愛の気持で受け入れなさい
受け入れられる人は,さいわいな人です。今の世の中で,私たちはだれでも,何か忍耐をしいられるような事に出くわすと,とかく逆らったり,不満を言ったりしがちです。こらしめ,わざわい,差別,あるいは,暮しを立て,また家族の世話を見るための単調で変化のすくない毎日のつとめがあるかも知れません。しかし,どんな事であれ,自分の生活に生ずるものはすべて,不満を言わず,逆らう事なく受け入れられるようになりたいと思われますか。それでは,すべての事を愛の気持で受け入れなさい。そうすれば,自然に受け入れられるようになります。
もちろん,もしできるなら面倒くさいことはみな避けて,問題から逃げてしまったほうが,はるかに簡単だと思われるでしょう。家族のかしらたる者で,あえてその種の行動をとる人は決してすくなくありません。ほうり出された子供,すてられた妻が多いのはそれが理由です。またある者は,一時の間問題一切を忘れて,自分の生活上の種々の責任から精神的に逃れようとします。これらは「逃避主義」と呼ばれ,「現実ないしはきめられたつとめからのがれるために,単なる想像上の活動や娯楽で気をまぎらすこと,特に習慣的なものを言う」,と定義されています。このような「逃避心理」の一種に,自分の真の姿を忘れて空想にふけることがあり,そのはなはだしい例は,自分がナポレオンのような「英雄」であるかのごとく思い込む異常心理です。別のかたちは,自己悲哀感にとじこもり,自分は一種の犠牲者であると考え込むことです。いずれにせよ,逃避主義はすべて,未熟さのあらわれであり,問題の解決に少しも役立たぬ事は明らかです。
円熟した,正しい,また賢明でもある態度は,いかなることに対しても愛の気持で臨むことです。信仰や希望は役立たないと言う意味ではありません。もちろん,信仰も希望も大きな力です。しかし,なににもまして役立つのは,愛です。「しかしてそのうち最も大なるは愛なり」と聖書も言っている通りです。
どんな事柄を求められても,愛の気持があれば進んで受け入れられるでしょう。たとえば,こらしめについて考えてみましょう。若者が,もしその両親,先生,指導者,表上などを愛するなら,また,それがどんな地位にあり,どんな人であろうと,自分の上に立てられた人に対して,長幼の別を問わずすべての人が愛の気持を働かせるなら,助言かこらしめや矯正の言葉を受けても,不満や反抗心を感ずることなく受け入れられるでしょう。それは,次の言葉を語ったダビデの気持と同じです。「ただしき者われをうつとも我はこれをいつくしみとし,……わが頭はこれをいなまず」。―詩 141:5。
時に,誤解は受け入れにくいものです。相手はもっと事実を知るべきだ,なにか知らないが間違った印象を受けているようだ,いずれにせよ人をかえりみぬこのやりかたは決して許せぬ,とでも思われるかも知れません。しかし,そんな場合でも,愛があれば,相手を許す気持にもなれ,忍耐もし,二人の間柄をもとどおりにしようとの努力もできます。愛は,周囲の人との関係に必要以上に気を使うといった間違いを避けさせ,誤解に耐える助けとなり,「互に忍びあ」うのを助けます。―コロサイ 3:13。
さらに別の例を考えましょう。不意のわざわいに見舞われて,仕事や家財や愛する家族を失うことがあります。そんな場合にどうしますか。ヨブの妻がすすめたように,「神をのろって死」にますか。それとも,愛の気持で事態を受け入れ,わずかであれ残ったものがあることに感謝しますか。ヨブは言いました,「我ら神よりさいはひを受くるなれば,わざわひをもまた受けざるを得んや」。―ヨブ 2:9,10。
あるいはまた,文化的,経済的,国家的,または,人種的偏見にわずらわされている方がありますか。宗教上の迫害を受けて苦労している方がありますか。愛の気持があれば,腹を立てることも,心を苦くすることもなく,仕返しや復讐の計画に心をわきたたせる必要もありません。むしろ,イエスのような気持になるでしょう。「父よ,彼らを許し給へ。そのなす所を知らざればなり」。―ルカ 23:34。
さらにまた家のかしらで,自分の身によりかかる家族を扶養することのために,来る日も来る日も単調な仕事に追われていると感ずる方があるかも知れません。しかし,御家族に対する愛情が,筋の通らぬその種の不満をおさえ,進んで双肩に重荷を担わせるはずです。御家族は家のかしらを頼りにしており,子も妻もあなたの血と肉であり,あなたのものです。他から特別な方法で扶助を受けるのではなく,あなた自身で手ずから働いて,御家族を養い得る立場にあるという事実そのものが貴重な事ではありませんか。確かにそうです。―テモテ前 5:8。
もちろんこの事は,妻であり母である者にもあてはまります。愛の気持がなければ,家族のために食事,買物,掃除,洗濯,アイロンかけの仕事を毎日毎日続けて行く事は,たしかに退屈でしょう。しかし,家族の柱である夫に対し,また,生命誕生の奇跡によって自分がこの世界に生み出した子供たちに対して,心の奥底に愛を秘めているからこそ,労をいとわず,家族の喜びとさいわいのためにつくしているのであり,仕事も決して耐えられぬ負担とはなりません。―箴言 31:10-31。
それで,どんな事であれ ― たとえ重い責仕であっても,良心の指示に従って引き受けねばならぬものなら ― 愛の気持で受け入れなさい。そうすれば進んで受け入れられるでしょう。興味深い事に,一般の科学者もおそまきながら最近になって,愛の必要さを強く認めるようになりました。
「ヒューマニゼイションオブマン」<人間の人間化>(1962年)という本の中で,人類学者アシュレイ・モンターギュ氏は次のように書いています。「これは決して新しい発見ではない。新しいことと言えば,こうした真理を科学者が科学的手段を用いて再発見した事である,現在,この分野にたずさわる科学者は,山上の垂訓やおよび『人からしてほしいと望むことは,人にもそのとおりにせよ』とのいわゆる『黄金律』に科学的な裏付を与えるために働いている」。
3500年ほど前,モーセは霊感の下に,「己のごとく汝のとなりを愛すべし」と書きました。そして1900年ほど前,イエスは人間に課せられたすべてのつとめの中心になるものは愛 ― 神に対する愛および自分に対すると同じような隣人に対する愛 ― であると教えました。二人共愛の重要さを深く認めていました。―レビ 19:18。マルコ 12:30,31。
使徒パウロは愛がどんなものかを説明しました。「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず,愛は誇らず,たかぶらず,非礼を行はず,己の利を求めず,憤ほらず,人の悪をおもはず,不義を喜ばずして,真理の喜ぶところを喜び,凡そ事忍び,おほよそ事信じ,おほよそ事望み,おほよそ事耐ふるなり。愛はいつまでも絶ゆることなし」。愛はこれだけ多くの事を成し遂げるのです。それゆえ,愛の気持で受け入れるなら,どんな事でも受け入れられぬ事はないというのも不思議ではありません。―コリント前 13:4-8。