キリスト教国は真にキリストの領域ですか
1 (イ)「キリスト教国」ということばは何を意味しますか。(ロ)キリスト教国は何を主張してきましたか。またどのようにその成就に努めてきましたか。
すでに長い間,とくに西暦800年以来,キリスト教国は世界に支配的な影響を及ぼしてきました。「キリスト教国」とは「キリストの領域」あるいは「キリストの治めるところ」を意味することばです。キリスト教国はそのことを主張し,また異教の国々に宣教師を派遣して世界の改宗つまり全世界をキリスト教国の領域にすることに努めてきました。これらの国の多くにおいて,宣教師たちは知ってか知らずかキリスト教国の政治的,経済的勢力を伸長することにひと役買ってきました。そのことをするに際して,彼らはキリストの支配圏を拡大しましたか。キリスト教国が真にキリストの支配するところであるなら,それはキリストが説いた,そしてイエスと使徒の教えた教義と原則に基づくキリスト教の延長ですか。それを検討することにしましょう。
2 わたしたちの質問の答えを得るため,どんな2人の証人の証拠を検討できますか。
2 まずキリスト教国の基本的な教理を検討し,ついでキリスト教国が世界的な勢力に成長した過程を簡単にしらべて,歴史の見地からキリスト教国の基礎を検討することにします。こうして2人の確実な証人すなわち聖書と歴史から証拠を求めることができます。
3 2人の証人の証拠からどんな結論が出ますか。
3 結論を先に述べると,これら二つの証拠からは同じ結論すなわちキリスト教国がキリストの領域ではなく,またかつてそうであったこともないという結論が出ます。ここで結論を述べることは読者の理解を助けるでしょう。すなわち歴史のさまざまな事実をここにあげた理由およびそれらの事実を知る時,キリスト教国がキリストの領域ではなく,むしろキリスト教の最悪の敵であって,バビロン的な宗教の世界帝国の一部であることが明白に理解されるでしょう。第1にその基本的な教理はキリストのものではなく,バビロンから出たものです。第2に,その政治上の策略と政治への干渉はキリストの教えにまっこうからさからうものです。キリストは「わたしの国はこの世のものではない」と言われ,またご自分の追随者について,「わたしが世のものでないように,彼らも世のものではありません」と言われました。―ヨハネ 18:36; 17:16。
基本的な教義はバビロン的
4 自称クリスチャンの著作の中に三位一体の教義がはいり込むようになったのはいつですか。それはどんな規模の論争をひきおこしましたか。
4 聖書はバビロン的なものと無関係であり,したがって「三位一体」ということばは聖書に出ていません。この教理はバビロンの宗教の著しい特色のひとつです。バビロンには三つ組の神または悪鬼がありました。ところが2世紀の後半に,自称クリスチャンの宗教家がその著作の中にこのことばを採用しはじめました。これは遂にローマ帝国の干渉を招くほどの宗教論争をひきおこしました。これはキリスト教国においてきわめて重要な教理とされていますから,カトリック百科事典第15巻から引用することにします。
5 (イ)カトリック百科事典によれば,三位一体はキリスト教国においてどれほど重要な教理ですか。(ロ)三位一体の教理を定義しなさい。
5 三位一体,祝福された……I三位一体の教義 ― 三位一体とはキリスト教の中心的教義 ― ひとつの神性の中に三つの位格すなわち父,子,聖霊があり,これら三つの位格は互いに異なるという真理をさして用いられることばである。そこでアタナシウス信条のことばによれば,「父は神,子は神,聖霊は神である。しかも三つの神があるのではなく,ひとつの神があるのみ」……
6 (イ)三位一体の神を描写したことばが聖書にありますか。(ロ)このような語句はだれの著作の中で初めて使われていますか。
6 聖書中には,三つの位格をひとまとめにして述べた用語はない。(トリニタスというラテン語に訳された)τριαζという語は,西暦180年ごろ,アンテオケのセオフィラスによって用いられたのが最初である。彼は「父なる」神,神のことば,神の知恵から成る三位一体のことを述べている。(ヘアド・オートリカムII15P・GVI1078)この用語はそれ以前にも用いられていたであろう。その後まもなく,この語のラテン形トリニタスがターツリアンによって用いられた。(デ・プデシティアCXXIP・GII1026)次の世紀にこの用語は一般に用いられるようになった ― 47頁。
7 コンスタンチヌスが皇帝および最高僧院長になったのはいつですか。彼はどんな幻を見たと主張しましたか。
7 4世紀になるとコンスタンチヌス大帝が権力を得ます。最後の敵対者を敗ったコンスタンチヌスは,西暦312年10月28日,ローマ元老院により尊厳者また最高僧院長に任ぜられました。彼は敵対者マクセンチウスとの戦いの時,「このしるしによりて汝は勝利を得べし」としるされた火の十字架を天の太陽の下に見たと言われています。(十字架は太陽神ソルの象徴であったことに注目しなければなりません)こののち,バビロン的な偽りの教理と政治的な陰謀を土台としてキリスト教国が発展したことに注目してください。
8,9 西暦313年と321年には,キリスト教国の発展の上で重要などんな出来事が起きましたか。
8 西暦313年1月13日。コンスタンチヌスはいわゆるキリスト教徒の信仰上の権利を認めた有名な勅令を発布し,キリスト教徒は公職につくことができるようになる。
9 西暦321年。十字架の象徴で表わされる太陽神ソルの日ディエス・ソリスすなわち日曜日を裁判所の休日とし,その遵守を法によって定める。
10 コンスタチンヌスがニケーア会議を召集したのはなぜですか。会議の司会に関するどんな事実は,それがキリスト教のものではないことを示していますか。
10 西暦325年。コンスタンチヌスはローマ帝国の東西両部分の君主となる。また帝国の統一を妨げるτριαζすなわち「三位一体」論争に終止符を打つために会議を召集する。キリスト教徒のバプテスマをまだ受けていない異教の最高僧院長として,コンスタンチヌスはこの会議を司会し,帝国各地のエピスコポイすなわち監督のうち,約3分の1にすぎない318名がニコメディア近くのニケーアに集まった。出席者の総数は司教の従者を含めて1500人から2000人であった。次にかかげるのは,「大いなるバビロンは倒れた! 神の国は支配する!」 477,478頁の引用です。a
11 この会議においてどんな論議が行なわれましたか。
11 「三位一体を支持した人々の旗がしらはエジプト,アレキサンドリアの若い助祭長アタナシウスであった。三位一体に反対し,イエス・キリストが父なる神よりも小さいことを聖書から示した人々の旗がしらは,長老のアリウスであった。アリウスは神のみ子が被造物であって無から造られたこと,み子の存在しない時があったこと,み子は善悪の自由意志を行使できること,また真の意味において子であるためには,み父のあとに存在するようになったはずである。したがってみ子の存在しない時があり,み子は有限の存在であったと主張した。b アリウスが発言するために立ち上がった時,ミラの人でニコラスという者がアリウスの顔を打った。その後アリウスが論じている最中に,多くの人は耳に指をさし込み,老人の異説に恐れをなしたかのようにいそいで退場した。
12 何が決定されましたか。この会議はほかにも何を布告しましたか。
12 「遂に最高僧院長コンスタンチヌスが決定を下し,アタナシウスの三位一体論を支持した。こうして三位一体に関するニケーア信条が布告され,施行された。三位一体に反対したアリウスは,その後コンスタンチヌスの命令によってイリリアに流されたが,5年後には呼びもどされている。ニケーア宗教会議は多くの戒律を定めたほか,どの日曜日(ディエス・ソリス)にいつも復活祭を祝うかを定めた」。
13 (イ)コンスタンチヌスはクリスチャンとしていつ初めて洗礼を受けましたか。(ロ)異教のローマ元老院およびキリスト教国の教会は,コンスタンチヌスをどう見ましたか。コンスタンチヌスは何をすることに成功しましたか。
13 西暦337年。病いを得たコンスタンチヌスはバプテスマを受け,ニコメディアにおいて死ぬ。その死後,(なお異教の)ローマ元老院はコンスタンチヌスを神々の座に加え,東方の諸会衆は彼を聖徒に列する。ギリシャ,ロシア,エジプトキリスト教会は,5月21日に聖コンスタンチヌスの日を祝う。コンスタンチヌスは生前に,異教の宗教とキリスト教との融合に成功し,背教のキリスト教を真にバビロン的なものにした。歴史家はそのことの結末を次のように述べている。
14 コンスタンチヌスの努力は,キリスト教にどんな影響を及ぼしましたか。
14 「コンスタンチヌスのキリスト教への改宗が本質的にどんなものであったにしても,それは帝国とキリスト教会の両方に甚大な影響を及ぼした。キリスト教はじまって以来,以前のどの時期におけるよりも広範囲に福音を自由に伝える道が開かれたのである。キリスト教の信仰を公に表明することには,なんの妨げもなくなった。キリスト教は帝国公認の宗教となった。この変化がキリスト教に与えた益は,さまざまの見地から見て非常に大きなものではあったが,保護者である世俗の権力と密接に関係するようになったことが,キリスト教にとって害となった。福音の素朴さが失われて大げさな儀式が始められ,キリスト教の教師に世俗的な名誉や報酬が授けられるようになった。そしてキリストの国はおおかたこの世の国にかわりはてた」― ヘンダーソン・バッグ共編神学事典。またマクリントック・ストロング百科事典第2巻488頁aおよびギボンの「ローマ帝国衰亡史」第1巻454頁ffをごらんください。
15 時の経過とともに,キリスト教国はどのようにますますバビロン的になりましたか。
15 単に会衆の「監督」を意味するギリシャ語エピスコポス,また「しもべ」を意味するディアコノスを聖書からとり入れて「司教」また「助祭」のような名誉ある称号に用いた背教のキリスト教国の聖職者は,自分を高めました。また多くの人をひきつけて政治的権力を拡大するため,異教徒に抵抗を感じさせないよう,また異教徒の心に訴えるように真理を曲げました。その結果キリスト教国は時の経過とともにますますバビロン的になり,堕落の道をたどりました。1879年,法王レオ13世によって枢機卿に任ぜられたJ・H・ニューマンは,「キリスト教教理の発展に関する論文」と題する本を1878年に出しましたが,その中でキリスト教国のバビロン的な基礎を率直に認めています。読者もそれを容易に認めることができるでしょう。
16 教会の指導者が,異教の悪霊崇拝のならわしをキリスト教国の宗教に採用したのはなぜですか。
16 悪に染まらないように抵抗し,悪霊崇拝の道具や付属物を福音の用に変える力がキリスト教にあると教会の指導者は信じ,またたとえ腐敗してはいても,それらの宗教上のならわしがもともと原始的な啓示および自然の本能から出たものであると考えた。そして自分たちの見出したものを使えない時は,必要に応じて発明しなければならないと考え,そのうえ自分たちが原型の所有者であって異教徒が模倣者であると考えていた。こうして彼らは大衆の間に行なわれた儀式と習慣および知識階級の哲学を,おりがあれば採用し,模倣し,容認するのにやぶさかではなかった。
17 ニューマン枢機卿は,異教の多くのならわしを採用したことをどのように正当化しようとしていますか。
17 寺院とくに特定の聖徒にささげられ,時おり木の枝で飾られた寺院の使用,香,燈明,ろうそく,病気回復の時の祈願のささげもの,聖水,保護所,節句と祭日,暦の使用,行列祈とう,畑に対する祝福,祭服,剃(てい)髪,結婚指輪,東に向くこと,後代の像,そしておそらくは詠誦(えいしょう)およびキリー・イレイゾンはすべての異教に起源を発しており,教会に採り入れられたために神聖なものとなった。―1881年版,355,371,373頁。
政治に手を出したことはキリスト教国の分裂を招く
18 キリスト教国は世俗の権力に対して,どんな考えを抱いてきましたか。聖書にしたがえば,この考えはどのようにまちがっていますか。
18 キリスト教国は他の人々を治める権威を主張し,その領域内で治める王たちが神権によって治めると考えています。使徒パウロの時代にコリントの会衆はこの種の考えに染まっていました。しかしパウロは彼らを叱ってすみやかに事態を正しています。パウロは風刺を用いて次のように述べました。「あなたがたは,すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて,王になっているのだ。ああ,王になっていてくれたらと思う。そうであったなら,わたしたちも,あなたがたと共に王になれたであろう」。(コリント第一 4:8)キリスト教国は使徒パウロのことばを全く無視してきました。その歴史は俗化と政治的な勢力また権力を求めて妥協したこととの長い歴史です。それはいやすことのできない激しい分裂を生みました。
19 ローマ法王が,異教の称号である最高僧院長を名のるようになったのはなぜですか。
19 西暦378年。375年にローマ帝国西部の統治者となったグラティアンは,ローマ帝国東部の統治者バレンズの死に伴ってテオドシウス将軍をローマ帝国東部の統治者にする。のちにグラティアンはローマにおける異教の崇拝を禁止し,最高僧院長のしるしを着けることを拒絶する。ローマの“クリスチャン”司教ダマサスが,異教の概念と職務を伴ったこの称号を自分のものにする。ローマ法王は今日に至るまでこの称号を持つ。
20,21 西暦381年および395年の出来事によって,キリスト教国が東西に分裂し始めたことを説明しなさい。
20 西暦381年。“三位一体”論争がなお尾をひいているため,コンスタンチノープル公会議(東方宗教組織)が召集される。この公会議は三位一体を認めたニケーア信条をさらに完全なものにした。ネクタリウスがコンスタンチノープル総大主教に任ぜられる。公会議はコンスタンチノープルの大主教がローマの司教の次に位することを定める。
21 西暦395年。テオドシウス(ローマ帝国全体を治める皇帝となった)が死んで帝国は分裂する。東西の司教は政治上の忠誠をめぐって分裂。こうしてキリスト教国はその初めから,キリストおよび教会の一致よりも政治上の忠誠を重要視して非キリスト教の性格を示す。―コリント第一 1:10-13。
22 法王レオ1世は,カトリック教会の政治的な野心をどのように表明していますか。
22 西暦440年。レオ1世がローマカトリック教会の法王となる。レオ1世は次のことを宣言してカトリック教会の政治的な野心を表明する。「皇帝の復位によらず,新しい神権政治の布告によって,わたしはこの地上に政治を復興させる。ペテロに与えられた約束により,その後継者であるわたしは,キリストの代理者となるであろう。この政治は,法を回復し,犯罪を罰し,異端を排し,発明を奨励し,平和を維持し,分裂をいやし,学問を保護することを目的とする。それは愛に訴え,また畏れによって支配するであろう。教会のほかにこれをなし得る者があろうか。神権政治は新しい文明を創造する。わたしは王冠ではなく三重冠を着ける。それは宇宙主権の象徴であって,その前には野蛮は逃げ去り幸福がふたたびおとずれるであろう」― ジョン・ロード「歴史を照らした光」第3巻244,245頁。
23-25 西暦476,553および726年に,キリスト教国の宗教が分裂のみぞを深めたことを説明しなさい。
23 西暦476年。ローマ法王フェリクス3世がコンスタンチノープル総大主教を破門したことから,東西両教会の分裂はさらに深まる。
24 西暦553年。第3回コンスタンチノープル会議が,ローマ司教の抗議にもかからずコンスタンチノープル総大主教の司会によって開かれる。
25 西暦726年。コンスタンチノープルの皇帝レオ3世は聖像礼拝を禁止し,像の破壊命令を出す。そのためローマの西方教会の法王グレゴリー2世は,東方教会に属する東方の皇帝を破門し,東方(ギリシャ)教会は西方(ラテン)教会と絶縁するに至る。
26,27 西暦800年にローマカトリック教会は,政治への干渉,政治権力の獲得の面でどのように頂点に達しましたか。(ロ)神聖ローマ帝国はいつ始まり,いつ終わりましたか。
26 西暦800年。ローマカトリック教会は政治に介入して遂に統治者の上に立つ。女帝アイリーンがコンスタンチノープルで治める。しかしローマ法王はフランク王国のカール大帝(シャルルーニュ)に帝冠を与える。1806年まで続いた神聖ローマ帝国はこの年にまでさかのぼる。カトリック百科事典1929年版第3巻615頁には次のことが出ています。
27 「カール大帝一生の重大な出来事は2日後(800年のクリスマスの日)に起きた。それは法王の行なうミサの間に行なわれた。聖ペテロと聖パウロの遺骸を下に横たえた高い祭壇の前に王がぬかずくと,法王は王に近づき,その頭に王冠をかぶせ,古式にのっとって敬礼し,皇帝また尊厳者として呼びかけ,油をそそいだ。ローマ人たちは,『神から王冠を与えられた尊厳者カロラス,カあり,平和ならしめる皇帝に生命と勝利とあれ』と3度叫んで歓呼した」。(この百科事典の774頁によれば,これはコンスタンチヌスの後継者としてのカール大帝の戴冠とされています)
28,29 ロシアはどのように正統教会の支配下にはりましたか。それはロシアから異教をなくしまたか。
28 西暦988年。ウラジミル大帝が東方教会のバプテスマを受ける。帝は人々がたとえ泣きながらでも像をドニエプル川に投げ捨てることを命じ,クリスチャンとなってバプテスマを受けることを強制する。アメリカナ百科事典は次のように述べています。
29 「キリスト教の福音が伝道されはじめても,ロシアの異教は消滅しなかった。それは大衆の言語,ことわざ,伝統,家庭生活そして宗教的な信条の中にさえ存続した。18世紀に至ってさえ,地方の村ではへびの崇拝が見られた。ロシア教会最大の歴史家ユウジニウス・ゴルビンスキーによれば,ロシアは9世紀に洗礼を受けたが,キリスト教化されなかった」。
30 十字軍の原因のひとつはなんですか。十字軍はキリスト教のものと言えますか。
30 西暦1054年。ギリシャ教会の総大主教ミカエル・ケラリウスがローマ法王レオ9世の遣外使節によって破門される。これは神権を持つ,カトリック教会の首長としてのローマ法王に東方教会を従属させる試みが行なわれたのちの出来事である。歴史家によれば,この分裂は,回教徒,ユダヤ人,カトリック教徒の大殺りくと流血を招いたローマカトリック教会の十字軍の遠因に数えられている。
31,32 何が遂にロシア大主教管区の設置を促しましたか。
31 西暦1453年。マホメット2世のひきいる回教徒がコンスタンチノープルを占領。主教の座は存続を許され,機能を保つ。それは宗教的にロシアに影響を与える。アメリカナ百科事典1929年版第24巻38頁bに次のことが出ています。
32 「ロシア大主教管区の設置は,ビザンチン帝国の衰えとロシアの発展に伴う自然の成り行きであった。モスクワは第3のローマと称された」。
33 ロシア正統教会が完全に設立されたのはいつですか。東方教会の主教たちは,ロシアの主教とローマの司教をどのように見ましたか。
33 西暦1587年。独立のロシア教会が設立される。マクリントック・ストロング百科事典によれば,「その年,コンスタンチノープル総大主教エレミヤは,支援を求めてロシア訪問中に,モスクワ管長を大主教に変え,ロシアの大主教ヨブなる人物にモスクワ管区を委ねることに同意した。こうして東方教会の主教に言わせれば,コンスタンチノープル大主教が分派のローマ大司教にとってかわったのである」(ローマ法王が“分派”と呼ばれていることが注目されます)
34,35 西暦1696年および1721年,ロシア教会内部に何が起きましたか。
34 西暦1696年。ピヨートル大帝がロシアの独裁者となる。大帝は主教管区を廃し,高位聖職者から成る宗務庁を設置して皇帝あるいはその補佐の支配下においた。
35 西暦1721年。ロシア教会内に聖務院がおかれる。これは国の教会となり,ロシア帝国の教会となり,ロシア帝国の公的機関としてロシアの独裁政治を支持する道具となった。
36-38 西暦1829年,1833年,1850年にギリシャで起きたことを述べなさい。
36 西暦1829年。ギリシャに独立の王国が建てられる。
37 西歴1833年。ギリシャ摂政団は,外国のあらゆる教会の権威から,ギリシャ正統東方教会が独立することを宣言。
38 西暦1850年。コンスタンチノープル総大主教は,独立ギリシャ教会の成立を認める。
39 西暦1869年から1870年に,ローマカトリック教会のどんな教理が布告されましたか。
39 西暦1869-1870年。第1回バチカン公会議は法王の無謬(むびゅう)を宣言する。
40-42 西暦1917年から1945年までロシアにおいて事態はどのように発展しましたか。ソ連の指導者たちはロシア正統教会に対してどんな態度をとりましたか。
40 西暦1917年11月。ボルシェビキ党が第二次革命によって権力を得,国家教会としてのロシア教会を廃し,教会の資産の一部を没収,あらゆる派,あらゆる階級の聖職者を侮辱する。「宗教は人民の阿片なり」と宣言される。
41 西暦1918年。モスクワが新しいロシアの首府となる。その後何年もつづけられた宗教根絶の努力は失うところが多く効果的でないため,ソビエト政府はロシア教会を政治上の目的に利用することにし,教会員に愛国主義を吹き込ませる。ロシア正統教会は政府のこの要求に屈した。
42 西暦1945年。ロシア正統教会会議がモスクワ郊外で開かれる。北アメリカにおけるモスクワ総主教ベンジャミンは,モスクワが「第3のローマ」になり,「全教会」の集まるところになる可能性を論じた。ソ連政府筋ではこのような考えに好感を示す。政治上の首府モスクワが世界の教会の中心になるという観点から,政府はロシア正統教会の帝国主義に同調している。
43,44 第2回バチカン公会議に関連して,バチカンは分裂を生じさせるためのどんな策略を用いましたか。それはどの程度まで功を奏しましたか。
43 西暦1962年-1965年。第2回バチカン公会議が4部にわたって開かれる。バチカンは分裂を生じさせる意図をもっていたので,イスタンブール(コンスタンチノープル)総大司教を通さず,直接に東方諸教会に招待状を送る。ロシア正統教会は代表を派遣する。アメリカ,ギリシャ正教会のアイアコボス大司教は,分裂を生じさせることを意図したバチカンの策略について発言。1962年11月4日付ニューヨーク・タイムズ紙は「アイアコボス,バチカンの策略を非難 ― 公会議の招待は正教会の指導者を軽んじたもの」と題する見出しの下に次のように報じています。
44 「バチカンの策略はモスクワの教会に対して功を奏したにすぎない……ロシア教会が急に立場を変えて法王ヨハネス23世の招待を受諾したのは,明らかに政治的な意図が働いたからである」。
憂慮される傾向
45 第2回バチカン公会議は,キリスト教国の宗派の対立をどのように明白に示しましたか。
45 この公会議において,多くの重要な教義また宗教行事の面で2000人にあまる枢機卿,司教の間には大きな対立が見られました。保守派の筆頭は教会の支配機関として最も権力のあるローマ教皇庁であり,進歩派は枢機卿の大部分と司教から成っていました。この会議において,教会の一致に関する教令が起草されました。それは東方正統教会だけをとりあげ,新教を無視しています。ニューヨーク・タイムズによれば,この問題に関する発言者の大部分は次のことを指摘しました。
一致の問題は過去の世紀の神学の本に照らして見るだけでなく,20世紀の分裂したキリスト教が直面する諸問題との関連において検討すべきである。共産主義の発展,物質主義と世俗主義の二つの脅威,キリスト教以外の宗教の発展が,彼らの言う諸問題であることはまちがいない。―1962年12月1日付ニューヨーク・タイムズ。「高位聖職者,正教会との一致に関する論議を終える」。
46 ラテンアメリカではどんな傾向が憂慮されていますか。
46 現在ラテンアメリカにおいて,カトリック教徒は,マリヤと十字架上のキリストの像を除いて,聖徒の像が取り除かれていることに不安を感じています。別の変化すなわち金曜日に肉食が許されたことも,彼らを憂慮させています。今までずっと像や聖徒に祈り,金曜日に肉を断ってきたことはどうなるのかと,彼らは問います。教会の教えた崇拝はまちがっていたのですか。今までの敬虔なつとめは神の前に空しいものだったのですか。
47-49 ブリタニカ年鑑1965年版に述べられているどんな事態は,キリスト教国がキリストの領域でないことを証明していますか。
47 ブリタニカ年鑑1965年版706頁は,多くの人を憂慮させている事態を次のように述べています。
48 共産主義政府と暫定協定を結ぶ傾向は相変わらず盛んである。たとえば,9月にブタペストにおいて,法王とハンガリア政府との間に協定が結ばれた。ローマカトリック教会は聖職者が忠誠の誓いをすることを認め,6人の司教を任命した。
49 〔第2回バチカン公会議において〕……宗教の自由に,関する宣言の草案は,シカゴのアルバート・マイヤー,セントルイスのジョゼフ・リッター,モントリオールのパウロ・エミール・レジャーらの枢機卿をはじめ,1000人以上の司教の努力にもかかわらず,遂に票決にふされなかった。
50 キリスト教国の土台がキリスト教のものかどうかを説明しなさい。
50 権威ある2人の真実な証人すなわち聖書と歴史を検討することによって,キリスト教国の土台が暴露されました。証拠は決定的です。キリスト教国の土台は神の子イエス・キリストの教えた原則に基づいていません。イエスは,「わたしの国はこの世のものではない」と言われました。(ヨハネ 18:36)三位一体の教え,像の使用,異端者の火刑,国民の強制的な改宗,非キリスト教のものをも含む政治国家との同盟によって,キリスト教国はバビロンとその神サタン悪魔の精神を表わしてきました。
51 わたしたちはキリスト教国の問題に心を悩ますべきですか。
51 政治に手を出し,妥協の道をたどったキリスト教国は,いまやその報いを刈り取ろうとしています。キリスト教国の直面する諸問題はますます危機の様相を呈してきました。キリスト教国が真にキリストの領域であるなら,キリストの国は失敗したことになるでしょう。しかし感謝すべきことに,クリスチャンはキリスト教国の危機と失敗を憂うることなく,キリストの真の国を宣べ伝えるわざに励むことができます。キリストの国はいま支配しており,まもなくその支配を全地に及ぼして平和と一致をもたらします。
52 キリスト教国に関するどんな疑問に答えることがまだ必要ですか。
52 紙面の都合で,キリスト教国の他の主要な部分すなわち新教にはほとんどふれませんでしたが,次号に次のような問題をとりあげます。キリスト教国のうち,16世紀に分離した部分すなわち新教についてはどうですか。それは新しい基礎の上に建てられましたか。宗教改革は真の崇拝を復興しましたか。
[脚注]
a ニューヨーク,ブルックリン,ものみの塔聖書冊子協会発行。(1963年)
b マクリントック・ストロング百科事典第7巻45頁aおよびアメリカナ百科事典1929年版第2巻250頁aをごらんください。