第9章
スミルナの使いへ
1,2 (イ)スミルナはどこにありましたか。その都市はどんなことで有名でしたか。(ロ)スミルナの会衆に対するキリストの音信はどんな内容でしたか。
栄光を受けたイエス・キリストが語りかける第二の会衆は,古代ローマのアジア州にあるスミルナの会衆です。この都市は,エフェソスの北方約50㌔の地点にある,エーゲ海沿いの湾に位置しており,使徒ヨハネが当時囚人として送られていたパトモス島からさらに離れた所にありました。スミルナにはティベリウス・カエサルの神殿があり,皇帝崇拝が盛んに行なわれていました。また,割礼を受けた生来のユダヤ人が相当の人口を占めており,彼らは使徒のキリスト教に反対していました。このスミルナ会衆に対して,ヨハネは何を書くように命じられたのでしょうか。それを読んでみることにしましょう。
2 「また,スミルナにある会衆の使いにこう書き送りなさい。『最初であり,最後である者』,死んで,生き返った者がこう言う。『わたしはあなたの患難と貧しさを知っている ― しかしあなたは富んでいるのである ― また,自分がユダヤ人であると言いながら,実はそうではなく,むしろサタンの会堂に属する者たちによる冒とくを知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはならない。見よ,悪魔はあなたがたのうちのある者たちを次々に投獄するであろう。それは,あなたがたが十分に試されるため,また十日のあいだ患難に遭うためである。忠実であることを死に至るまでも示しなさい。そうすれば,命の冠をあなたに与えよう。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい: 征服する者は決して第二の死に損われることがない』」。
3 (イ)スミルナ会衆の物質的および霊的な状態はどうでしたか。(ロ)クリスチャンが物質的に貧しいからといって,なにも非難される理由にはなりません。なぜですか。
3 啓示 2章8-11節のこの言葉の中には,その「貧しさ」,つまり物質的な貧しさにもかかわらず,スミルナ会衆に対するとがめのことばは一言も出てきません。その物質的な貧しさは,霊的に富んだ状態によって相殺されていました。スミルナ会衆にとって,ラオデキア会衆のように,物質的には富んでいても霊的には貧しいという状態より,このほうが望ましいことだったのです。(啓示 3:17)人間として地上におられた時のイエスご自身,物質的には貧しい状態にありました。イエスの肉親であった異父兄弟のヤコブは,当時の霊的イスラエル人たちに次の矯正の助言を書き送りました。「わたしの愛する兄弟たち,よく聴きなさい。神は,世に関しては貧しい者を選んで信仰に富ませ,ご自分を愛する者たちに約束された王国の相続者としてくださったのではありませんか」。(ヤコブ 2:5)そのとおりです。そしてイエスの言葉によると,スミルナ会衆は,信仰と,神に対する良き業の面で富んでおり,それゆえに彼らは,引き続き神の天の王国の相続者だったのです。したがって,今日,キリスト教世界の僧職者たちが,エホバの証人の中にいる霊的イスラエルの残りの者たちが貧しいからといって非難するのは,当を得たことではありません。
4 (イ)スミルナの生来のユダヤ人は,実際には「サタンの会堂」の者であることをどのように証明しましたか。(ロ)今日,スミルナのそれらユダヤ人の例に倣っているのはだれですか。
4 スミルナにいた,割礼を受けた生来の,不信者のユダヤ人が,そこのクリスチャン会衆をどのように冒とくしたかは説明されていません。多分それは,ピシデアのアンティオキアやコリントで使徒パウロに浴びせかけられた冒とくと同じようなものだったのでしょう。(使徒 13:45; 18:6)それらの冒とく者は,生まれながらの,割礼によるユダヤ人であることを誇っていましたが,もはや真のユダヤ人ではありませんでした。なぜですか。なぜなら,内面のユダヤ人であること,心に割礼があることを証明しなかったからです。彼らは,スミルナ会衆のような霊的イスラエル人にはなりませんでした。そうした信じないユダヤ人は,地方の会堂に出席していましたが,エホバ神の会堂の者ではなく,「サタンの会堂」の者であり,彼らの冒とくがその事実を裏付けていました。彼らはエホバ神とそのメシア,イエスに逆らうことにより,サタンにくみする者となっていたのです。サタンという名は,「逆らう者」を意味するからです。彼らは,イエス・キリストがご自身の完全な人間の命を犠牲にすることにより仲介をされた,新しい契約には入っていませんでした。(エレミヤ 31:31-34。マタイ 26:27,28。ルカ 22:20。テモテ第一 2:5,6)同様に今日でも,霊的イスラエル人の残りの者は,単に霊的ユダヤ人と唱えるだけの僧職者たちから冒とくされても,意に介する必要はありません。
5 (イ)スミルナ会衆はどんな事柄をすでに経験していましたか。それは彼らの物質的状態に疑いなくどんな影響を及ぼしましたか。(ロ)彼らはどのように,またどんな目的で,さらに苦しみを味わうことになっていましたか。(ハ)彼らが患難に遭う「十日のあいだ」とは,どんな意味があると考えられますか。
5 1世紀の終わりまでに,古代スミルナの会衆は,疑いなく迫害の形を取った「患難」をひどく経験しており,そのため,物質的にいっそう貧しい状態に陥っていました。しかし,彼らはさらに患難を経ることになっていたのです。ですが,栄光を受けたイエスは,「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはならない」と言われました。どのようにいっそう苦しめられるのですか。「見よ,悪魔はあなたがたのうちのある者たちを次々に投獄するであろう」。こうして,彼らは十分に試されます。その目的が「十日のあいだ患難に遭う」ことなのですから,特にそう言えます。(啓示 2:10)文字どおりの十日間の患難また迫害は,集中的に襲うと非常に厳しいものとなり,明らかに,人の生涯においてそれで十分でしょう。しかし「十日」というのは,特に現代の適用においては,ひゆ的に理解すべきもののようです。「十」という数字は,啓示の他の七個所で,地的な総体性また完全性の象徴として用いられているので,「十日」というのは,地上における会衆の全日数を象徴していると考えられ,長くても,悪魔が縛られる時までの期間でしょう。
投獄
6 スミルナのクリスチャンはだれによって,またどんな理由で投獄されることになっていましたか。
6 スミルナ会衆は,悪魔の手による投獄の苦しみを引き続き受けるが,それを恐れてはならない,という使徒ヨハネを通しての勧めの言葉を十分に受け入れることができました。彼自身パトモス島から,囚人としてその勧めを書いていたからです。悪魔は当然,人間の手先を使って彼らを投獄させます。投獄と看守の仕事に彼が使う人間は,悪魔のしもべです。クリスチャンが投獄されるのは,道徳上また政治上の違法行為のためではなく,偽りの告訴のためです。彼らが偽りの告発を受けていることは,悪魔によって投獄される,という言葉によって示されています。悪魔という名は,「そしる者」,「偽りの告発者」という意味であり,したがって,スミルナ会衆の成員たちは,クリスチャンとして無実の罪で投獄されるのです。それゆえ,いろいろな場合に投獄された時の使徒たちすべてと同じく,彼らは清い良心を保つことができます。
7 霊的イスラエルの残りの者の成員が投獄された極めて顕著な例を述べなさい。
7 現代,エホバの証人の中にいる霊的イスラエル人の残りの者にとって,投獄は顕著な経験となってきました。霊的イスラエル人の油そそがれた残りの者の多くの成員は,1914年から1918年に及んだ第一次世界大戦中,不当にも投獄されましたが,1919年それぞれの刑務所から出てきました。その中には,ものみの塔聖書冊子協会の当時の会長J・F・ラザフォード,同協会の会計秘書,編集委員の他の二人,および協会の責任ある成員の他の三人が含まれていました。その人たちはみな,聖書の二つの預言の書,啓示とエゼキエル書の宗教的注解である,有名な「終了した秘義」の準備と出版に関係しました。七人全員は,1918年6月21日,政治扇動罪およびアメリカの徴兵に対する妨害罪という偽りの告訴により,公訴の4つの各項につき二十年の投獄を言い渡され,保釈の権利を拒否されたまま,ついにジョージア州アトランタの連邦刑務所に拘禁されました。彼らと共に,協会のある著名な成員が八人目として,十年の刑を言い渡されました。
8 その投獄はどんな結果になりましたか。「終了した秘義」と題する本の禁止処分はどうなりましたか。
8 後ればせながら,1919年3月,上級裁判所へ再審理を求めるその上訴期間中,保釈が認められ,彼らは釈放されました。合衆国政府はこの件を再審理に付すことなく,ものみの塔聖書冊子協会のそれら八人の者は無罪となりました。また1920年には,「終了した秘義」の本は禁止処分を解かれ,アメリカとカナダで再び配布され始めました。
9 啓示 2章10節は残りの者に対してどのように成就しましたか。
9 しかし,1世紀のスミルナ会衆は,栄光を受けたイエス・キリストから次の警告を受けました。『見よ,悪魔はあなたがたのうちのある者たちを次々に投獄するであろう。それはあなたがたが十分に試されるためである』。(啓示 2:10)これと一致して,エホバの証人の中にいる,霊的イスラエル人の残りの者の成員に対する投獄は,1919年にその多くが釈放された後にも途絶えませんでした。むしろ,特にロシアの共産主義,ファシズム,カトリック信徒運動,ヒトラーのナチズム,そして国家主義の広がりと共に,投獄件数は大規模に増加して行きました。
10 1926年および1927年という早い時期において,この預言はドイツでどのように成就しましたか。
10 すでに1926年,ドイツでは,エホバの献身した民の活発な成員897人に対する訴訟が法廷に出され,その結果多くの者が罰金を課せられました。1927年の一年間,ドイツで逮捕されたエホバの崇拝者の数は1,169人に上り,処理された353件の訴訟のうち,40件が刑罰に処せられました。ものみの塔聖書冊子協会は,至高者に仕えるクリスチャン証人の逮捕が何百件と続くので,この法律事務一切を処理するため,ドイツ支部に独自の法律部門を設けねばなりませんでした。
11 (イ)ヒトラーの独裁下でエホバの証人はどんな苦しみを味わいましたか。(ロ)ナチスの支配が終わった後,それらエホバの証人の多くはどうなりましたか。
11 これは,1933年に始まったアドルフ・ヒトラー独裁の予備的段階にすぎませんでした。同年の春,ドイツの野外では1万9,268人のエホバのクリスチャン証人が活発に奉仕していました。彼らは,ナチスの独裁者を自分たちの総統,指導者としてそれに従うこと,また,政治的および軍事的侵略に少しでもかかわりを持つことを拒否しました。エホバ神と,キリストによる神の王国とに対するそうした絶対的,また,分かたれることのない専念のゆえに,彼らは何千人も投獄され,強制収容所に送られました。第二次世界大戦(1939-1945年)にもかかわらず,彼らはクリスチャンの中立を保ち,多くの人は死に至るまでもその立場を守りました。第二次世界大戦が終わった時までには,彼らのうちそれぞれの収容所で死んだ者の数は2,000人を数え,強制収容所から出てきた8,000人のうち2,000人は,働くことのできない体になっていました。多くの場合,エホバのそれら忠実な証人は,ナチスの強制収容所を出されて間もなく,今度は東ドイツの共産主義の刑務所や強制収容所に入れられました。
12 英国のエホバの証人には何が起こりましたか。それはどんな主要な問題に関してですか。
12 この時期,エホバのクリスチャン証人は他の国においても投獄されました。かつてない程の大胆さをもって,それらの証人たちは世界の政治上および軍事上の闘争に対して中立の立場を取りました。英国では,第二次世界大戦中,クリスチャンの中立を犯すことを拒否したため,1,593人の若い証人が投獄されました。英国では当時,若い男子に限らず女子にも徴兵が適用されたので,クリスチャンの中立の立場を守ったために投獄された者たちのうち,344人は女性でした。彼らの刑期を総計すると,実に六世紀以上もの長い期間にわたります。
13 この時期,ものみの塔協会の本部は迫害に対してどのような公式の反応を示しましたか。
13 次に,北アメリカの合衆国についてはどうですか。1930年代の初めに,エホバの証人に対する迫害は一段と激しくなりました。この事態に対し,ものみの塔聖書冊子協会の会長J・F・ラザフォードは,WBBRを主要放送局とする一連の放送網を通じて,「エホバの証人: なぜ迫害されるか」と題する話をしました。それは,1932年5月1日,日曜日のことです。それから少し後の,1932年5月22日,日曜日,組織されたエホバの証人の一団は,家から家へ王国を証しする業を行なうため,迫害の“過熱点”であるニュージャージー州のバーゲンフィールドにいわば侵入しました。彼らは,逮捕された時にはエホバの証人であることを告げるだけで,個人の名前は法廷で判事の前に出て尋ねられるまでは明かさないよう指示を受けていました。彼らは勇気をもってこの道を取りました。
14 合衆国では年々どのように迫害が増大しましたか。ものみの塔協会は何をすることが必要になりましたか。
14 最初,アメリカではどれ程の件数になるか予想がつかなかったため,逮捕および投獄件数は集計されませんでした。しかし,1934年に340件,1935年に478件,1936年には1,149件というように増加して行きました。ものみの塔協会はドイツにおけると同様,ついにブルックリン(ニューヨーク)本部にも法律部門を置くことが必要となりました。家から家に「王国のこの良いたより」を各週,日曜日を含む毎日宣べ伝えることから生じる,逮捕や投獄に関するすべての問題を取り扱うためでした。
15 1940年を初めとして今日に至るまで,合衆国のエホバの証人はどんな問題に直面してきましたか。それはどんな結果をもたらしていますか。
15 アメリカは,平時の徴兵制を1940年9月に制定しましたが,1941年12月7日,第二次世界大戦に巻き込まれることとなり,徴兵に取られるアメリカのエホバの証人は,絶対的なクリスチャンの中立の立場を守ることが必要になりました。忠実にその立場を守ったため,幾千人もの証人が各,数年の刑期を受けて投獄されました。アメリカの徴兵制は以来取り消されたことがなく,クリスチャンの中立の問題はいまだに論争となっています。今日に至るまで,幾百人ものエホバのクリスチャン証人は,好戦的なこの世の軍事闘争に関し,キリストと同じ中立の立場を保持しているため,刑務所で刑期に服しています。
16,17 (イ)特に1935年以降,だれが残りの者と共になって迫害に遭っていますか。彼らは迫害をどのように耐えていますか。(ロ)残りの者は,「大群衆」のそれら多くの成員の苦しみに関して,どう感じていますか。
16 それらエホバのクリスチャン証人の投獄に関する,第二次世界大戦前および大戦後の統計をここで示すこともできますが,栄光の主イエス・キリストが古代スミルナの会衆に述べられたこと,つまり,悪魔が彼らのうちのある者を次々と投獄し,その者たちが十日間患難を受けるということは,決して意味のないことではなかったのです。(啓示 2:10)特に1935年以降,神の霊的会衆の油そそがれた成員の現代の残りの者たちに,神に献身してバプテスマを受けた人たちの「大群衆」が加わり始めました。彼らの希望は天的なものではなく,ただ,神のメシアの王国の下に到来する,地上のパラダイスに永久に住むことを望んでいます。彼らすべても,この時代の論争に直面し,悪魔の手先による投獄の苦しみを受け,多大の患難を経験しています。ヘブライ 10章32-34節に述べられている見地からすると,油そそがれた残りの者たちは,「大群衆」のそれら投獄された者たちを思いやり,共に苦しみを味わっているのです。
17 「啓発を受けたのち数々の苦しみのもとで大きな闘いに耐えたさきの日々をいつも思い出しなさい。ある時には,非難にも患難にも,劇場にあるかのようにさらされ,またある時には,そうした経験をしている人びととともに分かち合う者ともなりました。あなたがたは,獄にある人びとに思いやりを示し,また自分の持ち物が略奪されても,喜んでそれに甘んじたのです。自分たちに,さらに勝った,永続する所有物のあることを知っているためでした」― ヘブライ 10:32-34。
命の冠
18 (イ)死に至るまで苦しみを経験することが必要であるとしても,そうした忠実さは「大群衆」に何を意味しますか。(ロ)現代において,イエスは啓示 2章10節の言葉をだれに対して語られますか。
18 そうした苦しみの下での忠実,必要なら死に至るまで忠実を守ることに対し,大いなる報いが与えられます。忠実な「大群衆」は地上でしかるべき報いを得ますが,王国の共同相続者である,油そそがれた残りの者たちを強めるため,主イエス・キリストは患難に直面しているスミルナ会衆にこう告げられました。「忠実であることを死に至るまでも示しなさい。そうすれば命の冠をあなたに与えよう」― 啓示 2:10。
19 (イ)油そそがれた残りの者の中には,迫害の下での残酷な死を経験しない者もいることでしょう。しかしそれでも何をしなければなりませんか。(ロ)「命の冠」は何を意味していますか。彼らが勝利を得る競争は何ですか。
19 油そそがれた残りの者の多くは,患難の下での残酷な死に至るまで,クリスチャンの原則に忠実であることを実証してきました。すべてがそうした残酷な死に遭うわけではありませんが,地上の生涯の終わりに至るまで忠実を保たねばなりません。そうすることにより,確かに「命の冠」を受けます。ここで使われている「冠」という言葉は,神性を備えた不滅性つまり,天的な命の最高形態を指すかのように,“最上級”を意味するのではなく,キリストのような忠実さに対する報いとしての賞を指しています。彼らはこの世に対して勝利を得る競争に加わっているのです。この激烈な競争において,悪魔の手先にかかって,たとえ地的な命を悲惨な仕方で失おうとも,悪魔のような敵は彼らの命を永久に消し去ることはできません。神は定めの時に,キリストを通して彼らに天の命を授けます。それゆえ,彼らが死を恐れる理由はありません。
20 忠実な油そそがれた者たちが報いとしてどんな命を得るかを,イエスはどのように示されましたか。
20 不死,不滅性が彼らの報いです。これは,栄光を受けたイエス・キリストが,スミルナ会衆にあてた結びの言葉から理解されます。「耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい: 征服する者は決して第二の死に損われることがない」― 啓示 2:11。
21 「第二の死」とは何ですか。
21 ヨハネに与えられた啓示にのみ,この「第二の死」という表現が使われています。それは,復活の可能性の全くない,とこしえの死を示しています。啓示 20章14,15節,21章8節で,それは次のように象徴されています。「そして,[罪人アダムから受け継がれた]死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」。「しかし,憶病な者,信仰のない者,不潔で嫌悪すべき者,殺人をする者,淫行の者,心霊術を行なう者,偶像を礼拝する者,またすべての偽り者については,その分は火といおうで燃える湖の中にあるであろう。これは第二の死を表わしている」。
22 命の書に書かれるということは何を意味しますか。他方,象徴的な火の湖に投げ込まれるということは何を意味しますか。
22 命の書に書かれるということは,その人にとって永遠の命を意味します。象徴的な火の湖に投げ込まれるということは,その人にとって永遠の死つまり「第二の死」を意味します。悪魔サタンは,永遠の死の刑罰を受けます。彼は第二の死を受け,「第二の死に損われる」からです。その使いの悪霊たちも同じです。―啓示 20:10。
23 「第二の死に損われる」ことのあり得ない者がだれかを聖書から示しなさい。
23 「第二の死に損われる」ことのあり得ない者たちは,間違えようのない仕方で示されています。啓示 20章1-3節における,悪魔サタンと悪霊たちが縛られ,底知れぬ深みに入れられる記述の後に,こう記されています。「これは第一の復活である。第一の復活にあずかる者は幸いな者,聖なる者である。これらの者に対して第二の死はなんの権威も持たず,彼らは神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼とともに王として支配する」。(啓示 20:5,6)それゆえ,啓示 20章4節に描かれている者たちを,幸いな者,聖なる者と呼ぶことができます。彼らについて使徒ヨハネはこう記しているからです。「またわたしは,数々の座を見た。それに座している者たちがおり,裁きをする力が彼らに与えられた。実に,イエスについて行なった証しのため,また神について語ったために斧で処刑された者たち,また,野獣もその像をも崇拝せず,額と手に印を受けなかった者たちの魂を見たのである。そして彼らは生き返り,キリストとともに千年のあいだ王として支配した」。
24,25 (イ)油そそがれた忠実な征服者はどんな復活を受けますか。なぜですか。(ロ)使徒パウロの説明によると,それらの者はどんな体で復活させられますか。
24 それらのクリスチャン征服者は,死に至るまでも忠実であり,「第二の死に損われる」ことがないので,死人からの復活を受けます。キリストを通して行使される神の力により,彼らは,復活つまり,「第一の復活」によって生き返るのです。それは霊の被造物としての天の命への復活であり,それゆえに彼らは,神とキリストの天的祭司となることができ,キリストと共に千年間統治するのです。彼らの復活と,命によみがえらされる時の体については,次のように記されています。
25 「死人の復活についてもこれと同じです。朽ちるさまでまかれ,朽ちないさまでよみがえらされます。不名誉のうちにまかれ,栄光のうちによみがえらされます。弱さのうちにまかれ,力のうちによみがえらされます。物質の体でまかれ,霊の体でよみがえらされます。物質の体があるなら,霊の体もあります。まさにそう書かれています。『最初の人アダムは生きた魂になった』。最後のアダム[すなわち,イエス・キリスト]は命を与える霊になったのです」― コリント第一 15:42-45。
26-28 (イ)霊の被造物である者は,第二の死に決して遭いませんか。例を示しなさい。(ロ)征服を遂げるクリスチャンは,聖句の示すとおり,霊の被造物としての復活以上の何を受けますか。
26 霊の被造物であるということ自体は,その者が永遠の滅びである「第二の死」を受けないという意味ではありません。悪魔サタンと悪霊たちは霊の被造物ですが,象徴的な「火の湖」に投げ込まれることにより,「第二の死」を経験します。(啓示 20:10。マタイ 25:41)つまり,征服を遂げるクリスチャンは,死者から霊の被造物に復活させられるだけでなく,復活のさい不朽と不滅性を付与されるのです。その証拠として,使徒パウロは彼らの復活についてこう描写を続けます。
27 「ラッパが鳴ると,死人は朽ちないものによみがえらされ,わたしたち[使徒パウロと仲間のクリスチャンたち]は変えられるからです。朽ちるものは不朽を着け,死すべきものは不滅性を着けねばならないのです。しかし,朽ちるものが不朽を着け,また死すべきものが不滅性を着けたその時,『死は永久にのみ込まれる』と書かれていることばがそのとおりになります」― コリント第一 15:52後半-54。
28 不朽と不滅性を付与されるので,彼らが「第二の死に損われる」ことは決してありません。
29 それでイエスは,征服を遂げるクリスチャンにどんな壮大な事柄を約束されましたか。
29 こうして,啓示 2章11節のすばらしい約束は,霊が諸会衆に述べることを聴く,征服を遂げるクリスチャンたちが,「第一の復活」つまり,起こる時,質そして重要さの点で「第一」の復活にあずかることを意味します。また彼らは,「神のパラダイスにある命の木から食べる」ことを許されるのですから,天的な,「神のパラダイス」において,とこしえに,「第二の死」を完全に免れるという特権を享受します。死に至るまでも忠実な征服者に対する,なんと壮大な報いではありませんか。