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「われは主エホバを避所とせり」ものみの塔 1968 | 1月15日
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を,考えることがしばしばありました。しかし,遠い南部の一証人から,協会をとおして1通の手紙を受け取ったときの喜びを想像して下さい。この証人は,わたしたちの訪問が,彼女と彼女の家族にとって何を意味したかを,わたしたちに知らせたかったのです。わたしたちの最後の訪問から1年後,つまり他のエホバの証人がそこへきたとき,彼ら ― 父親,母親,そして成人したむすこと娘 ― はバプテスマを受けたのです。彼らは間もなく家財を売って開拓奉仕者になりました。
わたしはいま病弱ですが,それでも自分の力におよぶだけの奉仕をするとき,エホバが過去いく年にもわたって与えて下さった多くの特権を思い出します。そして,「われは主エホバを避所とせり」と言い得,かつそれを実行した詩篇の筆者と同じ道を歩んだことを,心からうれしく思っています。―詩 73:28。
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読者からの質問ものみの塔 1968 | 1月15日
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読者からの質問
● ルカの福音書 20章34節から36節にあるイエスのことばは,地上の復活にあてはまるのですか,それとも14万4000人の天的な復活にあてはまるのですか。―オーストラリアの一読者より。
この聖句に関してはしばしば質問が寄せられます。まず問題の聖句は次のように述べています。「この世の子らは,めとったり,とついだりするが,かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは,めとったり,とついだりすることはない。彼らは天使に等しいものであり,また復活にあずかるゆえに,神の子でもあるので,もう死ぬことはあり得ないからである」。
人間の最も強い情緒は多くの場合,配偶者同志を結びつけている感情です。ゆえにクリスチャンが復活の時の結婚の見込みに関心を持つのはもっともな事と言えます。地上で永遠に生きることを望む忠実な神のしもべの中には配偶者に死なれた人が大ぜいいます。そのような人は復活の時にはふたたび夫婦として結ばれたいという願いに根拠があればよいと望んでいます。その誠実な願いに決して冷淡なわけではありませんが,イエスのことばが地上での復活にあてはまること,またそのことばから見て,復活した人々は結婚せず,以前の配偶者とふたたび結ばれることもないということを認めないわけにはいきません。
この立場をとる理由を理解するには,イエスのことばの背景を考慮することが必要でしょう。マタイの福音書 22章23節から33節にあるイエスのことばを読むのは有益なことです。イエスを困らせようとしてサドカイ人は次のような問題を出しました。子をもうけないうち夫に先だたれたあるユダヤ人の女が申命記 25章5節から10節にしるされた義理の兄弟との結婚に関する律法にしたがって,亡夫の兄弟と結婚し,その夫も子がなくて死に,同様にして7人の兄弟を次々に夫にしました。復活のとき女はだれの妻になるのかというのがサドカイ人の質問でした。―ルカ 20:28-33。
ユダヤ人には地上における復活についての知識と希望がありました。もっともイエスに反対したこれらサドカイ人は,ヘブル語聖書に明白に示された復活の希望を信じていませんでした。(イザヤ 25:8。ヨブ 14:13。ダニエル 12:13)サドカイ人の質問に答えたイエスは,天の生命への復活のことを話して彼らの質問をはぐらかすようなことをされませんでした。彼らの質問はモーセの律法の下にあった,そしてイエスが天の生命への道を開かれる前に死んだユダヤ人に関するものでした。そこでイエスは当然にその立場に立って答えられました。「復活の時には,彼らはめとったり,とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである」― マタイ 22:30。
マタイの福音書 22章31,32節およびルカの福音書 20章37,38節においてイエスが地的な復活を考えておられたことは,アブラハム,イサク,ヤコブのことにふれ,また燃える柴のところでモーセに告げられたことばをひいて,これらの族長が復活することを証明されたことからもわかります。聖書はこれらの人々にどんな希望をさしのべていますか。イエスが天の生命への道を開き,人類の少数者のために天の生命の希望をさしのべられるまえに死んだこれらの人々は,地上に復活することでしょう。(マタイ 11:11。使行 2:34。ヘブル 10:19,20)それでこの論議の全体は地的な復活に関するものであり,天で御使たちとともになる天的な生命への復活に関するものではありません。
エホバの証人はずっと以前からこのことを理解し,また教えていました。早くも1904年11月
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