分裂した家庭におけるクリスチャンの妻と子どもたち
「あなたがた妻たちよ,自分の夫に服従してください。もし,だれかがみことばに不従順であっても,彼らがことばによらず,自分たちの妻の行ないによって……説得されるためです」― ペテロ前 3:1,新。
1-3 現在,霊的な意味での救助活動が緊急に必要なのはなぜですか。他の人をなおざりにすることが分裂した家庭をもたらす一要因となる場合があります。どうしてですか。
火災や洪水その他の場合のように人々の生命が危険にさらされているときには,救助活動が緊急に必要です。しかしながら,時には,思慮を欠いたり不注意だったりしたために命が失われる場合もあります。このことからエホバの証人は教訓を学び取れます。どうしてそういえますか。なぜなら,証人たちは,現在の事物の体制とその一部を成す人々すべてがそれほど遠くない将来に滅びをこうむるということを知っているからです。しかし,そうした事態が生ずる前に,証人たちは,人々が滅びに定められたこの体制から出てきて,神の建てられる新しい事物の体制における永遠の命に至る「狭い門」をはいるよう引き続き助けなければなりません。―マタイ 7:13,14,新。
2 確かにエホバの証人はだれをもなおざりにしたくありませんし,自分たちの思慮を欠いた言行のゆえに他の人々に神の真理をいっそう学びにくくさせたいとも思いません。このことはまた,分裂した家庭にもあてはまるでしょう。夫が実際には反対していないのに,なおざりにされている場合が時にはあるのです。たとえば,ある妻がクリスチャン会衆の集会について夫に話したところ,こう言われました。「しかし,君は一度も私を招待しなかったじゃないか」。ですから,おりをみて会衆の集会に巧みに招待することをおろそかにすべきではありません。
3 夫また父親が不信者の場合,その家族の妻や子どもたちは,夫また父親がエホバとその王国の側に立つよう最善をつくして助けようとするに違いありません。それにしても,家族の不信者のかしらに聖書の真理について話すにさいしては,信仰のある妻や子どもが行なえることと,ぜひとも避けるべきこととがあります。
「常に恵み深さを添え」
4 コロサイ書 4章6節からすれば,クリスチャンの妻は不信者の夫が神の真理を理解するのを助けようとするさい,何を避けることができますか。
4 このようにして他の人々を助けるにあたり,努めて他の人の身になって考えるのはたいせつなことです。そうすれば,絶えず聖書の真理を持ち出すのは確かに賢明でないことがわかるでしょう。自分に興味のない問題が繰り返し話されるのを耳にするのは,だれにとっても楽しいことではありません。たとえ多少関心があっても,あまり多くを話されると,問題そのものにとかくいや気がさすものです。したがって,不信者の夫に聖書から真理を述べるさい,真理を夫に押しつけようとしたり,夫をがんこ者呼ばわりしたり,夫が真理を理解しないとしてぶしつけなことばを口にしたりするのは,たいへん不当なことといわねばなりません。そうするのは,コロサイ書 4章6節(新)の使徒パウロの次の助言に反することといえます。「あなたがたの発言に常に恵み深さを添え,塩で味をつけさせなさい。あなたがたが各人に対し,どのように答えを述べるべきかを知るためです」。
5,6 (イ)神の音信を「常に恵み深さを添え」て話すとはどういうことですか。これはなぜそれほどたいせつですか。(ロ)それで,夫が聖書の真理に関心を示さない場合,クリスチャンの妻はどんな態度で応じてはなりませんか。
5 ここで使徒パウロは,たいせつなのは単に何を言うかだけではなくて,どのように言うかもそれに劣らず肝要であることをクリスチャンに述べているのです。聖書の真理を他の人にどのように話すかについて使徒は語っているのです。情報を提供するにはそれなりの技術があることを銘記すべきです。クリスチャンのいだいている音信は,「常に恵み深さを添え」て話すのでないかぎり,その効力を失う場合があります。おせじを言う必要があるというのではありません。人を益し,かつ建て起こす仕方で神の真理を話す必要があるということです。それに,「常に」ということは,クリスチャンの奉仕者が家から家に伝道するときだけでなく,家庭で伝道する場合をも確かに含んでいます。ですから,不信者の夫に神の真理の知識を提供する機会に恵まれた場合には,信仰を持つ妻はそうした機会を十二分に活用し,「常に恵み深さを添え」てそうすべきでしょう。そのためには巧みに,かつ親切に話せます。
6 妻が聖書の真理を優しく夫に述べても反応がない場合にはどうしますか。妻はひどくがっかりした様子を表わしたり,腹をたてたりしてもかまいませんか。そうしてはなりません。クリスチャンの妻は,失望した様子を表面に出したり,夫に対して腹をたてたりするかわりに,おりを見はからってその話をおしまいにするのがよいでしょう。そのことであまり言い張ったり心配しすぎたりはしません。
7 不信者が信仰のある妻を虐待する場合,妻が真理をもって夫を脅かすなどということがはたして許されるでしょうか。説明しなさい。
7 自分のかしらである夫に敬意を表わすクリスチャンの妻は,神の真理をもって夫を脅かしたりはしないでしょう。(エペソ 5:33)たとえ夫が真理を退け,それについて聞こうとしなかったり,妻をののしって虐待したりしても,真理をもって夫を脅かすのは不当なことです。恵み深さを添えて述べた妻のことばを夫がはねつけたり,妻を虐待したりする場合,クリスチャンの妻はイエスの模範を思い起こすのは良いことです。このことに関して使徒ペテロは書きました,「事実,あなたがたはこの行路に召されたのです。なぜなら,キリストさえあなたがたのために苦しみ,あなたがたが彼の足跡にかたく従うように手本を残されたからです。彼は罪を犯さず,またその口には欺きは見いだされませんでした。彼はののしられていたとき,ののしり返そうとはされませんでした。彼は苦しんでいたとき,脅かそうとはせず,かえって,義にそって裁く者にご自分を委ねつづけられました」。(ペテロ前 2:21-23,新)これはクリスチャンの妻にとって賢明な行動です。
「もの静かで柔和な霊」
8 使徒ペテロが述べるとおり,クリスチャンの妻は不信者の夫にどんな強力な方法で証できますか。
8 夫が聖書の真理にどのように反対するかにはかかわりなく,妻が夫に証する道はほかにもあります。それは妻のりっぱな行ないによるものです。使徒ペテロはそうしたりっぱな行ないの価値を強調して,こう書いています。「同様に,あなたがた妻たちよ,自分の夫に服従してください。もし,だれかがみことばに不従順であっても,彼らがことばによらず,自分たちの妻の行ないによって,深い敬意を伴うあなたがたの貞節な行ないの目撃証人であったがゆえに説得されるためです。また,あなたがたの飾りは,髪を編む外面のそれや,金の飾りものをつけるとか,上着を装うなどのそれであってはなりません。かえって,もの静かで柔和な霊の朽ちない装いをした,心の隠れた人を飾りとしてください。これは神の目に大いに価値があるのです」― ペテロ前 3:1-4,新。
9 イエスによって明らかにされ,ペテロによって勧められているように,どんな特質がクリスチャンの行ないの特色となるべきですか。
9 使徒ペテロは,りっぱな行ないと「もの静かで柔和な霊」との価値を強調しています。文脈から見て,使徒は,主イエス・キリストと,また柔和さがどのようにイエスを特色づけるものであったかについて論じているということがわかります。不当な取り扱いを受けていたとき,イエスは激しく抵抗しようとはされませんでした。彼はほふられる小羊のように歩まれました。それが自分に対する神の意志であることを知っておられたのです。声を上げて強硬に抵抗したり,柔和さを失ったりはされませんでした。それで,ペテロは既婚婦人に向かって話し,柔和さは神の目に大いに価値があることを強調しているのです。彼は柔和さと外面的な飾りとを対照させています。一部の女性はおもにそうした外面的な飾り,つまり衣服などの外面的な装いで夫の注意や愛情を捕えようとします。ところが,古びてすり切れてしまう布の衣服とは違って,使徒ペテロは柔和さを「朽ちない」ものと呼んでいます。それは朽ちない装いなのです。
10 (イ)柔和さは弱さではなくて強さを表わすものです。その理由を述べなさい。(ロ)勝ち気な妻は特に注意して柔和さを示さねばなりません。なぜですか。
10 柔和さは目立たないとはいえ,力を発揮し,良い結果をもたらします。「答えは,柔和であれば,激怒をそら(し)」,「柔かなる舌は骨を折(き)」ます。(箴言 15:1,新; 25:15)したがって,柔和さは弱さではなく強さを表わします。柔和さともの静かとを示すには,霊的な内的強さを陶冶しなければなりません。それで,クリスチャンの婦人が不信者の夫と結婚している場合,その婦人は憤りや怒りをいだいて立ち上がったり,夫と口論あるいは議論したりすべきではありません。実際,勝ち気な妻は夫が神の真理を学ぶのを妨げる場合があります。しかし,柔和さは,もの静かさを伴うとき効果を発揮します。それは神の道だからです。
11,12 柔和さとクリスチャンのりっぱな行ないが不信者を説得して神の真理の側に引き入れるものとなりうることを実例をあげて示しなさい。
11 「もの静かで柔和な霊」が不信者の夫をどのように助けるものとなったかを示す実例は数多くあります。その一例ですが,エホバの証人とともに聖書研究をはじめたある妻は,それから二,三週間たつうちに人格を変化させはじめました。彼女は以前は気性が激しく,きたないことばをよく口にしました。その口ぎたないののしりを聞かされ,子どもたちに対する妻の扱い方を見かねた夫は,家を出ると言って彼女をおどしたこともありました。その妻がエホバの証人とともに何週間か聖書を研究したのち,夫は,その研究を司会している証人を訪れて,妻にそれほどの変化をもたらした原因が何かを尋ねました。今や妻は自分自身の霊を制御し,もっと良いことばを使い,子どもの扱い方を大いに改善しはじめたのです。その原因が聖書の真理にあることを知るや,夫もエホバの証人といっしょに聖書を研究するようになり,ほどなくして,自分の友人や隣人に良いたよりをわかち合いたいと願うほどに進歩しました。この家庭は,夫がすんでのところで家を出るところでしたが,聖書を研究した妻がその行ないを改めたため,今にも分裂しそうになっていた家庭が結び合わされました。
12 妻のりっぱな行ないが不信者の夫を説得して神の真理の側に引き入れうるものであることを示す,ハンガリーでのある経験を次にしるします。ある不信者の夫は自分のクリスチャンの妻を虐待し,しばしば,意識を失うまで妻を打ちました。しかし,妻は神への忠誠を保ち,しかも何年もの間,しんぼう強く愛をもって夫に接しました。あるときには,優しい,しかしき然とした態度で夫に言いました。「さあ,お望みでしたら,私を殺してもかまいません。でも,私はエホバを信じます!」 この男の人はその地方のある司祭と親交をもっており,司祭は彼に全幅の信頼を寄せていました。なぜなら,この夫はエホバの証人に対して戦っており,そのため妻をさえ容赦しなかったからです。ある日,司祭は,聖書を手にすることさえすべきではない,と彼に語りました。驚いたその夫は,こう尋ねました。「では,聖書を読むのは罪ですか」。罪ではないが,もし聖書を読むと,いつかは,その妻のもっているのと同様な信仰を培うおそれがある,と司祭は答えました。その時,その男の人は,自分が妻を過酷に扱ったにもかかわらず,妻がいかに優しく,かつ,しんぼう強く耐えてきたかを認め,聖書を読んでそのような結果が生ずるとすれば,神のみことばは読むだけの価値があるように思える,と司祭に語りました。そして,彼はクリスチャン会衆の集会に妻といっしょに出席するようになり,以前反対していた,ほかならぬその真理の伝道をはじめたのです。
13 (イ)それで,妻のりっぱな行ないゆえに,不信者の夫はやがて何を悟る場合がありますか。(ロ)クリスチャンの妻は,霊感によるペテロの助言を適用したからといって決して損をすることはありません。なぜですか。
13 信仰のある妻のりっぱな行ないを目のあたりにする不信者の夫は,自分にはない何ものかが妻にあることを認識するようになるかもしれず,妻のようになりたいと思うかもしれません。しかし,たとえ不信者が神の真理を受け入れなくても,使徒ペテロが霊感のもとに述べた助言を適用した妻は,そのために何かを損することは決してありません。柔和さはまた,「神の目に大いに価値が」あるということをも銘記すべきです。したがって,信仰のある妻はエホバの優しい世話にあずかれることを信じて安んじることができます。
14,15 (イ)信仰のある妻には,不信者の夫に柔順であるためのどんな励みとなるものがありますか。(ロ)妻の柔順は絶対的なものですか。
14 使徒ペテロが示すとおり,クリスチャンの妻が表わすもの静かで柔和な霊は,妻を夫に柔順な者とならしめます。これはクリスチャンの妻に対するエホバの意志なのです。それは,王国の良いたよりの伝道にあずかることがエホバの意志であるのと全く同様です。(テトス 2:4,5)そのうえ,不信者の夫を持つ妻には,そうした神の意志に従って夫に柔順であるべきことを励ますものがほかにもあります。それは,そうすることによって,愛する夫が真理を学ぶのを助けられるかもしれないということです。―エペソ 5:21,22。
15 もちろん,妻の柔順は絶対的なものではなく,相対的なものです。もし,夫が妻に神の法律を破らせようとするなら,妻は次のように語った使徒たちの模範に従います。「人に従はんよりは神に従うべきなり」― 使行 5:29。
16 クリスチャンとして模範的な妻であるよう努力するにあたって,信者は何を行なえますか。どんな結果の生ずる場合がありますか。
16 とはいえ,信仰のある妻はいつでもクリスチャンとして模範的な妻であることに努め,妻の務めを自分の能力の限りをつくして遂行すべきです。家事や子どもの世話を十分に果たしていないとして夫から小言をいわれるようなことを妻は決してすべきではありません。どんな時でも,妻は聖書の真理を知っているからといって,家族の事柄では自分が決定を下すべきであるなどと考えてはなりません。ですから,妻は夫を尊敬します。そうすれば,妻の良い模範は夫が聖書の真理の価値を認識する助けとなります。深い敬意を伴う妻の貞節な行ないは夫の目を開かせて,自分はどんなにりっぱな妻を持っているかを夫に理解させ,神の真理を受け入れるよう夫を導くことになるかもしれません。それは夫にとっても,また妻にとってもなんという祝福でしょう。―エペソ 5:33。
良い計画を立てる
17,18 不信者の夫を助けるには,良い計画を立てることもたいせつです。その理由を述べなさい。
17 恵み深さを添えて話したり,「もの静かで柔和な霊」を示したりするほかに,夫が神の真理を認めるのを助けるため,クリスチャンの妻はなお何を行なえますか。良い計画を立てることはたいせつです。それは妻が自分の活動に十分の平衡を保ち,子どもや夫を,また自分のクリスチャンとしての種々の特権をなおざりにしないようにするためです。
18 良い計画を立てるクリスチャンの妻は,神の真理に対して夫に恨みの念を募らせるおそれのあるようなことをしないですむでしょう。その例として,不信者の夫が妻といっしょに週末を過ごしたいと望む場合を考えてみましょう。ところが,妻は野外宣教に携わり,クリスチャン会衆の集会に出かけるので,夫は,その宗教のために妻を奪われたと感ずるようになるかもしれません。夫は妻が集会のために一,二時間外出することには異存がないにしても,それ以上長い時間家をるすにすることはたいへんいやがるかもしれません。このような場合,妻は良い計画を立てる必要があります。夫が家にいない週中の他の日に宣教に携わるよう取り計らえます。そのために,妻のクリスチャンとしての宣教活動はあるいは多少制限されることになるかもしれません。しかしそれでも,良いたよりを他の人にわかち合い,かつ仲間の信者とともに定期的に集まるというクリスチャンの責務を放棄しているわけではないのです。
間接的な助け
19 クリスチャンの妻は霊的な面において間接的な仕方でどのように夫を助けられますか。
19 また,多少間接的な仕方ではありますが,クリスチャンの妻が不信者の夫を助ける方法はほかにもあります。たとえば,クリスチャンの妻は神権宣教学校で行なう話を準備するさい,夫に提案を求めることができるでしょう。ボリビアの信仰のある一婦人はそうするよう勧められました。その夫は,妻がもし戸別伝道のわざに参加しようものなら,ただではおかないぞ,と言っておどしていました。ところが,妻は神権宣教学校で行なう話を準備するのに夫の援助を得たのです。やがて夫の態度は改まり,彼はついに,クリスチャン会衆の聖書研究のしもべになりました。
20,21 (イ)クリスチャンの妻は不信者の夫を助けるために,ほかに何を行なえますか。(ロ)協会のどんな出版物は不信者の夫を助けるのに特に役だってきましたか。
20 夫が神のみことばに関心をいだくのを妻が間接的に助けるために行なえることがもう一つあります。それは,家の中の適当な場所に聖書文書を何か置いておくことです。夫が特に関心を持っている問題を取り上げた記事でもよいでしょう。時には,妻が忙しくしていたり,あるいは外出していたりする場合,夫が何か良い読み物をさがそうとして,妻が用意しておいた文書を見つけて読み,その資料の益に豊かにあずかれるかもしれません。もちろん,目につくところに聖書文書を置くと夫が怒るような場合には,そうした出版物は自分のものをしまっておく場所に入れておくのが最善の策でしょう。
21 ものみの塔協会のある出版物は,聖書の真理が理にかなっていることを理解するよう,不信者,それも反対しているかに見える人々をさえ助けるのに特に効果を発揮しています。反対していた配偶者の中には,他の出版物はほとんど,あるいは1冊も求めなかったにもかかわらず,「進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか」と題する,ものみの塔協会の本を求めて,楽しく読んだ人々がいます。エホバの証人のある巡回監督者はこの出版物についてこう述べました。「私たちの巡回区内の相当数の男の人たちが ― 大半は,会衆と交わる信仰のある婦人の夫ですが ― この出版物の論理的で明解な論議の価値を認めるようになりました。この本のおかげで,妻に対してもっと寛容な態度を取るようになった人もいます」。「聖書はほんとうに神のことばですか」と題する,もう1冊の本も不信者の夫を助けるすぐれた出版物となっています。
不信者を親しく訪問する
22-24 (イ)多くの場合,どうすれば不信者の夫のいだいているまちがった印象を是正できますか。(ロ)円熟したクリスチャンが不信者の夫と親しくなれる機会にはどんなものがありますか。
22 円熟したクリスチャンはしばしば不信者の夫を親しく訪問できるでしょう。不信者の夫はエホバの民に関するまちがった印象を持っているかもしれませんが,そのような問題もやがて是正されるでしょう。こうした訪問の目的は,相手を知り,その友となって助けることにあります。相手が何に関心を持っているかを知るのは有益です。なぜなら,人は自分がほんとうに好きな事柄についてであれば,喜んで話をするものだからです。ですから,信仰のある妻が,釣り,農業,スポーツの事柄その他,不信者の夫の趣味に多少の関心を持つ円熟したクリスチャン兄弟の援助を求めるのは良いことです。そのような奉仕者が親しく二,三度訪問しただけで,相手の偏見を和らげ,まちがった印象があれば,それを是正しうる場合がよくあります。
23 また,そうした人と親しくなったり,偏見があればそれを和らげたりする目的で,不信者の夫とそのクリスチャンの妻を食事に招待するのが効果的であることを知った円熟したクリスチャンもいます。不信者の夫が何かの店を経営している場合,できるだけその店で物を買うようにして相手の人といっそう親しくすることができた経験もあります。
24 不信者が病気になったり,入院したりした場合,献身したクリスチャンがその人を親しく見舞うならば,多くの点で不信者を励ませるでしょう。ルクセンブルクのある不信者の夫の例を考えてみてください。彼は重病をわずらって入院しましたが,その間,自分は死ぬのではなかろうかとおそれ,聖書文書を読みだしました。仲間の従業員はだれも病院に見舞いに行きませんでしたが,エホバの証人は見舞いに行きました。彼はそのために深い感銘を受け,病気が直ってから,会衆の集会に出席するようになり,こうして神の真理を学び,献身してバプテスマを受けたクリスチャンになりました。
家庭聖書研究を始める
25 (イ)不信者の夫を親しく訪問するさい,どんな目標をいだくべきですか。(ロ)妻が聖書の真理の面で進んでいる場合,どのように事を運ぶのが賢明でしょうか。
25 不信者の夫を親しく訪問するさい,クリスチャンはその人と聖書研究を始めるという目標を目ざして努力したいと考えます。多くの場合,夫は宗教のことを妻から教わるよりも,他の男の人から教えてもらうのを好むものです。信仰のある妻が聖書の知識の点でそんなに進んでいなければ,エホバの証人は不信者の夫がその妻といっしょに研究をするよう勧めることができるかもしれません。しかし,妻が聖書の真理の面で進歩している場合には,その夫の自尊心を考慮に入れなければならない場合もあるでしょう。証人がそのような夫と研究をはじめることができたなら,研究中,妻はその場をはずすのが賢明でしょう。そうすれば,夫はもっと気持ちを楽にして,いっそう自由に話せるでしょう。
26,27 (イ)不信者の夫を持つ信仰のある妻を大いに助けることができるのはだれですか。この点について,ある監督はなんと述べましたか。(ロ)不信者の夫が聖書研究に参加するのを好まない場合,どのようにすれば,研究に同席するよう助けられますか。
26 クリスチャン会衆内のしもべたちは,特に,分裂した家庭を一致させるべく,不信者の夫を持つ信仰のある妻を援助したいと願っています。この点で特別の努力を払ったある監督はたいへん祝福されました。彼はおよそ2年間に8人の夫たちと聖書研究を行ない,そのうちの3人はよく進歩し続けています。彼はこう報告しています。「こうした不信者の夫は,男子,特に監督の訪問を受けると答え応ずるものだ,ということを知りました」。
27 不信者の夫が聖書研究に参加するのを好まない場合でも,研究に積極的に参加するためではなく,ただその場にいて,妻の教わっている事柄がはたして真実かどうかを確かめるという見地から同席するよう勧めることができるかもしれません。このようにして,妻が得ている情報を夫自身も取り入れられるこうした機会に恵まれるなら,日ならずして夫は良い影響を受けるでしょう。聖書研究に同席して,妻の教わる事柄がすべて聖書に基づく真理かどうかを確かめてほしいと巧みに夫に尋ねる妻は,神のみことばの権威と論理に夫が答え応ずるのを見るようになるでしょう。
子どもたちのりっぱな行ない
28 不信者の父親が神の真理を学ぶのを子どもたちが助けるには,子どもたちはどのような訓練を受けねばなりませんか。
28 不信者の夫をしばしば援助する方法となるものがほかにもあります。それは子どもたちを通してなされる方法です。母親は多くの場合,子どもとともにクリスチャン会衆の集会に出席したり,野外宣教に参加したりするよう取り計らうことができます。もし,夫がこのことに反対するならば,妻は夫の意向に従えるでしょう。それにしても,母親は子どもがどのようにふるまうべきかに関する聖書の原則を家で子どもたちに教えることができます。そうした訓練を受ける子どもは,聖書を調べるよう不信者の親を励ますのに大いに貢献できます。
29,30 (イ)不信者の親に敬意を表するのは重要なことです。なぜですか。(ロ)不信者がわが子のりっぱな行ないを目のあたりにする場合,どんな結果が生ずるでしょうか。
29 信仰のある子どもたちが不信者の親に従順と敬意を示すなら,子どもたちは神の意志を行なっていることになります。不信者に敬意を示すのは非常にたいせつです。子どもたちが母親といっしょに聖書を学びながら,不信仰の父親に敵意を示すようになるならば,こうした事態に接する父親は聖書に好感をいだくでしょうか。答えは明らかです。ゆえに,「凡ての事みな両親に順へ」という聖書の助言に子どもたちが留意するのはたいへん重要なことといわねばなりません。その「凡ての事」とは,神の意志に反しない事柄のすべてという意味です。(コロサイ 3:20)信仰のある子どもたちは,何かをするようにいいつけられたなら,それが食器を洗ったりふいたり,食卓に食器類をそろえたり,あるいは芝生を刈ったりすることその他なんであっても,言われたことを熱心に,そして喜んですべきです。
30 礼儀を知らないこの世の多くの若者に見られるものとは全く異なる,わが子のりっぱな気質をまのあたりにする不信者は,子どもたちの信仰について調べるよう気持ちを動かされるかもしれません。また,わが子が盗みもしなければ,うそもつかず,問題も起こさないのを見て,自分の子どもたちと世の中の子どもたちとの著しい相違に気づき,「私の子どもたちはそんなことはしない」と考えたり口にしたりするようになるかもしれません。そして,まさしくこうしたことがきっかけとなって,不信者の目が開かれ,聖書の真理は調べてみるだけの価値があるということを理解するよう不信者が助けられる場合もあるのです。これは神を恐れる子どもたちにとってなんという祝福でしょう。
31 分裂した家庭を一致させるのを助けるためになしうる事柄を要約しなさい。
31 分裂した家庭の一致を目ざして努力をするには,ほんとうに多くのことが行なえます。いつも二つの目標(忠誠を保持し,かつ,目ざとく不信者を助けること)を第一に考慮してください。柔和さは反対を和らげるものであることを思い起こし,「常に恵み深さを添え(て)」神の真理について話してください。りっぱな行ないは強力な仕方で働き,多くの場合,クリスチャンの妻が「ことばをもってではなく」して夫を説得し,真理の側に引き入れさせるものとなります。良い計画を立てれば,信者はすべての活動に十分の平衡を保つ助けが得られます。種々の間接的な援助方法も用いてください。家族を一致させるために聖書研究を始める目標をいだいて,不信者を親しく訪問するよう取り計らってください。希望を捨ててはなりません。神のみことばにより,また,そのコリント前書 7章16節やペテロ前書 3章1節のことばから励みを得てください。現状のもとで最善をつくすとともに,「もろもろの慈悲の父,一切の慰安の神」からの祝福を確信してください。―コリント後 1:3。
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分裂した家庭の不信者が病気になったり入院したりした場合,クリスチャンが親しく見舞うのは励みとなる