C3
コリント第一の手紙で直接または間接引用以外で神の名前が出ている聖句
コリント第一 4:4 「私を調べるのはエホバです」
理由: 入手できるギリシャ語写本はこの節で「主」(キュリオス)という語を使っている。ギリシャ語聖書で,「主」という称号はたいてい,文脈によってエホバ神かイエス・キリストを指す。ここでは,エホバ神のことが言われている。文脈から分かるように,パウロは,権限が全くないのに「人間の法廷」に座っているかのように自分を裁こうとする人間による判断を気にしていなかった。自分についての自分の判断さえ当てにしていなかった。(コリント第一 4:1-3)ヘブライ語聖書では,エホバ神こそご自分に仕える人を調べる方として表現されている。(詩編 26:2; 66:10; 139:23。格言 21:2。エレミヤ 20:12)それで,パウロにとって自分を調べる方としてエホバに目を向けるのは自然なことだっただろう。さらに,学者たちが認めているように,この節で,ギリシャ語の標準的な文法用法に従えばキュリオスの前にあるはずの定冠詞がない。そのため,他の多くの箇所と同様,この文脈でキュリオスは固有名詞同然になっている。このように,ヘブライ語聖書の背景とギリシャ語の定冠詞の欠落からすると,この節で神の名前を使う十分な理由がある。付録C1参照。
支持する見解:
「パウロによるコリント人への第一の手紙に関するハンドブック」(A Handbook on Paul's First Letter to the Corinthians,ポール・エリングワース,ハワード・A・ハットン,1994年,90ページ)は,コリント第一 4章4節についてこう述べている。「裁くと訳されている動詞はやはりアナクリノーで,引き続き,調べる過程について述べていると思われるが,ここでは神によって調べられることを指す。ギリシャ語では主に定冠詞が付いておらず,『私を取り調べる権利が唯一あるのは主』ということを意味しているのかもしれない」。
「使徒パウロによるコリント人への第一書簡」(The First Epistle of Paul the Apostle to the Corinthians,ジョン・パリー編集,1916年,75ページ)は,コリント第一 4章4節でのキュリオス(主)の出例についてこう述べている。「注目できる点として,旧約聖書の引用や言及で明らかにセプトゥアギンタ訳の言い回しを取り入れている場合,または前置詞の後の場合や無冠詞の名詞相当語句の後の属格の場合を除き,聖パウロは無冠詞のκύριος [定冠詞なしのキュリオス] を全く使っていない。こことロマ 14:6は例外である。これら2つの聖句 [ローマ 14:6,コリント第一 4:4] で,単にκύριος[キュリオス]=キリストだとすると,なぜ冠詞が省略されているか理解しにくい。恐らく冠詞の欠落は,調べて裁くとされる方の権利を強調していると見るのがよい。『私を調べるのは主』で,それゆえ全権を持っている」。
「新国際訳 フェイスライフ 研究用聖書」(NIV Faithlife Study Bible,2017年)は,コリント第一 4章4節についてこう述べている。「[パウロ]は,自分の忠実さを判断するのに,自分の良心ではなく神に頼っている」。
支持する資料: J7,8,10,17,18,23,24,28-33,41,65,66,93,95,100,106,115,125,138,139,146,187,310,323,324
コリント第一 4:19 「エホバが望まれるなら」
理由: コリント第一 4章19節のほとんどのギリシャ語写本は字義通りに読むと,「主が望まれるなら」となる。文脈からここの主が神であることが分かる。ギリシャ語聖書で,似た表現に出てくる語はキュリオス(主)の場合もテオス(神)の場合もある。(使徒 18:21; 21:14。コリント第一 16:7。ヘブライ 6:3。ヤコブ 4:15)ここで「望まれる」と訳されているギリシャ語動詞と「意志」に当たるギリシャ語名詞は,セプトゥアギンタ訳で,神の名前が出ているヘブライ語聖書の章句を訳すのによく使われている。また,ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の幾つかはここでテトラグラマトンを使っている。それで,ヘブライ語聖書の背景とギリシャ語聖書に出ている似た表現からすると,ここで神の名前を使うのは適切と言える。使徒 18:21; 21:14,ヤコブ 4:15の注釈を参照。
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,コリント第一 4章19節を挙げている。
「アンカー・エール・バイブル コリント第一 序論と注釈付き新訳」(The Anchor Yale Bible—First Corinthians: A New Translation with Introduction and Commentary,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,2008年,第32巻)は,コリント第一 4章19節についてこう述べている。「この表現のキュリオスは復活したキリストではなく,明らかに神を指す」。
「新国際訳 文化的背景 研究用聖書」(NIV Cultural Backgrounds Study Bible,ジョン・H・ウォルトン,クレーグ・S・キーナー,2016年)は,コリント第一 4章19節に出ている「主が望まれるなら」という表現についてこう述べている。「ユダヤ人も異邦人も,『神が望まれるなら……』などのフレーズを使って自分たちの計画に条件を付けることがあった」。
支持する資料: J7,8,10,17,22,23,28-32,41,65,93,94,100,101,106,115,145-147,163,323,324
コリント第一 7:17 「各自がエホバから与えられた分に応じて」
理由: この文脈では明らかに神のことが言われている。ここで「与えられた分」と訳されているギリシャ語動詞メリゾーは,他の箇所でも似た意味で使われ,そこでは原語で神が主語になっている。例えば,ローマ 12章3節で「与えられた」と訳され,脚注では「分け与えられた」,「配分された」となっている。コリント第二 10章13節では,「割り当てて」と訳されている表現で使われていて,脚注では「測って分け与えて[メリゾー]」となっている。これらの聖句では,神がご自分に仕える人たちに分け与える方として述べられている。似た考えが伝道の書 5章18節で表現されている。文脈,使われているギリシャ語動詞,付録C1で説明されているようなギリシャ語キュリオスの背景と曖昧さを考慮して,神の名前が本文で使われている。ギリシャ語聖書の幾つもの訳がこの節で神の名前を使っていることは注目に値する。
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,コリント第一 7章17節を挙げている。
「アンカー・エール・バイブル コリント第一 序論と注釈付き新訳」(The Anchor Yale Bible—First Corinthians: A New Translation with Introduction and Commentary,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,2008年,第32巻)は,コリント第一 7章17節についてこう述べている。「ホ キュリオス [主] はここで,ホ テオス [神] と同じこと」。
支持する資料: J28-32,48,65,93,94,100,101,106,115,125,144,146,167,310
コリント第一 10:9 「エホバを試してはなりません」
理由: 多くのギリシャ語写本はここで「主」(トン キュリオン)という語を使っていて,「神」(トン テオン)を使っている写本もある。また,「キリスト」(トン クリストン)としているギリシャ語写本も幾つかある。その読みは,ネストレ・アーラントのギリシャ語本文や現代の幾つかの聖書翻訳で採用されている。しかし,全ての学者が原文では「キリスト」であったと考えているわけではない。例えば,ウェストコットとホートによるギリシャ語本文(1881年)とケンブリッジのティンダル・ハウスによるギリシャ語本文(2017年)は,本文でトン キュリオン(「主」)を使っている。ヘブライ語聖書の背景も考慮すると,この節でもともと神の名前が使われていて後代に「主」や「キリスト」という称号に置き換えられたと考える理由がある。パウロはここで,出エジプト記 16章2,3節,17章2,3,7節や民数記 14章22節などに記されている,イスラエル人がエホバ神を試した出来事を言っている。「試す」に当たるギリシャ語(エクペイラゾー)はマタイ 4章7節とルカ 4章12節でも使われていて,そこでイエスは申命記 6章16節から引用している。ヘブライ語本文には,「あなたはマッサで試したようにエホバ神を試してはなりません」とある。コリント第一 10章9節で使われている「試して」に当たるギリシャ語は,セプトゥアギンタ訳の申命記 6章16節にも出ていて,そのヘブライ語本文では神の名前が使われている。マッサでの出来事は出エジプト記 17章1-7節に書かれていて,そこでモーセは民に,「どうしてエホバを試し続けるのですか」と尋ねている。パウロはコリント第一 10章9節の後半で,「試した人たちは,蛇によって滅びました」と言っている。これは民数記 21章5,6節に書かれている出来事で,「民は神とモーセを何度も非難し」,「エホバは民の中に毒蛇を送」った。パウロは詩編 78編18節のことも考えていたのかもしれない。詩編作者は,イスラエル人が「心の中で神に挑んだ[直訳,「を試した」]」と述べている。これらの聖句から,イスラエル人が「試し」たのは神であることがはっきり分かる。それで,文脈とヘブライ語聖書の背景からすると,ここで神の名前を使う確かな理由がある。
支持する見解:
「アンカー・エール・バイブル コリント第一 序論と注釈付き新訳」(The Anchor Yale Bible—First Corinthians: A New Translation with Introduction and Commentary,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,2008年,第32巻)は,コリント第一 10章9節についてこう述べている。「昔の多くの注釈者はキュリオン [主] という読みや,それがセプトゥアギンタ訳と同様にヤハウェを意味するという理解を好んだ」。
「使徒パウロによるコリント人への第一書簡」(The First Epistle of Paul the Apostle to the Corinthians,ジョン・パリー編集,1916年,147ページ)は,コリント第一 10章9節についてこう述べている。「聖パウロがイスラエル人は『キリストを試し』たと言おうとしていたとは結論できない。……4節を考慮に入れても,イスラエル人がキリストを試したというのは不自然だろう」。
「聖書文献ジャーナル」(Journal of Biblical Literature)の1977年3月号に掲載された「テトラグラマトンと新約聖書」という記事で,ジョージ・ハワードはコリント第一 10章9節についてこう述べている。「この節は民 21:5,6に暗に言及し……,その[ヘブライ語の]マソラ本文には,Yhwhが民の中に火の蛇を送ったとある。クムラン文書から類推すると,パウロのこの言葉には,もともとテトラグラマトンがあった可能性がある。そうであれば,その代わりに,最初にθεόν [テオン],κύριον [キュリオン] が,後に写本家の解釈としてΧριστόν [クリストン] が使われるようになったと思われる」。
「聖パウロによるコリント人への第一書簡の批判的釈義的注釈」(A Critical and Exegetical Commentary on the First Epistle of St Paul to the Corinthians,アーチボルド・ロバートソン,アルフレッド・プラマー,1911年)は,コリント第一 10章9節についてこう述べている。「新約聖書でὁ Κύριος [ホ キュリオス] は,普通『私たちの主』[イエス]を意味する。しかし,常にそうだとは限らず,ここでは,民 21:4-9や詩 78:18が示しているように,ほぼ確実にエホバを意味している」。
「コリント人への聖パウロの第一および第二書簡の注釈」(The Interpretation of St. Paul's First and Second Epistles to the Corinthians)の397ページで,R・C・H・レンスキはコリント第一 10章7節についてこう述べている。「この引用はセプトゥアギンタ訳の出 32:6からで,そこでは間接的な偶像崇拝つまり金の子牛に関連した陽気な宴会のことが描かれている。その像はエホバのためのものだったが,偶像のようだった。とはいえ,パウロはまさに偶像崇拝的と言える宴会に注目している。そのようにして,自分たちも自由を活用するかのように偶像の祝いで食べ,飲み,楽しむとしてもエホバとの関係を保てると考えていたコリント人の胸に刺さることを述べている」。また,レンスキは9節についてこう述べている。「主を試すというのは,限界まで行き,主がご自分を試す人たちを処罰して自らを神として表すかどうかを見ること」。
支持する資料: J7,8,10,17,18,22,23,46,65,95,96,100,101,125,138,139,145,147,167,291,295,322-324
コリント第一 10:21(1) 「エホバの杯」
理由: 入手できるギリシャ語写本は「主の杯」としているが,神の名前を本文で使う十分な理由がある。パウロはこの部分で,偶像崇拝を避けるように警告している。5節前で,主の晩餐でキリストの血を象徴するぶどう酒の杯について述べていて,それを念頭に置いていたのかもしれない。(コリント第一 10:16)そこでは杯について,「私たちが感謝の祈りをし,感謝の杯から飲む」と書いている。イエスはこの式を制定した時,感謝の祈りをしてから弟子たちに杯を回した。(マタイ 26:27,28。ルカ 22:19,20)その型に従って,「杯」についての祈りが捧げられてから,新しい契約に入っている人たちがその杯から飲む。とはいえ,イエスの贖いの犠牲を用意したのはエホバ。イエスがその犠牲の価値を差し出したのはエホバに対して。その犠牲がどのように使われるかを決定したのはエホバの意志。新しい契約を予告し制定したのはエホバ。(エレミヤ 31:31-34)それで,「エホバの杯」,「エホバの食卓」と言うのは適切。注目できる点として,この節で,ギリシャ語の標準的な文法用法に従えばキュリオスの前にあるはずの定冠詞がない。そのため,キュリオスは固有名詞同然になっている。続くコリント第一 10章22節でもキュリオスが使われている。そこで申命記 32章21節に暗に言及していることは明らかで,文脈(申命記 32:19-21)から分かるように,「彼らは,神ではないものによって私を激怒[または,「嫉妬」,脚注]させた」と言っているのはエホバ。それで,文脈,ヘブライ語聖書の背景,ギリシャ語の定冠詞の欠落を考慮して,神の名前が本文で使われている。
支持する資料: J7,8,10,24,32,41,65,80,94,100,115,146,255
コリント第一 10:21(2) 「エホバの食卓」
理由: 入手できるギリシャ語写本はここで「主の食卓」としている。「エホバの食卓」という表現は,マラキ 1章7節から引用しているかそれに暗に言及していると理解されている。そこではエホバの神殿の犠牲の祭壇が「エホバの食卓」と呼ばれていて,ヘブライ語本文でテトラグラマトンが使われている。入手できるセプトゥアギンタ訳の写本のマラキ 1章7節では,コリント第一 10章21(2)節と似た言い回しが使われている。(コリント第一 10:21の注釈を参照。)注目できる点として,この節で,ギリシャ語の標準的な文法用法に従えばキュリオスの前にあるはずの定冠詞がない。そのため,キュリオスは固有名詞同然になっている。それで,文脈,ヘブライ語聖書の背景,ギリシャ語の定冠詞の欠落を考慮して,神の名前が本文で使われている。(コリント第一 10:21(1)の説明を参照。)
支持する見解:
「使徒パウロによるコリント人への第一書簡」(The First Epistle of Paul the Apostle to the Corinthians,ジョン・パリー編集,1916年,153ページ)は,コリント第一 10章21節に出ている「主の食卓」という表現についてこう述べている。「祭壇のことを食卓と言うことで,もてなす人としての主という考えを伝えている。これは旧約聖書でよく知られた概念」。(コリント第一 10:21(1)の説明を参照。)
支持する資料: J7,8,10,24,32,41,65,80,94,100,115,146,255
コリント第一 10:22 「それとも,『私たちはエホバを嫉妬させるのですか』」
理由: ここでは文脈から,キュリオスが神を指して使われていることが分かる。パウロはクリスチャンに,何らかの偶像崇拝を行ってエホバの嫉妬や怒りを引き起こさないよう警告している。そのために申命記 32章21節の言葉に暗に言及しているが,直接引用してはいない。文脈の申命記 32章19-21節でモーセが書いていることから分かるように,民に対して,「彼らは,神ではないものによって私を激怒[または,「嫉妬」,脚注]させた」と言っているのはエホバ。このように,文脈とヘブライ語聖書の背景は,エホバという名前を本文で使う裏付けとなる。
支持する見解:
「コリント人への聖パウロの第一および第二書簡の注釈」(The Interpretation of St. Paul's First and Second Epistles to the Corinthians,R・C・H・レンスキ)は,コリント第一 10章22節についてこう述べている。「パウロは申 32:21に暗に言及している」。申命記 32章19節の元のヘブライ語本文には神の名前が出ている。
「ホルマン新約聖書注解 コリント第一と第二」(Holman New Testament Commentary—I & II Corinthians,リチャード・L・プラット・ジュニア,2000年)は,コリント第一 10章22節についてこう述べている。「コリント人は,偶像崇拝の行いから逃げ去るべきだった。なぜなら,モーセの下にいたイスラエル人と同じように神の憤りを招きかねなかったから」。
「アンカー・エール・バイブル コリント第一 序論と注釈付き新訳」(The Anchor Yale Bible—First Corinthians: A New Translation with Introduction and Commentary,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,2008年,第32巻)は,コリント第一 10章22節についてこう述べている。「かつて,古代のイスラエル人は偶像崇拝を行ってヤハウェを怒らせた。続くパウロの言葉は,例えば申 32:21のモーセの歌に記されているような怒りのことを暗に述べている。『彼らは,神ではないものによって(エプ ウー テオーイ)私を嫉妬させた。偶像によって私を怒らせた』」。
支持する資料: J7,8,10,14,32,35,41,61,65,74,80,88,94,100,115,130,145-147,255,273
コリント第一 11:32 「それはエホバからの矯正であり」
理由: ヘブライ語聖書で,エホバ神はご自分に仕える人たちを矯正する方として描かれている。(申命記 11:2)例えば,パウロがヘブライ 12章5,6節で引用している格言 3章11,12節にはこうある。「わが子よ,エホバの矯正を拒否してはならない。……エホバは愛する人を戒めるからである」。その聖句の元のヘブライ語本文には,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。そのため,「新世界訳」のヘブライ 12章5,6節の本文でエホバという名前が使われている。ヘブライ 12章5,6節とコリント第一 11章32節で使われている「矯正」と「矯正する」に当たるギリシャ語は,セプトゥアギンタ訳の格言 3章11,12節で使われている語と同じ。それで,矯正に関するパウロのここの表現は,ヘブライ語聖書の同じ格言を基にしているのかもしれない。こうしたヘブライ語聖書の背景は,コリント第一 11章32節の本文で神の名前を使う裏付けとなる。注目できる点として,多くのギリシャ語本文では,この節でギリシャ語キュリオスの前に定冠詞がない。そのため,ギリシャ語本文の最近の学術版では,定冠詞が角括弧に入っているか(ネストレ・アーラントのギリシャ語本文),そもそも本文にない(聖書文学学会やケンブリッジのティンダル・ハウスによるギリシャ語本文)。キュリオスの前の定冠詞の欠落により,この語は固有名詞同然になっている。
支持する見解:
「旧約聖書の同義語」(Synonyms of the Old Testament,第2版,1897年)で,オックスフォードのウィクリフ・ホール元学長ロバート・ベーカー・ガードルストーンは,いわゆる新約聖書での神の名前の使用について次のように述べている。これは,エホバという名前がもともとギリシャ語セプトゥアギンタ訳に含まれていたことを示す写本の証拠が見つかる以前に書かれた。ガードルストーンはこう記している。「もしその[セプトゥアギンタ]訳の中でその言葉[エホバ]がそのまま用いられていたなら,あるいはエホバを表すのに1つのギリシャ語を,アドナイを表すのに別のギリシャ語を使っていたなら,間違いなく新約[聖書]の中の講話や論議の中でもそのような用法がそのまま行われていたであろう。したがって,われらの主は詩編 110編を引用した時,『主わが主にのたまう』と言う代わりに,『エホバわがアドニにのたまう』と言われたのかもしれない」。ガードルストーンは,新約聖書の本文のどこに神の名前が出てくるべきか見極めることの難しさについてこう述べている。「仮に,あるクリスチャンの学者がギリシャ語の新約をヘブライ語に訳す仕事に取り掛かったとすると,その人はΚύριος [キュリオス] という語が出てくるたびに,その語が実際にはヘブライ語の何に相当するかを文脈から読み取れるかどうかを考慮しなければならないであろう。これは,エホバという称号が旧約[聖書のセプトゥアギンタ訳]の中に入れられていたなら,新約をどの言語に翻訳する場合でも生ずる困難な問題なのである。多くの章句で指針となるのはヘブライ語聖書であろう。したがって,『主のみ使い』という表現が出てくる時はいつでも,主という言葉はエホバを表していることをわれわれは知っている。もし,旧約により作られた先例に従うとすれば,『主の言葉』という表現についても同様の結論に達するであろう。『万軍の主』という称号の場合も同様である。逆に,『わが主』,もしくは『われらの主』という表現が出てくる時はいつでも,エホバという言葉を用いるのは認め難いことであり,アドナイまたはアドニを使わねばならないということをわれわれは知るべきであろう。しかし,規則を定めることができない章句は多いであろう」。以下に示されているように,幾つもの聖書翻訳はこの節で神の名前を使うという判断をしている。ヘブライ文字のテトラグラマトンを使うものもあれば,Yahweh,YAHVAH,YHWHなどを使っているものもある。
支持する資料: J16,18,32,65,94,95,100,101,115,125,145-147,167,201,310,323,324
コリント第一 14:21 「エホバは言う」
理由: パウロは,さまざまな言語を話すことについての論議でイザヤ 28章11,12節から引用している。そこではエホバが話していて,「神は……語る」とある。ただ,ここでは神が語ったその言葉を「私は……語る」と一人称で引用している。パウロはそれが誰の言葉かはっきり分かるように,引用の後に,入手できるギリシャ語写本に従えば「主は言う」となるフレーズを加えている。しかし,このフレーズは「エホバは言う」や「エホバは宣言する」に当たるヘブライ語の訳としてセプトゥアギンタ訳に何百回も出てくる。そうした例については,イザヤ 1章11節,48章17節,49章18節(ローマ 14:11で引用されている),52章4,5節を参照。それで,ヘブライ語聖書の背景は,コリント第一 14章21節のこのフレーズを「エホバは言う」と訳す裏付けとなる。注目できる点として,この節で,ギリシャ語の標準的な文法用法に従えばキュリオスの前にあるはずの定冠詞がない。そのため,キュリオスは固有名詞同然になっている。
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,コリント第一 14章21節を挙げている。
「アンカー・エール・バイブル コリント第一 序論と注釈付き新訳」(The Anchor Yale Bible—First Corinthians: A New Translation with Introduction and Commentary,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,2008年,第32巻)は,コリント第一 14章21節についてこう述べている。「パウロはイザ 28:11,12……を少し言い換えて引用していて,イザヤの言葉の一部を使っている」。この引用の背景について,こう書かれている。「それで,エフライムとユダの民は不本意ながら,アッシリア語で話す侵略者を通してヤハウェの言葉を聞くことになった」。
「コリント人への第二書簡の批判的釈義的注釈」(A Critical and Exegetical Commentary on the Second Epistle to the Corinthians,マーガレット・E・スロール,2004年)は,コリント第二 3章16,17節の説明で,κύριος [キュリオス] が「ヤハウェを指す」節として,コリント第一 14章21節を挙げている。
支持する資料: J7,8,10-12,14,16-18,22-24,28-36,38,40-43,46,47,52,59-61,65,66,88,90,93,95,96,99-102,104-106,114,115,117,125,130,136,144-147,149,154,164-166,178,187,195,201,203,209,210,217,237-239,244,250,265,269,271,273,275,279,283,287,290,295-297,310,323,324
コリント第一 16:7 「エホバがそうさせてくださるならば」
理由: 入手できるギリシャ語写本はここで「主」(キュリオス)という語を使っている。ギリシャ語聖書で,これと似た表現に出てくる語はキュリオス(主)の場合もテオス(神)の場合もある。そのため,この文脈で「主」が神を指していると考えるのはもっともなことである。(使徒 18:21; 21:14。コリント第一 4:19。ヘブライ 6:3。ヤコブ 4:15)また,ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の幾つかはここでテトラグラマトンを使っている。それで,ギリシャ語聖書の他の箇所で使われている似た表現とそうした表現のヘブライ語聖書の背景からすると,ここで神の名前を使うのは適切と言える。使徒 18:21; 21:14,ヤコブ 4:15の注釈を参照。
支持する見解:
「解説者の聖書注解」(The Expositor's Bible Commentary,1976年,第10巻)のコリント第一 16章7節の注釈で,W・ハロルド・メアはこう述べている。「『主が許してくださるなら』というのは,パウロが自分の人生を神の意向に完全に委ねていたことを強調している」。
「新国際訳 文化的背景 研究用聖書」(NIV Cultural Backgrounds Study Bible,ジョン・H・ウォルトン,クレーグ・S・キーナー,2016年)は,コリント第一 16章7節に出ている「主が許してくださるなら」という表現についてこう述べている。「ユダヤ人も異邦人も,自分たちの計画について『神が望まれるなら』やそれと似たことをよく言った」。
支持する資料: J7,8,10,14,16-18,22,23,32,65,94,95,100,101,115,125,138,145-147,167,310,322-324
コリント第一 16:10 「エホバの活動」
理由: 入手できるギリシャ語写本はここで「主」(キュリオス)という語を使っている。ここでは,エホバ神のことが言われているようだ。注目できる点として,この節で,ギリシャ語の標準的な文法用法に従えばキュリオスの前にあるはずの定冠詞がない。そのため,キュリオスは固有名詞同然になっている。
支持する見解:
「使徒パウロによるコリント人への第一書簡」(The First Epistle of Paul the Apostle to the Corinthians,ジョン・パリー編集,1916年,248ページ)は,コリント第一 16章10節についてこう述べている。「無冠詞のΚύριος [定冠詞なしのキュリオス] がキリストを指して使われるのは,前置詞の後の場合や無冠詞の名詞相当語句の後の属格の場合だけのようだ。……それでここは=τοῦ θεοῦ [神]」。この本は続けて,コリント第一 16章10節で「活動」と訳されているギリシャ語(エルゴン)が使われているローマ 14章20節とヨハネ 6章28節を挙げている。そこでは,同じギリシャ語が「神の働き」や「神の求めること」という表現で使われている。この点も,ここの「主」がエホバ神を指すことを裏付けている。
支持する資料: J7,8,10,14,16-18,24,28-32,65,93-95,100,101,106,115,146,310,323,324