「真の命」に感謝を表わすウガンダ人
ウガンダの首都カンパラに朝日が昇る時の景色は多くの場合非常に美しくて印象的です。首都の近くには七つの丘がありますが,どの丘に登っても,さわやかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込むことができます。みずみずしい緑のじゅうたんの上に様々な樹木が影を落とし,ハイビスカス,ポインシアナ,ブーゲンビリアなど色とりどりの花が緑を引き立てています。タイヨウチョウ,サイチョウ,モズなどの鳥が枝のあいだを飛び回り,よく響くトキの鳴き声が高い所から聞こえてきます。生きるということは何とすばらしいのでしょう!
この美しい国でそうした光景を見ていると,生きていることに対する感謝や,命の授与者が地上の楽園で永遠に生きるというすばらしい機会を与えてくださることに対して感謝の念を抱かないわけにはいきません。
しかし多くの人はなかなかそうしたことについては考えません。そういう人たちにとってウガンダは「アフリカの真珠」などではありません。ウガンダといえば問題のあったことを思い出すのです。ウガンダに住む人々の中にさえ,犯罪に対する恐れやインフレの心配にすっかり気を取られてほかのことはあまり考えない人たちも少なくありません。10年もたたないうちにパンの値段が1シル20ペンスから200シリングに急騰しました。ほとんどの家族が親族や友人を非業の死で失っているために,一般の人々は「近ごろは命の価値が下がった」と考えるようになりました。しかし命の源であるエホバ神は,文字に書かれた神の言葉が明らかにしている通り,命を高く評価しておられます。ウガンダの人口1,500万のうち約半数は,聖書を神の言葉として受け入れていると言います。ですから,苦しみの根本原因に関する聖書の説明や,楽園の地で幸福な人間に「真の命」を味わわせるという神の約束に注意を引くと,反応を示す人が少なくありません。―テモテ第一 6:19。
40年にわたる初期の努力
神の王国と「真の命」に関する良いたよりが初めてウガンダに伝えられたのは1931年のことでした。全時間開拓伝道者のエホバの証人たちが南アフリカから海路モンバサに着き,今日のケニアを通って肥沃な国ウガンダにやってきました。ウガンダは一年中平均して降雨のある常夏の国,綿花,コーヒー,料理用バナナ,キャッサバその他の作物の豊かな国でした。そして30以上の部族が入り混じって住んでおり,それらの部族の中には過去のさまざまな王国を含む歴史をたいへん誇りにしている部族もあることをその訪問者たちは知りました。多くの人が第二の言語として英語も知っていたので,神の王国に深い関心を示す人の多いことがすぐに分かりました。1935年にも同じような旅行が行なわれましたが,開拓者たちはこの国にとどまらずに先へ進まなければなりませんでした。こうしてウガンダでは宣べ伝える業がたいして行なわれないまま歳月が過ぎてゆきました。
1952年ごろには,カンパラに4人の伝道者から成る小さな会衆がありました。それから3年後に,当時のものみの塔協会会長N・H・ノアと,今もエホバの証人の統治体の一員であるM・G・ヘンシェルがカンパラを訪問し,ビクトリア湖でウガンダ初のバプテスマが行なわれました。後ほど何人かの伝道者が移転し,ほかにも業を後退させるようなことがありました。そのために1958年には,命を与える良いたよりの伝道者は一人しか残っていませんでした。
1962年になってウガンダは独立しました。その間に,外国のエホバの証人のグループが,おもに英国とカナダからウガンダに移って来ました。エホバ神の目的を知らせる必要のより大きい所での業を援助するためでした。やがてものみの塔ギレアデ聖書学校卒業生の第一陣が到着し,他の町々にも王国の音信が伝えられました。伝道者の数は着実に増加を続け,1971年には110人になりました。
動乱と試練の時
その後劇的な政変が幾度か生じ,そのことは全世界に知れ渡りました。外国人ばかりかウガンダ人も,政情が不安定なので恐れを感じ国外に去りました。エホバの証人の宣教者たちも1973年に国外に退去しなければなりませんでした。禁令によって信教の自由は制限されました。恐怖状態は一向になくならず,日常の必需品は店頭から消えました。裁判を受けることもなく消えてしまった人々も少なくありません。人々は毎日,死の影の下で暮らしました。1979年にはついに戦争が勃発し,その結果として政権が交替しました。
そうした事柄が起きていたあいだ絶望的になっていたウガンダ人もいましたが,以前にも増して慰めを求めていた人たちもいました。エホバの証人は,これはすべて一時的な状態であること,また神はそのような難しい時に実際的な導きを与えてくださるばかりでなく,人間の問題をすべて解決する方法を教えてくださることを知っていました。集会で親しく交わり,霊的な食物を定期的にとることによって,エホバの証人は明るい態度を保ちました。それを見ていた人々は,エホバの証人にはほかの宗教にない何か特別なものがあることを知りました。その動乱の時代については興味深い話がたくさんあります。
家族を持つある男の人はエホバの保護をたびたび経験しました。その人はある部族に属していましたが,その部族のメンバーは非難の的にされ,捜し出されては殺されていました。ある時,その人の家も1時間ほど手榴弾や銃弾の攻撃を浴びました。その間彼は妻と子供たちに,エホバがヨシュアに言われた,「勇気を出し,強くありなさい」という言葉を忘れないようにと話し,一緒に祈っていました。(ヨシュア 1:6)すると驚いたことに,家の中には一個の銃弾も入らず,手榴弾は外の壁にあたって跳ね返り遠くのほうで炸裂しました。それで兄弟は外に出て行って襲撃者たちと論じ合いました。近所の人の中にもその兄弟を弁護してくれる人がいました。家宅捜査をしていた時に襲撃者たちは聖書研究の手引き書を見つけ,その人を宗教的な人とみなして何もせずに立ち去りました。その後二日間その人は再び非難され,さらに二度死に直面しましたが,エホバに助けられて生き残りました。
真のキリスト教を支持する立場を取っていたある元高官は数回逮捕されました。その人の息子のうち二人は姿を消し,二度と現われませんでした。それでも命の授与者に対するその人の信頼は揺るがず,前途にある復活と「真の命」のすばらしい希望は薄れませんでした。仲間の受刑者に熱心に宣べ伝え,幾つかの聖書研究を始めました。一人の元兵士はとりわけ深い認識を示し,急速に進歩しました。数か月たつとその人は刑務所の中で宣べ伝える業に参加するようになりました。それでその証人が釈放された時には六つの聖書研究がその元兵士の手にゆだねられました。それから何年かたち,エホバの証人が全時間奉仕者たちのために設けた開拓奉仕学校のあるクラスで顔を合わせた時,その元高官と元兵士はたいへん驚き,また喜びました。そうです,その元兵士も開拓者になっていたのです! それでその人に真理を教えた兄弟は,「実の息子たちは失いましたが,これで霊的な息子ができました」と言うことができました。
エホバの証人になってから13年になる,7人の子供を持つある母親は,何度も忍耐を試みられました。まず夫が彼女の新しい信仰に反対しました。そのうちに動乱が生じ,夫は妻と子供を全部あとに残したまま2年間ケニアに逃げていましたが,帰国した時に逮捕されました。しかも夫が投獄されている間に泥棒が家に入り,家族の持ち物をほとんど全部盗んで行ってしまいました。その姉妹は真理の中にあって活発に活動を続け,世との交わりを避けたので,慰めを見いだし忍耐をすることができました。妻の確固とした,喜びを失わない態度に夫は感銘し,釈放された時には聖書に関心を示したのですが,早死にしてしまいました。しかし会衆はこの忠実な婦人を励まし,仲間のある証人は,その人が子供たちを養えるように,ある小さな商売を始めるのを手伝いました。その婦人は,自分の子供たちや他の人々に,何の問題もない地上で永遠に生きるというすばらしい希望を教えており,六つの聖書研究を司会しています。
ウガンダでは年配の人々は一般に尊敬されます。60歳をかなり超えているアンナは,開拓伝道者になることによって自分の機会を活用しました。その動乱の最中に,近所の人と一緒になって惨めな出来事のことを話すのではなく,むしろ良いたよりについて話すようにしました。それから隣国のケニアで特別に開かれた開拓奉仕者の学校へ出席する喜びを得ました。ケニアにいる間にアンナは親戚の人から手紙を受け取りましたが,それにはウガンダでの生活は危険この上なく,また非常に難しいので戻らないようにと書かれていました。ケニアに住む一人の親戚がアンナに同居を勧め,彼女の世話をすることを申し出ましたが,アンナは自分が慰めの音信とよりよい命の希望を持っていること,そしてウガンダの人々がそれを必要としていることをみんなに話しました。そしてウガンダに戻りました。
大会に対する感謝
1979年の戦争のあと政府が変わってから信教の自由が回復され,エホバの証人はみな非常に喜びました。そしてまた大会を開くことができるようになりました。聖書文書に対する莫大な需要は,多くの人がよりよい命の良いたよりを切望していることを物語っていました。地域大会の取り決めも設けられ,1983年の12月には初めて聖書劇が行なわれました。それは家族生活を扱った劇だったので,聴衆は深い感銘を受けました。次の日には,ウガンダの活発な証人全体の2倍に当たる572人が,カンパラのルゴゴ・スタジアムにあるスポーツホールに集まり,本当に命を高く評価する人々と共に王国の一致を楽しみました。
犠牲を払って大会に出席した人たちも少なくありませんでした。夫婦で出席すれば学校の教師の1か月分の給料よりも高い汽車賃を払わなければならない場合もありました。幾つかの家族の場合は,大会に出席するための旅費は4か月分の給料に相当しました! 大会に出席した多くの人々は,霊的な事柄に対してそのような認識を示しました。
宣教者の経験
1982年の終わりごろに,4人の外国人宣教者がカンパラで奉仕を始めることができました。何年もの中断期間があった後ですから,その宣教者たちは新しい世代の宣教者のようでした。それらの宣教者の一人が最初に良いたよりを伝えた相手は,その希望の音信を待ち構えていたに違いないような青年でした。すぐに聖書研究が始まり,研究は週に2回行なわれました。その青年が別のエホバの証人と一緒に初めて野外奉仕に出た日に,武装した犯罪者たちに銃を突きつけられました。その青年は経験がなかったにもかかわらずエホバに依り頼んで彼らに伝道を始めました。強盗たちは二人を殺すかどうか言い合い,数分緊張が続きました。それから銃を持った男たちの一人が仲間たちに,二人を行かせてやろう,と言いました。そういうぞっとするような事を経験したあと,その青年はどうしたでしょうか。パートナーと少しもちゅうちょすることなく次の家へ向かい,伝道を続けました。この青年は今はバプテスマを受けており,開拓宣教という宝に目を向けています。
宣教者の一人は,モザンビークで働いていたことのある一人の男の人に会いました。その人はすぐに,モザンビークにあった,エホバの証人の清潔でよく整った難民キャンプを見たことがあるので,エホバの証人を高く評価していると言いました。a ある日のことその人は,キャンプに到着したエホバの証人の貧しい一家族を別の色々な部族の霊的兄弟たちが温かく迎え入れ,すぐに家や畑や家財道具や衣服など必要な物を与えたのを見て特に強く心を打たれました。今ではその人自身が,聖書研究をし,エホバの証人と共にクリスチャンの集会に定期的に出席して,その同じ愛と兄弟関係を味わっています。
このような経験を考えると,宣教者たちやウガンダの兄弟姉妹が共に喜ぶ理由を容易に理解することができます。彼らは食糧不足,水不足,電力の不足などをしばしば経験し,銃声や爆発音などをよく耳にしますが,それでも徐々に進歩が見られていることを感謝しています。また,人々が「真の命」の価値を悟るのを助けることに満足しています。ここウガンダに住む250名の神の王国宣明者たちは毎月平均14時間以上を伝道活動に費やしています。関心を持つ人は非常に多く,全時間の伝道活動を始める人も少なくありません。現在のところ,地上の楽園を思わせるような場所のある,地球上でも美しい部分であるこの国で,500以上の聖書研究が司会されています。多くのウガンダ人は,愛に富む命の授与者エホバが非常に近い将来意図しておられる,とこしえに続く「真の命」に目を向けることを学びつつあるのです。
[脚注]
a 当局者はモザンビークとマラウィのエホバの証人たちをキャンプに収容しました。
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集会で親しく交わり,霊的な食物を定期的にとることによって,エホバの証人は明るい態度を保った
[27ページの地図/図版]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ウガンダ
カンパラ
ザイール
スーダン
ケニア
ビクトリア湖
[29ページの図版]
ウガンダ南西部の丘
[30ページの図版]
新たにバプテスマを受けたエホバの証人の一グループ