1955年,ギレアデ学校に招かれました。わたしたちは仕事を辞め,家や持ち物を売り,アルバを離れました。1956年7月29日にギレアデ学校第27期を卒業し,ナイジェリアに割り当てられました。
オリスはこう述べています。「宣教者奉仕では順調な時もそうでない時もあります。奉仕を続けられるのはエホバの聖霊の助けがあるからです。わたしは主人とは違い,宣教者になりたいと思ったことがなく,家庭に入って子育てをしたいと思っていました。しかし,良い知らせを伝えることが急務であることを知り,考えが変わりました。ギレアデ学校を卒業するころには,宣教者としてやる気満々でした。ところが,定期船のクイーン・メアリー号に乗り込む時のことです。ノア兄弟の事務所で働いていたワース・ソーントン兄弟が見送りに来てくれて,『お二人はこれからベテルで奉仕することになります』と言ったのです。わたしは驚き,ため息をついてしまいました。それでも,すぐに気持ちを切り替えました。そして,ベテルが大好きになりました。いろいろな仕事を割り当てられましたが,いちばん楽しかったのは受付での奉仕です。人に会うのが好きだったわたしにとって,ナイジェリアの兄弟姉妹と直接知り合える素晴らしい機会でした。多くの兄弟姉妹は,ベテルに到着する時にはほこりまみれで,疲れてのどが渇き,おなかをすかせていました。そんな皆さんに軽食を出してもてなせるのは,うれしいことでした。そうした仕事はすべて神聖な奉仕なので,喜びや満足感を味わえました」。わたしたちは割り当てられるどんな仕事も行なって,充実した毎日を過ごしました。
1961年にトリニダードで家族が集まった時,ブラウン兄弟がアフリカでのわくわくするような経験を話してくださいました。わたしも,ナイジェリアで伝道者が増えていることを話しました。ブラウン兄弟は優しくわたしの肩を引き寄せながら,父にこう言いました。「兄弟はアフリカに来ませんでしたが,息子さんが来てくれましたね」。すると父はわたしに,「これからも頑張るんだよ」と言ってくれました。エホバに長く奉仕してきた人たちからのこのような励ましのおかげで,奉仕の務めを十分に果たそうという意欲が強まりました。
1962年には再びギレアデ学校に招かれ,第37期のクラスで10か月の訓練を受けました。当時ナイジェリア支部の監督だったウィルフレッド・グーチ兄弟は第38期のクラスに招かれ,英国に割り当てられました。それに伴い,わたしがナイジェリア支部の監督になりました。わたしはブラウン兄弟の手本に倣ってナイジェリア各地に出かけ,兄弟姉妹と知り合い,彼らを愛するようになりました。多くの兄弟姉妹は,先進国でごく普通の物も持っていませんが,喜びにあふれ,満足していました。お金や物がなくても充実した生活を送れるのです。貧しい中,清潔できちんとした服装で集会に出席している姿を見ると,心を打たれました。兄弟姉妹は,トラックの荷台やボレカジャ(両側がオープンになった地元のバス)に乗って大会に行きました。このようなバスにはよく,面白い標語が書かれていました。「水滴も集まれば海になる」という言葉もありました。
この言葉の通り,一人一人の努力が大切です。わたしたち夫婦もできる限り努力しました。1974年,ナイジェリアは米国以外で伝道者数が10万人を超えた最初の国になりました。みんなの努力が実を結んだのです。
このような増加のさなか,1967年から1970年にかけてナイジェリア内戦が生じました。ニジェール川東部のビアフラ側に住む兄弟たちは,長期にわたって支部事務所との連絡を断たれてしまいました。そのため,兄弟たちに出版物を届けることがどうしても必要になりました。冒頭で述べたように,エホバに祈りつつ,ニジェール川を何度も渡りました。
その危険な旅のことは,今でもよく覚えています。血の気の多い兵士に撃たれたり病気にかかったりする危険がありました。連邦政府軍の疑り深い兵士たちの検問を通過するのは大変で,封鎖されたビアフラ側に入るのはもっと大変でした。ある時などは,夜間に乗り合いのカヌーで,流れの速いニジェール川をアサバからオニチャに渡り,エヌグまで行って会衆の監督たちを励ましました。アーバに行った時は,夜に明かりを使うことが禁じられていたので,真っ暗な中で長老たちとの会合を開きました。ポート・ハーコートでは,連邦政府軍がビアフラ軍の防衛線を突破して町に入ってきたので,急いで祈って集まりを終えなければなりませんでした。
このような集まりを通して,兄弟たちはエホバが優しく気遣っておられることを確信し,中立を保って一致していることの大切さを思い起こしました。ナイジェリアの兄弟姉妹は,恐ろしい内戦を切り抜け,部族間の憎しみを超越した愛を行動で示し,クリスチャンとしての一致を保ちました。試練の中で兄弟たちに寄り添えたのは,うれしいことでした。
1969年には,ニューヨーク市のヤンキー・スタジアムで開かれた「地に平和」国際大会に出席できました。大会司会者はミルトン・G・ヘンシェル兄弟で,わたしは兄弟の補佐を務めて多くのことを学びました。その経験は,1970年にナイジェリアのラゴスで「善意の人々」国際大会を開催した時に役立ちました。内戦後間もなく開かれたこの大会が成功したのは,エホバの祝福のおかげです。17の言語で話が行なわれ,12万1128人もの人が出席しました。それほど大規模な大会がナイジェリアで開かれたのは初めてです。米国や英国から,ノア兄弟やヘンシェル兄弟をはじめ,大勢の兄弟姉妹がチャーター機で訪れました。みんなが見守る中,西暦33年のペンテコステの時を上回る3775人がバプテスマを受けました。この大会を組織した時ほど忙しく働いたことはありません。伝道者の数は,まさに爆発的に増えていきました。
ナイジェリアで働いた30年以上の間に,旅行する奉仕や西アフリカでの地帯監督としての奉仕を行なったこともあります。その際には,宣教者一人一人の様子を聞いて,励ましました。彼らが決して見過ごされていないことも伝えました。宣教者たちはとても喜んでくれました。個人的に気遣うことで兄弟姉妹は元気になり,エホバの組織の強さや一致も保たれる,ということを学びました。
内戦を経験し,病気にもなりましたが,エホバの助けがあったので乗り越えることができました。いつもエホバが支え,祝福してくださるのを感じました。オリスはこう述べています。
「わたしたちは何度もマラリアにかかりました。ある時,主人は意識を失い,ラゴスの病院に搬送されました。医師から『覚悟してください』と言われましたが,幸い,主人は一命を取り留め,意識を取り戻した後,担当の看護師ヌワンビエさんに神の王国について話しました。退院後,夫婦でその人を訪ね,聖書についてさらに話しました。彼は真理を受け入れ,やがてアーバで長老になりました。わたしも,エホバに仕えるようたくさんの人を助けることができました。その中には熱心なイスラム教徒もいました。ナイジェリアの人々や文化や言語を知り,大好きになれて,とてもうれしいです」。
外国での奉仕を成功させるには,文化がどれほど違っても,現地の兄弟姉妹を愛する必要があります。