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  • 霊的な目標を絶えず追い求めなさい
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1982
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1982
塔82 9/15 5–9ページ

霊的な目標を絶えず追い求めなさい

『後ろのものを忘れ,前のものに向かって身を伸ばし,賞のため,目標に向かってひたすら走っているのです』― フィリピ 3:13,14。

 1,2 古代の徒競走でしのぎを削った人々は,どれほどの努力を払いましたか。なぜですか。(コリント第一 9:24)

「良い走者は,出発点にある障害物が除かれた瞬間から,勝利を得るために前へ進むことだけを考え,思いを決勝点に向け,自分の足に期待をかける」。西暦1世紀の歴史家ルキアノスは,徒競走に参加する人々の意気込みをこのように描写しました。ゴールに1着で入るため,すべての神経と筋肉が極限まで用いられました。多くの場合,その賞は植物の葉で作られた冠でしたが,勝利者に一生涯にわたる「最大級の賞賛」をもたらすのが普通でした。その勝者は『賞を得る』まで「どんな犠牲もどんな苦痛も」いとわなかったということを,すべての人が知っていたからです。a

2 クリスチャンとして成功するために必要な事柄を説明するため,使徒パウロは走者の例を用い,とこしえの命という目標を追い求める人々に対し,「あなた方も,[賞]を獲得するような仕方で走りなさい」と諭しました。(コリント第一 9:24)パウロは,自分が(体を前に向け,何としても決勝点に到達しようとする走者のように)「身を伸ばし」,「神からの賞である上への召しのため,目標に向かってひたすら走っている」と述べました。(フィリピ 3:13,14)クリスチャンである「走者」が報いを得るつもりであれば,ほかのどんなものでもなく,とこしえの命という賞が,生活全体に方向付けを与える焦点,つまり目標物とならなければなりません。あなたの生活の場合も同じでしょうか。

「このような精神態度を抱きましょう」

 3 フィリピ 3章13節によると,円熟したクリスチャンはどんな態度を示すべきですか。

3 「後ろのものを忘れ」ることにより,使徒パウロはこの報いこそ自分にとって最も重要な目標であることを示しました。パウロは「後ろのもの」を「多くのくず」,「ごみ」,「ふん」と呼びました。(ベック訳,欽定訳)パウロが命のための競走に参加するに当たって後ろに残したものを考えると,これは強烈な表現でした。(4ページをご覧ください。)パウロは自分自身の例を熟考して,こう勧めました。「それで,わたしたちのうち円熟した者は皆,このような精神態度を抱きましょう」― フィリピ 3:5-8,15,17。

 4 (イ)まだバプテスマを受けていない,関心を持つ人々,(ロ)バプテスマを受けたばかりの人々は,どんな予備的な目標に到達すべきですか。

4 この使徒がこれらの言葉を書き送った人々はすでにこの競走に参加しており,クリスチャンとしての円熟性に到達していました。しかし,あなたがまだバプテスマを受けておらず,そのため競走に参加していないとしたらどうでしょうか。そのような場合には,それを第一の目標として努力する必要があります。走るところまで行かない人々は,とこしえの命という賞を得ることができないからです。とはいえ,命を得るための競走に加わりはじめたばかりの人は,第一の目標としてクリスチャンとしての円熟に達する必要があります。これは,キリスト教の真理の全領域を受け入れ,自分の「知覚力を訓練し,正しいことも悪いことも見分けられるよう」努力するという意味です。―ヘブライ 5:14; 6:1。

 5 人生の目標に関する精神態度を見定めるため,どんな質問をしてみることができますか。

5 しかし,「わたしたちのうち円熟した者は皆,このような精神態度を抱きましょう」というパウロの言葉は,円熟した者も,自分たちの「精神態度」を吟味する必要のあることを示しています。人によっては,『これと異なる考え方をする』可能性があるからです。(フィリピ 3:15)例えば,あなたはどんなものを後ろに残しましたか。それらについて,今でもパウロと同じ見方をしていますか。あるいは,この世の物質的な,また人々からの名声を集める目標を達成することのほうに自分の時間や注意を奪われていますか。言うまでもなく,クリスチャンには,自分自身や家族の者の必要物を備える義務があります。パウロは天幕造りという楽ではない仕事をしましたが,それは以前自分がしていた華々しい生き方を全く変えることを意味しました。しかし,パウロの生活において重大な事柄は,世俗的な職業ではなく,その「賞」になりました。あなたの場合も同じでしょうか。―使徒 18:3; 20:33,34。

敬虔な専心において訓練する

 6 テモテ第一 4章7,10節によると,とこしえの命という目標に到達するためにはどんな訓練が重要ですか。

6 使徒パウロはテモテへの助言の中で,「賞」を得たいと望む人々すべてにとって肝要な一つの特質に注意を促しました。運動選手に求められる厳しい訓練期間のことを考えていたのでしょう,パウロはこう書いています。「敬虔な専心を目ざして自分を訓練してゆきなさい。……わたしたちはそのために骨折って働き,また努力しているのです」― テモテ第一 4:7,10。

 7 敬虔な専心とは何ですか。どのようにして自分の動機を吟味できますか。

7 敬虔な専心は,エホバご自身に対して抱く愛情と関係しています。それはわたしたちが根はどんな人間なのかということであり,外面的な宗教活動では必ずしも見定めることができません。b したがって,なぜ自分が神聖な奉仕に携わっているかをいつも吟味する必要があります。自分がそうしなかった時の他の人の思惑を気にしているからですか。人々の前に感銘を与える記録を打ち立てるためですか。ただ親からうるさく言われるからですか。あるいは神に喜んでいただきたいからですか。わたしたちは皆,時々他の人からやさしく後押ししてもらう必要があります。個人的な割当てや組織上の取決めは刺激となるかもしれませんが,なされなければならないのは,確かに「敬虔な専心[の行為]」です。―ペテロ第二 3:11。

 8 敬虔な専心を培うため,聖書研究に加えて何が必要ですか。

8 個人また会衆で行なう聖書研究によって人は「信仰の言葉で養われ」るようになり,敬虔な専心を培うことができます。(テモテ第一 4:6)しかし,単に全体を読み通す以上のことが求められます。このように自問してください。このことはエホバについて何を物語っているだろうか。このことは自分の生活や他の人に関する自分の見方にどんな影響を与えるだろうか。わたしは自分の学んだことを適用するだろうか。いつ,どのように?このような黙想は敬虔な専心を目指す訓練の一部です。

 9 敬虔な専心を目指して絶えず自分を訓練する必要のあることを,どんな経験が示していますか。

9 運動選手は訓練を続ける一方で,絶えず改善方法を分析します。クリスチャンの競走の走者として,わたしたちは自分の霊的な進歩を当然のものと考えないように注意しなければなりません。子供のころからエホバの証人の集会に出席し,野外宣教にも定期的に参加していた一人の女性は,決まりきったクリスチャンとしての活動を繰り返す以上のことが必要であることに気付きました。この女性は後に,性の不道徳に関係するようになったからです。立ち直った後にこの女性はこう言いました。「私は自分が霊的な人であると考えていましたが,自分は型通りのことを行なっていただけだということに気付きました。霊的に堕落してしまった後で,私は以前よりも個人研究を多く行なうようになり,それを自分に適用しました。エホバに助けを願い求めました。その結果,霊的に成長するようになり,初めてエホバとの個人的な関係を培えるようになりました」。

10 エホバに一層近付くために,感謝の念に満ちた見方はどのように助けになりますか。

10 同時に,感謝の念に満ちた見方が必要です。例えば,おいしい果物を一切れ食べる時には,『こんなにすばらしいものを与えてくださるとは,何とすばらしいお父さんなのだろう!』と考えるのです。あるいは華やかな日没を眺めながら,『わたしたちの父は何とすばらしい芸術家なのだろう!』と声を上げるのです。日常の事柄において,エホバの配慮を示す証拠に注目することを習慣にしてください。このようにしてあなたは神に一層近付くのです。―テサロニケ第一 5:18。ヤコブ 4:8。

『身を伸ばしなさい』― まだ完全ではない

11 何年も真理のうちにいるからといって,クリスチャンは気を緩めることができますか。

11 西暦1世紀のフィリピ会衆には,しばらくのあいだ真理の道を歩んできたため,自分たちはまずまずの霊性のレベルに達したと考え,気を緩めはじめていた人がいたようです。パウロは自分自身の例に注意を促してこう言いました。「わたし[使徒,またクリスチャンとして25年以上過ごしてきた者]がすでにそれ[天的な賞]を受けたとか,自分がすでに完全にされているとかいうのではありません。わたしはただ……[それを]追い求めているのです。兄弟たち,わたしはまだ,自分がそれをとらえたとは考えていません」― フィリピ 3:12,13。

12 クリスチャンは,なぜ新しい人格を身に着けるための努力を続けるべきですか。

12 クリスチャンの生活は絶えず進歩してゆくものです。新しい人格を身に着けるには絶えざる「進歩」が必要です。資格を失わせるような弱点に対しては,断固抵抗しなければなりません。(テモテ第一 4:15。コリント第一 9:27)一人のエホバの証人は,自分は高慢になり易く,何かというと他の人のことでいらいらする,と告白しました。この婦人は助言を受けた後,このことが永遠の命を得損なわせるものであることを悟りました。この婦人は次のように語っています。「私はそれから他の人のことを建設的に考えるよう努力しました。しばらく自分にむち打ってそのようにしたところ,事態はよくなってゆきました。腹が立ちそうな時にはいつもこう祈ります。『エホバ,私はそのようにしたいとは思いません。あなたは,私がこのようなつらい目に遭っていることをご存じですから,どうぞ助けてください』。すると神は確かに助けてくださいました」。この婦人は,自分特有の弱点を克服することと,神の霊の実をふんだんに示すことを自分の目標にしました。そして祝福を受け,宣教者として奉仕する資格を得るまでになりました。あなたもこの種の目標を追い求める必要がありますか。―ガラテア 5:22-26。

13 ある家族はどんな目標に到達しましたか。彼らを動かしたものは何でしたか。

13 自分が「すでに完全にされている」わけではなく,とこしえの命という賞をまだ得ていないことを認識するクリスチャンは,奉仕の務めに対する自分の態度にいつも注意を払います。アメリカ合衆国の一夫婦は自分たちの状況を吟味しました。その時(1958年当時),妻は学校の主任教師であり,夫は販売業の幹部職員として1時間に付き40㌦以上の収入を得ていました。「それから私たちは,私たちを含め,人々に真理を伝えるそのために富を断念し,無償で奉仕している,エホバの証人の世界本部の幾人かの人々のことを考えるようになりました」と,妻は語っています。その模範に心を動かされ,この夫婦は自分たちの家を売って,二人の子供と共に,王国伝道者の必要が大きな所に移転しました。二人とも,家族を養うための,召使いがするような仕事を行なうことで満足しました。各々が,関心ある人々との週ごとの聖書研究を平均15件司会するようになり,今ではその生活全体が他の人の援助を中心とするようになりました。夫はこう述べました。「私たちはお金では決して買うことのできない深い喜びを刈り取りました。そして特に,子供たちがエホバに対する同じような愛をはぐくみながら成長してゆくのを見るのは,うれしいことでした」。―フィリピ 4:12,13。

14 多くの人々が得ようと努めた個人的な目標にはどんなものがありますか。

14 もちろん,すべての家族がこのように移転できるわけではありません。しかしますます多くの人々が,場合によっては補助開拓者や正規開拓者になるなどして,宣べ伝える業に一層十分にあずかれるよう調整を加えています。1981奉仕年度には,毎月平均15万1,180人の人が開拓者の業にあずかりましたが,それは新最高数で,前年度の約10%の増加になります。ベテル奉仕や宣教者の奉仕を目標にした人も少なくありません。メキシコとドイツ連邦共和国で最近開かれたギレアデ分校により,以前にも増して多くの人々が,自分の個人的な生活の中で,新しく,より大きな目標に到達することができるようになりました。さらにほかの人々は,子供たちがエホバへの深い愛を培えるよう熱心に働きました。献身した男子は,必要とされる霊的な資格を培うことにより,奉仕の僕,長老,あるいは旅行する監督の業を追い求めました。―テモテ第一 3:1-13。

15 クリスチャンの妻は,命という目標を第1のものとするよう,どのように夫を助けることができますか。

15 クリスチャンの妻たちはその「賞」を終始第1のものとすることによって援助を与えます。13節に出てきたエホバの証人はこう語りました。「妻が言ったことで,どうしても忘れられない言葉があります。私たちの移転の折に仕事の後を継ぐよう私が訓練した人々のうち,3人が大富豪になったということを私がどこかで読んだ時のことです。妻はこう言いました。『今ここにあるお金も明日はなくなってしまうわ。霊的な面で人々を助けるという私たちの業には永続的な価値があるのよ』。二度と再び大金をもうけるようなことに手を出してはいけない,と妻はいつも励ましてくれました。妻の助けがあったので,子供たちが成長した後,私たちは巡回の業に入りました」。そうです,霊的な面で夫を支える女性は,夫たちが「エホバから善意」を得るよう助けることができるのです。―箴言 18:22。

状況は異なる

16 (イ)使徒パウロがフィリピ会衆に対して,「あなた方は……機会がなかった」と述べた時,パウロは何を言おうとしていたと考えられますか。(ロ)エホバは,ご自分の僕たちの努力に決して満足しないような方ではないと,どうして分かりますか。

16 西暦1世紀のフィリピ会衆は,パウロに対してことのほか寛大でしたが,物質的に何も与えることなく過ぎた一時期がありました。なぜでしょうか。「あなた方は……機会がなかった」と,パウロは書いています。(フィリピ 4:10)事態がひっ迫していたこと,状況が変わったこと,パウロの居場所が分からなかったことなどが原因となって,心の願いを果たせなかったのかもしれません。わたしたちの行なえることも,状況によってやはり左右されるでしょう。エホバはこのことをご存じです。例えば,モーセの律法下でエホバは,たとえわずか8杯の麦粉であったとしても,人がささげることのできた罪科の捧げ物を受け入れられました。(レビ記 5:5-11)神が求めておられたのは,その犠牲を最良のものとするように,ということだけでした。―出エジプト記 23:19。ヘブライ 13:15,16。

17 最終的な目標であるとこしえの命という賞を目指して進む走路にある里程標とは,どのようなものですか。

17 では,わたしたちは本当にエホバに最良のものを与えているでしょうか。毎日,自分の前に,とこしえの命という壮大な報いを置いているでしょうか。(ヘブライ 12:1,2と比較してください。)とこしえの命に到達すべく努力するための霊的な目標があるなら,そうするための大きな助けが得られます。それらは走路の里程標となります。これまで見てきたように,それらの里程標の一つはバプテスマです。あなたはこの地点に到達していますか。クリスチャンとしての円熟 ― どんな新しい考えでも,それを疑ったり,疑問視したり,それに異議を唱えたりすることなく,キリスト教の真理の全領域を誠実に受け入れることについてはどうですか。また,聖書の原則という基準にのっとって日々の決定を下すことを学んでいますか。そうであれば,あなたは別の里程標を過ぎたことになります。あなたの人格の中に霊の実は深く浸透していますか。わたしたちの模範者イエス・キリストの場合と同じ程,野外宣教は重要なものとなっていますか。物事を行なう理由についてはいかがですか。敬虔な専心に動かされていますか。クリスチャン会衆内の長老であったにもかかわらず,テモテはこのことを目指して自分自身を訓練する必要があるという助言を受けました。わたしたちはこれらの目標の幾つかをすでに達成し,絶えずとこしえの命という壮大な賞を思い見て他の目標に到達しようとしていますか。わたしたちは本当に「身を伸ばして」いますか。

18 敬虔な専心を培うことから,今わたしたちはどんな報いを得ますか。

18 このような努力を払った結果得られる報いは数多くあります。パウロが敬虔な専心について述べているように,「それは,今の命……の約束を保つのです」。(テモテ第一 4:8)パウロは,様々な困難にもかかわらず,わたしたちが今抱くことができる満足について見事に要約しています。「わたしたちは悲しみを知っていますが,それでもわたしたちの喜びは抑えきれないものです……わたしたちは真の富で多くの人々を祝福します。わたしたちはひどく貧しい者ですが,それでいて実際には持つに値するものすべてを持っているのです」― コリント第二 6:10。フィリップス訳。

19 わたしたちすべてが,とこしえの命を追い求めて走る方法に注意を払うべきなのはなぜですか。

19 そのようにする時,わたしたちはやがて最終的な目標,「来たるべき命」をとらえることになります。パウロは自分の天的な報いを期待し,このように言うことができました。「今の時期のいろいろな苦しみは,わたしたちのうちに表わし示されようとしている栄光に比べれば,取るに足りないものとわたしは考えます」。(ローマ 8:18)そうです,この競走で払う努力のすべては,天的,地的の別を問わず,報いとして与えられる賞であるとこしえの命の祝福に比べれば取るに足りないものです。ですから霊的な目標に絶えず目を留めてください。勝利を得るために走りましょう。命そのものがかかっているようにして走りましょう。確かにそれには命がかかっているからです。―詩編 37:3,4,11,29。

[脚注]

a 古代ギリシャの詩人ピンダロスが,自著「イストミア祝勝歌」第1巻,40-50で述べている言葉。

b 「敬虔な専心」という語に相当するギリシャ語エウセベイアは,外面的な宗教活動をこれ見よがしに行なうだけの「偽りの」崇拝者たちとは対照的な,純粋に宗教的な人を表わす語として,当時の哲学者ピロンによって用いられています。

□ クリスチャンが努力して目指すべき肝要な目標は何ですか。それに到達することについて,どんな「精神態度」を持つべきですか

□ 敬虔な専心を目指して,わたしたちはどのように自分を訓練しますか

□ とこしえの命という最終的な目標を目指して努力する際の予備的な目標には,どんなものがありますか

□ エホバは,わたしたちが神への神聖な奉仕において払う努力に決して満足しないような方ですか

[8ページの図版]

クリスチャンの走路には,永遠の命という最終的な目標を目指して努力する際の幾つかの予備的な目標がある

敬虔な専心

円熟

バプテスマ

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