聖書理解の助け ― バアル
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
バアル [主人,所有者]。
1. ベニヤミン人エイエルの息子として四番目に挙げられている人。―歴代上 8:30,32; 9:35,36。
2. ルベン人のひとり。その息子ベエラはアッシリア人「テルガテピルネセル」(テグラテピレセル)により捕囚のひとりとして連れて行かれた。―歴代上 5:5,6,26。
3. ユダの領地内にあったシメオン人の飛び地の都市。バアラテベエル,またネゲブのラマと同じであったと思われる。―歴代上 4:32,33とヨシュア 19:7-9を比較せよ。
4. 聖書の中で,ヘブライ語「バアル」は次の八つのものに関して用いられています。(1)自分の妻を所有する者としての夫(創世 20:3)。(2)地主(ヨシュア 24:11)。(3)「諸国民の所有者」(イザヤ 16:8,新)。(4)同盟者(字義的には「契約の所有者」)。(創世 14:13)。(5)有形物の所有者ないし持ち主(出エジプト 21:28,34; 22:8。列王下 1:8)。(6)特色となる性質,方法,職分などを有する人や事物。例えば,弓を射る者(字義的には「矢を所有する者」)(創世 49:23),「負債に対する債権者」(字義的には「負債を所有する者」)(申命 15:2,新),「怒りにくれる人」(字義的には「怒りを所有する者」)(箴 22:24,新),「わたしの係争相手」(字義的には「わたしの裁きを所有する者」)(イザヤ 50:8,新),「二本の角を持つ」(字義的には「二本の角を所有する者」)(ダニエル 8:6,新)。(7)エホバ(ホセア 2:16)。(8)偽りの神々 ― 士師 2:11,13。
「バアル」の語が偽りの神バアルを指すときには,定冠詞(「ハ」)を付けて他の名詞とは区別されているのが普通です。聖書の中で,「ハ ベアリーム」(バアルたち)という表現は,ある特定の場所を所有ないし所持し,その場所に対して影響力を持つとみなされる地方的な神々を指しているようです。それに対し,「ハ バアル」(単数)の語はカナン人のある特定の神を指す際に用いられています。「バアル」という呼び名は当初は一種の称号で,この称号がその神の名に代わってもっぱら用いられるようになったと考えられています。
イスラエルの歴史の中で時おりエホバが「バアル」の名で呼ばれていますが,それはエホバがその国民の主もしくは夫であるという考えを表わすためです。(イザヤ 54:5)また,背教したイスラエルが誤ってエホバをバアルと結び付けた場合もあったようです。そのことを裏書きする例としてホセアの預言があり,イスラエルが捕囚の身となり,そこから戻った後に,悔い改めてエホバを「わたしの夫」と呼び,もはや「わたしの所有者」(「わたしのバアル」,アメリカ訳)とは呼ばなくなる時が来る,と述べられています。その文の続きはさらに,「バアル」の名も偽りの神にちなむその連想ももはや二度とイスラエル人の唇に上ることはないと述べています。(ホセア 2:9-17)ヘブライ語「バアル」が堕落したバアル崇拝と結び付きを持ったため,この語は良くない含みを持つようになったのでしょう。サムエル後書の筆者が,「エシバアル」や「メリバアル」の代わりに「イシボセテ」や「メピボセテ」(ボセテの意味は「恥」)の名を使用したのはそうした理由によると見る人々もいます。―サムエル後 2:8; 9:6。歴代上 8:33,34。
聖書および聖書外の資料に見られるバアル
ウガリト(キプロス島北東端の対岸に位置するシリアの古代都市,今日のラス・シャムラ)の発掘によって多くの人工的宗教遺物や数百枚の粘土書板が明るみに出されるまで,聖書が多くを述べるバアル崇拝について他の資料からはほとんど何も知られていませんでした。ウガリトで発掘されたそれらの古代文書は今ではラス・シャムラ文書として知られていますが,その多くは,宗教的祝祭における儀式に携わった人々が語った言葉やその典礼文であるとみなされています。
ラス・シャムラ文書の中で,バアル(アリヤン[打ち勝つ者]・バアルとも呼ばれている)は「ザブル[君],地の主」,また「雲に乗る者」と呼ばれています。この呼び名は,こん棒もしくは権標を右手に握り,先端が槍型の図形化された稲妻を左手に持つ姿で表わされるバアル像とも一致しています。バアルはまた角のあるかぶとをかぶる姿で描かれ,繁殖力の象徴とされる雄牛との緊密な関連を物語っています。
パレスチナでは普通,4月の末から9月までほとんど全く雨が降りません。10月になると雨が降り始め,この雨期が冬じゅう続いて4月にまで及び,草木の繁茂を促します。季節の変化とそれに伴う種々の影響は,神々の間の果てることのない争闘のために巡り来ると考えられていました。降雨の終息と草木の枯死は,バアル(降雨と豊じょう)に対する神モート(死と乾燥)の勝利に帰せられ,バアルは地の深みに退去を強いられたものとみなされました。雨期の始まりは,バアルが生命に回帰したしるしと信じられました。そしてこれは,バアルの姉妹アナトがモートに対して勝利を収め,自分の兄弟バアルを元の座に帰らせたからであると考えられました。バアルが自分の妻 ― それはアシタロテであったとみなされますが ― と妻合うことによって来たる年の豊じょうが保証されると信じられました。
農耕と牧畜を営んだカナン人は,一種の交感的魔術を伴う定めの儀式を行なうことによって神々に行動を促し,その宗教的祭儀で自分たちが演じると同じことを神々に行なわせることができるとみなし,そのゆえにその儀式は,来たる年の豊作と多産を保証し,干ばつやいなごの害を防ぐに必要であると考えたのでしょう。こうしてバアルがよみがえって復位し,自分の妃と妻合うということは,放らつな多産の儀式をもって祝われ,それには気ままな性の乱行が特色として伴っていたようです。
カナン人の都市はそれぞれその土地の守護のバアルのための聖所を築いたものと思われます。それらの聖所,および近隣の丘上に設けられ,「高き所」として知られた多くの社での崇拝儀式を行なうために祭司たちが立てられました。(列王下 17:32参照)そうした社の内側にはバアルの像や表象が置かれたことでしょう。一方,外の祭壇の近くには石柱(おそらくバアル崇拝の男根像),女神アシラを表象する聖木,それに香壇がありました。(歴代下 34:4-7参照)その高き所では娼婦や男娼が仕え,儀式的売春に加えて,幼児を犠牲として捧げることさえ行なわれました。(列王上 14:23,24; ホセア 4:13,14; イザヤ 57:5; エレミヤ 7:31; 19:5,参照)バアルの崇拝は人家の屋上でも行なわれ,民が自分たちの神に捧げる犠牲の煙がそこから立ち上るのがしばしば見られました。―エレミヤ 32:29。
バアル,その他カナン人が祭った神々や女神たちは,その崇拝者たちの思いの中でそれぞれ特定の天体と結び付けられていたようです。一例として,ラス・シャムラ文書の一つは,「女后シャパシュ(太陽)および星斗」への捧げ物について述べ,別の文書は「太陽の軍勢,昼間の衆軍」に言及しています。そしてバアルも太陽の神とみなされてきました。「国際スタンダード聖書百科」第一巻345ページはこう述べています。「バビロニアのベル・メロダクは太陽神であり,カナン人のバアルも同様であった。バアルの正式の名称はバアル・シェマイム,すなわち『天の主』である」。
したがって,聖書がバアル崇拝に関連して繰り返し天体に言及していることは注目に値します。イスラエル王国の気ままな歩みに関して聖書はこう記録しています。「彼らはエホバのすべてのおきてを捨てつづけ,……天のすべての衆群に身をかがめてバアルに仕えるようになった」。(列王下 17:16,新)ユダ王国に関しては,ほかならぬエホバの神殿の中に「バアルのため,聖木のため,また天の全衆群のために造られた器物」が置かれた,と述べられています。また,ユダじゅうの人々は「バアルに,太陽に,月に,十二宮の星座に,そして天の全衆群に犠牲の煙を」立てました。―列王下 23:4,5; 歴代下 33:3。ゼパニヤ 1:4,5も参照。
それぞれの土地にはその地方のバアル,もしくは神とされる「主」がおり,地方ごとのバアルには,そのバアルが特定の土地と結び付いていることを示す名の付けられている場合が少なくありませんでした。一例として,モアブ人とミデアン人が崇拝したペオルのバアル(バアル・ペオル)は,ペオル山からその名を得ていました。(民数 25:1-3,6)こうした地方的なバアルの名は後に比喩(転喩)によってその地方の名そのものに移し換えられました。バアル・ヘルモン,バアル・ハゾル,バアル・ゼポン,バモテ・バアルなどはその例です。しかし,多くの地方的なバアルが祭られたとはいえ,カナン人の間で公式には,バアル神はただ一人と理解されていました。
イスラエル人の間で行なわれたバアル崇拝
バアル礼拝については聖書のごく初期の記述の中にも示唆されています。もっともそれは,族長たちの時代には,イスラエル人がカナンの地に入った時ほど堕落した状態には達していなかったようです。(創世 15:16; 列王上 21:26参照)バアルの配偶神アシタロテにちなんで名づけられたと思われるアシタロテ・カルナイムという都市名の挙げられていることがその最初の例です。(創世 14:5)イスラエル人が紅海を渡る前に,荒野にはバアル・ゼポンと呼ばれる場所がありました。(出エジプト 14:2,9)カナンの住民に関しては,その祭壇を打ち壊し,聖柱を砕き,聖木を切り倒すようにとの特別の指示がシナイ山でモーセに与えられました。(出エジプト 34:12-14)こうして,バアル崇拝の付属物すべては約束の地から一掃されることになっていました。
イスラエル人がモアブの野に宿営していた時,王バラクはバラムを連れてバモテ・バアル(「バアルの高き所」の意)に登り,そこに宿営する強大な民を見させました。(民数 22:41)イスラエル人に直接のろいを臨ませることに失敗した後,バラムはバラクに勧め,ペオルのバアルの偶像を崇拝する女たちと性の不道徳を犯させるように誘惑してイスラエルを偶像礼拝におびき寄せました。幾千というイスラエル人がこの誘惑に屈して命を失いました。―民数 22:1-25:18。啓示 2:14。
この苦い経験,およびモーセとヨシュアのはっきりした警告にもかかわらず(申命 7:25,26。ヨシュア 24:15,19,20),イスラエル人はその地に住み着くと,そこに残るカナン人に見倣うようになりました。自分たちの家畜や作物の多産をそれに託したのでしょう。それでいて彼らはエホバを崇拝しているとの表向きを保とうとしました。ヨシュアの死に続いて大々的な背教が始まりました。(士師 2:11-13; 3:5-8)民はバアルの祭壇を捨てず,聖木その他バアル崇拝の付属物を自分たちの土地内に保ちました。そして,それぞれの小区分の土地の「所有者」もしくはバアルの歓心を得る方法について近くに住むカナン人の勧めに従ったものと思われます。イスラエル人はバアル崇拝に伴う不道徳な慣習にもいざなわれました。結果としてエホバは彼らを敵の手に見捨てられました。
それでも,民がエホバのもとに立ち返ると,エホバは彼らを救出するため,憐れみによって裁き人を起こされました。その名をエルバアル(「バアルは彼に対して抗弁せよ」の意)と改められたギデオンはそのひとりです。(士師 6:25-32。サムエル前 12:9-11)しかし,そのとき恒久的な改革は行なわれませんでした。(士師 8:33; 10:6)サムエルに促された民はバアルやアシタロテの像を捨て,ただエホバにのみ仕えるようになったと記されてはいますが,バアル礼拝はずっとサムエルの日以後にも続行されました。―サムエル前 7:3,4。
その後ソロモンの治世の終わりまでバアル礼拝への言及は現われていませんが,その間も王国の各地にバアル礼拝は存続していたのではないかと思われます。ソロモンが多くの異教の女たちをめとるにつれ,バアル礼拝のいろいろな形式が国内に持ち込まれました。それらの女たちがソロモンとその子供たちを誘って,アシタロテやモロクなど,バアル崇拝と結び付いた他の神々,女神たちに仕えさせました。―列王上 11:4,5,33。エレミヤ 32:35。
西暦前997年の王国分裂と共に,ヤラベアムは北のイスラエル王国のダンとベテルに子牛の崇拝を設立しました。土着のバアル礼拝と子牛崇拝とが並行して行なわれましたが,ユダ王国の場合も事情は同じで,エルサレムにおいて真の崇拝がただ形の上で継続される一方,国の他の所ではバアル礼拝が行なわれていました。―列王上 14:22-24。
アハブ王の時代(西暦前940-919年ごろ)に,別の形式のバアル崇拝がイスラエルに導入されました。それはティルスのバアル,メルカルトの崇拝です。アハブはティルス王エテバアル(「バアルと共に」の意)の娘と婚姻の関係を結びました。これによってエテバアルの娘イゼベルは,多数の祭司や従僕を伴うこの一層精力的なバアル崇拝をイスラエルに持ち込みました。(列王上 16:31-33)これは遂に,カルメル山上でのエホバとバアルとの有名な対決に至りました。
バアルがその崇拝者たちにより『天空の主』と信じられ,降雨と豊じょうをもたらす者とみなされていたためと思われますが,エリヤはエホバの名において干ばつの到来を告げました。(列王上 17:1)3年6か月の干ばつによって,バアルがその祭司や崇拝者たちにより必ずや捧げられたであろう多くの祈願にもかかわらずその干ばつをとどめ得ないことが示された後,エリヤはすべての民をカルメル山に呼び集めて,だれが真の神であるかに関する重大な試みを目撃させました。この試みの結果バアル崇拝者は辱められ,バアルの預言者450人が殺されました。その後,バアルではなく,エホバが雨を降らせて干ばつを終わらせました。―列王上 18:18-46。ヤコブ 5:17。
アハブの子であり継承者であるアハジヤはその後もバアルに仕えました。(列王上 22:51-53)アハジヤの兄弟ヨラムはその跡を継ぎ,自分の父がこしらえたバアルの聖柱を取り除いたと伝えられていますが,子牛崇拝からは離れませんでした。―列王下 3:1-3。
後に(西暦前905年ごろ)エヒウが油を注がれて王となりました。エヒウはイゼベルとその夫アハブの一族をすべて殺して,エホバの預言者たちの殺害に対するあだを報いました。その時,「バアルのために聖会を」催すという表向きの理由ですべてのバアル崇拝者がサマリアに集められ,次いでエヒウの命令の下にそのすべてが殺されました。聖木は焼かれ,聖柱とバアルの家は引き倒され,その家は公衆のかわやのための場所とされました。これをもって,エヒウは「イスラエルからバアルを根絶した」と言われています。(列王下 10:18-28,新)こうして,少なくともその当座の間,バアル崇拝は抑制されました。しかし,エホバが北の十部族のイスラエル王国を遂に流刑に渡されたのは,こうしたバアル的な宗教のためでした。―列王下 17:16-18。
ユダの五代目の王アサがバアル崇拝の付属物を除き去ろうと努力したにもかかわらず,その崇拝はユダに根づよく残存したようです。(歴代下 14:2-5)アハブがイゼベルによってもうけた娘アタリヤをユダの七代目の王ヨラムにとつがせた時,このアタリヤのあくどい影響によってユダの王族の間にティルス伝来のバアル礼拝が根を下ろしました。アタリヤの孫ヨアシ王の治世の初めに行なわれた改革,また後にヒゼキヤ王によって行なわれた改革も,バアル崇拝を恒久的に根絶するには至りませんでした。(列王下 11:18; 18:4)ヒゼキヤの子マナセは自分の父が破壊した高き所を築き直しました。(列王下 21:3)明らかにユダの王たちの大多数がバアル崇拝によって汚されていたようですが,この堕落した崇拝をはなはだしく追い求めたのはマナセです。(列王下 21:9-11)マナセ王は後に改革を手がけ,さらにその孫のヨシア王も大々的な浄化に乗り出しましたが,それも真の崇拝への恒久的な復帰とはなりませんでした。処罰としての流刑とその土地の荒廃とが,こうして偽りの崇拝に深く染まったことの結果として臨みました。―歴代下 33:10-17。列王下 23:4-27。エレミヤ 32:29。
エレミヤはヨシヤの時代からバビロン捕囚に至るまで預言者としての務めを果たしつつ,バアル崇拝に身を落としたイスラエルを論難し,そのイスラエルを,すべての生い茂る木の下,すべての高丘の上で身を売って木石と姦淫を行ない,「あなた方の夫たる所有者」エホバを忘れた姦婦になぞらえました。(エレミヤ 2:20-27; 3:9,14,新)バビロンへの捕囚,そしてユダヤ人のパレスチナへの復帰の後,イスラエル人が再びバアル礼拝を行なったということは聖書の中に述べられていません。