7-8. 地上での生涯が終わる頃,イエスはどんなことに耐えましたか。
7 地上での生涯が終わる頃,イエスは数々のひどい仕打ちに耐えました。最後の晩に極度のストレスを感じている中,がっかりするようなことや屈辱的なことを経験しました。弟子の1人に裏切られ,親友たちに見捨てられ,違法な裁判にかけられました。その裁判の時には,ユダヤ教の最高法廷の成員からあざけられ,唾を掛けられ,こぶしで殴られました。それでもイエスは威厳や気品を失わず,その全てを忍耐しました。(マタイ 26:46-49,56,59-68)
8 亡くなる間際には,ひどく体を痛めつけられました。激しくむちで打たれたので,「幾筋もの深い裂傷と相当の失血」が生じたと考えられます。そして杭に掛けられ,「最大の苦痛を味わいながらじわじわと死に至る」ことになりました。大きなくぎを手足に打ち込まれた時,イエスがどれほどの激痛を感じたか想像してみてください。(ヨハネ 19:1,16-18)杭が垂直に起こされ,くぎに体重がかかり,ずたずたの背中が杭で擦れた時にも,焼け付くような痛みを感じたことでしょう。イエスは,この章の冒頭で考えたようなプレッシャーを感じながら,こうした極度の苦痛に耐えたのです。
9. 「苦しみの杭」を持ち上げてイエスの後に従うとはどういうことですか。
9 キリストの弟子である私たちは,どんなことを忍耐する必要があるでしょうか。イエスはこう言いました。「誰でも私に付いてきたいと思うなら,……苦しみの杭を持ち上げ,絶えず私の後に従いなさい」。(マタイ 16:24)「苦しみの杭」という表現は,苦しみや屈辱,死を表しています。キリストの後に従う生き方は楽ではありません。クリスチャンとして聖書の基準に従う私たちは,世の中の人たちとは違っているので,その人たちから憎まれます。(ヨハネ 15:18-20。ペテロ第一 4:4)それでも,ためらうことなく苦しみの杭を持ち上げ,手本であるキリストに従います。たとえ苦しんで死ぬことになるとしても従い続けるのです。(テモテ第二 3:12)
10-12. (ア)イエスが周りの人たちの不完全さを見て悲しい気持ちになったのはどうしてですか。(イ)イエスが忍耐力を試されたどんな状況がありましたか。
10 イエスは地上で伝道した間,周りの人たちの不完全さにも悩まされました。イエスが地上に来る前のことを少し思い起こしてみましょう。イエスは「優れた働き手」として,エホバが地球とあらゆる生物を造るのを手伝いました。(格言 8:22-31)ですから,エホバがどんなことを考えて人間を造ったかよく知っていました。人間は神に似た者として,完全な体でいつまでも幸せに暮らすことになっていました。(創世記 1:26-28)ところが,罪を犯して悲惨な結果を身に招いてしまいました。イエスは地上に来て,その現実を改めて痛感しました。自分自身が人間となり,人間の感情をじかに体験したからです。アダムとエバが持っていた本来の完全さから人間が懸け離れてしまったのを目の前で見て,イエスはとても悲しい気持ちになったに違いありません。では,イエスは気落ちし,罪深い人間には見込みがないと考えて諦めてしまうでしょうか。それとも忍耐して人間を助け続けるでしょうか。
11 イエスは,ユダヤ人が信仰を持とうとしないことを嘆きました。ある時には人前で涙を流したほどです。では,多くの人が無関心だからといって熱意を失ったり,伝道をやめたりしたでしょうか。そんなことはありません。聖書によれば,「神殿で毎日教え続け」ました。(ルカ 19:41-44,47)またイエスは,パリサイ派の人たちの心が無感覚なのを「深く悲しん」だこともあります。その人たちはイエスを訴えようとして,片手がまひした男性をイエスが安息日に癒やすかどうかをじっと見ていました。では,イエスはその独善的な反対者たちにひるんだでしょうか。全くそのようなことはなく,会堂の中央で堂々と男性を癒やしました。(マルコ 3:1-5)
12 親しい弟子たちの弱さも,イエスの悩みの種だったに違いありません。第3章で考えた通り,弟子たちには人の上に立ちたいという根深い願望がありました。(マタイ 20:20-24。ルカ 9:46)イエスは,謙遜になる必要があることを繰り返し教えました。(マタイ 18:1-6; 20:25-28)それでも弟子たちはなかなか考え方を変えず,イエスと過ごす最後の晩にも,誰が一番偉いのかについて「激しい議論」をしていました。(ルカ 22:24)では,イエスは弟子たちには望みがないと考えて諦めたでしょうか。そうはしませんでした。いつも弟子たちの良いところや可能性に目を向け,辛抱強く接し続けました。弟子たちがエホバを愛し,エホバの望むことを行いたいと思っていることを,イエスは分かっていたのです。(ルカ 22:25-27)
13. 私たちもイエスと同じように,どんなときに忍耐力を試されることがありますか。
13 私たちも,イエスと同じように忍耐力を試されることがあります。例えば,王国の良い知らせを伝えても,聞いてもらえなかったり反対されたりするかもしれません。そんなとき,やる気をなくしてしまうでしょうか。それとも熱心に伝道し続けるでしょうか。(テトス 2:14)仲間のクリスチャンの不完全さに悩まされることもあるでしょう。心ないことを言われたり無神経なことをされたりして,傷つくことがあるかもしれません。(格言 12:18)では,仲間の短所に注目し,愛想を尽かすでしょうか。それとも欠点を大目に見て,相手の良いところを見ようとするでしょうか。(コロサイ 3:13)