家庭の問題を未然に防ぐ
どんなことから,しばしば危険が生じますか。自分の子どもを守るいちばんよい方法は何ですか。
夏も終わるころになって,作物よりも高くのびた雑草を抜いている人を見たことがありますか。これは骨の折れるたいへんな仕事です。おまけに,雑草と作物の根がからみ合っていることが多いので,作物をいためずに雑草を抜くのは不可能です。そうかといって,抜かずにおくと実りが悪くなるし,畑の美観がそこなわれます。まったく困ったことです。
しかし考えてみると,適当な時に除草していたならば,こういうことにならずにすんだはずです。晩春の大切な成長期には,最少限の労力で畑の草を押え,花や作物に強い根をはるチャンスを与えることができます。今ひとうねの除草に要する時間で,畑全体を10回もくわで除草できます。
農夫にも問題が生じます。しかもその問題は大きくなります。もしあなたが子どもをもつ,神をおそれる親であるならば,いわばあなたの家の裏の畑にもこういう問題が生ずることをご存じですか。子どもが雑草のように育つ,とはよく耳にすることばです。しかし子どもは,豊かに実を結ぶ作物でなければなりません。彼らには,悪い事物の制度の有害な雑草からの保護が必要です。では,あなたはどのような農夫ですか。家族の小さな問題を,解決のつかない大問題になるまでほっておきますか。
問題をたなあげすることは危険
子どもが小さな問題をもって父親や母親の所へくるとき,親がそれをうるさげにしりぞけることは少なくありません。忙しくて子どもになどかまけてはいられない,と考えるのです。子どもがもってくるのは,ちょっとした質問や,ある計画をたてるのに助言を与えてほしい,という簡単な問題かもしれません。それでも,親のそのような態度は,子どもの将来を台なしにする危険を含みます。子どもは親以外にだれのところへ行けるでしょうか。その質問は,親にとって取るに足りないものに思えても,子どもにとってはかなり重要なものかもしれません。
幼い時そういう扱いを受けてきた子どもは,10代になると,さらに大きな問題と取り組むことになるかもしれません。しかし,親は忙しくて自分のことなどかまってくれない,とその子は考えるようになっています。それに親子の間も,何事かあればすぐに親に相談できるほど密接ではありません。子どもには,同じ年頃の友だちのグループがあって,そのグループが,よくないと思えることをしているのに子どもは気づきます。その時すぐに親の忠告が得られさえすれば問題はないのですが,それができません。子どもは結局より大きな問題に巻き込まれ,両親は警官から子どものことで質問されてはじめてそのことを知り,ショックを受けます。
10代の終わりごろになると,男の子は女の子とデートを始めます。人生の不思議な新しい時期が始まります。もし両親が時に応じて助言を与えるなら,子どもはどんなに助かるかしれません。しかし子どもは自分だけの考えでなんとかやっていきます。どっちみち,こういう個人的な問題は,親に話せるものではないと考えます。両親はもはや,その子にとってあかの他人も同様です。いままで見向きもしてくれなかった者に,いまさら助言を求める必要はない,と子どもは考えます。
子どものまわりにはびこっているこの世の雑草の根が,しだいに子どもの根にからみついてくるのにお気づきになりませんか。子どもは外部の者,つまり判断の未熟な他の若者や,感傷をまじえた判断しかくだせないおとなの助言を聞くようになったのです。子どもの将来はすでに危険になっています。
ついにくるべきものがきます。未成年なので,結婚するには父親の署名がいります。相手の少女は違う宗教の信者です。子どもはその少女と性関係をつづけていたのです。両親はどうしますか。大急ぎで仲間の円熟したクリスチャンのところへ行って助言を求めます。しかしいまになって何が言えますか。いまは両親自身が決定をくださねばならない時ではありませんか。彼らはたしかに,問題が複雑になって,心配と悲しみを生み出すようになるまでほっておいたのです。
よりよい道
もし彼らが,むすこの幼い時からその小さな問題を聞いてやっていたなら,事情はすっかり変わっていたでしょう。彼らは多くの機会をのがしました。さもなければ暖かい愛情を子どもの心に植えつけ,うれしい時にも,困った時にも,子どもの尊敬できる腹心の友となることができたはずです。そうすることは,クリスチャンの責任でもありました。というのは使徒パウロがこう訓戒しているからです。「父たる者よ。子供をおこらせないで,〔エホバ〕の薫陶と訓戒とによって,彼らを育てなさい」。(エペソ 6:4,〔新世訳〕)この助言に従うには,家族で聖書を定期的に勉強することがぜひとも必要です。しかし子どもが問題をもってくるときは,親にとって,エホバの教えと訓戒をさらに深く教えうる,すばらしい機会です。
クリスチャンの両親には,モーセの律法が有効であったときのヘブル人の両親と同じく,子どもたちに清い原則を教える責任があります。それをどの程度教えるかは,次の命令に示されています。「きょう,わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め,努めてこれをあなたの子らに教え,あなたが家に座している時も,道を歩く時も,寝る時も,起きる時も,これについて語らなければならない」。(申命 6:6,7)この世のならわしや考えかたが,雑草のように子どもの生活のうえにおおいかぶさってくるのを防ぐ目的で,神はこの命令を出されたのです。
幼い時に,クリスチャンの母親や祖母の,愛に満ちた助けや助言を受けたある青年に対しては,こういうことができました。「しかし,あなたは,自分が学んで確信しているところに,いつもとどまっていなさい。あなたは,それをだれから学んだか知っており,また幼い時から,聖書に親しみ,それが,キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を,あなたに与えうる書物であることを知っている」。(テモテ第二 3:14,15)テモテは成長して,使徒パウロのよい同労者になりました。彼の父親は献身したクリスチャンではなかったので,エホバの訓戒によって彼を育てる責任は母親のうえにかかっていました。
また,自分の子どもを教え,助けて,その小さな問題を解決してやることも,幼い時からはじめる必要があります。テモテは,母親が命令した,というだけの理由で信じたのではありません。彼は「信じるように説得された」のです。今日のクリスチャンの子どもたちもそうあるべきです。それは,親子の間に,愛と信頼の交流があってはじめて成し遂げられることです。この正しい関係が幼年時代に注意深く築きあげられるならば,子どもは10代になっても,問題があればためらわずに親の所へくるでしょう。
責任を避けることはできない
責任をのがれようとしてもそれはだめです。もしあなたが父親ならば,子どもの問題を解決してやるのは妻の仕事だ,と考えたくなる時があるかもしれません。それにあなたには,あなた自身の仕事の問題があるし,夕方家に帰る時には疲れ切っています。しかしこうしたことは,『父たる者よ,あなたの子どもを,エホバの訓戒によって育てよ』という使徒の助言を回避する理由にはなりません。
問題が手に負えなくならぬうちに,それと取り組むことの重要さは,職場においてさえ経験をとおして学べることです。もしそれをしなければ,職場での成功は望めません。あなたの給料,あなたの家族の物質的繁栄は,あなたが仕事上の問題を,大きくなりすぎないうちにいかに確実に処理するかによって左右されます。しかしそれよりもはるかに重要なのは,あなたの家族の将来の霊的福祉です。これは命にかかわる問題です。その命は,公平で愛のある神が,あなたの監督にまかせられたもので,時がくれば,神は申し開きを求められます。
そういうわけで問題は,子どもに対する責任をあなたがどう見るかというだけでなく,神がそれをどう見られるかにあります。この問題について,天の父のみこころを忠実に表わされたイエスは,弟子たちに次の原則を述べられました。「小事に忠実な人は大事にも忠実である。小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」。(ルカ 16:10)子どもが親に話したいとき,または自分が作り上げたものを親に見せたいときに,むげにしりぞけることは,親にとっては小さなことに思えても,子どもにとっては大きな失望です。そして神は,あなたが,クリスチャン的な指導法に対する子どもの信頼と,確信を強めてやる機会をとりにがした,と見られるでしょう。
神は,家族の監督という問題を非常に重視されているので,使徒パウロに霊感を与えて次のように言わせられました。「自分の家を治めることも心得ていない人が,どうして神の教会を預かることができようか」。もしあるクリスチャンが,そのような特権のある責任の地位につきたいと思えば,その人は,「謹厳であって,子供たちを従順な者に育て」なければなりません。(テモテ第一 3:4,5)これは,家族の監督という問題を真剣に考え,その責任を最も効果的にはたすために最善の努力をしなければならないことを意味します。きびしさや権威を示すだけでは,これは成功しません。相手の立場に立って考える思いやりや愛も必要です。
良心的な親なら,子どもが法律を犯して,しあわせな人生が送れなくなるのを喜ぶ人はいないし,子どもが他人のようになってしまうのを望む人もいません。彼らはまた,子どもがどんな結婚をするかによって,子どもの将来の幸,不幸が大きく左右されること,そして,神の崇拝者は,信仰や宗教の問題について同じ考えをもつ者と結婚するよう聖書が助言していることを知っています。(コリント第一 7:39)したがって良心的な親は,自分のむすこや娘がふさわしい相手と結婚することを心から望みます。
それで,問題がまだ小さくて解決の可能なうちに正しく処理することは,非常に賢明なやりかたです。そのようにすれば,子どもの生活から,望ましくない事をみな除くことができ,子どもが罪を犯したり,不信者と結婚したりすることを,幼い時に未然に防ぐことができます。このように親は,神の助けを求めながら,美しい,実りの多い畑になぞらえうる家族関係を築いていくことができます。