犯罪を根絶する方法
問題の根源を突き詰める
だれの目にも明らかなように,犯罪を除去するには罪を除き去ること,すなわちわたしたち各々から罪深さの痕跡を跡形もなくぬぐい去ってしまうことが求められます。各個人が法の原則を擁護しなければ,法律は意図された,あるいは願わしい仕方で機能することはないからです。逆を言えば,罪が除かれるなら,内なる動機つまり心から,愛と義の原則 ― 律法の本質 ― に従うことになります。そうなれば,特定の悪行を禁じ,刑罰を規定した法典の必要はなくなるでしょう。
聖書はその点についてこう述べています。「律法は,義にかなった人のためにではなく,不法な者や無規律な者,不敬虔な者や罪人……のために公布されているのです」。(テモテ第一 1:9,11)義にかなった人は,邪悪な欲望や考えを抱かないので,“自然に”義にかなった事柄を行ないます。
この事実を明らかにし,わたしたちの必要を知らせることこそ,神がイスラエルに律法をお与えになった理由であり,すべての人が読めるようそれが印刷物の形でわたしたちの手元にある理由なのです。自分たちの悪い状況を得心したなら,神の義の道を求めるふさわしい立場にあると言えます。宇宙主権者であられる神のみが,わたしたちのために道を備えることがおできになります。神はまさにそのことを行なわれました。そして,その道は実際のところごく簡単です。
義をもたらすための神の取り決め
聖書は神の取り決めの大要を示しています。それは人類すべての手の届くところにあります。罪深いアダムに始まる先祖から不完全さを受け継いできているので,わたしたちすべては罪人であって,そのために無力です。どんな法もわたしたちを救うものとはなりません。解き放たれる唯一の方法は,罪のない者がわたしたちの罪に対する罰を自らの身に負ってくださることにあります。これこそ,完全で義にかなった人としてみ子を地に遣わすことにより,神の設けてくださった取り決めです。こう書かれています。「肉による弱さがあるかぎり律法には無能力なところがあったので,神は,ご自身のみ子を罪深い肉と同じ様で,また罪に関連して遣わすことにより,肉において罪に対する有罪宣告をされたのです」― ローマ 8:3。
使徒パウロとペテロは,各々次のように書いて,その事実をさらに明確にしています。「罪を知らなかったかた[キリスト]を神はわたしたちのために罪とし,彼によってわたしたちが神の義となるようにしてくださったのです」。また,「[キリストは]杭の上でわたしたちの罪をご自分の体に負い,わたしたちが罪を断ち,義に対して生きるようにしてくださったのです」― コリント第二 5:21。ペテロ第一 2:24。
キリストを通して設けられた神の備えに信仰を働かせて神の取り決めを受け入れたとしても,今この時に肉体に宿る不完全さが除き去られるわけではありませんが,神のみ前に良い立場を得ることができます。そうなれば,「もしだれかが罪を犯すことがあっても,わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なるかたイエス・キリストがおられます。そして彼はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの罪のためだけではなく,全世界の罪のためでもあります」。(ヨハネ第一 2:1,2)ですから,神の取り決めと約束に信仰を働かせる機会は,それを望むすべての人の前に開かれています。
それをした後,信仰を抱く人は,聖書に述べられている義の諸原則に最善を尽くして従いながら生きてゆきます。そうした義の諸原則のあらましは,特に,一般に新約聖書と呼ばれるクリスチャン・ギリシャ語聖書の中に述べられています。罪を犯してしまったなら,キリストの贖いの犠牲に基づいて悔い改め,祈ることにより,ゆるしを受けることができます。(詩 51:1-7と比較してください。)それから,その罪を繰り返さないようにするため,できる限りあらゆる手を尽くします。しかし,神は何かの法典によって人に有罪を宣告し,人を罪に定めることはありません。クリスチャンはモーセの律法から解き放されているからです。(ガラテア 5:18)使徒パウロは,神がわたしたちを助けるためにご自分の霊を与えてくださる,と説明しています。パウロは,自分の奉仕は「書かれた法典ではなく霊の」もので,「書かれた法典は死罪に定めますが,霊は生かすのです」と語っています。―コリント第二 3:6。
しかし,キリストに信仰を働かせ,その模範に倣う人々が罪を犯すのであれば,どうして法律のない世界を実現できるというのでしょうか。クリスチャンはやがて完全にされ,受け継いだ罪に汚された状態から救済されるようになることを待ち望んでいるからです。法律のない,義の世界について,クリスチャンはこう祈ります。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においても成されますように」。(マタイ 6:9,10)神のご意志が天におけると同じように地でも成されるということは,神が当初人類を創造された際に目的としておられたように,この地球に絶対的な完全さが行き渡るという意味です。(創世 1:26-28)神は,不法に固執する人すべてを地球からぬぐい去ることによって,そうした状態をもたらすと約束しておられます。(詩 37:34)啓示 21章3節と4節の中で,神はご自分の王国の下での地球の状態をこう描写されました。「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。
その時,神を愛し,互いを愛し,害ではなく善をもたらす事柄に喜びを見いだす人々にとって,法典は必要なくなります。どうしてそれが可能になりますか。神の霊が行き渡り,書かれた法典によってではなく,心に働きかけて人々を導くからです。聖書は神の霊のこうした影響力を次のように描いています。「霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制です。このようなものを非とする律法はありません」。(ガラテア 5:22,23)こうした特質を制限したり規制したりする律法は必要ありません。聖書はこれを,「自由に属する[クリスチャンの]律法」の下にある状態としています。(ヤコブ 1:25)この律法は,神によって,「彼らの心の中に」記されます。(ヘブライ 8:10; 10:16)これら霊の実が増えれば増えるほど,平和はますます促進されます。これが,信仰によってご自分の子になる者たちに,神の約束しておられる自由なのです。―ローマ 8:21。
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信仰によって,「創造物みずからも腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子どもの栄光ある自由を持つようになる」― ローマ 8:21。