8章
神道 ― 日本における神の探求
「父は神主でしたから,私たちは毎朝,朝食前に神棚に水や御飯を供えるよう教えられていました。お参りが終わると,御飯を下げて,それをいただきました。そうすることにより,神々に守っていただけると信じていました。
「家を購入する時には,祈とう師に見てもらって,以前の古い家との関係から見た新しい家の縁起のよい方角を確かめました。祈とう師は3か所の鬼門について私たちに警告し,父の定めた清めの方法に従うよう勧めました。それで,毎月1回,それらの方角を塩で清めました」― 真由美。
1 (紹介の部分も含める。)神道は主にどこで行なわれていますか。その信者にとって何が関係している場合もありますか。
神道は主に日本人の宗教です。「日本宗教事典」は,『神道の成立は日本の民族文化のそれとほぼ一体であって,かつて一度もこの民族社会を離れて営まれたことがない宗教文化だという事情がある』と述べています。しかし,日本の企業活動や日本文化の影響は今や非常に広範囲に及んでいるので,日本の歴史や日本人の人格を形成してきた宗教的な要素とは何かを知ることに関心を抱くのはもっともなことです。
2 神道は日本人の生活にどの程度影響を及ぼしていますか。
2 神道の信者数は神道側の数字では,日本の人口の約4分の3に当たる9,100万人以上であると言われていますが,ある調査では,神道を実際に信じていると唱えているのは,成人人口のわずか3%の200万人にすぎないことが示されました。しかし,神道の研究家,菅田正昭氏は,「神道は日本人の日常生活にあまりにも深く組み込まれてきたため,人々はその存在にさえほとんど気づいていないほどである。日本人にとって,この宗教は,いつも周囲にあって目立たない存在である,自分たちの呼吸している空気よりもなお目立たない存在である」と述べています。宗教に関心がないと言う人たちでさえ,交通安全のための神道のお守りを買ったり,神道の伝統にのっとって結婚式を挙げたり,神道の年中行事のためにたくさんのお金をつぎ込んだりしています。
それはどのようにして始まったのか
3,4 日本人の宗教は最初,どのようにして神道として知られるようになりましたか。
3 「神道」という名称は,日本に伝来されつつあった仏教と日本固有の宗教とを区別するため,西暦6世紀に作り出されました。日本の宗教の研究家,ひろ さちや氏はこう説明しています。「もちろん,仏教の伝来以前にも,“日本人の宗教”はありました。しかし,それは潜在意識的なもので,慣習や“習俗”で成り立っていました。ところが,仏教が伝来することによって,人々は外国の宗教だった仏教とは異なった日本人の宗教がその“習俗”によって成り立っていることに気づきました」。この日本人の宗教はどのように発展したのでしょうか。
4 原始の神道,つまり“日本人の宗教”が出現した年代を確定するのは難しいことです。「講談社日本百科事典」(英文)は,水稲農耕が行なわれるようになると共に,「水稲農業には十分組織された安定した地域共同体が必要であり,後に神道で非常に重要な役割を演じた農業儀礼が発達した」と説明しています。それら初期の人々は数多くの自然の神々のことを思いつき,その神々を敬いました。
5 (イ)神道は死者に関するどんな見方をしていますか。(ロ)死者に関する神道の見方は聖書のそれとどのように比べられますか。
5 このような崇敬の念に加えて,死霊に対する恐れから,これをなだめるための儀礼が生まれ,そのような儀礼から祖霊崇拝が発達しました。神道の信条によれば,死霊には依然として人格があり,死亡直後には死穢を持っています。遺族が故人を祀ると,霊はすべての恨みを取り除かれるほどに清められて,穏やかな慈悲深い性格を帯びてゆきます。やがて,その祖霊は祖神,もしくは氏神の地位にまで高められます。このように,霊魂不滅の信仰はさらにもう一つの宗教の基本原理となっており,その信徒の態度や行為を規定していることが分かります。―詩編 146:4。伝道の書 9:5,6,10。
6,7 (イ)神道の信者は自分たちの神々をどのようにみなしましたか。(ロ)神体とは何ですか。それはなぜ神道では重要ですか。(出エジプト記 20:4,5; レビ記 26:1; コリント第一 8:5,6と比較してください。)
6 自然の神々や祖神は空中に“浮かんで”おり,また空中に充満している霊であると考えられました。祭りの際には,人々は,その時のために神聖なものにした特定の場所に下るよう神々に呼び求めました。神々は木や石,鏡や剣などの崇拝の対象,つまり神体に一時的に宿るとされ,祈とう師,もしくは巫子が神々の降臨を呼び求める儀式を執り行ないました。
7 やがて,祭りのために一時的に清められた,神々の“降臨地”はもっと恒常的な形を取るようになり,人々は自分たちを祝福してくれそうな慈悲深い神々のために神社を建てました。最初,人々は神々の像を刻んだりせず,神々の霊が宿るとされたご神体を崇拝しました。富士山などの一つの山全体でさえ,神体になり得たのです。やがて,あまりにも多くの神々ができたため,日本人は“八百万の神”という表現を作り出しました。この表現は今では“無数の神々”という意味で使われています。というのは,神道の神々の数は絶えず増えているからです。
8 (イ)神道の神話によれば,天照大神はどのようにして作り上げられ,光を照らすことを余儀なくされましたか。(ロ)天照大神はどのようにして国家神になりましたか。歴代の天皇はこの女神とどのように結びつけられていますか。
8 神道の儀式は神社を中心にして営まれたので,各氏族はそれぞれ自分たちの守護神を祭りました。ところが,西暦7世紀に国家を統一した天皇の一族は,自分たちの太陽神,天照大神を国家神,ならびに神道の神々の中の中心的な神に格上げしました。(191ページの囲み記事をご覧ください。)やがて,天皇はその太陽神直系の子孫であるという神話が持ち出されました。この信条を強化するため,神道の2冊の主要な文書である古事記と日本書紀が西暦8世紀に編さんされました。これらの書物は,天皇の一家を神々の子孫として高めた神話を利用して,天皇の支配権を確立するのに寄与しました。
祭りと儀式の宗教
9 (イ)ある学者は神道のことをなぜ“ないないづくし”の宗教と呼んでいますか。(ロ)神道は教えに関してどれほど厳密な宗教ですか。(ヨハネ 4:22-24と比較してください。)
9 しかし,神道の神話に関するこれら2冊の書物は,霊感を受けて記された経典だとは考えられませんでした。興味深いことに,神道には開祖として知られる人物,もしくは聖典として知られる書物はありません。神道信者で学者の佐伯彰一氏はこう説明しています。「神道は,まるでないないづくしの宗教なのだ。明確な教義がなく,精緻な神学がない。守るべき戒律というものもないに等しく……わたしは代々神道を奉じてきた家で育てられながら,まともな宗教教育といったものを受けた覚えがない」。(下線は本書。)神道の信者にとって,教理,戒律,また時には自分の崇拝するものさえ重要ではありません。神道の一研究者は,「同一神社においても祭神は過去においてしばしば入れ替わり,その神を祭り祈る人々にそれがさだかに知られていないことさえある」と述べています。
10 神道の信者にとって極めて重要なのは,どんな事柄ですか。
10 では,神道の信者にとって極めて重要なのは,どんな事柄ですか。日本文化に関するある著書は,「元来,神道は小さな生活共同体の和とその生活を促進する行為を『善し』,妨げる行為を『悪し』とみなした」と述べています。神々,自然,および地域共同体との和合が最高の価値とみなされました。地域共同体と和合した穏やかな関係を乱すものはすべて,その倫理的価値にかかわりなく悪とされました。
11 祭りは神道における崇拝や日常生活でどんな役割を果たしていますか。
11 神道には正式の教理,もしくは教えというものがないので,儀式や祭りが地域共同体との和合を促進する方法とされています。「日本宗教事典」は,「神道で一番大切なのは,われわれが祭りをするかどうかなのである」と説明しています。(193ページの囲み記事をご覧ください。)氏神を中心にした祭りで祝宴を共にすることにより,米作地域共同体内の人々の協力精神が助長されました。主要な祭りは米作と関係がありましたが,今でもそうです。春になると,村人は“田の神”に自分たちの村にお下りになるよう祈り求めて豊作祈願をし,秋には,神々に収穫を感謝します。また,祭りでは,みこしを担いで神々を運び,酒や食べ物を共にして神々と親しい交わりを持ちます。
12 神道では,はらい清めるためのどんな儀式が執り行なわれていますか。それは何のためですか。
12 ところで,神道の信者は,神々と結ばれるには,すべての道徳的な汚れや罪をはらい清めなければならないと考えています。ここで儀式が登場します。人,あるいは物をはらい清める方法は二つあります。一つはお祓で,もう一つは禊です。祓では,物品,もしくは人をはらい清めるため,神主が紙あるいは亜麻布を先に結びつけた常緑樹の榊の枝を振り動かしますが,禊では水が使われます。はらい清めるためのこれらの儀式は神道という宗教にとって非常に重要であるため,日本人の一権威者は,「この儀礼なしには,神道は[宗教として]成立しないといっても過言ではないであろう」と述べています。
神道の順応性
13,14 神道はどのように他の宗教に順応してきましたか。
13 このように,祭りや儀礼は神道と共に存続してきましたが,神道それ自体は宗教として長年の間に変貌を遂げてきました。どんな変貌を遂げてきたのでしょうか。神道の一研究者は,その変化を着せ替え人形のそれに例えています。仏教が伝わった時には,神道は仏教の教えの衣装をまとい,人々が道徳規準を必要とした時には,儒教のそれをまといました。神道は極めて順応性に富むものであることを示してきました。
14 神道はその歴史のごく初期に習合,つまりある宗教の諸要素を別の宗教に融合させることを行ないました。儒教や日本で「陰陽道」として知られていた道教は神道に浸透していましたが,神道と混合した主要な要素は仏教でした。
15,16 (イ)神道の信者は仏教に対してどのように反応しましたか。(ロ)神道と仏教の融合はどのようにして起きましたか。
15 仏教が中国や韓国を経て日本に入って来た時,日本人は自分たちの宗教の伝統的な慣行を神道,つまり「神々の道」と名づけました。しかし,新しい宗教が伝来すると共に,日本は仏教を受け入れるか否かで分裂しました。仏教徒を支持する側は,『近隣諸国すべてがこの道に従って崇拝を行なっている。日本はどうして違ったことをすべきなのか』と主張しました。仏教徒に反対する側は,『もし我々が近隣の神々を崇拝するなら,我々の神々の怒りを買うことになる』と反論しました。意見の対立が何十年も続いた後,仏教徒を支持する側が勝利を収め,聖徳太子が仏教を奉じた西暦6世紀の終わりまでに,この新しい宗教は根を下ろしました。
16 仏教は田舎の地域共同体に広まるにつれて,人々の日常生活の中にしっかり定着した存在となっていた,地元の神道の神々と相対するようになりました。この二つの宗教は共存するために妥協しなければなりませんでした。山々で自己修養を行なっていた仏教の修行僧はこの二つの宗教の融合を助長しました。山々は神道の神々の宿る所とみなされていたので,修行僧が山の中で苦行を行なった結果,仏教と神道を混合する考えが生じ,さらに神宮寺,つまり“神社寺院”a が建立されるようになりました。やがて,仏教が宗教理論を形成する点で率先し,この二つの宗教は融合しました。
17 (イ)神風とはどういう意味ですか。(ロ)神風は日本が神国であるという信仰とどのように結びつけられましたか。
17 一方,日本は神国であるという信仰が根を下ろしつつありました。蒙古人が13世紀に日本に襲来した時,神風に対する信仰が起こりました。蒙古人は圧倒的な艦隊を伴って九州を2回襲いましたが,2回とも嵐で妨害されました。日本人はその時の嵐,つまり風を神道の神からのものとみなしたので,彼らの神々は大いに名を上げました。
18 神道はほかの宗教とどのように張り合いましたか。
18 神道の神々に対する確信が強まるにつれて,それら神々こそ根本にある神々とみなされるようになりましたが,仏陀たち(「悟りを開いた者たち」の意)や菩薩たち(「悟りに到達するよう他の人々を助ける未来の仏陀たち」の意。136,137,144ページをご覧ください)は,単に神々が仮の姿で現われたものとみなされました。神道対仏教のこの紛争の結果,神道の様々な学派が起こりました。その中には,仏教を強調する学派もあれば,神道の諸神を高める学派もありましたし,さらに後期の形態の儒教を利用して自分たちの教えを飾った学派もありました。
天皇崇拝と国家神道
19 (イ)復古神道の信奉者の目標は何でしたか。(ロ)本居宣長の教えはどんな考え方をもたらしましたか。(ハ)神は何をすることをわたしたちに勧めておられますか。
19 多年にわたる妥協の末,自分たちの宗教が中国の宗教思想により汚されてきたと神道の国学者は考えました。そこで,彼らは古代の日本人の道に戻ることを主張しました。そして,18世紀の学者で,第一級の国学者の一人であった本居宣長が復古神道を興しました。日本文化の起源を探求した宣長は,古典,それも特に「古事記」と呼ばれる神道の書物を研究しました。そして,太陽の女神,天照大神の優越性を説きましたが,自然現象の起こる理由は神々にあることを漠然と示すにとどまりました。さらに,宣長の教えによれば,神慮は不加測のものであるだけでなく,人間がそれを知ろうとするのは不敬なこととされました。何も尋ねずに,神慮に服従せよ,というのが宣長の考え方でした。―イザヤ 1:18。
20,21 (イ)神道の一国学者はどのようにして“中国”の影響を神道から一掃しようとしましたか。(ロ)平田哲学からどんな運動が確立されるようになりましたか。
20 その追随者の一人,平田篤胤は宣長の考えを拡張し,神道を清めて,“中国”の影響を一掃しようとしました。篤胤は何をしましたか。何と,神道と背教した“キリスト教”神学とを融合させたのです。篤胤は「古事記」で言及されている天御中主神を“キリスト教”の神になぞらえ,宇宙をつかさどるこの神を男性的素因と女性的素因を表わすと考えられる高御産巣日神(「高くて,産み出す神」の意)と神産巣日神(「神聖で,産み出す神」の意)という二柱の下位の神々を有する神として描写しました。(「日本の宗教」)そうです,篤胤はローマ・カトリック教会の三者一体の神に関する教えを取り入れたのです。もっとも,その教えは決して神道の教えの主流とはなりませんでした。しかし,篤胤がいわゆるキリスト教を神道と混ぜ合わせたため,ついにキリスト教世界の一神教が神道の思想に接ぎ木されました。―イザヤ 40:25,26。
21 平田理論は“尊皇”運動の基盤となり,その結果,封建的軍事独裁者,つまり将軍が倒され,1868年に王政復古が行なわれました。王政が確立されると共に,篤胤の弟子たちは神祇官に任じられ,神道を国教にする運動を推し進めました。そして,当時の新憲法のもとで,太陽の女神である天照大神の直系の子孫とみなされた天皇は,「神聖で侵すべからざる」方であると考えられました。こうして,天皇は国家神道の最高神になりました。―詩編 146:3-5。
神道の“聖典”
22,23 (イ)天皇は二つのどんな詔勅を発布しましたか。(ロ)これらの詔勅はなぜ神聖視されましたか。
22 神道にはその古代の記録や儀式や祈とうを記した「古事記」や「日本紀」,および「延喜式」がありましたが,国家神道には聖なる文書が必要でした。1882年に明治天皇は軍人勅諭を発布しましたが,その勅諭は天皇から出されたので,日本人はそれを聖典とみなし,それは軍人が毎日黙想するための基礎資料となりました。その勅諭は,神なる天皇に対する恩義に報い,自分の責務を果たすべき個人の義務は他のだれに対する義務よりも大事であることを強調するものでした。
23 1890年10月30日に天皇が教育勅語を発布した時,神道の聖典がさらに付け加えられました。その勅語は,「学校教育の基本とされるとともに,国家神道の事実上の聖典となった」と,国家神道の研究者,村上重良氏は説明しています。この勅語は,神話上の天皇の先祖とその臣民との“歴史的な”関係が教育の基本であることを明らかにしました。日本人はこれらの詔勅をどう見ましたか。
24 (イ)人々が教育勅語をどうみなしていたかを示す一例を挙げてください。(ロ)国家神道はどのように天皇崇拝をもたらしましたか。
24 越野あさのさんはこう述懐しています。「私が少女のころ,[学校の]教頭先生は白木の箱を目の高さにささげて持ち,恭しい態度で演壇に上ると,校長先生がその箱を受け取り,教育勅語が記されている巻き物を取り出しました。その勅語が読まれ,最後に『御名御璽』という結びの言葉が聞こえるまで,私たちは頭を低く垂れていなければなりませんでした。本当に何度も聞かされたので,その言葉は覚えてしまいました」。1945年まで,神話に基づく教育制度により,国民全体が天皇に献身するよう慣らされました。国家神道は超宗教とみなされ,別の教理を説く,他の13の神道諸派は,教派神道の名のもとに一括されました。
日本の宗教的な使命 ― 世界制覇
25 日本の天皇は人々からどのようにみなされましたか。
25 国家神道には偶像も用意されました。正人さんという,あるお年寄りは,当時のことを回想してこう言いました。「毎朝,太陽に向かって拍手を打ち,次に宮城のある東のほうを向いて,天皇を拝みました」。天皇は臣民から神として崇拝されました。天皇は太陽の女神の直系の子孫であるという理由で,政治的,また宗教的に最高の存在とみなされました。日本人の一教授は,「天皇は現人神で,この世に現われた神です」と述べました。
26 天皇が崇敬された結果,どんな教えが登場しましたか。
26 その結果,「この現象界の中心地は帝[天皇]の国である。我々はこの中心地からこの偉大な精神を世界中に広げなければならない。……大日本を世界中に拡張し,全世界を神々の国に高めることは現代の急務であり,また我々の永遠不変の目標である」という教えが説かれるようになりました。(「現代神道の政治哲学」,D・C・ホルトム著)実際,日本では政教分離が行なわれていなかったのです。
27 軍国主義者は日本の天皇崇拝をどのように利用しましたか。
27 ジョン・B・ノスは自著,「人間の宗教」の中で次のように注解しています。「日本軍は機を逸することなく,このような見方を利用し,征服することが日本の聖なる使命であるという考えを戦意高揚を図る話に含めた。宗教のあらゆる価値観を吹き込まれた国家主義の当然の結果を確かにそのような言葉のうちに見ることができる」。主に天皇の神性に関する神道の神話,および宗教と国家主義の結合とに基づく,何と不幸な悲劇の種が日本人や他の民族のためにまかれたのでしょう。
28 神道は日本人の戦争努力を推し進める点で,どんな役割を演じましたか。
28 国家神道とその天皇制のもとにあった一般の日本人は,天皇を崇拝する以外に何ら選択の道がありませんでした。『何も問わずに,神慮に服従せよ』という本居宣長の教えが,日本人の考え方に浸透しており,その考え方を支配していました。国民は1941年までに神道の旗じるしのもと,“現人神”に一命をささげて,第二次世界大戦のための戦争努力を推し進めるよう総動員されました。人々は,『日本は神国だから,危急の際には神風が吹くのだ』と考えました。軍人とその家族は自分たちの氏神に戦勝祈願を行ないました。
29 第二次世界大戦後,多くの人々はどうして信仰を失うようになりましたか。
29 その“神国”が1945年に原爆で広島と長崎の大半が消滅するという二度の大変な打撃を被って敗れた時,神道は重大な危機に直面しました。無敵の神聖な支配者とみなされていた当時の天皇は,一夜にして敗北した単なる人間天皇と化し,日本人の信仰は打ち砕かれました。国民の期待に背いて,神風は吹かなかったのです。「日本宗教事典」はこう述べています。『原因の一つは……[国民の]期待が裏切られた結果に終わったことにある。しかも[戦いに敗れた]事実から生じた神義論的な疑問に対して,宗教的に高度で適切な説明が神社界から何ら行なわれなかったために,いわゆる「神も仏もあるものか」という宗教的に未熟な反発だけが一般の風潮となった』。
真の和合を図る道
30 (イ)第二次世界大戦中の神道の経験からどんな教訓を学ぶことができますか。(ロ)わたしたちの崇拝に関して,自分の理性の力を行使するのは,どうして肝要なことですか。
30 国家神道が取った道は,人は各々自分の信奉する伝統的な信仰を調べる必要があることを強調しています。軍国主義を支持した神道の信奉者は,日本の近隣諸国の人々との和合を図る道を求めて来たのかもしれません。もちろん,それは世界的な規模での和合を助長しませんでしたし,一家のかせぎ手や若者が戦場で殺されたのですから,自国内でも和合をもたらしませんでした。人はだれかに命をささげる前に,だれに,また何のためにそうするのかを確かめなければなりません。クリスチャンの一教師は,以前,皇帝崇拝にふけっていたローマ人に対して,「わたしは……あなた方に懇願します。あなた方の体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲として差し出しなさい。これがあなた方の理性による神聖な奉仕です」と言いました。ローマ人のクリスチャンがだれに献身すべきかを選択するために理性の力を用いなければならなかったのと同様,わたしたちもだれを崇拝すべきかを決めるために自分の理性の力を行使するのは肝要なことです。―ローマ 12:1,2。
31 (イ)神道の大抵の信者にとっては,どんなことがなされれば,十分だったのでしょうか。(ロ)どんな疑問に答える必要がありますか。
31 神道の普通の信奉者にとって,特に唯一の神の実体を明らかにすることは,その宗教の重要な要素ではありませんでした。日本宗教史の教師,逵 日出典氏は,「庶民にとっては神も仏もない。五穀豊穣・疫病除去・家内安全といった願いを聞いてくれるならば,神であってもよし,仏であってもよいのである」と述べています。しかし,その結果,人々はまことの神とその祝福にあずかれたでしょうか。歴史の答えは明らかです。
32 次の章では何が検討されますか。
32 神話を自分たちの信仰の基盤として神を探求した,神道の信奉者たちは,単なる人間,つまり自分たちの天皇を太陽の女神,いわゆる天照大神の子孫である神にしました。しかし,神道が存在するようになるよりも何千年も前に,まことの神はメソポタミアにいたセム人の信仰の人にご自身を啓示しておられました。次の章では,その重大な出来事とその結果について検討いたします。
[脚注]
a 日本では神道の宗教建造物は神社,仏教のそれは寺院と呼ばれています。
[191ページの囲み記事]
神道の神話の太陽の女神
神道の神話によれば,大昔のこと,伊弉諾命が,「その左の目を洗ったところ,太陽の女神,天照大神を産み」ました。後に,海原の神,須佐之男命が天照大神をあまりびっくりさせたので,彼女は「天の岩屋戸に隠れ,丸石で入口をふさいだため,世界は闇になり」ました。そこで,神々は天照大神をその岩屋戸から出させる計略を考え,ときをつくるおんどりを集め,大きな鏡を作り,また榊に玉や布の吹き流しを取り付けました。その後,天鈿女命が踊りだし,足で桶を踏んでどんどんと鳴らしました。彼女は夢中になって踊るあまり,衣服を脱ぎ捨てたため,神々がどっと笑いだしました。そのすべての物音のために好奇心をそそられた天照大神は,外をのぞくと,鏡に映った自分の姿を見ました。彼女がそこに映った自分の姿に引き寄せられて岩屋戸から出たとたん,手力男命(「力の神」の意)が彼女の手をつかんで,外に引き出すと,「世界はもう一度,太陽の女神の光で明るく照らされ」ました。―「新ラルース神話百科事典」。―創世記 1:3-5,14-19; 詩編 74:16,17; 104:19-23と比較してください。
[193ページの囲み記事]
神道 ― 祭りの宗教
日本人の年中行事にはたくさんの祭りがあります。次に,その主要な祭りの幾つかを掲げます。
■ 正月,1月1-3日; 新年の祝い。
■ 節分,2月3日; 「鬼は外,福は内」と叫びながら,家の内外に豆をまく。
■ ひな祭り,3月3日; 女の子のためのひな人形の祭りで,ひな壇が設けられ,古代の天皇家の様子が表わされる。
■ 端午の節句,5月5日; 男の子のための祭りで,こいのぼり(力を象徴する,こいの吹き流し)がさおの先に付けられて翻る。
■ 月見; だんごや作物の初なりを供えて,中秋の満月を観賞する。
■ 神嘗祭; 天皇が10月に新米をささげる儀式。
■ 新嘗祭; 皇室により11月に祝われ,皇室神道の大神官としての天皇による新米の味見が行なわれる。
■ 七五三; 神道を奉ずる家族により11月15日に行なわれる祝い。七,五,三,つまり七歳,五歳,三歳という年は重要な過渡期とみなされており,子供たちはきれいな着物を着て,氏神の神社にもうでる。
■ 4月8日の仏陀の誕生日や7月15日(陰暦)のお盆を含め,仏教の多くの祭りもある。「先祖の霊をあの世に送る」ため,ちょうちんを海や川に流すことにより,お盆は終わる。
[188ページの図版]
神々の恵みを願い求めている神道の帰依者
[189ページの図版]
神道,つまり“神々の道”
[190ページの図版]
富士山のように,一つの山全体が神体,つまり崇拝の対象とみなされる場合もあります
[195ページの図版]
みこしを担ぐ,神道の信奉者たちと,上は京都の葵祭りで,タチアオイ(葵)の葉を身に着ける信者
[196ページの図版]
紙や亜麻の布切れを先に結びつけた榊の枝を振り動かして,人や物をはらい清めれば,その安全が保証されるとみなされています
[197ページの図版]
左の神棚の前で祈り,同時に仏壇の前で祈っても,日本人は矛盾しているとは感じません
[198ページの図版]
かつて天皇(壇上)は太陽の女神の子孫として崇拝されました
[203ページの図版]
自分の買った絵馬,つまり祈願用の木製の横額を神社で取り付けている若い女性