世界の湿地 ― 攻撃にさらされる,生態系の資産
インディアンが「大きな川」と呼び,地理学者がミシシッピと呼ぶ川。どのように呼ぶにせよ,この川は,言わばコルセットのような防壁や堤防で川幅を狭めた上に,川沿いの湿地を奪った人間に,復しゅうの矛先を向けました。何週間にもわたる豪雨で増水した川は,積み上げられた推定7,500万個の土のうを突き破り,治水用の1,400の堤防のうち800を決壊させ,人々の努力を水の泡としました。洪水のおびただしい水は,家屋,道路,橋,それに線路の各所を押し流し,多くの町が水没しました。「米国で生じた,これまでで最悪の洪水だろう」と報じたのは,1993年8月10日付のニューヨーク・タイムズ紙です。
同紙は被害のあらましを次のように伝えました。「1993年の中西部大洪水は,2か月にわたって猛威をふるい,恐ろしい破壊のつめあとを残した。死者は50名,家屋を失った人は約7万人。ニュージャージー州の倍ほどの面積の地域が浸水し,資産や農作物の被害額は推計120億㌦(約1兆3,200億円)に達し,国の治水システムと治水政策を巡る議論が再燃した」。
ミシシッピ川の岸に隣接する湿地という,自然の治水システムに手をつけていなければ,50人の命と120億㌦を失わずにすんだかもしれません。人々はいつになったら,自然を従わせようとするよりも,自然と協調するほうが勝るという点を理解するのでしょうか。川と隣り合う湿地は氾濫原となり,長引く豪雨であふれた川の水を引き込み,蓄えます。
しかし,自然の治水システムとしての機能は,850万平方㌔を超える地球の湿地が果たしている数多くの驚くべき役割の一つにすぎません。現在,このような湿地は,世界中で容赦のない攻撃を受けています。
世界の生物が繁殖する湿地
海岸の広大な塩性湿地にしろ,内陸の小さな淡水湿地にしろ,米国やカナダのプレーリーにあるポットホール(甌穴)にしろ,湿地はおもに水が作り上げたものです。湿地とは,年間を通じて浸水している土地,あるいは洪水時だけ浸水する地域を指します。また,潮の影響を受ける海岸域にできる湿地もあります。大抵,湿地にはスゲ類やホタルイ類の草や高低様々な樹木などの植物が生い茂るという特徴があります。これらの植物は世界中で各種の植物,魚,鳥,それに動物を支えています。
海辺の鳥や水鳥の中には,湿地を生息地にしているものも数多くあります。春の渡りの時期に,これら浅瀬のオアシスに依存する鳥は100種を超えます。多くの湿地では,マガモ,コガモ,オオホシハジロなど,膨大な数のガンやカモが繁殖します。ワニ,ビーバー,マスクラット,ミンク,ヘラジカなどの動物は,湿地をえさ場,また住みかとします。クマ,シカ,アライグマなど他の動物も湿地を利用します。湿地は,30億㌦(約3,300億円)に上る米国の漁業市場を支える魚の大半の産卵場所また繁殖地となっています。200種の魚,それに大量の甲殻類が,ライフサイクルの一部あるいは全体を湿地で過ごすと見られています。
湿地は生物の繁殖地として際立っていることに加え,多くの生態学的な利点を秘めています。湿地は自然のフィルターとして,河川の浮遊物や汚染物質を取り除き,地下の帯水層を浄化しています。雨季,あるいは洪水時には水を蓄え,後から徐々に河川や帯水層に放出します。海岸の湿地は,波による浸食から海岸線を守ります。
湿地は,たいてい植物が生い茂っているという本来の性質上,見逃せない肝要な役割を果たしています。例えば,光合成の過程で,すべての植物は空中の二酸化炭素を吸収し,代わりに酸素を放出します。この過程は,生命維持のために必要です。しかも,湿地の植物は,光合成の効率が特に秀でているという点で他に類を見ません。
昔から,多くの国は食糧生産のために湿地を管理することに計り知れない価値があることを認めてきました。例えば,中国とインドは米の主要な生産国であり,アジアの他の国もその点でさほど引けをとっていません。一種の湿地とも言える水田で育てられる米は,重要性の面で世界でも指折りの穀物です。世界の人々の約半数は,米を主食としています。米国とカナダも,米やクランベリーの生産に湿地が大切であるという点にようやく気づきはじめました。
野生生物も,湿地で作られるごちそうの恩恵にあずかっています。多量の種や虫は,鳥のためにあるだけでなく,湿地で生まれて成長する魚類や甲殻類のえさにもなります。代わって,カモやガンをはじめとする水鳥は,この生物のオアシスで泳ぐ多くの生き物をえさとします。各種の鳥は,食物を求めて湿地に紛れ込む四つ足の動物のえさになることにより,今のところ生態系のバランスはある程度保たれています。湿地では,すべてのものが何かを見いだせるのです。確かに湿地は,世界の生物の繁殖地なのです。
競って湿地を破壊する
米国で,湿地の大破壊の口火を切ったのは,後に初代大統領となった人物です。この人は1763年に会社を設立して,面積1万6,000㌶ほどのディズマル湿地という,バージニア州からノースカロライナ州にまたがる自然の沼地,野生生物の憩いの場を干拓することにしました。以来,米国の湿地は,邪魔もの,開発の妨げ,病気の温床,何としてでも征服し,つぶさなければならない不良な環境とみなされてきました。農家は,沼地を干拓して耕作地とするよう奨励され,そのようにした人にはお金が支給されました。かつて風変わりな生物があふれていた湿地には,幹線道路が建設されました。都市開発やショッピングセンターの用地となったり,ゴミの投棄に便利な浅いくぼ地として利用されるようになったりした場所も少なくありません。
ここ数十年,米国では1年に約20万㌶というペースで湿地が破壊されてきました。現在残っているのは,4,000万㌶ほどにすぎません。一例として,北アメリカのポットホール地帯を取り上げましょう。カナダのアルバータ州から米国のアイオワ州にまで広がる,約80万平方㌔に及ぶ弓形の土地には,プレーリーの湿原が幾千もあり,おびただしい数のカモが繁殖していました。空飛ぶカモが,濃い雲のように空を暗くしたと言われています。現在,その数は激減しています。
しかし,長期に及ぶのは次の問題です。湿地が破壊されると,えさ場がなくなります。えさに事欠くと,カモが産む卵の数は減ります。産み落とされた卵がかえる率も目立って影響を受けます。生息地が破壊されたカモは,残っているわずかな生息地に固まるため,カモを食べるキツネ,コヨーテ,スカンク,アライグマなどの動物にねらわれやすくなります。
米国では,ポットホール地帯の湿原の50%が姿を消しました。カナダにおける消失の率はそれを10%弱下回りますが,この国でも破壊の勢いは強まっています。米国ノースダコタ州の一部の地域は90%が干上がっていると,スポーツ・イラストレーテッド誌は伝えています。多くの農家は,湿地の生態学的な価値を顧みず,それを農機具を入れることのできない,不毛で邪魔な土地とみなします。
しかし現在,野生生物の住みかである湿地を救おうという,大きな声がはっきりと上がっています。呼びかけているのは,懸念を抱く個人や野生生物保護団体です。懸念を抱くある当局者は,「ポットホールは絶対に重要です」と述べた上で,「カモをいつまでも残したいという気持ちが少しでもあるのなら,湿地を保護しなければなりません」と言いました。「水鳥は,この大陸の生態系の健康状態を知る目安」と述べたのは,ダックス・アンリミテッドという保護団体の幹部です。US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌も意見を述べています。「[カモの]数の激減は,様々な方面から環境が脅威にさらされていることの表われである。酸性雨や殺虫剤もさることながら,一番の原因は,極めて貴重な湿地が何百万エーカーも破壊されていることだ」。
カリフォルニア誌は次のように報じました。「カリフォルニア州沿岸の塩性湿地の90%は破壊され,毎年さらに1万8,000エーカー[約7,000㌶]が失われている。エルクの一種は,ごく限られた場所でまばらに生き残っているにすぎない。毎年,冬を越すために戻って来るカモやガンの数は減っており,越冬地も狭まる一方である。湿地に住む生物で,絶滅のおそれのある種は少なくない」。世界に湿地がなければ生きられないこれらの生物は,助けを求めて声にならない叫びを上げているのです。
水の危機
人間が地球の湿地を破壊しているため,恐ろしいことが起きています。人間は,自分たちにとって最も貴重で欠かせない資源,つまり水に影響を及ぼしてきたのです。すべての生き物にとって,水は欠かせません。世界の科学者の多くは,きれいな水が地球で最も手に入れにくい資源になる時が来ると予測しています。1977年に開催された,水に関する国連世界会議では,「水の無駄遣いを抑えることができなければ,我々は2000年には渇きで死なんばかりの思いをしているだろう」と宣言されました。
貴重な水資源が不足する可能性についてこのような不穏な警告が発せられているのですから,人々は常識を働かせて地球の水を大切に管理すべきでしょう。しかし人々は,競うように湿地を破壊することによって,この最も必要な資源を非常に危うくしています。湿地は地表水,つまり河川の浄化に役立っています。もはや一部の帯水層は,きれいな水が染み込む代わりに,浮遊物や汚染物質で汚されています。それは人間にとって害にしかなりません。おびただしい数の湿地が干拓されたことで,水の不足に拍車がかかっています。
湿地に依存している生き物が助けを求めて上げている悲痛な叫びは,良識ある人々の耳に届くのでしょうか。手遅れにならないうちに,そのような生き物を救うための行動が取られるのでしょうか。あるいは,人々はそのような叫びにこれからも耳を貸さず,貪欲な者たちによる抗議の声にしか耳を傾けないのでしょうか。
世界中で攻撃されている
湿地の保全を呼びかける,国連による世界的なキャンペーンの開始に際して,ブラジルのパンタナルの生態系に及んでいる脅威のことが引き合いに出されました。パンタナルは,世界でも有数の広大な湿地帯です。バイオサイエンス誌はこう述べました。「野生生物の種類も数も際立って多いパンタナルは,脅威にさらされた地域である。森林伐採,農業の拡張,違法な狩猟や漁,除草剤や殺虫剤による水質汚濁,燃料用アルコールを生産する際に出る副産物などによって,自然環境が徐々に損なわれ,ブラジルで屈指の大切な生態系は危険にさらされている」。
ニューヨーク・タイムズ紙は,地中海沿岸の湿地に及んでいる脅威について報じました。「過去30年にわたって,湿地の消失の速度が上がっている。地中海沿岸は,かつてなく人気が高く,太陽崇拝と娯楽と利潤の名のもとに,海岸線の多くはコンクリートで覆われてきた。国際連合の調査では,イタリア,エジプト,トルコ,ギリシャで湿地が大幅に消失していることが伝えられている」。
春になると,スペインにある約5万㌶に及ぶ見事なドニャーナ国立公園の湿地は,アフリカからヨーロッパに渡る途中の幾十万羽もの鳥が羽を休める飛行場になります。鳥たちは,この公園の湿地や森林に降りて,巣を作ったり,卵をかえしたり,えさを食べたりします。しかし,公園の周囲に相次いで作られたホテル,ゴルフコース,農場によって大量の水が吸い取られているため,公園の存続が危ぶまれています。ここ15年にわたって,そのような建築計画により,すでに水が大量にくみ上げられたため,地下水の水位が2㍍ないし9㍍下がり,幾つかのラグーン(潟湖)が干上がってしまいました。公園の調査主任は,「この地域がさらに発展すれば,ドニャーナにとっては致命的な結果になる」と述べました。
「地球白書」1992年版(英文)はこう伝えています。「湿地でとりわけ存続が危ぶまれている貴重なマングローブは,アジア,ラテンアメリカ,それに西アフリカで大幅に消失している。例えばエクアドルの沼地にある,保護となる森林の半数近くが,おもにエビの養殖のために伐採され,残りの地域でも,半分近くの面積の樹林の転用を望む種々の計画が立っている。インドもパキスタンもタイも,マングローブの少なくとも4分の3を失った。インドネシアも,その仲間入りをするつもりのようだ。インドネシア最大のカリマンタン州では,マングローブ全体の95%が,パルプ材の生産のために伐採される予定である」。
1992年8月25日付のタイのバンコク・ポスト紙は,マングローブの価値を強調する,次のような記事を掲載しました。「マングローブ林は,熱帯の平たんな入り江に沿って,潮間帯の上部地域で生い茂る,多種多様な樹木で成っている。これらの樹木は,塩水や潮の干満の影響を受ける過酷な環境で[茂る]。環境に特別に適応した気根や,塩分をろ過する主根のおかげで,この豊かで複雑な生態系ができ上がった。マングローブ林は海岸線を広範囲にわたって浸食から守るだけでなく,沿岸漁業,木材製品加工業,それに野生生物にとって肝要である。
「マングローブ林は生物の宝庫だ。海辺の鳥,カニクイザル,スナドリネコを見ることができる。また潮が引いたときには,湿地の泥の間にできた水たまりから水たまりへ,トビハゼがぴょんぴょん跳ねてゆく姿を見ることもできる」。
結果はどうなるか
危機は世界中に及んでいます。「国際野生生物」誌はこう述べています。「かつて地球の大陸の6%以上を占めていた湿地,緩流河川,マングローブ沼沢地,塩性湿地,プレーリーのポットホール,小さな湖などは,危機に直面している。非常に多くの土地が農耕のために干拓されたり,汚染で破壊されたり,土地開発の際に埋め立てられたりしたため,地球の湿地面積の半分ほどが消失した」。
人間は地球と仲直りするのでしょうか。現在の様子を見るかぎりでは,期待を持てそうにありません。それでも中には雄々しく奮闘して,自分たちの努力は成功すると言ってはばからない人々がいます。地球の創造者であるエホバは,そうした努力は成功しないと述べています。神は事態に介入して,地上の見事な創造物に対する攻撃をやめさせると約束しておられます。神は,「地を破滅させている者たちを破滅に至らせ」,代わりに『その世話をする』人々を地上に残します。感謝の念を抱く,そのような人々に対して,神は地球を贈り物としてお与えになります。「あなた方はエホバに,天と地の造り主に祝福された者たちである。天についていえば,天はエホバに属する。しかし地はというと,神はこれを人の子らにお与えになった」。―啓示 11:18。創世記 2:15。詩編 115:15,16。
[15ページの図版]
スイスの湿地
[16,17ページの図版]
左端と上の写真: 米国の湿地
[クレジット]
H. Armstrong Roberts
左の写真: タイのマングローブ林
[クレジット]
The National Research Council of Thailandの厚意による
湿地の住人: ワニ,ウシガエル,トンボ,産卵のために穴を掘るハコガメ