現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本
前号の記事では,四国で働いた,宣教者たちが地元の人たちの偏見をどのように克服し,人びとに受け入れられるようになったかをお知らせしました。宣教者が良い評判を得ている四国全体では,現在310人の伝道者が,合計11の会衆で活動を報告しており,そのうち少なくとも25%は毎月開拓奉仕をしています。この号では,引き続き日本におけるものみの塔の宣教者の業に関する記録を掲載します。
ギレアデで日本人の兄弟から日本語を教えられた,ギレアデ第47期生の宣教者10人が1969年7月に日本に来て,経験を積んだ宣教者たちとともに他の新しい都市で業を開始することに貢献しました。こうした都市の一つに,瀬戸内海の出入口,岡山があります。何組かの特別開拓者が15年間働いた結果,岡山にはついに会衆が組織されました。宣教者が岡山に着いた時,そこにはある新しい姉妹の御主人が会衆のために建てた広々とした王国会館を中心に,伝道者23人,特別開拓者6人のしっかりした会衆が設立されていました。
岡山の人びとは商売気質で知られていますが,友人はあまりありません。彼らはひとりよがりでぶっきらぼうなところがあります。よそ者に対して,とりわけ岡山市には非常に少ない外人に対して懐疑的です。そこで宣教者たちは,区域で会うすべての人にあいさつをし,彼らが笑顔であいさつするまで,ほほえみかけることにしました。数週間のうちに,宣教者たちは近所の人びととほんとうに親しくなりました。「ほほえみ」運動は偏見を打ち砕き,宣教者は人びとからよく知られるようになりました。その結果,宣教者の家の隣家の夫婦さえ今,聖書を勉強しています。
ことばの問題の他に,克服しなければならない別の基本的な問題,つまり全能の神という概念が日本人にはないという事実が自分たちの前に置かれていることを宣教者たちは知りました。日本人にとっては,人格神の存在を信じるのは初めてのことです。また,彼らは善良な研究生ですから,自分たちが学んでいる事がらを実際に信じていなくても,信じているかのように宣教者に思い込ませることが容易にできます。これは新しい宣教者の手にあまる仕事です。しかし,「ものみの塔」誌の子ども向けの記事や神の性質,人間との関係などを扱った雑誌の他の記事の論議などのすぐれた助けがありました。岡山市におけるすばらしい増加は,同市の宣教者や開拓者の熱意を証しするものです。
ものみの塔協会は,1967年6月,九州の西部にある長崎に新しく宣教者の家を開設しました。同市は2番めの原爆被爆地として広く世界に知られており,日本では,カトリックの勢力の非常に強い地域として知られています。長崎市は天然の良港を囲む美しい山々の周囲にある町です。
カトリック教徒と仏教徒が互いに張り合っているため,長崎での証言活動は日本の他の土地における証言活動とは幾分異なっています。ここで伝道している宣教者は,『わたしはカトリックです……自分の教会もありますし,そこで文書ももらっています……まだ何も知らない仏教徒のところに行ってください』というような断わり文句をよく耳にします。これらのカトリック教徒は無関心で,世界各地の教会で生じている大きな変動を知らないようです。他方仏教徒は,おうおうにしてエホバの証人をカトリック教徒と見なしたり,改宗者を得ようとしているどこかの教派の教会員と考えたりして,エホバの証人とかかわりをもちたくないという考えを持っています。
特別開拓者たちは,1957年にここで業を開始して以来,長崎市の2つの地域に会衆を設立するというすぐれた働きをしましたが,会衆の大きな進歩はその後何年間もみられませんでした。宣教者が派遣された時,長崎には58人の伝道者と5人の正規開拓者が働いていました。同市の一方の会衆で働いている3人と他方の会衆で働いている2人の宣教者の大きな励ましを受けて集会の出席は急速に増加し始め,最近では130人という大ぜいの人びとが出席しています。長崎の会衆は過去3年間増え続け,何人かの特別開拓者を送り出しただけでなく,1972年7月には20人の開拓者を含む97人の伝道者を報告するまでになりました。宣教者や仲間の働き人たちはきっとこの増加を喜んでいることでしょう。
1951年に巡回監督が初めて九州を訪れた時,彼が訪問した人びとといえば,別府市に孤立していたアメリカ人のある姉妹と鹿児島市の聖書に関心を持つ一家族だけでした。しかし,宣教者たちが5都市で先峰となって働いた結果,九州における王国の業は進歩し,1971年には九州地方の2つの巡回区で,合計1,529人の巡回大会出席者数を報告するまでになりました。さらに多くの離れた都市で特別開拓者たちが業を開始したため,1972奉仕年度には九州は3つの巡回区になりました。
1969年の「地に平和」大会とその後
日本にとって最初の大規模な屋外大会となった第二回世界一周大会が,1969年10月14日から19日まで東京の後楽園競輪場で開かれました。日本式のわら屋根の小屋が競技場の緑の芝生の上に建てられ,舞台として用いられました。また,富士山の絵を背景に,何千本もの花で大会の名称が書かれていました。スタンドの裏側には一帯に大きな簡易食堂がしつらえられていました。和服姿の姉妹たちが,芝生の端に座って王国の歌を琴で演奏し,大会に趣を添えました。
この大会には,沖繩を含む海外の国々から,約1,000人の兄弟たちが出席しました。大会出席者たちは,協会の統治体を代表する兄弟たちの話を聞いて胸を躍らせました。スーター兄弟は歓迎のことばを述べ,フランズ兄弟は3つの主な話をし,ノア兄弟も公開講演を含む3つの話をしました。今回,ノア兄弟は1万2,614人の大群衆に向かって話をしました。それは,同兄弟がちょうど6年前京都で開かれた先回の大会に出席して講演した時の聴衆2,479人をはるかにしのぐものでした。この大会でバプテスマを受けた人の数 ― 798人 ― も最高数でした。その結果1969-1970奉仕年度中にバプテスマを受けた人の総数は2,245人の新最高数に達しました。
2年足らずのうちに,この同じ競輪場で,「神のお名前」地域大会が開かれ,今回は海外からの大ぜいの訪問者はいなかったにもかかわらず,1万6,508人が出席し,879人がバプテスマを受けました。その結果,同年の受浸者合計数は2,088人になりました。1972年の7月と8月に,4つの「神の支配権」地域大会が日本じゅうの兄弟たちのために開かれました。その時の出席者数は2万1,921人で,バプテスマを受けた人は931人でした。その結果,1972年にバプテスマを受けた人の合計数は2,569人に達し,これはその時までの最高数でした。3年連続して,毎年2,000人以上の人びとがバプテスマを受けたことになります。日本で過去3年間にバプテスマを受けた人の総数,つまり6,902人という数は,日本の全伝道者の48%以上にもなるのです。
支部の拡大
東京都港区三田5丁目5番8号に位置する木造の日本家屋は,1949年1月から1962年9月までの14年間,日本支部の中心としてりっぱにその役割を果たしてきました。しかし,組織の急速な成長に伴い文書や雑誌の配布数は増加し,予約も増えました。下の表は,どれほど大きな増加がみられたかを示しています。
配布数: 書籍 雑誌 新予約
1950奉仕年度 2,026 2,626 51
1955奉仕年度 4,050 105,671 3,399
1960奉仕年度 15,605 538,088 7,444
1965奉仕年度 53,937 1,575,597 32,193
1972奉仕年度 797,423 5,907,404 123,567
1973奉仕年度 1,125,953 6,888,938 142,599
1971年9月には,現在までの最高数である11万4,133冊もの書籍が,伝道者たちの手によりわずか1か月の間に野外で配布されました。
年を経るうちに,その2階建の弱い造りの日本家屋は仕事を行なうのに完全に手狭になりました。そこでノア兄弟は,それまでの支部の建物を取り壊して,そこに新しい近代的なビルを建てる許可を与えました。建築にはちょうど6か月を要し,1963年10月には,10人の支部の奉仕者と6人の宣教者から成る家族が鉄筋コンクリート造りの6階建の新しい建物に移る準備が整いました。この新しい支部で王国学校が開かれた時,さらに大きな進歩がみられました。学校にやって来た兄弟たちが一度に50人もこの建物の中の幾つかの和室で寝泊まりしたのです。
ハズレット兄弟は,新しい東京支部の建物を計画するにあたって大きな役割を果たしました。事実,これら2人の日本の最初の宣教者たちは,彼らを知っている人びとにとって大きな励ましとなってきました。ドンおよびメーブル・ハズレットは,1916年12月2日にニューヨークのブルックリンでともにバプテスマを受けた時,自分たちの命を王国の関心事の拡大のために真に捧げました。50歳をとうに過ぎていたふたりは,1947年にハワイの熱帯の“楽園”から腰を上げてギレアデ学校に行き,戦争と貧困と飢えで打ちひしがれた国で業を開始するために進んで出かけて行きました。しかしふたりは,日本でさらにすぐれた“楽園”つまり霊的な楽園を見いだしました。彼らは日本における霊的な楽園の始まりを築いた開拓者たちでした。ドン・ハズレットは1966年2月20日に最後の息を引き取り,亡くなりました。葬儀の時に彼のひつぎを運んだ6人の兄弟たちは,ドンと個人的に聖書を勉強した青年たちで,当時全員が開拓奉仕に携わっており,後にベテルで奉仕しました。メーブル・ハズレットは東京支部の宣教者ホームで,引き続き宣教者として奉仕しています。メーブルは今78歳ですが,依然,奉仕に毎月100時間近くを費やし,新しい人びとが真理の知識を得るよう助けています。
しかし,拡大はさらに進んでいます。外人の宣教者によって開始された業は,今や日本人の開拓奉仕者の大きな一団によって押し進められています。ほとんど毎月のように,正規開拓者の新最高数が得られ,100名以上の新しい開拓者が名簿に載せられる月さえあります。右に掲げる表は,その年の4月に得られた奉仕者の最高数です。この表から,開拓奉仕の面における進歩の様子をある程度知ることができます。
1973年の9月には,5,491人という開拓者の最高数に達しました。その月には,伝道者4人につき1人以上が開拓奉仕に携わったことになります。現在こうした開拓者が多数,人口3万から5万のまだ伝道されていない都市に出かけて行くことを求める招待に答え応じています。そのうえ,会衆の伝道者は真の開拓者精神をいだいて働いています。そのことは,1973年8月の伝道者の野外奉仕平均: 19.5時間の奉仕時間,8.7の再訪問,1.1以上の聖書研究および18.0冊の雑誌配布の記録からも明らかです。エホバは,こうした熱意を祝福してくださっています。1963年10月に現在の東京支部が仕事を開始した当時日本には106の会衆がありましたが,今では日本の709個所でエホバの証人が働いており,組織の新しい取決めによってそのほとんどすべてが会衆です。ですから,支部の仕事は10年前の約5倍にも増えています。親切にも,ものみの塔協会の会長ノア兄弟はこうした進歩に正しく対処できるよう助けを備えるために,日本支部の活動をわたしたちが想像もしていなかったほど大きな規模に拡大することを取り決めました。
(この続きは次号に載せられます)
[61ページの図表]
(全時間野外
奉仕に携って 特別 巡回監督 正規 一時 開拓者
年 いる)宣教者 開拓者 とその妻 開拓者 開拓者 合計
1952 51 - 1 4 - 56
1957 59 43 2 25 - 129
1962 42 157 15 39 71 324
1967 43 362 29 157 377 968
1972 53 453 47 1,896 1,009 3,458
1973 49 503 49 2,117 1,554 4,272