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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1967
塔67 3/15 165–168ページ

神の許しはどのように完全ですか

神は何に基づいて人を許されますか。しょくゆう(贖宥)が必要ですか。

正直な態度で自分を見るなら,人は自分が罪人であること,つまり,ときに罪を犯し,あやまちをし,的からはずれる者であることを認めねばなりません。ヘブル人の詩人つまり聖書の詩篇記者はそのことをこう言い表わしました。「われらは先祖たちと同じく罪を犯した」。クリスチャン使徒パウロはこれに次のことばを加えています。「すべての人は罪を犯したため,神の栄光を受けられなくなっており」― 詩 106:6。ローマ 3:23。

人は自分が罪人であることを無視してはなりません。またこれは無視できることではありません。なぜ? なぜならそれは人の良心を苦しめるからです。しかしそれ以上に,罪を犯すなら人は神に敵する者となります。それは人間の先祖が罪を犯して神の不興を招き,自分および自分の子孫に死をもたらしたことにも見られます。「このようなわけで,ひとりの人によって,罪がこの世にはいり,また罪によって死がはいってきたように,こうして,すべての人が罪を犯したので,死が全人類にはいり込んだのである」。確かに,「罪の支払う報酬は死」です。―ローマ 5:12; 6:23。

エホバ神は愛のみこころから,人が罪を許され,神と和解する道を備えられました。聖書はこう述べています。「わたしたちが敵であった時でさえ,御子の死によって神との和解を受けた」。(ローマ 5:10)しかし,この和解は自動的にもたらされるのではありません。それは信仰を働かせる者にのみもたらされるのです。「御子を信じる者は永遠の命をもつ」― ヨハネ 3:36。

「信じる」とはどういうことですか。それは単に,「わたしたちは信じます」と口で言うことではありません。信ずるとはそれについて何かをし,実際に行動することです。『行いのない信仰は死んだものである』からです。(ヤコブ 2:26)神の子の死に関係し,そのことの罪を感じているユダヤ人に,使徒ペテロが勧めたとおり,「悔い改め」つまり自分の罪を真実に悔い,『罪を消されんために心を転じ』なければなりません。心を転ずるとは自分の進む方向を変えること,この場合には罪と利己心の道を改めて義の道に進むことです。それを完全に行なうことは人にできませんが,自分の肉体の罪の傾向と戦い,絶えず努力して進歩を目ざすことはでき,またそうしなければなりません。「あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて,その情欲に従わせることをせず」― 使行 3:19,文語。ローマ 6:12。

キリストの犠牲に基づいて罪の許しを願うなら,人は罪の意識から解放されます。聖書はこう述べています。「もし,罪を犯す者があれば,父のみもとには,わたしたちのために助け主,すなわち,義なるイエス・キリストがおられる。彼は,わたしたちの罪のための,あがないの供え物である。ただ,わたしたちの罪のためばかりではなく,全世界の罪のためである」。同時に,人は信仰に一致した行動をしなければなりません。「神が光の中にいますように,わたしたちも光の中を歩くならば……御子イエスの血が,すべての罪からわたしたちをきよめる」― ヨハネ第一 2:1,2; 1:7。

しょくゆう(贖有)が必要ですか

しかし,この罪の許しはどのていどのものですか。罪に対する処罰のすべてですか,それとも受けるべき処罰がまだ残りますか。ローマカトリック教会によれば,信徒は自分の犯す罪に対して一時的な罰つまり時間的に有限の罰を受けねばなりません。「神の正義の要求する一時的な罰がまだ残る」。同教会はさらにこう主張しています。「その要求は現世において,あるいはきたるべき世界つまり煉獄において果たされねばならない」。a 同教会の贖有はこのような教義に基づいています。つまり,贖有は人が死後に煉獄で受ける有限の罰を軽減するというのです。

トリエント宗教会議(1563年12月3,4日)は贖有についてとりあげ,特にこう述べました。「聖宗教会議は,クリスチャンにきわめて有用なもの,また宗教会議の権威により承認されてきたものとして,教会内で贖有を今後も使用することを教え,かつ定める。また聖宗教会議は,贖有の無用を宣する者,あるいは贖有を与える,教会の権威を否定する者に対しアナテマ[のろい]を宣言する」。

ローマカトリック教会は贖有に二つの種類を設けています。全贖有,つまり全面的で完全な贖有と,分贖有です。全贖有は罪に対する将来の罰すべてをぬぐい,これを受けてすぐ死んだ者はそのまま天に行くとされています。しかし現代の神学者はこれに幾つかの条件を加えるのが常であり,そうした条件すべてを満たして全贖有を受けるのはきわめてまれなこととされています。

分贖有は有効な期間が定まっているものを言います。この種の贖有を得させる事柄はほとんど無限にあります。たとえば,特に清められた宗教上の器物を身につければ,何日間もの贖有を受けることができます。法王の指輪に接ぶんすれば300日の贖有を受けられますが,普通の司教の指輪では50日の贖有しか受けられません。「我らの主イエズス・キリストの受難を思いながら」ローマの「聖なる階段」― この階段はイエスが裁判と判決の時に歩いたものとされている ― をひざまずいて登るなら,その一段ごとに3000日以上の贖有を受けられるとされています。

贖有は聖書を読むことによっても与えられます。たとえば,カトリック友愛協会版の「新訳聖書」序文には次の注意書きがあります。「法王レオ13世は,神のことばに対する崇敬と,神聖な読書であるとの自覚をもって,聖書を1時間の4分の1以上読む信徒に300日間の贖有を与えた。―Preces et Pia Opera, 645」。

不統一な見解

中世において,贖有状が利己的な目的に使われたことは,歴史がよく示しています。事実,これは宗教改革の一因となりました。法王レオ10世は贖有状の販売によって,ローマの聖ピエトロ大聖堂の完成費用を得ようとしましたが,この贖有状の販売人として特に悪名をはせたのがジョン・テッツェルです。これらの事が契機となって,司祭であり修道士であったマルチン・ルターはローマと断絶しました。それで「カトリック百科辞典」は,「贖宥状は報酬目当ての聖職者により金銭的な利得を目的として用いられた」と述べています。

第2バチカン会議においては贖有の価値について専門的な論議が多くなされましたが,その多くは否定的なものでした。しかしそれにもかかわらず,法王パウロ6世は,1966年が聖年であることを発表して,贖有を前以上に重視する見解をとりました。カトリックの聖年は従来なら25年に一度であり,その年にローマを訪れて,ローマカトリックの4大聖堂つまり豪華な寺院の一つで礼拝をするカトリック教徒は全贖有を受けることができました。しかし法王の布告は,1966年に自分の所属する司教区の中で法王が特に指定する寺院の一つに行き,第2バチカン会議の業績に関する特別の教訓を受けるローマカトリック教徒は,自国においても全贖有を受けられるとしていました。―1965年12月31日付タイム誌。

しかし,第2バチカン会議における,贖有の価値に関する討論の性格を考慮するなら,法王パウロ6世と他の高位聖職者との間に見解の不調和があるのではないかと考えざるを得ないでしょう。幾つか例をあげれば,アンチオキアのマキシモス4世は,当初11世紀の間ローマカトリック教会に贖有状の使用例はなかったとしたのち,次のように述べました。「今日でも東方教会は贖有を無視している。中世には贖有状の乱用がキリスト教に重大な醜聞を招いた。今日でも,習慣的な贖有状の使用が信徒をして一種の宗教上の記帳に拘泥させ,大切なこと,つまり改悛のための各人の敬虔な努力を忘れさせている場合が多いように思われる」。会議において別の高位聖職者は,贖有の存在がローマカトリック教会とキリスト教国内の他の教会とのへだたりを大きくしており,また贖有は神学的にあいまいであるだけでなく,聖書的な根拠も薄弱であると述べました。

報道によれば,これらの発言は参席した約2000名の司教により大きな拍手をもって迎えられました。この問題を扱った会議の分科会の初めの考えは,あの事この事に応じて何日何年と種々に異なる時間的要素を廃止することだけでしたが贖有そのものに対してこのような強い反対意見があったので,第2バチカン会議は贖有について何も行ないませんでした。事実,トリエント会議が贖有の価値を疑う者すべてに果たしたのろいを受けねばならないような考えをいだく者もいました。

問題に関する神のことば

贖有は「有限の罰」から実際に人を解放しますか。神のことばはこの問題についてどんな見解をとっていますか。神の子イエス・キリストは地上におられた時,人の罪を自由に許されたことが何度もあります。そのような場合にキリストは贖有について何か言われましたか。いいえ,何も言われません。(ルカ 7:48,49)このことはキリストの初期の追随者についても同じです。たとえば使徒パウロはこう書いています。「わたしたちは,御子にあって,神の豊かな恵みのゆえに,その血によるあがない,すなわち,罪過のゆるしを受けたのである」。このことをより強く,より簡明に言い表わしているのは使徒ヨハネのことばです。「御子イエスの血が,すべての罪からわたしたちをきよめるのである」。「もし,わたしたちが自分の罪を告白するならば,神は真実で正しいかたであるから,その罪をゆるし,すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」。エホバ神がキリストの犠牲のゆえにわたしたちのすべての罪を許されるなら,死の前にも後にも罪に対する一時的な罰が残ることはありません。―エペソ 1:7。ヨハネ第一 1:7,9。

それだけでなく聖書は,「生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない」と述べています。そうであれば,死んだ人間にどうして罰を加えることができますか。「その日」つまり人が死ぬ日に,「彼のもろもろの計画は滅びる」のです。聖書は墓の中に4日いたのちイエスによってよみがえらされた,イエスの友ラザロについて述べています。その間どこかほかの所で生きていたなら,よみがえったラザロは自分のふしぎな経験について人に語ったことでしょう。―伝道 9:5。詩 146:4。ヨハネ 11:38-44。

人間の死後に罪のゆえの苦悩があり,贖有がその苦悩を軽減するという教えは誤りです。この教えは人間には肉体と別個の魂があり,その魂は不滅であって,死とともに肉体を離れるという偽りの前提に基づいています。科学者や外科医はそのような魂を発見していません。またそのような魂の存在する証拠を発見した者もいません。人間の意識はその生体に依存しています。たとえば事故の場合など,生体が強度の損傷を受ければ,意識も影響を受けます。聖書の教えはこの科学的な事実と一致しています。なぜなら聖書は,創造された人間が「生きた魂となった」ことを述べているからです。人間そのものである魂は不滅ですか。神のことばは,「罪を犯した魂は必ず死ぬ」と述べて,これを明確に否定しています。死者の希望は空想にすぎない魂の不滅性にあるのではなく,死からのよみがえりにあるのです。このよみがえる死人の中には,聖書の述べるとおり,「正しい者も正しくない者も」含まれます。―創世 2:7,新世訳。エゼキエル 18:4,20。使行 24:15。

それだけでなく,贖有や不滅の魂についてひとことも述べていない聖書は,煉獄についても何も述べていません。聖書は神が天と地を創造されたことを述べていますが,煉獄については何も述べておらず,創世記から黙示録に至るまでこの語は聖書の中に一度も出て来ません。

根拠のない反対論を検討する

贖有,人間の魂の不滅性,煉獄などの教えを説く者は,その論拠として,父のみ旨を知りながらそれに従わなかった者は多く打たれるという,ルカによる福音書 12章47,48節のイエスのことばをあげます。しかしながら,いかなるたとえも聖書の明確なことばと矛盾する意味に解釈してはなりません。むしろそれと調和させつつ解釈すべきです。ここでイエスはご自分の再臨に関する原則を述べ,その時生きて地上に残り,イエスの弟子を自任する者に起きる事柄を予告されたのです。

贖有の教理を裏づけるためにもう一つ引用される聖句は,コリント人への第一の手紙 3章15節の,「その仕事が焼けてしまえば,損失を被るであろう。しかし彼自身は,火の中をくぐってきた者のようにではあるが,救われるであろう」ということばです。明らかに,ここで述べられているのは実際の火ではありません。12節は「金,銀,宝石,木,草,または,わら」などについて述べていますが,クリスチャンがこれらのものを実際に用いて建てるわけではないからです。それだけでなく,この聖句は自分の仕事が焼かれても,自らは火の中をくぐるようにして救われる人のことを述べています。これはこの世において不注意なあるいは愚かな建て方をした人です。この世におけるその者の仕事は滅びます。それゆえ,その者自身が火のような試練をくぐって救われるのはこの世においてです。

神のことばは神が公正また愛であり,理性的で,正義を実践されることを示しています。神はご自分のみ子イエス・キリストのあがないの犠牲によって,意識的でなく犯した罪のゆるしを備えられました。この犠牲はわたしたちのすべての罪と罪の意識とをきよめるものですから,一時的な罰によってつぐなうべきものは残らず,また罰を軽減するための贖有を求める必要はありません。まして死によって人が全く無意識になり,復活がある場合でも,その時まではいっさい意識がないのですから,人が死後につぐなうべきものは何も残りません。たしかに,神は完全に許されます。

[脚注]

a 「カトリック百科辞典」第7巻783頁。

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