命と光は不可分のもの
「命の泉はあなたと共にあり,あなたから来る光によってわたしたちは光を見ることができるからです」― 詩 36:9,新。
1,2 必要なもの,また喜びのもととしての光のありがたさを,対照によりどのように一層知ることができますか。
光とやみは最も大きな対照の一つです。真昼なら,未知の広い土地を歩いていても,かなりの自信が持てます。近くにある物を見たり,少し歩いて行ってそれらに手を伸ばして触れてみたりすることができるだけでなく,澄んだ遠景をながめ,地平線上で動くものなど,こまかなところまで色々見て楽しむこともできます。しかしまっ暗やみの中では,一歩でも懐中電灯かランプなしに動くのは無謀と言えるでしょう。その場合の動きは極めて用心深い慎重なものになるでしょう。
2 光はあらゆる生物と運動にとって不可欠なものであるばかりでなく,生活の妙味と楽しさを大いに増します。真昼の太陽がぎらぎら照る中を歩いたあと,木陰の多い森の中に足を踏み入れることがあるかもしれません。その違いは本当に喜ばしいものです。なぜそれほど魅力的なのでしょうか。光は今は柔らかくなって目に快く,立ち止まって種々の樹木やその葉,あるいは下生えの中の花々などを見ると,光は無限に異なる色合や色彩を反射しています。目を上げても太陽の光でくらむことはなく,空は多くの枝と葉に隠されて無数の小穴か光の斑点のように見えます。あなたはただそこにたたずんでその静かな美を満喫したいと思います。物事を静かに楽しむことを知っている友だちと一緒にいるならとりわけそう感じることでしょう。
3 光と命の間にはどんな自然の関係が見られますか。
3 もちろん,自分が生きていて自分の目で見ることができなければ,光の大きな価値,すなわちその有用さも,あるいは限りない喜びのもとであることも,認識することはないでしょう。事実,健康が優れていればいるほど,また視力が良ければ良いほど,同様に光の価値に対する認識もそれだけ深いものがあります。命と光は確かに不可分のものです。
4 (イ)多くの人はなぜ,またどのように,これらのものがあるのを当然のように考えていますか。(ロ)自己満足的な態度を示す人に対して,どんな経験を例として挙げることができますか。
4 悲しいことに,多くの人はこれらのものがあるのを当然のことと考えています。命と光のあらゆる益を自分で楽しむことは喜びますが,立ち止まってその真の源について考えてみようとはしません。生命は主として偶然に,つまりだれが始めたのでも,あるいはその営みを支配しているのでもない進化の過程によって発生した,と考えています。光については,わたしたち地上に住む者は光の源を太陽以上のものに求める必要はない,と言います。そういう人々が,もしかつてある人が経験したような経験をするなら,ショックを受けないまでも,大変驚くことでしょう。その人は,王アグリッパ二世に次のように語りました。「わたしは,真昼に路上で,王よ,太陽の輝きより強い光が,天からわたしのまわり,またともに旅をしていた者たちのまわりにぱっと光るのを見ました」。この人はだれでしたか。それはどんな時でしたか。またそれにはどんな意味がありましたか。―使徒 26:13。
5 サウロを改宗させる結果になった彼の経験を,信頼できるものとして受け入れ得るどんな理由がありますか。
5 クリスチャンと称する人々を含めて多くの人は,事実として記録されている聖書のある部分を,神話や伝説の領域に追いやることができると考えています。ところがそういう見方をする人でも,以前タルソスのサウロとして知られていたパウロのような人が実在したこと,そして彼が多くの手紙を書き,それらの手紙がクリスチャン・ギリシャ語聖書の一部となったことなどは否定しません。信頼できる歴史家ルカが使徒 9章1節から30節に記録しているサウロの改宗に関する詳細も,やはり疑う理由はありません。その時にイエスがサウロに語られた言葉を含め,その記事全体は真実性を帯びています。ダマスカスへ赴くその時のサウロの定まった目的を考えてみるなら,その出来事は,サウロが想像し得たかもしれないどんな事柄とも全く反対のものでした。彼はアグリッパ王に次のように述べて,当時彼がクリスチャンに対して抱いていた激しい憎しみについて語りました。「また,すべての会堂で彼らを幾度も罰して変節を迫り,彼らに対してはなはだしく怒り狂っていましたので,外部の諸都市」すなわちエルサレムから遠く離れた「ところにおいてさえ彼らを迫害するほどでした」。彼が非常なショックと驚きを経験したのは,前述の通り,彼がダマスカスの町に行く途中のことでした。それは特別の時でした。それにはどんな深い意味があったのでしょうか。―使徒 26:8-11。
光について証しすることは命を意味する
6 イエスはサウロにどんな使命をお与えになりましたか。わたしたちはなぜそれに関心を持つべきですか。
6 その時イエスがパウロに言われたことに深い注意を払うのは,非常に興味深い,また有益なことです。わたしたちは命と光との密接な関係について多くのことを学ぶでしょう。その関係は,わたしたちがどう反応しようと,わたしたちすべてとかかわりを持つものであることを示しています。イエスはサウロに与えようとしておられた使命について述べ,こう言われました。「あなたが見た事がら,そしてわたしが自分についてあなたに見させる事がらに仕える者またその証人としてあなたを選ぶため,このためにわたしは自分をあなたに示したからです。わたしはあなたをこの民から,また諸国民から救い出しますが,同時に彼らのもとにあなたを遣わして,彼らの目を開けさせ,彼らをやみから光に,またサタンの権威から神に転じさせます。それは,彼らが罪のゆるしと,わたしに対する信仰によって神聖にされた者たちの間にある相続財産とを受けるためです」― 使徒 26:16-18。
7 後にパウロとして知られるようになったサウロは,使命を受け入れた証拠をどのように示しましたか。
7 証人となる使命をサウロが直ちに受け入れたことは,彼がアグリッパ王に続けて語ったことから分かります。「わたしは天からのこの光景に背かず……この日に至るまで,小なる者にも大なる者にも証しを続けています。……すなわち,キリストが苦しみを受け,また死人の中から復活させられる最初の者として,この民[ユダヤ人]にも諸国民にも光を広めるであろうということです」。(使徒 26:19-23)サウロはイエスが彼に言われたことの要点を正しく理解していました。問題は,あなたもイエスの言葉の要点と,それがあなたにどのように影響するかについて理解しているだろうか,ということです。その点を検討してみましょう。
8 (イ)ある表現は文字通りの意味にも,ひゆ的な意味にもとれることについて説明してください。(ロ)聖書がひゆ的な言葉を用いているかどうか,何が示していますか。
8 ある事柄を見ること,また他の人々の目を開いて彼らをやみから光に転じさせることについてサウロに話された時,イエスがひゆ的な言葉を用いておられたことは明らかです。それは別に新しい事でも,変わったことでもありませんでした。肉眼の視力は思いと密接なつながりを持っています。ですからわたしたちは,文字通り肉体的な意味にでも,あるいは思いや心と関係のあるひゆ的また霊的な意味にでも,どちらにでも取れるような表現をしばしば用います。話された事柄を理解した,また認識したという意味で,英語ではよく「オー! イエス,アイ シー(見る)」と言いませんか。パウロはある手紙の中で,神が『ご自身についての正確な知識という点で知恵と啓示の霊をあなたがたに与えてくださるように。また,あなたがたの心の目が啓発されるように』と祈っていますが,これはそのよい例です。―エフェソス 1:17,18。
9 光とやみは対照的にそれぞれ何を象徴しますか。
9 以上のことから,光は,例えば正義など,真理や真理と関連のあるもので検閲を歓迎するものの適切な象徴として用いられていることが分かります。それと対照的に,やみは,誤りや無知,またそうしたことと関連した事柄で検閲をいとうもの,例えば恥ずべき振る舞いや邪悪な行為の象徴として用いられています。
10 (イ)パウロが証ししたのは一般的な真理でしたか。(ロ)聖書の真理を受け入れると,どんな益を次々に受ける結果になりますか。
10 パウロは明らかに次のことを理解していました。すなわち自分はよみがえらされた主イエスの指導の下に,他の人々に「真理を明らかにすること」によって光について証ししなければならないということです。(コリント第二 4:2)つまり一般的な真理ではなくて,神の言葉である聖書中に記されている真理です。(ヨハネ 17:17。テモテ第一 2:4。テモテ第二 2:15)彼の証しに答え応じた人々は心の目を開かれ,彼らが光の中に来るためにもまた命を得るためにも歩まねばならない道を見定めることができました。そして光に似たこの命は,わたしたちの肉体に属する現在の肉的,一時的命以上のもの,ずっと優れたものです。命に関してそのようなより深い意味が付されていたことは,パウロがエフェソス人に語った次の言葉から分かります。「さらに,あなたがたは自分の罪過と罪にあって[以前は]死んでいましたが,そのあなたがたを神は生かしてくださいました」。この説明は,神の見地から見た命についての完全な理解への第一歩に過ぎません。―エフェソス 2:1。
11 (イ)わたしたちは光についてどのように証しすることができますか。そのことは命とどのように関係していますか。(ロ)このことに関連してどんな態度を避けねばなりませんか。
11 したがって,命と光は,文字通りにはもちろんのこと,ひゆ的また霊的に言っても不可分のものであることが分かります。光すなわち真理について証しすることは,パウロだけでなくわたしたちにとっても ― まず光を受ける者として,次いで他の人々に光を携えて行く者として ― 命を意味します。あなたは,ご自分がどこでどのように関係しているかを見ることが,つまり理解することができますか。この点を容易にするために,ダマスカスへの途上にあった例の人にイエスが言われたことを,もう少し検討してみましょう。奇妙なことに,彼は肉体的には一時盲目になりましたが,今や物事を精神的に,しかもすべての事柄を全く新しい見地から見るようになりました。彼の心も強く引き付けられていました。彼は反抗的でも反逆的でもありませんでした。エホバがエゼキエルに与えた次の警告を心に留めているなら,わたしたちについても同じことが言えると思います。『人の子よ汝は背戻る家の中に居る 彼らは見る目あれども見ず 聞く耳あれども聞かず 背戻る家なり』― エゼキエル 12:2。
あなたはだれの権威の下にあるか
12 サウロの使命の目的は何であると述べられましたか。そのことからどんな質問が生じますか。
12 イエスはサウロに話した時,人々の目を開く目的は,「彼らをやみから光に,またサタンの権威から神に転じさせ」ることにある,と言われました。(使徒 26:18)ですからこの言葉はやみと光の両方に関して,あるいは死と命の両方に関してとも言えますが,その根源またそれを支配している権威を示しています。確かにわたしたちは,自分がだれの権威の下にいるか,もし望むならどうすれば一つの権威の下から他の権威の下に移れるのか,知りたいと思います。
13 神の言葉はエホバが(イ)光と(ロ)命の源であることをどのように示していますか。
13 神の言葉はエホバが命と光の源であることを明らかにしています。エホバは「天の創造者……地を形造った方で,その造り主……まさに」生物を「住まわせるためにそれを形造られた方」。創世記の中の創造に関する記録は,「初めに神は天と地を創造された」となっていて,この点を確証しています。次いで地に影響のあることとして「神は『光があるように』と言われ」ました。そして後ほど,「昼を支配する大きいほうの光体」,すなわち地球の主要な光の源でありエネルギーの源でもある太陽のことが述べられています。太陽がなければ,地上での生命の営みは不可能です。地の創造の最後を飾る時は到来し,『エホバ神は地面の塵から人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられました。そして人は生きた魂』,「神の像」となりました。アダムが,そして次にエバが,命と光を心ゆくまで用い楽しめるように,肉体的にも精神的にもすべての感覚と能力を備えた完全な者に創造されました。―イザヤ 45:18。創世 1:1,3,16,27; 2:7,新。
14 どんな根拠に基づいてエホバを至高の権威と見ますか。このことからどんな疑問が生じますか。
14 このことから次のことが明らかになります。すなわち,エホバ神は命と光の源また造り主,創造者また生命の授与者であられるばかりでなく,そのような存在であられるがゆえに,統べ治めることにおいても当然至高の権威,至高の支配者であられるということです。(詩 103:19。ダニエル 4:17,35。啓示 4:11)そのことを信ずるなら,エホバに反抗する権威がどうして存在し得るのか当然知りたいと思うでしょう。イエスが言われた「サタンの権威」とは何でしょうか。それはどうして存在するようになったのでしょうか。そしてわたしたちはどうすればその支配の下から出ることができるでしょうか。
15 (イ)サタンはどんなこうかつな方法で神の権威を覆そうとしましたか。(ロ)このことには神の言葉がどのように関係していましたか。(ハ)何がアダムとエバの行動を促しましたか。
15 霊感による記録によると,サタンは自分の影響力をこうかつな方法で用いることをたくらみ,その点で成功しました。どんな方法を用いたのでしょうか。当てこすりとうそを言う方法でした。彼はうそを言って,誤りを真理に代わるものとして提示したのです。別の言葉で言えば,やみを光としたのです。興味深いことにそれは命に関係のあることで,もしエバがサタンの提案通りにすれば彼女は死ぬことはなく,地上で肉体を備えたまま生き続けるというのでした。サタンはへびを通して,『あなたがたがそれ[禁じられた実]を食べるその日にあなたがたの目は必ず開く』と言って,彼女が一層啓発されることを約束しました。そして彼女は神から独立して権威を行使する自由を得るということをほのめかし,『あなたがたは必ず神のようになって[自分で]善悪を知るようになる』とつけ加えました。(創世 3:1-5,新)ですからサタンは,アダムに与えられた神の言葉と命令はアダムとその妻を命に通ずる正しい道に導きかつ歩み続けさせる真の光として信頼できるようなものではない,と主張したのです。最初にエバが,次いでアダムが,神の簡単なそして直接に与えられた命令に背く決意をし,自分本位の道を歩み始めました。それは神の恵みのうちにある命と光から人を引き離してやみと死に連れ込む道でした。―詩 119:105。コリント第二 11:14もご覧ください。
16 (イ)サタンの近づき方を考えてみるのはなぜ役立ちますか。(ロ)聖書はこのことに関しどのように啓発を与えていますか。
16 わたしたちはここでしばらく立ち止まって,サタンが用いる主な術策の一つについて,またそれがどのように働くかを考えてみましょう。サタンはエバに対して行なったと同じように,こうかつな手段により,欺きによって,自分本位の見地から物事を見るようにわたしたちを誘惑します。もし心が利己主義に支配されているか,または支配されるようになるなら,わたしたちはすぐにサタンのわなに落ち込み,容易に盲目にされ,欺かれます。そして自分を正当化することに努め,神への恐れを思いから閉め出してしまいます。このことがどのように明白かつ強力に表現されているか詩篇 36篇1節から3節(新)を見てみましょう。「邪悪な者に対する違犯の発言は彼の心の中にあり,その目の前に神への畏怖はない。己の目から見て,彼は自分に対して余りにも滑らかに行動したからである。自分の誤りを見つけてそれを憎むには。その口の言葉は有害と欺瞞。彼は善を行なうことに関し洞察力を持つことをやめてしまった」。預言者イザヤはそういう者に対する神の裁きをよく言い表わしています。「わざわいなるかな,彼らは悪を呼んで善といい,善を呼んで悪といい,暗きを光とし,光を暗し……とする……。わざわいなるかな,彼らはおのれを見て,賢しとし,みずから顧みて,さとしとする」。確かにわたしたちは「人を欺く罪の力のためにかたくなになる」ことを恐れなければなりません。―イザヤ 5:20,21,口。ヘブライ 3:13。
17 サタンの影響を次第に多く受けるようになった点で,人間自身にはどの程度責任がありますか。
17 エデンにおける反逆の時以来,一般人類はサタンの影響と支配を次第に強く受けるようになりました。一番の原因はサタンにありましたが,人間自身にも大いに責むべきところがありました。神は,人間の世界にご自分を証しする者がいないままにされてはいなかったことを忘れないようにしましょう。神は人の目に見えませんが,「神の見えない特質,実に,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言いわけができません」。詩篇 36篇1節から3節と密接な調和を保って彼は言葉を続けます。「彼ら[人間]は,神を知りながらそれを神としてたたえず,また感謝せず,その推論するところにおいて無能な者となり,その悟りの悪い心は暗くなったのです」。(ローマ 1:19-23)サタンがやみを呼んで光と言ったのは事実ですが,次のことも認めねばなりません。つまり人間も総じて光よりやみや不敬虔なことを好んだということです。エノクが霊感を受けて語った預言は,不敬虔という言葉を四度も述べて強調し,そのことを立証しています。(ユダ 14,15)大洪水の時までの人で記録に残っている例外の三人,すなわちアベル,エノクそしてノアは,大多数の人々が言い訳のできない立場にあることを明らかにするのに役立ったに過ぎませんでした。その三人は『神と共に歩みました』。ノアについては,彼は『敬神の恐れを示し,世を罪に定めた』と述べられています。―創世 5:22; 6:9。ヘブライ 11:4-7。
王国の権威
18 大洪水後,サタンの権威にどんな進展が見られましたか。
18 大洪水後,サタンが特定の,それとはっきり分かる支配者の地位を通して権威を行使し始める時が来ました。わたしたちはここで初めて王国のことが書かれているのを読みます。サタンはその野心的な目的の遂行にニムロデがかっこうの道具になることを発見しました。ニロムデについては次のように述べられています。「彼は,地上で強大な者となる点でその始めとなった。彼はエホバに逆らう強大な狩人として現われた。……彼の王国の始まりは,シナルの地のバベル……となった。彼はその地から[征服しに]出て行ってアッシリアに入り,ニネベ……の建設に取り掛かった」― 創世 10:8-12,新。
19 (イ)エホバへの反逆はどのように現われましたか。(ロ)この反逆は一時停止させられたとはいえ,どのように引き続き拡大しましたか。
19 それである人々は,これと同じ野心と反抗的精神に燃え,権威を立ててそれを自分たちの手中に留める決意をしました。彼らは言いました。「さあ,自分たちのために都市を,またその頂が天に達するような塔を建てよう。そして,我々の名を揚げて,地の全面に散らされることのないようにしよう」。そのことはサタンの目的に合いましたが,主権者なる主エホバおよびエホバが表明された目的とは真っ向から対立しました。エホバはその状況に目をつぶることをされませんでした。神は「人の子らの建てた都市と塔とをご覧に」なり,「今,彼らが行なおうとする事で彼らの達し得ない事は何もない」と言われました。それでエホバは彼らの言葉を乱すことによって彼らの一致した目的を粉砕し,彼らが世界中に散ってゆくようにされました。(創世 9:1; 11:1-8,新。使徒 4:24)それでも大多数の人は人間の支配者を好み,また権力と権威を渇望するサタンの精神を持った者が常に存在しました。その結果,人間製の王国が生まれました。時にはそれは都市国家に過ぎないこともありましたが,次第に拡大し,例えばモアブ王国やアンモン王国のような地域全体を含包してついに大帝国また世界強国になりました。
20 (イ)人間製の王国において宗教はどんな役割を演じましたか。(ロ)聖書はこれのどんな例外を記録していますか。(ハ)サタンは人類のほとんどをどのように,またどの程度支配してきましたか。
20 こうした王国すべてにおいて宗教は大きな役割を果たしましたが,支配者もその臣民も,彼らが当然崇拝し服従すべきエホバを最高の支配者とは認めませんでした。(エレミヤ 10:10。ダニエル 6:26)聖書はただ一人の例外的な人を挙げています。つまりサレムの王メルキゼデクです。彼は「至高の神の祭司」として奉仕しました。そしてアブラムを祝福するに当たって,「祝福されよアブラム,至高の神,天と地の産出者によって」と言いました。アブラム自身ソドムの王に話したとき,神について同じように言いました。(創世 14:18-23,新)そのほかのところでは,サタンが,彼に加わった不従順なみ使いたちと共にすべての王国を支配しました。このことは,サタンとその配下の悪霊たちが人間の目に見えないので一般には理解されていません。しかし目に見えないとはいえ,影響力を及ぼしていることに変わりはありません。イエスは三度も,サタン悪魔が「この世の支配者」であることを言われました。そしてパウロは悪魔に対するクリスチャンの戦いについて述べ,それは「もろもろの政府と権威,またこのやみの世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対する」戦いであると言いました。―ヨハネ 12:31; 14:30; 16:11。エフェソス 6:11,12。コリント第二 4:4もご覧ください。
21 (イ)サタンの権威から救い出されることにはどんなことが関係していますか。(ロ)両陣営の現状はどのように頂点に達していますか。
21 このことから次のことが明らかになります。つまりイエスはサウロに,人々を『サタンの権威から神に転じさせる』ことについて語られましたが,それは一つの権威から他の権威の下に移すことだということです。パウロはこう書いています。「神[エホバ]はわたしたちをやみの権威から救い出し,ご自分の愛するみ子の王国へと移してくださいました」。(コロサイ 1:13)今日,二つの対立する陣営,すなわちエホバ神の陣営とサタン悪魔の陣営の間の情勢は非常な緊張の頂点に達しました。予告されていた両陣営間の「敵意」はまさに絶頂に達しました。(創世 3:15,新)サタンの支配下では,やみがかつてなくその濃度を増しています。支配者も被支配者も,多くのやっかいな問題をどう解決すべきかそのすべを知りません。それは『触れるほどのくらやみ』です。(出エジプト 10:21,22)しかし,メシアなる王キリスト・イエスによるエホバの支配の下では,真理と義の光がいつの時にも増して明るく光り輝いていて,その臣民に進路を明白に示し,確信を与え,その上に多くの霊的楽しみと喜びを与えています。したがって人類の前に置かれている問題は,統治権および王国の権威というテーマが中心になっています。
22 (イ)メシア王国,そして(ロ)至上権を得ようとするサタンの努力に関し,権威と統治権はどこでどのように強調されていますか。
22 このテーマがヨハネへの啓示の中で強調されていることに注目してください。ヨハネは自分に与えられた幻の中で,大きな声が天で,「世の王国はわたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼はかぎりなく永久に王として支配するであろう」と言うのを聞きました。このことは西暦1914年に成就しました。それは異邦人の諸強国が,西暦前607年から2,520年間神の許しにより連続的に世界を支配してきたその支配が終わった時でした。次いでヨハネは,メシア王国の誕生,天における戦争,そして龍すなわち悪魔サタンが天から追い落とされるのを見たあと,「今や,救いと力とわたしたちの神の王国とそのキリストの権威とが実現した!」という宣言を聞きました。それと対照的に,次の幻は龍が「野獣」(サタンの世界的政治組織の象徴)に「自分の力と座と大きな権威」を与え,その結果地のすべての国民がそれを崇拝することを示しています。さらに,現代の国際連合機構の象徴である「野獣の像」に関しても同様の権威と崇拝が述べられています。事実,サタンの組織は「すべての人……を強制して」身分の証明となる印を受けさせます。そのしるしがないと,生きてゆくことは不可能に近いものになります。―啓示 11:15; 12:10; 13:2,15-17。
23 (イ)このことを考えてわたしたちはどう自問すべきですか。(ロ)詩篇 36篇9節の後半はどう理解すべきですか。そのことからどんなすばらしい結論がでますか。
23 あなたはだれの権威の下にありますか。あなたはサタンの世界秩序の支持者と見られることで満足していますか。それともサタンの権威の下から逃れることを心から望みながらも,どうしてよいかはっきり分からない状態にありますか。またそれに伴って起こるかもしれないことを恐れていますか。では励ましを得るためにもう一度詩篇 36篇を調べてください。詩篇作者は,いつも自分の目に自分を正しいとする,したがって自分の誤りを見て,あるいは知って,それを憎むことをしない人々の悪い態度について述べたのち,エホバに目を向けます。そしてエホバの愛に基づく親切,忠実と義,そしてエホバの翼の下に避難する者たちに臨む祝福を賞揚します。エホバが「命の泉」であることを述べたあと,「あなたから来る光によってわたしたちは光を見ることができる」とつけ加えています。言い換えれば,自分自身をも含めて物事をエホバの見地から見るように学ぶとき初めてわたしたちはやみから光へ転ずることができ,神の権威の下で永遠の命を得るため取るべき措置を知りまた認識するようになるということです。その光と,また真理や義と共に歩むならわたしたちは幸福です。なぜなら,「正しい者の道は,夜明けの光のよう」で,「いよいよ輝きを増して真昼となる」からです。そうすればわたしたちもダビデの次の祈りに和することができます。「どうか,あなたを知る者に絶えずいつくしみを施し,心の直き者に絶えず救を施してください」― 詩 36:5-10; 箴 4:18,口。
[496ページの図版]
アダムとエバは自分本位の独立の道を歩んだので,光と命から離れ,やみと死の道を歩むようになった
[497ページの図版]
神はバベルの塔の建設者たちの言葉を乱すことにより,彼らの反抗的な目的をざ折させた