崇拝の自由
1 (イ)この世と弟子たちとの関係についてイエスは何と言われましたか。(ロ)この世のものでないということはクリスチャンにとって,何を意味しますか。
わたしの国はこの世のものではないと言われたイエス・キリストは,自分の弟子たちもこの世のものではないと言われました。使徒と共に神にささげた最後の祈りの中でイエスは言われました。「わたしは彼らに御言を与えましたが,世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように,彼らも世のものではないからです」。(ヨハネ 17:14,16)イエスはこれ以前,弟子たちにこう語られました。「もしあなたがたがこの世から出たものであったならこの世は,あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし,あなたがたはこの世のものではない。かえって,わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから,この世はあなたがたを憎むのである」。(ヨハネ 15:19)イエスの真の弟子がこの世のものでないということには,弟子たちがこの世の国々の論争や争乱に対して全く中立の態度をとるということ以上の意味があります。それは彼らがこの世からの自由と独立をもち,それゆえいかなる面でもこの世の奴隷となっていないという意味です。彼らは真理によって神の清い崇拝に入れられており,それが抑圧的で,腐敗したこの世からの自由を彼らに与えています。
2 そのような自由をもつクリスチャンは上に立ち権威に従わなくてよいですか。これはどの程度までですか。
2 しかし一つのことを心にとめてください。真理と神のまことの崇拝とによるこの自由を得ていると言っても,それは彼らがこの世の政治上の「上に立つ権威」に全く従わなくてよいという意味ではありません。決してそうではありません。イエスは,「カイザルのものはカイザルに,神のものは神に返しなさい」と言われました。(マタイ 22:21)そして使徒パウロはローマ人への手紙 13章1-5節でこう述べています。「すべての人は,上に立つ権威に従うべきである。なぜなら,神によらない権威はなく,おおよそ存在している権威は,すべて神によって立てられたものだからである。……だから,ただ怒りをのがれるためだけではなく,良心のためにも従うべきである」。それで,上に立つ権威に対するクリスチャンの服従はあくまでも相対的なものです。クリスチャンの良心をおかし,聖書に示される神の真理に逆らってまで,上に立つ権威に服従することはできません。
3 クリスチャンがこの世から自由であるということは迫害を受けないという意味ですか。
3 同様に,真のクリスチャンがこの世のものでなく,この世から解放されていると言っても,それは彼らがこの世において崇拝の自由を得ているという意味ではありません。ユダヤ人の宗教的な反感のゆえに,イエス・キリストはローマ総督ポンテオ・ピラトによって殺されました。それは扇動をしたという偽りの告訴のためでした。使徒パウロも同様の訴えを受けて投獄されました。イエスやパウロの場合,これらの告訴は政治的なものであり,ローマ政府は宗教を理由にして二人をとがめたのではありません。こうして二人は信教の自由,また崇拝の自由を奪われたわけではありません。キリスト教が設立された西暦29年から33年当時,ローマ帝国には崇拝の自由がありました。クリスチャンに崇拝の自由が与えられなくなったのは,西暦64年のローマ大火のあとです。忠実なクリスチャンは妥協を排し,ローマ国家もしくはローマ皇帝の崇拝を拒否しました。
4,5 (イ)国家宗教のある所で,宗教儀式に加わらない者は権力者によりどうみなされましたか。(ロ)ほかの教義を教える権利はどうみなされましたか。支配者と牧師はなぜ国教反対者を恐れましたか。
4 「アメリカナ百科辞典」1929年版第17巻346ページは,「自由,宗教上の」という見出しでこう述べています。
5 「宗教は国家の問題ではなく,純粋に個人的な事柄であるが,このことを為政者が十分に認めるようになったのはわずかに1世紀ほど前のことである。今日でも,すべての国がこのことを認めているわけではない。記憶を越える昔から国はそれ自身の宗教をもち,それを法律で定めてきた。国家の安全と福祉は国家宗教の正しい履行にあるというのがその考えであった。その種の儀式に抵抗し,それに加わらないなら,秩序を乱す者,そしておそらくは反国家的な分子とみなされた。こうして論争が始まった。つまり,政治をつかさどる者は,社会の秩序と安全を理由に国家宗教以外のものを排し,すべての者が国家宗教に従うことを求めた。他方には,天与の権利であるとして,自己の良心の命ずるままに崇拝する自由を要求する者がいた。後者はしだいに数を得た。これには別のことも含まれていた ― そしてそれは問題のいちばん深刻な部分であった。すなわち,単に崇拝するだけでなく,他の者をも自己の崇拝に導くべく,自分の信ずる教義を広め,教える権利である。旧来の国家宗教の秩序下にあってこれを主張することは,国家の宗教および統治者に逆らう党派をなすことにほかならなかった。……こうして支配者は国教反対者がもつ革命的な要素を恐れ,教会当局者は異端を教える自由が人の魂を地獄に落とす結果になるのを懸念した」。
6 ポルトガルはだれに対してこの種の態度をとっていますか。最近の一事件でポルトガル警察はこれらの者に何をしましたか。
6 「アメリカナ百科辞典」のこの記述は,集権的な統制国家であるポルトガル共和国が,この1967年にいたるまで,エホバのクリスチャン証人に対してとってきた態度を如実に描写するかのようです。ポルトガルが国内とアンゴラのエホバの証人に行なってきたことはすでに全世界に知れています。それでここでは,すでに他の人々がしているように,この点に関するポルトガルの行為を公に論ずることができるでしょう。ポルトガル警察は最近の一事件で,土地のエホバの証人49人を逮捕し,法廷に引き出しました。これら49人は公共関係省長官の告訴を受けました。判決まで裁判中の保釈は認められましたが,そのためには一人一人が数千エスクードもの保釈金を払わねばなりませんでした。彼らに対する告訴を聞きながら,今読んだ,宗教の自由に関する「アメリカナ百科辞典」の記述を思い出してください。起訴状は次のとおりです。
7-12 ポルトガル公共関係省長官は逮捕されたエホバの証人にどんな非難をあびせましたか。
7 「被告人はすべて国家の治安に逆らい,集団的な不服従を扇動した犯罪の首謀者である。これは刑法174条および付加的な刑罰を定めた同法175条によって罰すべきものである。本件に関する起訴手続きは以下のことを示している。
8 「被告人は『エホバの証人』と名づけられる宗派の『会員』であり,ニューヨークに本部を置く,ものみの塔聖書冊子協会の指導を受け,その詳細な指示に従っている。
9 「彼らは社会秩序のための国法と当局者の正当な命令に対する集団的な不服従を明白に唱道する種々の活動を国際的な規模で展開している。彼らによれば祖国,確立された権威すべて,特に軍隊,そして偽りの宗教は,サタンの国が創設した最大のものであり,滅ぼされねばならない。彼らは自らを神権国家の大使とみなしており,それゆえに彼らは当局の取り締まりに服さず,選挙に参加せず,公共管理に協調しないことを主張する。
10 「国旗に敬礼することは像偶崇拝行為であり,祖国のために戦う兵士は実際にはサタンのために戦っているがゆえに,神の敵である。
11 「彼らは様々な国から集まってきて政治運動を組織しており,その目的は不服従,扇動,一般大衆とくに青年層の転覆である。
12 「ものみの塔聖書冊子協会は,軍役の遂行をエホバの証人派の信徒すべてに禁じている……」。
告訴を論破する諸事件
13 (イ)このようなポルトガルの告発者は一,二世紀であったなら,キリスト教を迫害したと言えるのはなぜですか。(ロ)ものみの塔協会がポルトガルの告訴にあるどんなことを行なうことは不法ですか。
13 こうしてエホバの証人を非難するポルトガルの告発者は,初期クリスチャン教会の時代であったなら,使徒たちのキリスト教を迫害する側にまわっていたでしょう。これは大げさな言いかたではありません。なぜ? なぜなら,一,二世紀に殉教したクリスチャンは,今日ポルトガルの当局者がエホバの証人にあびせると同じ非難をあびてわざを禁じられ,地下のカタコームに追いやられ,投獄され,残酷な死刑に処せられたからであり,そのことは一般の歴史が明確に記録しています。確実で信頼できる歴史が示すとおり,エホバの証人に対するポルトガルの非難は耳新しいものではありません。そして,非難を受けているものみの塔聖書冊子協会は,1884年,ペンシルバニア州の法律のもとに,パスター・チャールズ・テーズ・ラッセルによって設立されたものですが,これが仮に,政府の軍事ならびに国防活動を妨げ,また阻害することを,ポルトガルなど外国のエホバの証人に奨励することはおろか,自国アメリカにおいてさえその種の活動を行なったなら,それは不法を働いたことになるでしょう。
14,15 (イ)1918年に,時のものみの塔協会会長とほかの協会代表者は政府からどんなしうちを受けましたか。(ロ)「アメリカナ」はこの事件と宗教上の論争について何と述べましたか。
14 ものみの塔聖書冊子協会初代会長パスター・ラッセルは,1916年10月31日に死にました。翌年,アメリカ合衆国は第一次世界大戦に参戦しました。ついで1918年,ものみの塔協会の次代会長および主要な役員や代表者は,戦争活動を妨害し,国家の安全をおびやかすとの理由で告発されました。これら数人は控訴や保釈処分を認められないままに,連邦刑務所に投獄されました。これは著名な事件であり,前述の「アメリカナ百科辞典」(349ページ)の記事はこう述べています。
15 「国教反対や異端を理由に人を迫害することはしだいに行なわれなくなった。そして,ブラックストンが言うごとく,『国家の破滅や混乱の恐れ』を含むものでないかぎり,自由な信仰の実践を禁ずることは法律の仕事ではないという判決がしだいに多くなった。パスター・ラッセルの追随者に対する著名な裁判(1918年)において,法廷は,犯罪をおかす権利を認めるほどに信教の自由を拡大すべきでないということを明確にした」。
16 (イ)これら告訴された8人のものみの塔協会代表者について,「アメリカナ」は何を見落としていますか。(ロ)会長であったラザフォード判事が犯罪者であったなら,合衆国最高裁判所は何を許さなかったはずですか。
16 この「アメリカナ」の記事は,これら投獄されたパスター・ラッセルの仲間が9カ月間服役したのち控訴を認められ,1919年3月保釈されたことを述べていません。翌年(1920年),偽りの告訴により鉄道で刑務所に運ばれた8人すべては,無実の罪を晴らしました。彼らは犯罪者でなく,国家の安寧と秩序をおびやかす者でないことを法律的に立証されたのです。a そして1940年,かつて投獄されたものみの塔協会の会長であり,ニューヨーク州弁護士会の一員でもあったラザフォード判事は,1940年4月25日ワシントンの合衆国最高裁判所法廷に立つことを許されました。ラザフォード判事が犯罪者であったなら,最高裁判所はそのようなことを許さなかったでしょう。
17,18 (イ)その時最高裁判所はラザフォード判事とその仲間に何を許しましたか。(ロ)弁論の結びに,エホバの証人であることと良心について,彼は法廷で何と語りましたか。
17 さらに最高裁判所は,公立学校でアメリカ国旗の敬礼を拒んだ,ペンシルバニアのある少年と少女の家族に関する著名な国旗敬礼事件について論じさせるため,ラザフォード判事とハーバード大学のガードナー教授に1時間半の時間の延長をも認めました。最高裁判所を相手とする弁論の結びに,ラザフォード判事はこう述べました。
18 「これは神と神のことばを愛するアメリカ人すべてにとって神聖な問題です。この法廷の人々はエホバ神を尊敬し,これに仕えることを望んでおられると思います。それ以外に,命を得ることはできないからです。ペンシルバニア州は何人にも命を与えることはできません。アメリカ合衆国も人に命を与えることはできません。エホバ神こそ命の泉であられるからです。『すくいはエホバにあり』。本件の被告人は聖書に良心的に従いました。ペンシルバニア州憲法自らも述べるとおり,いかなる人間の権威も彼らの良心をそこない,これを抑制することはできません。それゆえ,一審裁判所および上訴裁判所の決定を確認し,かくしてこの法廷の人々は,『エホバという名をもたれる至高者』の名と尊厳と至高性の証人となるべきです」。b
19 最高裁判所はこの国旗敬礼問題を1940年と1943年にどのように扱いましたか。
19 戦争さなかの1940年,最高裁判所は8対1でエホバの証人に不利な判決をしました。しかし数年後,裁判所はこの決定を検討しなおし,遂に1943年6月14日国旗の日に先の判決を取り消したのです。これは,いかなる国の国旗を敬礼することも偶像崇拝行為であり,それゆえ神の至高の法律に反するとみなすクリスチャン良心を尊重する判例を世に残すものとなりました。―ヨハネ第一 5:21。出エジプト 20:1-5。c
第一に従うべきものは神の律法
20,21 (イ)詩篇 2篇10,11節は王とさばき人とが今日従うべきどんな勧告を与えていますか。(ロ)この点に関し何をすべきかについて,エホバの証人がものみの塔協会の教えを必要としないのはなぜですか。彼らはどの使徒の模範にならっていますか。
20 詩篇 2篇10,11節はこう述べています。「さればなんぢらもろもろの王よさとかれ,地のさばきびとらをしへをうけよ おそれをもてエホバにつかへ をののきをもてよろこべ」― 文語。
21 詩篇 2篇は1914年以降の現代に成就しています。それで今こそ地上の王,大統領,独裁者,支配者,さばき人などは,至高の神の律法がすべてに優先すること,そしてみ子イエス・キリストの追随者が神の律法の至上性を認め,それが人間の法律と衝突する場合に神の律法に従うことを認めるべきです。ポルトガルおよび全地にいるエホバのクリスチャン証人は,ものみの塔聖書冊子協会の説明を待つまでもなく,このことを十分に理解しています。彼らはそのことをポルトガル語聖書および他の国語の聖書で自ら学んでいるのです。また彼らはそれをキリスト教国の牧師に解釈してもらう必要はありません。ローマカトリック教会が初代の法王であると唱える使徒ペテロは,エルサレムの最高法廷で,「人間に従うよりは,神に従うべきである」と述べました。(使行 5:29)そして全地のエホバの証人はこの点でペテロの模範にならっています。
22,23 (イ)「ブリタニカ」は前記英国の法学者ブラックストンについて何と述べていますか。(ロ)ブラックストンは『神ご自身によって定められた自然』と人間の法律とについて何と述べましたか。
22 先に引用した「アメリカナ」は英国の著名な法学者ウイリアム・ブラックストン卿(1729-1780)にふれていました。「ブリタニカ百科辞典」(第11版)第4巻26ページはブラックストンについてこう述べています。「彼は引力の法則,自然法,そしてイングランドの法律を同一の原則の異なった例とみなした。つまり至上の権威者がその臣民に課した行為もしくは行動の規則であると」。ついで「ブリタニカ」はブラックストンの「イングランド法に関する注解」序文第9節にある次のことばにふれています。
23 「この自然法は人類史と同じ古さを有し,神ご自身によって定められたゆえ,他のすべてにまさる拘束力をもつ。これは地球全域を支配し,すべての国,すべての時代にあてはまる。これを無視しているなら,人間のいかなる法律も無効である。有効な人間の法律は,直接にも間接にも,その力と権威のすべてをこの源から得ている」。d
24 (イ)この点から見て,文字になった神の律法についてわたしたちは何と言うべきですか。(ロ)今の時代のためのどんな命令をエホバの証人は実行していますか。なぜこれを扇動と呼ぶことはできませんか。
24 「自然」界もしくは物質界における神の律法は読むことのできる文章の形になっていませんが,それについて述べたブラックストンのことばが真実であるとするなら,それは霊感による自由の書つまり聖書に示される神の至上の律法についていよいよ真実ではありませんか。バプテスマを受けたエホバの証人はエホバに無条件の献身をしており,イエスにならい,その戒めを守ることによって,み子イエス・キリストの足跡に従おうとしています。その戒めの中には「事物の制度の終結」に関してイエスが言われた次の預言的な命令も含まれています。「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。(マタイ 24:14)この全世界的な御国伝道について予告されたイエスは,諸国家が正当に扇動とみなすような行為を弟子たちに命じられたのではありません。
悪魔サタンに仕えているのはだれか
25 「この世の神」はだれですか。エホバのクリスチャン証人を迫害する国はだれに仕えていますか。
25 イエス・キリストは悪魔サタンを「この世の君」と呼びました。(ヨハネ 12:31; 14:30)使徒パウロは悪魔サタンを「この事物の制度の神」と呼びました。(コリント第二 4:4,新世訳)そして聖書の最後の本の中で,イエス・キリストは,神の戒めを守り,イエスの証しを保つ者に迫害を起こすのは悪魔サタンであることを使徒ヨハネに示しておられます。(黙示 12:13-17)したがって,キリスト教国であるとないとにかかわらず,エホバのクリスチャン証人に迫害を加える国家はだれに仕えていますか。エホバ神ですか,あるいは悪魔サタンですか。死の少し前,イエスは弟子たちに言われました。「人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな,それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう」。(ヨハネ 16:2)しかし,そのようにまちがって考えたからと言って,真のクリスチャンを殺す者が自分の行為を正当化できるわけではありません。
26 (イ)キリスト教国の刑務所を満員にしているのはだれですか。しかしエホバの証人は何をしていますか。(ロ)迫害される場合でさえ,エホバの証人は政府に対してどんな態度をとりますか。
26 人間の法律だけでなく,神の律法をも犯して刑務所を満員にしているのはキリスト教国の信心家です。しかしエホバの証人は人々が長年祈り求めてきた神の国の福音を平和裏に宣べ伝え,すべての人が神の新秩序で永遠の命を受けるのを助けようとしています。国家の上に立つ権威によって迫害される場合でさえ,エホバの証人が武器を取って反抗し,あるいはひそかに政府の転覆をはかることはありません。良心のために,彼らはいつも神のものをまず神に返し,ついでカイザルのものをカイザルに返します。彼らは至高の神に対する忠実と従順の試練として迫害を受け入れています。そして,自分を迫害する者たちについては,やがて大いなるバビロンを滅ぼし,ついでハルマゲドンにおける『全能の神の大いなる日の戦い』でその政治上の情夫を滅ぼされる神のみ手にゆだねています。―黙示 16:13-16; 17:5。
27 (イ)すべての土地で崇拝の自由を与えられてはいなくても,エホバの証人はどういう意味でやはり解放された民ですか。(ロ)この解放された立場を彼らはどのようにして守っていますか。
27 すべての土地で崇拝の自由を与えられてはいなくても,エホバのクリスチャン証人はやはり解放された民です。彼らは清い崇拝の実践によって得る自由を守ろうとしています。(ヤコブ 1:27)そしてキリストによって得た自由を保つことを決意しています。彼らはこの世にいても,イエスが言われたとおり,この世のものでないことをよく理解しています。彼らは,イエス・キリストが必ず終わることを予告した,この事物の制度の存続をはかる活動に加わりません。(マタイ 24:3-22)彼らはこの世にも,その君たちにもより頼みません。(詩 146:3-5)彼らはこの世に依存しません。それゆえ,この世の負担を負わされ,この世を喜ばすことを求めて,人間の奴隷になりません。山上の垂訓の中でイエス・キリストから命ぜられたとおり,神の国と神の義を第一に求め,必要な他のすべての物をエホバが備えられるにまかせています。―マタイ 6:33。
28 (イ)これまで数千年の間,エホバ神は偽りの崇拝を行なう諸国民に何を許してこられましたか。(ロ)このことはいつ終わりますか。そののち宗教についてどんな時代が来ますか。
28 古代バビロンの時代から今日に至る数千年の間,至上の神エホバは諸国民に信教ならびに崇拝の自由を許してこられました。しかしやがて,メシヤによる神の国がこれら諸国民を滅ぼす時,偽りの崇拝を行なう自由はなくなるでしょう。真のクリスチャンは主の祈りの中でこの神の国を祈り求めています。(マタイ 6:9,10)そして,神の国のもとに新秩序が到来する時,イエス・キリストをとおしてまことの神を崇拝する自由には何の妨げもないでしょう。このまことの崇拝は従順な人間に,神の地上の子としての自由を永遠に与えます!
[脚注]
a 「ものみの塔」1919年6月1日号162頁「取り消された有罪判決」参照。また1920年6月1日号162頁「告発は終わる」参照。
b 「自由」と題する記事をのせた「なぐさめ」誌第540号,1940年5月29日号3-24頁。また,541号の「試練に立つ最高裁判所」参照。
c アメリカ公民自由連合は当時この国旗敬礼事件に関心をもちましたが,そのことには何らかの効果があったようです。最近,日曜日に発行されるニューヨークの「タイムズ・マガジン」誌は,1966年6月19日号に,ガートルード・サミュエル氏の「公民自由の戦いは勝利のままでは残らない」という記事をのせました。この記事は雑誌の60頁に「公民自由史上の顕著な事件」と題する大きな囲み欄を呼び物にしました。そうした事件を時代順に検討したこの記事は,その6節でこう述べました。「1943年 ― エホバの証人: この宗教団体の権利のための公民自由連合の戦いはついに最高裁判所で勝利を得た。同裁判所は,エホバの証人など国旗に敬礼しない学童を放校できるとした以前の決定を自ら取り消した」。
d ジョージ・チェイスの注釈その他によるアメリカ学生ブラックストンーウイリアム・ブラックストン卿の「イングランド法に関する注解」第4版5,6頁。1938年,ニューヨークのベイカー,ブーヒル社出版。
ここで適切なのは1927年にボストンで出版された,トーマスM・クーリー法学博士の「憲法の制限に関する論文」4版第2巻966-969頁です。それはこう述べています。
「次の事柄はアメリカのどの憲法によっても許されないであろう。
「1,宗教の設立を定める法律……。
「2,課税その他により,宗教教育の支持を強制すること……。
「3 宗教的な礼拝への参列を強制すること。国家は自発心もしくは道義心によらない者に宗教儀式への参列を強制してはならない。それが実行できるものであるかぎり,市民が仲間の市民もしくは社会に対して負う義務や任務を強制することは国家の権能の中にある。しかし,個人と造物主との関係に由来する事柄については,良心に対する訓戒という形で強制すべきであって,人間が定める罰則によって強制してはならない。実に,真の崇拝はすべて創造者に対する創造物の敬愛および感謝を自発的にささげることから成るべきであり,人間の法律は明らかにそうした自発的な感情を鼓舞もしくは強制する力をもたない。そして人間の刑罰が強制できる儀式は無益なものにすぎず,自発心によらないその種の儀式は関係者にとっても無価値で,真の崇拝に必要な要素すべてを欠いている。
「4,良心の求めに応ずる信仰の自由な実践を拘束すること,有限者が無限者に忠順をつくすことを求め,かつそれを自己の良心と分別にかない,対象者に受け入れられるしかたで行なおうとしている場合に,いかなる外部の権力もこれを妨げてはならない……。
「5,信仰の表明を拘束すること。誠実な信者はおおむね,自己の見解を広め,他の者を自分の意見に導くことを任務とみなす。この権利を奪うことは,その者が最も神聖とみなす任務を履行する権利を否定することである」。