巧みに羊を牧する
『こうして彼は直き心をもつて彼らを牧し,巧みな手をもつて彼らを導いた。』― 詩 78:72,新口。
1 ヘブル書 11章6節に述べられているどんな特質は,神の奉仕者になるために必要ですか。そして,このことから私たちは何を尋ねるようになりますか。
読者は宗教的な牧師ではないでしよう。しかし,単なる牧師ではない神の真実の奉仕者に課せられている責任について考えたことがありますか。彼の神にたいするその信仰はどのくらい強いものですか,又はどのくらい弱いものですか。パウロという名前を持つひとりの奉仕者は,次のように述べてそのことを明白に示しました,『信仰がなくては,神に喜ばれることはできない。なぜなら,神に来る者は,神のいますことと,ご自身を求める者に報いて下さることを,必ず信じるはずだからである。』(ヘブル 11:6,新口)今日,いつたい何名の教師がヱホバ神とその書かれた御言葉に明白な信仰を持つてそれを信頼しているか,そしていつたい何名の牧師がヱホバに喜ばれることを求めているか,疑問に思うことでしよう。いつたい何名の奉仕者が神の御こころを行うという全責任をとつていますか。
2 今日,宗教的な神学校にいる大多数の者たちは,自分たちの信仰をどのように見なしていますか。このことは,正直な真理探究者として何を考えさせますか。
2 1958年11月30日のニューヨーク・タイムス誌の『信仰を求める学生たち』という記事の中で,その記事を書いたスタンレイ・ジェー・ローランドは,次のように言つています,すなわち『今日の神学校に行く者たちは,一般的に言つて疑いの心を持つているが,経験を通して,また奉仕の目的に対する正しい認識によつて信仰を見出そうと希望している。』彼は,宗教的な訓練を受ける青年たちについて,次のように述べています,『矛盾していることに,彼らは神からの召と彼ら自身のクリスチャン信仰の力について,疑いを抱いている。彼らは,存在の基礎的な価値をするどく探している。彼らは人生の事柄に没頭したいと欲している。』神からの召について疑いを持っており,また自分たちの信仰に確信を持つていないそれらの青年が,現在のクリスチャンたちの奉仕者である,と私たちは信じなければなりませんか。この筆者は,ニューヨークのユニオン神学校の校長ヘンリー・ピー・バン・デュセンの言葉を引用しています。このデュセンという人は,次のように語つていました,『彼らを理解することはできない。その大多数はよろこびがないように見える。彼らは幸福ということがどういう意味か,真実に知つているのであろうか,疑問に思う。彼らは宗教的な面で探し求めている。20年むかしでは例外的な態度であつたが,今日の学生のあいだでは殆ど皆の者が持つ普通の態度である。』
3 キリスト教の設立者は,どんな種類の信仰を持つていましたか。彼の弟子たちは,同じ態度をとりましたか。
3 彼らに信仰が不足していることは,クリスチャン奉仕者たちの指導者キリスト・イエスとなんという対照なのでしよう! イエス・キリストが御父を信じて献身し,神の御こころを行いたいという強い気持があつたことは,疑問のないものでした。このことは,彼の生涯についての四つの記録中に明白に記されています。イエス・キリストはまことに神の奉仕者であつて,進んで責任を取りました。彼は信仰にみち,そして信仰にあふれている自分の弟子たちに,イエスのごとき奉仕者になれと教えました。イエスの弟子たちは,『経験によつて信仰を見出そう』とせず,また彼らによろこびがない,などということはありませんでした。彼らは主の信仰とよろこびを持つていました。彼らは幸福な奉仕者でした。そして,神は『ご自身を求める者に報いて下さる』ということを信じていました。また,いまでも『信仰を求めている』種類の人々ではなかつたのです。彼らはヱホバ神,御子イエス・キリストそして神の御言葉を信じていました。今日,宣教を研究する人はみな信仰を持たねばなりません。さもなければクリスチャン奉仕者としては全くの失敗です。
4,5 (イ)宣教は限られた数の人々だけのものですか。(ロ)どんな大きな責任は,ある人の上に課せられますか。
4 唯一の神ヱホバを強く信じていただけでなく,神の御言葉を倦まずに伝道した使徒パウロはガラテヤ人の会衆に次のさとしの言葉を告げました,『御言葉を教えてもらう人は,教える人とすべて良いものを分け合いなさい。』(ガラテヤ 6:6,新口)それで,御言葉を聞いて信じる者は,教えた人を支持して,自らも教えるわざをしなければなりません。福音の奉仕者は,神学校に行く少数の者とか,神学校の訓練をうける少数の者だけに限られていません。むしろ,宣教は広い級の人々を含むのです。神の御言葉を信じた人,そして神の御言葉を教えられる人は,みな宣教することができます。なぜなら,そのような人も自分の学んだ良い事柄を他の人々と分ち合わねばならないからです。パウロは次のことを強調して語りました,『「ヱホバの御名を呼び求める者は,みな救われるであろう。」しかし,信じていない者をどうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を,どうして信じることがあろうか。伝道する者がいなくては,どうして聞くことがあろうか。』(ロマ 10:13,14,新世)世界は,信仰にみちる奉仕者を必要とするのであつて,いまだに信仰を求めている奉仕者を必要としません。
5 神の言葉である聖書は,クリスチャンと称する人は,みな神についての良いたより,そして神の正義の御国についての良いたよりについて伝道しなければならぬと明白に示しています。しかし,ペテロが信者たちで構成されている会衆内の古い者について語つたとき,神の群れの監督,すなわち羊飼である古い者たちに大きな責任が課せられていると示しました。神の奉仕に献身した人は,みな奉仕者です。しかし,この忠実なクリスチャンの群れから会衆全部の事柄を指示するためにある人々が選ばれています。それで,ペテロはこう語りました,『あなた方のうちの古い人々に,私はこうすすめる……あなた方にゆだねられている神の群れを牧しなさい。』― ペテロ前 5:1-4,新世。
霊的に牧することは重大なわざ
6 誰が会衆内の羊飼になる資格を持つていますか。このわざをどのように見なすべきですか。
6 群れの信頼できる羊飼たちは,すでに奉仕者である者たちから選ばれます。すなわち,ヱホバ神に全く献身している人々,また会衆内の兄弟たちを援助しようと望む人々から選ばれます。これはたしかに円熟したクリスチャンにとつては正しい種類のわざです。すでに信仰にみちている者たち,そして神の奉仕を活発に行つている者たちについて,パウロは次のように言いました,『もし人が監督の職を望むなら,それは良い仕事を願うことである。』(テモテ前 3:1,新口)真理に古い人々は,必ずこの種類のわざを願い,神の群れの中の羊を牧する援助をしなければなりません。これは,信仰を持つている者で神を真実に愛する者たち,そして神のみこころをすでに知つていて,御こころを行なつている者たちが取る責任です。それは,信者になつたばかりの人,クリスチャンのわざに新しい初心者のするわざではありません。
7 (イ)監督が神の御言葉を研究する者であることは,なぜそんなにも必要ですか。(ロ)監督は,どんな性質を持たねばならぬと,使徒パウロは言いましたか。
7 まず第一に,監督は神の御言葉を学んで信じ,御言葉の教えにしたがつて行動しなくてはなりません。彼は信仰をしつかりと保ち,パウロがテモテに告げた言葉に今日でも十分の注意を払わねばなりません,『霊感の言葉は明らかに言う。後の時代になつてある者は惑わす霊の言葉と悪鬼の教えに注意を払い,信仰から離れさるであろう。……偽り者の偽善のしわざである。彼らは結婚を禁じたり,食物を断つことを命じたりする。しかし食物は,信仰を持ち真理を正しく知る者たちが感謝していただくようにと神がつくられたものである。……兄弟たちにこれらの教訓を与えることにより,あなたはキリスト・イエスの正しい奉仕者になる。すなわち信仰の言葉と,あなたが良く従つてきた正しい教えによつてやしなわれた者になる。』(テモテ前 4:1-3,6,新世)良い助言を与えるためには,監督は『信仰の言葉』に養われ,『正しい教え』にしつかり従わねばなりません。そのとき,神の群れを巧みに牧することができます。『監督する(指導者として行なう)者は熱心に行ない,あわれみを示す者は快くするべきである。』(ロマ 12:8,新世,欄外)監督は,会衆を治めるように選ばれてから,『指導者として行なう』ことが必要です。彼は次のいましめに従わねばなりません,『悪は憎み退け,善には親しみ結び,兄弟の愛をもつて互いにいつくしみ,進んで互いに尊敬し合いなさい。熱心で,うむことなく,霊に燃え,ヱホバに仕え,望みをいだいて喜び,患難に耐え,常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け,つとめて旅人をもてなしなさい。あなた方を迫害する者を祝福しなさい。祝福して,のろつてはならない。喜ぶ者と共によろこび,泣く者と共に泣きなさい。互いに思うことをひとつにし,高ぶつた思いをいだかず,かえつて低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがつてはならない。だれに対しても悪をもつて悪に報いず,すべての人に対して善を図りなさい。あなた方は,できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。』(ロマ 12:9-18,新世と新口)ここに述べられているごとく援助を与える奉仕者になるためには,神に信仰を持つていなければならず,『信仰を探し求める』というようなものであつてはなりません。
8 聖書は監督だけのために書かれましたか。クリスチャン会衆全部の責任は何ですか。
8 会衆の羊飼がそのような指導をするとき,すべてのクリスチャン成員の見ならうべきすばらしい模範がつくられます。さらに,聖書は監督のためだけに書かれたのではなく,監督を含むすべての会衆のために書かれたのです。たがいに集められた羊が,後に良い羊飼のようになることは,神の御こころです。むかしのパウロの時代に神は羊飼に羊の世話を見させました。それと同じく今日でも羊飼たちは模範を残します。羊を牧すということは重大な仕事です。現在は,全国民を分ける時です。そして,この分けるわざはヱホバの御国の良いたよりを伝道することによつて行われているのです。そのわざは,監督だけがするのでなく,会衆内のクリスチャン奉仕者全部がするのです。
9,10 (イ)羊飼の責任は大きいですか。誰の責任の方が大きいですか。(ロ)特に1919年以来,残れる者はどんなわざをして来ましたか。彼らの見方は,どのように大いなるダビデ,キリスト・イエスの持つ見方のようですか。
9 しかし,監督の立場にいることは,羊の羊飼として大きな責任が課せられることになります。しかし,監督は,ヱホバこそ大いなる羊飼であつて,自分ではないことを常に留意します。ダビデは次のように言いました,『ヱホバはわが牧者なり』(詩 23:1)羊を集めて,その世話をみる一番の責任を持つ御方はヱホバです。しかし,ヱホバは人々を用いて牧するわざをいたします。1919年以来,油そそがれた『小さな群れ』の残れる者が集められているだけでなく,特に1935年以来,『他の羊』の大いなる群衆が集められています。(ルカ 12:32。ヨハネ 10:16)小さな群れの残れる者は,第一次世界大戦のくらい期間中,散らされていました。しかし,今では多数の残れる者が集められて牧するわざに用いられています。神の奉仕者である彼らは,みな御国の良いたよりをたずさえて出かけました。そして,過去40年のあいだ,彼らはその良いたよりを伝道して神のみこころを行なつてきました。彼らは羊を探し求めて,みちびき入れ,そして必要な霊的の食物で養つてきたのです。
10 別の言葉で言えば,大きな集めるわざがなければなりません。しかし,小さな群れでも他の羊でも,ヱホバはこのすべての羊をひとつの協力し合う群れにいたしました。彼らはみな正義の新しい世で生命を相続する者たちです。ヱホバは御自分の民に約束されたことをことごとく誠実に行われました。しかし,クリスチャンたちが自分自身で行わねばならぬ事柄はいくらかあります。特に,会衆の群れの忠実な羊飼でなければならぬ監督が,是非することが必要な事柄はいくらかあります。キリスト・イエスは大いなるダビデです。そして,地上におられたとき,羊飼の責任を取つて他の監督に対する正しい模範を残しました。詩篇 78篇70-72節は,次のように述べてイエスに言及します,『(ヱホバ)その僕ダビデをえらびて……その民ヤコブその嗣業イスラエルを牧わせ給えり。かくてダビデはそのこころの完全にしたがいてかれらを牧い,その手のたくみをもてこれをみちびけり。』全くその通り,キリスト・イエスは巧みな羊飼でした。御父は彼にこういいました,『あなたは義を愛し,不法を憎まれた。』― ヘブル 1:9,新口。
巧みさを得る
11 羊飼はどのように巧みさを得ますか。
11 巧みさとは,知識と実践によつて来る能力,すなわち才能を意味します。正しい羊飼なるイエスは,神の御言葉の知識を持つていました。彼は御言葉の教えることを行ないました。彼はそれを自分自身の生活に適用し,知恵と理解を示しました。彼はヱホバ神を大いなる羊飼と認め,人々の心を御父であるヱホバに向けて,自分自身に向けることをしませんでした。神は,正しい種類の羊飼に彼を選びました。今日の従属の羊飼たちもイエスのようでなければならず,群れを自分のものにしようとすることに興味を持つてはなりません。彼らは忠実を保つ心を持ちつつ,神の群れを巧みに牧さなければなりません。それですから,監督が知識を持ち,そして知恵の中にその知識を働かせることは極めて必要です! 羊飼は,ぶざまで,へたな,不注意な監督ではありません。彼は他の羊を世話する際に神の御言葉を巧みに用います。正しい羊飼であるイエス・キリストが聖霊によつて使徒たちを任命し,牧するわざを行わせたとき,彼らは神の御言葉の用い方を知つていたからこそそのわざを命ぜられたのです。神の御言葉は『人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である。』そして,彼らはこのわざを巧みにしました。(テモテ後 3:16,新口)今日のすべての従属の羊飼は,神の御言葉を同じ仕方で用いなければなりません。新しい世の社会内にいる今日の監督たちも羊飼であつて,神の羊を巧みな手で取りあつかい,彼らを導かねばなりません。ちようど,イスラエルの人々の福利を図つたダビデが行なつたごとく,また自分の弟子たちの福利を図つたキリストの行なつたごとくしなければなりません。
12 羊飼は羊を不注意に取りあつかつても良いですか。この点につき使徒ペテロはどのように助言していますか。
12 忠実に牧することに対する報いは,単に自分自身を救うだけでなく,他の羊である他の者をも救うことになります。監督であろうとなかろうと,すべの者は羊であることを忘れてはなりません。すべての者は,大いなる羊飼ヱホバと,彼が選んだ正しい羊飼イエス・キリストの下にいる羊です。イエス自身もこう語りました,『私は良い羊飼である。良い羊飼は,羊のために生命を捨てる。』(ヨハネ 10:11,新口)そして又,『私は良い羊飼であつて,私の羊を知り,私の羊はまた,私を知つている。』(ヨハネ 10:14,新口)それですから,羊のひとりが羊飼に選ばれてから,思い上がり,神の御言葉の取りあつかいに不注意になつてはいけません。イエス・キリストの羊でもあり,また使徒でもあつたペテロは,聖霊によつて従属の羊飼に任命されたとき,自分の責任を知つていました。それで,ペテロは他の者に次の言葉を告げたのです,『あなた方にゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく,神に従つて自ら進んでなし,恥ずべき利得のためではなく,本心から,それをしなさい。また,ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで,むしろ,群れの模範となるべきである。そうすれば,大牧者が現れる時には,しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。』― ペテロ前 5:2-4,新口。
13,14 羊飼は,神の御こころを行うと同意したのですから,自分の責任についてどのように感じ,またどのように感じてはなりませんか。
13 新しい世の社会内にいるすべての監督たち,たとえばものみの塔聖書冊子協会の支部の僕,地域の僕,巡回の僕,会衆の僕,そして奉仕の僕は,ヱホバの御言葉が従属の羊飼である監督の上に課す重い責任を感じなければなりません。監督は,献身したときに,神の御心を行なうと同意しました。そして,監督となつている現在,彼らは神の御言葉内で自分たちに与えられているいましめの一つが,『あなた方にゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい』ということを認識しなければなりません。監督たちよ,あなた方はどのようにそのことをしていますか。しいられてしていますか。その地位に任命されているため,仕方なしにしていますか。その責任から自由になりたいですか。ペテロは,すべての者に次のごとく親切に言つています,「自ら進んでしなさい。」
14 不正な利益を得たいためにする人がいますか。会衆内で人目に立つ地位に立ちたいためにいたしますか。多分,個人的な誇りのためですか。神の群れの上に及ぶ影響のためですか。よろこんで「本心からそれをしなさい」というペテロのいましめの言葉は,会衆内のすべての者に暖い愛を持つものです。またすべての羊はヱホバ神に属し,あなたの交わる会衆は真実に神の群れであることを認めます。
15 監督が自分自身を調べることは,なぜそんなにも必要ですか。
15 あなた自身を調べてごらんなさい。あなたは『ゆだねられた者たちの上に』立つ監督ですか。あなたは羊に対していばりますか。あなたはえらそうな羊飼であるため,人々が話しかけることもできませんか。いつでも忙しすぎますか。そのようなことがあつてはなりません。それは良い模範ではありません。ペテロは,次のような助言を述べています,「群れの模範となりなさい」どのような面でですか。信仰において,徳において,知識において,節制において,忍耐において敬虔において,兄弟愛において,そして愛においてです。『これらのものがあなた方に備わつて,いよいよ豊かになるならば,私たちの主イエス・キリストを知る知識について,あなたがたは,怠る者,実を結ばない者となることはないであろう。』(ペテロ後 1:5-8,新口)監督であるあなた方にとつて,正確な知識と正しい生活の仕方は,きわめて必要なものです。
16 ペテロ前書 5章3節の新世訳の脚註は,羊飼のわざの重要性を,どのように強調していますか。
16 監督の地位に任命されたあなたは,自分にゆだねられた神の羊の世話を見ていると十分に認識していますか。ペテロ前書 5章3節の新世訳の脚註は,その事実を強調して次のように述べています,『あなた方にゆだねられている者たちの上に権力をふるうことをしてはいけない』目に見える大きな神の制度内では,これらの羊はみな神の羊です。しかし,違つた群れの羊はちがつた羊飼にゆだねられます。1958年の新しい世の社会内には,全世界にわたりヱホバの証者の群れ,または会衆は1万7878ありました。あなた方にゆだねられている者に権力を振るつてはならないと,ペテロは監督たちにさとしています。それで,どの羊飼も次のように自問すべきです,『私は神の羊をどのように取りあつかつているか。私はどんな模範を残しているか。奉仕会に,私はどれ程興味を持つているか。神権学校には? 会衆の書籍研究には? 家から家の証言には? 再訪問? 家庭聖書研究? 私はこれらの方法で神の御国のこの良いたよりを伝道していますか。そして私にゆだねられたすべての羊を援助して私のしていることと同じことをするように援助し,彼らが目ざめた状態を保ち,その宣教の衣服を着つづけることを援助していますか。』
17 神の羊の忠実な羊飼には,どんな報いがありますか。
17 監督がペテロのすばらしい助言に従つて神の群れと見知らぬ者たちに愛と親切を示すとき,そして長なる羊飼が現われるとき,その監督は『しぼむことのない栄光の冠を受ける』でしよう。小さな群れに属する者たちにとつては,その報いはキリスト・イエスと共に天的な栄光の中に共同の相続者になるということです。他の羊にとつては,それは楽園の新しい地における生命を意味します。今日,羊を牧することに巧みで忠実な者たちは,「多くの町の支配者」にされる報いを必ず受けます。今日の監督で小事に忠実であるなら,大きな事をするよう任命されるでしよう。イエスのたとえ話の中の王が述べた通りです,『よい僕よ,うまくやつた。あなたは小さい事に忠実であつたから,十の町を支配させる。』(ルカ 19:17,新口)それで,監督たちよ,あなた方はヱホバ神と,神があなた方に委ねた群れにたいする関係を認識し,そして次のいましめを記憶しなさい,『あなた方自身に気をつけ,またすべての群れに気をくばつていただきたい。聖霊は,神が御子の血であがない取られた神の会衆を牧させるために,あなた方をその群れの監督に任命したのである。』― 使行 20:28,新世。
羊飼の特質を表わし行う
18 どんな事実を認識することは,会衆の羊飼にとつて肝要ですか。
18 『群れ』である『会衆』は神のものであり,また羊飼として任命を受けたことは神の聖霊によるものであると,監督は十分に認識しなければなりません。その群れは,神が買いとられたものです。そのことを決して忘れてはなりません! パウロは,コリントにいた油そそがれたクリスチャンたちに語つた際に,こう尋ねました,『あなた方は知らないのか。自分のからだは,神から受けて自分の内に宿つている聖霊の宮であつて,あなた方は,もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは,代価を払つて買いとられたのだ。それだから,自分のからだをもつて,神の栄光をあらわしなさい。』(コリント前 6:19,20,新口)今日,その『からだ』の僅かな残れる者は,地上にいます。そして,その多くの者は監督の地位についています。しかし,監督が残れる者であろうと,あるいは他の羊級の者であろうと,彼は神の羊飼であり,神が買い取られた神の羊の世話を見る監督です。監督は,新しい世の社会内にいる神の羊全部の者の中でも,そして社会外にいまでも迷つている者の中でも,神のみこころを行わねばなりません。
19 羊飼は誰の権威から羊を引き離しますか。そしてなぜ?
19 キリスト・イエスはパウロを用いて外部の諸国民のところに行かせ,またイスラエル内の者たちを慰めました。イエスはパウロに現われました。それは彼を選んで『あかしし,これを伝える務に,』任じるためでした。そして『私は,この国民と異邦人との中から,あなたを救い出し,あらためてあなたと彼らにつかわすが,それは彼らの目を開き,彼らをやみから光へ,悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ,また,彼らが罪のゆるしを得る』ためです。(使行 26:16-18,新口)パウロは監督になりました。そして,羊をサタンの支配から離して唯一の真の神に帰らせようといつしようけんめいに努力しました。今日の監督たちも,同じことをしなければなりません。羊を神に帰らせてから後羊飼たちは光の中に彼らを保つように援助しなければなりません。このことをするために,あなた方監督たちは,どのくらいの努力をしていますか。どのくらいの精力をかたむけていますか。あなたがたの会衆内で『あなた方にゆだねられている』者たちに対して,どのくらいの愛を示していますか。従属の羊飼たちよ,羊のような人々を取りあつかう際には忠実で巧みでなければなりません。その全部は,ヱホバ神に属する者たちです!
20 (イ)羊飼のわざの主要な特質は何ですか。(ロ)キリスト・イエスにならつて羊をどのようにみちびくかを説明しなさい。
20 羊飼の主要な特質は何ですか。(1)指導すること,(2)養うこと,(3)牧することです。イエスは真実の指導を示しました。彼自身も大いなる羊飼である御父ヱホバにみちびかれたからです。実際のところ,彼は次のように語りました,『ヱホバはわが魂を生かし,御名の故をもて我をただしき道にみちびき給う。』(詩 23:3)イエスは,大いなる羊飼である御父により正しい道にみちびかれることを欲しました。イエスは次のように言われています,『私自身の考えでするのではなく,私をつかわされたかたの,み旨を求めているからである。』(ヨハネ 5:30,新口)イエスと同じく,忠実にして巧みな従属の羊飼たちは,神の羊を正義のみちにみちびくでしよう。彼らは,羊を神の御言葉に述べられている真理から引きはなすようにみちびきません。その御言葉は神の御こころです。従属の羊飼は,いつでも神の御こころを心に思い,ヱホバは何のわざのなされることを欲しておられるか,イエスはそれをどのようにしたか,彼はどんな道を歩いたか,と自問しなければなりません。羊を神の道にいつでもみちびかねばなりません。神の羊をみちびく者は,ヱホバの御名をあがめるということを心にとめねばなりません。イエスは次のように祈れと弟子たち全部に教えたとき,神の御名を第一にいたしました,『天にいますわれらの父よ,御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように。』(マタイ 6:9,10,新口)彼はヱホバの御名のうちに羊をみちびきました。
21 監督はどこで神の御言葉を巧みに用いますか。なぜ彼はためらうことができませんか。
21 羊飼パウロは,次のように語つて指導者としての特質を示しました,『私はあなたがたの益になることなら,何でもあなたがたに語つて,人中でも,家から家へ行つても,あなた方を教えるのをためらわなかつた。』(使行 20:20,新世)パウロは,これらの益になる事柄をどこで学びましたか。神の御言葉から学んだのです。彼はどこで伝道しましたか。いたるところで伝道しました。今日の監督は神の御言葉を知つており,家から家の良いたよりの伝道や,再訪問の活動および聖書研究のわざをするさい,神の御言葉を極めて巧みに用いるでしよう。そして他の奉仕者たちを訓練することに真実の指導をいたします。しかし,会衆の監督は,時々このように考えることがあります。すなわち,巡回の僕は近い中に来るから指導するということは巡回の僕の仕事の一部である,という考えです。それで,彼は不定期な奉仕者にたいする援助をおろそかにして,羊は指導をすこしも受けません。しかし,神の全部の制度はいつしよに働くべきであつて,各人は,それぞれの分を果します。良い羊飼は,羊が強く,健康に,そして丈夫に生長するのを見たいと欲します。そして,彼は益のあることをいたします。それは後になつて羊の中のある者が監督になり,羊をみちびくことができるためです。このわざは決して中止しません。たくさんの新しい羊は,新しい会衆をつくり上げ,新しい羊飼を必要としているのです。パウロは『ためらわなかつた。』あなたは?
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『悪をなすものの故をもて心をなやめ,不義をおこなう者にむかいてねたみを起すなかれ。かれらはやがて草のごとく刈りとられ,青菜のごとく打ち萎るべければなり。ヱホバによりたのみて善を行え。この国にとどまり真実をもて糧とせよ。ヱホバによりてよろこびをなせ。ヱホバはなんじが心のねがいを汝に与えたまわん。』― 詩 37:1-4。