C3
ルカの書で直接または間接引用以外で神の名前が出ている聖句
ルカ 1:6 「エホバの……おきてと法的な要求」
理由: 現存するギリシャ語写本はここで「主」(トゥー キュリウー)としているが,神の名前を本文で使う十分な理由がある。ギリシャ語聖書で,キュリオスは文脈によってエホバ神もイエス・キリストも指せる。ここでは文脈から,キュリオスが神を指して使われていることが分かる。ルカの記述の最初の2章には,ヘブライ語聖書の中で神の名前が出てくる表現や章句への直接的また間接的な言及がたくさんある。例えば,「おきてと法的な要求」という語句や同様の法律用語の組み合わせは,ヘブライ語聖書中で神の名前が使われていたりエホバが話していたりする文脈で見られる。(創世記 26:2,5。民数記 36:13。申命記 4:40。エゼキエル 36:23,27)注目できる点として,この2つのギリシャ語の法律用語はセプトゥアギンタ訳の申命記 27章10節に出ている。この節の一部が載っているギリシャ語セプトゥアギンタ訳の初期のパピルス断片(ファド・パピルス266)で,神の名前がヘブライ語の方形文字で書かれている。この断片は紀元前1世紀のもの。こうしたエホバの基準に関わる用語についてのヘブライ語聖書の背景は,ここでキュリオスが神の名前の代わりに使われていることを示している。
支持する見解:
「ルカの福音書の翻訳者ハンドブック」(A Translator's Handbook on the Gospel of Luke,聖書協会世界連盟発行 [1971年],J・レイリングとJ・L・スウェレンフレベル執筆)は,ルカ 1章6節についてこう述べている。「『主』,セプトゥアギンタ訳と同様,その訳ではヤハウェに当たるヘブライ語アドーナーイをキュリオスとしている。1章と2章の全ての出例(1:43と2:11を除く)と5:17……でこの意味」。
「国際標準聖書百科事典」(The International Standard Bible Encyclopedia,ジェフリー・W・ブロミリ編集,1982年,第2巻508ページ)はこう述べている。「ギリシャ語キュリオスはたいてい『主』と訳され,セプトゥアギンタ訳のヘブライ語YHWHに相当する。……『主』は神(父: マタ 5:33,ルカ 1:6)……を指すことがある」。
「ルカの福音書と使徒行伝の神学」(A Theology of Luke's Gospel and Acts,ダレル・L・ボック,2011年,126ページ)はこう述べている。「よく出てくるκύριος(キュリオス)は,もともとセプトゥアギンタ訳でヤハウェに当たる名前として使われていた。この語は幼少期に関する[ルカの]記述で特に多く,25回出てくる」。
「新約聖書・初期キリスト教文献希英辞典」(A Greek-English Lexicon of the New Testament and Other Early Christian Literature,F・W・ダンカー改訂・編集,2000年,576-577ページ)は,「主」の項目で,「神を指す」場合としてルカ 1章6,9,28,46節,2章15,22節を挙げている。さらに,セプトゥアギンタ訳でのこの語の用法について,「しばしばマソラ本文のヤハウェという名前の置き換えとなっている」と述べている。また,「冠詞なし……,固有名のような」という説明の後に,ルカ 1章17,58節を挙げている。
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 1章6,9,15,16,17,25,28,32,38,45,46,58,66,68節,2章9(2),15,22,23(1)(2),24,26,39節,3章4節,4章8,12,18,19節,5章17節,10章21,27節,13章35節,19章38節,20章37,42(1)節を挙げている。
「アンカー・バイブル」(The Anchor Bible,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,1981年,第28巻)は,ルカ 1章6節についてこう述べている。「幼少期の記述の他の多くの箇所と同じく,キュリオスはここでヤハウェを指して使われている。……このフレーズの残りの部分は,旧約聖書の表現に倣った言い回しになっている」。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の40ページで,R・C・H・レンスキはこの節についてこう述べている。「『主(つまりエホバ)の全てのおきてと法的な命令に従って歩み,非の打ちどころがなかった』。[「おきてと法的な命令(要求)」と訳されるギリシャ語] から,申 4:1,40; 6:2に記録されたエホバのおきてと法令が思い出される」。
「コンパニオン・バイブル」(The Companion Bible,E・W・ブリンガーによる注釈付き,1999年印刷)は,ルカ 1章6節の本文で大文字と小型の大文字でつづったLORD(主)を使い,欄外で,「主: ここや他の場所でたいていエホバと訳されなければならない」と説明している。
「完訳ユダヤ人聖書」(Complete Jewish Bible,デビッド・H・スターン,1998年)は,この節を含め,「新世界訳」のルカの本文に「エホバ」が出ているほとんどの節で,大文字と小型の大文字でつづったADONAI(アドーナーイ)を使っている。「完訳ユダヤ人聖書」の翻訳者は序文でこう述べている。「翻訳者である私が,ギリシャ語『キュリオス』はテトラグラマトンを表すと考える箇所では,『アドーナーイ』が使われている」。
支持する資料: J7-17,23,28-35,37-40,42-44,46-49,52,58-60,65,66,88,93-97,100-102,105,114-117,125,130,138,141,144-147,153,154,163,167,180,185-187,217,242,250,259,262,263,265,268,271,273-275,283,290,295,306,310,312,325
ルカ 1:9 「エホバの聖なる所」
理由: ほとんどのギリシャ語写本はここで「主」(トゥー キュリウー)としていて,「神」としている写本も幾つかある。しかし,ルカ 1章6節の説明にある通り,ルカの記述の最初の2章には,ヘブライ語聖書の中で神の名前が出てくる章句や表現への直接的また間接的な言及がたくさんある。現存するギリシャ語写本はここでキュリオスを使っているが,神の名前を本文で使う十分な理由がある。ヘブライ語聖書の中で,「エホバの聖なる所 [または,「神殿」]」という言い回しに対応する表現では,テトラグラマトンがしばしば使われている。(民数記 19:20。列王第二 18:16; 23:4; 24:13。歴代第二 26:16; 27:2。エレミヤ 24:1。エゼキエル 8:16。ハガイ 2:15)この表現に関するこうしたヘブライ語聖書の背景は,ここでキュリオスが神の名前の代わりに使われていることを示している。
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 1章9節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の43ページで,R・C・H・レンスキはこの節について,「Κύριος [キュリオス] はヤハウェを訳したもの」と述べている。
「新約聖書のテキストと翻訳に関する注釈」(New Testament Text and Translation Commentary,フィリップ・W・カンフォート,2008年)は,ルカ 1章9節についてこう述べている。「この節の『主』は『主イエス・キリスト』ではなく『ヤハウェ』」。
支持する資料: J7-18,22,23,28-36,38-40,42-44,46-49,52,59,60,65,66,88,93,95,100-102,105,106,114-116,127,138,141,145-147,153,154,163,167,180,187,217,242,250,259,262,265,267,268,271,273-275,283,290,295,306,310,312,322-325
ルカ 1:11 「エホバの天使」
理由: この表現はヘブライ語聖書に何度も出てくる。初出は創世記 16章7節。ギリシャ語セプトゥアギンタ訳の初期の写本では,ギリシャ語アンゲロス(天使,使者)の後に,ヘブライ文字で書かれた神の名前が続いている。注目できる点として,セプトゥアギンタ訳の後代の写本で,その節や他の多くの節の神の名前がキュリオス(主)に置き換えられた時,ギリシャ語の標準的な文法用法で必要なはずの定冠詞が付け加えられることはあまりなかった。それで,ここや他の節の定冠詞の欠落も,キュリオスが神の名前の代わりに使われていることを示しているのだろう。(マタイ 1:20の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「新約聖書でヤハウェまたは神を指して使われている」節として,ルカ 1章11節を挙げている。
「アンカー・バイブル」(The Anchor Bible,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,1981年,第28巻)は,ルカ 1章11節についてこう述べている。「『主の天使』は,士 13:3でサムソンの父親マノアの不妊の妻の前にも現れる。……アンゲロス キュリウーというギリシャ語のフレーズは,ギリシャ語の定冠詞の欠落から分かるように,マルアクYhwh,『ヤハウェの使者』というヘブライ語の連語句を反映したセム語系表現になっている。時にヤハウェ自身と区別がつかないように思える旧約聖書中の高位の者」。
支持する資料: J7-13,16-18,22-24,28-36,38-43,46-49,52,59-61,65,66,88,90,93-95,100-103,105,106,114-117,125,127,128,130,133,138,144-147,153,154,180,186,187,217,237,242,250,259,262,263,265,268,271,273-275,283,290,295,306,310,312,322-325
ルカ 1:15 「エホバの前で」
理由: ルカの記述の最初の2章には,ヘブライ語聖書の中で神の名前が出てくる章句や表現への直接的また間接的な言及がたくさんある。現存するほとんどのギリシャ語写本はこの節でキュリオス(主)という語を使っていて,「神」としている写本も幾つかある。しかし,神の名前を本文で使う十分な理由がある。文脈から,ここでキュリオスが神を指して使われていることが分かる。エノーピオン キュリウーというギリシャ語の表現(直訳,「主の見ている所 [前] で」)はヘブライ語の慣用句をそのまま取り入れたもので,原文でテトラグラマトンが使われているヘブライ語のフレーズの訳として,セプトゥアギンタ訳の現存する写本に100回以上出ている。(裁き人 11:11。サムエル第一 10:19。サムエル第二 5:3; 6:5)この表現に関するこうしたヘブライ語聖書の背景は,ここでキュリオスが神の名前の代わりに使われていることを示している。
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 1章15節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の46ページで,R・C・H・レンスキはこの節について,「『主の前で』(これまでと同じくヤハウェのこと)」と述べている。
「新約聖書のテキストと翻訳に関する注釈」(New Testament Text and Translation Commentary,フィリップ・W・カンフォート,2008年)は,ルカ 1章15節についてこう述べている。「ここの主はヤハウェであり,主イエス・キリストではない」。
「アンカー・バイブル」(The Anchor Bible,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,1981年,第28巻)は,ルカ 1章15節についてこう述べている。「ここでヨハネの偉大さ(ルカ 7:28を参照)がキュリオスによって評価されている。キュリオスはこの文脈でヤハウェと理解すべきである」。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 1章15節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J7,8,10-18,22,23,28-36,38-43,46-49,52,53,59,60,65,66,73,88,93-95,100-102,104,106,114-117,122,125,127,130,133,136,138,144-147,153,154,180,186,187,217,222,242,250,259,262,263,265,268,271,273-275,283,290,295,310,322-325
ルカ 1:16 「イスラエル人の多くをエホバ神 [または,「彼らの神エホバ」] のもとに帰らせます」
理由: 現存するギリシャ語写本はここでキュリオス(主)という語を使っているが,神の名前を本文で使う十分な理由がある。ギリシャ語聖書で,キュリオスは文脈によってエホバ神もイエス・キリストも指せる。ゼカリヤに対する天使の言葉(13-17節)には,ヘブライ語聖書で使われている表現が色濃く反映されている。例えば,ヘブライ語聖書からの引用に,人称代名詞を伴うテオス(神)とキュリオス(主)の組み合わせ(ここでの「彼らの神エホバ」に当たる)がよく出てくる。(マタイ 22:37,マルコ 12:30,ルカ 10:27にある「あなたの神エホバ」という表現と比較。)ヘブライ語聖書の原文で,「彼らの神エホバ」という組み合わせは30回以上あるが,「彼らの神である主」という組み合わせは一度も使われていない。また,ここの「イスラエル人」(直訳,「イスラエルの子たち」)という言い回しも,ヘブライ語聖書で何度も使われているヘブライ語の慣用句をそのまま取り入れたもの。(創世記 36:31,脚注)ここで使われている「エホバ……のもとに帰らせます」とよく似たギリシャ語表現がセプトゥアギンタ訳の歴代第二 19章4節で,「エホバのもとに連れ戻す」というヘブライ語のフレーズの訳として使われている。(ルカ 1:6の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 1章16節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の48ページで,R・C・H・レンスキはこの節について,「Κύριος [キュリオス] はこれまでと同じくヤハウェのこと」と述べている。
「ルカの福音書の翻訳者ハンドブック」(A Translator's Handbook on the Gospel of Luke,聖書協会世界連盟発行 [1971年],J・レイリングとJ・L・スウェレンフレベル執筆)は,ルカ 1章16節についてこう述べている。「ここや[ルカ] 1:32,68は,旧約聖書を強く連想させる箇所。それで,旧約聖書の背景から,この言葉は固有名ヤハウェと普通名詞エローヒームから成るヤハウェ エローヒームのギリシャ語訳と理解できる」。
「アンカー・バイブル」(The Anchor Bible,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,1981年,第28巻)は,ルカ 1章16節についてこう述べている。「預言者としての気迫と力を備えたヨハネは,離反していたイスラエルを改心させるためのヤハウェの道具となる。……ここのキュリオスは明らかにヤハウェを指す」。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 1章16節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J7-18,22-24,28-43,46-49,52-55,57,59-61,65,66,88,90,93-95,97,100-105,112,114-117,122,125,127,128,130,133,136,138,141,144-147,153,154,161,163,166,180,185-187,200,217,222,223,242,243,250,259,262,263,265,268,271,273-275,283,290,295,310,312,322-325
ルカ 1:17 「準備ができた民をエホバのために整えます」
理由: ゼカリヤに対する天使の言葉(13-17節)には,神の名前が使われているマラキ 3章1節,4章5,6節とイザヤ 40章3節などの聖句への言及と思われる箇所がある。(ルカ 1:15,16の説明を参照。)現存するギリシャ語写本はここでキュリオス(主)という語を使っているが,ヘブライ語聖書の背景からすると,神の名前を本文で使う十分な理由がある。さらに,「民を……整えます」に当たるギリシャ語のフレーズと似た表現がセプトゥアギンタ訳のサムエル第二 7章24節にあり,そこのヘブライ語は,「あなたはイスラエルの民が……ご自分の民となるようにしました。エホバ,あなたは」となっている。(ルカ 1:6の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 1章17節を挙げている。
「アンカー・バイブル」(The Anchor Bible,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,1981年,第28巻)は,ルカ 1章17節についてこう述べている。「神の前を行く。つまりヤハウェの前を,マラ 3:1の使者として。……マラ [4:5,6] で,『ヤハウェの大いなる畏るべき日』の前に遣わされる使者とされている(マラ 3:2を参照)。……このような意味で,天使はゼカリヤに息子ヨハネが主(=ヤハウェ)の前を行くと述べている。ルカ 1:76を参照。……民を主にふさわしく整える。この一部は,『民を整える』という旧約聖書表現(サム下 7:24)」。
「聖ルカによる福音書」(Évangile Selon Saint Luc,M・J・ラグランジュ,1921年)というフランス語の参考文献は,ルカ 1章17節についてこう述べている。「冠詞なしのΚυρίῳ [キュリオスの変化形] はヤベに対応する」。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 1章17節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J7-18,22-24,28-36,39,40,42-44,46-49,52,53,61,65,66,88,90,93,95,100-106,114-117,125,127,136,144-147,153,154,163,167,180,185,187,222,242,243,250,254,259,262,271,273-275,283,290,295,310,312,322-325
ルカ 1:25 「エホバがこのようにしてくださいました」
理由: 現存するギリシャ語写本はここでキュリオス(主)という語を使っているが,神の名前を本文で使う十分な理由がある。ここでエリサベツは,創世記 21章1節に記されているサラの経験を思い起こさせるような仕方で感謝を表していて,その聖句には神の名前が出ている。人間に対するエホバの接し方に関して,ヘブライ語聖書では,「してくださいました」に対応するヘブライ語の動詞表現が神の名前と共によく使われている。(出エジプト記 13:8。申命記 4:34。サムエル第一 12:7; 25:30)また,キュリオスの前に,ギリシャ語の標準的な文法用法に従えばあるはずの定冠詞がなく,キュリオスは固有名詞同然になっている。エリサベツは,子供がいないという恥辱が取り去られたことについて,創世記 30章23節のラケルの言葉とよく似た表現を使っている。(マルコ 5:19とルカ 1:6の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 1章25節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の58ページで,R・C・H・レンスキはこの節について,「主(冠詞の有無によらず,これまでと同じくヤハウェのこと)」と述べている。
「ワード聖書注解」(Word Biblical Commentary,ジョン・ノランド,1989年,第35A巻34ページ)は,ルカ 1章25節についてこう説明している。「エリサベツは,神の恵みに対する感嘆の気持ちをサラ(創 21:1)とラケル(創 30:23)の経験を思い起こさせる言葉で言い表している。……幼少期の物語の随所で旧約聖書の記述を連想させる表現が使われている。この出来事は昔の出来事と重ね合わせて理解できる」。
「聖ルカによる福音書」(Évangile Selon Saint Luc,M・J・ラグランジュ,1921年)というフランス語の参考文献は,ルカ 1章25節についてこう述べている。「校訂版ではΚύριος [キュリオス] の前の冠詞が入っていない。Κύριοςはここでヤベを表す」。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 1章25節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J7-18,22,23,28-36,38-44,46,47,52-54,59,60,65,66,90,93-95,100-106,114-117,122,125,130,133,138,141,144-147,153,154,180,185-187,217,222,242,250,259,262,268,271,273,275,283,290,295,306,310,312,323-325
ルカ 1:28 「エホバはあなたと共におられます」
理由: 神の名前を含むこれとよく似た言い回しがヘブライ語聖書に何度も出ている。(ルツ 2:4。サムエル第二 7:3。歴代第二 15:2。エレミヤ 1:19)天使がマリアにしたあいさつは,裁き人 6章12節でエホバの天使がギデオンに呼び掛ける時に使った,「勇士よ,エホバはあなたと共にいます」という言葉とよく似ている。現存するギリシャ語写本はルカ 1章28節で「主」(ホ キュリオス)という語を使っているが,この表現に関するこうしたヘブライ語聖書の背景は,ここでキュリオスが神の名前の代わりであることを示している。(ルカ 1:6の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 1章28節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の62ページで,R・C・H・レンスキはこの節についてこう述べている。「ヤハウェ(これまでと同じくὁ Κύριος [ホ キュリオス])が神を敬うユダヤ人女性に恩恵を与えて助けになるということを天使が知らせる必要はなかった」。
「アンカー・バイブル」(The Anchor Bible,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,1981年,第28巻)は,ルカ 1章28節のこの表現についてこう述べている。「主はあなたと共におられます! これはよく使われる旧約聖書表現だが,旧約聖書であいさつとして出ているのは,ルツ 2:4と士 6:12の2カ所だけ。……旧約聖書でこの表現はしばしば,ヤハウェの助けや支援を表し,軍事的な意味合いがある。明らかに,ここのキュリオスはヤハウェを指すと理解すべきである」。
「解説者のギリシャ語新約聖書」(The Expositor's Greek Testament,W・ロバートソン・ニコル,2002年,第1巻463ページ)は,ルカ 1章28節についてこう述べている。「主(エホバ)があなたと共にいます,またはいますように」。
支持する資料: J5,7-18,22,23,32-36,38-44,46,48,52,59,60,64,65,88,94,95,100-106,114-117,122,128,130,133,136,138,141,144-147,153,154,160,163,180,185-187,211,217,222,242,250,259,262,263,268,271,273-275,283,290,295,306,310,312,322-325
ルカ 1:32 「エホバ神は……王座を彼に与え」
理由: ルカ 1章6節の説明にある通り,ルカの記述の最初の2章には,ヘブライ語聖書の中で神の名前が出てくる章句や表現への直接的また間接的な言及がたくさんある。現存するギリシャ語写本はキュリオス ホ テオス(直訳,「主である神」)という表現を使っているが,神の名前を本文で使う十分な理由がある。「ダビデの王座」に関する天使の言葉は,サムエル第二 7章12,13,16節の約束への間接的な言及で,そこではエホバが預言者ナタンを通してダビデに語っており,直前の文脈にテトラグラマトンが何度も出ている。(サムエル第二 7:4-16)ギリシャ語聖書では,ここで「エホバ神」と訳されている表現とそれによく似た組み合わせはおもに,ヘブライ語聖書からの引用やヘブライ語の文体の影響を受けた箇所に出ている。ヘブライ語聖書の原文に「主である神」という組み合わせは出ていないが,「エホバ神」は40回ほど出ている。「[私の,私たちの,あなたの,あなたたちの,あなた方の,彼の,彼らの]神エホバ」,「……の神エホバ」などの似た組み合わせを含めると,800カ所を超える。一方,セプトゥアギンタ訳の後代の写本では,「エホバ神」というヘブライ語表現に相当するものとしてキュリオス ホ テオス(主である神)という組み合わせを使っている。しかし,西暦3世紀のものとされる羊皮紙断片(オクシリンコス・パピルス vii.1007)には,創世記のセプトゥアギンタ訳が一部含まれていて,創世記 2章8,18節の「エホバ神」という表現の神の名前を訳すのに,キュリオスではなくテトラグラマトンの省略形が使われている。ヘブライ文字ヨードを繰り返してと書かれている。別の興味深い点として,セプトゥアギンタ訳の初期の断片(ファド・パピルス266)で,申命記 18章5,7節に「あなたの神エホバ」や「エホバ神」という組み合わせが出ていて,ギリシャ語本文に神の名前がヘブライ語の方形文字で書かれている。この断片は紀元前1世紀のものとされている。それで,ヘブライ語聖書の背景を考慮して,神の名前が本文で使われている。(ルカ 1:6,16の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 1章32節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の101ページで,R・C・H・レンスキはルカ 1章68節についてこう述べている。「Κύριος ὁ Θεός [キュリオス ホ テオス] は,16節や32節と同じく,ヤハウェ エローヒームに当たるギリシャ語」。
「ゾンダーバン 写真とイラスト付き聖書背景注解」(Zondervan Illustrated Bible Backgrounds Commentary,2002年,第1巻331-332ページ)は,ルカ 1章32節についてこう述べている。「至高者……主である神(1:32)。どちらも旧約聖書で神を指す名称のギリシャ語訳。前者はエール エルヨーン,『至高の神』から,後者はヤハウェ エローヒーム,『ヤハウェ神』から」。
「新約聖書注解」(New Testament Commentary,ウィリアム・ヘンドリクセン,2007年)は,ルカ 1章32節の「至高者」という表現についてこう述べている。「エホバの威厳と主権を強調するこの名称が初めて使われたのは創 14:18」。
「ムーディー聖書注解」(The Moody Bible Commentary,マイケル・ライデルニック,マイケル・バンラニンガム,2014年)は,ルカ 1章31-33節についてこう述べている。「主である神(旧約聖書のヤハウェ)」。
「ユダヤ人注釈付き新約聖書」(The Jewish Annotated New Testament,エイミージル・レバイン,マーク・ズビ・ブレットラー,2011年)は,ルカ 1章32節についてこう述べている。「『至高者』は,ヘブライ語の『エル エルヨン』か『YHWH エルヨン』の訳」。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)は,ルカ 1章32節の「主である神」の脚注でこう述べている。「エホバ エロヒム: 福音書で1カ所だけ」。
支持する資料: J5-18,22-24,28-44,46-49,52,53,55-57,59-61,65,66,88,90,93,95-97,100-106,114-117,125,128,130,136,138,141,144-147,153,154,161,163-167,180,185-187,213,217,222,242,243,250,253,259,262,263,268,271,273,275,283,290,295,306,310,312,322-325
ルカ 1:38 「エホバの奴隷」
理由: マリアはここで,ヘブライ語聖書に出てくるエホバの他の奉仕者が使ったのとよく似た表現を用いている。例えば,ハンナはサムエル第一 1章11節に記されている祈りの中で,「大軍を率いるエホバ,もしあなたが私 [または,「あなたの奴隷」] の苦悩をご覧になり」と言っている。セプトゥアギンタ訳のサムエル第一 1章11節は,ルカの記述で使われているのと同じ「奴隷」に当たるギリシャ語を使っている。現存するギリシャ語写本はルカ 1章38節でキュリオス(主)という語を使っているが,文脈(キュリオスは神を指している)とヘブライ語聖書の背景を考慮して,この節の本文で神の名前が使われている。さらに,学者たちが認めているように,ギリシャ語の標準的な文法用法に従えばキュリオスの前にあるはずの定冠詞がなく,キュリオスは固有名詞同然になっている。このことも,ここでキュリオスが神の名前の代わりに使われていることを示している。(ルカ 1:6の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 1章38節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の76ページで,R・C・H・レンスキはこの節についてこう述べている。「マリアは自分のことをヤハウェ(Κύριος [キュリオス],この章を通じて)の『女奴隷』と言っている。自分は恵みの契約に関してエホバの望む通りに用いていただける,進んで仕えるエホバの所有物である,とマリア自身が宣言している」。
「アンカー・バイブル」(The Anchor Bible,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,1981年,第28巻)は,ルカ 1章38節のこの表現についてこう述べている。「マリアは自分について述べる際,サム上 1:11でハンナが使った旧約聖書の言い回しを使い,ここでキュリオスとなっているヤハウェの前で低い立場にあることを言い表している」。この本の203ページにはこう書かれている。「1:43で,エリサベツはマリアのことを『私の主の母親』と呼んでいる。一方,マリアは自分のことを『主のはしため』(1:38)と呼び,主というこの称号でヤハウェに言及している」。
「ルカの福音書 ギリシャ語本文の注解 [新国際ギリシャ語聖書注解]」(The Gospel of Luke—A Commentary on the Greek Text [The New International Greek Testament Commentary],I・H・マーシャル,1978年)は,ルカ 1章38節でキュリオスは「固有名詞同然なので,冠詞なしで使える」と述べている。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 1章38節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J5,7-18,22-24,28-35,38-40,42,43,46,47,52,53,55,59-61,65,66,88,90,93-95,100-102,104-106,114-117,125,128,138,141,144-147,153,154,180,185,187,217,242,250,259,262,263,265,268,271,273-275,283,290,295,306,310,323-325
ルカ 1:45 「エホバから語られたこと」
理由: 天使がマリアに語ったことは,もともとエホバ神から来ていた。ここで「エホバから」と訳されているギリシャ語の表現パラ キュリウーは,神の名前が使われることの多いヘブライ語表現の訳として,セプトゥアギンタ訳の現存する写本に出てくる。(創世記 24:50。裁き人 14:4。サムエル第一 1:20。イザヤ 21:10。エレミヤ 11:1; 18:1; 21:1)ルカ 1章での他のキュリオス(主)と同じく,学者たちが認めているように,キュリオスの前にあるはずの定冠詞がなく,この語は固有名詞同然になっている。また,このギリシャ語表現に相当するものがセプトゥアギンタ訳の初期の断片(ファド・パピルス266)の申命記 18章16節に出ていて,ギリシャ語本文に神の名前がヘブライ語の方形文字で書かれている。この断片は紀元前1世紀のものとされている。ルカの福音書の現存するギリシャ語写本はここでキュリオスという語を使っているが,文脈とヘブライ語聖書の背景からすると,神の名前を本文で使う十分な理由がある。(ルカ 1:6の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 1章45節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の82ページで,R・C・H・レンスキはこの節について,「天使を通して『主 [ヤハウェ] から』そのように語られたこと全ての実現」と述べている。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 1章45節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J5-18,22-24,28-36,38-43,46,47,52,53,59-61,65,66,88,90,93-95,100-102,104-106,114-117,130,141,144-147,153,154,163,167,186,187,217,242,250,259,262,263,265,271,273-275,290,295,306,310,323-325
ルカ 1:46 「私はエホバをあがめ」
理由: マリアは,詩編 34編3節や69編30節など,ヘブライ語聖書にあるのとよく似た言い回しを使っている。それらの聖句では,その節や文脈で神の名前が使われている。(詩編 69:31)セプトゥアギンタ訳では,ここの節と同じ「あがめる」に当たるギリシャ語(メガリュノー)が使われている。注目できる点として,羊皮紙の巻物の断片の1つ(西暦3世紀か4世紀のものとされるビンドボネンシス・パピルス ギリシャ語 39777)に,シュンマコスのギリシャ語訳の詩編 69編(セプトゥアギンタ訳では68編)の一部が含まれている。この断片の詩編 69編13,30,31節では,神の名前を訳すのに,キュリオスではなく古代のヘブライ文字で書かれたテトラグラマトン(と)が使われている。ヘブライ語聖書の背景に加えて,このことも神の名前を使う裏付けとなる。(ルカ 1:6の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 1章46節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の84ページで,R・C・H・レンスキはこの節についてこう述べている。「マリアの一言目からすでに,ヤハウェ(Κύριος [キュリオス])をあがめるというテーマが明らかになっている」。
「アンカー・バイブル」(The Anchor Bible,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,1981年,第28巻)は,ルカ 1章46節のこのフレーズについてこう述べている。「ヤハウェの偉大さと威光に対する賛美と感謝を表現している。マリアは自分に及んだ祝福がそこから来ていることを認めていた」。ルカ 1章47節の「救い主である神」という表現の注釈にはこう書かれている。「このフレーズは46節の『主』と並行関係にあり,そこのキュリオスがマリアの祝福の源であるヤハウェだと理解できることを示している」。
「新約聖書注解」(New Testament Commentary,ウィリアム・ヘンドリクセン,2007年)は,ルカ 1章46-48節についてこう述べている。「マリアは,『私の魂は主をあがめる』,つまりエホバの偉大さを告げると述べている」。
支持する資料: J5-18,22,23,28-36,38-44,46,47,52,53,55,59,60,65,66,88,93-95,100-102,104-106,114-117,122,130,138,141,144-147,153,154,161,180,185-187,222,242,250,259,262,263,265,268,271,273-275,283,290,295,310,323-325
ルカ 1:58 「エホバから大きな憐れみを示された」
理由: 「エリサベツがエホバから大きな憐れみを示されたこと」と訳されている表現は,ヘブライ語のよくある表現法の影響を受けていて,創世記 19章18-20節の言い回しとよく似ている。そこでロトはエホバに呼び掛け,「エホバ,……あなたは……大きな親切を示して」と述べている。ヘブライ語聖書の背景に加えて,文脈もこの節で神の名前を使う裏付けとなる。(ルカ 1:6の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 1章58節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の94ページで,R・C・H・レンスキはこの節について,「ヤハウェはエリサベツが不妊で悲しんでいることを思いやった」と述べている。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 1章58節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J5-18,22-24,32-35,38-44,46,52,55,59,61,65,66,88,90,95,97,100-102,104,106,114-117,122,125,128,130,138,141,144,146,153,154,186,187,217,222,242,250,259,262,263,268,271,273-275,283,290,295,306,310,323-325
ルカ 1:66 「エホバ [または,「エホバの手」]」
理由: 「手」に当たるヘブライ語とテトラグラマトンを組み合わせた「エホバの手」という表現がヘブライ語聖書に何度も出てくる。(出エジプト記 9:3。民数記 11:23。裁き人 2:15。ルツ 1:13。サムエル第一 5:6,9; 7:13; 12:15。列王第一 18:46。エズラ 7:6。ヨブ 12:9。イザヤ 19:16; 40:2。エゼキエル 1:3)ルカの福音書の現存するギリシャ語写本はこの節でキュリオス(主)という語を使っているが,このようなヘブライ語聖書の背景からすると,神の名前を本文で使う十分な理由がある。また,学者たちが認めているように,ルカ 1章66節では,ギリシャ語の標準的な文法用法に従えばキュリオスの前にあるはずの定冠詞がなく,キュリオスは固有名詞同然になっていることに注目できる。セプトゥアギンタ訳でも同じような状態であり,セプトゥアギンタ訳では最初期の写本に神の名前が含まれていたのに,後代の写本でキュリオスに置き換えられた時,やはり,標準的な文法用法で必要な定冠詞が付け加えられることはあまりなかった。このようにキュリオスの前にあるはずの定冠詞がないことも,ここでキュリオスが神の名前の代わりに使われていることを示している。「エホバの手」と訳されるギリシャ語表現は使徒 11章21節,13章11節にも出ている。(ルカ 1:6の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 1章66節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の98ページで,R・C・H・レンスキはこの節について,「『主の手』とは指導し支える力であり,Κύριος [キュリオス] はヤハウェのこと」と述べている。
「アンカー・バイブル」(The Anchor Bible,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,1981年,第28巻)は,ルカ 1章66節のこの表現についてこう述べている。「ここのキュリオスがヤハウェを指すことはほぼ確実である」。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 1章66節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J5-18,22-24,28-35,38-44,46,47,49,52,55,59-61,65,66,88,90,93-97,100-102,104,114-117,125,128,130,138,141,144-147,153,154,180,187,217,222,242,250,259,262,263,265,268,271,273-275,283,290,295,306,310,322-325
ルカ 1:68 「イスラエルの神エホバが賛美されますように」
理由: この賛美の表現はヘブライ語聖書によくあり,神の名前と一緒に使われることが多い。(サムエル第一 25:32。列王第一 1:48; 8:15。詩編 41:13; 72:18; 106:48)現存するギリシャ語写本はここでキュリオス(主)という語を使っているが,神の名前を本文で使う十分な理由がある。文脈から,キュリオスが「イスラエルの神」を指して使われていることが分かる。この点とヘブライ語聖書の背景は,ここでキュリオス(主)が神の名前の代わりに使われていることを示している。(ルカ 1:6,16の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 1章68節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の101ページで,R・C・H・レンスキはこの節についてこう述べている。「Κύριος ὁ Θεός [キュリオス ホ テオス] は,16節や32節と同じく,ヤハウェ エローヒームに当たるギリシャ語」。
「ルカの福音書の翻訳者ハンドブック」(A Translator's Handbook on the Gospel of Luke,聖書協会世界連盟発行 [1971年],J・レイリングとJ・L・スウェレンフレベル執筆)は,ルカ 1章68節についてこう述べている。「このフレーズの旧約聖書の背景からすると,キュリオスはヤハウェという名前を表していて称号ではないと理解するのが最善である」。
「新約聖書注解」(New Testament Commentary,ウィリアム・ヘンドリクセン,2007年)は,ルカ 1章68節についてこう述べている。「ゼカリヤは栄唱で始めている。エホバを賛美している」。
「ヒエロニムス聖書注解」(The Jerome Biblical Commentary,レイモンド・E・ブラウンとジョセフ・A・フィッツマイヤーとローランド・E・マーフィー編集,1968年)は,ルカ 1章68節以降に記録されているゼカリヤの言葉についてこう述べている。「この賛美の言葉は,救いのために成し遂げてくださったことについてヤハウェをたたえている」。
「スコフィールド注解付き聖書」(The Scofield Reference Bible,C・I・スコフィールド,1909年)では,ルカ 1章68節の欄外注釈に,「エホバ。詩 106:48」と書かれている。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 1章68節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J5-18,22-24,27-44,46-49,52-55,57,59-61,64-66,73,88,90,93-95,97,100-106,108,109,112,114-117,122,125,128,130,133,138,141,144-147,153,154,160,161,163-165,172,180,185-187,217,222,223,236,242,250,259,262,263,265,268,271,273-275,283,290,295,306,310,323-325
ルカ 1:76 「エホバの前を行く」
理由: この節の後半にあるゼカリヤの預言の言い回しは,イザヤ 40章3節とマラキ 3章1節から来ている。そこでは元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。現存するギリシャ語写本はキュリオス(主)を使っているが,ヘブライ語聖書の背景を考慮して,神の名前が本文で使われている。(ルカ 1:6,16,17; 3:4の説明を参照。)また,注目できる点として,キュリオス(主)が出てくるルカ 1章の他の多くの箇所と同じく,この節でも,ギリシャ語の標準的な文法用法に従えばキュリオスの前にあるはずの定冠詞がなく,キュリオスは固有名詞同然になっている。
支持する見解:
「聖書注解」(A Commentary on the Holy Bible,J・R・ダムロー編集,1936年)は,ルカ 1章76節についてこう述べている。「主の: ゼカリヤはこれがエホバを指すと考えていた」。
「聖ルカによる福音書の批判的釈義的注釈」(A Critical and Exegetical Commentary on the Gospel According to St. Luke,アルフレッド・プラマー,1920年)は,ルカ 1章76節についてこう述べている。「16,17節から分かるように,ここでΚυρίου [キュリオスの変化形] はキリストではなくエホバを意味する」。
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」可能性がある節として,ルカ 1章76節を挙げている。
「解説者のギリシャ語新約聖書」(The Expositor's Greek Testament,W・ロバートソン・ニコル,2002年,第1巻469ページ)は,この節について,「ヨハネは主(エホバ)の前を行く」と述べている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の109ページで,R・C・H・レンスキはこの節について,「この章を通じてΚύριοςはヤハウェに当たるギリシャ語」と述べている。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 1章76節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J5-18,22-24,28-35,39-43,46,48,49,52,53,60,61,65,66,88,90,93-95,100-102,105,106,114-116,127,146,153,154,180,185,187,235,242,254,259,262,263,265,271,273,274,283,290,306,310,322-325
ルカ 2:9(1) 「エホバの天使」
支持する資料: J5-13,16,17,22-24,32-36,38-43,46,48,49,52,55,59-61,65,66,88,90,94-96,100-106,114-117,122,128,130,138,141,144-147,153,154,163,167,172,180,185-187,217,222,242,250,259,262,263,265,268,271,273-275,283,290,295,306,310,322-325
ルカ 2:9(2) 「エホバの栄光」
理由: ルカの記述の最初の2章には,ヘブライ語聖書の中で神の名前が出てくる章句や表現への直接的また間接的な言及がたくさんある。現存するほとんどのギリシャ語写本はこの節でキュリオス(主)という語を使っていて,「神」を使っている写本も幾つかある。しかし,神の名前を本文で使う十分な理由がある。ギリシャ語聖書で,キュリオスは文脈によってエホバ神もイエス・キリストも指せる。ヘブライ語聖書には,「栄光」に相当するヘブライ語表現がテトラグラマトンと共に30回以上出てくる。(例えば,出エジプト記 16:7; 40:34,レビ記 9:6,23,民数記 14:10; 16:19; 20:6,列王第一 8:11,歴代第二 5:14; 7:1,詩編 104:31; 138:5,イザヤ 35:2; 40:5; 60:1,エゼキエル 1:28; 3:12,脚注; 10:4; 43:4,ハバクク 2:14。)死海に近いユダヤ砂漠のナハル・ヘベルにある洞窟で見つかったギリシャ語セプトゥアギンタ訳の初期の写本では,ハバクク 2章14節のギリシャ語本文にテトラグラマトンが古代のヘブライ文字で書かれている。この写本は紀元前50年から西暦50年の間のものとされている。また,注目できる点として,セプトゥアギンタ訳の後代の写本で,その節や他の多くの節の神の名前がキュリオスに置き換えられた時,標準的な文法用法に従えばあるはずの定冠詞が付け加えられなかったので,キュリオスは固有名詞同然になっている。それで,ヘブライ語聖書の背景とギリシャ語の定冠詞の欠落を考慮して,ルカ 2章9節の本文で神の名前が使われている。(ルカ 1:6の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 2章9節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の128-129ページで,R・C・H・レンスキはルカ 2章9節の「主の天使」と「主の栄光」という表現についてこう述べている。「1章全体と同様,Κύριος [キュリオス] はヤハウェに当たるギリシャ語。その属格が無冠詞の名詞と合わさって,『エホバ天使』,『エホバ栄光』のように,ひとまとまりの概念になっている。……きらめきのように彼らの前に現れたのはエホバの天使だった」。
「アンカー・バイブル」(The Anchor Bible,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,1981年,第28巻)は,ルカ 2章9節のこの表現についてこう述べている。「セプトゥアギンタ訳で,ドクサはヘブライ語カーボードの訳で,人々が知覚できる仕方でヤハウェが現れるときの『光輝』,『輝き』のこと」。
「マルコとルカの福音書の批判的・釈義的便覧」(Critical and Exegetical Hand-Book to the Gospels of Mark and Luke,ハインリヒ・アウグスト・ウィルヘルム・マイヤー,1884年の第6版)は,ルカ 2章9節のこの表現についてこう述べている。「δόξα κυρίου: יְהוָֹה [YHWH] כְּבוֹד,神を包んでいる輝き」。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 2章9節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J5-8,10-18,22-24,28-36,38-43,46-49,52,55,59,61,65,66,88,90,91,93-96,100-104,114,115,117,138,141,144-147,153,154,167,172,180,185-187,217,222,242,259,262,263,268,271,273-275,283,290,295,306,322-325
ルカ 2:15 「エホバが知らせてくださった」
理由: 天使がメッセージを伝えたが,羊飼いたちはそれがエホバ神から来ていることを認めていた。現存するギリシャ語写本はここで「主」(ホ キュリオス)を使っているが,神の名前を本文で使う十分な理由がある。「知らせて」と訳されているギリシャ語動詞はセプトゥアギンタ訳の中で,神の名前が使われていてエホバが人間に意志を伝えたり人間が神の意志を知ろうとしたりする文脈で,対応するヘブライ語動詞の訳として使われている。(詩編 25:4; 39:4; 98:2; 103:6,7)それで,ユダヤ人の羊飼いたちがここで述べていることと神の名前を結び付けるのは自然なことと言える。(ルカ 1:6の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 2章15節を挙げている。
「アンカー・バイブル」(The Anchor Bible,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,1981年,第28巻)は,ルカ 2章15節のこの表現についてこう述べている。「主が知らせてくださった。つまりヤハウェ」。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の137ページで,R・C・H・レンスキはこの節について,「ここでもΚύριος [キュリオス] はヤハウェを訳したもの」と述べている。
「聖書」(The Holy Scriptures,J・N・ダービー,1991年印刷)では,ルカ 2章15節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J5,7,8,10-12,14-18,22,23,28-31,33-36,39-44,46,47,49,52,59-61,65,88,93-96,100-102,104-106,114-117,122,130,138,141,144-147,153,154,163,172,186,187,222,242,250,259,262,263,265,268,271,273-275,290,306,310,323-325
ルカ 2:22 「その子をエホバに差し出す」
理由: 現存するギリシャ語写本はここで「主」(トーイ キュリオーイ)としているが,神の名前を本文で使う十分な理由がある。ギリシャ語聖書で,キュリオスは文脈によってエホバ神もイエス・キリストも指せる。次の節から分かるように,イエスが生まれた後に神殿に連れてこられたことは,モーセに対するエホバの言葉に沿っている。出エジプト記 13章1,2,12節では両親が「長男[を]エホバに差し出」すよう命じられている。また,「その子をエホバに差し出す」という表現はサムエル第一 1章22-28節に描かれていることとよく似ている。幼いサムエルは「エホバの前」に連れてこられ,エホバへの奉仕のために差し出された。文脈とヘブライ語聖書の背景を考慮して,ルカ 2章22節の本文で神の名前が使われている。
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 2章22節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の141ページで,R・C・H・レンスキはこの節についてこう述べている。「2人は『その子を主に差し出す』ため,エルサレムに連れてきた。主とはヤハウェのことで,Κύριος [キュリオス] はルカの始めの数章を通じてこの意味で使われている。……長男は全てエホバに差し出されなければならなかった」。
「聖書」(The Holy Scriptures,J・N・ダービー,1991年印刷)では,ルカ 2章22節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J5-18,22,23,28-36,38-43,47,49,52,59-61,65,66,88,93-95,100-102,104-106,114-117,125,128,130,138,141,144-147,153,161,163,167,172,180,186,187,203,217,222,242-244,250,259,262,263,265,268,271,273-275,283,290,295,306,310,323-325
ルカ 2:23(1) 「エホバの律法に……書いてある通り」
理由: 現存するギリシャ語写本はここでノモーイ キュリウー,「主の律法」としているが,神の名前を本文で使う十分な理由がある。ギリシャ語聖書で,キュリオスは文脈によってエホバ神もイエス・キリストも指せる。「律法」に当たるヘブライ語とテトラグラマトンを組み合わせたこの表現がヘブライ語聖書に何度も出てくる。(例えば,出エジプト記 13:9,列王第二 10:31,歴代第一 16:40; 22:12,歴代第二 17:9; 31:3; 34:14; 35:26,ネヘミヤ 9:3,詩編 1:2; 119:1,イザヤ 5:24,エレミヤ 8:8,アモス 2:4。)「書いてある通り」といった表現は,ギリシャ語聖書でヘブライ語聖書から引用する際によく使われる。(マルコ 1:2。使徒 7:42; 15:15。ローマ 1:17; 9:33; 10:15)セプトゥアギンタ訳の列王第二 14章6節でも,聖句を引用するのに使われている。「エホバの律法に……書いてある通り」という表現は,神の名前が使われている歴代第二 31章3節,35章26節にあるヘブライ語聖書の表現に似ている。さらに,学者たちが認めているように,ギリシャ語の標準的な文法用法に従えばキュリオスの前にあるはずの定冠詞がなく,この文脈でキュリオスは固有名詞同然になっている。文脈,ヘブライ語聖書の背景,ギリシャ語の定冠詞の欠落からすると,ルカ 2章23節の本文で神の名前を使う十分な理由がある。(ルカ 1:6の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 2章23節を挙げている。
「新約聖書神学辞典」(Theological Dictionary of the New Testament,ゲルハルト・キッテル編集,1967年)は,ルカ 2章23節のこの表現についてこう述べている。「ルカ 2:23では冠詞がないが,νόμος κυρίου [ノモス キュリウー] という組み合わせになっていて,יהוה [YHWH] תורתを参考にして定義できる」。
「スコフィールド注解付き聖書」(The Scofield Reference Bible,C・I・スコフィールド,1909年)では,ルカ 2章23節の欄外注釈に,「エホバ。出 13:2,12」と書かれている。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 2章23節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J5-18,22-24,28-31,33-36,38-43,46,47,49,52,55,58-61,65,66,88,90,93-95,100-102,104,106,114-117,125,141,144-147,153,154,167,172,180,186,187,203,213,217,222,234,236,242-244,250,259,262,263,265,268,271,273-275,283,290,295,306,310,322-325
ルカ 2:24 「エホバの律法に」
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 2章24節を挙げている。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 2章24節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J5-18,22-24,28-36,38-43,46,47,49,52,55,56,58-61,65,66,88,90,93-95,100-102,104,106,114-117,122,125,130,133,141,144-147,153,154,163,167,172,180,186,187,203,213,217,222,234,242-244,250,259,262,265,268,271,273-275,283,290,295,306,310,322-325
ルカ 2:26 「エホバのキリスト」
理由: 入手できるギリシャ語写本は「主のキリスト」(トン クリストン キュリウー)としているが,神の名前を本文で使う十分な理由がある。セプトゥアギンタ訳の現存する写本で,この表現は,「マーシーアハ」とテトラグラマトンを組み合わせたヘブライ語に対応していて,それはヘブライ語聖書で11回使われ,「エホバが選んだ人」などと訳されている。(サムエル第一 24:6 [2回],10; 26:9,11,16,23。サムエル第二 1:14,16; 19:21。哀歌 4:20)ルカの記述とセプトゥアギンタ訳の両方について,学者たちが認めているように,ギリシャ語の標準的な文法用法に従えばキュリオスの前にあるはずの定冠詞がなく,これらの文脈でキュリオスは固有名詞同然になっている。それで,ヘブライ語聖書の背景とギリシャ語の冠詞の欠落を考えると,これらのキュリオスを称号ではなく神の名前に相当するものとして扱うのは妥当である。(ルカ 1:6の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 2章26節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の145ページで,R・C・H・レンスキはこの節について,「主(ヤハウェ,この2章を通じてΚύριοςはこの意味)のキリスト[を]見る」と述べている。
「ゾンダーバン 写真とイラスト付き聖書背景注解」(Zondervan Illustrated Bible Backgrounds Commentary,2002年,第1巻345-346ページ)は,ルカ 2章26節についてこう述べている。「このフレーズは『主が油を注いだ者』という旧約聖書の表現に相当し……,『ヤハウェが選んだ買い戻す者』という意味を伝えている」。
「アンカー・バイブル」(The Anchor Bible,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,1981年,第28巻)は,ルカ 2章26節のこの表現についてこう述べている。「『ヤハウェが油を注いだ者』という旧約聖書の表現(例えば,サム上 24:7,11; 26:9,11,16,23を参照)はここで,まさにメシアのこと,将来の待望のダビデについて使われている」。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 2章26節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J5-18,22-24,28-36,38-43,46,47,49,52,58-61,65,66,88,90,93-95,100-105,114-117,122,125,128,130,138,141,144-147,153,154,163,167,172,180,185,187,203,217,222,242-244,249,259,262,263,265,268,271,273-275,283,290,295,310,322-325
ルカ 2:39 「エホバの律法」
理由: 現存するギリシャ語写本はここでノモン キュリウー,「主の律法」としているが,神の名前を本文で使う十分な理由がある。「律法」に当たるヘブライ語とテトラグラマトンを組み合わせたこの表現がヘブライ語聖書に何度も出てくる。(例えば,出エジプト記 13:9,列王第二 10:31,歴代第一 16:40; 22:12,歴代第二 17:9; 31:3,ネヘミヤ 9:3,詩編 1:2; 119:1,イザヤ 5:24,エレミヤ 8:8,アモス 2:4。)また,注目できる点として,ギリシャ語の標準的な文法用法に従えばキュリオスの前にあるはずの定冠詞がなく,この文脈でキュリオスは固有名詞同然になっている。ヘブライ語聖書の背景とギリシャ語の定冠詞の欠落を考慮して,神の名前が本文で使われている。(ルカ 1:6; 2:23の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 2章39節を挙げている。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 2章39節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J5-18,22-24,28-36,38,40-44,46-49,52,55,59-61,65,66,88,90,93-95,100-104,106,114-117,122,125,128,138,141,144-147,153,154,161,167,172,180,185-187,203,213,217,222,234,242-244,250,259,262,265,268,271,273-275,283,290,295,306,310,322-325
ルカ 5:17 「エホバの力」
理由: ギリシャ語写本はここでキュリオス(主)という語を使っているが,神の名前を本文で使う十分な理由がある。ギリシャ語聖書で,キュリオスは文脈によってエホバ神もイエス・キリストも指せる。ここでは文脈から明らかなように,キュリオスは神を指して使われている。また,ギリシャ語デュナミスは「力」とか「強さ」と訳せる。セプトゥアギンタ訳でこの語は,ヘブライ語の本文でテトラグラマトンが出ていてエホバの力や強さのことが述べられている箇所で使われている。(詩編 21:1,13; 93:1; 118:15)学者たちが認めているように,ルカ 5章17節では,ギリシャ語の標準的な文法用法に従えばキュリオスの前にあるはずの定冠詞がなく,キュリオスは固有名詞同然になっていることに注目できる。セプトゥアギンタ訳でも同じような状態であり,セプトゥアギンタ訳では初期の写本に神の名前が含まれていたのに,後代の写本でキュリオスに置き換えられた時,やはり,標準的な文法用法で必要な定冠詞が付け加えられることはあまりなかった。このようにキュリオスの前にあるはずの定冠詞がないことも,キュリオスが神の名前の代わりに使われていることを示している。それで,ヘブライ語聖書の背景とギリシャ語の定冠詞の欠落を考慮して,神の名前が本文で使われている。(ルカ 1:6,16の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 5章17節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の292ページで,R・C・H・レンスキはこの節についてこう述べている。「ルカの最初の数章から分かるように,無冠詞のΚύριος [キュリオス] はヤハウェを指す」。
「新約聖書注解」(New Testament Commentary,ウィリアム・ヘンドリクセン,2007年)は,ルカ 5章17節についてこう述べている。「さらにルカは,主つまりエホバの力が『癒やしのために』イエスにあったことを述べている」。
「聖ルカによる福音書の批判的釈義的注釈」(A Critical and Exegetical Commentary on the Gospel According to St. Luke,アルフレッド・プラマー,1920年)は,ルカ 5章17節についてこう述べている。「『癒やすためのエホバの力があった』。……冠詞のないΚύριος [キュリオス] はエホバを意味する」。
「新約聖書の絵画的描写」(Word Pictures in the New Testament,アーチボルド・トマス・ロバートソン,1930年,第2巻)は,ルカ 5章17節について,「ここのキュリウーはエホバを指す」と述べている。
「アンカー・バイブル」(The Anchor Bible,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,1981年,第28巻)は,ルカ 5章17節のこの表現についてこう述べている。「明らかにこのフレーズはルカが考えて書いたもので,人々を癒やすイエスにヤハウェの力があったことを描写している。実際,これは4:14,36と共通するところがあって,続く奇跡と宣言の前置きになっている。ここのキュリオスは明らかにイエスとは別のものを指し,ヤハウェを意味する」。
「聖ルカによる福音書の批判的釈義的注釈」(A Critical and Exegetical Commentary on the Gospel According to S. Luke,アルフレッド・プラマー,1916年)は,ルカ 5章17節のこの表現についてこう述べている。「ルカはよくキリストを『主』と呼んでいるが,その場合Κύριος [キュリオス] には必ず冠詞が付いている [7:13; 10:1; 11:39; 12:42; 13:15; 17:5,6; 18:6; 19:8; 22:61]。冠詞のないΚύριος [キュリオス] はエホバを意味する [1:11; 2:9; 4:18。使徒 5:19; 8:26,39; 12:7]」。
「新アメリカ版注解」(The New American Commentary,ロバート・H・スタイン,1992年,第24巻)は,ルカ 5章17節についてこう述べている。「『主』という語はここで,1:6,9,11,15,16と同様,神またはYHWHを指している」。
「聖ルカによる福音書」(Évangile Selon Saint Luc,M・J・ラグランジュ,1921年)というフランス語の参考文献は,ルカ 5章17節についてこう述べている。「しかし,ルカが冠詞を使っていないときは,Κύριος [キュリオス] はヤベ」。そして,同様の例として,ルカ 1章11節,2章9節,4章18節,使徒 5章19節,8章26,39節,12章7節を挙げている。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 5章17節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J7-12,14-18,22-24,28-36,38-44,46,47,52,55,58,61,65,66,88,90,93-96,100-104,106,115-117,125,130,138,144-147,153,154,172,186,187,222,242,259,262,265,268,271,273,275,283,290,295,310,322-325
ルカ 20:37 「その際エホバを……呼んでいます」
理由: 現存するギリシャ語写本はここでキュリオス(主)という語を使っているが,神の名前を本文で使う十分な理由がある。文脈から,キュリオスが神を指して使われていることが分かる。この節の引用は出エジプト記 3章6節から取られている。その前の2つの節で話しているのは「エホバ」。(出エジプト記 3:4,5)このようなヘブライ語聖書の背景を考慮して,神の名前が本文で使われている。また,ルカ 20章37節では,学者たちが認めているように,ギリシャ語の標準的な文法用法に従えばキュリオスの前にあるはずの定冠詞がないことに注目できる。ギリシャ語セプトゥアギンタ訳でも同じような状態であり,セプトゥアギンタ訳では初期の写本に神の名前が含まれていたのに,後代の写本でキュリオスに置き換えられた時,やはり,標準的な文法用法で必要なはずの定冠詞が付け加えられなかった。それで,ここの定冠詞の欠落も,キュリオスが神の名前の代わりに使われていることを示している。(ルカ 1:6,16の説明を参照。)
支持する見解:
「新約聖書釈義辞典」(Exegetical Dictionary of the New Testament,1991年,第2巻329-330ページ)は,キュリオスが「ヤハウェを指して使われている」節として,ルカ 20章37節を挙げている。
「聖ルカの福音書の注釈」(The Interpretation of St. Luke's Gospel)の999ページで,R・C・H・レンスキはこの節についてこう述べている。「しかし,しばの所で自分についてこの契約名を使ったのは主(ヤハウェ)自身だった」。
「ルカの福音書の翻訳者ハンドブック」(A Translator's Handbook on the Gospel of Luke,聖書協会世界連盟発行 [1971年],J・レイリングとJ・L・スウェレンフレベル執筆)は,ルカ 20章37節についてこう述べている。「キュリオス(1:6と比較)は冠詞がなく,まるで固有名のよう」。
「アンカー・バイブル」(The Anchor Bible,ジョセフ・A・フィッツマイヤー,1985年,第28-28A巻)は,この節について,「彼は主のことを。つまりヤハウェ(出 3:4を参照)」と述べている。さらに,こう説明している。「ここでおもに言いたいのは,族長たちが死んだずっと後に,ヤハウェがモーセに,自分は族長たちの神と述べていること」。
「聖書」(The 'Holy Scriptures',J・N・ダービー,1949年)では,ルカ 20章37節の脚注に「エホバ」と書かれている。
支持する資料: J9,11-18,21-24,27-44,46-49,52,54,55,57-61,65,66,86,88,90,91,93,95,96,100-103,105,106,112,114-117,121,124,125,129,130,138,144-147,149,153,154,161,164-167,170,171,178,180,181,183,185-187,197,200,203,209,213,217,222,242-244,250,259,262,265,268,271,273-275,278,279,283,290,295-297,300,306,310,322-325