドゥ兄弟たった一人でした。でも兄弟は自分が真理を持っていることを確信しており,エホバを愛していました。
1958年には,「躍進する新しい世の社会」と題する映画が上映されると同時に,ガンダ語の「御国のこの良いたより」という小冊子が発表され,業に新たな刺激が加わりました。さらに,「必要の大きな所で奉仕する人たち」がカナダやイギリスから援助のためにウガンダに引っ越して来たので,3年後の1961年には19人の伝道者が報告されました。この国については後ほどさらに多くの点を考慮します。
アフリカ最大の国 ― スーダン
世界最長の川の一部,白ナイルはウガンダから流れ出て,草原,茂み,湿地,半砂漠の間を通ってスーダンに流れ込みます。土手沿いには背の高い牧畜民が住んでいます。約2,000㌔下ると,東にあるエチオピア高地から流れてくる青ナイルと合流します。この地点の川沿いに何百万もの人が住む三つの大きな都市,ハルツーム,オムドルマン,ハルツームノースがあります。
さらに下流に行くと,ナイル川は幾つもの早瀬を通り,数多くの史跡が残る地域を通ります。ここにはかつてクシュ王国があり,その廃虚は今でもサハラ砂漠の中に見ることができます。ここが聖書時代のエチオピアです。エベド・メレクや,弟子フィリポによってバプテスマを施された宮廷官吏はここの出身でした。―エレミヤ 38:7-16。使徒 8:25-38。
かつてアングロエジプトスーダンと呼ばれたこのスーダンは,アフリカ最大の国で,国土は米国の4分の1以上の大きさです。アラビア語が主要な言語です。北部はほとんど完全にイスラム教の勢力下にあり,南部にはアニミズム信奉者や名目上のクリスチャンがもっと多くいます。スーダンの人々は一般に極めて友好的で親切です。
エジプト出身のギレアデ卒業生,デミトリウス・アツェミスが最初にスーダンに入ったのは1949年のことでした。エジプトのように,ハルツームの川岸は,キュウリやニラやタマネギの畑で緑に覆われていました。川の近くにある幾つかの道では,大きなバンヤンノキの木陰が有り難いくつろぎの場所を作りだしています。しかし,こうした緑豊かな地域は幅が狭く,すぐに荒涼とした砂漠に変わります。どこを見ても茶色です。空は茶色,地面も茶色,泥のレンガで作った家も茶色,そして多くの人の服も茶色です。
それに焼けつくような暑さがあります。気温は夜間でも39℃です。日なたでは温度計が60℃にまで上がります。水道管がむき出しになって日に当たっているので,“冷たい”シャワーを浴びようと思っても,最初に少しの間水を捨てなければ,火傷をしてしまいます。
このような状況のもとで,アツェミス兄弟は忙しく働きました。主にオムドルマンで宣べ伝え,600件の予約を得ました。それから兄弟はエジプトに戻る前にワドマダニという名の比較的小さな工業都市へ行きました。その後,カイロから3人家族がハルツームへ引っ越してきました。羊毛商のこの兄弟は,顧客に予約と書籍を提供してから商売を行ないました。
小さな会衆がすぐに設立され,伝道者数は毎月最高数を重ね,1951年8月の終わりまでに16人になっていました。翌年最も印象に残ったのは,32人の聴衆に話された公開講演でした。聴衆の中にいた外国人のために,話は3か国語に通訳されました。
1953年にアツェミス兄弟はカイロから戻り,今回は5か月とどまって,ハルツームの区域を組織的に網羅できるように取り決めました。オルファニデスという名前の3人兄弟が真理に入ったとき,アツェミス兄弟は報いを受けました。真理に接してからたった1か月しかたっていなかったのに,ジョージ・オルファニデスは自分の家の大きな部屋を集会場所として提供しました。やがてこの兄弟は会衆の監督になり,兄弟のディミトリと共に,他の人に王国の音信を精力的に伝えました。ジョージはとてもしっかりしていて,根気強く,それと同時に羊を世話するときに非常に親切でした。彼は1970年に国を去らなければならなくなるまで何年も奉仕しました。ディミトリも多くの人が真理に入るのを援助することができました。容赦ない暑さと定期的に起こる砂嵐にもかかわらず,この兄弟たちは立派な態度を貫きました。ジョージはこのように言ったことがあります。「この世からの認可はありませんでしたが,天からの認可とエホバの霊の助けがあったので,テモテ第二 4章2節から5節のパウロの言葉にしたがってわたしたちの奉仕の務めを果たそうと努力しながら,毎日の生活を楽しんでいました」。
アツェミス兄弟は定期的に訪問を続けました。1955年に,協会はエマニュエル・パテラキスというもう一人の宣教者をハルツームに遣わすことができました。兄弟は,10か月間滞在することができました。そのころまでに何人かの伝道者が国を去っていました。1956年6月に法的に登録を求める申請を出しましたが,コプト教会の司祭やイスラム教のムッラー(法学者)の影響で拒否されました。しばらくの間エホバの証人は監視下におかれましたが,厳しい迫害はなく,宣べ伝える業も中断することはありませんでした。
忠実な姉妹たち
1世紀において,献身的な婦人たちは会衆内の霊的な柱となりました。20世紀のスーダンにおいても同じことがいえます。(使徒 16:14,15; 17:34; 18:2。テモテ第二 1:5)レバノンに住むスーダン人の男性と結婚した,精力的な一人のギリシャ人の姉妹は,宣べ伝える業を刺激するために1952年に夫の母国に戻りました。インギリジ・カリオピという名のこの姉妹はすぐに正規開拓者になり,その後特別開拓者になりました。姉妹は生き生きとしていて,活動的で,根気強い人でした。こうした特質は,非常に感情的で,すぐに狼狽し,司祭や親族を恐れるコプト正統教会の信者に宣べ伝える際に必要でした。
カリオピ姉妹が真理を知るよう助けた人の中にメアリー・ギルギスがいます。彼女も特別開拓者となり,その経験談は「ものみの塔」誌1977年5月15日号に掲載されました。メアリーは由緒ある町,古代スーダンの首都オムドルマンに住んでいました。1958年にカリオピ姉妹が最初に訪問したとき,彼女はちょうど祈っているところでした。カリオピ姉妹が会ったのは,啓示の書の中に描かれている恐ろしい野獣のことで心を悩まされている女性でした。これらの野獣は何を意味しているのでしょうか。この女性は“火の燃える地獄”への恐怖にも心を乱していました。これは本当に神のご意志なのだろうかと考えていました。でも,もっと大きな疑問は,真理はどこにあるのかというものでした。
カリオピ姉妹は,これらの疑問すべてに答えました。イエスが今や王となっておられることを聞いてメアリーは喜びました。しかし彼女の夫イブラヒムはこう言いました。「この婦人の言うことを聞いてはいけない。悪い人に違いない。この間彼女がバスから落ちたとき,人々は『ざまあ見ろ。宗教なんか変えるからだ』と言ってたからね」。
そう言いながらも,イブラヒムは「神を真とすべし」と「これは永遠の生命を意味する」という2冊の書籍を受け取りました。その後間もなく,イブラヒムはコプト教会に出席していたときのこと,妻が異なる宗教を学んで布教するのを許す男性のことを司祭が厳しく非難しているのを聞いて,腹を立てました。司祭がだれのことを言っているのかすぐに分かりました。イブラヒムは教会を脱退しました。今やイブラヒムとその家族は迫害の的となりました。ある日,塀を越えて石が飛んできてイブラヒムに当たり,メガネが吹っ飛んでしまいましたが,彼にも彼の腕に抱かれていた幼い息子にもたいしたけがはありませんでした。
1959年に警察はメアリー・ギルギスを窃盗のため住居に侵入した容疑で起訴しました。事件は法廷に持ち込まれました。二人の告発者が立ち上がりましたが,もちろん証拠を確立することはできませんでした。訴えは棄却されました。
別の訴訟事件では,司祭がシオニズムの疑いで告発を行ないました。法廷で姉妹は4人の裁判官の前でエホバのお名前を賛美しました。裁判長は彼女に有利な判決を下し,こう言いました。「スーダンのどこにでも行って好きなだけ伝道しなさい。この国の法律はあなたの味方ですし,あなたを保護します」。
ギルギス姉妹と,さらに,亡くなるまでの間カリオピ姉妹は,若い人たちに対する優れた模範となりました。何年にもわたって,この二人の熱心な姉妹は大勢の人々を援助してきました。イブラヒム・ギルギスも真理の側に立場を定め,忠実な証人として亡くなりました。
法的認可を得る試みが失敗していたので,業は非公認のまま続けられ,時には迫害が起きることもありました。それでも,着実な増加が見られ,1960年には27人,1962年には37人が報告しました。1965年に,業は新たに設立されたケニア支部の管轄下に置かれ,巡回大会が年に一回開かれることになりました。翌年,キリストの死の記念式に81人が出席しました。この国の報告はまた後ほど聞くことにしましょう。
“顔の黒い人の地”― エチオピア
スーダンと紅海の間には,スーダンの半分の大きさで,ケニアの北隣の国,エチオピアがあります。ギリシャ語ではこの国の名前には“顔の黒い人の地”という意味があります。古代において,この言葉はアフリカのエジプトより南の地域を指していました。それで聖書で言うエチオピアとは,主にスーダンの北部と,今日の北エチオピアのほんの一部の範囲のことです。1930年代にハツァコルツィアン兄弟が感じたように,エチオピアはいろいろな点で他と異なっており,独自の文化を持ち,エチオピア正教会が支配的です。この国に任命された3人の独身の宣教者は1950年9月14日,首都アディスアベバに到着しました。
たくさんの新しい事柄に慣れる必要がありました。まず第一にアディスアベバの標高です。約2,400㍍という,世界でも屈指の高所にある首都です。次はアムハラ語です。この言語には,pとtとsの破裂音があり,33の文字からなるエチオピアのアルファベットと250以上の変化形があります。それに加えて,70を超える部族言語と,200ほどの他の言語や方言があります。それだけでなく,司祭たちは死語になりかけているゲーズ語と呼ばれる言葉をいまだに用いており,それはヨーロッパの一部の学者がラテン語を使うのに似ています。
魅力的な褐色の顔をし,珍しい髪型をし,特徴的な服を着たり,お祭り用の衣装に身を包んだりした人たちがいます。額に十字架の入れ墨をしている人もいます。興味深い名前の人がいます。男性なら,“十字架の奴隷”という意味のゲベレメスカルとか,“マリアの僕”という意味のハベテマリアムとか,“宗教の木”という意味のテクルハイマノートと呼ばれるかもしれません。女性なら,“光の奴隷”という意味のレテベランとか,“あなたは美しい”という意味のアムハレシュと名付けられるかもしれません。
教師 兼 伝道者
アディスアベバのカサポポラリ地区のアパートにあった最初の宣教者の家で,宣教者たちはコロブスモンキーが定期的にやって来るのを見て驚きました。いたずら好きなこのお猿さんは,いつもいろいろなものの中にもぐり込んでは次から次へと物をめちゃめちゃにしてしまいます。例えば,トマトペーストの中に入り込むだけでは気が済まず,家中にその跡を残し,壁にも塗りたくるのです。もちろん,人間もここを訪れ,宣教者の家の正面のポーチでは家庭聖書研究が司会されました。
エチオピア正教会の権益を保護するために,クリスチャンの間での改宗は法律で禁じられていました。許可されていたのはイスラム教徒と“異教徒”の間だけでした。それで宣教者たちは,英語やタイプや簿記などを教える学校を設立するという条件でなければ入国することができませんでした。
アディスアベバで成人用夜間クラスが正式に始まると,宣教者たちは首都の大通り,チャーチル通りにあるもっと大きな家に引っ越さなければなりませんでした。兄弟たちは宗教的な教えと学問を混同しないことにしていましたが,会衆の集会に自由に出席するよう生徒たちを招きました。集会のときには教室の一つが王国会館になりました。
1952年にギレアデ学校の第18期生の8人の宣教者がさらにアディスアベバに到着しました。その中にはハロルド・ジーメルマンとアニー・ジーメルマンがいました。二人は首都で夜間クラスの手伝いをするように割り当てられました。12期生の二組の夫婦,ブラムリー夫妻とラック夫妻は,由緒ある町ハラルに学校を開きました。そこは,東のソマリアとの国境に近く,以前は外国人の立ち入りが禁じられていたところで,その当時でも決まってハイエナがやって来ていました。事実,ハイエナマンと呼ばれる人々は,観光客を楽しませるためにこの獰猛な野獣に餌をやって夜間の観光を行なっています。―「目ざめよ!」誌,1985年11月22日号をご覧ください。
ギレアデの宣教者ディーン・ハウプトとレイモンド・エーギルソンは,ハラルからそう遠くない商業の中心地ディレダワに同様の学校を設立しました。その町は,ジブチ港とアディスアベバを結ぶエチオピア唯一の鉄道の沿線にある戦略上の拠点です。ハツァコルツィアン兄弟が亡くなったのはこの町でした。
生活は決して豪華とは言えませんでした。ハウプト兄弟はこう説明しています。「最初の夜は決して忘れることができません。家具のようなものはまだ何もなかったので,大きなトランクをテーブル代わりにし,スーツケースの上に座って食事をしました。ベッドもまだ届いていなかったので,床の上にマットレスを敷いて寝ました。これぐらいはそんなに大したことではありませんでしたが,部屋の明かりを消すと,南京虫がわたしたちを味わおうと壁から降りてきました。家のこの部分はしばらくの間だれも住んでいなかったので,南京虫は新鮮な血を求めて出てきたようです。その晩は一睡もできなかったように思います」。
小さな支部事務所
害虫がいたにもかかわらず,一人の宣教者はその当時の活動が楽しかったことをこう説明しています。「ある日,道を歩いていて一人のエチオピア人の若い男性に出会ったので,立ち止まってその人と話をしました。わたしが宣教者だと分かると,『お願いです。イエス・キリストについて教えてください』と言いました。わたしは次の日にその男性を宣教者の家に招待しました。彼が到着して10分もたたないうちに『神を真とすべし』の本からの研究が始まりました。その男性は翌日も研究をしにやって来ました。今度は別の若い男性と一緒でした。この二人の男性はエチオピア人として最初の伝道者になりました」。
関心を持つ人が聖書研究をしたいと言って宣教者の家に絶えず流れのようにやって来たので,一人の宣教者がいつも留守番をしていなければなりませんでした。中には何時間もかけて歩いて来て,一度に二,三時間研究したいと言う人もいました。すぐに伝道者の数は83人になりました。
1953年に,アディスアベバに小さな支部事務所が開設されました。集会の資料の手書きの翻訳が古代エチオピア文字で準備され,手動の複写機で複製されました。確かにこれは,比較的新しい人たちに真理が一層しっかりと根づく助けとなりました。地元の兄弟たちは家から家の業を行なうことや,聖書研究を司会すること,有益な集会を開くことなどを学びました。その熱心さのゆえに,良いたよりは国内の13の地域で広められ,1954年には20人近い伝道者が報告していました。
学生司祭が手をすきにかける
王国の音信によくこたえ応じた人の中に,英語を一言も話せない一人の学生司祭がいました。宣教者との最初の話し合いは通訳を介して行なわれました。意見の合わない点に来ると,彼は昔の言葉ゲーズ語の聖書で確認したものです。ヨハネ第一 5章7節の三位一体の根拠として好んで用いていた部分が自分の聖書に載っていないことを知って,彼はたいへん驚きました。ほかの間違った教義もすぐにこの聖書によって暴露されました。
この学生司祭は他の人を連れて来ては,週に三,四回研究しました。彼が神学校を去って一人のエホバの証人のもとに引っ越したとき,神学校の事務員が警察官と一緒に来て,その学生司祭を無理やり連れて行ってしまいました。その後,4日間神学校に閉じ込められていた間にこの学生司祭は,エホバのために捕らわれて喜んでいるので自分のことで悲しまないようにというメモを兄弟たちに送りました。彼は,「わたしが彼らのもとに戻るなどと思わないでください。手をすきにかけてから後ろのものを見る人はいません」と述べました。この学生司祭は,解放されると首都に引っ越し,そこで集会に出席し,エホバの証人としてバプテスマを受けた初期のエチオピア人の一人となりました。
ついにアムハラ語の出版物が出る
1955年の特別講演の後,最初のアムハラ語の出版物,「神の道は愛なり」の小冊子が発表され,出席したすべての人は喜びました。その後まもなく,パンフレットが発表され,その翌年には,研究用の小冊子「御国のこの良いたより」がアムハラ語で入手できるようになりました。
続く1956年もまた,エチオピアの神権的歴史の里程標となりました。兄弟たちは「躍進する新しい世の社会」という映画の上映を取り決めました。英語とアムハラ語で書かれたビラを使って,アディスアベバの中心部にあるエチオピア最大の映画館で上映されるその映画を宣伝しました。町の人通りの多い場所すべてにポスターをはりました。結果はどうでしたか。大勢の観客が映画館に集まりました。あまりにも大勢の人が詰めかけたので,2回上映しなければなりませんでした。その結果,その晩に1,600人が映画を見ました。出席したすべての人に無料の小冊子が渡されました。この映画はエチオピア北部の三つの主要都市アスマラ,ゴンダル,デセでも上映されました。エホバの証人の活動を説明したこの教育映画を,合計3,775人が鑑賞しました。
特別開拓者がさらに任命され,地元の巡回監督が会衆を励ます業を始めました。兄弟たちは,宗教的表現の自由,言論の自由,出版の自由という基本的人権を保障した,改正された憲法に支えられて勇敢に宣べ伝えました。伝道者の数は最高数の103人になりました。
迫害! 宣教者の追放!
こうした活動と霊的繁栄すべてはキリスト教世界の僧職者の怒りをかきたてました。アディスアベバから北西約280㌔のところにある州都デブラマルコスでは,依然として人々はエチオピア正教会に非常に忠実でした。
特別開拓者がその地に入ると,すぐに暴力行為が起きました。有力者たちが中央広場に集まって徒党を組み,これらの新参者はマリアの絵を足で踏みつけ,犬や猫を食べる,と叫びました。警察は兄弟たちが殴り殺されないように救出しなければなりませんでした。群衆は警察署に今にもなだれ込もうとしていましたが,銃で脅されて退散しました。その乱闘で二人の開拓者は持ち物をすべて失ってしまいました。
政府はこの事件を利用して,エホバの証人は国家の平和と安全にとって危険であると主張しました。政府は宣教者の家と支部事務所を閉鎖し,1957年5月30日,宣教者に国外へ出るよう命令しました。役人の中には個人的に同情を表わし,この件に僧職者が関与していたことを指摘する人もいましたが,皇帝への直訴さえむだに終わりました。
世界中からの抗議の手紙が送られたにもかかわらず,宣教者たちは強制的に国から出されました。その後逮捕と尋問が行なわれました。とうとう試みとふるい分けの時が来たのです。恐れを抱いて真理から離れた人もいました。少数の人は裏切り者になりました。特別開拓奉仕は中断され,数人の元開拓者が排斥されなければなりませんでした。しかし,他の人々は忠実を保ちました。ある兄弟は42日間足かせをはめられ,伝道をやめるようにという厳しい警告を受けた後に釈放されました。
こうして,地下活動が始まりました。はるか海のかなたで開かれた1958年の「神の御心」国際大会で,最初のアムハラ語の書籍,「神を真とすべし」が発表されましたが,何とかエチオピアに持ち込まれたのはほんの数冊だけでした。反対に直面して忠節と勇気が試みられたため,中には落伍する者もいて,1962年までに,依然として活発な人の数は76人に減少しました。
アフリカの角 ― ソマリアへ入る
アディスアベバから追放された後,宣教者のディーン・ハウプトは,協会からソマリアの首都モガディシオに行くよう指示されました。モガディシオは,1,000年も前から貿易の中心地となってきました。この都市は,昔ソロモン王のための良質の金の産地となっていたオフィルの一部だったのでしょうか。その可能性もありますが,有力な意見はアラビアをその鉱脈としています。
それでも,ハウプト兄弟が到着した1957年にはソマリ語に文字はありませんでした。イタリア語とアラビア語がその代わりに用いられていました。ハウプト兄弟は,まず町のヨーロッパ人地区で働くことにしました。雑誌の見本を見せて予約を提供しましたが,雑誌は配布しませんでした。入手できる雑誌の数が非常に限られていたからです。こうしてハウプト兄弟は約3か月の間に90以上の予約を得ました。そのころ兄弟のビザは切れてしまい,更新することができませんでした。それでハウプト兄弟は出国し,これまでイタリアで奉仕を続けています。
困難な割り当て
ハウプト兄弟がいなくなってから,協会はソマリアに4人の宣教者を派遣しました。彼らは1959年の3月に到着しましたが,宣教は基本的に外国人への証言に限られていたので,ギレアデの12期生のビトー・フライシーとファーン・フライシーだけが残りました。
すぐにカトリックの僧職者がエホバの証人の活動に関心を示す人々を訪問するようになりました。司祭からこのような訪問を受けたある人はこう言いました。「今になってわたしに関心を寄せるのは一体なぜですか。教会に行かなくなってからもう何年もたっているのに。もしかして,わたしが聖書を勉強しているからですか」。
1959年9月に,フライシー夫妻は11件の研究を司会していました。訪問したイタリア人の家族の多くは,聖書を持っておらず,新聞でエホバの証人のことを読んではいてもエホバがだれなのかは知らされていませんでした。それで人々は聖書の音信に深い関心を持っており,訪問する家々で1時間以上話をするのは珍しくありませんでした。
1961年に二人の聖書研究生が伝道を始めました。翌年,別の一人がエホバの証人と交わり始め,宣教者以外の伝道者は合計3人になりました。
ソマリアに4年住んだ後,フライシー夫妻は任命変えになりました。地元のイスラム教徒を訪問する機会が非常に限られていたからです。しかし,彼らは良い印象を残しました。ある人はこんな意見を述べました。「平信徒の宣教師や僧職者を含め,ヨーロッパ人のグループはいろいろあるけれども,常に品行方正だったのはあなた方エホバの証人だけです」。残された3人の伝道者のうち,二人は別の国へ行き,一人は活動をやめてしまいました。しかし,フライシー夫妻は今でもイタリアで全時間奉仕に携わっています。
アフリカの典型 ― タンザニア
ソマリアから海岸線を南に下ると,タンガニーカという国があります。この美しい国は現在タンザニアと呼ばれ,北隣の国ケニアより大きな国土を持っています。この国にあるセレンゲティ平原はしばしばアフリカの典型と言われ,サバンナや森を歩き回る200万頭以上の大型動物が大自然のすばらしい情景を見せてくれます。さらにこの国には野生生物で満ちた広さ約260平方㌔のおわん形をしたンゴロンゴロ・クレーターもあります。国民の大半は農業を行なっていてサイザル麻,チョウジ,コーヒー,綿花などを栽培しています。
1930年代に王国の良いたよりがタンガニーカで宣べ伝えられ,その結果1948年には国の南西部で伝道者の小さなグループが奉仕していました。どんな人たちでしたか。どのようにして真理を学んだのでしょうか。
これらの人たちは主にニアキウサ族の人々で,グレートリフトバレーの二つの谷が合流するマラウイ湖の北の端の近くの高地に住んでいました。男たちはここからローデシアの銅山に働きに出かけていました。人々は生来友好的で素直だったので,中にはこの職場で神の言葉の真理に接する機会が開けた人もいました。
1901年にトゥクユの近くで生まれたホジア・ニャブラは,プロテスタント系のモラビア教会の信条に熱心に従っていました。彼は執事になり,多くの村の日曜学校で教えていました。その生徒の中にニアマイア・カリレがいました。1930年のある日,ヨーロッパ人の移民のためのコックとしてバワで働いていたとき,ニアマイアはもう一人のコックと聖書に関する踏み込んだ点を議論しました。
ニアマイアはその男性が聖書について驚くべきことを知っているのに気づきました。これが真理だったのです。その後すぐに彼はバプテスマを受けるため,国境を越えてムウェンゾに行きました。そこで初めて「聖書研究」の7巻の本を見て,深い感銘を受けました。
ニアマイア・カリレは,熱意に満ちていました。新たに見いだしたこの真理をぜひ以前の日曜学校の先生に話したいと思いました。それで,次の年に年上の友人ホジア・ニャブラと再会し,真理について話しました。
60年以上たってからホジアは,当時を振り返ってこう言います。「いろいろなことを議論しましたが,彼が安息日に関する聖句を見せてくれたとき,これは真理だということが分かりました。すぐに私はジョブ・キボンデをはじめ,他の人々に宣べ伝え始めました。私の家で3人で集会を始めました。私は日曜学校の他の生徒たちにも会いに行きました。そして私たちの集会に招待しました。招待を受け入れた数人の生徒の中に,ジョラム・カジュンバとオベト・ムワイサビラがいました」。
高地全域を踏破する
1932年にニャブラ兄弟がバプテスマを受けた後,これらの兄弟たちは開拓奉仕者とはどういうものかを知りませんでしたが,開拓者のように伝道しました。マラウイ湖に向かって約60㌔歩き,キエラ地方で伝道したとき,そこでホジア・ニャブラとオベト・ムワイサビラは強い反対に遭いました。彼らは捕らえられ,泳げなかったにもかかわらず,ワニがうようよいる川の中に投げ込まれました。多分エホバの助けだと思われますが,彼らは生きて川から上がることができました。その後間もなく,ブイェシ村の近くの,彼らがベツレヘムと呼んでいた場所に最初の王国会館が建てられました。
そうしている間にも,ニアマイア・カリレが最初に真理を聞いたバワでは,関心を持つ人たちが増えていました。ソロモン・ムワイバコやイェサヤ・ムラワ,ヨハニ・ムワンボネケといった人たちがはっきりとした態度を取りました。ブイェシにいる人たちは,これらの新しい人たちを強めるために,月に一度バワの近くのヌドレジ村に成員の一人を遣わすという愛ある取り決めを設けました。これは片道約100㌔を歩くことを意味しました。時には200㌔以上てくてく歩いて北ローデシアのイソカに行き,そこの会衆に報告を届け,それを支部事務所に送ってもらうこともありました。
60年後の現在,90歳のホジア・ニャブラはいまだに“執事”です。もちろんそれはその言葉の持つ本来の意味どおりヌドレジ会衆の奉仕の僕であるということです。ニャブラ兄弟は,忠実な妻レヤ・ヌシレが自分の傍らで引き続き確固とした立場を保っており,また孫のうちの何人かが開拓奉仕に活発に携わっているのを見て満足を味わっています。
他の人々も何年も熱心に宣べ伝えてきました。その中には,良いたよりのために投獄に耐えたジム・ムワイクワバや,後に巡回監督として奉仕したジョエル・ムワンデンボ,自転車と歌を使って宣べ伝えたセム・ムワサクナ,そしてほかにもアナナイア・ムワキシシアやティモシ・カフコといった人たちがいます。
王国の証言の業に大きく貢献したもう一人の兄弟は,1922年に生まれ,1935年にムベヤで真理を学んだデービッド・キペンゲレです。この兄弟は至る所で宣べ伝え,後にダルエスサラームでの業を始めるために遣わされました。彼は1983年に亡くなるまさにその時まで18年間正規開拓奉仕を続けました。たびたび逮捕されましたが,落胆してしまうことはなく,「私が成し遂げるようエホバが望んでおられる業が刑務所の中にはたくさんある」と言っていました。彼と一緒に真理を学んだ実の兄弟バーナバス・ムワカハバラは,今日に至るまで長老として奉仕しています。これらの兄弟たちは自分たちの言語で書かれた書籍もなく,読む能力も限られていましたが,孤立した状況の中でできる限りのことを行ないました。
ケープタウンにある支部事務所との連絡は時折なされるだけだったので,報告は余り当てになりません。「1943 年鑑」(英文)によると,この地域で158人が宣べ伝える業に携わり,1946年には七つの会衆の227人から報告が寄せられていました。それ以前の年のタンガニーカの証人たちの活動は,北ローデシアのイソカ会衆の報告に含まれていたようです。報告のあるものは多分失われてしまったのでしょう。タンガニーカ南部での集める業が一層よく監督されるようになったのは,さらに数年が経過してからのことでした。
北ローデシアからの監督
援助が確かに必要でした。なぜならエホバの証人は偽りの宗教からの多くの反対に直面し,同時に一夫多妻や喫煙をはじめ,クリスチャンにふさわしくない習慣と闘っていたからです。
1948年,北ローデシアのルサカに新しい支部事務所が組織され,その事務所は北ローデシアだけでなく東アフリカの大半を監督することになりました。これはエホバのご意志によるものであることが分かりました。なぜなら長い沈黙の後,ケニアとウガンダにおいて新たな始まりがまさに訪れようとしていたからです。支部事務所はナイロビから2,400㌔以上もでこぼこ道を行ったところにありましたが,ケープタウンに比べればずっと近くでした。ケープタウンはその2倍以上遠いところにあるからです。
こうして1948年に北ローデシアの支部事務所は兄弟たちを援助するためにトムソン・カンガレを遣わしました。その年の3月にムベヤに到着した時,教えたり再調整を施したりする余地がたくさんありました。
カンガレ兄弟は辛抱強い教え手でしたし,兄弟たちは必要な調整をすぐに行ないました。その一つとして自分たちのことを,もはやものみの塔の人とではなく,エホバの証人と名乗ることを学びました。彼らはエホバの証人という名前を以前から知っており受け入れていましたが,それを公に宣伝していませんでした。また,兄弟たちはペテロ第一 3章15節の助言にしたがって,王国の音信を提供する際にもっと巧みになることも学びました。それで単に偽りの宗教の教えを攻撃する代わりに,良いたよりを強調しました。さらに野外宣教に費やした時間を報告する正しい方法についての誤解は正されました。それに加えて兄弟たちは自分の家の外観をきれいにしましたし,自分の外見もきれいにしました。もじゃもじゃのあごひげを剃った人もいました。
集会では,より秩序正しく,効果的なプログラムについて行くこと,宗教的な鐘の使用などバビロン的な宗教の名残を取り除くことを学びました。神権宣教学校では,筆記の復習で良い点を取った人の名前を発表しないことの価値を理解することができました。あるエホバの証人たちは死者を敬うことに関係のある特定の習慣を捨てる必要がありました。別の人にとってそれは喫煙の習慣をやめる時となりました。でも,多分最も大きな問題となったのは,結婚を法的に登録し,すべての人の前で誉れあるものとすることでした。―ヘブライ 13:4。
正式な認可のための法的な試み
北ローデシアの支部事務所はタンガニーカのイギリス植民地政府が,宣教者の入国を許可し,わたしたちの宣べ伝える業を法的に認可するよう何度も試みてきました。1950年には,「タンガニーカの状況はアフリカの他の地域と必ずしも同じではない」という理由で申請は却下されました。1951年にも再び申請しましたが,うまくゆきませんでした。そうしているうちに,ある地方行政官は伝道活動を局地的に禁令のもとに置くことを試みました。1951年9月にはダルエスサラームの政府当局者に直接会って陳情し,宗教組織や愛国的な儀式に関するエホバの証人の立場を説明した覚え書きを渡しました。これによって希望がわいてきました。しかし,翌年否定的な返事が返ってきました。陳情は1956年とその後さらに行なわれましたが,すべて無駄に終わりました。
このように政府は好意的な態度を示さなかったとはいえ,良いたよりの伝道者にとって崇拝を妨害するものは実際には何もありませんでした。特別開拓者や巡回監督は,北ローデシアから何の問題もなくやって来て援助を続けました。
訓練する努力は続く
1952年に,北ローデシアで地域監督として奉仕していたギレアデ卒業生のバスター・メイオ・ホルクムはタンガニーカに渡り,トゥクユの近くで巡回大会を開くことができました。ホルクムはこう語っています。「私たちが大会会場に近づいたのは午後遅くでした。できれば日が暮れるまでにそこに到着したいと思っていました。するとまさに天が落ちて来たかのような大雨が降りだしました。前進するのは不可能でした。激しい雨のために道が見えなかったからです。ワゴン車を止めて,できるだけ快適に夜を過ごせるよう準備しました。嵐は一向に弱まる気配を見せず,かえってひどくなっているように思えたからです。しかし翌朝,雨はぴたりとやみ,私たちは水の中をかなり歩いてやっと大会会場に着きました。数人の兄弟たちがいました。たいへん驚いたのは,大会が開催できないのではないかと私たちがちょっとほのめかした時,兄弟たちがびっくりしていたことです。他の兄弟たちも絶対に来ると言うのです。
「そして,確かに兄弟たちはやって来ました。しかもある人たちはあの天気の中を二,三日歩かなければならなかったのです。日曜日の午後の出席者は419人でした。そしてその日の午前中61人が献身の象徴として水のバプテスマを受けました」。
兄弟たちは助言によくこたえ応じ,関心を持った人々の生き方は劇的な変化を遂げました。例えば,聖書は複数の妻を持つことを許していません。男はおのおの「自分の妻を持ち,女はおのおの自分の夫を持ち」,クリスチャンの監督は「一人の妻の夫」でなければならないと述べています。(コリント第一 7:2。テモテ第一 3:2)それで,多くの妻を持っていたある部族の酋長は最年長の配偶者以外のすべての妻を家に返し,それからバプテスマを受けました。後に,その人は会衆の長老になりました。別の男性には二人の妻がいましたが,若いほうの妻を自分の弟に与え,自分の利己心のせいで家族3人が死ぬのはいやだと言いました。この人も資格を得てバプテスマを受けました。
娘を嫁がせるときの花嫁料を請求するという伝統的な権利を放棄することによって無私の愛を示したエホバの証人もいます。そうした花嫁料は若いエホバの証人,特に開拓者にとっては目の玉が飛び出るほど高いことがあります。しかし,多くの父親は娘が「主にある者と」結婚するのを見て喜びました。(コリント第一 7:39)それによって新婚の夫婦は花嫁料という重荷から解放され,結婚生活を始めるのがたいへん容易になりました。最初はみんな驚いていましたが,時とともに,この愛ある関心の表われを認め,尊重する人はますます増えてゆきました。
タンガニーカにおいても僧職者たちは問題を引き起こそうとしましたが,うまくゆきませんでした。ムベヤでカンガレ兄弟が警察に逮捕されたとき,兄弟は自分の霊的兄弟たちのところに行こうとしているだけだと説明することができました。すると警察は協力的になり,会衆を訪問する予定表を置いてゆくよう頼みました。そうすれば兄弟が到着することを他の警察署に連絡でき,そこの警察が兄弟を怪しむことがなくなるからです。こうしてカンガレ兄弟は何年もの間タンガニーカ周辺を自由に旅行することができました。北ローデシアやニアサランドの特別開拓者や旅行する監督もカンガレ兄弟と共に羊を築き上げる業に加わりました。少し名前を挙げると,フランク・カニアンガ,ジェームズ・ムワンゴ,ワシントン・ムウェニア,バーナード・ムシンガ,ウィリアム・ランプ・チセンガなどです。興味深いことにチセンガ兄弟は1957年にムベヤ市でノーバート・カワラに会いました。真理を渇望していたカワラは週2回聖書を研究し,資格を得てバプテスマを受けました。後に彼はケニアのナイロビの支部事務所で翻訳者として奉仕しました。
映画の上映と北部への拡大
そのうちに,1956年から協会の映画,「躍進する新しい世の社会」がタンガニーカにも紹介され,5,000人以上が出席しました。さらに弾みがついたのは,1959年に王国伝道者の必要が大きい所で奉仕するために海外からエホバの証人がやって来たときのことでした。タンガニーカの伝道者の数は再び増加し始め,1960奉仕年度には507人になりました。
しかし,進歩はいつも容易なわけではありません。イスラム教徒が大部分を占める町が多く,伝道者の宣べ伝える技術を試みるものとなりました。また,蒸し暑い気候は外国の兄弟たちにとって負担となりました。それでも兄弟たちはイザヤの「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」という精神を抱いており,それゆえに祝福されました。―イザヤ 6:8。
キリマンジャロのふもとで
1961年に独立したタンガニーカは,1964年にはザンジバル島と連合して,タンザニア連合共和国となりました。しかし,1961年にタンザニアの新たな地域,巨大なキリマンジャロのふもとで,良いたよりの花が開きました。このアフリカの最高峰は,堂々とした死火山で,万年雪に覆われています。山の斜面は緩やかで,東や南からの雨が十分に注ぎます。肥えた土壌と豊かな降水があるため斜面は農業に適しており,人口も密集しています。ここに北ローデシアから一人の特別開拓者が遣わされ,関心を持つ5人の人から成るグループと聖書研究が始まりました。
翌年に入って,1962年8月に堂々とした山に面するマラングの近くのキボホテルで巡回大会が開催されました。ケニアのエホバの証人たちがこの大会を支持し,ナイロビから約400㌔の道のりを車で隊列を作ってやって来ました。バプテスマは山から流れ出る冷たい小川で行なわれ,その時この地域で初めてヨーロッパ人 ― ヘルイェ・リンク ― がアフリカ人の兄弟にバプテスマを施してもらいました。
ヘルイェ・リンクは幼いころデンマークで真理を知るようになりましたが,追い求めることはしませんでした。砂糖のプランテーションで働くためにタンガニーカにやって来たのです。1959年にカナダにいる実の兄弟が東アフリカを訪れて,彼の真理に対する関心を再び燃え上がらせました。伝道活動を理由に1961年にある特別開拓者が投獄されたとき,ヘルイェはその釈放の手続きを取りました。こののどかな風景に囲まれたキボの巡回大会でバプテスマを受けた後,ヘルイェは開拓奉仕を始め,後にその伝道のゆえに国外に追放されてしまいました。
それでは少しの間本土から離れて,チョウジの島,またアフリカ海岸沖で最大の珊瑚礁の島ザンジバルに行きましょう。
チョウジの島 ― ザンジバル
本土からわずか40㌔ほど離れた海上にあるザンジバル島は,アラブ人やヨーロッパ人がアフリカの奥地への探検に出かける出発点でした。住民はほとんど全部がイスラム系か混血のアフロ-アラブ系の子孫です。そこでは,奴隷貿易によって西アフリカのアンゴラの国境にまで伝わった言語,スワヒリ語が話されています。19世紀の間,ザンジバルは奴隷貿易の一大市場でした。
1932年に南アフリカの二人の開拓者がこのチョウジの島を短期間訪問しました。それから29年後の1961年に,ロストン・マクフィーとジョーン・マクフィーというバプテスマを受けたばかりの良いたよりの伝道者がケニアからこの島に引っ越して来ました。二人はすぐに奉仕を始め,多くの聖書文書を配布しました。ほどなくして2件の聖書研究を司会するようになりました。近くのダルエスサラームにあった会衆は,互いに励まし合うために毎月1回週末にザンジバルを訪れる取り決めを設けました。
マクフィー夫妻がケニアに戻ったすぐ後,別のクリスチャンの家族,バーク家がアメリカからザンジバルにやって来ました。彼らは既に関心を示していた人たちをよく世話し,さらに自分たちも新たな聖書研究を司会しました。1963年の終わりに,突然島中で反乱が起き,バーク家は持ち物のほとんどを後に残して逃げなければなりませんでした。
バーク家がいなくなってから,この島での王国に対する関心はすぐにしぼんでしまいました。その後,1986年に関心のある人たちがザンジバルに引っ越したときに新たなスタートを切ることになりました。すぐに伝道者の小さな群れができました。関心を持った人の中で,並はずれた熱意を持った一人の男性は,自分の自由な時間すべてを用いて30人の人々の聖書研究を司会しました。世俗の仕事も持っていたので大変な働きでした。集会には45人も出席しました。ダルエスサラームで1987年12月に開かれた地域大会において,その中の5人がバプテスマを受ける資格を満たしていたのはたいへん驚くべきことでした。今やこの由緒ある島に会衆の土台が据えられました。
ではチョウジの島を離れ,アフリカ大陸本土に戻りましょう。
喜びと問題
タンガニーカで伝道が行なわれた30年の間に,兄弟たちは当局との間に問題を持ったことはほとんどありませんでした。たいていの場合,警察は非常に丁寧で協力的であり,時には大会のために拡声装置を貸してくれたことさえあります。1963年5月にブルックリンの協会の世界本部からミルトン・G・ヘンシェルがダルエスサラームを訪れた時,国中で最もりっぱな会館であるカリンジーホールで大会が開かれました。首都の市長を含む,274人が出席し,16人がバプテスマを受けました。タンガニーカ,つまり現在のタンザニアでの王国の関心事に一層注意を向けることができるよう,隣国ケニアに支部事務所が開設されたばかりでした。
「ものみの塔」誌をスワヒリ語で出版することが取り決められました。最初の雑誌は1963年12月1日号でした。その同じ年に王国宣教学校が開かれ,タンザニアの25の会衆で奉仕する監督たちに必要な指導と指示が与えられました。1964年の9月と10月には地域大会が開かれ,最高出席者数の合計は1,033人でした。
しかし,問題もありました。エホバの証人の宣教者の入国は許可されたことがなく,法的認可を求める申請はすべて却下されてきました。
事態が悪化する
1963年と1964年の大半は平穏な状況が続きましたが,エホバの証人は禁止されているので逮捕するよう勧める手紙が警察官全員に送られました。別の衝撃的な出来事は1965年1月25日に起きました。新聞発表の中で,ものみの塔協会は非合法であると発表されたのです。しかし,この発表が公式のものかどうかに関する疑いが表面化しました。こうした雰囲気の中,1965年4月2日から4日にかけてタンガで巡回大会が計画されました。
会場が予約され,宿泊が取り決められ,大勢のエホバの証人がサイザル麻の栽培地から列車でやって来ました。道中,乗客に証言しましたが,そのうちの一人は警察官でした。到着するとその警官は証人たちを全員逮捕し,警察署に連れて行きましたが,証人たちはすぐに釈放されました。
大会の二日目,4月3日に,政府はエホバの証人の活動と,関係するすべての法的機関を禁令のもとに置いたというラジオ放送がありました。それでも大会は何事もなく終了しました。官報には禁令の知らせなど掲載されませんでした。隣のマラウイ(旧ニアサランド)やザンビア(旧北ローデシア)からは,禁令が公布され,後で取り消されたというニュースが入って来ました。これはロイター通信社によって確認されました。しかし,とうとう来るべきものがやって来ました。1965年6月11日の官報ではものみの塔協会と,関係するすべての法的機関が非合法化されたことが伝えられました。
今や警察は警戒を強め,国の南部で予定されていた大会は開催できませんでした。その後散発的に逮捕がありました。時々書籍が押収されましたが,たいてい返却されました。兄弟たちは小さなグループで集まり合うほうが賢明であることを悟りました。キリスト教世界の宣教師たちが警察をあおり立てている地域では,状況はもっと緊迫してきました。
なかなか晴れない誤解
禁令が課される少し前に,ケニアのウィリアム・ニズベットは,エホバの証人の認可を得ようとして,ダルエスサラームの役人に会う努力を払いつつ,つらい8週間を過ごしました。彼は内務大臣の秘書と会見する機会を与えられました。誤った情報を伝えるキリスト教世界の布教団体の活動のためだと思われますが,多くの政府役人はエホバの証人をザンビアやマラウイの不法な急進的宗教と関連づけていました。
役人たちは雨を降らせない頭上のあらしの雲を恐れるように,エホバの証人に対して根拠のない恐れを抱いていました。“ものみの塔”とは呼ばれていてもエホバの証人とは全く関係のない,キタワラという原住民のグループとエホバの証人とを役人たちは混同していました。d これらの宗派は姦淫や呪術を行ない,しばしば既成の政府に反抗していました。彼らは神のお名前とわたしたちの出版物の一部を誤用していました。彼らこそ恐れられるべき者たちであって,平和を愛する真のエホバの証人を恐れるべきではありませんでした。ニズベット兄弟の訪問と,ものみの塔聖書冊子協会が準備した証拠書類が提出されたことによって,一部の役人のこうした誤解は晴れました。
ニズベット兄弟は,ダルエスサラームを去る前に,国際聖書研究者協会の登録を出願しました。何と驚くべきことに,公式の禁令が始まって6か月後に,国際聖書研究者協会が1966年1月6日付で企業条例のもとに登録されたという電報がダルエスサラームから届きました。しかし,エホバの証人とものみの塔協会は禁じられたままでした。国際聖書研究者協会の会衆が協会条例のもとには登録できないので,企業としての国際聖書研究者協会は解散させられたと,1966年11月24日に政府から通知がありました。
タンザニアに援助のために来ていたザンビアやマラウイの兄弟たちは国を去らなければなりませんでした。彼らがいなくなったのは大きな痛手でしたが,タンザニアにおける真の崇拝は決して絶えることはありませんでした。1966年のキリストの死の記念式の出席者数は1,720人で,836人が王国宣明に活発に携わっていました。
“楽園の島”― セーシェル
「1,000マイル離れたユニークな島」というのはセーシェル諸島の広告に用いられている標語です。ここは東アフリカの海岸から約1,600㌔離れていて,上に乗っても大丈夫なくらい大きなゾウガメの住みかです。約100の島々から成っており,マダガスカルの近くにまで広がっています。本島であるマヘ島のように花崗岩でできた島もあれば,珊瑚礁でできた島もあります。そこには山々や画趣に富んだ岩,銀色に輝く砂浜,トルコ石のような紺碧の海,見事な珊瑚礁,豊富な草木があり,野生の香料の香りのする空を飛び交うエキゾチックな鳥がいて,熱帯の島の魅力がすべてそろっています。しかも熱帯特有の病気はありません。
人口の9割はマヘ島に住んでいて,クレオール語と呼ばれるフランス語の方言を話します。住民のほとんどはアフリカ人,イギリスやフランスからの入植者,インド人,中国人の子孫です。
1961年に,エホバの証人が説明する聖書の教えに関心を持つ一人の人が東アフリカからやって来ました。翌年には,南ローデシア出身のマクラッキーという4人家族を含むエホバの証人が来て,非公式の証言を始めました。しかし,強力なローマ・カトリック教会があったため,公開聖書講演は禁止されていました。それでも,1962年4月に初めて組織された集会に12人が出席し,その時までに8人が野外宣教に参加していました。
反対は逆効果になる
しかしすぐに,キリスト教世界の教会からの反対がいつものパターンで起こりました。移民局はマクラッキー家族に1962年7月25日までに国を出るよう要求しました。警察は別の外国人の兄弟にも伝道しないように告げ,この兄弟の滞在許可を更新しないと言いました。カトリックの司祭は説教を行ない,地元の新聞に長い記事を書いてエホバの証人に気をつけるよう全住民に警告しました。
これは逆効果になりました。多くの人々はエホバの証人についてまだ聞いたことがありませんでした。かえって住民は好奇心をそそられ,自分のほうから問い合わせるようになりました。セーシェルでの聖書の真理の行進を止めることはできなかったのです。1962年7月15日,マクラッキー家が出発する1週間前に,ノーマン・ガードナーとリーザ・ガードナー夫妻がセーシェルの地元の人としては初めて,バプテスマを受けました。国を去ろうとしていたマクラッキー家族はこの出来事を,この遠く離れた島で業を始めるために費やしたお金や努力に対する大きな報いと感じました。
5か月後,エホバの証人である二人の退職者が,ここに定住して伝道の業を援助するために南アフリカからやって来ました。少したってから,二人は聖書研究に関心を持つ人がいれば連絡するようにとの広告を地元の新聞に載せました。そのすぐ翌日,自分たちのビザが取り消されたことを知らせる手紙を受け取りました。とはいえ,セーシェルにいた4か月の間に,二人は多くの聖書文書を配布し,りっぱな証言を行ないました。しかし,その時点ではその島にエホバの証人がだれも住んでいませんでした。ガードナー夫妻もすでに国を出ていたからです。
ほんの数か月後に,業は再開されました。ガードナー夫妻がスーダンのハルツームでの短期間の仕事を終えて戻って来たからです。この島を離れている間に,彼らはスーダンやケニアや南ローデシアの忠実な兄弟たちとのすばらしい交わりを経験していました。この夫婦はマヘ島から船で約30分のサーフ島に居を定めました。その島には10家族ほどしか住んでおらず,その孤立した状況は証言活動にとって有利ではありませんでした。それでもセーシェルのたった二人の伝道者として,彼らはたいへんな努力を払い,野外宣教の時間は毎月平均30時間を下りませんでした。
1965年に初めて巡回訪問が取り決められました。その年にはほかにも良いことがありました。合計75人の観客に聖書映画が上映されました。関心を持つ3人の人がガードナー夫妻と共に伝道活動に加わり,その年にバプテスマを受けました。定期的に集会を開くための適切な取り決めが設けられました。
ガードナー夫妻はサーフ島に強い愛着を感じていましたが,隣人に対する愛のほうが強かったので,1966年に真の崇拝を促進させるための中心地を備えるために,本島のマヘ島に引っ越しました。彼らの家に隣接して王国会館が建設され,さらに拡大するための道が開かれました。
ウガンダで奉仕していたイギリス人の宣教者スティーブン・ハーディーと妻のバーバラは,セーシェルに何度も巡回訪問を行ないました。訪問中の1968年12月6日に,そこには6人の活発な伝道者がいて,新しい王国会館の献堂式には23人が出席しました。
1969年に業の登録と宣教者の入国許可を申請しましたが,どちらの申請も却下されました。理由は説明されませんでした。
人口のかなり少ないところではありがちなことですが,若い人の中には仕事を探しに国外へ出る人もおり,多くの人は人に対する恐れに押さえつけられていたので,成長はゆっくりとしていました。さらに,文盲,広く見られる無頓着な態度,不道徳のまん延も多くの人にとって大きな障害となりました。しかし,毎日昼休みに聖書研究を行なった,大家族を持つ政府の一職員のように,急速な進歩を遂げた人々もいます。こうして1971年には,キリストの死の記念式に40人が出席し,11人が野外宣教に活発に携わっていました。来たるべき地上のパラダイスについての音信は美しいセーシェルでも鳴り響き続けました。
初期のブルンジ
ハーディー夫妻は,ウガンダで奉仕しながらセーシェルを訪問するようになる前は,ブルンジという美しい国に割り当てられていました。幾千もの丘のある,絵にかいたような小さなこの国は,タンザニアとザイールの間に位置しています。ここには働き者の農夫たちが密集して住んでおり,農夫の大半は山腹の段々畑でプランテーン(バナナの一種)を栽培しています。
ベルギーの植民地支配が行なわれていた間,ものみの塔協会はブルンジの首都ウスンブラ(現在のブジュンブラ)に宣教者を派遣することを申請しましたが,許可されませんでした。しかし,1962年の独立で政治的事情が変わったため,1963年10月,北ローデシアの二人の特別開拓者が3か月のビザを入手することに成功しました。しかもそのビザは簡単に更新することができました。ちょうど3か月後の1964年1月には,4人のギレアデ卒業生が無期限のビザを手にして到着しました。
宗教的圧力
まさに最初から,人々は王国の良いたよりに熱心に反応しました。宣教者たちがブルンジに到着したとき,すでに特別開拓者は数多くの研究を司会しており,9人の伝道者が良いたよりを宣べ伝えていました。しかし翌月に宣教者たちは労働許可証を手に入れるために自分たちの組織を登録しなければならないと告げられました。
兄弟たちはきっと登録できるだろうと思っていました。しかし続く数週間,移民局長と役人たちは気むずかしい態度を示しました。表面には現われませんでしたが,役人たちは宗教的な圧力を受けていたのです。それで5月の初めに,宣教者たちは国外に出るために十日間の猶予を与えられました。聖書を研究していた70人の人たちを後にしなければならなかった彼らがどれほどがっかりしたか想像してみてください。
5月の終わりまでには,特別開拓者たちも出て行かなければなりませんでした。こうして聖書を研究している約30人の人を世話するという大きな仕事を一人のタンザニア人の兄弟が負うことになりました。開拓者と宣教者がいなくなっても,地元の伝道者たちは伝道を続けました。1967年には17人の伝道者最高数が報告され,32人が記念式に出席しました。残念なことに,翌年問題が生じました。任命された監督たちを受け入れなかった兄弟たちがいたのです。この結果,伝道者はその奉仕年度最低の8人にまで減ってしまいました。回復をもたらすために霊的な助言が与えられました。ついに兄弟たちは問題を解決しました。それで1969年には25人が野外宣教に活発に携わり,58人が記念式に出席しました。
新しい人々が拷問に耐える
これらの証人たちの熱心さに僧職者たちは怒り,政府に圧力をかけました。1969年8月,7人の証人が逮捕され,腰の高さまである水の中に2日間立たされるという拷問を受けました。しかし,初期の使徒たちと同様,彼らを思いとどまらせることはできませんでした。2か月後に9人の新しい人たちがバプテスマを受けました。その後,2回にわたって役人たちは兄弟たちに宗教を登録することを求めましたが,申請は2回とも却下されました。その後毎年,伝道者は46人,56人,69人,70人,98人と,新最高数を記録し,1969年にはブジュンブラに会衆が設立されました。
1972年にツチ族とフツ族の間に深刻な部族闘争が起こりました。報告によると,その衝突の間にフツ族から10万人以上の死者が出ました。その中には4人のエホバの証人も含まれていました。他のエホバの証人は投獄され,中には8か月間投獄された人もいました。混乱の中でも,兄弟たちは勤勉に野外奉仕を行ない,伝道者一人当たりの月平均は17時間以上でした。
10年に及ぶ増加の後でも,兄弟たちは依然としてふさわしく神権的な監督を行なうという点で根深い問題を抱えていました。大部分の兄弟たちは確固としていましたが,霊的に幼いところがあり,理解力や識別力が足りませんでした。近くの地域のキタワラ,つまり偽りの“ものみの塔運動”の表面には現われない影響力に影響された人もいました。こうした問題があったとしても驚くには及びませんでした。なぜなら兄弟たちは地帯監督の訪問を受けたことも,協会の映画を見たことも,会衆の監督のための特別な教育を受けたこともなく,大会が開かれたこともなく,自分たちの言語の出版物も全く持っていなかったからです。それで,1976年にこの国の監督はザイール支部が行なうことになりました。こうしてフランス語やスワヒリ語を話す兄弟たちがブルンジのエホバの証人に必要な援助を与えることができるようになりました。
興味深いことに,部族間の殺し合いの間にブルンジから追放された一指導者が,亡命地で死ぬ前に徹底的な証言を受けました。訪問中の宣教者がソマリアのモガディシオでこの人に会いました。長い話し合いが行なわれ,多くの質問が検討されました。この元支配者は深く感銘を受けました。この宣教者は自分がだれに証言していたのか後になって初めて気づきました。
ウガンダにおける宣教者の黄金時代
ブルンジから宣教者たちが追放されて,ウガンダは益を受けました。そこでは1964年までに中核となるしっかりした伝道者たちが活発に働いていました。ついに,30年以上にわたる努力の後,最初の宣教者の到着と共に円熟した兄弟姉妹たちが必要の大きな所で奉仕するためにやって来ました。さらに多くの宣教者たちも後から来ました。
最初の宣教者の家がカンパラに設立され,続いて二つ目の宣教者の家が工業都市ジンジャに開設されました。その町はビクトリア湖から北に向かってナイル川が流れ出ている所にあります。進歩は急速で,すぐに会衆ができました。
その間王国の音信はウガンダ全土のもっと小さな地方都市にも伝えられ,1967年までに伝道者の数は53人になりました。次の年,ケニアとの国境に近い,エルゴン山の西側の発展しつつある都市ムバレに3番目の宣教者の家が開設されました。1969年までには伝道者は75人になり,翌年には97人,1971年には128人になりました。
1965年8月12日に業は公式に認可されました。1972年は非常にうまくゆきそうな情勢でした。伝道者数は162人の新最高数に達し,5人の新しい宣教者の入国が承認されたばかりでした。ウガンダのエホバの証人がそれまでに経験した中で最大の大会をカンパラのルゴゴスタジアムで開く準備が進められていました。隣のケニアやタンザニア,そして遠くエチオピアからもエホバの証人たちがやって来ました。65人のエチオピアの兄弟たちが貸し切りバスに乗って来ました。中には2週間かけて約3,200㌔を旅した人もいました。
ウガンダの混乱
ウガンダに入った訪問者たちは,外国人の教師たちやアジア系の家族が流れのように反対方向に向かい,急いで国外へ逃げてゆくのを見て驚きました。クーデターが起きて,政治情勢が変化し,人々は将来に不安を抱いていました。エホバの証人以外はみんな逃げ出したいと思っているようでした。事態は緊迫していました。しかし,こうした混乱のさなかでも,カンパラの大通りを横切る長さ約18㍍の横断幕が大会の公開講演を大胆に宣伝していました。兄弟たちは,「神の支配権」地域大会が成功裏に終わり,公開講演には最高の937人が出席したことに感謝しました。東アフリカで長年奉仕している人たちは,楽しかったこのカンパラ大会のことをいまだに覚えています。
聖書の真理に対する深い関心があり,大量に出版物は配布されていましたが,暗たんたる将来が差し迫っていました。二組の宣教者夫婦の労働許可証の更新は拒否されました。それで彼らは3か月以内に国外に出なければなりませんでした。その後1973年6月8日,何の前ぶれもなく政府はエホバの証人も含め12の宗教グループを禁止しました。残っていた12人の宣教者たちは,1973年7月17日までに国を出なければなりませんでした。これは外国から援助に来た人たち全員にとって悲しい出来事でした。しかも,これはケニアにおいてさえ自由な崇拝を行なうのが困難だった時期と同時に起きたのです。
ほとんどの宣教者は母国に帰らなければなりませんでした。しかしウガンダの必要の大きな所で奉仕してきた何組かの夫婦はケニアに定住し,さらに援助を行なうことができました。その人たちの中にラリー・パターソンとドリス・パターソン,ブライアン・ウォレスとマリオン・ウォレスがいました。ハーディー夫妻はコートジボアールで奉仕を続け,その後1983年にロンドンのベテルで奉仕することになりました。e
ウガンダにおいて法と秩序は新たな意味を帯びるようになりました。例えば,ある開拓者の兄弟は逮捕され,兵舎に連行されて尋問を受けました。その罪ですか。ヨーロッパ人の“スパイ”からお金を受け取ったという罪でした。宣教者の家を出入りするのを見られていたのです。兄弟は,自分の行なっている自発的な伝道の業の性質について明確な説明をしたにもかかわらず,打ちたたかれ,ショベルを渡されて自分の墓を掘らされました。自分の墓を掘り終わると,さらにもう二つ穴を掘るように告げられました。それはヨーロッパ人の“スパイ”,つまり宣教者たちのためのものでした。この作業が終わると,3人の兵士がライフルで兄弟を殴り倒し,それから撃ちました。弾は当たりませんでした。そのうちの一発の弾丸が一人の兵士のブーツの足の甲をかすめたので,兵士たちは互いに議論を始め,注意がそらされました。兄弟はしばらくの間そこに横になっていましたが,翌日解放されました。
会衆はひそかに集まり,新しい環境に順応しなければなりませんでした。命は概して安っぽいものとみなされ,禁じられた宗教のために働くなら,さらに危険にさらされました。
南スーダンが開かれる
1960年代の終わりごろ,スーダンでも主に北部住民と南部住民の間に緊張が生じていました。ハルツーム会衆は,ナイロビの支部事務所からは遠い所にあり,ほかの場所の兄弟たちからも非常に離れた所にありましたが,勇敢に業を推し進めました。最も経験の長い会衆の長老ジョージ・オルファニデスが国を去るすぐ前の1970年8月,伝道者数は最高の54人に達しました。
ちょうどそのころ,大勢のエホバの証人がシオニストであるとして訴えられ,丸二日間役人から尋問を受けました。さらに開拓者の二人の姉妹は,関心のある婦人に証言していたとき,コプト派の司祭の仕業で不意を突かれて捕らえられてしまいました。その司祭は警察に電話をして彼女たちをイスラエルのスパイだと通報したのです。警察の本部で姉妹たちは良い証言を行なうことができ,釈放されました。こうした経験によって恐れを抱いた証人たちもいましたが,逆に信仰を強められた人々もいました。
ここまでスーダンの歴史はすべてハルツームに集中していました。しかし,広大な未開の地域がありました。それは名目上のクリスチャンという背景を持つ人たちが集まっている南部です。真理はどのようにしてこの広い地域に浸透してゆくのでしょうか。突破口が開かれたのは,1970年に南部出身のカトリックの雑誌の編集者がエホバの証人と接した時のことでした。その人は聖書研究で急速な進歩を遂げ,すぐに友人や親族との研究を自分で司会し始めました。友人の一人は,反対するパンフレットが印刷されていた中で,学校内で勇敢に王国の音信を広めました。
1973年までには関心を持つ人々のグループが国の南部に幾つもでき,その地域の16人の聖書研究生がバプテスマを受けました。これら南部の人たちが引き寄せられたのは,聖書の真理の明確な響きのためだけでなく,部族や人種の違いを超える真の兄弟関係を生み出す偽善のない愛を実践する宗教を見たためでした。
1970年代の初め,スーダンの南部には独特の魅力がありました。多分孤立していたからでしょう。ハルツームからジューバまで行くには,列車と船を使って1週間以上かかりました。多くの人々は世界の出来事を考えることもありませんでした。この上なく親切で温かい人々でした。客室に鍵が付いていないホテルさえありました。人々はお金をもらおうなどとは考えずに,わざわざ旅行者たちを案内したり,食べ物を与えたり,泊めてあげたりしました。実際ほとんどの場合,支払いをしようとしても決して受け取ろうとはしませんでした。こうした心優しい人々がどんどんエホバの目的に関する真理を聞き,受け入れてゆきました。
南部での活動が開始され,聖書の出版物が一層容易に手に入るようになったため,着実な成長が見られ,1974年までにスーダンの伝道者は100人の最高数に達しました。
エリトリアで迫害の炎が上がる!
スーダンの国境の東隣にはエリトリアがあります。1960年代の初めに宣教者を追放した後,エホバの証人を大々的に中傷する活動にラジオ,新聞,その他のマスメディアが用いられました。「偽りの預言者」とか,「真の信仰の否認につながる宗教上の虚偽に注意せよ」といった見出しの下に,エホバの証人は皇帝や教会を憎む者,また三位一体や処女マリアを退ける者として描かれました。証人たちは外国の敵のまわし者だとか,自分の国のために戦わない不道徳な人々などと言われました。エホバの民を国から取り除くための思い切った処置を求める声が上がりました。
エチオピア正教会の司祭たちが中心になって憎しみをあおっていました。首席司祭は2万人以上が集まった洗礼祭で,エホバの証人を破門し,あいさつをしても,雇っても,死者を埋葬してもいけないと人々に命じる決議を放送しました。
多くの人はエホバの証人“狩りが解禁になった”という印象を受けました。法的な責任を問われることなくだれでもエホバの証人を殺すことができるのです。家主はエホバの証人の賃借人をみな追い出すことになっていました。親には,もし子供がエホバの証人ならその子を追い出し,呪い,相続権を取り上げるようにと言われました。ある大家族では,18人の若者がエホバの証人と研究したために追い出されてしまいました。
ある町では,よく名の知られた兄弟を打ちたたくために暴徒が送り出されましたが,兄弟を見つけることができませんでした。警察は兄弟たちを逮捕し始め,自分たちが政府の安全に反対して活動していたことを認め,信仰を否定する書類に署名するよう強制しようとしました。数人の兄弟たちは十分に理解していなかったために署名しましたが,自分たちの間違いに気づくとすぐに,その結果をいとうことなく,書面で署名を取り消しました。
穏やかな説得というわなに直面した人々もいます。「信仰は心の中にしまっていて,自分はこれらエホバの証人の一人ではないとこの場で言うだけでいいんです」と役人は哀願しました。あるいは若いエホバの証人の受刑者に対しては,役人たちはもっと非道で巧妙な誘惑を用いました。特定の日に,若いエホバの証人の受刑者を一人選び出して,老齢になった親族が大勢その人を訪問するように取り決めます。到着すると親族はまず最初に黙ってその人をじっと見つめ,それから突然泣き始めます。そしてひざまずいてエホバに対する信仰を捨てるように懇願するのです。このような圧力に直面した兄弟たちは,これが自分たちにとって最もつらい試練だったと述懐しています。こうした強烈な迫害と圧力は何年もの間続きました。
エチオピアにおける小休止と合併
ちょうど同じころ,アディスアベバにいた証人たちとエチオピア南部にいた証人たちは共に,エリトリアほどのものでないとはいえ迫害に遭っていました。1962年にエチオピアとエリトリアは合併して一つの国になりました。その結果起きた政治的な問題は1990年代まで後を引いています。
1964年に,エチオピアのすべての会衆の管轄を,新しくできたケニア支部に移すのが実際的であることが明らかになりました。ナイロビの支部の代表者たちはエチオピアで巡回の業を行なうことができ,会衆に到着すると,任命された会衆の長老たちの間の幾つかの重大な意見の相違を改善するように援助することができました。多くの会衆で,「ものみの塔」研究は討論会の形で司会されていました。一人の地元の巡回監督は聖書の考えではなく,自分の考えを広めていたので,代わりに別の巡回監督が任命されることになりました。そうした問題のために,1964年から1966年の間,増加のペースは鈍り,その間伝道者数は200名ぐらいのままでした。
しかし,真理は広まりました。暑い紅海の港マッサワで休暇を過ごしたあるエホバの証人は,郵便局で関心を持つ人と出会い,聖書研究を始めました。ほかにも関心を持つエチオピア人が数人加わり,間もなく会衆が設立されました。ちょうどそのころ,もう一つの新しい会衆がさらに南にあるエチオピアのもう一つの海港アセブで誕生しました。
1957年以来出版物は禁止されていましたが,エホバの証人は地元の言語で霊的食物を供給する方法を見いだしました。1966年には首都で2週間にわたる王国宣教学校が開かれ,任命された監督たちに神権的な組織と聖書に関する事柄が教えられました。こうして兄弟たちはより神権的で,より前向きな態度を持つようになり,1967奉仕年度には21%の増加が見られ,伝道者の合計は253人になりました。
宗教上の圧力は緩和されてゆきましたが,国内の政治的緊張が高まっていたのでエホバの証人は引き続き小さなグループで集まり合わなければなりませんでした。皇帝政府の公式新聞はすべての人に崇拝の自由を認め,そうした権利を与えられた宗教団体の中にエホバの証人の名を挙げていましたが,登録の申請はすべて拒否されました。
司祭がエホバについて学ぶ
西暦1世紀にエルサレムで起きたのと同様に,正直な心を持つ大勢の司祭たちが聖書の真理に注意を払いました。(使徒 6:7)偏見を持たない一人の司祭はエホバの証人にこう打ち明けました。「あなた方はわたしがすべき業をまさに行なっておられます。今日のあなたの訪問はわたしの司祭としての立場に対する一撃です」。
別の司祭はエホバの証人の教えを調べ始め,聖書に関して抱いていた質問の満足できる答えを見つけました。その討議は時々一度に12時間も続きました。どんな結果になったでしょうか。この司祭は結婚を合法化し,真理に熱心になり,一人の尼僧に証言しました。その尼僧は自分の息子(教会の長老)とエホバの証人の討論会を取り決め,もしエホバの証人が“勝った”ら聖書の勉強を始めると約束しました。
さて,息子は“負け”ました。後に彼は訪問中の巡回監督を追い詰め,途中わずか4時間のうたた寝をはさんで,20時間質問攻めにしました。その結果,家族全員が研究し,15人が真理の内に良く進歩しました。その尼僧でさえバプテスマを受け,息子は特別開拓奉仕者になりました。
短期間の良い時代
1971年の初めまでに,エチオピアの兄弟たちには喜ぶべき理由がたくさんありました。統治体のヘンシェル兄弟がアディスアベバとアスマラを訪問して,912人の聴衆に話をしました。国内の伝道者の数は約500人になりました。そして書籍を入れた大きな船荷が国内に入ってきました。
しかし問題が待ち受けていました。年が暮れてゆくと,ラジオ放送が憤慨した様子でエホバの証人を非難しました。20人以上の背教者が僧職者と協力し,中傷的な記事を書くのを手伝いました。
ある地域では警察が集会場に入り,70冊の聖書を没収し,数人のエホバの証人を短期間留置しました。続いてアスマラの王国会館が閉鎖され,会衆は再び小さなグループで集まることを余儀なくされました。しかし業の速度は鈍りませんでした。1971年に新しくバプテスマを受けた人は合計142人で,2,302人がキリストの死の記念式に出席しました。
孤立した地域に新しい群れが誕生し,二人の巡回監督が25の会衆や群れを訪問し,さらに孤立した関心を持つ人たちも訪問して世話をしました。すぐに伝道者数は目標の1,000人を超え,1974年には最高数の1,844人を記録しました。
迫害されても見捨てられているわけではない
反対はやみませんでした。1972年に警察は数人の兄弟を呼び出して質問し,活動をやめなければ処置がとられると警告しました。そして1972年8月27日に,定期的に日曜の集会を開いていた場所に大きなトラックが到着しました。警察はエホバの証人と関心を持つ人を208人逮捕しました。ある会衆では,話し手がゴグ(サタン)の攻撃に関するエゼキエルの預言について論じ,こう尋ねました。「もし警察がここに来てわたしたちを逮捕したら,あなたは何と言いますか」。奇妙なことに,まさにほんの数分後にそのことが起こったのです。
警察は59人の兄弟たちを虫がうじゃうじゃいる約3㍍四方の部屋の中に押し込みました。そして46人の姉妹たちを同じ大きさの別の部屋に詰め込みました。残りの人は寒い戸外で眠らされました。保釈は許可されませんでしたし,弁護人を雇うことも許可されませんでした。兄弟たちは刑務所の役人に立派な証言を行ないましたが,96人が6か月の禁固刑を言い渡されました。数日後,髪の毛を剃り落とされた後,保釈金を払って釈放されました。
残された112人は不法な宗教団体を設立したとして,6か月の禁固刑を言い渡されました。1か月後にこれらの兄弟たちは保釈金を払って釈放されました。その後彼らは再び法廷に呼ばれ,もう一度投獄され,続いて12日後に保釈金を払って釈放されました。最初の投獄からほぼ1年後,高等裁判所は上訴を審理し,下級裁判所の判決を支持しましたが,厳しい警告をしただけで刑の執行を一時延期しました。エホバの証人は迫害されていましたが見捨てられているわけではありませんでした。(コリント第二 4:9)そうしているうち,刑務所にいた間に,兄弟たちは恐れることなく宣べ伝え,終身刑に服していた二人の受刑者を献身まで援助することができました。
有益な訪問とさらに多くの霊的食物
ナイロビの支部事務所からウィリアム・ニズベットがアディスアベバを訪問し,さらに別の問題に直面しました。油そそがれて,天的な希望を抱いていると主張する,感情的な若い兄弟たちのグループが次第に大きくなっていました。彼らは自分たちの仲間とだけ野外奉仕に携わり,油そそがれているととなえない人からの助言には腹を立てました。彼らの集会は“聖霊”の騒々しい顕現が特徴でした。例えば,キリストの死の記念式では,叫び声をあげ,回される表象物をひったくり,立ち上がってあずかることにより,自分たちに注意を向ける者たちがいました。こうした問題を扱うのには長い時間がかかりました。何年かたった後,たいへんやかましく,頑固に表象物にあずかっていた人たちの多くは忠実なエホバの証人として残ってはいませんでした。
1973年,たいへん必要とされていた出版物が幾つか入手できるようになりました。その中には,アムハラ語の「とこしえの命に導く真理」と「真の平和と安全 ― どこから得られるか」や,ティグリニャ語の「王国を宣べ伝え,弟子を作るための組織」といった本が含まれていました。このすばらしい霊的食物と,合計1,352人が出席した一連の小規模な巡回大会は,兄弟たちの信仰を強める効果がありました。
それに加えて,エチオピアのエホバの証人のあるグループは,エホバの証人の統治体のヘンシェル兄弟とスーター兄弟が参加した,ナイロビの「神の勝利」国際大会に陸路で出席しました。しかし,政治的変化が訪れようとしており,革命によってエチオピアの神権的状況は間もなく変わろうとしていました。
法的認可とケニアの支部事務所
では話をケニアに戻してそこでの発展も見てみましょう。この国がイギリスの支配から独立して間もないころでした。1962年2月に開かれたピクニック風の最後の巡回大会で,訪問中の地帯監督ハリー・アーノットは,出席していた184人に歴史的な発表を行ないました。その大会をもってケニアにおける非合法的な大会は終わるという発表でした。エホバの証人に対する法的認可がちょうど得られたところでした。ナイロビにあった五つの小さな会衆は,ついに町の中心近くの心地よい会場で一緒に集まることができました。80人の伝道者から成る,より大きな会衆になったのを見て兄弟たちはたいへん喜びました。自由に集まり合った最初の記念式には192人が出席しました。
いろいろな出来事が立て続けに起きました。ザンビア支部のピーター・パリサーとビアラ・パリサーがケニアを援助するように割り当てられました。パリサー夫妻と,ギレアデを卒業したばかりのマクレーン夫妻はナイロビサウスの最初の宣教者の家に引っ越し,1963年2月1日に支部事務所が開設されました。そのとき,ケニアとウガンダの伝道者は約150人で,事務所の仕事はほとんどなく,だいたい週に一日か二日働くだけでした。事務所はアパートの中の縦2.5㍍,横3㍍の小部屋で十分でした。
しかし,ほどなくしてタンザニア,エチオピアなどの他の国々もケニア支部が指導することになったので,仕事は2倍以上になりました。兄弟たちの間に登録された婚姻挙式官を持つという取り決めが設けられました。巡回大会は公共のホールや学校で開かれました。ヘンシェル兄弟が訪問し,新しい支部事務所を運営する方法について必要な導きを与えました。
差別されていた畑が開ける
植民地時代の落とし子である人種差別を克服するには努力がいりました。日中でさえ町のアフリカ人地区に入るのは安全ではないといううわさが根強く残っていました。しかし,新しい宣教者と必要の大きな所で奉仕していた兄弟たちはぜひとも宣教を拡大したいと思っていました。最初の区域として鉄道作業員の地区が選ばれました。
ちょうど雨期で,熱心な伝道者たちの靴に,大きな泥の塊がべとべとくっつきました。これは注意深く準備したスワヒリ語で聖書の証言をする初めての試みでした。反応はどうでしたか。大勢の女性はぽかんとした顔をして聞き,英語が理解できないことを身振りで示しました。英語が話せる夫たちが仕事から帰ってきて,妻たちはスワヒリ語もあまり知らないことが分かったときにはとてもほっとしました。
スワヒリ語を学ぶことは外国の兄弟たちにとってたいへんな経験でした。ヨーロッパの言語と似ている単語はほとんどないからです。しかし文法は論理的なので,すぐに理解できます。発音は簡単ですし,他のほとんどのアフリカの言語よりも語彙は豊富です。
もちろん,学んでいる間は災難を避けて通ることはできませんでした。ある姉妹は,「セリカリ ヤ ムング」(神の政府)について話したいと思いましたが,その代わりに「スルアリ ヤ ムング」(神のズボン)と言ってしまいました。ある兄弟にとって,一般的なあいさつである「ハバリ ガニ」(いかがお過ごしですか)と「ハタリ ガニ」(どんな危険がありますか)を区別するのは難しいことでした。ある宣教者の姉妹は,自分でニワトリを殺すことができないと感じて,特別開拓者に,「わたしのためにニワトリを殺していただけないかしら」と言って頼もうと思いました。「クウア」(殺す)と言うべきところを「クオア」と言ってしまったので,「わたしのためにこのニワトリと結婚していただけないかしら」という意味になってしまいました。質問と答えのプログラムを扱っていたある宣教者は,兄弟たち全員を「ンドゥグ」(兄弟)と呼ぶ代わりに,「ドゥドゥ」(昆虫)と呼びました。
もちろん,多くの子供にとってこれら外国人は珍しい存在でした。中には兄弟たちの手を触って皮膚の白い色がはげないか確かめる子供もいました。伝道者が家から家に行くあいだ何十人もの子供たちがずっと周りについてきました。外国人に悪感情を抱いているといううわさは間違いだったことが分かりました。むしろ,多くの人は聖書の真理に対する誠実な飢えを示しました。ほとんどの場合,訪問者は家の中に招き入れられ,席を勧められ,時にはお茶や食べ物が出ることもありました。それは全く新しい体験でした。
外国人の伝道者は聖書研究を勧める際に人をよく選ばなければならないことも学びました。あまりに大勢の人が熱心に受け入れたので,全員と研究するのは不可能でした。その年の終わりまでに,二つ目の会衆がナイロビ市内の産出的なイーストランズ地区に設立されました。“ジェルサレム”や“ジェリコ”といった地区が区域に含まれるようになると証人たちはくつろいだ気持ちになりました。すぐに兄弟たちは持ちきれないほどの研究を司会するようになりました。
興味深いことに,その当時真理を学び,ナイロビの最初の二つの会衆に交わった10人ほどの人々は約30年たった今でも忠実に奉仕しています。
スワヒリ語の最初の書籍,「失楽園から復楽園まで」が1963年6月に発表されました。これは真理を探し求めるあらゆる教育水準の人にとって適切な道具でした。この後,スワヒリ語の「王国宣教」が複製され,スワヒリ語で最初の「ものみの塔」誌がザンビアで発行されました。
そうしているうちに,ギレアデ卒業生のアラン・マクドナルドとダフニ・マクドナルドがケニアの海岸にあるモンバサ島に,新しく任命されて引っ越しました。すでにマクレーン夫妻は最初の宣教者としてウガンダのカンパラに行くよう任命を受けていました。こうしてウィリアム・ニズベットとミュリエル・ニズベットが支部事務所に移る余裕ができました。再び共に全時間奉仕に自由にあずかれるようになって二人はどんなにうれしかったことでしょう。ニズベット兄弟は国内にとどまるために7年間世俗の仕事をしていたのです。こうしてニズベット夫妻はケニアの巡回の業と隣国のタンザニアの地域の業の一部を始めました。
ケニアの町々への拡大
モンバサで,マクドナルド夫妻は必要の大きな所で奉仕するために来た外国の証人たちから成る小さな会衆と,タンザニアから仕事でモンバサに来ていたアフリカ人の証人たちの小さな群れを見つけました。伝道活動が自由になったため,これらの兄弟たちはすぐ様最初の集会を組織しました。30名が集まりました。しかしほとんどのアフリカ人の兄弟たちは正式に結婚していませんでした。それである日曜日に,一人の協会の婚姻挙式官が14組の結婚を執り行ないました。翌週の日曜日に,全員が再浸礼を受けました。
モンバサの区域は兄弟たちにとって本当に力量を試される区域でした。非常に多くの宗教が集まっていたからです。ゾロアスター教徒は自分たちの宗教がニムロデの時代に始まったと唱える,火の崇拝者たちです。ヒンズー教のいろいろな派にはターバンを巻いたシーク教徒だけでなく,アリを踏むことも,ハエを殺すこともしないジャイナ教徒もいます。そしてイスラム教徒や名目上のクリスチャンも大勢います。モンバサは寺院やモスク,大きな教会などで覆われています。永遠の良いたよりを伝えるためには,うまく融通を利かせることと技術が必要でした。
そのうちに,さらに多くの宣教者が到着し,ナクル,キスム,キタレ,エルドレト,ケリチョ,キシー,ティカ,ニエリといった地方の主要都市に任命されました。1960年代の終わりまでには,多くのケニア人が特別開拓奉仕を始めました。彼らは人口の少ない町で宣べ伝えるのに打って付けでした。
小さな者が千となる
今やまさに成長の時がやってきました。業が正式に登録された時,ケニアには130人の伝道者がいました。2年後にその数は2倍近くになり,1970年までには小さな者は文字通り千となりました。―イザヤ 60:22。
真理を学ぶ人々は著しい変化を遂げなければなりませんでした。例えば,不道徳,酩酊,呪術,文盲などを克服しなければなりませんでした。さらに,多くの人は土地,家畜,教育,お金に対する度の過ぎた愛着を持つよう育てられてきました。個人的な誇りや,面子を立てることも克服しなければなりませんでした。このように,関心はありましたが,人々が全能の神に献身するためにクリスチャンの新しい人格を十分身につけるまでには何年もかかりました。
一般的に言って,年配の人より若い人のほうが早く進歩しました。なぜなら文字を読むことができましたし,伝統にそれほどどっぷりとつかっていたわけではないからです。このことをよく表わしている例として,キリスト教世界の宗教の偽善に当惑し,嫌悪感を抱いていたサミュエル・ヌダンブキという名の十代の少年がいます。13歳のとき,サミュエルは喫煙,盗み,うそをつくこと,不道徳,麻薬中毒に関係した気ままな生き方を始めました。8年後の1967年に以前の同級生二人から聖書の良いたよりを聞きました。サミュエルは二人の若者が聖書を用いる様子に感銘を受けました。清い行状に固く従う点でエホバの証人は何と他と異なっているのでしょう。サミュエルは良いほうへ劇的に変化し,周りの人もその変化に気づきました。道徳的に清い生活をするようになったにもかかわらず,新たに見いだした信仰に対する強烈な反対に遭いました。それでも進歩し続け,その後同じ年にバプテスマを受けました。翌年には正規開拓奉仕を始め,次いで特別開拓奉仕,ベテル奉仕,巡回の業を行ないました。現在兄弟は家庭を持ち,大勢の人が真理を知るように助け,拡大しつつあるウカンバニの会衆の土台を据えました。
別の例は,ナイロビにいるレイモンド・カブエです。レイモンドは実の兄弟や別の若者のグループと一緒に真理を学びました。熱意に満ちて,レイモンドはアバーディア山脈にある自分の故郷に行ってそこの人々に伝道しました。その結果会衆が誕生し,そこから多くの正規開拓者や特別開拓者が産み出されました。レイモンド兄弟の子供のうち一人は開拓者になり,別の一人はベテルで奉仕しました。
レイモンドの実の兄弟レオナルドは,ルツ・ニアンブラを援助しました。この婦人は聖書全巻を読んだものの,抱いていた疑問に対する答えを見いだせませんでした。兄弟が訪問したとき,彼女は質問の一覧表を持っていました。外国から来た兄弟の助けを借りながら,レオナルド兄弟は啓示 13章18節に出てくる666という数字の意味を含む,これらの質問に答えることができました。この誠実な婦人は,真理を受け入れたスワヒリ語を話す人々のごく初期の人の一人となりました。1965年のことでした。この姉妹には信者ではない夫がいて,ケニアの他の大勢の忠実な姉妹たちの典型となっています。また,ケニアでは他のアフリカの国とは違って,会衆内の女性の数はたいてい男性の数を上回っています。この姉妹は7人の子供を真理の内に育て上げ,一時期正規開拓者として奉仕し,現在でも伝道者として忠実に奉仕しています。
その娘の一人,マーガレット・マッケンジーは,1974年に起きた夫の悲劇的な事故死に耐えました。姉妹は3人の小さな子供と共に後に残されてしまいました。部族の習慣にしたがって,夫の親族は葬式の際に彼女を誘拐し,義理の兄弟と“結婚”させようとしました。しかし,姉妹は前もって知らされたので,会場から逃げ去りました。こうして,建てるのを手伝った家と切り開くのを助けた畑の権利をすべてあきらめました。親族は幼い息子を姉妹のもとから連れ去るのに成功し,姉妹のもとには二人の娘だけが残りました。子供たちを養うと同時に霊的な面で十分に注意を払うのは容易なことではありませんでしたが,エホバの助けを得て,マッケンジー姉妹はやり遂げました。姉妹は家族研究と野外奉仕を非常に真剣に行ないました。1987年に姉妹は14歳と15歳の二人の娘が共に巡回大会でバプテスマを受ける姿を見るという喜びを得ました。さらに,11年離れ離れだった息子も姉妹のもとに戻り,進歩してエホバに奉仕するまでになりました。
王国の業の範囲を広げる
支部事務所は王国の業の範囲を広げようと懸命に努力しました。パンフレットや書籍をキカンバ語やキクユ語,ルオ語に翻訳しました。さらに多くの書籍がスワヒリ語で発表されました。つまり,「神が偽ることのできない事柄」,「とこしえの命に導く真理」,「あなたのみことばはわたしの足のともしび」などです。スワヒリ語の「ものみの塔」誌は24ページに増えました。こうして多くの出版物が配布されました。
アジア系の人々の間に出版物は広く行き渡っていました。彼らは普通,ヨーロッパ人の証人を歓迎し,すぐに書籍を受け取りましたが,たいてい自分たちの宗教に固執したままでした。しかし例外もありました。一人の十代の少女は家族からの厳しい反対やシーク教社会からの圧力をものともせず真理にしっかりとつき従いました。父親はその少女を家から追い出した上,殺すといって脅しました。彼女はある証人の家族のもとへ身を寄せ,詳細に聖書を研究した後,エホバに献身し,開拓奉仕を始め,ついにはギレアデ聖書学校に出席しました。現在結婚しているグッディー・パウルセンは依然として熱心な開拓者で,特にアジア人の畑で良い成果を収めています。
結婚の問題が解決される
ケニア全土において,多くの人々は正式な結婚をしていません。とても簡単に離婚することができる部族の習慣にしたがって結婚している人もいれば,合意のもとに一緒に暮らしている人もいます。これはエホバの証人の高い基準にかなうものではありません。―ヘブライ 13:4。
それゆえ,一層多くの兄弟たちがアフリカ・クリスチャン婚姻法のもとに婚姻挙式官として登録されました。関心を持つ人たちが真の崇拝の側に立場を定め,自分たちの結婚を合法的なものにしたいと思うまでに進歩すると,これらの兄弟たちはどこへでも出かけてゆきました。ほとんどの場合,これと時を同じくして良いたよりの伝道者としての資格を得ました。さらにこれは家族生活を改善する基盤になりました。なぜなら,子供ができなかったり,花嫁料の支払いが終わらなかったりすれば結婚が解消されるのではないかという恐れが取り除かれたからです。その後の何年もの間に,2,000組を優に超える夫婦がこの取り決めから益を受けてきました。
新しい支部
1970年の地域大会で,協会がナイロビのウッドランド通りに新しい支部施設を購入したことが発表されました。ナイロビサウスにあった一部屋の事務所は近くのアパートに移転していましたが,その時までに支部の管轄内の八つの国には3,000人近い伝道者がいました。このため,より多くの荷物を発送し,より多くの翻訳を行ない,より多くの通信物を処理する必要がありました。
新しい建物は約0.6㌶の敷地の中に建っていて,静かな環境にありながら市の中心部に近く,その後の拡張のための理想的な場所に位置していました。多くの木と,色とりどりの花や垣根に縁どられた一段低いところにある芝生はその場所をちょっとした楽園のようにしています。
献堂式のプログラムは1971年6月26日,土曜日に行なわれました。その後,建物を事務所と宿舎に一層適したものにするための改築が行なわれました。寝室がさらに増築されました。敷地の低い部分の広いスペースは大きな王国会館を建てるために使われました。それはナイロビで最初の王国会館で,二つの会衆が使用することになっていました。それでも後日さらに建て増しできるほど十分に広い,芝生に覆われた土地が残っていました。この王国会館はモンバサ,キスム,ナクルの会館とほぼ同時に完成しました。
増加が僧職者のねたみを誘発する
関心を持つ人々がますます教会を脱退してゆくにつれ,僧職者たちは怒りを募らせてゆきました。エホバの証人の評判を落とす企てがなされました。誤った情報を与えられた一人の議員は,証人たちは自分たちの子供を学校に行かせず,信者が病院の治療を受けるのを許さないと議会で発言しました。すぐに議長から間違いを正されて,この議員は愚かに見えました。議長はエホバの証人の親戚がいる役人から正確な情報を得ていました。
こうして民主的な自由を愛する態度が広く行き渡り続けました。1972年の始めごろ,ノア兄弟はナイロビをもう一度訪問しました。その年のうちに,モンバサで大きな大会が開かれ,公開講演には2,161人が出席しました。輝かしい見込みがあり,事態は平穏に見えました。
衝撃 ― 1973年の禁令
エホバの証人は正しい政治を脅かす存在であると考えられるためケニアにおいて禁止されたという1973年4月18日のラジオ放送は,非常に大きなショックでした。以前にもちょっとした騒ぎや少しの反対宣伝はあちこちでありましたが,正式に告発されたり,警察が行動に出たりすることは全くありませんでした。真の聖書教育が突然違法とされたのです。
高位の役人に会って物事をはっきりさせる努力が払われました。正式な上訴が5月8日に提出されましたが,6日後に棄却されました。その間に,登録局長官はエホバの証人協会の登録を取り消しました。続いて大統領との会見も拒否されました。5月30日に登録取り消しに対する訴えが提出されました。ニューヨーク,ブルックリンにあるエホバの証人の世界本部は,これに続いてものみの塔協会会長の個人的な手紙を送りました。
7月5日,ケニアの国会での討論の中心となったのはエホバの証人に関する事柄でした。エホバの証人はいまだに小さな政治的派閥と混同されており,世俗の政府を軽視し,病院での治療を拒否する者として描写されていました。悪魔の証人とさえ呼ばれました。もちろん,この出来事は人々がいかに間違った情報を信じやすいかを明らかに示すものでした。彼らは神のみ子イエス・キリストに非難を浴びせた人々によく似ていました。―マルコ 3:22。ルカ 23:2。
次に政府は36人の宣教者を追放するという迅速な処置をとりました。宣教者は1973年7月11日に国を去らなければなりませんでした。それはケニアの神権的歴史にとって実に悲しい時でした。国じゅうにあった10の宣教者の家の備品を急いで処分しなければなりませんでした。身の回り品は木箱に詰めて残しておき,様々な任命地に送らなければなりませんでした。
しかし,支部事務所は閉鎖されませんでした。崇拝の自由を保障したケニアの憲法に違反しているとして,禁令に異議を申し立てる訴訟を起こす準備が進められました。
禁令が解除される!
間もなく道理にかなった役人たちは次のことに気づきました。つまり,ケニアを穏健で道理にかない,民主的で自由に旅行ができ,人権を固守する国とみなしてほしいという願いと,すべての物事の進展とがうまくかみ合っていないということです。こうして1973年8月,政府は禁令を解除するという勇敢な行動をとりました。禁令はもともと存在していなかったという趣旨の政府からの告示が出されました。兄弟たちは歓喜しました。
支部事務所に残っていた証人たちにとって仕事は容易ではありませんでした。それでベテル家族以外の数人の証人が手伝いに来てくれました。その中にはヘルイェ・リンクやスタンリー・マクンバ,バーナード・ムシンガがいました。事務仕事の手順や要求事項に通じている人はほんの数人しかおらず,通信事務や会計,記録の取り方を学ばなければなりませんでした。
こうした状況の中では当然のことながら大会を開くのが優先されると考えられました。10月に開かれた一連の巡回大会で,野外の兄弟たちは新たな刺激と指示を受けました。さらに,12月26日から30日にかけてナイロビで開かれる国際大会が再組織されました。禁令後の大会の主題「神の勝利」は,極めて適切で時宜にかなっていました。短期間にたいへんな仕事を多く行なわなければなりませんでしたが,地元の兄弟をさらに励ますために外国の兄弟たちが到着するのを見るのは大きな喜びでした。出席者の最高数は4,588人で,209名がバプテスマを受けました。
新聞には立派な宣伝が載せられ,テレビでは訪問中のブルックリンのものみの塔本部の成員,グラント・スーターへの28分間にわたるインタビューが放映されました。こうしたことすべてによってエホバの証人がまだ生き生きしており,活発であることが知れ渡りました。さらに幾つもの巡回大会が開かれ,また長老たちは王国宣教学校で訓練を受けて鼓舞されました。
証人たちにとって今回の突然の禁令は衝撃的な経験であり,信仰の試みとなりました。しかしこの出来事は,愛情深い創造者との親密な関係を持っていなかった人や,わたしたちの模範であるイエス・キリストという真の土台の上に信仰を築いていなかった人をふるい分けるという健全な影響を及ぼしました。(コリント第一 3:11)ケニアの兄弟たちが,宣教者たちや必要の大きな所で奉仕するために他の国から来た兄弟たちに頼ってばかりいるのではなく,自分たちでより多くの仕事と責任を担うことを学ばなければならない,ということが明らかになりました。聖書を一層個人的に研究し,熱烈に祈ることも必要でした。
そのうちに,さらに宣教者たちが援助のためケニアにやって来ることができました。その中にはザンビアで宣教者,巡回監督,ベテル奉仕者としてすでに26年を過ごしていたジョン・ジェーソンとケイ・ジェーソンがいました。エホバはケニアにおいてなすべき業がまだ非常にたくさんあることをお示しになり,証人たちは業を続ける決意を持ってその業に取りかかりました。
さらに勢いを増して拡大する
霊的な面でも進歩が見られました。それまで伝道者たちは主に雑誌を使った証言をしていました。このころから,「王国宣教」に示されている概略に沿って聖書を用いることが特に強調されました。小さな子供たちでさえ野外宣教で聖書を開いて証言し,家の人や年上の伝道者をたいへん驚かせるのは本当に心温まる光景でした。
「王国宣教」に初めて非キリスト教的な伝統を扱った記事も載せられました。健全で有益な伝統もある一方,不滅の魂など,クリスチャンを偽りの宗教に巻き込みかねない間違った教えに基づく伝統もあることが指摘されました。こうして兄弟姉妹たちは,通夜や葬式,悪魔の目に対する恐れ,お守りを身につけること,部族の成人式,割礼の儀式などに関連した汚れた慣行から漸進的に解放されました。
前進のための別の重要な段階は,都市部のそれぞれの会衆の言語をスワヒリ語か英語のどちらか一方に限るよう取り決めることでした。それまでの会衆の集会は二つの言語で行なわれ,絶えず一方の言語から他方の言語に通訳されていたため,資料の半分しか扱えませんでした。しかし,これから兄弟たちはどちらかの言語でプログラム全体を楽しむことができるのです。
“マケドニア”がありふれた言葉になる
そうしているうちに,ロンドンの支部事務所から来た地帯監督ウィルフレッド・グーチの訪問により,ケニアの現状を把握し,東アフリカの孤立した地域で行なう最初の組織的な伝道活動の土台を据えるよう助けが差し伸べられました。例えば,ケニアでは人口の4分の3は孤立した地域に住んでいました。
伝道者たちは非常に熱心にこたえ応じました。そして1975年以来,マケドニアに関する使徒 16章9節の言葉は広く知られるようになりました。エホバの証人ではない人たちの口からさえ,「今日,エホバの証人はマケドニアで集会を開いている」という言葉が聞かれます。毎年3か月間は現代のマケドニアでの活動のために充てられます。
それに加えて支部事務所は,世俗の仕事の毎年の休暇を利用して自分の出身地の田舎で伝道するようすべての伝道者を励ましました。これに応じた一人の姉妹はこのような手紙を書いています。「家に着いてから,人々にエホバの良いたよりを伝えたところ,すぐに多くの聖書研究が見つかりました。そのうち8人は親族の者で,その中の6人は約16㌔離れたところで開かれている集会に出席し始めました」。
こうした証言の結果,関心を持つ人々から多数の手紙が寄せられました。出版物や聖書研究を希望する手紙が毎月何百通も届くため,支部事務所の通信事務のスタッフを増やさなければなりませんでした。
その年の特徴となった別の新しい重要な出来事は,東アフリカの7か国の長老たちのための王国宣教学校でした。霊的な事柄をたくさん教えられただけでなく,目を開かせるものが数多くありました。多くの兄弟たちにとって,皿洗いや食事の支度など,すべて女性たちに任せるのが習慣だった家事を手伝ったのは初めてのことでした。しかし,長老たちは謙遜に,喜んで順応する態度を示しました。また,ある監督たちにとって,父親が子供たちと遊ぶというのは新しい考えでした。一人の長老はこう述べました。「今まで一度もしてあげたことがないのに,帰ってから一緒にゲームをしたら,子供たちは驚くでしょうね」。
こうして,ケニアの1975年は1,709人という伝道者の新最高数をもって終わりを迎えました。300人以上がバプテスマを受けました。しかし,南隣のタンザニアでは王国の業はどのように発展していたのでしょうか。
タンザニアの状況の変化
ケニアとは違って,証人たちに対する禁令は1965年4月3日以来続いていました。こうした状況の中,家族や経済事情の変化も手伝って,事態はますます変化してゆきました。必要の大きな所で奉仕するために来ていた外国の兄弟たちは,次々と国から出なければなりませんでした。さらに,ザンビアからの特別開拓者のほとんどは,故国へ戻らなければなりませんでした。それはたいてい,急速に家族が大きくなったことに伴う経済的理由によりました。例えば,1961年に任命された時に二人の子供がいたある特別開拓者には,1967年には7人の子供がいました。
開拓者たちが国外へ流出する中で例外となったのはラモンド・カンダマです。兄弟は1932年にザンビアで真理を受け入れ,信仰を保ったため1940年と1941年にそこで逮捕され,さらに投獄されました。1959年に47歳で開拓奉仕を始め,タンザニアに遣わされました。兄弟はそこでも逮捕されました。やがて兄弟はケニアに任命変えとなり,幾つかの場所で割り当てを果たしました。現在80歳近くになりますが,いまだに独身で,特別開拓者です。忠実に忍耐することの何とすばらしい模範なのでしょう。
法廷の中の“羊”
続く20年間,タンザニア全土で何十件もの逮捕や裁判が行なわれました。証人たちはこのことに驚きませんでした。イエスはこう言われました。『もし世があなた方を憎むなら,あなた方を憎むより前にわたしを憎んだのだ,ということをあなた方は知るのです。奴隷はその主人より偉くはありません。彼らがわたしを迫害したのであれば,あなた方をも迫害するでしょう』。(ヨハネ 15:18,20)それで兄弟たちは大騒ぎすることなく喜んでそれに耐えました。
兄弟たちは平和的で協力的な性格だったため,憎しみを持った告発者たちの思うつぼにはまることがよくありました。反対者が友好的な,あるいは関心を持っている振りをすると,証人たちはそれと気づかずに彼らを自宅に招待し,誇らしげに神権的な図書を見せます。時には,こうした人々に聖書研究の手引きを貸してあげることさえあり,後にそれが証人たちに対する証拠として法廷で提出されることもありました。兄弟たちはためらうことなく自分がエホバの証人の一員であることを認めました。法律的に言えば,それは非合法的な団体を支持しているという意味でした。ある兄弟たちは警察署で罪を認めたため,法廷で証言することさえ許されませんでした。さらに兄弟たちは,協力的な性向のため,警察が法廷命令を受けずに自宅を手入れするのを許し,その結果逮捕されることもありました。尋問されればすべての質問に答えなければならないと思った兄弟たちもいたので,こうしてすぐに自分から罪を背負うことになりました。
証人たちは,ただ聖書を研究する集会に出席したり,良いたよりを伝道したり,聖書の出版物を持っていたりするだけで,非合法的な団体の成員であるという罪で告発されました。法廷は罰金を科し,3か月から9か月の禁固刑を言い渡しました。
一例を考えてみましょう。タンザニアの証人の数は多くなく,1973奉仕年度中その割合は国民1万人につきたった一人でしたが,彼らの熱意が気づかれないで終わることはありませんでした。1974年9月7日,ダルエスサラームのイサック・シウルタの家でクリスチャンの集会が行なわれていた最中に,警官がシウルタの家を包囲しました。出席者のうちの46名が逮捕され,その中には二人の開拓者の姉妹が含まれていました。警察は他の女性たちを家に帰しました。出席者がかばんの中や手に持っていた聖書研究の手引きはどれも,その後の裁判で証拠物件として提示されました。
この事件の審理は11月29日に行なわれました。提出された証拠は,エホバの証人たちが平和的で法律を遵守することを示していました。しかし判事は,「彼らの宗教的な外観は見せかけに過ぎない」ので全員有罪であると裁定しました。エホバの証人たちには,聖書研究の手引きを所有していた罪,または非合法的な団体の集会に出席していた罪で,罰金または6か月の禁固刑が言い渡されました。
刑務所の中で,証人たちは聖書研究を行なったり,「日ごとにエホバをあなたの喜びとしなさい」といった聖書の話をしたりして互いに励まし合いました。6か月後に全員釈放されました。タンザニアにおける王国の業が中断されることはありませんでした。1975奉仕年度中,1,609人という伝道者の最高数が報告されました。
最初,これら経験のない兄弟たちが法的な問題を抱えていることにケニアの支部事務所が気づくまで,少しの時間がかかりました。それに気づくと,逮捕と裁判の際の法的な権利について役立つ提案がすべての会衆に送られました。これは簡単なスワヒリ語で出版されたので,大いに役立ちました。
その後,多くの裁判において兄弟たちは無罪とされました。判事の中には,起訴者側の証人は「禁令に処された団体に関連した伝道」に関する証拠を何も持っておらず,「単に本を所有していただけでは非合法的な団体の一員だという証拠にはならない」という裁定を下した人もいました。こうしたことすべてはエホバの大敵対者に不利に働く,説得力のある証言となりました。―箴言 27:11。
エホバは力を与えてくださる
隣のマラウイで仲間の証人たちに押し寄せた迫害の波は,特にその近くのトゥクユ近辺で悪影響を及ぼしました。それによって迫害者たちはあおり立てられましたが,事情を見通すことができた人たちもいました。一人の看守はこのように述べました。「マラウイでは,これらの人々を迫害したり殺したりして無駄な努力をしている。ここでも同じだ。彼らは絶対に妥協しない。ただ増えるだけだ」。
しかし,迫害は決して国全体で行なわれていたのではありません。新しい王国会館を建て,自由に集まり,熱意を込めて歌を歌える会衆もありました。ほとんどの場合,出版物は郵便を使って証人たちの手元に無事届きました。ケニア支部は引き続き旅行する監督たちを遣わして彼らを築き上げたり,支部の代表者たちを遣わして長老たちや幾つかの会衆と会合を持ったりしました。スワヒリ語の出版物が増えて,タンザニアの兄弟たちの信仰は強められました。数多くの証人たちが開拓奉仕を始め,さらにザンビアの特別開拓者たちの代わりを務める資格を身に着けるようにさえなりました。
多くのタンザニアの兄弟たちにとって,ケニアでの地域大会に出席するための年に一度の旅行は,最も楽しい行事でした。普通,バスでケニアに行くのは困難ではありません。実際,1968年10月とその後の年にも,80人ほどの兄弟たちから成る大きなグループが,貸し切りバスでタンザニア南部からケニアまで約1,500㌔の旅をしました。彼らは年に一度のこの大きな行事のために何か月間もお金をためなければならず,本当に大きな犠牲を払いました。タンザニアの国境警備員の中には物分かりの良い人もいて,兄弟たちに,「行って,どうかわたしたちのためにも祈ってください」とさえ言いました。タンザニア南部の350人の証人たちが1970年のナイロビの大会に行くためには4台のバスが必要でした。
仕事中も証言しなさい
タンザニアの兄弟たちは恐れることなく,巧みに伝道を行ないました。エホバの証人ではない大勢の労働者と一緒に共同作業をしている証人たちは,一人の兄弟が関心ある人を装って他の証人たちに向かって聖書に関する質問を大声で尋ね,それに他の証人が喜んで答えるよう取り決めました。これは大声で行なわれたので,すぐに他の労働者も加わり,何時間にもわたって ― もちろん仕事の手を休めることなく ― 証言を行なうことができました。
「とこしえの命に導く真理」の本がスワヒリ語で発表されたとき,その本はたいへん広く知れ渡ったため,じきに良いたよりの敵の間でさえその青い表紙はよく知られるようになりました。そのため協会は,スワヒリ語の「真理」の本の表紙をそれほど目立たない色に変えて生産することにしました。
真理は自由をもたらす
国内のある地方では,キリスト教世界の僧職者が問題の種となっていました。キリマンジャロのすぐ西にあるメルー山の斜面では6人から成るグループが熱心に聖書の真理を研究していました。ある研究の終わりに,ルーテル派の司祭が暴徒を率い,研究を行なっている場所の外で騒々しい音をたてて妨害しました。数日後,これら関心を持つ人々が約20㌔離れた会衆の集会から帰宅してみると,もめごとが待ち構えていました。ある研究生の父親は,家の前で斧を振り回しながら,殺すと言って脅しました。別の研究生は,戻ってみると家を壊され,ヤギと子供がいなくなっていました。さらに別の研究生は打ちたたかれ,牛を強奪されました。これらの関心ある人々は聖書の真理を学び続けるのをやめてしまいましたか。決してそのようなことはありませんでした。彼らはみな教会に脱退届けを出しました。
間もなく彼らは全員,一つの点を除いてはバプテスマを受けていない伝道者となるところまで進歩しました。この最後の障害を乗り越えるためには,結婚証明書を提出しなければなりませんでした。しかし,証明書はまだ司祭の手元にあり,司祭はそれを手放そうとしませんでした。事件は法廷に持ち込まれることになりました。司祭たちはこれらの人々が非合法的な団体に属していると主張しましたが,司祭たちに対していら立った治安判事は,彼らに罰金を科し,証明書を所有者に渡させました。
セーシェルへの援助
アフリカ本土から遠く離れたセーシェルに11人の孤立した伝道者がいたのを覚えていますか。彼らは外部からの援助をしきりに願い求めていました。1974年の初めごろ,ラルフ・バラードとオードリー・バラード,それにその子供たちは必要の大きな所で奉仕するためにイギリスから来て,在住許可を得ることができました。彼らの野外奉仕に対する意気込みと熱意によって,新しい聖書研究がたくさん始まりました。宣教者の入国は1969年と1972年に拒否されましたが,国際聖書研究者協会は1974年8月29日に法的に認可され,これによって活動にさらに弾みがつきました。
その年の伝道者は32人で,翌年,その数は51人に増えました。カトリックの司祭たちは職や家がなくなると言って,きまって人々を脅したので,地元の人がエホバの側に立つのは容易ではありませんでした。年月が過ぎるにつれて僧職者の影響力は弱まり,真理を愛する人たちは勇敢な行動を取りました。
良いたよりが本島のマヘ島全体で宣べ伝えられた後,さらに1974年に,証人たちは船で3時間かけて2番目に大きな島,オオミヤシの生えるバレデメで有名なプララン島に行きました。このヤシの木はいわゆるココ・デ・メール,つまり“ふたこぶヤシ”の実をつけます。これは恐らく世界で最も重い種子(約14-18㌔)でしょう。珍しい形をしているために多くの収集家がしきりに欲しがります。島の人口は5,000人に満たないので,当然だれもが互いのことを知っています。気骨のある人々がそのような仲間の圧力に立ち向かって真理の側にしっかりと立つようになるには時間がかかりました。それでも,中にはしっかりと立った人もいました。もちろん,偶像崇拝を攻撃したりハルマゲドンでの邪悪な人々の破滅を宣べ伝えるだけでなく,良いたよりを巧みに伝道するようそれらの人々を訓練するには時間がかかりました。
1976年,ついに一組の宣教者の夫婦がマヘ島のビクトリアに居を定めました。彼らは会衆が霊的に安定するよう助け,真理の内を歩むよう証人の家庭の子供たちを大勢援助しました。これは容易な仕事ではありませんでした。なぜなら良心の痛みをほとんど感じない,非常にだらしない生き方に慣らされていた人もいたからです。地元の証人たちのうち,個人研究と野外奉仕に力を尽くしていたのはほんの数人だけでした。そのため,この世の新しい風潮に絶えず振り回される人もいて,そのうちの多くの人は途中で脱落してしまいました。さらに,会衆と交わっていた人の多くは,永遠の将来を心に留めて奉仕するのではなく,この邪悪な世界が終わる日付に注意を集中していました。こうした事柄のため,霊的進歩にブレーキがかけられていました。
外部からの援助なしで堅く立つ
1977年6月5日,クーデターにより新しい政府が誕生し,かつては平穏だったこの島々にとって新たな経験が始まりました。新しい国会で,エホバの証人について,またすべての地上の政府に対する彼らの中立の立場についての論議が行なわれました。一人の議員は証人たちの活動を禁止するよう提案しましたが,賢明にも他の議員たちは宗教の自由を保障した憲法を支持しました。
それにもかかわらず,1978年に宣教者の家は閉鎖され,宣教者たちはケニアに任命が変更されました。バラード家も島から立ち退かなければなりませんでした。とうとう地元の兄弟たちは独り立ちしなければならなくなりました。しかし彼らは真理に経験の長い兄弟たちとの交わりから益を得,長老たちも何回か王国宣教学校に出席していたので,王国の業を行なう点でより良い準備ができていました。文盲率が高く,心霊術に傾倒する人が多かったにもかかわらず,羊のような人々は見いだされました。1982年までには,セーシェルの伝道者は再び50人に達し,正規開拓奉仕を始めた人もいました。リーザ・ガードナーもその一人です。セーシェルでのエホバの証人協会の登録は,1987年1月についに承認されました。しかし,宣教者の入国申請はまだ認められませんでした。
島々での収穫
最初の地域大会は1987年1月16日から18日にかけて行なわれました。その時まで,集会と巡回大会はすべて王国会館で開かれていました。他の場所で開く集まりはこの地域大会が最初でした。
会場はどこでしたか。景勝地にある大きなホテルの別館でした。草ぶき屋根で風通しのよい建物は,岩の間に埋もれるようにして立ち,マヘ島屈指の美しい入り江が見晴らせるところにありました。出席者たちは霊的なプログラムを楽しんだだけでなく,心を落ち着かせる海の波の音や聴衆席を吹き抜ける海からのさわやかなそよ風も味わいました。
1日目の出席者数は173人というぞくぞくするような数でした。日曜日には会場は256人の出席者であふれんばかりになりました。80人の伝道者しかいないことを考えると,この島々での拡大の可能性は大きいことが分かります。
大会でバプテスマを受けた人の中に,以前反対していた女性がいました。どうして気持ちが変化したのでしょうか。それはキリストの死の記念式に出席したからです。その時,エホバの証人が実際にはどのような人たちなのかを理解することができました。しかしその女性には生活面で変化しなければならない点が幾つかありました。生計をたてるため,道路のわきに小さな店を開いていましたが,いろいろな品物と共にたばこも並べていたからです。たばこ製品を売るのをやめれば商売は成り立たないだろうと警告されました。それでもひるむことなく,彼女はエホバを信頼し,たばこを置くのをやめました。商売に影響はありませんでした。事実,彼女は重要な王国宣明の業に,より多くの時間をあてるために開店時間と閉店時間を張り出し,1日のうちの最良の時間を伝道活動に費やすよう自分の時間を計画しました。
伝道者たちの福音宣明の努力により,大きな収穫が行なわれています。1990年にプララン島で王国会館が献堂されました。3番目に大きな島,ラディーグ島でも多くの聖書研究が司会されています。さらに1990年9月から,セーシェルの監督は,同じようなクレオール語が話されているモーリシャス支部が行なうことになりました。
アフリカの隠れたスイス ― ルワンダ
さて本土に戻りましょう。ブルンジの北側に,それと同じくらい美しくて丘の多い国,タンザニアとウガンダとザイールに囲まれた,アフリカで最も人口密度の高い国,ルワンダがあります。東西と南北の幅はそれぞれ160㌔余りですが,ここ20年間で,300万人だった人口は700万人を超えるまでに増加しました。ルワンダでは世界で最も良質の紅茶が取れ,世界のマウンテンゴリラの大半はここに住んでいます。山や湖が多く,丘は1万以上あります。ナイル川の最も奥地の水源はこの国にあると言われています。
隣のブルンジと同様,ルワンダの人口の大多数はフツ族で,背の高いツチ族も少数います。この‘アフリカの隠れたスイス’のほとんどの人々は,田舎にある孤立した家でバナナ園に囲まれて暮らしています。(「目ざめよ!」誌,1976年6月8日号をご覧ください。)住民は全員キニャルワンダ語を話し,より教育を受けた人はフランス語も知っています。
神の言葉からの命を与える真理はどのようにしてこの山奥の国に届いたのでしょうか。統治体は1969年に4人のギレアデ卒業生たちをルワンダに任命しましたが,入国申請は退けられました。多分カトリック教会の強力な影響がまだあったのでしょう。
しかし翌年,タンザニアの二人の特別開拓者オーデン・ムワイソバとエーネア・ムワイソバが首都キガリに居を定め,伝道を始めました。二人はキニャルワンダ語を知らなかったので,まず主にザイールやタンザニア出身のスワヒリ語を話す人たちを訪問することにしました。1971年2月までには会衆の伝道者4人が野外宣教の時間を報告していました。政府内に変化が生じて宗教に対して寛容になったものの,言語の問題のため成長はゆっくりしたものでした。キニャルワンダ語の書籍はまだなかったのです。
ザイールやタンザニアから他の開拓者たちが援助にやって来ました。1974年までには,19人の活発な伝道者がいました。1975年に,彼らは1,000冊以上の書籍を配布しました。その年にはさらに他の注目すべき出来事がありました。ナイロビの支部事務所から一人の兄弟が訪問し,6人がバプテスマを受け,ルワンダの兄弟7人が王国宣教学校から益を受けたのです。まさに,拡大のためのよい土台が据えられました。キガリ以外のところでも小さな聖書研究の群れが幾つか発足しました。
一人の移住者が戻る
そのころ,ルワンダ人ガスパー・ルワカブブはザイール南部のコルウェジ銅山で働いている間に真理を学びました。兄弟は地元の会衆の監督を手伝い,こうして役立つ霊的な経験を積みました。しかし,住民がほとんど良いたよりを聞いたことのない,生まれ故郷ルワンダのことを度々考えては祈っていました。
どうしたらよいのでしょう。兄弟はそのことを,宣教者でもあった王国宣教学校の教訓者に話しました。教訓者はこう尋ねました。「全時間の開拓奉仕を始めて,ルワンダに戻るのはどうですか」。
そうした見込みを知って兄弟は大喜びしました。昇進の機会も親族からの説得も,兄弟を引き止めることはできませんでした。エホバの助けがあったことも明らかです。必要な書類上の手続きが記録的な速さで終わっただけでなく,雇い主の鉱山会社はルワンダに帰る飛行機の切符さえ提供してくれたのです。兄弟は1975年6月にキガリに到着しました。この引っ越しのためルワカブブ兄弟は物質的な犠牲を払うことになりました。もはや大きな社宅はなく,日干し煉瓦造りの簡素な家しかありませんでした。
兄弟は熱意を示すと共に,ルワンダ人の気質を理解していたので,それは神権的な進歩を促す助けになりました。他のルワンダ人もルワカブブ兄弟と同じような意欲を示しつつ真理に入ってきました。キガリでは集会の出席者が増加し,伝道者の数も1975年の29人から,1976年には46人,1977年には76人になりました。ルワカブブ兄弟の家の居間で開かれた最初の巡回大会には40人が出席しました。
1976年に,キニャルワンダ語の最初の出版物が出ました。それは「御国のこの良いたより」という小冊子でした。それから1977年に,キガリに宣教者を呼ぶ試みがもう一度行なわれました。二組の夫婦が一時的なビザで入国を許可されました。やっとのことで宣教者の家にふさわしい家を見つけました。家は広々としていたものの,何と水道がまだ引かれていなかったので,宣教者たちは雨樋から落ちる水でシャワーを浴びなければなりませんでした。土砂降りの度に,宣教者たちは大急ぎで家中の容器を外に出し,雨水を集めました。あるとき,たいへんな努力をして浴槽がいっぱいになるまで集めましたが,後で見てみると栓のところから水が漏れていて,貴重な水が全部無駄になってしまったということがありました。
土地の言語を話す
良いたよりによって原住民の心を動かすためには,彼らの言語を話さなければならないことを宣教者たちは知っていました。それで,すぐにキニャルワンダ語の勉強に取りかかりました。宣教者たちはよく進歩して,地元の役人たちによい印象を与えました。役人たちの多くは王国の音信に好意的でした。しかし,すぐに偽りの宗教家たちの影響が感じられました。宣教者たちは新しいビザを発行してもらえませんでした。それで,たった3か月この国にいただけで,宣教者たちはザイールに向かいました。
外国から来た特別開拓者たちもいろいろな理由でルワンダを去らなければなりませんでした。地元のルワンダの兄弟たちは必要を埋め合わせ,開拓奉仕を始め,伝道活動を国のあらゆる地域に広げました。どんな結果になったでしょうか。証人たちは100以上の田舎の市場で王国の音信を宣べ伝えました。始まりがこれほど後れたというのに,このような進歩が見られたのは何とすばらしいことでしょう。
真理に対する熱意に燃えたルワンダの証人たちは,他の場所の兄弟たちと交わる楽しみを味わいたいと願っていました。それで1978年に,ルワンダから30人がナイロビまでの1,200㌔以上の距離を旅行して,「勝利の信仰」大会に出席しました。その旅行には困難な点がいろいろありました。交通機関があてにならないことも問題の一つでした。もう一つの問題となったのは,政治的に不安定なウガンダを通り抜けるためには何十回も銃で脅されつつ検問のバリケードを通過しなければならず,逮捕されることや処刑される恐れさえあったということです。それに加えて自動車がしょっちゅう故障することや,国境を越えるという問題もありました。ナイロビに着くのに全部で4日かかりました。しかし,いろいろな国から来た大勢の仲間の証人たちがナイロビの大会で一致のうちに平和に集まっているのを見て,この兄弟たちは大いに喜びました。
ウガンダの不穏な時期
1970年代の中ごろ,隣のウガンダでは喜びの声は聞こえませんでした。国じゅうに緊張が行き渡っていました。すべての宣教者と外国からの兄弟たちが強制的に国外に退去させられただけでなく,全住民は毎日自分の命を心配していました。経済的な問題と1975年に再び出されたエホバの証人に対する禁令は兄弟たちの苦悩を増し加えました。政府はすでに宗教の自由を約束していたにもかかわらず,禁令の解除を求める訴えは一向に聞き入れられませんでした。
そうした時期には,法律に従わないなら裁判にかけられるのではなく,むしろ拷問にかけられ,殺されました。ここは臆病者のいる場所ではありませんでした。まことの神の証人であり続けるためには鋼のような堅い信仰が必要でした。また,経済の悪化に伴い,物質に対する心配が人々の心に次第に重くのしかかってゆきました。不道徳な傾向も決して無くなったわけではありません。それで証人たちは多くの問題と闘わなければなりませんでした。人に対する恐れ,物質主義,不道徳,心霊術 ― これらは直面した問題のほんの一部にすぎません。その結果伝道者は減少し,1976年に166人だったのが,1979年には137人になりました。もちろんこのように減少した原因の一つとして,大勢の人々が国から逃げ去ったことを挙げることができます。伝道者は,4人につき一人以上の割合で国を出ました。それでも,神に対する深い敬意を持っている人や,証人たちに友好的な人は国内に大勢残っていました。
ウガンダにいるすべての人にとって,特に禁令のもとにあったエホバの証人にとって,これは試練の時でした。幸いにも,この禁令はあらゆる地域で厳格に施行されていたわけではありませんでした。ある場所では特別開拓奉仕がまだ行なわれており,実際に拡大していました。特別開拓者が国の北部の町々に割り当てられ,すぐに新しい会衆が形成されました。北東部にある町ソロティでは,禁令にもかかわらず,地方行政官が町で一番良い学校を会衆の集会のために使用することさえ許可してくれました。
しかし,カンパラでは二人の兄弟が伝道中に逮捕され,国で最も悪名高い刑務所にほうり込まれました。友人たちは二度と兄弟たちに会えないのではないかと心配していましたが,感謝すべきことに,1週間後に釈放されました。リーラでは,伝道したという理由で3人の証人たちが3か月間投獄されました。
親族や友人の失踪,夜間の銃撃,がらんとした店,物価が2倍以上にはね上がるインフレ,交通手段の不足などは地元の人々にとってごく普通のことになりました。何百人もの人が,たった8人乗りの車になだれ込もうとしてバス停で待っています。政府の定めた運賃はほとんど無視されました。人気のない区間で車が止まった時に“切符”のお金を払うのが普通でした。乗客は全員,運転手がどれほどの額を要求しても,それを支払わなければなりませんでした。
ナイロビから送られる出版物や支部事務所の兄弟たちの訪問は,ウガンダの証人たちに対する時宜にかなった霊的食物,またさわやかな励ましの源となり,まるで天からのマナのようでした。様々な障害があったにもかかわらず,ある人々はケニアでの地域大会に出席することができました。さらに,地元での小さな大会は引き続き開かれていました。そのような集まりの一つで,子供を産んだ翌日にバプテスマを受けた女性がいました。
エホバに支えられる
このような不穏な状況のもとで全時間の伝道を続けた証人たちは,信仰の際立った模範です。そうした人々の中に,マサカに住む高齢の姉妹アンナ・ナブリャがいます。姉妹の人生の中で最も顕著な出来事となったのは,ケニアでの開拓奉仕学校に出席したことでした。姉妹は大きな花の模様のある,ゆるやかに垂れたウガンダ風のドレスで身を飾って出席しました。そしてそこで提供されるよく掘り下げられた霊的資料や実際的な情報に大喜びしました。
ナブリャ姉妹の親族は,経済的な苦境や危険や不便な生活を避けるため,ウガンダに戻らないで自分たちと一緒にケニアに住むよう姉妹に圧力をかけました。姉妹は考えを変えませんでした。姉妹が望んでいたのは,良いたよりの慰めとなる音信を必要としているウガンダの人々に伝道することでした。姉妹は,「年をとって体は弱くなっているけれど,自分にあるこの少しの力を使って仲間の人々がエホバとの良い関係に入れるよう手伝いたいと思います」と言いました。そうして姉妹はウガンダに戻り,亡くなるまで人々と神に忠実に仕えました。
信仰の別の模範となっているのは,孤立した任命地で軍と警察の役人全員に勇敢に伝道した開拓者の兄弟です。兄弟は料理のための薪を買うお金が無くなると,お金や大いに必要としていた聖書文書の包みが手に入るまでの間,椅子や他の家具を燃やしたものでした。区域の人々は霊的食物に非常に飢えていたので,兄弟は40冊から50冊の書籍を1日でわけなく配布することができました。
いやがらせや逮捕や尋問は続きましたが,証人たちは忍耐しました。エホバはご自分の民に「教えられた者たちの舌」を与えてくださり,彼らは当局者たちに勇敢に証言しました。―イザヤ 50:4。
やもめとなった姉妹たちはカンパラの大勢の証人たちの励ましの源でした。姉妹たちは夫を失うという苦難を経験しなければならなかっただけでなく,持ち物も失っていました。それでも,姉妹たちはエホバの関心事を第一にし,宣教に熱心に携わり,子供たちに敬虔な価値規準を教え込みました。近所の人たちが真理を学ぶようにも助け,後にその聖書研究生の子供たちが開拓奉仕者になるのを見るという喜びも経験しました。(「ものみの塔」誌,1985年2月15日号,27-31ページをご覧ください。)エホバはこうした忠実な人々の熱心な働きを祝福してくださり,王国伝道者の数は増加しました。
暑くて乾燥した国 ― ジブチ
アラビア半島の南西の端の対岸に,エチオピアとソマリアにはさまれた小さな国,ジブチがあります。以前ここはフランス領ソマリランドと呼ばれていました。この国にはフランス海軍の重要な軍事基地があります。首都もジブチと呼ばれ,この町のことを世界で一番暑い町と述べている年鑑もあります。砂漠性の気候ですが,この小さな国には魅力もあり,特に沖合いには海洋生物で満ちた壮麗な珊瑚礁があります。
レバノンから紅海を抜けてきたグレートリフトバレーは,ここからアフリカ大陸に入ります。アサル湖やアッベ湖の周りでは,塩と石膏の地層,石灰岩のとがった柱,温泉,様々な色の湖などの不思議な自然の景観を見ることができます。
国民の過半数はアファル族です。アファル族の居住範囲はエチオピアのダナキル砂漠まで広がっています。もう一つの部族は,ソマリアに近い首都に住んでいるソマリ系のイッサ族です。かまどのような暑さのため人々は無気力になり,ほんの90㍍移動するのにバスに乗ることさえあります。多くの人はカートを常用しています。これはイエメンやエチオピアやケニアの高地に育つ木の葉に含まれる弱い興奮剤です。事実,午後はたいていカートを噛むために用いられ,その時間帯にほかの活動はほとんど停止してしまいます。国民の大多数はイスラム教徒で,フランス語,アラビア語,ソマリ語,アファル語を話します。
ジブチで最初に良いたよりを伝道したのは,軍人と結婚していたフランス人の姉妹,クローディン・ボーバンでした。イスラム教の国で,白人の女性が一人で公共の場所に出かけてゆくのは危険なことでした。しかし,それくらいのことでボーバン姉妹は伝道の手を緩めませんでした。姉妹は野外宣教に活発に携わり,ジブチに滞在した3年の間に2件の聖書研究を司会しました。約2年後の1977年の終わりに,フランスで真理を学んだ一人のジブチ出身の若い男性がやってきました。ところがこの男性は霊的な問題に陥り,後に排斥されなければなりませんでした。
1978年には,一人のエチオピア難民の姉妹がジブチに引っ越して来ました。この姉妹は後にフランス語を学び,他の証人たちから長い間孤立していたにもかかわらず忠実を保ち続けました。フランスやエチオピアから訪れる兄弟たちが姉妹を霊的に励ましました。こうしたことが1981年まで断続的に続きましたが,その年にフランスから若い奉仕の僕ジャン・ガブリエル・マソーンがその妻シルビーと共に必要の大きな所で奉仕するためにやって来ました。孤立した状況や真理に新しかったこと,厳しい気候,高い生活費などを考えるとマソーン夫妻は勇敢な行動をとったと言えます。
間もなく彼らの組織的な伝道活動は実を結び始めました。数人のエチオピア難民がジブチを発って他の国へ向かう前に真理を受け入れました。1982年までに活発な伝道者は6人になり,12人が記念式に出席しました。2か月後,フランスから巡回監督が訪問した際に3人がバプテスマを受けました。
その当時,集会はマソーン兄弟の質素な家の中庭で行なわれていて,時々集会中に非常に珍しいことが起きました。ある時,ナイロビから来た兄弟が聖書から話をしていると,中庭の上を覆う格子状の棚に沿って生えているツタの中で,猫がうなり声を上げたりギャーギャー騒いだりしてけんかを始めました。騒音は話が聞けなくなるほど大きくなり,もちろん非常に気を散らすものでした。そのうち,けんかをしていた2匹の猫は棚から落ち,話し手の目の前に着地しました。おまけに,その後すぐ電気が消え,全員まっ暗闇の中で座ることになりました。それでも集会は無事に終わりました。出席者は18人にまで増加しました。一風変わっていたのは,これほど出席者が少ないのに,集会が英語,フランス語,アムハラ語,ソマリ語の4か国語で行なわれたことです。
修道士がはっきりとした立場をとる
マソーン兄弟にとって仕事を確保するのは容易ではありませんでしたが,やっと教師の仕事を見つけることができました。学校で兄弟は,その学校の校長で,カトリックの修道士でもあるルイス・ペルノーに会いました。ルイスはそこに20年近く住んでいました。ルイスが聖書の真理に強い関心を示したとき,マソーン兄弟は彼をキリストの死の記念式に招待しました。「それは無理です。ここジブチにいる人はみんな私のことを,そして私がだれであるかを知っています。どうして私がエホバの証人の集会に出席できるでしょうか」と,ルイスは言いました。
しかし,マソーン兄弟はあることを思いつきました。照りつける太陽のもと,ジブチの人全員が眠っている午後の昼寝の時間に自分の家に来るよう,兄弟はルイスに提案しました。それから寝室のカーテンの陰に座って,集会が始まるのを待てば良いのです。だれも彼がそこにいることに気づかないでしょうし,集会が終われば,暗闇に紛れてこっそりと家まで無事に戻れば良いのです。
ルイスはその通りにしました。マソーン家の寝室のカーテンの陰に座って最初の集会に出席したのです。聖書的な情報はほとんど分かりませんでしたが,聖書に関する討議の深さに感銘を受けました。
それからマソーン兄弟は,自分の本の中からルイスに1冊選んでもらい,それを家に持ち帰って読むよう勧めました。ルイスは教育者でしたから,「あなたの若い時代,それから最善のものを得る」という本を選びました。ルイスは,若者が今の世界で抱える問題に対処できるような明快な情報を自分の宗教が与えてくれないのはなぜだろうと,しばしば思っていました。神の真の宗教なら,神の言葉を曲げることなく人々に健全な導きを与えるはずだと考えました。その晩ルイスは「若い時代」の本を読み始め,夢中になってしまいました。次の日ルイスはマソーン兄弟に,真理を見いだしたと言いました。その週の間にルイスは修道士を辞めただけでなく,カトリック教会からも脱退しました。
もちろん,このことは大騒ぎになり,その後間もなくマソーン兄弟姉妹は,この小さな国から出るようにと告げられました。地元の証人たちにとってこんなに悲しい知らせはありませんでした。なぜなら記念式には44人が出席していたからです。マソーン兄弟は政府に訴え,出国を1か月先に延期してもらいました。その後,インド洋に浮かぶフランス領のマヨット島に向かいました。
マソーン夫妻が出発するまで,ルイスとの研究は毎日行なわれました。ルイスは自分で独り立ちしなければならないことにすでに気づいていました。マソーン夫妻がいなくなってから,ルイスを霊的に援助するために一人の開拓奉仕者がジブチに行くことができました。
しかし,いろいろな理由で,どの証人も長くとどまることはできませんでした。こうしてバプテスマを受けたばかりのルイスは,何年も霊的にかなり孤立した状態にありながら,しっかりと立たなければなりませんでした。何度も当局から呼び出され,尋問され,伝道活動について警告を受けました。しかし決してよろめくことはありませんでした。補助開拓者として奉仕することさえありました。しかし結局,信仰のゆえに仕事を取り上げられてしまいました。ルイスは物事をエホバのみ手に委ね,次の生活手段が見つかるまでどんどん前進しました。
現在,ジブチでは伝道者の小さな群れが住民に聖書の真理を伝え続けています。最近,外国から証人たちが引っ越して来たおかげで,新たな活気を帯びています。
ソマリアでなされた再度の努力
宣教者のビトー・フライシーおよびファーン・フライシーが1963年に別の任命地に去ってから何年もの間,はっきりした王国の証言はソマリアでは行なわれませんでした。やがてソマリア生まれのヨーロッパ人の兄弟が,1980年の終わりごろこの海沿いの国で休暇を過ごしました。そこにいる間に,兄弟は良いたよりに関心を持つ人々を見つけました。これら羊のような人々は,定期的にこの国を訪れるいろいろな証人たちからさらに援助を受けました。
その後,一人のイタリア人の兄弟が港湾都市,また首都であるモガディシオに建設の仕事でやって来ました。経験が足りない分は熱意で埋め合わせました。兄弟は思い切ったことをする人で,イスラム教徒も含めて,会う人にはだれにでも良いたよりを宣べ伝えました。イスラム教徒の中で一人の中年の男性が注意深く耳を傾けました。その男性は真理の光を見てとりました。いろいろな場所を旅行したことのある人だったので,偏見がなく,聖書の研究に応じました。その後そのイタリア人の兄弟の仕事の契約が切れ,兄弟は国を去らなければなりませんでした。しかし,別のイタリア人の家族がソマリアに引っ越してきたので,その家族がこの関心のある男性を援助し続けました。
それから,以前ヨーロッパに住んでいた間に真理に関心を示した女性が,夫と共にソマリアに戻ってきました。この女性は証人たちを探し出し,こうして小さな群れができました。集会が開かれ,その後巡回監督の訪問も始まりました。ついに1987年にこの女性はバプテスマを受けて,非常に喜びました。ここまで来るのに何年もかかりました。いろいろな国にしょっちゅう引っ越して,その度に新しい言語を学ばなければならなかったので,彼女の霊的進歩が遅かったのは無理もないことでした。しかし,今や引き止めるものは何もありません。間もなく姉妹は聖書研究を司会し,一組の夫婦が自分と一緒に神を賛美するようになったのを見て感激しました。奥さんのほうはソマリア生まれの最初のエホバの証人となりました。
残念なことに,国の経済状態と治安が非常に悪化したので,多くの外国人をはじめ,地元の人々でさえ国を去らなければなりませんでした。1990年の終わりまでに,伝道者も全員国から出ました。これはきっと神のご意志だったのでしょう。1991年の内戦で国は混乱状態に陥り,モガディシオでは身の毛もよだつ無差別殺人が起きたからです。
革命によって動揺させられたのはソマリアだけではありません。ほぼ20年前,エチオピアでも内戦の嵐が吹き抜けました。
エチオピアの革命
1974年,長い歴史を持つエチオピア帝国は崩壊しました。新しいイデオロギーを熱心に推し進めようと,軍人たちが老齢の皇帝から権力を奪い,全面的な改革を始めました。若い革命家たちにとって,即座に人を殺せる武器を持ち歩くことによって強くなったような気分になったのは,生まれて初めての経験でした。夜間外出禁止令が出され,「エチオピア万歳!」といったスローガンが響き渡りました。反動的な政治活動が大目に見られることはありませんでした。
これは,エチオピアのエホバの民の発展が有望視されていたころと時を同じくして起こりました。1974年に,伝道者は1,844人という新最高数に達し,「真理」の本がアムハラ語に翻訳されました。記念式の出席者は3,136人に膨れ上がりました。新たに任命された特別開拓者の助力もあって,証しの業は初めてエチオピアのすべての州に広がりました。しかし,それは一貫性が期待できない時代でもありました。堂々と集まることのできた会衆もありましたが,一方では数人の特別開拓者が投獄されていました。
北部のエリトリア州ではゲリラ戦が続いていました。ケレン(カレーン)の町にあった会衆は外部の世界から隔絶されてしまいました。水も食べ物も電気もありません。夕暮れから明け方までの夜間外出禁止令が出されていた中で,日没後まで始めることのできないキリストの死の記念式をどうすれば執り行なえるでしょうか。その宗教上の祝いはいつもと大きく異なる方法で行なわれることになりました。すべての証人たちが日没前に早めに到着し,それから夜間外出禁止令が解除される夜明けまで,会場で晩を過ごす準備をして出席するという方法でした。それは兄弟関係を楽しむ本当にすばらしい晩となりました。
証人たちにとって別の進展もありました。1975年には,エチオピアの長老たちのために9年ぶりに王国宣教学校が開かれました。巡回大会のプログラムが2,000人を優に超える聴衆に提供されました。出版物の輸入許可を得ることができ,外国からの4万冊の書籍を含む,7㌧の積み荷がアディスアベバに到着しました。翌年の1976年には,アスマラ市でのゲリラ活動がいつになく鎮静化している間に,王国宣教学校を開くことができました。地元の証人たちによると,学校が終わった直後に銃撃戦が再開され,ロケット弾が炸裂し始めたとのことです。
革命派による恐怖政治!
事態の悪化が証人たちに不気味に迫っていました。1976年の初めに,当局はエホバの証人を非難する回覧を出しました。その年の中ごろ,革命派による恐怖政治が始まり,革命に反対する者たちを襲いました。エホバの証人も標的にされました。証人たちは誤って敵として非難され,その後次々に逮捕されました。
エチオピア正教会は大いに満足した様子でそれを眺めたに違いありません。彼らは証人たちに独自の打撃を加えるためにこの状況を利用しました。首都の南にあるモジョという小さな町では,司祭が600人もの暴徒を組織して証人たちを攻撃し,殺そうとしました。しかし,警察が介入したので,大事には至りませんでした。暴徒による同様の行為は青ナイル川の水源のバハダールでも起こりました。
国の全土でそれまでになかったほど徹底的な家宅捜索が行なわれました。聖書文書やタイプライターやそれに類するものを捜し出すために,庭さえも掘り起こされ,床板もはがされました。
アスマラでは,ゲリラが横行している田舎の地域から来た特別開拓者の兄弟に警官たちが近づいて来て呼び止めました。警官たちは兄弟の身体検査をし,野外奉仕報告の用紙を見つけました。その用紙には手書きの略号が書いてあり,警官たちはそれを見て怪しいと思いました。それから,都市の監督ゲブレグシャブヘル・ウォルデットナシーの所まで兄弟に無理やり先導させました。ゲリラのリーダーを逮捕できると思って,武装した兵士たちを乗せた数台のトラックが轟音と共にゲブレグシャブヘル兄弟fの仕事場に向かいました。兵士たちは兄弟の事務所を包囲し,ライフルを構えて突入しました。彼らはゲブレグシャブヘル兄弟の名前を呼び,逮捕して連れ去りました。同僚たちはもう二度と兄弟に会えないだろうと思いました。
軍の本部で兵士たちはゲブレグシャブヘル兄弟を尋問しました。兄弟は彼らの質問に率直に答え,伝道活動について証言し,“mags,rv,B.S.”などの奇妙な略号について説明しました。それは特別開拓者がその月の野外宣教で成し遂げた事柄,つまり配布した雑誌,行なった再訪問,司会した研究などの数を記した純然たる記号にすぎませんでした。兵士たちは兄弟に質問を浴びせました。「何だと! これは武器や弾薬には関係ないというのか。だれがそんなことを信じられるか。なぜこんな略号にするんだ」。
ゲブレグシャブヘル兄弟の誠実さと協力的な態度は感銘を与えましたが,疑いは晴れませんでした。結局,上官がこう尋ねました。「お前が本当にエホバの証人だという証拠はどこにあるのだ」。兄弟は自分の所持品を調べましたが,身元を証明するのにふさわしいものが何もありません。でも,ちょっと待ってください。ほかの持ち物に紛れて,「輸血しないでください」という言葉の印刷されたカードがありました。上官はそれを見て,「よし,それで十分だ。帰ってもよろしい」と言いました。事務所に戻ると,同僚たちは兄弟が復活したのではないかと思いました。
予期せぬ変化
アスマラで大勢の兄弟たちが1軒の家に集まっていました。一群の若者がこの場所を見つけだし,すぐに警察に集会のことを通報しました。若者たちの説明によると,2軒の住宅があって,その内の1軒の家の前で小さな女の子が遊んでいるということです。その家の中でエホバの証人が集会を開いています。
証人たちを見つけだすために警官が出動しました。そうしているうちに小さな女の子は場所を移動して,もう1軒の住宅の前で遊び始めました。警官たちはその家に乱入しましたが,そこにいたのは団らんを楽しんでいるほんの数人だけでした。警官たちはばつの悪い思いをしました。そして,若者たちにだまされたと思い,むしゃくしゃしながら警察署に帰りました。
政治的,社会的な風潮はエホバの証人にとって安全なものではありませんでした。人々は政治的スローガンを繰り返したり,選挙に参加したり,戦争を支援するためにお金や食物や道具を寄付したりするよう奨励されました。しかし,こうした状況の最中にあって,勇敢な兄弟たちの助けにより,外国から貴重な聖書文書がエチオピアにひそかに持ち込まれました。
自己犠牲的な牧者たち
エリトリアでは,ゲリラ活動のために幾つかの会衆が外の世界から隔絶されてしまいました。しかし,愛ある牧者たちはそこにいる兄弟たちを励ましました。ある巡回監督は,護送付きの供給物資輸送車の隊列に加わって92㌔ほど離れたケレンまで行く計画を立てました。5台の戦車と30台の装甲車に護送された,100台のトラックで移動するところを想像してみてください。
途中で,ゲリラが隊列を取り囲み,激しい戦闘が起こりました。襲撃者たちは以前にもしばしば行なったように,すべての物資を奪取するつもりでした。30分間の激しい戦闘の末,隊列は包囲網を突破し,脱出しました。こうして巡回監督は孤立した会衆を訪問し,兄弟たちを築き上げることができました。
しかし,巡回監督の帰り道には車の隊列はありませんし,ほかの交通手段もありませんでした。残された唯一の方法は,もと来た道を歩いて戻ることでした。これは非常に危険でした。歩いて戻るのに三日かかりました。しかも,その間夜通し歩き続けました。
この不穏で恐ろしい時期に,主だった人たちを含め,数人の伝道者が断絶しました。不活発になった人や,国から逃げて行った人もいます。そのため伝道者数は減少してしまいました。
1979年までには,中立の立場ゆえに80人の兄弟たちが刑務所に入れられていました。その年の4月,アスマラの都市の監督ゲブレグシャブヘル・ウォルデットナシーが,包囲されていた田舎の兄弟たちを訪問しに行く途中,悲しいことに,事故で亡くなりました。こうした悲しいニュースにもめげず,忠実に忍耐した人々がエホバの愛ある支えを感じ損なうことはありませんでした。
信仰はさらに精錬され試される
革命の最初の波が過ぎ,国内が落ち着き始めると,市民は自分たちが霊的に空っぽの状態にあるように感じました。教会が妥協し,教会に対する一般市民の支持が崩れ去るのを,彼らは自分たちの目で見ました。証人たちの中にも霊的に不安定になった人がいます。1981年,23人の長老と奉仕の僕が奉仕の特権を失うのを見るのは悲しいことでしたが,そうしなければなりませんでした。野外宣教が不定期になっていたのです。その後,諸会衆は180度の転換を図り,うれしいことに,これらの兄弟たちのほとんどは,後になって会衆での以前の特権を再びとらえました。
それに続いて,幾度かの飢きんを含む他の試練も起きました。実のところ,何年もの試みの期間にエチオピアの兄弟たちの間に,試みられた堅い信仰が生み出されました。―ペテロ第一 1:6,7。
困難な状況のもとで成長するスーダン
スーダンで伝道者の数が新最高数の101人になるには,1974年の8月から1976年まで,2年かかりました。この時期の特色は緊張が見られたということです。クーデターの未遂事件が頻繁に起こり,政治に対する不信感が満ちあふれていました。時々,伝道者や長老たちが警察から尋問を受けました。物価の上昇や品不足を伴う経済的な困難によって,多くの人は物質的な事柄を心配し,そのとりこにされてしまいました。そのため伝道者の増加は遅々としていました。1981年4月になっても,最高数はまだ102人でした。
南部では,巡回監督が会衆を定期的に訪問するのを妨げる二つの問題がありました。一つは,ゲリラ活動や燃料不足のために交通手段が断たれる可能性が絶えずあったことで,もう一つの問題は移動の方法でした。ぎゅうぎゅう詰めのトラックの荷台に割り込んで1日中上下に揺られたり,一つの席に二人ずつ座り,客車の屋根の上でただ乗りしている人もいる,すし詰めの列車に乗って,時速約10㌔で,はうように進んだりすることもあります。空の旅も決して楽なものではありません。丸1週間キャンセル待ちをして飛行機の到着を待ち,連絡が来てから出発まで1時間もないといったこともあります。しかし,諸会衆は巡回監督の訪問を非常に感謝しました。彼らの喜びともてなしは,言葉では言い表わせないほどでした。
1982年に開拓者精神が燃え上がりました。この結果あふれんばかりの祝福がありました。5年間に開拓者の数は7人から86人に増加しました。ある月には,全伝道者の39%が全時間奉仕に携わりましたが,その月は,正午の平均気温が摂氏40度を超えるという,1年の中でも極めて暑い月でした。1987年までには300人余りが活発に伝道し,キリストの死の記念式には約1,000人が出席しました。会衆の伝道者は毎月平均20時間を野外宣教に費やしました。
非常に大勢の若者たちが急速に霊的な進歩を遂げ,奉仕の僕として,またそのうちに長老として任命される資格を備え,こうして会衆はさらに強められました。ついにナイル川の向こうの由緒ある都市オムドルマンに,1987年に会衆が設立されました。その会衆の区域には100万人の人が住んでいます。さらにポートスーダン市にも証人たちの群れができました。
しかし,こうした増加のほとんどは南部の人たちの間に見られました。彼らは,顔や体にたくさんの切れ込みや装飾を付けていることが多い,運動選手のような体格をした,肌が黒く背の高い人たちです。北部のスーダン人やエジプト系の人々も真理を受け入れ,様々な難民も人類のための神の希望の光を見てきました。どの人々も忍耐しつつ熱心にエホバに仕えてきました。証言の業のために焼けつく日差しのもとで長い距離を歩かなければならないことが今でもしばしばあります。活動がまだ法的に認可されていないので,集会をきちんと開くためには巧みさが求められます。
神の命のパンを味わう
1983年に,イスラム教の原理主義者たちがスーダンにシャリーア,つまりイスラム法を導入しました。エホバの民の敵たちはこの宗教的な感情の盛り上がりを利用して証人たちに注意を向け,そのため証人たちは小さなグループに分かれて会衆の集会を開かなければなりませんでした。
広く知られているとおり,近年,スーダンを含むアフリカのサヘル地域の大半を深刻な干ばつが襲いました。この干ばつはちょうど内戦が再燃したときに起こったので,飢きんや被害は相当なものでした。しかし,これには興味深い副作用が伴いました。大勢の若者がスーダンの最も遠隔の地域から首都に移住してきたのです。そしてこの首都で,彼らは以前の孤立した地域では決して見いだせなかった,神の命のパンを味わうようになりました。(ヨハネ 6:35)こうして増加の速度は速まりました。
物質的には飢えていても霊的には満ちあふれる
1988年の異常気象によりハルツーム地区は先例のないほどの豪雨に見舞われ,その結果大勢の人が家を失い,亡くなった人もいました。何十人もの証人たちとその子供たちがひどい被害を受けました。一人の父親は,自分の小さな子供を抱き上げ,真っ暗な中を戸外で一晩中立っていました。その間,豪雨は続き,水は彼の腰の高さにまで達しました。電柱は倒れ,日干し煉瓦の家は崩れました。また屋外トイレは陥没し,汚れた水で大きな穴が水面下に隠れてしまいました。道路には水があふれ,市内全域が寸断されました。車は流れてきた泥に埋もれ,そこから引き出せる見込みはほとんどありませんでした。この新しい“湖”が干上がるまで何日もかかりました。
こうした危険な状況に勇敢に立ち向かったのは,面倒見のよい長老たちです。彼らは被害に遭った人々と直ちに連絡をとり,救援活動がすぐに始まりました。統治体は追加の物資が確実に備えられるようにしました。驚くべきことに,こうしたことが行なわれている間も,野外宣教は引き続き熱心に行なわれました。
別の種類の嵐もスーダンを吹き荒れました。クーデターにより政権が交替し,イスラム教徒の地域社会が再び優位に立つようになりました。内戦,干ばつ,輸入制限が続き,経済を非常に圧迫しました。飢えはいまだに大都市に広がっており,犠牲者が出ています。
大勢の人が飢きんと戦争から逃れたため,南部の主要都市であるジューバの人口は25万人を超えるまでに膨れ上がりました。しかし,ゲリラはジューバに対する統制を強化しました。それで長期間この都市は外の世界から完全に隔絶されました。兄弟たちに対する救援物資は,蓄えが尽きる寸前にきわどいタイミングで届くことが何度もありました。
それでも,定期的な霊的交わりと共に,増え続ける開拓者たちの訓練が続けられました。霊的食物の供給が尽きることはありませんでした。真理がどんどん南に広がって行くにつれ,いろいろな町に次々と新しい群れや会衆が設立されました。
こうした圧力の中,1990年に驚くべき出来事が起こりました。まず,南部の一つの州がエホバの証人に法的認可を与えました。
証人でない人の証言
その後,11月2日に,国際的に有名なイスラム教徒の講師がセミナーに集まった大勢の政府役人の前で,エホバの証人に関する極めて好意的な話をしました。その講師は役人たちに,わたしたちの信条や政治問題に関する中立の立場,公の教育活動,社会全体に対する有益な働きについて説明しました。しかもその上,この話は次の日曜日に国営テレビでそっくりそのまま放送されました。こうしてあらゆる層の人々に計り知れないほど大々的な証言がなされました。この大規模な証言の結果どうなったでしょうか。多くの好意的な発言が聞かれるようになり,誤解は解け,真理に対する関心がさらに呼び起こされました。事実,政府の役人たちは,エホバの証人の間に見られる自己犠牲の精神を見倣うように勧められました。
スーダンの証人たちは真剣に神の王国を第一に求め,伝道者一人一人が野外奉仕に毎月20時間近くを喜んで費やし続けています。それで,飢きんを含む多くの患難にもかかわらず,人類の諸問題に対する唯一の永続する解決策としての神の王国に関する真理は,かつてなかったほどスーダンで宣べ伝えられています。
乳香の通商路 ― イエメン
近年,スーダン出身の献身的な姉妹がアラビア半島の南西の端にある孤立した国イエメンで光を輝かせるという珍しい機会に恵まれました。賢人ソロモン王の時代,乳香の通商路はここから出発し,シェバの女王の領地と思われる土地を通っていました。スーダン人の姉妹に加えて,他の国から数人の証人たちが仕事のためにイエメンに来ていました。エホバの助けによって,彼らは互いに知り合うようになりました。自分たちの信仰を用心深く他の人々に宣べ伝え,聖書を研究したいと願う人たちをも見いだしました。
山の多いこの国では,依然としてイスラム教が強い影響を及ぼしており,人々は長年の伝統に支配されています。ほとんどの女性は完全に身を覆い,男性は誇らしげに腰に短剣をぶら下げています。健康だったアフリカ出身のある中年の兄弟がある晩突然に亡くなったのは,悲しい知らせでした。原因はまだ分かっていません。しかし,伝道は続いています。
1986年にはキリストの死の記念式に15人が出席しました。それ以後,そのうちの何人かは国外に引っ越して行きました。こういうわけで,野外奉仕と集会の報告はおおまかなものですが,集会はずっと開かれています。別の国から来た一人の姉妹は,他の伝道者たちから孤立していますが,数件の聖書研究を司会しています。こうして,マタイ 24章14節の成就として,この国でも幾らかの証しの業が行なわれているのです。
イエメンから紅海を渡り,1970年代の後半に戻って,証言を行なうことが生死にかかわる問題になっていた国を見てみましょう。
エチオピアの忠誠を保つ人々
エチオピアでは,国家からの反対が厳しくなっていました。当局は二人の証人に死刑を宣告しましたが,兄弟たちは処刑されませんでした。証人たちは良心に反することを行なうよう圧力を受けました。迫害者たちは彼らのこめかみに拳銃を突き付けることさえしました。
経済的な圧力のために,啓示の書に書かれている,「その印,つまり野獣の名もしくはその名の数字を持つ者以外にはだれも売り買いできないようにする」という預言が,ほとんど文字通りに成就しました。(啓示 13:17)聖書はめったに手に入らなくなりました。国家は人々の生活をますます統制するようになりました。国内を移動するのにビザが必要でした。男も女も子供も政党に加入させられました。
1978年3月に,ウビエ・アイェレは聖書の原則に堅く付き従ったために殴り殺されました。その後の数か月間に,開拓者であり長老でもあったアイェレ・ゼレルーと伝道者のハイル・イェミルが殺され,二人の死体は見せしめとしてアディスアベバ市内の通りに1日中放置されました。
迫害はひどくなりました。ラジオ,新聞,警察は証人たちを攻撃しました。100人以上の兄弟たちが刑務所に入っていた時期もありました。ある人々は釈放され,その中には拷問に遭いながら2年半の間刑務所で過ごした人もいました。多くの人は刑務所の中で補助開拓奉仕を行なうことさえしました。
その後,エホバの証人を撲滅するためのひどい陰謀がたくらまれました。このことを知って,人に対する恐れに打ち負かされてしまった証人たちもいました。それに加えて経済的な苦労がありました。肉や穀物,自動車のタイヤやガソリン,その他の必需品が不足していました。
100人以上の証人たちは,仕事を失った後でさえ忠実を保ちました。失業は大家族を扶養していた人にとって本当に信仰を試みるものとなりました。しかし,仕事を持っている証人たちが,初期クリスチャンに見倣って愛を表わし,困窮している人々の経済的な荷を負うのを助けている様子は本当に心温まる光景でした。(使徒 4:32)こうした恐ろしい状況のもとで,証人たちは霊的な導きや励ましを大いに必要としていましたが,エホバの指示のもとにそれは与えられました。
いつでも勇敢
逮捕と裁判は,ただれた腫れ物のようになかなか無くなりませんでした。ある特別開拓者は1972年以来15回逮捕されました。14歳の子供たちも投獄され,その中には4年以上監禁された子供もいました。彼らは妥協しませんでした。その後,戦争のための徴兵が始まりました。今度は若い女性も含まれていました。多くの証人たちは監禁されている時間を活用して補助開拓奉仕を行ない,他の受刑者が聖書の真理を学ぶのを助けました。一人の姉妹は子供を産むために一時的に帰宅を許可されましたが,その後再び監房に戻らなければなりませんでした。
車で田舎に向かっていたある勇敢な兄弟は,聖書文書の包みを隠し忘れていたことにはっと気づきました。包みは車のダッシュボードの下のすぐに目に留まるところに置いてありました。ちょうど良い隠し場所はないものかと祈りながら考えましたが,かさばるその荷物を隠す場所はどこにもないように思えました。荷物をそのままにして,エホバを信頼する以外に方法はありませんでした。9回も検問で検査され,そのうち何回かは車を徹底的に調べられたのに,役人が1度もこの包みを疑わなかったときの兄弟の驚きを想像してみてください。
1982年12月に,6人の証人たちがクリスチャンの中立の立場ゆえに逮捕されました。彼らも勇敢な人々で,仲間の受刑者が王国の希望をしっかりと保つよう助けました。3年後,彼らは刑務所からいなくなり,その顔を再び見ることはありませんでした。全員処刑されたのです。
この国の中北部にあるデセで,5人の子供の父親でもあるデマス・アムデという名前の一人の教師は刑務所で5年以上拷問され続けました。最初は重労働をさせられ,それから体を曲げた状態で鎖につながれて6か月独房で過ごし,その後病気になっても手当てをしてもらえず,次には2か月間裸にされてシラミに襲われ,それから腸チフスで死にかかっている受刑者ばかりの監房に移されました。最後に,健康を損なって,ガンで体力が衰弱した後,死ぬ間際に釈放されました。彼は1991年2月4日に亡くなりました。最後まで忠実を保ち,復活の希望をしっかりと抱いていました。―ヘブライ 11:37-40と比較してください。
死を免れた証人たちもいます。田舎に旅行していた一人の兄弟はゲリラの一味だと疑われて逮捕されました。この兄弟は黙っていることができず,たいへん危険なことでしたが,自分はエホバの証人だと大胆に宣言しました。だれも彼を信用してくれず,他の受刑者たちと一緒に監房に入れられました。
兄弟はその晩をどのように過ごしたでしょうか。自分の哀れな境遇を嘆く代わりに,その機会をうまくとらえて他の人に良いたよりを語りました。朝になると,何と驚くべきことに,同室の受刑者たちは監房から連れ出されて役人に質問されました。「昨日の晩お前たちの部屋に入ったのはどんな男だ」と,役人は尋ねました。
「ああ,ほとんど一晩中説教をしていたやつのことですか。おかげで眠れやしなかったよ」と,彼らは答えました。役人たちはこの人が本当にエホバの証人だと容易に認めることができました。兄弟の信仰の公の宣言が刑務所のドアを開きました。兄弟は釈放されたのです。
国の南部では,関心を持った一人の男性が4年以上にわたる投獄を忠実に耐えました。最初の1年間は両足を鎖で縛られました。そして6か月独房で過ごしました。その人の身の回り品が親族のもとに届けられたとき,親族は彼が処刑されたに違いないと思いました。彼は少ない食糧の配給で何とか持ちこたえました。その後,そのような衰弱した状態で死刑を宣告されました。しかし,この宣告は高位の役人によって取り消されました。
この男性を誘惑しようとして,監房に娼婦が入れられたこともありました。3年後この人は,同じ監房に入れられた関心を持つ別の男性と信仰を分かち合うことができ,元気づけられました。しかし,釈放の望みは全くないように思えました。ある日,全く突然のことでしたが,彼は自由の身であると告げられました。ついにこの人は,エホバに対する献身の象徴としてバプテスマを受ける機会を得たのです。
死刑宣告を8回受ける
デブラゼートというエチオピアの中部近くの町で,開拓者のウォルク・アベベは中立の立場のために逮捕されました。その晩のうちに処刑するという判決が下されました。しかし処刑が実行される前に,他の兄弟姉妹たち20人が近くの町で逮捕されました。当局者たちは,ウォルク兄弟が殺されるのを見ればこの20人は妥協するだろうと考えました。(役人たちはウォルク兄弟が“リーダー”だと考えていました。)それで近くの町の役人たちは,ウォルク兄弟を処刑のために引き渡すよう要求しました。
移送されたことによってウォルク兄弟は300人の前で自分の信条を説明することができました。他の人の話の途中に割り込んではいけないという地元の習慣のおかげで,ウォルク兄弟はアベルから始まって現在に至るまでのエホバの証人の歴史を,4時間かけて詳しく話すことができました。兄弟が話し終えると,一人の役人は,「この男は他の者たちから離しておくべきだ。私はもう少しで信じ込まされるところだった」と言いました。
ある晩,看守たちはウォルク兄弟と他の受刑者である証人たちを処刑するために川岸に連れて行きました。証人たちに銃の狙いをつけながら,こう尋ねました。「信仰を捨てるのか,それとも捨てないのか」。証人たちは口をそろえて毅然とした声で,決してエホバを否認したりはしないと答えました。処刑は行なわれませんでした。その代わりに,ひどく打ちたたかれ,それは何時間も続きました。「余りにも苦しかったので,代わりに殺してくれるよう頼みましたが,彼らはやめようとはしませんでした」と兄弟たちは語っています。
次にウォルク兄弟だけが選び出されて処刑されることになりました。一発の銃声が鳴り響きました。一瞬,兄弟は何が起こったのか分かりませんでした。倒れもしませんし,けがもしていません。それからだんだん分かってきました。銃弾は当たらなかったのです。迫害者たちは即座に,銃の台尻で兄弟を思い切り殴りました。兄弟は意識を失って倒れ,監房に戻されました。
刑務所のほうでは,看守たちはその晩にすべての証人たちを確実に妥協させるための指図を受けました。間もなく鋭い銃声が刑務所の壁に反響しました。彼らは証人たちにこう告げました。「あの銃声が聞こえたか。そうだ,お前たちの仲間が殺されたんだ。明日になれば,通りに死体が転がっているのが見えるだろう。もし妥協しなければ,お前たちも同じように殺されるんだぞ」。
証人たちはこう答えました。「わたしたちの兄弟が飲んだ杯,それをわたしたちも喜んで飲みます」。
その晩,看守たちはウォルク兄弟と他の証人たちを棒で打ちたたき始めました。特に狂暴な一人の看守は,ウォルク兄弟の腕をたいそうきつく縛ったため,兄弟の指の皮膚は裂けて血が流れ出しました。ウォルク兄弟は見るも無惨な指を隠して,他の兄弟たちの勇気を失わせないようにしました。迫害がしばらくの時間おさまると,証人たちは眠りにつく前に祈りました。しかし午前1時に,怒りに燃えた迫害者たちが乱入してきて,4時まで証人たちをたたき続けました。その後,証人たちはもう一度祈りをささげ,力を与えてくださったことをエホバに感謝し,自分たちを支え続けてくださるよう願いました。
朝になると別の乱暴者たちが刑務所にやって来ました。彼らは証人たちを蹴り始めました。午後になると,ウォルク兄弟は再び選び出され,合計20人から殴られ,踏みつけられました。それでも兄弟は信仰を捨てませんでした。もう一度,ウォルク兄弟を死刑にすることになりました。午後10時にさらに20人の看守がやって来て,午前2時まで兄弟を殴りました。拷問に加わった者の一人は怒り狂って,別の証人一人を後ろから捕まえて思い切り噛みついたので,その証人には一生治らない傷跡が残ってしまいました。4日間,証人たちは食べ物や飲み物を与えられないまま暗い部屋に閉じ込められ,繰り返し殴打されました。全員,どこかを骨折しました。中には,肋骨や頭蓋骨を骨折した人もいました。肉体的に彼らは非常に弱ってしまいました。
一人の高官がこの刑務所を訪ね,証人たちの置かれた状況を見てかわいそうに思い,食べ物を幾らか与えるように命令しました。しかし,例の狂暴な看守は証人たちが食べ物や飲み物を受け取っているのを見て怒り狂いました。彼は,証人たちが脱獄を図ったという話をでっちあげ,証人たちを告発しました。彼の策略はまんまと成功し,再び処刑が計画されました。兄弟たちは,特にひどい偽りの告発のことを考えて,救い出してくださるよう熱烈に祈りました。もっと高位の役人がその処刑をとどめましたが,兄弟たちは一晩じゅう棒で打ちたたかれました。
数日後,別の役人がやって来て,ウォルク兄弟は処刑されるが他の者はみな釈放されると発表しました。驚いたことに,これらの兄弟たちが釈放されただけでなく,ウォルク兄弟も数日後に釈放されました。
ウォルク兄弟はすぐにこの機会をとらえて,個人の家にいる兄弟たちに会って彼らを励ましました。兄弟は自分が尾行され,そのことが報告されていたことに気づきませんでした。それで,ウォルク兄弟は翌日再び逮捕され,死刑の宣告を受けました。
しかし,ウォルク兄弟をだまして妥協させようとする別の試みが行なわれました。ある人々がウォルク兄弟に親しく近づいて,あるスローガンを叫ぶよう優しく勧めました。兄弟はそれを拒否し,真の神を支持する聖書からの独自のスローガンを繰り返すだけでした。するとこれらの“友好的な”人々は卑劣な拷問者に豹変しました。
二,三日後,看守たちはウォルク兄弟と物事をじっくりと相談したいと思いました。話し合いは4時間続けられました。彼らはウォルク兄弟に,政治上の要職につけてやろうと言いました。兄弟が断わると,彼らはこう言いました。「お前なんか撃ち殺して,うじ虫の餌にしてやる」。
結局,偏見のない数人の役人がウォルク兄弟の事件に関心を持ち,釈放を提案しました。兄弟は試練を喜びとみなし,決してあきらめませんでした。(ヘブライ 12:2)試練が始まる前,兄弟は定期的な家族研究と祈りをいつも真剣に行なっていました。このことが忍耐する助けになったことに疑問の余地はありません。ウォルク兄弟によると,ニコデモのように小心なキリスト教世界のある牧師は,迫害の厳しい試練を受けている証人たちと自分の宗教の信者たちを比較してこう語ったそうです。「わたしたちは恐れを抱いて妥協してしまいました。わたしたちは神を裏切りましたが,あなた方は神の側にしっかりと立ち,死さえも恐れませんでした。実にりっぱなことです」。こうして,ウォルク兄弟は合計8回死刑を宣告されましたが,エホバは兄弟が生き続けるよう保護されました。
大きな教訓を学ぶ
そうした火のような試練の間,エチオピアの証人たちは,『彼らは弱かったのに強力な者とされました』という使徒パウロの言葉が,自分たちにまさに当てはまることに気づきました。(ヘブライ 11:34)家政婦の仕事をして,文字を習っていた一人の謙遜な姉妹は,教養のある証人たちと一緒に刑務所に入れられました。証人たちの中には釈放を祈り求める人たちもいましたが,この姉妹はおもに忠実を保つための力を与えてくださるようにと祈りました。ある日,迫害者たちは煮えたぎった油の入った器を持ってきて,受刑者全員の指をその中に漬けると言って脅しました。恐れに屈した証人もいましたが,この謙遜な姉妹は確固としていました。そして,その指が傷つけられることは決してありませんでした。後に,姉妹は釈放されました。
これは社会的地位や教養を非常に重視していた人々にとって大きな教訓となりました。そのような人々は,最も重要なのは忠実さだということにようやく気づきました。
見捨てられているわけではない
たいへん忍耐したこれらの証人たちの間に円熟,平衡,エホバへの信頼,より大きな自己犠牲の精神が身についてゆくのを見るのは本当に報いのあることです。ほかの場所と同様に,彼らは見捨てられているわけではありませんでした。真の崇拝は勝利を得ました。
この期間に,人々は珍しい方法でエホバの側にやって来ました。例えば,ある長老は自分の仕事場で東ヨーロッパから来た一人の婦人に証言しました。その婦人が鋭い関心を示したため,兄弟は大切にしていた聖書文書を一冊貸してあげました。たいへんがっかりしたことに,その婦人は国外に行ってしまい,その本を返してくれませんでした。何年もたって,この婦人から手紙が届き,それを読んだ兄弟は大喜びしました。手紙の中には,あの出版物が人生を変え,今ではバプテスマを受けた霊的な姉妹になっていると書いてあったのです。
別の例は,雇い主である学校の教師の聖書研究を隣の部屋からひそかに聞いていた内気な女中です。この女中は自分はそれに値しないと感じながらも,そのすばらしい真理を自分のものにしたいと思いました。『こういう聖書の勉強にはずいぶんお金がかかるに違いない』と思いました。そこで,彼女はその教師のもとでの仕事をやめ,もっと給料がよくて聖書研究の費用が払えるような仕事を探しました。聖書の勉強に十分だろうと思える額の資金がたまると,以前の雇い主だった教師と聖書を研究していた証人の家へ直行しました。勉強は無料だと聞いて,この女性は本当にびっくりしました。彼女は研究して,よく進歩し,後にその教師と結婚しました。現在二人は献身したエホバの僕です。
エホバの証人の若者たちはこの国で特に圧力を経験しました。中立の立場のために,医療,学校の試験,就職などの生活上基本的に必要なものを与えられないことが少なくありませんでした。このために見捨てられたと感じたでしょうか。そのようなことはありません。この患難は一時的なものであるという十分な信仰をもって,エホバが与えてくださる力によって前進しました。―フィリピ 4:13。
真の解決策
エチオピアを悩ませている問題は,世界の他の地域を悩ませている問題と似ています。証人たちは,自分たちが救済策を知っていると信じており,これまで加えられてきた多くの圧力が1990年以来緩和され,解決策を他の人々にも知らせることができるようになったことを喜んでいます。
例えば,エリトリア州の州都アスマラでは,エホバの証人たちを差別するのをやめるようにという通達が当局から出されました。別の例では,50人のエチオピアの兄弟たちに正式な旅行の許可が下り,兄弟たちはケニアのナイロビで開かれた地域大会に出席することができました。さらに二つの例があります。良いたよりを宣べ伝えるために,特別開拓者を再びいろいろな地域に送り出すことができるようになりました。さらに,家から家の伝道を再開した会衆もあり,その結果,大きな増加が見込まれています。とはいえ,エチオピアにはまだ多くの問題が残されています。
戦略上重要な港湾都市マッサワの陥落にともない,1990年に内戦は激化しました。市内全域が廃墟と化しました。感謝すべきことに,そこに住んでいた証人の中で負傷した人はだれもいませんでした。飢きんがアスマラや田舎の大部分を襲いました。統治体は打撃を受けたその地域への救援物資を増やしました。ティグレ州の州都メケレに住んでいる証人たちに必要な励ましを与えに行くため,二人の特別開拓者が命の危険を冒して,戦闘地帯をこっそりと通り抜けました。1991年5月に,ゲリラ戦線は革命政府を権力の座から追い払い,より一層の自由を約束する憲章に署名しました。そのようにしてエリトリアは独自の政治を行ない,外部の世界からほとんど隔絶されました。こうした混乱の中,証人たちは厳正中立の立場を保ってきました。なぜなら,人類の諸問題に対する恒久的な解決策は神の王国によってのみもたらされることを知っているからです。奉仕年度の終わりまでに,エチオピアのいくつかの町で特別一日大会を自由に開くことができました。巡回大会,地域大会,大量の文書の輸入,法的登録の準備が進められました。他の多くの場所と同様に,エチオピアでも「世のありさまは[急速に]変わりつつあ(り)」,兄弟たちは最終的に大勢の人々が集められるというすばらしい見通しを持っています。―コリント第一 7:31。
しかし,1970年代の半ば以降,東アフリカ本土ではどんなことが起きていたのでしょうか。一緒に見てみましょう。
タンザニアで忍耐が試みられる
1976年の恩赦により,タンザニアで投獄されていたある証人たちは釈放されました。残念なことに,政府役人の中には兄弟たちを危険分子とみなす人がまだいました。なぜでしょうか。彼らは,スンバワンガのキタワラというグループの革命的な信奉者とエホバの証人とを混同していたのです。兄弟たちは厳重な監視のもとに置かれ,多くの特別開拓者たちは,ちょうど使徒パウロがローマにいた時のように,「悪行者として獄につながれ」ていました。―テモテ第二 2:9。
さらに障害がありました。1977年2月にケニアとタンザニアの国境は閉鎖され,その後6年以上も閉鎖されたままでした。しばらくの間郵便も不通になり,多くの郵便物が紛失しました。一部の地域では干ばつが問題を引き起こし,コレラの大発生で巡回監督が旅行できなくなりました。1979年のウガンダ戦争にタンザニアが参戦したことにより,ほかにも圧力が生じました。経済事情が悪化し,物質に対する心配が高まりました。こうした悩みの種は長老たちにとって大きな圧力となり,必要とされているほどの牧羊の業を行なうことができない会衆もありました。
しかし,よい面もありました。1979年に国の南東部でついに自由に伝道できるようになり,それ以来,北はキリマンジャロから南はモザンビークとの国境まで,あらゆる場所で証人たちは活発に働いています。
治安判事たちは証人たちに有利な判決を下すようになりました。トゥクユの一人の看守は証人になりました。その男性の関心をかきたてたのは証人たちの立派な振る舞いでした。1975年の1,609人という伝道者の最高数は,ついに1981年7月に塗り替えられ,その月には1,621人が報告しました。
忍耐は報われる
1979年と1981年に,業に対する法的認可を得ようと試みるため,兄弟たちは当局に近づきましたが,こうした働きかけは失敗に終わりました。1983年5月5日付で統治体から手紙が送られ,法的な努力は続けられました。さらにその後,1984年8月にフォースタン・ルゴラ兄弟とエリカナ・グリーン兄弟が申し入れましたが,丁重に断わられました。
証人たちはあきらめずに訴え続けました。1985年の内務大臣との公式会見の際にも,認可は下りませんでした。認可の見込みはないように思えましたが,どうやら諸会衆が調査されているようでした。多分,エホバの証人のことをもっとよく知りたいと考えた偏見のない役人たちがいたのでしょう。
1986年,兄弟たちは認可を得る努力を続けました。兄弟たちは公平で丁寧な扱いを受けました。とうとうその忍耐は報われました。多くの徹底的な調査の末,長く続いた誤解は解け,1987年2月20日に,証人の代表者たちは,タンザニアのエホバの証人協会の法的認可を与える手紙を政府から受け取ったのです。22年間にわたる禁令が終わり,それはまさに歓びの時となりました。
宣教者の楽園
歓喜の声がタンザニア全土に響き渡り,巡回大会が組織されました。これらの大会のバプテスマ希望者の中には,正規開拓者と同じぐらい伝道し,九つ以上の聖書研究を司会していた人もいました。事実,一人の新しい兄弟は自分の聖書研究生と一緒にバプテスマを受けました。
1987年に,宣教者たちのタンザニアへの入国が申請され,承認されました。そのころまでに150万以上の人口を抱えていた都市,ダルエスサラームにギレアデ卒業生たちが到着したのはまさにその年でした。合計しても伝道者が200人に満たない,たった二つの会衆にとって,それは本当に大きな区域でした。
伝道区域は宣教者たちの楽園でした。家の人たちは中に招き入れてくれ,喜んで出版物を受け取りました。宣教者の家は,国内の伝道者の半数以上が集中しているムベヤに開設されました。数か月後,アルーシャとドドマにもさらに宣教者が送られました。
より多くの心の正直なタンザニア人が真の神を崇拝するよう助けるための基礎を据えるには,多くの組織的な訓練が必要でした。発展の可能性はすばらしいもので,熱意も見られました。次の数字を比較すればそのことは明らかです。1982年に160人だった開拓者は,1991年には866人になりました。証人たちが伝道活動に費やした時間は,1982年には37万4,831時間でしたが,1991年には130万85時間になりました。1982年の記念式の出席者は5,499人でしたが,1991年は1万441人でした。1982年に41人がバプテスマを受けましたが,1991年は458人でした。
1988年に再び,証人たちに対する法的な問題が表面化し,そのため数人の宣教者の入国申請はいまだに保留にされています。しかし,エホバの証人の長老が婚姻挙式官として働くための申請は,政府によって初めて承認されました。
一連の洪水や干ばつのために,はるか南部やビクトリア湖近辺での救援活動が必要になりました。こうした努力は1991年になっても続けられています。いろいろな困難があり状況が変わりやすいにもかかわらず,エホバの民は緊急感をもって羊のような人々を集める業を行なっています。
ケニアはきれいに清められる
1975年以降,諸会衆はきれいに清められました。この邪悪な事物の体制が終わる年として,1975年という年だけに心を留めて真理のうちにとどまっていた人たちは,その年が過ぎると真理から離れて行きました。ある調査によると,この期間に新しい人が77人増加したかわりに,ほかの49人が不活発になりました。集会の出席や個人研究の手を抜いた人たちは,不道徳,酔酒,物質に対する貪欲といったサタンのわなに掛かってしまいました。悲しいことに,全伝道者の3%を超える人たちが排斥されなければならなかった年も何年かありました。
もちろん,多くの会衆は小さくて,よく指導されていませんでした。事実,1978年にケニアには90の会衆がありましたが,そのうち49の会衆の伝道者は10人に満たず,40人以上の伝道者がいた会衆はわずか12でした。そのため神権的な仕事はたいてい一人か二人の兄弟の肩にかかりました。自然災害も長老たちの荷を増やしました。ナイロビの東の地域は,救援活動を計画しなければならないほどの干ばつを経験しました。
しかし,悪いことばかりだったわけではありません。前向きな良い事柄もたくさんありました。1977年の記念式の出席者は5,584人でした。書籍は大いに必要とされていました。統治体の成員ロイド・バリーの訪問は,すべての人の王国に対する熱意を燃え立たせました。さらに1976年以来,支部委員会が取り決められ,業には刺激が与えられました。
ベテルの拡大
1979年の2月に伝道者は2,005人の新最高数に達しました。伝道者数の増加により,ベテル家族の人数は支部の建物の収容能力を超え,支部委員会は統治体にベテルの部屋を4部屋増やす許可を申請しました。大きな封筒に入った返事が届き,その中に16の寝室を備えた全く新しい建物を増設するための設計図が入っていたので委員会は驚いてしまいました。
新しい支部の建物のための掘削工事は,1978年12月に始まりました。1979年6月にはすでに,その新しい魅力的な建物の一部を使用し始めました。1980年1月,世界本部のドン・アダムズが献堂式のプログラムのために来て,ナイロビ市立競技場で2,205人の聴衆に話をしました。その後,霧雨の降る中,約1,000人が新しいベテルの構内を見学しました。支部の働きを初めて見るという人が大勢いました。その年の終わりには小さな大会が幾つか開かれ,ナクルで開かれた英語の大会には戦争で荒れ果てたウガンダから来た兄弟たちが出席しました。
翌年,大きな前進が新たに見られました。最新式の印刷機がケニア支部に届いたのです。それ以来,用紙類やプログラム,レターヘッド,「王国宣教」,さらに雑誌も現地で印刷できるようになりました。もうこれらの必要なものが海外から来るのを長い間待つ必要はないのです。1980年には12万部の印刷が行なわれましたが,2年後の生産合計は93万5,000部に膨れ上がり,1990年には200万部を超えました。
1983年にナイロビの伝道者は1,000人の大台を超え,ケニア全体では3,005人に達しました。4月には全伝道者の28%が全時間奉仕を行ないました。また,さらに大勢の宣教者が援助にやって来ました。
出版物はみ言葉が速やかに進展する助けとなる
ケニアでは協会の出版物は広く配布されています。宗教の時間に「わたしの聖書物語の本」を使っている学校もあります。雑誌の体裁が一層魅力的になり,1984年から1985年の2年間で,雑誌の配布数は50%以上増加し,伝道者の1か月の雑誌配布が平均10冊以上になる時もありました。一般の人々に即座に影響を与えた雑誌もありました。街路伝道をしていた伝道者に近づいた一人の男性はその一例です。その男性は,「喫煙はいつまでもなくならないか」という題の特集記事を載せた雑誌を指差して,「わたしは喫煙をやめました」と断言しました。なぜやめる気になったのでしょうか。その記事を数日前に読んだからです。
1982年を特徴づけたのは,「地上での生活を永遠に楽しんでください」というブロシュアーが到着したことでした。これは特にアフリカの野外に適した出版物であることが分かりました。教養の高い人たちでさえそのブロシュアーを欲しがり,中には伝道者の鞄からまるで盗むようにして持って行く人もいました。野外奉仕用の鞄にこの貴重なブロシュアーが1冊しか残っていなかった一人の伝道者にちょうどこのことが生じました。この伝道者は自分の新しい聖書研究生のためにこのブロシュアーを取っておいたのです。一人の旅行者がブロシュアーを見つけ,それを欲しがりました。ほかの出版物ではだめだというのです。このブロシュアーは定期的に聖書を研究することに同意する人のためだけに残してあると,証人は説明しました。「大丈夫。わたしはそれでいいですよ」と,旅行者は断固として答えました。その結果ですか。この伝道者はもう一件新しい聖書研究を取り決めました。
このブロシュアーはエホバとそのお目的,王国政府,聖書の義にかなった規準について間違えようのない証言を行なっています。この優れた道具はその後ますます使われる可能性があったため,東アフリカ地域で使用されているさらに35の言語に,つまりケニアで話されている14の言語と近隣諸国で話されている21の言語に翻訳されました。こうした言語の中には,入手可能な出版物は聖書を除けばこのブロシュアーしかないという言語も幾つかあります。事実,キリスト教世界の一宣教師は,マサイ語のブロシュアーについて,「これはマサイ族への最良の贈り物です」と言いました。
開拓者精神
ケニアの野外を変革する別の要素がありました。それは証人たちの間で高まる開拓者精神です。開拓者たちが変人だとか,人生の落伍者だと考えられていた時代は過去のものとなりました。エホバが喜ばしい経験や王国の実を与えて,開拓者たちを豊かに祝福しておられることが明らかになりました。開拓奉仕を行なった人の中には目の見えない人,片足を切断された人もいました。子供を8人以上抱える親が開拓者の隊伍に連なるというのも珍しいことではありませんでした。
1985年4月に,全伝道者の約37%が全時間奉仕を行ないました。これら大勢の開拓者の貢献により,その年の奉仕には100万時間以上が費やされました。
熱心なルワンダ人たちは遅れた時間を取り戻す
ルワンダでも事態は進展していました。聖書の真理は比較的遅くこの地に伝わりましたが,多くの人は命を与える音信に飢えていました。1980年2月に,キニャルワンダ語の「とこしえの命に導く真理」という本が登場し,その当時最高165人だった伝道者は励みを得ました。キガリには,簡素で大きい王国会館が1980年に建てられましたが,間もなく集会に200人以上出席するようになり,聴衆は中庭にまであふれました。
ルワンダ人が真理に関心を示すのを,良いたよりの敵は喜びませんでした。1979年10月の,国内で認可された宗教のリストにエホバの証人の名前は載せられていませんでした。証人たちを正式に登録する努力が払われました。1980年3月に,ザイールで奉仕していたベルギー出身のアーネスト・ホイスは,当局者たちに会うためキガリにやって来ました。多くの証拠資料を提出しましたが,法的認可は得られませんでした。
しかし,王国を証しする業は前進し続けました。1982年の地域大会には750人が出席し,22人がバプテスマを受けました。さらに3月に,302人が野外宣教に費やした時間を報告しました。四つの巡回大会が開かれ,合計出席者は1,200人を超え,40人がバプテスマを受けました。王国宣教学校が開かれ,小さな会衆で責任を担う人たちに必要な訓練が与えられました。熱意は冷めることなく,伝道者は毎月平均20時間以上奉仕しました。二人の特別開拓者の姉妹たちが新しい区域に入ったところ,3か月後には20件の聖書研究が行なわれ,その全員が集会に出席していました。ルワンダはその音信でにぎわっていました。
ますます大勢の人が聖書の真理について質問をしてくるようになりました。こうした人々の多くは,「目ざめよ!」誌の記事がラジオで定期的に読まれたことがきっかけで関心を持つようになりました。放送局は様々な宗教で教えられている偽りの教えを暴露する聖書の真理でわきかえっていました。ルワンダで大きな影響力を持っている宗教新聞が,すぐにエホバの証人を攻撃したのは少しも不思議ではありませんでした。よくあることですが,こうしたことによってさらに多くの人々が真理に引き寄せられました。しかし,ほぼ同じ時期に,証人たちは呼び止められ,尋問を受けるようになり,違法な団体を運営しているとして罰金を科されました。
布告による難儀
以前に法的登録の申請用紙に署名した3人の特別開拓者が,1982年11月にキガリに呼び出され,到着と同時に逮捕され,裁判も法的援助もなく投獄されてしまいました。王国会館は閉鎖され,伝道活動はひそかに行なわなければならなくなりました。
すべての県(行政区)に宛てた司法長官の手紙により,証人たちは禁令のもとに置かれました。その後多くの逮捕が続きました。外国から来た開拓者のほとんどは国から出なければなりませんでした。地元の兄弟たちにとって,それは試みと精錬の時期でした。ちょうどその時,キニャルワンダ語の「ものみの塔」誌が印刷され始め,より多くの霊的食物が供給されました。
ガスパー・ルワカブブとヨゼフ・コロティとフェルディナンド・イムガルラの3人の特別開拓者には,大きなキガリ刑務所でなすべき業がたくさんありました。3人は他の受刑者たちと定期的に聖書研究を行ない,そのような方法で多くの人が真理を学びました。裁判もなく数か月が過ぎて行きました。結局,1983年の10月に裁判が行なわれました。これら3人の兄弟たちは,人々のお金を横領したとか,政府に対する反逆,さらに他の事実無根の罪で告発されました。法廷での審議全体を通じて証拠となる数字や財政に関する資料は一切提出されず,告発を裏づける証人もいませんでした。
兄弟たちは懲役2年の刑を宣告され,1日も猶予が与えられませんでした。(その間に殺人犯たちは恩赦を受けました。)ギセニでは別の5人の証人たちが,法廷での判決を受けたわけでもないのに2年近く投獄に耐えました。
1985年にしばらく事態が鎮静化したため,ルワンダのある兄弟たちはナイロビの地域大会に出席し,統治体の兄弟たちと会うことができました。しかし,1986年3月までには,すでに国じゅうで逮捕は当たり前のことになっていました。多くの人は自宅で逮捕されました。妊婦や小さな子供も容赦されませんでした。ある地域では,証人たちは指名手配のリストに載せられ,追跡されて捕らえられました。最終的に,140人以上の証人たちが投獄され,その数は国内の活発な証人たち全体の約3分の1に当たりました。
人間の力に頼るか全能者を信頼するか
1986年10月24日,エホバの証人の事件はついに法廷に持ち込まれました。この時までに,6か月以上刑務所に入っていた人もいました。事実,刑務所内で一人の赤ちゃんが生まれ,シカマ・ホダリ(確固とした立場を守るの意)というぴったりの名前をつけてもらいました。言い渡された判決はぞっとするほど残酷で,5年から12年の刑でした。まだ伝道者ではなかった一人の関心を持つ婦人は,10年の禁固刑を宣告されました。
これらの事件は国際的に知られるようになり,ヨーロッパやアフリカの国家元首の会話にも上りました。ルワンダ国外の多くの人々は担当の役人たちに抗議の手紙を送りました。ラジオ放送によれば,エホバの証人を支持する手紙が政府に500通届いた日もあったとのことです。
こうしたことすべては刑務所内で証言を行なう優れた機会を開きました。エホバの証人は一緒に祈り,一緒に神の言葉を研究して,団結の際立った模範を示しました。多くの受刑者が好奇心を抱いて聖書を研究し始め,今では以前の犯罪者や娼婦たちがよく進歩して,とこしえの命に至る道を歩いています。
証人たちは長い刑を言い渡されても喜びの精神を保ちました。よくこう言ったものです。「わたしたちのは12年だけど,サタンは1,000年だからね」。このようにも言ったものです。「ここには外の兄弟たちよりも自由がある。集会の時わたしたちは歌を歌えるが,外にいる人たちは歌えない」。
喜ばしい驚き
1987年7月1日のルワンダの独立25周年記念日のラジオ演説で,ルワンダの大統領は人権を侵害したことについて謝罪し,1986年10月24日に刑を宣告された人々を全員釈放すると発表しました。本当に勇敢で称賛に値する決定です。数日後,刑の宣告を受けていた49人の兄弟姉妹たち全員は釈放されました。
しかし,刑の宣告を受けていない人たちはどうなるのだろうという疑問が残りました。数週間が過ぎましたが,結局全員が法廷に呼び出され,家に帰って畑を作ったり他の有用な仕事をしたりしたほうが,もっと国のためになると告げられました。
当然このことは大いに喜ぶべき理由となりました。投獄中に急速な進歩を遂げたバプテスマを受けていない伝道者や聖書研究生30人は,釈放された後バプテスマを受けました。この刑務所“学校”を出た後,みな急速に円熟しました。ほとんどの人はバプテスマを受けるとすぐに補助開拓奉仕を始めました。また,釈放された証人たちは全員再び世俗の仕事を見つけました。―詩編 37:25,28をご覧ください。
喜びのうちに試練に耐えた人の中にパスカシーがいます。エホバの証人に対する禁令に驚いた夫は,彼女を警察署に連れていって逮捕させました。この女性はまだバプテスマを受けていませんでしたが,姉妹たちと一緒に投獄され,10年の刑を言い渡されました。子供たちを家に残してきたことが心配でしたが,真の崇拝のために苦しみを忍ぶ必要があることに気づきました。パスカシーも刑務所で霊的に進歩し,釈放と同時にバプテスマを受けました。しかし,さらに喜ばしいことに,家に帰ると,夫はエホバの証人と聖書を研究する気になっていたのです。夫は霊的な兄弟となり,家族が真の崇拝のうちに結び合わされ,この姉妹の確固とした態度は本当に報われました。
1990年の初めごろ,この国の別の地域で,1985年から棚上げとなっていた訴訟事件が蒸し返され,4人の兄弟たちがそれぞれ10年の禁固刑を宣告されました。幸いにも,この事件はほかの地域には影響を及ぼさなかったので,巡回大会と開拓奉仕学校を開くことができました。また,地帯監督が初めて訪問しました。さらにキニャルワンダ語の霊的食物が増加したため,霊性が向上しました。そのうえ,6か月の監禁の後,4人の兄弟たちは大統領令によって釈放されました。
1990年の終わりごろ,突然の侵略によりルワンダに内戦が生じました。ヨハネ 17章14節にある,『彼らは世のものではない』という聖書の原則に調和した兄弟たちの中立の立場によって,以前の反対者たちはエホバの民がだれの敵でもないことを悟るようになりました。1991年の初めには,飢きんにより心配の種が増え,ルワンダの特に南部に対する食糧援助の計画が必要になりました。最近では,巡回大会が自由に開かれています。兄弟たちは,いつの日かルワンダにおいて全面的な宗教の自由と法的な認可が得られるようになるという希望を抱いています。しかし,その間にも,兄弟たちは増え続けるルワンダ住民の間で,真理を求める人々を大勢援助し続けています。
困難の中でのウガンダの神権的復興
1979年の“解放戦争”によって変化がもたらされました。略奪,暴行,苦難は救済措置が必要なほどひどくなり,郵便と電話通信は途絶えました。しかし,新しい政府が権力を握り,1979年11月19日付のウガンダのタイムズ紙は,「宣教者は自由に戻ることができる」という見出しのもとに,エホバの証人に対する禁令の解除と崇拝の自由について発表しました。
間もなく新しい一連の巡回大会がウガンダ国内で組織され,241人が出席しました。しかし,経済は崩壊しており,人命も安っぽいものとみなされていました。多くの人は武器を携帯し,以前の兵士たちは犯罪を行なうようになりました。毎晩のように銃声が鳴り響き,道路を通るのも危険でした。
ナイロビの支部事務所は,兄弟たちを築き上げ,励ますことに鋭い関心を示し,ウガンダに出版物を届ける勇敢な自発奉仕者を探しました。人々が武装していたことや,兵士たちがしばしば裏表のある生活をしていて,夜には追いはぎをしていたのを思い起こしてください。自発奉仕者たちは,ジンジャからカンパラの間の,襲撃があることでよく知られた森の中の道を通り抜けなければなりませんでした。人々はたいてい,人気のあるところに出るまで,車を猛然と走らせなければなりませんでした。
ムバレにいるある兄弟のところで夜を過ごした一人の宣教者は,中庭に止めていた自分の車を人々がいじり回している音を聞きました。泥棒たちは恐らく武装していると思われたので,兄弟は彼らに好きなだけ取っていかせることにしました。翌朝車を見ると,タイヤが2本なくなっており,スペアタイヤとフロントガラスも盗まれていました。ほとんどつるつるになったタイヤを2本借りてきて,雨よけのフロントガラスなしで,兄弟はカンパラまでの約240㌔の旅に敢然と立ち向かいました。途中で例の危険な森の中の道を通る予定でした。しかし,パンクもせず,すべては順調に進みました。ただ風や雨が兄弟の顔にたくさん吹きつけただけでした。
1980年12月には伝道者が新最高数の175人に達しました。翌年の初めには,カンパラのルゴゴ・スタジアムで地域大会が開かれ,360人が出席しました。長引く暴力行為の中で,人々は真理を学び,7月には206人が国内で伝道し,1か月で一人平均12.5冊の雑誌を配布しました。
ウガンダには八つの会衆につき一人の長老しかいなかったため,大いに援助が必要でした。それで,宣教者の申請をもう一度行なうことにしました。1982年9月までに,アリ・パルビアイネンとジェフリー・ウェルチという二人の独身の宣教者が,混乱の続く中でカンパラに到着しました。午後6時30分以降の夜間外出禁止令はまだ出されたままで,発砲事件だけでなく銃撃戦さえも晩の日課のようになりました。失踪して,殺されたのではないかと心配された伝道者もいましたが,ある人々は再び戻って来ました。しかし,帰って来なかった人もいました。1979年の戦争に続いた動乱の中で,合計8人のウガンダ人の伝道者が命を失いました。
1983年2月に宣教者たちの入国許可が承認され,その年の4月までには,かなり安全な場所に置かれた宣教者の家が機能を始め,ハインツ・ベルトルツとマリアンヌ・ベルトルツを含む4人の勇ましい宣教者がそこに住みました。ウガンダの人々は礼儀正しく,聖書に敬意を持っていたので,経済的な困難,悪路,治安の悪さ,夜ごとの騒動などをこれらの宣教者たちが気に留めないようにする助けになりました。一人で10件から15件の聖書研究を持つのは珍しいことではありませんでした。ある月など,4人の宣教者は合計4,084冊の雑誌を配布しました。
「あの人です」
ウガンダの奥地のある村で,「真理」の本が一人の中年の男性の手に渡りました。その男性は自分が持っている本の価値をすぐに認め,何度も何度も読み返し,会う人すべてに証言を始めました。実際,その男性は一度もエホバの証人に会ったことがなく,その地域には証人がいないことを知っていましたが,自分はエホバの証人であると宣言しました。
その人は,自分の“兄弟たち”を見つけなければならないことに気づきました。それである日,エホバの証人を探しに自転車でカンパラまで出かけて行きました。十字架のついた教会を見ても,そこにエホバの証人がいるはずはないと思いました。いろいろな人に尋ねてみましたが,人々はエホバの証人を知っていても,正確な住所が分かりませんでした。がっかりして一軒の本屋に入り,証人たちについて尋ねました。レジ係は,時々証人たちが雑誌を持って立ち寄るけれど,どこに住んでいるかは知らないと言いました。関心のあるこの男性は,「その人たちがもう一度ここに来たら,わたしの住所を伝えてください。是非うちに来て欲しいのです」と言いました。
そのころ,二人の宣教者が以前に関心を示した人のところを再び訪問していました。ところが,どの家も不在でした。もう一度手帳にざっと目を通すと,そのレジ係の名前がふと目に留まりました。それで,「では,この人をもう一度訪問しよう」ということになりました。
宣教者たちが本屋に入ると,レジ係は,「たった今,あなたたちを探している人が来ていましたよ」と言いました。そしてドアの外を眺め,通りの向こうを指差してこう言いました。「あの人です」。
すぐにこれらのヨーロッパ人の宣教者は関心を持つその村人に会いました。村人は二人を抱きかかえました。もちろん,この人は熱心な聖書研究生となりました。間もなくこの人の村には小さな王国会館が建てられ,献身とバプテスマの後,この男性は完全な意味で兄弟になりました。
またもや戦争が起こる!
ほとんどの人にとって,ウガンダでの生活は厳しいものでした。治安が悪く,人々は軍隊に呼び出され,二度と戻ってきませんでした。物価はうなぎのぼりに上がりました。例えば,パンの値段は1974年から1984年の間に約10倍になりました。物を買うときに,お金を数えるのをあきらめて札束の高さを定規で測る人もいました。
不満が募り,国内にゲリラ闘争が始まりました。結局,数か月の戦闘の後,国民抵抗運動が政府から支配権を奪い取りました。その間,逃走する軍隊は人々の財産を略奪し,銃で無差別に住民を殺害しました。
宣教者の家のすぐ周辺でも戦闘がありました。翌日,宣教者たちがクリスチャンの集会に向かっている途中で銃撃戦が始まりました。弾丸が鋭い音をたてて頭上を通り過ぎて行きましたが,負傷した人はいませんでした。それから,日曜日の午後,招かれざる訪問者がやって来ました。逃走しながら略奪を働く兵士たちです。兵士たちは正面のドアに鍵がかかっていたことで,腹を立てていました。しかし,リーダーは宣教者たちの身分証明書を見ると突然態度が変わり,友好的になって持ち物には手をつけませんでした。申し訳なさそうな態度で部下たちは数着の服と,寝具を取りましたが,それ以上高価なものは何も取りませんでした。
出て行く際に彼らが宣教者たちに勧めたのは,家中を散らかし,カーテンを引きずり下ろし,タンスを空っぽにし,床に物をまき散らしておくことでした。こうしておけば,この家はすでに略奪されたという印象を与えます。これはうまくゆきました。盗まれた物はほとんどありませんでした。静けさが戻るまでの,激しい戦闘に取り囲まれていた間,宣教者たちは昼も夜も小さな食糧貯蔵室の中に隠れていました。そこが家の中で一番安全な部屋でした。この出来事の間,彼らはエホバの保護と,兄弟愛の絆を感じました。
ウガンダの兄弟たちの上にエホバの保護の手があったことを伝える話が幾つかあります。ある人々は自分の家や服に開いた弾丸の穴を見せることができます。一人の特別開拓者は,政府軍兵士と反乱軍の間の銃弾が音をたてて頭上を飛び交う中で5時間以上うつ伏せに横たわっていなければなりませんでした。戦闘が収まった時,兄弟は自分が死体に取り囲まれていることに気づきました。
治安の改善と新たな喜び
続く数か月の間に治安は改善され,驚くべきことが数々起こりました。例えば,家に帰る途中,宣教者たちは政府高官の大きな屋敷の前を通らなければならず,何をしだすか分からない兵士たちがいつもそこを警備していたため,人々は彼らにいやがらせをされるのを恐れていました。宣教者たち自身でさえ,この地点を通り過ぎる度にほっとして吐息を漏らしたものです。それで,宣教者の家を訪れる人は少なくなりました。しかし新しい政府になると,この屋敷は突然賃貸しされることになり,時を同じくして宣教者たちはそれまでの家を移らなければならなくなりました。間もなく宣教者たちは,自分たちが通り過ぎるのを恐れていたまさにその屋敷に住んでいました。この屋敷では熱帯の宵のそよ風が吹く中,屋外に出て大きなテラスで食事ができました。まさかこのようなことになろうとは,1年前にはだれも信じなかったでしょう。
カンパラでの業は繁栄しました。市内の数多くの地区は優に10年以上伝道されていなかったため,なすべき業がたくさんありました。ウガンダの兄弟たちは活動を拡大し,1987年には伝道者は一人当たり毎月平均14.3時間を奉仕に費やしました。
これらの証人たちは密接な愛の絆で結ばれました。生活手段が非常に限られていたのに,本当に喜んで犠牲を払いました。(ヨハネ 13:34,35)多くの人にとって,地域大会に出席するための旅費は数か月分の収入と同じでした。彼らはいつも互いをもてなし,宣教者たちが問題を抱えると助けてあげました。様々な方法でエホバが彼らを支えておられたことに疑問の余地はなく,大会を幾つか開くことができたというだけでも ― 時には拡声装置や座席さえないこともありましたが ― それはしばしば“奇跡”と言えました。
カンパラとジンジャに宣教者の家が開設された後,3番目の宣教者の家が,カンパラの町の反対側にできました。現在ウガンダには18の会衆があり,伝道者の最高数は820人,記念式の出席者最高数は3,204人で,正規また特別開拓者が140人以上います。王国会館がジンジャ,トロロ,ムバレ,カンパラに建てられました。しかし,いまだに容易に証言の業を行なえる状況ではなく,将来も不確かです。
1989年以来,新たな反対が起こり,僧職者たちからの批評を皮切りに,批判的な新聞記事が掲載されたり,承認された建築許可が一方的に口頭で取り消されたり,ある場所での巡回大会の許可が断わられたり,間違った情報を伝えられた役人たちによる他の妨害などが起きました。やがてすべての団体は新たに登録し直すよう求められ,国際聖書研究者協会は登録を拒否されました。ほとんどの宣教者たちは国外に出なければなりませんでした。こうしたことにもかかわらず,1990年12月には地域大会が無事に開かれました。高官の中には,大いに助けになってくれる偏見のない人もいることが分かり,宣教者たち全員が間もなくウガンダに戻って教育活動を続けられる見込みが出てきました。この畑は大きな可能性を秘めており,兄弟たちはより多くの働き人を遣わしてくださるよう,収穫の主人にお願いしています。―マタイ 9:37,38。
ケニアはより大きな拡大に向けて加速する
エホバの組織が全世界で前進するにつれ,また東アフリカが全体的に着実な増加を見せるにつれ,ケニアで先端技術を使う時が来ました。1984年にドイツ支部から2台のIBMのパソコンが初めて支部事務所に届いた時,大きな興奮が湧き上がりました。
最初は皆,これらの新しい機械に戸惑っていましたが,エホバの助けと簡単な取り扱い説明書によって,間もなくコンピューターは作動し始めました。コンピューターの導入により,文章を入力してディスケットにコピーし,印刷してくれる海外の支部にそれを送ることができるようになりました。これにより,新たに多くのことが可能になりました。もはやスワヒリ語の「ものみの塔」誌を印刷するまでに,イギリスとケニアの間で,2回3回と校正刷りをやり取りする必要はなくなったのです。現在,スワヒリ語の「ものみの塔」誌は英語の「ものみの塔」誌と同時に印刷されており,ケニアのすべての会衆は同じ週に聖書からの同じ資料を学ぶことができています。
伝道者が着実に増加すると同時に,しっかりした霊性に向けての進歩も見られました。証人たちは奉仕に費やす時間を増やし,王国の関心時に焦点を合わせ,目を純一に保ちました。より多くの人々が,家族の聖書研究を行なうことにより,大勢いる子供たちを援助するためにこれまで以上に大きな努力を払いました。新しい長老たちが任命され,また奉仕の僕の資格をとらえた若い兄弟たちはますます多くなりました。多くの人はクリスチャンの中立の試みの中で忠誠を示してきました。自分たちの王国会館を持つために喜んで物質的な犠牲を払う人は増えています。
1985年の「忠誠を保つ人々」大会
1985年の終わりに,ケニアでも他の数か国と同様,海外からの訪問者を迎えての特別な国際大会が開かれました。約2,000人が海外からやって来ました。訪問した代表団はケニアの風景や野生生物も楽しみましたが,訪問中最も心に残ったのは大会と,地元の兄弟たちと一緒に行なった野外宣教だったと異口同音に言いました。
これらのワズング(白人あるいはヨーロッパ人)全員が地元のガイドと一緒に現われるのをナイロビの人々が見たとき,たいへんな騒ぎになりました。逆に訪問者たちは,ケニアの人々が聖書に対して示した関心のほどや,小さな子供たちが群れをなして自分たちの回りについて来るのに感銘を受けました。
大会でも,訪問者たちは話に注意を集中している何千人もの小さな子供たちの姿を見て喜びに満たされました。8,000人を上回る人々がナイロビのジャムフリ公園を埋め尽くし,それまでで最大の大会になりました。聴衆にとって特別の喜びとなったのは,統治体の二人の兄弟セオドア・ジャラズとアルバート・シュローダーが出席していたことでした。
続く数年間,支部事務所の成員は増加し,さらに宣教者たちもケニアにやって来ました。宣教者たちは多くの霊的な子供たちを与えられて報われました。例えば,宣教者の助けを得て,エルドレト会衆の伝道者の数は4年間で45人から129人に増えました。開拓者精神が高まるにつれて,王国の関心事は前進し続けました。1987年には,野外で150万時間余りが費やされ,4,000人以上の伝道者が活発に働いて,毎月一人当たり平均16.4時間を費やしました。
記念式の出席者は1万5,683人に上り,466人がバプテスマを受けました。平均すると,毎月1,000人余りが開拓奉仕を行ない,そのうちの500人以上が正規開拓奉仕者でした。新しい王国会館が幾つも建てられ,ナイロビの郊外に新しい大会施設を建てる計画が持ち上がりました。支部は初めて,1,000人の正規開拓者を含む1万人を超える伝道者を監督することになりました。その時,衝撃的な出来事が起こりました。
2度目の禁令
信仰の試みについて扱った一連の巡回大会が終わって間もなく,そして「エホバへの信頼」地域大会の準備が進められていたとき,そうした信頼が本当に試みられることになりました。25年以上にわたって機能してきたにもかかわらず,東アフリカエホバの証人協会の登録が抹消されたという11月9日付の通達が,1987年11月19日にケニアのガゼット紙に掲載されました。その政令によると,解散して資産を成員に分配するために21日の猶予が許可されていました。その日の午後,登録局長官から手紙が届き,その決定は間違いではないことがはっきりしました。理由は何も述べられていませんでした。
翌朝一新聞は,1973年の時のようにこのニュースを大きく取り上げるのではなく,小さな記事として5ページに掲載しました。しかし,外国の報道機関はすぐに電話をかけて来て,この衝撃的なニュースを報道しました。直ちに,政府の役人と連絡をとる努力が払われましたが,これらの人々は公式の訪問で予定がふさがっているか,問題を話し合おうとはしないという状態でした。
弁護士と相談し,多くの祈りがささげられた後,訴えが提出されました。11月27日に,判事は事件を審理できると裁定したため,裁判の結果を待つ間協会は再び合法化されることになりました。こうして,集会と伝道活動はケニア全土で自由に行なわれ,当面ある程度の救済がもたらされました。
大会はどうなったでしょうか。計画を推し進めるには信仰が求められましたが,必要な許可が得られたのは大きな喜びでした。苦労して大会会場の契約を結び,12月に3か所の「エホバへの信頼」地域大会はすべて開催されました。国全体での出席者とバプテスマを受けた人の合計はそれぞれ,1万177人と,228人でした。
その後,情勢は通常に戻ったように思われました。支部事務所とケニアにおける業の将来についていえば,証人たちは事態が今やエホバのみ手に委ねられていることに十分気づいていました。
法廷が審理を繰り返し延期しているため,法的な状況は何年もの間このように宙に浮いたままになっています。このため地方では多くの事件が起きています。わたしたちの組織が今も合法的であることを知らない役人たちが,兄弟たちを逮捕したり,許可をなかなか出さなかったり,大会の開催を認めることさえしなかった地方もあります。その間,キリスト教世界の僧職者たちはかつてなかったほど政治に干渉し,それによって多くの人々は,法律を守り平和を愛する証人たちと僧職者たちとの間の対照を見ることができました。
こうして王国宣明者の数は一層増加しました。1991年の記念式のころには,国内の伝道者は6,000人近くになり,記念式には1万9,644人が出席しました。ナイロビと,赤道直下のナニュキに大会ホールが建設されました。伝道者の増加によって支部の仕事も多くなり,ベテル家族の成員が38人に増えたため,既存の建物の拡張が緊急の課題になりました。
エホバを信頼して将来に立ち向かう
東アフリカにおける重要な進展や興奮を誘う経験はほかにもたくさんありますが,全部述べるとページが足りなくなってしまいます。良いたよりのために自分自身を費やし,まことの神の僕として苦難に遭った忠実な人たちがほかにも数え切れないほどいます。数々の重い責任を担い,使徒パウロのように,何年にもわたってすべての会衆に対する心配を抱いてきた人々は少なくありません。(コリント第二 11:28)経済的,法律的,政治的な問題はまだ続いています。こうした問題すべてに対する永続する解決策は,エホバの王国によってのみもたらされ,それまでの間,人々を集める大きな業を成し遂げなければなりません。
この地域の人口は,過去20年間で2倍に増加しました。1991年8月,この支部のもとにある国々の伝道者最高数は合計1万5,970人になりました。支部はこう述べています。「エホバがご自分の羊たちをご存じであることをわたしたちは知っています。そして足ばやに近づく終わりが来る前に,また創造の驚異に満ちたこの美しい地域が全地球的な真の楽園の一部となる前に,『エホバの言葉が速やかに進展するよう』祈っています」。―テサロニケ第二 3:1。
[脚注]
a アフリカの植民地支配が終わると,ここで述べた多くの国の名前は変更されました。北ローデシアはザンビアに,南ローデシアはジンバブエに,タンガニーカはタンザニアに,ウルンジはブルンジに,ニアサランドはマラウイに,ベルギー領コンゴはザイールになりました。
b ジョージ・ニズベットの経験談は「ものみの塔」誌,1974年8月1日号(英文)に掲載されました。
c この姉妹の経験談は,「ものみの塔」誌,1985年5月1日号に掲載されました。
d 詳しくは「1977 エホバの証人の年鑑」に載せられた南アフリカの歴史をご覧ください。
e バーバラ・ハーディーは長い闘病の末,1988年2月に亡くなりました。
f エチオピアでは,姓ではなく,主に名前のほうを用いるのが普通です。
[206ページの図表]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ケニア 8,000
1950 3
1960 108
1970 947
1980 2,266
1991 6,300
伝道者最高数
2,000
1950
1960 5
1970 132
1980 317
1991 1,256
平均開拓者数
[207ページの図表]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ケニア支部のもとにある九つの国々
17,000
1950 119
1960 865
1970 2,822
1980 5,263
1991 15,970
伝道者最高数
4,000
1950 1
1960 49
1970 296
1980 599
1991 3,127
平均開拓者数
[66ページの囲み記事/地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
紅海
アデン湾
イエメン
スーダン
ナイル川
オムドルマン
ハルツーム
エリトリア
アスマラ
ジブチ
エチオピア
アディスアベバ
ソマリア
モガディシオ
ケニア
ナイロビ
モンバサ
赤道
ビクトリア湖
ウガンダ
カンパラ
ザイール
ルワンダ
ブルンジ
タンザニア
ザンジバル
ダルエスサラーム
ムベヤ
マラウイ
ザンビア
インド洋
セーシェル
マダガスカル
[囲み記事]
ケニア
首都: ナイロビ
公用語: スワヒリ語と英語
主要な宗教: 多様な信条
人口: 2,300万人
支部事務所: ナイロビ
[69ページの図版]
ケニアの羊飼いの若者たち
[71ページの図版]
魅力的な野生生物の住みか,ケニア
[74ページの図版]
東アフリカへの航海の出発に当たって夫グレーとその兄フランクに別れを告げるオルガ・スミスと二人の子供
フランク・スミス,1931年,ナイロビのタウンセンターの近くにて
1931年,ケニアで証言をしているグレー・スミス
[76ページの図版]
デービッド・ノーマンとロバート・ニズベット,1931年,ダルエスサラーム行きの船の出発直前に南アフリカのダーバンにて
[79ページの図版]
1935年,リンポポ川を渡って東アフリカへ向かう道路沿いで一休みしているジョージ・ニズベット,グレー・スミスとオルガ・スミス,ロバート・ニズベット
[88ページの図版]
1985年,ナイロビの近くでコーヒーやお茶を飲みながら再会する“古株”たち: 左からミュリエル・ニズベット,マーガレット・スティーブンソン,ビアラ・パリサー,メアリー・ウィッティングトン,ウィリアム・ニズベット
[93ページの図版]
インギリジ・カリオピとメアリー・ギルギス,スーダンのハルツームにて
[96ページの図版]
ギレアデの宣教者:ディーン・ハウプトとヘイウッド・ウォード,アディスアベバにて
[99ページの図版]
1953年,アディスアベバの小さなエチオピア支部事務所
[105ページの図版]
ホジア・ニャブラと妻のレヤはタンザニアで良いたよりを広めた初期の人たちの中に数えられている
[107ページの図版]
1930年代に南タンザニアで真理を学んだ人々の中の9人。左から右に: アンドリュー・チュング,オベト・ムワイサビラ,ティモシ・カフコとアナ・カフコ,レヤ・ヌシレ,ジョラム・カジュンバ,ジム・ムワイクワバ,ステラ・ムワサクナとセム・ムワサクナ
[108ページの図版]
東アフリカの兄弟たちを辛抱強く教えたトムソン・カンガレ
[123ページの図版]
真理を聞いた,今から35年以上前のウガンダの初期のころを思い出すジョージ・カドゥとマーガレット・ニエンデ
[131ページの図版]
ケニアで最初の宣教者の家 兼 支部事務所は1963年2月1日にナイロビに開設された
[139ページの図版]
1965年,ナイロビにあるケニアで2番目の支部事務所はアパートの2階部分だった。下の写真は3番目の支部事務所の裏からの眺めで,拡張される前の1970年のもの
[141ページの図版]
ザンビア,タンザニア,ケニアで50年以上特別開拓者として活発に働いたラモンド・カンダマと,ウガンダとケニアで40年以上特別な奉仕,ほとんどは旅行する奉仕を行なったエシナラ・マクンバとスタンリー・マクンバ
[142ページの図版]
ナイロビのベテルにいるジョン・ジェーソンとケイ・ジェーソンは,それぞれ50年以上全時間奉仕を行なってきた
[157ページの図版]
バプテスマを受けた後の幸福なルワンダの人々
[158ページの図版]
ウガンダの堅実な王国宣明者アンナ・ナブリャ
[169ページの図版]
死に至るまで自分の全精力を使い尽くした監督ゲブレグシャブヘル・ウォルデットナシー
[177ページの図版]
復活の時に会えると思われる人々。全員良いたよりに忠節だったために殺害された。上段左から: アイェレ・ゼレルー,ハイル・イェミル,ウビエ・アイェレ,カバ・アヤナ,ゲブレヨハネス・アダノム,アデラ・テショメ,ウォンディム・デメラ,カサ・ゲブレメディン,エシェトゥ・ミンドゥ
[192ページの図版]
キガリの刑務所から釈放された後,1985年にナイロビの国際大会に出席して喜ぶガスパー・ルワカブブとヨゼフ・コロティとフェルディナンド・イムガルラ
[199ページの図版]
ウガンダのムバレにおける1987年の巡回大会
[201ページの図版]
ナイロビにある拡張後のケニアの現在の支部事務所とベテル・ホーム
[202ページの図版]
バーナード・ムシンガは20年間東アフリカで旅行する奉仕を行ない,故国ザンビアに戻るまで支部委員会の一員だった