現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本
前号の「ものみの塔」誌上で,日本における宗教の歴史的背景と王国の音信が日本にもたらされた当時の事情が説明されました。「1973年のエホバの証人の年鑑」に基づくこの報告の続きをここに掲載します。
「灯台社」の時代
1926年9月6日に,アメリカ在住の日本人,明石順三は日本,朝鮮および中国におけるものみの塔協会の宣教者として日本に到着しました。明石はまず神戸に支部を開設しましたが,この支部はのちに東京の銀座に移転し,そして最終的には,当時東京の郊外であった荻窪に移り,そこには印刷工場も設置しました。第二次世界大戦の勃発までに,日本,朝鮮,台湾の各地は,日本から来たものみの塔の全時間コルポーターたちによってくまなく伝道されました。1938年には,日本のこれらコルポーターたちの数は110名の最高数に達しました。「ものみの塔」研究のような会衆の集会は全く行なわれず,むしろ街頭集会や日本語の「黄金時代」誌(後の「慰め」)を配布することが強調されていたようです。1938年だけで,112万5,817冊もの雑誌が配布されました。明石は組織の名称を「灯台社」としました。
1931年9月18日の「満州事変」以来,日本では軍国主義が非常な勢力をふるっていました。そのため,1933年5月16日には,明石を含め数人の人びとが検挙され,1925年に制定された治安維持法違反の容疑で検察官の取り調べを受けました。彼らは証拠不十分のためにまもなく釈放されましたが,はるか地平線上には,さらに多くの困難が不気味な姿を現わしていたのです。
1936年に,日本がドイツと防共協定を結んだ後,すべての宗教団体は政府の強い圧力のもとに置かれました。その結果,ローマ・カトリック教会は神社での礼拝に対するそれまでの立場を変え,その行為を「非宗教的」儀式であるとして許可しました。政府はすべての宗教団体に,代表者を戦線へ派遣し,日本の勝利のために祈るよう要請しました。そして,おおかたの宗教団体はその要請に応じました。1939年に制定された宗教団体法により,仏教およびキリスト教の宗派はそれぞれの教団を統合するようにしいられました。1944年には,新教教団とローマ・カトリック教会の両者は神道および仏教の各派とともに,戦時愛国宗教会議に加盟しました。「八百万の神々」に支えられた,神道信者の将軍たちによる圧制的な支配が行なわれていた間,エホバの証人はどのような扱いを受けたでしょうか。
1947年に内務省から出された総括報告は,不穏な当時の状況について述べています。「1933年5月,明石および明石の仲間数人は……千葉県において不敬罪の容疑で逮捕され,灯台社は解散させられた。同社は再び組織され,多数の会員……(全国で約200名,そのうち東京在住者50名)が日本,満州,朝鮮,台湾等の各地に急派されて,講演や明石の[翻訳した]文書の配布を行なった。彼らは三位一体の教理を偽りとし,『エホバ』のみを唯一神として唱道した。その主張するところは,灯台社の宗教以外の他のすべての宗教はサタンの作り上げたものであり,世界の政治組織も同様に,サタンの一機関にすぎず,苛酷な戦争や貧困や疫病を生じせしめるものであり,ハルマゲドンにおいてキリストが立ち上がり,サタンの作り上げたこれらの組織を撃滅せしめ,神の王国を樹立する,というものであった。結局『灯台社はエホバの組織制度の確立を支援していた』ということになった。そしてこのことは日本の裁判所にとってはこの事件の最重要点であった。さもなければ,裁判所はこの宗教団体の教理にせよ,あるいは他のいかなる宗教団体のものにせよ,教理に関心を持つようなことはなかったであろう。この主張は日本の国体を変革するもくろみとみなされたため,1939年6月21日,灯台社の成員は逮捕され,ある者は有罪の判決を受けた」。
1968年に発行された,京都の同志社大学人文科学研究所編,「戦時下抵抗の研究」第1巻には,第二次世界大戦中およびそれ以前の日本におけるエホバの証人の活動と迫害に関する広範な報告が載せられています。その報告はおもに実際の法廷記録に基づいています。数人のエホバの証人およびすでに真理から離れた人びととのインタビューも行なわれました。同報告は,「ものみの塔」誌およびものみの塔協会の他のほとんどの出版物の配布を禁ずる法廷命令が早くも1933年に出されたことについてふれる一方,1938年までには文書の発行部数が1か月で合計10万5,000部を超えていたことを述べています。(これらの文書の大半は,後に「慰め」として知られた,「黄金時代」誌でした。)ついで獄中および法廷で生じたできごとが記述されています。その詳細は次のとおりです。
1939年1月に,灯台社の3人の成員は徴兵委員会の前に連れ出されました。その時彼らは次のように述べました。「われわれはいかなる被造物をもエホバ以上に高めて崇拝することをしない。また,宮城遥拝や,御真影[天皇の写真]奉拝はしない」。3人はさらに次のようにも言いました。「天皇は宇宙の創造者エホバ神の被造物であり,今日悪魔の邪悪な支配のもとにある一機関にすぎないゆえに,天皇を崇拝したり,天皇に忠誠を誓ったりする意志は毛頭ない」。3人は懲役2年から3年の刑を言いわたされました。
1939年6月21日には一斉検挙が行なわれ,東京および日本の他の18の府県で(明石順三を含む)91名,朝鮮で30名台湾で9名の計130名の灯台社に属していた人びとが検挙されました。東京にあった灯台社の本部は100名以上の武装警官に包囲され,徹底的な捜索を受けました。ここでは20名のおとなと6名の子どもが検挙されました。そして,明石と明石の妻および2番目と3番目の息子は荻窪警察署に留置されました。
1939年8月に,明石順三だけが尾久警察署に移され,そこで7か月にわたり,特高警察の宗教部による取り調べを受けました。事実に反する「自白」をさせるために,暴行が加えられました。明石は連日連夜拷問を受け,監房では蚊やシラミや南京虫などの毒虫の同居に悩まされました。ける,何度も床の上に殴り倒す,別人のようになるまで顔面を殴るなどの暴行を受け,全身傷だらけになりました。この同志社大学の報告によると,明石はついにあきらめて,警察の要求するものすべてに押印しました。暴力を伴うさらに激しい尋問の後,警察は明石順三に関する調書の作成を,1940年4月1日に完了しました。
1940年4月27日に,明石および他の52名は治安維持法違反の容疑で起訴されました。明石はまた,治安かく乱および不敬罪の罪にも問われました。同年8月27日には,灯台社は公共の秩序を乱した不法結社として,結社の禁止を命ぜられました。明石順三および他の52名の審理は1941年から1942年にかけて続き,その間にひとり病死しました。軍隊の召集に応じた1名を除く他の全員は結局有罪とされて,刑を宣告されました。明石順三は懲役12年,他の人びとは2年から5年の刑を言い渡されました。
警察の取り調べにはあらゆる種類の暴行や拷問が伴いました。罵倒や殴打は手軽いほうで,不具や廃人になるほどの残虐な仕打ちもしばしば受けました。長い間不潔な監房の中で生活した結果,多くの人は病気にかかり,また廃人同様になった者もいました。中には獄死した人もいます。家族は離散し,ある者は行方不明になり,多くの人が悲惨な状態に落ち入りました。
灯台社に属していたひとりの人は1939年6月に,まず東京の代々木陸軍刑務所に投獄され,ある時には両手をうしろに縛られたまま小暗室に2か月間監禁されました。その後1940年12月16日に釈放されました。しかし,彼は1941年12月1日に熊本において再び検挙されました。そこでも,繰り返し殴打されました。1942年8月に,ふたりの憲兵隊員は父親の眼前で1時間半にわたり殴るけるの暴行を彼に加え,半死半生の状態にいたらせました。それは,彼が宮城遥拝を拒絶したためでした。同じ刑務所にいた1944年12月の冬のさなかには,彼は裸にされ,手を後手に縛り上げられ,水浸しのコンクリートの床の上に寝かされて,気絶するまで顔や鼻にバケツで水を注がれ,気絶すると,意識を取り戻すまで何時間も放置されました。こうして,同じことが何度も繰り返されました。1945年10月にやっと福岡刑務所から釈放された時には,彼は死寸前の状態でした。
「戦時下抵抗の研究」はその報告の結論に,「しかし,このような迫害のなかでも多くの灯台社員はその信仰を守りつづけ,1945年の釈放を待ちつづけたのであった」と述べています。
そうです,多くの人びとは信仰を保ちました。そのうちの何人かは今日でもエホバの証人として忠節に奉仕しています。しかしながら,灯台社に属していた人の大多数は,ひとりの人間,明石順三に従っていたようです。たとえば,1971年5月18日の東京12チャンネルテレビの番組で,刑務所での前述のつらい経験に耐えた人とのインタビューが行なわれました。その人が灯台社の活動と迫害について述べた後,番組の担当者は,「今日の灯台社の活動はどうなっていますか」と質問しました。それに答えて彼は次のように述べました。「灯台社はその目的を達成しました。ですから,もはや存在しません」。
明石順三自身についてはどうでしょうか。刑務所から釈放されて2年もたたないうちに明石は,ものみの塔協会の会長に宛て一通の手紙を書きました。1947年8月25日付のその手紙の中で,明石は,1926年以降の協会の出版物の中で説明されている事がらには同意していなかった旨を述べています。1926年と言えば実際,明石が支部の監督として日本へ来る任命を受けた時よりも前です。したがって明石順三は,彼が自分の述べたところによると,20年以上にわたり偽善者を演じていたわけです。
忠誠のりっぱな模範
この困難な時期に生き残り忠実を守り通した人びとの中に,石井治三兄弟とその妻がいました。
1928年,大阪の城東区で洋服店を経営していた石井青年は,「神の竪琴」と題する本を1冊入手しました。彼はすぐに,自分が聖書の真理を見いだしたことを確信しました。石井夫妻は1929年3月23日にバプテスマを受け,9月にはコルポーターとして任命されました。伝道のさいには,日本語で出版されていた「神の竪琴」「救い」「創造」「ものみの塔」誌(1933年に発禁)「黄金時代」誌および5種類の小冊子を用いました。ふたりは,大阪,岡山,徳島,京都,名古屋,横浜,東京を含む関東地方,仙台,札幌など,日本の4分の3以上の地域を伝道しました。
1930年の夏に,石井兄弟姉妹は灯台社の東京支部で働くよう任命されました。東京支部では,野外で働く人びとのために服を作ったり,修繕したり,アイロンをかけたりしました。支部にいる人は時々,4人1組になって近くの区域に出かけて行きました。自転車に乗って箱根の峠を越え,沼津に行くことさえありました。石井兄弟が覚えている初期の時代のでき事のひとつは,1931年に行なわれたエホバの証人という「新しい名前」に関する発表です。東京支部の一兄弟が短波ラジオを組み立てたので,支部の人たちは,アメリカ,オハイオ州,コロンバスで開かれた大会の様子を聞くことができ,明石順三が説明を加えました。ルサフォード兄弟が「新しい名前」の採用を大声で提案し,兄弟たち全員がそれに賛意を示して大歓声を上げるのが聞こえました。その同じ時に,東京にいた兄弟たちも喜びの叫びに和していたのです!
東京の兄弟たちは,拡声装置を取り付けた自動車がアメリカで広く用いられていることを聞きました。そこで,大工をしていたひとりの兄弟は,うしろに窓と両開き戸のある大きな箱を作り,それを車軸と車輪の上に取り付けました。箱の内側には,寝具や文書,炊事道具や食糧などを置く棚もありました。ひとりの兄弟は後方に付いている取っ手をつかんで車を押し,他の人びとは車のかじ棒に結んだロープで車を引きました。その車は「大エヒウ」号と呼ばれました。兄弟たちはその「大エヒウ」号を使って,東京から下関まで1,100㌔以上伝道の旅をしました。自転車で引っ張る小型の車もあり,それらは「小エヒウ」と名付けられ,1号から5号までありました。ふたりの若い兄弟たちは「小エヒウ」号に乗って,証言しながら北海道まで行きました。
(この続きは次号に載せられます)