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神のみこころを行なうことこそ私のよろこびものみの塔 1966 | 11月15日
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神のみこころを行なうことこそ私のよろこび
A・H・マックミラン
神のみこころを行なおうと努めながら生きてきたこの66年間は,私にとってまことに喜びの生涯であったと言うことができます。「わが神よ,わたしはみこころを行なうことを喜びます」と言ったユダヤ人ダビデと同じ感慨をおぼえます。(詩 40:8)私は,1900年の9月,23歳で神に献身して以来,まだ小さかったエホバの組織が,神の真理を熱心に伝道する幸福な人々の世界的組織へと発展するのを見てきました。
エホバ神の組織の中でも,私のような特権に恵まれた人はまれであります。私は,エホバの証人のひとりとして,エホバの証人の歴史の三つの時代に生き,また奉仕してまいりました。そして,ものみの塔協会の3人の会長と親しく交わり,その指導下で神の民が発展するのをこの目で見ました。想像してもわかるとおり,各時代は,他の二つの時代とはっきり異なっていましたが,エホバの目的を完成することにおいて,それぞれの目的を成し遂げました。私が地上で神に奉仕するときは終わろうとしていますが,いま私は,エホバがご自分の民を導いていられること,適当な時に必要なものを与えられることを,いつの時にもまして強く確信しています。
私は,多くの激しい試練が組織のうえにのぞみ,その中の人々が信仰の試みを受けるのを見てきました。組織は神の霊の助けによってそれに耐えぬき,繁栄をつづけました。私はまた,聖書にかんする新しい考えを聞いて心を乱されるよりも,エホバが明確に理解させてくださるまで忍耐強く待つほうが知恵の道であることも見てきました。ある特定の時期には,聖書が保証する以上のことを期待したこともありました。しかしそうした期待がはずれても,それによって神の目的が変わることはありませんでした。私たちが聖書から学んだ基本的な真理は変わりませんでした。それで私は,自分たちが間違っていることを認めねばならないこと,そしてよりいっそうの啓発を得るために神のことばの研究をつづけねばならないことを学びました。私たちが自分の見方を変えねばならないことが時折あっても,恵み深いあがないの取り決めと,永遠の生命にかんする神の約束が変わることはありません。ゆえにわたしたちは,期待していたことが起きず,解釈の変化したこともありましたが,そのために信仰を弱める必要はありませんでした。
1914年,ニューヨーク州サラトガ・スプリングスの大会で,講演をした時のことを思い出します。演題は,「すべてのものの終わりは近づいた。ゆえに,冷静を保ち,心をゆるがせにせず,祈りせよ」でした。私は教会が10月に「天国に行くということを,心から信じていました。そのため,その講演の間に私は不幸にもこういうことを口にしました。「私たちは間もなく天国に行きますので,おそらくこれが私の最後の講演となるでしょう」。
翌朝,私たち500人はブルックリンに帰りました。ここで行なわれる礼拝で大会は終わりをつげます。相当数の大会出席者がベテルに泊まりました。金曜日の朝,全員が朝食のテーブルについているところへ,ラッセル兄弟が下りてきました。彼は食堂にはいるときちょっと立ち止まり,明るい声で,「みなさん,お早う」と言うのが常でした。ところがその朝は,元気よく手をたたいて,「異邦人の時は終わり,その王たちの時はすぎ去りました」と発表しました。ラッセル兄弟は,テーブルの上座にある自分の席につき,さらにふた言み言話しました。それから私がやり玉にあがりました。といってもそれは悪意のあるものではなく,あたたかみのこもったものでした。
ラッセル兄弟は言いました。「日曜日の計画をすこし変更するつもりです。日曜日の午前10時半,マックミラン兄弟が講演を行ないます」。みんなは,水曜日に私がサラトガ・スプリングスで話したこと,つまり私の「最後の講演」を思い出し,おなかをかかえて笑いました。それではなんとかして講演の準備をしなければなりません。私は詩篇 74篇9節,「われらは自分たちのしるしを見ません。そしていつまで続くのか,われらのうちには,知る者がありません」を基礎にして話すことにしました。この話はまえの話とは違っていました。私はこの講演で,次のこと,つまり,わたしたちのうちのある人々は,すぐにも天国に行くような少し性急な考えをもっているかもしれないが,われわれのなすべきことは,主が時を定めて,みこころにかなったしもべたちを天に迎え入れられる時まで,主への奉仕に励むことであることを,聴衆に悟らせることに努めました。
1914年に天に召されるという期待ははずれましたが,異邦人の時は,予想どおりたしかにこの年に終わりました。ですからこの年にかけていた期待がすべてはずれたわけではありません。期待していたことがひとつ残らず実現しなかったからといって,わたしたちは特に失望もしませんでした。写真,劇の仕事や,戦争に伴って生じたいろいろな問題で多忙をきわめていたからです。
伝道活動の拡大は予見された
ラッセル兄弟は次のことに気づきました。つまり,霊的羊の群れの個々の者がいく人か地上に残されていても,それによって,諸国民の自由な支配,すなわち異邦人時代の終結の時が変更されたり,影響を受けるようなことはないということです。彼は絶えず,「この次には,偉大な仲保者」である神のみ子「の手によって,栄光ある御国が立てられねばならない」と言っていました。この見方はわたしたちの心にさまざまな疑問を呼び起こしました。そのひとつは,み国の福音が全世界に伝道されるとあるマタイによる福音書 24章14節は,どのように成就するか,ということでした。
このことに関連して私は,ラッセル兄弟が死ぬすこしまえに起きたあることを思い出します。彼はいつも午前8時から正午まで,自分の書斎に閉じこもって,「ものみの塔」の記事を準備したり,聖書の研究を必要とするその他の書き物をしました。その時間には,彼に呼ばれるか,よほど重要な用事のないかぎり,その書斎に近づく者はいませんでした。8時を5分ほどすぎたころ,速記者が階段をかけおりてきて,私に,「ラッセル兄弟がお呼びです。書斎までおいでください」と言いました。「私はまた何をしでかしたんだろう」と思いました。朝のうちに書斎に呼ばれるのは,ただごとではないのです。
私が書斎にいくと,彼は,「おはいりください,兄弟。応接間のほうへどうぞ」と言いました。書斎を延長したところが応接間になっていたのです。彼は言いました。「兄弟,あなたは真理に対して初めと変わらない深い関心をおもちですか」。私は驚きました。すると彼は,「びっくりしないでください。これは私の望む答えを得るための質問にすぎません」と言って,自分の健康状態について話しました。もし休養をとらなければ,何ヵ月も生きられないだろうということは,私にもよくわかっていました。彼は言いました。「そこでですね,兄弟,わたしがあなたにお話ししたかったのはこのことです。私はこれ以上仕事をつづけることができなくなりましたが,まだ大仕事が残っているのです。しかもこれは世界的なわざなのです」。私は書斎に3時間いました。ラッセル兄弟は,今日,神の民が行なっている広範囲にわたる伝道活動について説明しました。彼は,聖書を読んで,そのことを予見していたのです。
私は言いました。「ラッセル兄弟,あなたのおっしゃることは,私にはどうも納得がいかないのですが。つじつまが合わないように思えます」。
「それはどういう意味ですか,兄弟」と彼は尋ねました。「あなたが亡くなられる時にはわたしたちはみな満足して,あなたと一緒に天に行くのを腕を組んで待っていますよ。わたしたちも仕事をやめます」と私は答えました。
「兄弟」,と彼は言いました。「もしそれがあなたの考えでしたら,あなたにはまだ問題がはっきりわかっていないようですね。これは人間がしているわざではありません。この仕事で私はべつに重要な存在ではありません。光はますます明るくなっています。前途には大きな仕事があるのです」。
彼が死ぬときは,わざをやめて腕をこまねいている,という考えはまちがいでした。わざは続行されました。時がたつにつれて,わたしたちは,かつてないほど多くの仕事をしました。今日エホバの民が活動している範囲を考えるなら,わたしの考えがどんなにまちがっていたかがわかります。たしかにこれは,人間のわざではありません。将来の仕事をかいつまんで話したのちラッセル兄弟は言いました。「そこで私は,ここにきて私に代わって責任をはたしてくれる人がほしいのです。私はまだ指示することはできますが,いままでのように,それを自分で行なうことができなくなりました」。それでわたしたちは,いろいろな人をあげて検討しました。最後に私が引き戸を通って廊下に出たとき彼は,「ちょっと待ってください。あなたは自分のへやへ行って,このことについて主に祈り,そしてマックミラン兄弟がこの仕事を引き受けるかどうか,私に知らせてください」と言いました。彼は私が何も言わないうちに戸をしめました。私は目のくらむ思いでそこに立っていたのを思い出します。ラッセル兄弟の仕事を助けるといっても私に何ができよう。彼のように実業家の能力をもつ者でなければこれはできない。私にできることは宗教を布教することだけです。しかし私は思いなおし,のちに彼のところへ行って言いました。「私にできることなら何でもします。どこに配属されてもかまいません」。そこで私は,ラッセル兄弟がカリフォルニアに旅行する間,責任をまかされました。が,それはラッセル兄弟にとって帰らぬ旅となりました。
1916年10月31日火曜日,ラッセル兄弟は,テキサス州パンパに向かう汽車の中で死亡しました。それは何と大きなショックだったでしょう。翌朝,朝食の時,ベテルの家族のまえで彼の死を告げる電報を読みあげたとき,食堂は悲しみの声で満ちました。私たちはどうしてよいかわからない状態でしたが,ともかく最善をつくしました。私は,ラッセル兄弟が,これからさきの大きな仕事について,私に話したことを家族に説明しようとしましたが,彼らは「いったいだれがその指導に当たるか」ということを問題にしました。
新しい会長の選出
私たちは委員会を組織しました。会計主任,副会長,私,そして委員長にされたラザフォード兄弟をメンバーとする執行委員会です。この委員会は,1917年2月の役員改選まで,わざを指導しました。次の問題は,だれをものみの塔協会の会長にするかということです。ある日,バン・アンバーグ兄弟が私のところへやってきて,「兄弟,このことについてどうお考えですか」と聞きました。「好むと好まざるにかかわらず,ひとりしかいませんね。いまこの仕事に当たれる唯一の人物はラザフォード兄弟です」と私は答えました。すると彼は私の手を握り,「私もそう思います」と言いました。ラザフォード兄弟は,背後でそういう話があることなどまったく知りませんでした。彼は選挙運動などはしませんでした。選挙の時がきて彼は会長に選ばれ,1942年1月8日に死亡するまで,その地位にとどまりました。
私が初めてラザフォード兄弟に会ったのは,1905年,ラッセル兄弟と一緒に,アメリカ横断旅行をしていた時でした。兄弟たちは,カンザスシチーで,私たちを迎える準備をしていました。その兄弟たちが,ミズーリ州の判事ラザフォードに,きて私たちを助けてくださいと頼んだのです。兄弟たちが彼について知っていたことといえば,彼が「聖書の研究」という本を持っている,ということだけでした。彼はその求めに応じてやってきて,ラッセル兄弟と私をもてなしてくれました。そのため私たちは彼と親しくなりました。すこしたって私は帰途同じ道をとおったので,途中下車し,一日二日ラザフォード判事をたずねました。彼は,しばらくの間,ミズーリ州第14司法地区の臨事判事をつとめていたため,「判事さん」でとおっていました。そこで私は彼に言いました。「判事,あなたはこのあたりで真理を伝道なさるべきですね」。すると彼は,「いや,私は牧師ではなく法律家です」と言いました。
「それでは判事,こうなさってみてはいかがですか。聖書を1冊お求めになって,少数の人を集め,生命と死と死後の状態について教えるのです。人間はどこから命を得たか,なぜ死ぬようになったか,死とは何か,について説明し,証明として聖書を使い,ちょうど裁判の時陪審員に対して言われるように,『わたしが言ったことはすべてこれで証明されます』と言って納得させればよいのです」と私は答えました。
「それくらいならたいしてむずかしくもなさそうですね」と彼は言いました。
彼の家は町のはずれにありました。家のすぐ近くに小さな農場があって,15人から20人の黒人がそこにいました。彼は例の「生命,死,死後の状態」の話をするためにそこに出かけました。話の間中彼らは,「ありがたいことです,判事さん。どこでそんなことを習いなすったんです?」と尋ねました。ラザフォード兄弟はそこでたいへん楽しい時をすごしました。これが彼の聖書の講演の皮切りとなり,会長になってからは,ラジオを通じて数多くの講演を行ないました。
それから間もなく,1906年に,私はミネソタ州のセントポールで,彼にバプテスマを施す特権を得ました。彼は,その日私が直接にバプテスマを施した144人のうちのひとりでした。ですから彼が協会の会長になったとき,私の喜びはひとしお深いものがありました。
投獄
1918年には,非常にむずかしい問題に直面しました。司法省は私たちを盛んに非難攻撃し,わたしたち8人を,ブルックリンのレイモンド街にある刑務所に入れました。わたしたちは保釈金を払って裁判を待ちました。1917年6月15日に制定されたスパイ法違反という理由で起訴され,聖書教育の仕事を行なったために,米国の軍隊編成妨害に協力したという罪をきせられたのです。
裁判の時政府は,もしある人が町角に立って,人々を軍隊にはいらせないことを目的として主の祈りをくりかえし唱えるならば,その者は刑務所へ入れられる,と言いました。このことからもわかるように,政府は,まったく勝手な解釈をしました。彼らは人が何を考えているかわかると思いました。ですから私たちが,徴兵に影響することに荷担したことは一度もなく,兵役を拒否するようすすめたことも一度もないことをいくら証言しても,彼らは自分たちの尺度で物事をおしはかり,私たちに反対しました。証言はなんの効果もありませんでした。キリスト教国の一部の宗教指導者とその政治上の同盟者たちは,どうあってもわたしたちに罪を着せることを決意していたのです。検察当局は,ハウ判事の同意を得て,有罪を証明しようとし,わたしたちの動機が尋常でないこと,そしてわたしたちの行動からその目的を推測すべきことをがん強に主張しました。私は,ある小切手 ― それが何の目的のための小切手かは彼らにはわからなかった ― に連署し,またラザフォード兄弟が理事会で読んだステートメントに署名したというだけの理由で有罪とされたのです。それでさえ,はたして私の署名であったかどうか彼らは証明することができませんでした。この不正はあとで控訴する助けになりました。
わたしたちは不当にも80年の懲役刑を宣告されました。すべての宣告は4訴因にもとづき,刑期は各訴因につき20年で,同時に発効するものでした。ということは,私がアトランタ刑務所に20年いることを意味します。偏見をもった判事は,この事件が審議されている間,保釈を認めませんでした。9ヵ月後,わたしたちの弁護士は,アメリカ最高裁判所のルイス・D・ブランディズ判事の指示により,もう一度巡回控訴院に保釈を要請しました。1919年3月21日にそれは許可され,それから1919年5月14日に同裁判所は下級裁判所の判決を取り消しました。ワード判事は次のような意見を述べました。
「この事件の被告は,彼らの当然の権利である適切で公平な裁判を受けなかった。そのために判決は取り消された」。法という手段を用いて,わたしたちを20年間監禁し,主のわざを葬り去ろうとする敵のくわだては成功しませんでした。
アトランタ刑務所にはいったとき,副所長は,「紳士諸君,君たちはこの刑務所に長くいることになるので,何か仕事をしてもらわねばなりません。何がとくいですか」とわたしたちに尋ねました。
「わたしはいままで伝道以外にはしたことがありません。なにかそういう仕事はありませんか」と私は答えました。
すると彼は「とんでもない! 君たちはそれをしたからここにきたのではないですか。いまから言っておきますがね,ここで伝道はなりませんぞ」と言いました。
しばらくして刑務所は日曜学校を開始し,入獄者たちはグループに分けられ,私は人員15人ばかりのユダヤ人のクラスを受け持つことになり,ラザフォード兄弟もひとつのクラスを与えられ,みなそれぞれクラスをもちました。クラスは,ものみの塔協会から3ヵ月ごとに出版された,日曜日の研究資料に従って勉強しました。わたしたちの授業はアブラハムのところから始まり,アブラハム,イサク,ヤコブに与えられた約束からイスラエルの歴史を順々に勉強していきました。私にとっては願ったりかなったりです。ある日,畑で副所長に会ったとき,彼は,「マックミラン,君の授業はすばらしいね。わたしはいつも出席しているが,このぶんでは君はあのユダヤ人たちをみな『約束の地』に連れて行ってしまうだろう」と言いました。
「しかし副所長,わたしがこの刑務所にきた時あなたは,ここで説教はまかりならぬ,とおっしゃいましたよ」。
「まあそんなことは忘れてくれたまえ」と彼は言いました。
それからインフルエンザが流行して,日曜学校は中止になりました。しかしわたしたちが刑務所を出るまえに,ラザフォード兄弟は,クラスの者を集めて45分ほど話をしました。刑務所の職員もかなり出席していました。多くの男たちのほほを涙が伝いました。彼らは深く感動したのです。わたしたちが去ったのちもその中のある小さなグループは信仰を保ちつづけました。
刑務所にいるあいだに,協会の役員改選に関係のあるもうひとつ興味ぶかいできごとがありました。選挙の日になってラザフォード兄弟は,われわれの宗教上,政治上の敵に協力してわれわれを投獄した組織内の不平分子が,協会をのっとって破壊してしまうかもしれない,と心配していました。そこで私は,われわれが選挙にのぞんで影響を与え得ない以上,主がだれを会長として望んでいられるかを知るよい機会です,と彼に話しました。
翌朝,彼は監房の壁をたたいて,「手を出しなさい」と言いました。私が手を出すと,彼は1通の電報を私の手に握らせました。それは彼が会長に再選されたことを告げるものでした。その日の午後彼は私にこう言いました。「わたしはあなたに話したいことがある。わたしはあなたがきのう言ったことを考えているのです。あなたは,われわれがラッセル兄弟の占めていた地位に置かれること,また,もしわれわれがピッツバーグにいたならば選挙に影響を与えていたこと,主が望む人物を示めされる機会がなかったことについて話しましたね。兄弟,もしわたしがここを出ることがあれば,神の恵みによって,この人間崇拝を徹底的にたたきつぶしてやります。そればかりでなく,真理の剣を取って,バビロンの内臓を切り出してやります。彼らはわたしたちをここへ入れたけれども,わたしたちは必らず出ます」。出所後彼は,この決意を実行に移し,死ぬまで,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンの悪を暴露しつづけました。
刑務所に入れられても,組織を離れたある自己本位の者たちが起こす問題に悩まされても,私の信仰は弱りませんでした。キリストの弟子に苦難と問題はつきものであることを聖書を読んで知っていたので,信仰は強くなるばかりでした。悪魔は主のわざを妨害しようとしていましたが,わざを中止させることはできませんでした。ですから私は裁判にも,かつてわれわれの兄弟であった人たちが示す憎しみにも,心をわずらわされませんでした。こうしたことは予期すべきことです。真理とエホバの組織の中にあって,私の信仰はゆらぎませんでした。
旅行
私の特権は,協会を代表して広範囲にわたる地域を旅行し,兄弟たちを励まし,また神のことばの真理に対する関心を高めることでした。1920年8月12日には,ラザフォード兄弟や協会の他のメンバーと共に,S・S・インペレイター号でヨーロッパに向かい,8月21日土曜日の午後英国に着きました。一行は英国内をあちこち旅行し,いくつかの満員の公会堂で講演をしました。5年後,すなわち1925年,ラザフォード兄弟と共にふたたびヨーロッパに行きました。そのときはポーランドの兄弟たちを尋ねました。
わたしたちはユダヤ人にも神の御国のよいたよりを伝えることに関心をもっていました。それで私は,1925年3月12日,プレジデント・アーサー号で,当時パレスタインと呼ばれていた所に出かけました。ここでも私は神の目的について語り,イエスが伝道された場所を訪れることができました。
その後わたしはアメリカ国内も,協会を代表してよく旅行しました。第二次世界大戦中は,しばらくの間,21の刑務所の巡回訪問をしました。延べ2万918キロにのぼるこの巡回区を旅行しながら私は6週間ごとにそれらの刑務所を訪問し,クリスチャンの中立を守るがゆえに投獄されている兄弟たちを励ましました。これはきわめて骨のおれる仕事でしたが,それからくる喜びは,その苦労をつぐなってあまりありました。
第二次世界大戦後
最後の20年間は,協会の3代目の会長ノア兄弟とともに働く喜びを得ました。しかし残念ながら寄る年波には勝てず,私にできる仕事の量は減ってきました。刑務所の巡回訪問を始めるまえは,数年間開拓奉仕を行ない,1941年に特別開拓者になりました。1942年にノア兄弟が会長になってから刑務所の訪問を始め,それから1947年,地域のしもべになりました。1948年にはベテルにもどって,その年の12月から,協会の放送局WBBRの放送に従事しました。私の番組は毎日あり,私のめいを演じた若い娘さんを相手に,聖書を一部ずつ取りあげて討論し,聖書全体の各節の説明をしました。
近年の私の悩みは,集会には定期的に出席できても,主のわざが活発にできないということです。失望と絶えず戦わねばなりません。健康がすぐれないために,悪魔がヨブと同じように私を試みているのではないか,と思うこともありました。しかし私もヨブと同じく最後まで忠実でなければなりません。アトランタ刑務所に一緒にはいった人たちが天の報いを受けるのを見ながら,あとに残されているのはつらいことでした。そのグループで残っているのは私だけです。
90歳のいま,私は生涯をふり返ってみて,もしもう一度生きられるとしたら,やはりほかの仕事は選ばないだろうと考えています。それどころか,もっと一生懸命に,もっと勤勉に働くでしょう。
長い年月の間には,試みも数多くあり,神のことばの解釈の変化もありましたが,私にとってそういうことは信仰を動揺させる原因にはなりませんでした。神は,時の経過とともにご自分のことばにいっそう多くの解明の光を投げかけられるので,そのような調節は,クリスチャンの霊的成長にとって必要です。どんなに解釈が変わっても,あがないや死者の復活,神の約束である永遠の生命などの基礎教理が変わったことはありません。神のことばに明示されている神の約束の保証が変わったこともありません。ゆえに現在の私の信仰は,いままでと同じく強いものです。
私の願いは神への奉仕を絶えず行なうことでしたが,励ましを必要とする困難な時もありました。その励ましを与えてくれたのは,わたしたちの愛する兄弟パウロが,ピリピ人への手紙の4章6,7節に書いでいることばでした。「何事も思い煩ってはならない。ただ,事ごとに,感謝をもって祈と願いとをささげ,あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば,人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が,あなたがたの心と思いとを,キリスト・イエスにあって守るであろう」。神に頼り,神と神のことばを信頼するときのみ平安があることを私は経験しました。
神の民が今日行なっている偉大なわざを考えるとき,詩篇 110篇3節の,「あなたの若者は朝の胎から出る露のようにあなたに来るであろう」ということばは,新たな意味をおびてきます。神の民は,絶えず人々の家を訪問して神の真理を教えるので,乾いた地を静かにうるおすつゆに似ています。しかし,ある福音伝道師は,乾いた土に降るどしゃ降りの雨のようです。さっと流れ去って土地はまた乾いた状態にもどります。彼らは洪水のようにやってきては去っていきます。
エホバの組織のすばらしい拡大と,今日行なわれている御国の福音の世界的な伝道は,わたし自身の伝道の生涯に最高潮をもたらしました。協会の3人の会長とともに働き,またこの拡大にあずかり得たことは,大きな特権でした。『兄弟,これは人間のわざではなく神のわざです』と言ったラッセル兄弟の最後のことばを,私はいまつくづくと味わっています。過去66年間の神への奉仕は,私にとってこのうえない喜びでした。
[697ページの図版]
A・H・マックミラン
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読者からの質問ものみの塔 1966 | 11月15日
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読者からの質問
● イエス・キリストは地上におられた時,次のように言われました。「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た」。(ルカ 10:18)このことは,サタン悪魔がその時すでに天から追い落とされていたということですか。―オーストラリアの一読者より
いいえ,そうではありません。ルカによる福音書 10章18節に記録されているイエスのことばを,そのように考えることは聖書的に正しくありません。キリストが将来に起こることがらを述べていたことは明らかです。しかし,イエスは当時のできごとに心を動かされてそのように言われたのです。
あらかじめ,「主ほかに七十人をあげて,自ら往かんとする町々ところどころへ,おのれに先だち二人づつを遣」わそうとしました。(ルカ 10:1,文語)70人の弟子は自分の務めを成功裡になし終え,喜んで帰ってきて報告しました。「主よ,あなたの名によっていたしますと,悪霊までがわたしたちに服従します」(ルカ 10:17)。このことは驚くべき神の力を悪鬼たちに示しました。そのような申し分のない報告を聞いてから,イエスは,心を動かされ悪魔の征服を意味することば,すなわちサタンの滅びに関する意味深いことばを述べました。聖書の他の場所に説明されていることを考慮するとき,ルカによる福音書 10章18節に記録されているイエスのことばは,サタンが天から実際に落とされてしまっていたことを述べたのでないことが明らかです。黙示録 12章7節から9節は,天から地上に投げ落とされたサタンとその使いについて説明しています。しかしこのことはイエス・キリストが地上で人間生活を送った期間あるいは,それ以前に起こったのではありません。注意しなければならないのは,黙示録の全部が預言的な事柄を述べているということです。それは過去の歴史を編集したものではありません。黙示録 1章1節はこのことを示しています。「イエス・キリストの黙示。この黙示は,神が,すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え,そして,キリストが,御使をつかわして,僕ヨハネに伝えられたものである」。使徒ヨハネは,西暦第1世紀の終わり頃,パトモス島で黙示を与えられ,黙示録を西暦96年頃に完成しました。これは,ルカによる福音書 10章18節のことばをイエス・キリストが述べてからかなりあとのことです。
黙示録 12章を注意深く調べてみると,神の御国の誕生ののちに,悪鬼とその悪い使いたちは天から追い落とされることがわかります。(黙示 12:5,10)「ものみの塔」誌上で何度も聖書から証明されたように,王なるキリストの天の御国は,西暦1914年に建てられました。イエス・キリスト,すなわちミカエルが王位について直後,「天で戦いが起」こりました。ミカエルとそのみ使いたちとが,サタンとその使いたちと戦い,彼らを天から地上に投げ落としました。
それで,「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見たと述べたとき,イエスはサタンが遂に天から追い落とされた時のことを考えておられたようです。普通の人間にすぎない70人の福音伝道者が,イエスの名によって悪鬼を追い出したことは,サタンの滅びを確実なものにしています。このことはイエスにとって,神の定めた時にサタンが天から落とされることの確かなしるしでした。イエスはサタンが天から追い落とされるのを見たも同然でした。ゆえに当時でもイエスはそのことがすでに起きたのを目撃したかのように,将来の確かなできごとを語ることができました。忠実をまっとうして死に,力ある霊者としてよみがえらされたキリストは,天からサタンと他の悪鬼たちを追い出して,この預言を成就する権威を与えられます。そのうえ,高められたイエス・キリストはのちに悪霊たちを底知れぬ穴に投げこみ,ついには彼らを滅ぼしてしまうでしょう。―黙示 20:1-3; 7:10。ヘブル 2:14。ローマ 16:20。
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