宣べ伝える業が真に挑戦となる所
宣べ伝える業を行なうため,面積がヨーロッパ全体のほぼ半分,あるいは米国の半分に相当する区域を割り当てられたらどうされますか。その区域が主に砂ばくで,太陽が容赦なく照りつけ,気温が通常摂氏50度を超えるような所ならどうですか。舗装してない道路,ほこり,ハエその他のこん虫の大群,そして時折り襲ってくる豪雨などが,一見果てしない試練をもたらすように思える土地で宣べ伝える業を行なうのです。この挑戦を受け入れますか。
わたしと妻は,オーストラリア奥地の砂ばく地帯でのそうした割当てを差し伸べられ,それを受け入れました。あなたは,オーストラリアが非常に広いことに驚かれるでしょう。その面積は,何と英国の58倍もあります。オーストラリアには,スイスを上回るほどの雪山地帯があり,スコットランド,オランダ,フランスそしてベルギーにある湖を全部合わせたよりも多くの湖があり,ハワイ,タヒチ,バリ,フィジーそしてパゴパゴなどを合わせても及ばないほどの太陽光線や寄せ波に恵まれています。そして,オーストラリアの砂ばくの広さは,世界でも有数のものです。
わたしたちは,二年間そうした砂ばく地帯を旅行し,エホバの証人の14の会衆と七つの小さな群れを訪問するため,六か月ごとに1万6,000㌔余りをドライブしました。この砂ばくの奥地で,会衆から会衆に移動するだけの旅行に,どんな問題が含まれているかをご存じですか。
旅支度
まず最初に,でこぼこ道,わだちのついた道,渡河,そしてほこりなどに耐えられるよう,わたしたちの車を改造しなければなりませんでした。巡回区を一回りするたびに通る約5,000㌔もの舗装してない道路は,車にとって特別な難所でした。
車の風防ガラスを守るため,その上に金網を張りました。次に,走って来る車のライト目掛けてカンガルーが跳び込んできても破損しないよう,カンガルーよけの棒を取り付けました。また,エンジンやギヤー装置を路面からさらに離すため,前輪には一段と大きなコイル・スプリングを取り付け,跳ね返る石で穴が空かないよう,後部のガソリンタンクは金属板ですっかり覆い,溶接しました。最後に,差動装置が振動でゆるみ,路上に落ちることがないよう,差動装置補強材を取り付けました。
わたしたちの車には,屋根をすっぽり覆うほどの荷物台を取り付けました。わたしたちは,その荷物台に,予備のリムやタイヤ,余分のガソリン,オイル,フィルター,空気入れ,麻なわ,ジャッキ,バッテリーのジャンパー・ケーブル,洗面および飲料用水,そして事実上どんな故障にでも対処できる予備の自動車部品や工具などを満載しました。この地域で宣べ伝える業を首尾よく行なうには,まず腕の良い修理工であることが必要です。そう結論して間違いではありません。立往生した車の中で,炎熱のために命を落とす人が毎年少なくないという事実は,良い準備の必要性をはっきり物語っています。大抵の場合,ガソリンスタンドの間隔は500㌔以上も離れており,途中で別の車とすれ違うこともほとんどありません。
また,旅支度の中でも重要なのは,スーツケースに入れる前に,すべての衣類をビニールで包むことです。それからスーツケースを粗布で包みます。なぜそうするかお分かりですか。そうしないなら衣類は粉のようなほこりにまみれてしまうからです。
旅行中の経験
わたしたちは,大抵,週の最初の数日を旅行のために費やし,残りの数日の間,エホバの証人の会衆と共に宣べ伝える業に携わりました。そして,会衆や孤立した群れなど次の訪問地に行くのに,平均800㌔の道のりをドライブしました。そうするためには,毎週一晩か二晩,夜の気温が38度以上になるような所で,しかも道端に止めた車の中で寝ることが必要でした。
西オーストラリア州のウィンダムからブルームまでの約1,200㌔の道のりを旅行した際,わたしたちは長雨に見舞われました。路面状態の悪い所を避けるため,わたしたちは所々で道路を離れ,“奥地”(つまり道路から外れた所)に入って行かねばなりませんでした。また,時には車から降り,シャベルでアリ塚の上をすくい取り,その土で路面のでこぼこの箇所を埋めたこともありました。それでも,妻がハンドルを握り,わたしが車を押すことによって,どうにか旅行を続けてゆきました。
初めて巡回区を回った時,その1万6,000㌔の全行程で,一つの町を除いてどこにも草を見かけませんでした。ひどい日照りが続いていたのです。しかし聖書の示す通り,雨が降れば砂ばくもサフランのように花が咲きます。(イザヤ 35:1)季節的な降雨の後には,何千㌔にもわたって見渡す限り美しい花が,文字通り地を覆っているのを見ました。また砂ばく地帯は,カンガルー,トカゲ,野ロバ,ウマ,エミュー,ディンゴー(野犬)そして少数のラクダをも含む野生動物でにぎわっています。
舗装してない道路の中でも730㌔ほどの部分は,特に寂しさと暑さを感じさせます。わたしたちは,荷を軽くするために余分の水を置いて行くことにしました。しかし,走行中,一本のタイヤは空気が抜け,その後,別のタイヤはパンクしてしまいました。今や二本の予備タイヤを両方とも使ってしまいました。同じ道を走っている車はほとんどなく,その上,次の町に着くまでにはあと190㌔もあったのです。
気がかりで口数の少なくなったわたしたちは,いつ別のタイヤがパンクしはしまいかとびくびくしながら,果てしなく続くように思えた道を時速30㌔で走りました。気温は46度近くあり,水の入れ物には生ぬるい水が半分ほどしか残っていませんでした。突然,別のタイヤの空気が抜けました。でも,その時には既に町はずれまで来ていました。その晩,“文明世界”に戻れたのは幸いでした。
別の時にわたしたちは季節はずれの豪雨に見舞われ,道端では大型トラックが数台立往生していました。トラックの運転手の一人は,「だんな,とても通れないよ」と言いました。しかしわたしたちは,少なくとも様子を見るため,先に進むと告げました。しかし,確かに通れそうになかったので,わたしたちは道の真ん中に車を止めて,その晩数時間の睡眠を取りました。
翌朝,わたしは妻に,「叫び声を上げないように」と注意しました。それから,注意深くエンジンを暖め,聖書に出てくる勢いのよい戦車乗りエヒウのことを考えながら,自分の“戦車”に大きな音を立てさせ,四方八方に泥水をはね飛ばしながら坂を登りました。(列王下 9:20)オーストラリア人が言うように,「結果はどうあれやってみる」ことが時として本当に必要になります。わたしたちがまっ先に考えるのは,次の会衆まで行き,その地のクリスチャン兄弟たちと共に宣べ伝える業に携わることでした。
しかし,いつでも予定通りに旅行できたわけではありません。ある時など洪水があったため,一つの会衆を訪問するのに,約4,000㌔も回り道をしなければなりませんでした。そのため,週の初めに到着するはずだったのが,木曜日の晩になってやっとたどり着き,着いた時には疲れ果て,殊の外ほこりにまみれ,髪はぼさぼさになっていました。それは,あと720㌔という地点で風防ガラスが壊れてしまったためでもありました。しかし,金曜日から日曜日にかけて,わたしたちは会衆の人々と共に宣べ伝える業に携わることができました。
クリスチャンの大会に出席するために旅行する距離は,それを上回るほどです。例えば,シドニーでの国際大会に出席するため,わたしたちは,ポートヘッドランドを出てマウントニューマンに帰るまで,往復9,600㌔余りの旅をしました。そのような旅をする際には,問題が起きた場合に備えて,普通,二週間分の食糧を箱に入れて行きます。わたしの好物は,煮豆とビスケットでしたが,妻はいわしのかん詰めが大好きでした。
車の維持費を得るために,わたしは時折り,世俗の仕事に数日間携わらねばなりませんでした。わたしは,世界でも指折りの暑い所と言われるウィンダムで,原住民と一緒に働く機会に巡り合わせた時のことが忘れられません。その地の土着民の一人は聖書に特別な関心を持っていたので,約束された神の新体制についてその人に良い証言をする機会を得ました。―ペテロ第二 3:13。
炎熱に対処する
この酷暑が幾分でも和らぎ,もっと涼しくなればと願ったことは何度となくあります。1972年の大干ばつの時には,気温がなかなか50度を下りませんでした。妻は,顔や首にぬれた布を当てて,その暑さをしのぎました。わたしたちは,かん木の下にうずくまって昼食をとったものです。ナラーバー平野を横切る際には,約1,300㌔にわたって樹木がないからです。ナラーバーには,“樹木がない”という意味があるので,この平野にふさわしい名称です。
あらゆるものが非常に熱くなり,車に触るとやけどをするほどでした。炎熱が続いたため,車の窓枠のゴムが膨れ上がってしまいました。わたしは,安いくつを買って失敗しました。数週間履いただけで暑さのために,くつ底が溶けて,横にずれてしまったのです。目的地に到着した時には,気温は47度に下がりましたが,それが涼しいと感じたほどです。
宣べ伝える業を行なっている際に気温が40度を超えることは珍しくありませんでした。それでも,わたしたちは通常の戸別訪問の計画に従うことができました。エクスマウスで,朝9時前にわたしが最初の家を訪問した時,すでに43度になっていたことを覚えています。しかし,人々は非常にたくましく,こうした気候に対処する方法を知っていました。
わたしたちは,一歳十か月になる,エホバの証人の子供が,40度の炎熱の中を泣き声一つ立てずに,午前中ずっと家から家に行くのを見たことがあります。昼食のために集まった時,父親と手をつないで歩いてきたその子の顔は赤土にまみれ,頭いっぱいに汗をかき,それがほほを伝って流れていました。しかし,その子は満面に笑みを浮かべ,その朝出会った人々についてわたしたちに話そうとしていました。
気温が47度もあったある日,わたしはミーカサラのある家で公開講演をしました。その後でズボンを脱いだ時,聖書を置いていた左ひざの所に白く四角い形に塩がこびり着き,腰を下ろしていた所には二つの白いつぎのような形ができていました。ところが,土地の人々は暑さに慣れているため,その時に扇風機を回そうともしませんでした。わたしと妻は,塩分を余計にとり,エホバ神に力を求めることによって,そうした事態に対処できました。
霊的な強さを保つ
わたしたちが訪問したエホバの証人の一家族は,一番近い会衆からでさえ数百㌔も離れた所に住んでいますが,他のエホバの証人たちと同じ霊的食物を間違いなく受けられるようにしています。集会の予定されている晩には,皆がきちんとした服装をし,全世界のエホバの証人の会衆で討議されるのと同じ集会のプログラムを,家族の各成員が扱います。
集会の日に,母親が子供を産んで入院していたため,一つの問題が起きました。どのようにしてその晩の集会を開いたらよいでしょうか。母親は神権学校の話の割り当てがありました。すると,その家族はそろって病院にまで出掛けて行き,そこで自分たちの集会を開いたのです。霊的な教訓を与えるプログラムを,その家族が定期的に受けることを阻むものは何もありません。
別の孤立したエホバの証人も同じ方法に従っています。しかし,その人は独りで住んでいたので,集会のプログラム全部を自分で扱い,王国の歌も一人で歌いました。町の人々は,この人が社交上の集まりに姿を見せないことに気付き,親切心から町の二つのクラブの会員名簿にその人の名前を載せました。彼は,自分がなぜクラブの集まりに参加しないかを巧みに説明しました。
この人は新しいエホバの証人でしたから,宣べ伝える業を行なうために,近隣の人々を訪問する勇気を持つまでに少しの時間がかかりました。訪問するようになってから,人々はこの人によくこう言いました。「またにしてくれないか。あなたはりっぱな人だが,その宗教をこの辺りに持ってくるのはやめてくれ給え」。それでも,ある人との聖書研究が始まり,ほどなくしてその研究生も一緒に集会のプログラムに加わるようになりました。この二人を訪問した時は,時間があまりに短過ぎるように感じました。
わたしたちは,エホバの証人が一人しか住んでいない所を数か所訪問しました。一人の孤立したクリスチャン姉妹は,証言の対象となる人が一万人以上もいる区域で,宣べ伝える業にいつも活発に参加していました。この姉妹は,一人の子供をおぶって,もう一人の子供の手を引いて出掛けて行き,神のみ言葉に対する人々の関心を大いに高めることができました。会衆で行なわれる聖書の公開講演を録音したカセットテープが,孤立した伝道者や群れに時折り送られます。……それは,孤立した人々もそうした霊的な益を受けられるようにするためです。
遠く離れた鉱山の町で証言するのは,大抵の場合とても楽しいものです。そうした町へ行くため,証人たちはしばしば数百㌔も旅をし,一週間ほどキャンプ生活をします。そうした町では,多くの若い夫婦に会え,人々が非常に友好的であるように感じました。娯楽施設が少ないので,人々は読書の時間を多く持てます。ある日カラサで出合った人は,わたしが持っていた聖書文書をすべて求めました。
時には少し疲れることがあっても,わたしたちは本当に大きな祝福を味わいました。食糧の蓄えが少なくなったこともあります。ある時わたしは,“全く孤立した地点”で,車の下にもぐって,なくなったブレーキ・パッドを捜していました。すると,驚いたことに,一台の車が近付いて来ました。しかもその車を運転していた人は,未割当区域で宣べ伝える業を行なっていたエホバの証人の一人だったのです。その兄弟に会えてどれほど励まされたことでしょう。その兄弟は,帰宅するとすぐ,わたしたちの次の滞在地に50㌦(約1万5,000円)を電報為替で送金してくれました。必要な物に事欠くようなことは一度もありませんでした。
奥地に住むエホバの証人は,週ごとの聖書の集会に出席するため100㌔以上の旅をすることを物ともしません。三人のクリスチャンの長老からなる委員は,審理すべき問題に関連して近隣の会衆を助けるために,2,000㌔近くも旅行し,週末の時間すべてを使う場合があります。年二回の巡回大会に出席するために,往復4,800㌔旅行するエホバの証人もいます。道路の状態がひどすぎたり水が出ていたりする場合,経済的余裕のある人は飛行機を使います。ある家族は,巡回大会に出席するための航空運賃と宿泊費のために1,000㌦(約30万円)のお金を費やしました。生活の中で霊的な事柄を第一にするこうした人々と共に過ごすのは何と喜ばしいことでしょう。
今,わたしたちは宣べ伝えるための別の割当てを受けています。わたしたちが新たに割り当てられた巡回区の区域は,以前の巡回区のただ一つの会衆の区域の中に収まってしまいます。わたしたちは,オーストラリアの広大な奥地に住む兄弟たちに深い愛着を感じています。彼らは常に,わたしたちに親愛の情を感じさせてくれるのです。―寄稿。
[120ページの図版]
ヨーロッパ地図の上に描いた,オーストラリアの輪郭。点線は旅行の経路を示す