中世のスペインで神の言葉を広める
「スペインに赴く際には……あなた方に一目会い,共に過ごしてまず幾分かでも満足を得,その後,途中まであなた方に付き添ってもらってそこに行こうと希望しています」。―ローマ 15:23,24。
これは,西暦56年頃,使徒パウロが,ローマにいる仲間のクリスチャンたちに宛てて書いた言葉です。パウロが実際にスペインまで旅をしたかどうか,聖書は述べていません。いずれにせよ,パウロや他のクリスチャン宣教者たちの努力によって,西暦2世紀までには,神の言葉 聖書からの良い知らせがスペインに伝わったことは,確かです。
間もなく,スペインにクリスチャン共同体が発展して盛んに活動するようになりました。それに伴って,スペインの人々は,聖書をラテン語に翻訳してもらう必要を感じました。それは,スペインが2世紀までローマの支配下にあり,広大なローマ帝国全域でラテン語が共通語になっていたからです。
ラテン語聖書が必要を満たす
スペインにいた初期のクリスチャンは幾つかのラテン語訳を作りました。それらはすべてウェトゥス・ラティナ・ヒスパナという呼び名で知られました。それらラテン語聖書は,西暦5世紀にヒエロニムスが有名なラテン語ウルガタ訳を完成するまで,多年にわたりスペインで流布されました。
ヒエロニムスがその訳を完成させた場所はパレスチナのベツレヘムでしたが,それは記録的な速さでスペインに伝わりました。裕福な聖書研究者だったルシニウスが,ラテン語訳をヒエロニムスが準備していると知り,できるだけ早くその新しい訳を1部手にしたいと思い,写字生を6人ベツレヘムへ遣わして訳文の写しを作らせ,スペインに持ち帰らせたのです。続く数世紀のうちに,ウルガタ訳は次第に,ウェトゥス・ラティナ・ヒスパナに取って代わりました。そうしたラテン語訳があったので,スペインの人々は聖書を読んでそのメッセージを理解することができました。しかし,ローマ帝国が終わりを迎えると,別の言語への翻訳が必要になってきました。
石板に記された聖書
5世紀には,西ゴート族や他のゲルマン諸族がスペインに侵入した結果,イベリア半島で新たな言語,ゴート語が話されるようになりました。それら侵入者たちは,アリウス主義として知られる宗派のキリスト教を信奉し,三位一体を退けていました。また,聖書の独自の翻訳,すなわちウルフィラスのゴート語訳聖書を携えて来ました。この聖書は,西ゴート族の王レカーレドがカトリック教徒となってアリウス主義を捨てる6世紀末まで,スペインで読まれていました。レカーレドは,ウルフィラス聖書も含めアリウス派の本をすべて集めさせて葬り去りました。その結果,ゴート語の書物はみなスペインから姿を消しました。
とはいえ,神の言葉は,この期間中も引き続き広まりました。スペインでは,多くの人がゴート語のほかにラテン語の一方言を話していました。その方言が後に,イベリア半島で話される幾つかのロマンス語となったのです。a ラテン語のその方言で書かれた最古の文書は,西ゴート語石板という呼び名で知られています。石の板に書かれていたからです。それらは6世紀ないし7世紀のもので,その一部には「詩編」と福音書から抜き書きした聖句が含まれています。ある石板には詩編 16編全体が記されています。
粗末な石板に記された聖句が存在することは,当時,ごく普通の人々が神の言葉を読んで書き写していたことを示すものです。読み書きを学ぶ学童たちの練習のために,教師が聖句を用いていたものと思われます。石板は書写材料として,中世の修道院で挿絵入りの聖書を作るために用いられた高価な羊皮紙と比べれば,安価でした。
スペインのレオン市にあるサン・イシドロ教会には,値踏みできないほど高価な,挿絵入り聖書が1冊収蔵されています。西暦960年のもので,1,028ページから成り,おおよそ縦47㌢,横34㌢で,重さが18㌔あります。中世における非常にきらびやかに彩飾されたもう一つの聖書は,現在バチカン図書館にある,リポルの聖書で,西暦1020年のものです。そのような芸術品を生み出すために,1人の修道士が,頭文字1つを創作するのに丸1日,また表題紙を準備するに丸1週間費やしたかもしれません。しかし,それらの聖書は,貴重であったとはいえ,人々の間に神の言葉のメッセージを広める点では,ほとんど役に立ちませんでした。
アラビア語の聖書
8世紀になる頃には,イスラム教徒がイベリア半島に侵入した結果,スペインにまた別の言語が根づき始めていました。イスラム教徒の入植地では,ラテン語よりアラビア語のほうが優勢になり,この新しい言語の聖書が必要になりました。
スペインの人々は,西暦5世紀から8世紀まではラテン語とアラビア語の聖書があったので,神の言葉を読むことができた
中世のスペインには,聖書の ― 特に福音書の ― アラビア語訳が数多く流布していたに違いありません。8世紀には,セビリアの司教フアンが聖書全巻をアラビア語に翻訳したようです。残念なことに,それらアラビア語訳はほとんど残っていません。福音書の10世紀半ばのアラビア語訳の一つが,スペイン,レオンの大聖堂に保管されています。
スペイン語訳が現われる
中世の後期になって,カスティリャ語つまりスペイン語がイベリア半島の人々の間で使われ始め,この新しい言語が神の言葉を広めるための重要な手段となりました。b 聖句がスペイン語に翻訳された最初期の例は,13世紀の初期の「海を越えて来た証書」という本に登場しました。この本には,イスラエルへの旅行に関する記述が載せられており,五書<ペンタチューク>その他のヘブライ語聖書からの引用や,福音書と書簡の言葉が含まれています。
教会当局はこの訳を喜びませんでした。1234年,タラゴナ教会会議は,現地語の聖書中のどの書もすべて地元の聖職者に引き渡されて焼却されなければならない,と布告しました。それでも,幸い,聖書翻訳が途絶えることはありませんでした。スペイン語の散文の創始者とみなされている,王アルフォンソ10世(1252年-1284年)は,聖書の新たな言語への翻訳を望み,翻訳を支援しました。その時期以降のスペイン語訳には,いわゆるアルフォンソ以前の聖書と,そのすぐ後に現われたアルフォンソ聖書が含まれています。アルフォンソ聖書は当時のスペイン語への訳としては最大のものでした。
それらの聖書はいずれも,まだ新しかったスペイン語の確立と充実に寄与しました。学者のトマス・モンゴメリーは,アルフォンソ以前の聖書に関して,こう述べています。「この聖書の訳者は,正確さの点でも言葉の優雅さの面でも,称賛に値する翻訳を行なった。……その言葉遣いは簡明,明快で,ラテン語に通じていない人々のための聖書として必要にこたえるものとなっている」。
しかし,それら初期スペイン語聖書は,原語からではなくラテン語ウルガタ訳からの翻訳でした。14世紀になってから,ユダヤ人の学者たちがヘブライ語聖書を直接ヘブライ語からスペイン語に翻訳した聖書を幾つか作りました。当時,スペインにはヨーロッパ最大のユダヤ人社会があり,ユダヤ人の翻訳者たちは翻訳作業のために,良いヘブライ語写本を幾つも参照することができたのです。c
その一例として際立っているのは,15世紀に完成したアルバ聖書です。スペインの著名な貴族ルイス・デ・グスマンがユダヤ教学者モイセス・アラヘルに委託して,聖書をきっすいのスペイン語に翻訳させたのです。グスマンは,この新しい翻訳を要請するに当たって,理由を2つ挙げ,第1に「今日のロマンス語聖書には間違いが多い」,第2に「我々のような凡人には,意味の分かりにくい文を理解するのに,ぜひとも欄外注が必要だ」と述べました。その要請から,当時の人々が聖書を読んで理解することに鋭い関心を抱いていたことや,スペインではすでに現地語の聖書がかなり流布していたことが分かります。
中世の翻訳者や写字生たちのおかげで,スペインの教養ある人たちは,自分の言語の聖書をわりと支障なく読むことができました。その結果に関して歴史家のフアン・オルツ・ゴンザレスは,「スペインの人々は聖書を,ルターの時代以前からドイツや英国の人々よりはるかによく知っていた」と述べています。
「スペインの人々は聖書を,ルターの時代以前からドイツや英国の人々よりはるかによく知っていた」。―歴史家フアン・オルツ・ゴンザレス
ところが,15世紀の終わり頃には,スペインの異端審問所が,いかなる現地語の聖書の翻訳も所有も禁じました。聖書に関してスペインは長い夜の闇に包まれ,禁令が最終的に解除されるまでに3世紀が経過します。その困難な時代にも,少数ながら勇敢な翻訳者たちが,新しいスペイン語訳を作って,ひそかにスペインに持ち込みました。d
中世のスペインにおける,こうした聖書の歴史から明らかなように,反対者たちは,様々な方法で全能の神の言葉を封じようとしてきました。それでも,そうすることはできませんでした。―詩編 83:1; 94:20。
聖書は,多くの学者の精力的な努力によって,中世のスペインに根づいて広まりました。現代の翻訳者たちも,聖書をラテン語,ゴート語,アラビア語,スペイン語に翻訳したそれら開拓者たちの足跡に従ってきました。その結果,今日,スペイン語を話す幾百万という人々が,神の言葉を自分の心に響く言語で読めるようになっているのです。
a これらには,カスティリャ語,カタロニア語,ガリシア語,ポルトガル語が含まれます。
b 今日,スペイン語を母語とする人の数は,約5億4,000万人に上ります。
c 本誌2011年12月1日号の「神の名 ― アルフォンソ・デ・サモラは本文の正確さを追求した」という記事をご覧ください。
d 本誌1996年6月1日号の「スペイン語訳聖書のためのカッシオドーロ・デ・ライナの闘い」という記事をご覧ください。