躓かずに競走する
『すべて心たかぶる者はヱホバに悪(にく)まれ……たかぶりは滅亡にさきだち,誇る心はたおれにさきだつ』― シンゲン 16:5,18。
1 なぜヱホバは,御自分の御言葉の中で特定な規則を述べていますか。どんな規則が繰り返し表われていますか。
競走をする規則は,ヱホバからその御言葉を通して来ます。『われ智恵の道を汝に教え,義しき道筋に汝をみちびけり。歩くとき汝の歩みはなやまず,走るときもつまづかじ。』クリスチャンを助けて躓かせないため,ヱホバは特定な規則を聖書の中で再三再四述べています。その中の一つは,躓きの原因となる誇りを取りのぞけという命令です。誇りははなはだしい重荷であり,クリスチャン競走における進歩を難かしいもの,不可能なものにすると見なして,取りのぞきなさい。『一切の重荷をかなぐり捨てよう』とパウロは言いました。―シンゲン 4:11,12。ヘブル 12:1,新口。
2,3 (イ)ヱホバが心に高ぶつている者を忌み嫌う理由を知るのは,現在なぜ適当ですか。(ロ)聖書の禁じているこの誇りとは何ですか。誇りを持つことは,人の競走にどう影響しますか。
2 なぜ,ほこりがヱホバに忌み嫌われるのか,また『信仰の戦い』において良く走る際のつまづきになるかを理解することは,この『終りの時』にあつて適当なものです。まつたく,現在は『終りの時』であつて,多数の人々は『自分を愛する者』『大言壮語する者』そして『高慢な者』です。―テモテ前 6:12。テモテ後 3:1-4,新口。
3 躓ずきにみちびくこのほこりとは何ですか。それは自分のことを高く考え過ぎることです。それは使徒の示した道とは反対の道を走ることです,『あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思い上ることなく』『高ぶつた思いをいだかず』それは,自分は重要な者であると思い上つた考えで,ちよつと銘釘の気分を持たせるものです。誇りを持つ人は,自分を思い高ぶつているのです。そのような人が『規則に従つて』クリスチャン競走をすることは,酒に酔つた者が躓かずに走ることと同じ位むずかしいものです。なぜなら,『人の心のたかぶりは滅亡に先だつ。』― ロマ 12:3,16。テモテ後 2:5。シンゲン 18:12。
4 ヱホバとキリストは高慢な者をどのように見なしますか。どんな結果が生じますか。
4 ヱホバは誇り高ぶつている人を憎む故に『たかぶりは滅亡にさきだつ』のです。彼はそのような者を忘み嫌います。彼は彼らに反対します。『神は高ぶる者をしりぞけ』ヱホバの魂の忌み嫌う七つのものの中に『たかぶる目』があります。知恵の疑人化されたキリスト・イエスは,次のように言つています,『我はたかぶりとおごり,悪しき道といつわりの口とを憎む。』地上におられたときにキリストは,不変の規則をこう述べました,『だれでも自分を高くする者は低くされ』それですから,誇りの結果はヱホバとキリストの反対を受け,自分を高める高慢な者たちは遂には低くされるでしよう。―ヤコブ 4:6。シンゲン 6:16,17; 8:13。マタイ 23:12。
なぜヱホバに忌み嫌われるか
5,6 なぜ心に高ぶつている者は,ヱホバに忌み嫌われますか。
5 心に高ぶつている人々が『ヱホバににくまれる』わけを知るのは容易です。彼らは神を求めておらず,また神から来る真理を求めていません。『悪しき者は傲慢にも探り求めることをせず,その考えはみな「神なし」ということである。』そのような人々は,どのようにすれば自分を高めることができようかと考えることです。彼らはヱホバに栄光と賛美を与えるのを拒絶します。―詩 10:4,新世。
6 誇り,傲慢,高ぶること ― これらはみな悪しき者たちの特徴です。『たかぶりはかざりのごとくその頸をめぐり』『高ぶる目とおごる心とは悪人の光にしてただ罪のみ』心に高ぶつている人は,神を求めないばかりか,神とその僕たちに反対します。この反対は迫害の気持をひき起します。『悪しき人は高ぶりて苦しむものを甚だしくせむ。』誇り高ぶつたパロは,イスラエル人をはげしく追跡し,その傲慢な行為の結果に苦しみました。誇りは,あらゆる種類の悪の基礎となつており全く偽りの宗教を教えるという極めて悪質の悪の基礎となつているのです,『もし違つたことを教えて,私たちの主イエス・キリストの健全な言葉,ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば,彼は高慢であつて,何も知らず,ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから,ねたみ,争い,そしり,さいぎの心が生じ,また知性が腐つて,真理にそむき,信心を利得と心得る者どもの間に,はてしのないいがみ合いが起るのである。』高慢な者,誇り高ぶつている者たちが,ヱホバに忌み嫌われるのも当然です! そのような人は人間からも忌み嫌われます,神からはどれ程忌み嫌われることでしよう!―詩 73:6。シンゲン 21:4。詩 10:2。テモテ前 6:3-5,新口。
7 誇りについての聖書の警告は,なぜクリスチャン走者の関心を持つべきものですか。誇りは滅亡の前にあると,誰が良く表わし示していますか。
7 誇りが悪しき者たちの特質であるなら,なぜ誇りについての警告がかくも多くあるのですが,なぜクリスチャン走者にとつて,それは関心を払うべき事柄ですか。なぜなら,誇りはクリスチャン生命を断ち切り,災害をもたらすものであり,そして誇りは『古い人格』の一部だからです。『規則に従つて』走る為には,クリスチャン走者はそのような『古い人格』を脱ぎ捨てねばなりません。新しく改宗した人が,監督の地位にすいせんされない理由は,使徒の語るごとく,『高慢になつて,悪魔と同じ審判を受けるかも知れない』からです。まつたくのところ,現在は悪魔になつている霊者も,最初は良いものでした,しかし誇りを持つたために失墜しました。ハルマゲドンのとき,彼は滅亡といういやしめを受けるでしよう。『なんじその美わしさの為に心に高ぶり,その栄躍のために汝の知恵を汚したれば,我なんじを地に投げ打ち,汝を王たちの前におきて,観物とならしむべし。』― テモテ前 3:6。エゼキエル 28:17。
8 人は何を持つと誇りを持ち易くなりますか。歴史は,このことをどう確証していますか。
8 サタン悪魔の例や,また新しく改宗したばかりの人が監督として奉仕することについての警告からも分る通り,権威と責任を持つた人は誇りを持ち易くなります。誇り高ぶり権力をもつていたハマンがいました。彼は誇り高ぶつた為に滅びを受けました。(エステル 3:5; 7:9)高慢なネブカデネザルもいました。彼は誇り高ぶつて,得意気にも『この大なるバビロンは我が大いなる力をもて建てて京城となし,これをもてわが威光を輝かす者ならずや』(ダニエル 4:30)と言つた後に正気を失いました。高慢なベルシャザル王がいました。ダニエルは彼に向かつて『ベルシャザルよ,なんじは彼の子にして……なおその心を卑くせず』と言いました。(ダニエル 5:22)ベルシャザルは,国と自分の生命を失いました。(ダニエル 5:22)ヘロデの高慢もありました。彼は神に栄光を捧げる代りに自分自身を尊びあがめたため,『虫にかまれて息が絶えてしまつた。』(使行 12:21-23,新口)本当に,歴史は強力な人々や国家の滅亡をずつと長く記録しているものです,そして『たかぶりは滅亡に先だつ』という事実を証明しているものです。
僭越は不名誉に先立つ
9 ウジヤ王は,どんな不信仰の行いをいたしましたか。彼がそのような愚行をしたのは,何が動機でしたか。
9 富を持つと誇りの気持を持ち易くなります。『富者はおのれの目に自らを智恵ある者となす』と神の言葉は述べています。ユダのウジヤ王に起きたことを見てごらんなさい。彼はヱホバの忠実な崇拝者でしたが,誇りが彼の生活内に入つたとき,彼はつまづきました。後年になつて彼は強くなり繁栄しました,『しかるに彼盛んになるにおよび,その心に高ぶりて悪しき事を行えり。すなわち彼その神ヱホバに向いて罪を犯し,ヱホバの宮に入りて香壇の上に香を焚んとせり。』思い上つたウジヤ王が,こうするのは間ちがいのことでした。それで,祭司たちは彼を叱り『聖所より出よ。汝は罪を犯せり。ヱホバ神なんじに栄を加え給わじ』ウジヤ王は,この叱責から益を受けましたか。受けなかつたのです。なぜなら『ウジヤ怒を発し香炉を手に取りて香を焚かんとせしが,その祭司にむかいて怒りを発しおる間に,癩病その額に起れり。時に彼はヱホバの室にて祭司等の前にあたりて香壇の側におる。』額に癩病が生じたのです! 死ぬときまで癩病人であつたウジヤは王者としての地位を失い,彼の息子が代りに支配しました! なんと悲しい終末なのでしよう! 長年のあいだヱホバに忠実に仕えた者の上に,そのことは生じたのです。しかし,規則はたしかです,『たかぶりきたれば,恥もまた来る。』― シンゲン 28:11。歴代志略下 26:16-21。シンゲン 11:2。
10 私たちはどのようにウジヤの経験から益を受けますか。
10 責任の地位についていない者でも,今日のヱホバの僕たちは,ウジヤの経験から益を得ることができます。経験してみなければ決して確信しないという人々のようになつてはなりません。誇りの後に来る滅亡を経験する理由はありません。それでは,どのようにして益を受けますか。自分には何の用向きもない事柄について,自分を重要な者と考えて語つたり,行つたりする僭越な行いをしないようにすることです。神権制度内のあなたの立場を保ちなさい。そして誇りの気持を抱くために悪い道に走り,ついには滅亡に落ちこむというようなことがあつてはなりません。
誇りは叱責の益を妨げる
11,12 誇りを持つていたため,ウジヤ王はどんな益を受けることができませんでしたか。私たちは,それからどんな教訓を受けるべきですか。
11 ウジヤのようであつてはなりません。彼は叱責と矯正から益を受けませんでした。彼は祭司たちの叱責を聞き入れて,直ちに聖所を立ち去ることができたはずです。そのようにしたならば,あれ程までの不面目な失墜を受けずに済んだことでしよう。しかし,彼は誇りを持つていたため,叱責を受けようとしなかつたのです。『なんじ己の目に自らを知恵ある者とする人を見るか。彼よりも却つて愚かなる人に望みあり。』おごり高ぶつたウジヤは叱責を軽んじ,そして激しく怒る程になりました。誇りを持つていたために,彼は叱責の益には盲目でした。―シンゲン 26:12。
12 矯正とこらしめは,ヱホバの僕すべてに来るのですから,私たちはヘブル人に告げたパウロの言葉を記憶する必要があります,『あなた方を子どもとして呼びかけている次のさとしを,あなた方はすつかり忘れている,「私の子よ,ヱホバのこらしめを軽んじてならない。彼にこらしめられるとき,弱り果ててはならない。ヱホバは愛する者をこらしめ,子として受け入れるすべての者をむち打たれるからである。」』もしクスリチャンが,制度を通してヱホバから来るこらしめを軽んじ,神の御言葉と一致する叱責を受けようとしないなら,その人はウジヤのようです。その人は,誇りを持つている為に叱責の益を受けようとしません。使徒は,こう説明しています,『確かに,こらしめはその当座には楽しくなく,悲しみに見えるが,しかし後になつて,それによつて訓練される者は平和の実,すなわち正義を結ぶであろう。』それですから,矯正がヱホバの制度から来るとき,その益を受けなさい。誇りによる妨げを受けるようなことがあつてはなりません。こらしめは,最初は悲しみに見えますが,しかし平和の実である正義と力を産み出します。『かたく教えを取りて,離すこと勿れ。これを守れ。これは汝の生命なり。』『教えのこらしめは生命の道なり。』― ヘブル 12:5,6,11。シンゲン 4:13; 6:23。
13 誇りは,どのように誤解と躓きの原因になりますか。
13 誇りが,時にはクリスチャン会衆内で誤解の原因になるのも驚くに当りません。誇りがあるなら,誇りによつて生ずるものも,おそらくそこにあるでしよう ― 怒り,争い,神経過敏,ねたみ,その他です。『心に貧る者は争いを起し』誇りは平和と一致を妨げます。もし誇りの入つて来るのを許さないら,誤解を訂正することはいともたやすいでしよう。誇りは超鋭敏な感受性をすぐに惹き起します。神経過敏な人は,自分の誇りが傷つけられたと感ずると,つまづきと倒れにみちびく事柄をいたします。例えば,神の僕と称する者が集会の出席を止めて神の制度との肝要な関係を断ち切りました。なぜ? 多くの場合に,他の者のした不適当な行為の故にその誇りが傷つけられたからです。実際には頭で考えただけの悪い事柄でしよう,しかし誇りは嵩じてすべての事柄を非常な誤解にまでしてしまいました。しかし,たとえヱホバの他の僕が『規則に従つて』競走をせず,またたとえその者が会衆内の僕であろうと,誇りの故に競走から落伍するというようなことを生ぜしめてはなりません。永遠の生命の賞は,私たちの誇よりも価値の少ないものですか。その質問にいつていくらか考えをめぐらしてごらんなさい。誇りを私たちの競走の妨げとするとき,躓きが来ます。『高ぶりは滅亡にさきだち,誇る心は倒れにさきだつ。』― シンゲン 28:25; 16:18。
14,15 誇りは,どのように腐つた骨にみちびきますか。誇りの結果を考えて見るとき,私たちは何を為すべさですか。
14 誇りは,危険な競争の精神にみちびき,すぐれた贈物を持つ他の者たちを妬むようになるでしよう。妬みは,今度は冷やかさと調和の不足にみちびきます。それで,『互いにいどみ合い互にねたみ合つて,虚栄に生きてはならない。』私たちは『ねたみは骨の腐なり』ということを知つていますから,私たちの前に置かれているクリスチャン競走をする際に誇りでもつて私たちの頑丈な霊的な骨をくさらしてはなりません。いつたい,腐つた骨を持つていて良く走れる人がいますか。―ガラテヤ 5:26。シンゲン 14:30。
15 誇りから生ずる悪い結果のいくらかを見,また誇り高ぶる人はヱホバの御前では全く忌み嫌われるということを知りましたから,誇りに対して身を守りなさい。しかし,どのようにすれば誇りに対して身を守ることができますか。神の御言葉はその方法を示しています。
愛と謙遜で誇りを癒す
16 なぜ愛は誇りに打ち勝つ程強いのですか。謙遜にはどの種類の愛が必要ですか。
16 愛は,誇りとその悪い結果全部に打ち勝つ程力づよいものです。『愛は……ねたむことをしない。愛は高ぶらない。誇らない。不作法をしない。自分の利益を求めない。いらだたない。恨みをいだかない。』愛は誇りに対して勝利を得ます。しかしその為には『律法の中で最大のいましめはどれですか』という質問に答えられた際に,イエスの指摘した愛を持たねばなりません。イエスは次の様に言われました,『「心をつくし,魂をつくし,思いをつくしてあなたの神であるヱホバを愛さねばならない。」これは一番大きな第一のいましめである。第二のいましめもこれと同じ様に「自分自身のごとくに隣人を愛さなければならない。」』この種の類の愛は,かならず誇りに打ち勝つものです。なぜならそれは真実の謙遜にみちびくからです。―コリント前 13:4,5。マタイ 22:36-39,新世。
17 賞を勝ち得る為の競走の際に,私たちはどんな衣服を必要としますか。そしてなぜ?
17 謙遜と誇りは,なんと正反対なのでしよう! 『人の心の高ぶりは滅亡に先だち,謙遜は尊まるる事に先き立つ。』誇りは滅亡にみちびき,謙遜は栄光にみちびきます。生命という栄光に輝く賞を得る為には,私たちは謙遜を必要とします。良く走る為には謙遜を必要とします。それですから,クリスチャン走者は謙遜という衣服を着なければなりません。『また,みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ,へりくだる者に恵みを賜うからである。だから,あなた方は,神の力強い御手の下に,自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。』― シンゲン 18:12。ペテロ前 5:5,6,新口。
18 多数のこの世の人は,謙遜をどのように見なしていますか。
18 高められて栄光を受ける前に来るこの謙遜とは何ですか。現在のこの世では,謙遜ということは殆ど理解されておらず,またそのことの示される場合はほとんどありません。多数のこの世の人々は,謙遜を低く見くびつています。謙遜を臆病と気の弱さと混同しており,謙遜とは臆病者と弱虫の徳であると言います。謙遜とは又,力の欠如あるいは能力の欠如をかくす仮面であるとも見なされています。
19 昔の異邦人のいくらかは,誇りをどのように見なしましたか。コロサイのクリスチャンたちのいくらかは,にせの謙遜によつて,明らかにどう欺かれましたか。
19 謙遜について今日の人々が誤解していたり,人気の無いことなどは,何も事新しいことではありません。パウロの時代でも,この世の人々は真の謙遜について理解しておらず又行わなかつたのです。尊ばれたものは,誇りか又はにせの謙遜でした。アリストテレスの列挙した美徳の中で,誇りと高ぶつた思いは『美徳の冠』と呼ばれています。物質はそもそも悪のものであると他の者たちは教えました。コロサイのクリスチャンたちは,一種のにせの謙遜,すなわち煩わしい難行苦行で欺かれていたように見えます。これには二重の危険がともなつていました。つまり,物質を否認する否定的な行いをする者のみに生命の賞が与えられると,人は信じるに至りました。第二に,それは陰険な形式の物質主義を生ぜしめました。というのは難行苦行をする者の禁制は,物質の事柄に人の興味と注意を惹いたからです。それで,難行苦行は,その目的を達しませんでした。それは,けいべつすると称していた事柄,すなわち『使えば尽きてしまうもの』に主として人の注意を惹きました。そのような形式の謙遜は人をつまづかせ,そして生命の賞を失わせるものであると,パウロはコロサイ人に警告して,次のように書きました,『偽わりの謙遜……体の苦行をよろこぶ人によつて,あなたの賞をうばわれるようなことがあつてはならない。』真の謙遜は難行苦行ではありません。―コロサイ 2:18-23,新世。
20 謙遜とは何ですか。それについての偽わりの見方からどんな結果が生じますか。
20 『謙遜<ヒューミリテイ>』という言葉は,ずつとむかしのラテン語ヒュームスから来ています。その意味は『地』ということです。謙遜とは,文字通りには,へりくだる思いを持つこと,この地にまで下つていることです。クリスチャンはこの特質を衣服として着なければなりません。『あなた方は,神に選ばれた者,聖なる,愛されている者であるから,あわれみの心,慈愛,へりくだつた思いを身に着けなさい。』すなわち,脚註の示すごとく謙遜を身につけなさい。それですから,謙遜は高ぶつた思いの反対です。しかし,『謙遜』は屈従,卑屈,臆病または力の不足とは何の関係もありません。謙遜とは弱いことであるという偽りの考えは,真の謙遜の豊かな祝福を失わせるものです。真の謙遜がどのように培われるかを見てみましよう。―コロサイ 3:12,新口。
謙遜の基礎
21 謙遜は何と共に始まりますか。そして,その基礎は何ですか。
21 謙遜は,知識,愛そして神を恐れることから始まります。謙遜は,私たちの弱少なること,そして神の大いなることを認識したときに生じます。人間はローソクの火のほんの一まばたきに過ぎないが,『永遠の王』である神は真昼の太陽のまばゆいばかりの輝きより,更に明るい栄光を持つていると認識するとき,謙遜はしつかりと根づきます。(エレミヤ 10:10)まつたく,これこそ謙遜の基礎であります。すなわち,神の無限の御稜威と私たち自身の弱少さを認識することであります。そのような認識は,知識から来るものです。ヨブ記 38章から41章までに記録されているごとく,ヱホバがヨブに与えたごとき知識から来るのです。その知識の助けで,ヨブは『神の力強い御手』の下に謙遜になることができました。私たちはこの種類の知識を必要とします。それは私たちを神との正しい関係に置かせ,ヤコブ書 4章10節(新世)の言葉に従わせます。『ヱホバの御前にあなたがた自身を低くしなさい。そうすれば,ヱホバはあなた方を高くして下さるであろう。』
22 お互いに対する心の謙遜さは,どんな基礎に依存していますか。そのような謙遜は,どのようにクリスチャン走者を助けますか。
22 ヱホバの御前で自分自身を謙遜にすることにより,私たちは仲間の者に対する謙遜の基礎をも置きます。なぜなら,人間に対する真実の謙遜は,究極には神の御前における真実の謙遜に依存するからです。真実の謙遜を持つとき,人は真実の自分を見ることができます,そして同様に他の者の実体をも見ることができます。他の者の性質とか成功を軽んずることがないため,他の者の実体とその行いを心から認識することができます。謙遜を持つている故に,人は思うべき限度以上に自分を考えることをしません。『知識は人を誇らします』が,真実の謙遜を持つている人は,たとえ高等教育を受けていようとも,誇りの気持を持たず,またその誇りの故に躓くということはありません。真の謙遜を持つクリスチャンは,規則に従つて競走を走ることができ,『何事も党派心や虚栄からするのでなく,へりくだつた心をもつて互に人を自分よりすぐれた者とし』ます。―コリント前 8:1。ピリピ 2:3,新口。
謙遜についてのこの世の見方は偽り
23,24 キリストは,この世の謙遜についての見方の偽りをどのように暴露していますか。それで,謙遜についての私たちの見方は何でなければなりませんか。
23 謙遜とは弱いことであるとか,または弱いことをかくす為の仮面であるとかいう,謙遜についてのこの世の見方はなんと歪曲しているのでしよう! 全くのところ,誇りは弱いものであり,謙遜は力のあるものです。キリスト・イエスは地上にいた人間の中でいちばん謙遜な人でした。しかし,彼は一番強い者,いちばん勇気のある者,一番賢明なる者,弱いことを知らず,そして御自身に罪を持たなかつたのです。彼はなんと大きな業を成したのでしよう。しかし,個人的な栄誉をすこしも取らなかつたのです!(ヨハネ 5:19)彼のごとき偉大な指導者で,しかも弟子たちの足を洗い,そして『私があなたがたにしたとおりに,あなたがたもするように,私は手本を示したのだ。』と言い得た人が,いたでしようか。『すべての事は父から私に任せられています。』というのですから,なんと大きな権威を持つていたのでしよう! しかし,彼はまたなんと謙遜だつたのでしよう!『私は柔和で心のへりくだつた者である。』― ヨハネ 13:15。マタイ 11:27,29,新口。
24 謙遜は叡知や力の欠如をかくす仮面とは全くちがいます。それは真の力であり健康であります。それは栄光に達する踏石です。『自分を高くする者は低くされ,自分を低くする者は高くされるであろう。』『人の傲慢はおのれを卑くし,心にへりくだる者は栄誉を得』― ルカ 18:14,新口。シンゲン 29:23。
25 キリストの心持は何でしたか。そして,その結果は何でしたか。それで,私たちは何を為すべきですか。
25 謙遜について聖書の述べているすべての事柄は,一つの大きな例である,キリスト・イエスの中に表わし示され,確証されています。私たちは私たちの心と生活をイエスにならつて行かねばなりません。このことは,かくも肝要なものであるため,使徒は次のように命じています。『あな方は,キリスト・イエスと同じ心持を持ちなさい。』どんな心持ですか。『彼は自らを卑くし,……死に至るまで苦難の杭の死に至るまで従順であられた。それ故に,神は彼を勝れた地位に高めた。』まつたく,『それ故に』つまりキリストが自分自身を謙遜にし,神に服して従つたため,彼は宇宙内の被造物の持ち得る最高の地位に高められたのです。『謙遜は尊貴に先だつ』ということは,なんと真実のことでしよう!―ピリピ 2:5,8,9。シンゲン 15:33。
26 神は謙遜な者をどのように見なしますか。誇る者は,何を失うに至りますか。
26 たしかに謙遜は力です。私たちの前に置かれている競走をするには,この種の力が必要です。神は謙遜な者だけに力を与えます。『しかし,私が顧みる人はこれである。すなわち,へりくだつて心悔い,わが言葉に恐れおののく者である。』『いと高く,いと上なる者,とこしえに住む者,その名を聖ととなえられる者がこう言われる,「私は高く,聖なる所に住み,また心砕けて,へりくだる者と共に住み,へりくだる者の霊をいかし,砕けたる者の心をいかす。」』走る者が誇りを持つ為に神の生気づける力を否定するとは,なんと愚かなことでしよう! 誇る者は,どうして神から力を頂けますか。たとえ彼らが祈るにせよ,彼らの祈りは聞かれません。それについては,イエスはパリサイ人の例を示しました。このパリサイ人の祈りは,自己偽善にもとづく誇りを反映したのです。―イザヤ 66:2; 57:15。(新口)。ルカ 18:10-14。
27 謙遜を持つとき,人は何をすることができますか。監督の職を求めている人々は,何を記憶すべきですか。
27 真実の謙遜を持つとき,規則に従つて競走することは重荷ではありません。真実に謙遜な者は,教えを素直に受け入れます。そして叱責から益を受けます。彼らは競走で争い合つているのではなく,またすべての者は神の愛ある報いを得るために一致団結して走らねばならぬと悟ります。それで彼らは互いに助け合い,励まし合います。謙遜のあるとき,どんな状況の下にあつても,すべての人に『御言葉を宣べ伝える』ことができます。謙遜のあるとき,御国奉仕の為の訓練を受け,宣教学校から助言を受け,そして家から家に良いたよりを告げる仕方を学ぶことができます。謙遜によつて,責任の地位を持つ人々はイエスのように,謙遜でしかもいつも近づき易い人になれます。もし人が監督の職務を求めているなら,誇りは神の制度内における有用さと大きな奉仕特権に対する妨げであると記憶させなさい。なぜなら,神は誇る者を忌み嫌い,誇る者に反対するからです,『謙遜は尊貴に先だつ』ということを記憶させなさい。イエスの次の言葉をも記憶させなさい,『あなた方の間で偉くなりたいと思う者は,仕える人となり,あなた方の間でかしらになりたいと思う者は,僕とならねばならない。』― マタイ 20:26,27,新口。
28 競走のために,クリスチャン走者はどのように衣服を身につけますか。どんな結果が得られますか。
28 それで,躓きの原因となる誇りや重荷を脱ぎ捨てなさい。競走のための洋服屋仕立の衣服を身につけなさい。『みな互に謙遜を身につけなさい。』そして,『謙遜を……身につけなさい』とパウロは命じています。これは躓かずに走るための衣服です,なぜなら『謙遜とヱホバを畏るることの報は,富と尊貴と生命となり。』― シンゲン 22:4。