『愚かな者は言えり』
古代ギリシャの哲学者エピキュロスは,『物質主義の父』と言われています。しかし,それは西洋哲学だけにあてはまることです。彼よりも幾世紀も昔に,エピキュロスの物質主義と同じ物質主義の哲学を持つていた人々がいました。彼らはこう言つていました。『ヱホバは我らを見ず,ヱホバはこの地を棄てたり。』『ヱホバは福をもなさず,災をもなさず。』これらの人々は,口先で何を言おうとも,心の中では『神なし』と言つていた者たちであり,神の言葉によると愚かな者と言われています。―エゼキエル 8:12。ゼパニヤ 1:12。詩 14:1。
『神なし』ということを口先きで述べようと,また行で示そうと,それを言う人はなぜ愚かな者ですか? なぜならば,その人は次の事を示しているからです。(1)道理に服さない。(2)自分の感覚力を認めない。(3)自分を欺いている。(4)もつとも貴重なものである生命にたいする感謝の気持が欠けている。
どの結果にも,十分の原因があるとは,道理の示すところです。秩序正しい結果には,理智ある原因があります。力のある結果には,強力な原因があります。物質主義者は,たとえ肉眼で神を見ることができなくても,神が存在していることを道理から悟るべきです。なぜならば,宇宙の存在について,それ以外の他の説明はないからです。それは,最も力強く,かつ秩序正しい結果です。それですから,同じく力強く,かつ秩序正しい原因があるにちがいありません。
ニューヨーク科学学会の前会長であつたエー・シー・モリソンは,『人間は独り立たず』という本を書いてこの点をはつきり示しました。それは,物質主義者ハックスレイの書いた本『人間は独り立つ』に返答を与えているものです。モリソンの論の要旨は,こうです。『最高者の存在は,無限の調和により表明される。その調和が無いならば,生命自体も不可能になるのである。』
例えば,太陽の表面温度は,華氏1万2000度ですが,地球から太陽までの距離は丁度適当なものであるため,地球上の生命は存在し得ます。もし近づき過ぎていたり,あるいは離れていたりしているならば,地球は暑すぎたり,又は冷くなつて生命は存在できません。地球から月までは24万マイルですが,それでも1日2回60フィートも高い潮を生ぜしめ,地殻を数インチも脹らませてしまいます。月がもつと近づいているならば,潮は低地を覆つてしまうばかりでなく,ついには山々をも覆つてしまうでしよう。
さて,動物の本能についてはどうですか? 大都会の中心で,特定の類の雄の蛾を,同類の雌の蛾のいるところから4マイル離れたところで飛ばしてみます。数時間経つか経たぬかに,雄の蛾は雌の蛾のいる部屋の窓を翼で打ち叩いています。雄はどんな通信手段を用いて,雌の居場所を知つたのでしようか?
渡り鳥は,暦を正しく守るだけでなく,間ちがえずに飛走することができます。毎年毎年同じ場所に戻つて来るものです。女王蜂と働き蜂のちがいは,ただ食物のちがいだけです。働き蜂に粗食法を教えたのは誰でしたか? そのような例はまだまだ無数にあります。
人間のすばらしい構造についてはどうですか? 特に,理知,記憶,切望,発見力,想像,そして障害を打ち勝ち得る意志の源である頭脳についてはどうでしようか? そして私たちの遺伝子についてはどうですか? あまりに小さいため,全人類の遺伝子を集めたところで,指貫ぐらいの大きさに過ぎません。それでいて,その遺伝子により,身体や頭や,感情の特質をうけついでくるのです。
人間のまわりにあるものも,または人間の中にあるものでも,そのようなすばらしい意匠は,単なる偶然にすぎないとか,あるいは運によるものだとか言う人や,そしてこのすばらしく調和された結果のなかに全能,全智の最初の原因,最高者,割造者を認め得ぬ人は,道理に服さない人であると,はつきり分ります。その人は,自分の感覚力を通して知つたことを認めようとはしないため,愚かな者であります。使徒パウロは,そのことを実に良く述べています。『なぜならば,神について知るべき事柄は,彼らに明らかであつて,神はこれを彼らに現わされたからである。神の見ることのできない性質,すなわち永遠の力と神なることとは,世の創造の時以来,つくられたものによつて理解することができ,明らかに見られるのであるから,彼らは言い逃れることはできない。』― ロマ 1:19,20,新世。
心の中で『神なし』と言う人は,自分を欺いている点で愚かな者です。その人は自分のことを高く買いかぶつています。万物には始まりがあるのに,神が最初の原因であるとはとうてい理解できないと論じます。しかし,その人の心は無限を理解することができないということを全く見のがしています。故に時と空間の無限を理解し得ません。時の始まりと空間の終りを理解することができないその人にとつて,無限の存在者の存在を認めるのは,決してむずかしくないはずです。
『愚かな者』には,次のことが分りません。つまり,正しい受信機がないなら,テレビジョンを見たり聞いたりすることができないのと同じく,正しい心と感情の人格の受信機,すなわち正直,謙遜,そして真理への欲求がないなら,自然内で神を『見たり』『聞いたり』することができないということです。万事良く知つていると考える人は,神が存在している証拠を認めようとはしません。また客観的な見方を取らず,むしろ利己的な考えで理窟をこねようとする人も,神の存在しているという証拠をうけ入れません。そして,自分のことを高く買いかぶつている人も同じです。そのような人は,神が存在していることを信じようとは欲しません。創造者と生命の与え主の存在を認めるなら,創造者に従わねばならず,かつ創造者の御意に服従しなければなりません。
そして最後に,心の中に『神なし』と言う人は,自ら神の祝福を失うため,愚かな者であります。神を愛のある恩恵者,そして正当な主権者と認める者に対して,神は祝福を与えます。神は,変転極まりない現在の生命よりも,もつとすばらしいものを人に与えることができると,道理から悟るべきです。また,創造者は人間の必要な物資,すなわち食物,衣服,そして家というあらゆる必要なものを豊かに備えてくれました。それだけでなく,人間の感覚によろこびを与えるもの,すなわち耳を楽しませる音楽,目を楽しませる色と自然,嗅覚をたのしませる良い香,その他をも豊かに備えてくれました。それであるなら,創造者は人間の霊的必要物を備えてくださるにちがいないと道理から悟るべきです。そして,人間が存在している目的とか,なぜ悪がはびこつているか,等のむずかしい生命の諸問題に答を与えているにちがいありません。実際に,神は御言葉である聖書によつて,それを備えておられます。
神の御言葉は次のことを示しています。この地を変えて大きな楽園の地となし,その中には死もなく,悲しみ,叫びも痛みもない状態にするのは神の御目的です。しかもこの御目的は,間近い将来に実現されるのです。どんな理由でもあれ,この前途を拒絶する者は確かに愚かな者です。そして,心に『神なし』と言う人は,本当に愚かな者です。