集いを楽しく,有益なものにする
客をもてなす人にとって,これはなんという挑戦でしょう。あなたもきっと経験なさったことでしょう。どう対処されましたか。たぶん,飲み物などは大した問題ではなかったことでしょう。しかし客をもてなす,そうです,みんなに楽しんでもらうことはいかがでしたか。集いを楽しく愉快なものにするために,何をなさいましたか。それは客にとって有益な集いでしたか。
客をもてなす取り決めを設ける人は,客が自分のところにいる間その気分転換をはかってあげる責任を負うことになるのを忘れてはなりません。あなたに招待された客は,あなたや他の客たちと気持ち良く交わるために数時間気楽に過ごそうとしてやって来ます。集いのあり方については,あなたの指図を待っています。たいてい,なんらかのプログラムについての案を持っている主人が,招待した友だちを喜ばせ,有益な仕方でもてなすことに成功します。
避けるべき落とし穴
市販のゲームを買えば客をもてなすのに役だつと考える人がいますが,そうとも限らないようです。それに,落とし穴があります。気をつけて選ばないと,友だちの益になるどころか悪い影響を与えてしまうようなゲームをうっかり買って後悔することもあります。
例えば,いろいろな偽装ゲームを宣伝したパンフレットに出ているあるゲームの説明を考慮してみてください。「このゲームの妙味は,一番を競って互いに外交的なかけひきを行なうところにあります。常套手段としては,不信行為・ぺてん・詐欺・うそ,その他人生を生きがいのあるものにするすべての方法が使用されます」。あなたの客はこのようなゲームをして益を受けるでしょうか。
今日売り出されている別のゲームの道具と説明書を見ると,このゲームで遊ぶ人は「かけ帳を作ったり,強要行為に従事したり,高利貸しになったり,物品を強奪したりといった不法行為に,罰せられることを少しも心配せずに携われます」,と書いてあります。そのトランプをする人は,強奪,八百長,強要行為にふけったり,運送中のアルコール飲料を抜き取ったりすることを楽しめます。また,色情をさそるゲームもあります。
もちろん,たかがゲームではないか,ただの遊びに過ぎない,という人がいます。しかし,この種のゲームをよく思わない人もいます。不健全な欲望をかき立てるので強く反対します。あなたはどうお考えになりますか。
今日,たくさんの種類のゲームが手にはいります。その中には,客に楽しみや益を与えるのに役だつものが少なくありませんから,ゲームを選ぶことができます。しかし,友だちをもてなすのにゲームを買わなければならないと感じる必要はありません。少し頭を働かせれば,みんなにとっても楽しく喜んでもらえるゲームを作り出すことができます。ですが市販のゲームの場合と同様,自分で作るゲームにも落とし穴がないとは限りません。競争心を刺激するゲームはある人の興味をそそるかもしれませんが,他の人ほど機転が利かなかったり,覚えのよくない人にはいごこちを悪くさせます。負けたりまちがった答えばかりするゲームを楽しむ人はだれもいません。楽しく感じるどころか,当惑させられたり,いらいらさせられたりするぐらいのものでしょう。賢明な主人はこうしたことが起こらないようにします。招待した客全員に楽しんでもらいたいからです。
しかも競争の関係するゲームになると,熱中しすぎて,単なるゲームだということを忘れてしまう人がいます。真剣になりすぎるのです。この一例として,ある夫婦の経験があります。よしみになったふたりは別の夫婦とブリッジを始めたところ,この新たに友だちになった夫婦があまりにも必死になってゲームをするのですっかり驚いてしまいました。妻の話によるとその時の模様は次のようでした。危く殴り合いになるところでした。一晩じゅう,しんらつなことばのやりとりをしていました」。そして2度目にトランプをしたときには,もっと深刻でした。この夫婦がこれらの集いを楽しまなかったことは言うまでもありません。
ゲームのために友情関係に緊張が生じることがあるのは残念です。美容師だった故ヘレナ・ルビンスタイン女史のある親しい友人の話によると,彼女と作家のサマセット・モームが「あるときブリッジをしていましたが,彼が彼女を神経過敏,彼女が彼を卑劣だといったことから,互いに憎み合うようになりました」。ですから,人をもてなすために何を用いるかについては,平衝の取れた見方と識別力が必要になってきます。
社交的な集いにおいて,人を建て起こす会話が有益であることは言うまでもありません。他の人の経験を聞くと,視野が広まりますし,その人に対する認識が高まり,思いやりの気持ちを抱けるようになります。しかし大勢の客が集っているときには,一晩じゅう会話だけで過ごすことは無理です。たいていグループに分かれてしまって,あれこれといろいろなことを話し合う人もいれば,座ったまま,何かが始まるのを,あるいは帰る時間が来るのを礼儀正しく待つ人もでてきます。しかしみんなが飽きずに参加できるような何かを計画しておくなら,多くの集いであまりにしばしば見られるこの落とし穴を避けることもできます。
聖書の知識をためすゲームは人を建て起こす
エホバのクリスチャン証人は,聖書が非常に健全で有益な影響を人に及ぼすことを知っています。聖書に関係したゲームは興味深いだけでなく教育的でもあります。しかしこの場合にも,客がどんな人たちか,どれほど聖書を知っているかを考慮しなければなりません。神のみことばを研究しはじめたばかりの人がいるところで複雑な聖書ゲームをするなら,その人は,自分は何も知らずに取り残されたと感じて失望してしまうかもしれません。若い人たちが交わっているなら,ゲームを計画するに当たって,その人たちの能力も考慮に入れてあげるべきです。
一部のエホバの証人たちが友だちと楽しむゲームに,聖書中の顕著な人物について討議するゲームがあります。ひとりが聖書中のある人物の名をあげます。すると客がおのおのその人について知っていることを述べます。伝記に関する興味深い詳細事でもかまいません。その人の出生地,親族,友人,経験,忠実だったか不忠実だったかなど。みんながかなりの事柄を指摘した後,その名を選んだ人は,聖書に記されているこの人の記録は今日のわたしたちにどんな良い益を与えますか,と尋ねます。各人ひとつの点を述べます。この聖書中の人物の生涯は,行状に関する原則に光を当てているとか,預言的な意味があるなどと説明できます。それがすむと,次の人が聖書中の別の名を選び,同じ順序でゲームを続けます。
このゲームは団体で旅行している時でもできます。競争のゲームではなく,全員が益を受けられます。知識が得られ,考える能力に良い刺激を与えます。それに物事の相関関係が明らかになるので理解力を養うことができます。
聖書中の人物をアイウエオ順にあげて楽しむゲームも人を引きつけます。ひとりがある字を言うと,各人が順を追ってその字で始まる聖書中の名前を答えます。ア,アロン,イ,イサク,ウ,ウジヤ,エ,エサウ,オ,オバデヤと続きます。別のやり方は,一つの字を出して,各人にその字で始まる聖書中の人物を言ってもらいます。ア,アベル,アサ,アマサ,アブサロム,アロン……。イ,イザヤ,イッサカル,イスラエル,イシマエル,イゼベルというようになるわけです。
楽しく考えることのできる別のゲームは,だれかが自分はヨで始まる聖書中の人物を考えていると言います。すると,ほかの人たちがその人物がだれかを当てるためにいろいろ質問して答えを探ります。これに似たものに,質問を受ける人に,質問をする人の考えている人物を当ててもらうゲームがあります。例えば,あなたの考えている人はその人をねたんでいる10人の兄弟がありますと聞かれた場合,出題者は「いいえ,ヨセフではありません」と答えます。もしヨセフが正解であったら,あるいは出題者が質問をした人の考えている聖書中の人物を当てることができなかった場合には,今度は質問をした人が自分の考えている名前の最初の字を言います。出題者の番を取られた人は自分の考えていた人がだれかを言う必要はありません。あとでもう一度使いたいかもしれないからです。
聖書地図を使って興味深い地理のゲームをすることができます。参加する人はそれぞれ,使用される地図のところを開いておきます。ひとりがあるできごとを説明します。だれがその事件の場所を言うことができ,その場所を地図の上で示すことができるかです。各人が順番にでき事を選ぶことができます。しかし,出題者は当然それが起きた場所を知っていなければなりません。
聖書の朗読も客にとても楽しく有意義な一時を与えます。これを興味深いものにするためには,聖書中のある記述を選んで,その中の人物の会話やことばを各人に読んでもらいます。何人が必要かは,その記述の中の人物の数によって決まります。だれかに説明の部分を読んでもらうことも必要です。別の方法は,各人に聖句をいくつかあるいは数節読んでもらい,それからその内容の価値についてみんなに述べていただきます。ただし読むことの得意でない人を当惑させないように注意しなければなりません。
ゼスチャーも客の奇抜さを試すゲームです。聖書中の人物を当ててもらうために,ある動作を身ぶりで示すものですが,教育的でおもしろいゲームです。ほかの人たちが,その人物がだれか,何をしているところかを当てます。もちろん,内気で,人の前で身ぶりをするのはきまり悪いと感じる人もいますから,決して強制しないことです。
こうした事柄には平衡が肝要です。良いことでも何度もやると,すぐ飽きられてしまいます。注意深くて洞察力のある司会者は,ある娯楽が興味を失われつつあるなら,すぐにそれを察知して別のものに変えます。変化は楽しみを増します。
時には,エホバの証人でない親族や友人が証人の集いに同席して,その模様を見ることがあります。すべてが人を建て起こす方法で運ばれるなら,アメリカのオレゴン州での次の経験が示すように,非常に良い印象を与えます。数年前のことですが,バプテスト派教会の会員であった一組の夫婦が,数人のエホバの証人が聖書ゲームをしている集いに同席していました。それを見ていた妻は,自分が自分の考えているほど聖書を知らないことに気づきました。彼女は夫に,わたしは何年も聖書を勉強しましたが,エホバの証人に比べると何も知らないと言いました。ふたりは深い感銘を受けて,集いが終わったあと,家庭聖書研究を司会してくれるようエホバの証人にたのみました。
このように,人を建て起こす娯楽は楽しくもあり,すべての人に祝福をもたらします。みんなを有益な仕方で楽しませるような事柄を考えて用意しておくなら,あなたの友人はあなたの計画する集いをほんとうに喜んでくれることでしょう。