問題の根源はどこにあるか
今日起きている事柄を観察するとき,人類の問題の原因として,あなたはどんなことを考えますか。
多くの問題は,事実上わたしたちを束縛している環境によって引き起こされていることに,おそらく気づくでしょう。たとえ望ましくない事態が生じても,人々はそれをどうすることもできません。人は現存する体制の枠の中で行動する以外にないのです。
一例として,いわゆる先進国の農業経営者を考えてください。成功するには現代的な方法を使わなければならないと,彼らは考えています。これには当今,多くの資金を要します。かなりの利益がなくては,農業経営者は機械,燃料,肥料の高いコストを払いきれません。それで彼の生産物に対する需要が落ちたり,あるいは他の問題のために大きな損失をこうむるなら,農業を続けるのに必要な物を買えないかもしれません。資金の借入れによる経営ならば,破産することもあり得ます。
それに世界の何百万という飢える人々を助けようとしても,今日の社会において一農業経営者にどれだけのことができるでしょうか。彼の住んでいる国では,大量の肉が冷凍倉庫に貯蔵されているかもしれません。すると豚や牛を市場に出しても,買い手がないでしょう。それで彼は,自分の持っているものを空腹な人のために役だたせたいと思います。しかし農業を続けるには,畜産物を売ることが必要です。ただで与えるわけにはいきません。
彼の家畜を肉にして,世界のどこかの飢えている人々に届けるのは,決して簡単なことではありません。肉を処理,加工し,運ぶ人々に賃金を払うことが必要です。彼らはそれで生活しています。生産国の市場で買い手のない肉がたとえ寄贈され,飢えている国に無料で運ばれ,困っている人々に無料で与えられたとしても,それで問題が解決されるとは限りません。宗教上の理由で人々が全く肉を食べなかったり,特定の動物の肉を食べなかったりすることがあるのです。
工業もまた大きな利益に依存する体制の中に組み込まれています。機械,燃料,賃金,原材料そして設備の維持には莫大な資金を必要とします。世界市場で競争するために,生産者は価格をできるだけ低くしておかねばなりません。利益につながらないこと,たとえば公害防止装置などに多額の費用をかける余裕のない場合もあります。大企業の中には,公害防止の法的な規制にしばられて多額の出費をするよりも,一部の工場の閉鎖を望むものがあるでしょう。
工場地帯に住む人々は,ひどい騒音,煙,塵埃のやむことを望んでいます。しかし企業家は言います。「工場を閉鎖したらどうなるか。公害はなくなっても,こんどは失業で土地の人々は経済的に立ちゆかない」。それで有害なことはわかりきっていても,大規模な汚染はそのまま続きます。
ほかにもいろいな例が挙げられるでしょう。しかしそのすべてはひとつの結論を指摘しています。すなわち今日のわたしたちは,何世紀にもわたって個人,団体,国家が犯してきた間違いの全体的な結果を身に受けているということです。現在の体制が生み出した問題は地球的な規模のものであり,人間の生存そのものを脅かしています。1974年8月2日,原水爆反対第20回世界会議において,ジョージ・ウォルド博士は次のように述べました。「ひとつだけでなく多くの危険が,かつてなかったほどに人間の生命を今脅かしている。そのうちどれひとつをとっても,人類を破滅させ得るものであるのに,そのすべては関連しており,またすべてが同時に我々に臨んでいる」。
明らかに現在の体制を全く変えることが必要です。しかしそのような変化は,非常に大きな犠牲を伴います。人類の益のために何を犠牲にすべきか。この決定をだれに任せることができるでしょうか。生きるため基本的に必要なものを欠く人がひとりもないように事を運ぶ知恵を持っているのはだれでしょうか。部族,国家,人種の相違を考えるならば,決定を下すことに関与する人々が,自分自身,親族,友人,部族,国民,人種の利益を優先させないという,どんな保証がありますか。
すべての人に対する公平な取扱いがたとえ保証されたとしても,利益や賃金の引下げに喜んで応じ,世界の他の場所に住む人々を飢餓から救うために自分の食生活を加減したり,何かのぜいたくをやめたりする人が,はたしてどれだけあるでしょうか。どれだけの人が今より少ないもので本当に満足し,こうした方法で人類同胞の益を喜んで求めるでしょうか。他の人の犠牲から利益を得ている人々については,どうですか。そうした人々は心から喜ぶでしょうか。このような人の中には,他の人の犠牲において自分の分け前をふやそうとする貪欲な人が,あるいはいるのではありませんか。
いま存在する体制は,それ自体で存在するようになったのではありません。人々が関係しています。問題を考慮するとき,根本的な欠陥は人類にあることが明らかではありませんか。
根本的な理由 ― 人間の不完全さ
心ならずも他の人を傷つけることをしたり,言ったりするのはよくあることです。自分ではこうありたいと思っても,自分の望むような人間になことには一再ならず失敗します。いわば『的をはずす』と言えるでしょう。昔のヘブライ人やギリシャ人は,このように失敗することを表現するのに文字どおりには『的をはずす』という意味のことばを使いました。このように『的をはずす』ことを,現代語の多くは「罪」と称しています。
このような落ちどのない人はいません。わたしたちすべては弱さと不完全さを受け継いでいます。しかしこの事はどうして生じたのですか。長年の研究にもかかわらず,科学者はこれを説明できません。年を取るにつれてからだが弱ってくる原因でさえ,科学者にとってなぞです。1974年版の大英百科事典によれば,「老化の根本的な原因は生理学的にはなお不明である」とされています。
しかし人間が心もからだも不完全である根本的な理由を明らかにしている古い本があります。この本つまり聖書が納得のゆく説明をしているという結論に達した考え深い人は,男女を問わず大勢います。聖書には次のように出ています,「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」― ローマ 5:12。
そうです,人類の最初の先祖であるアダムは,神に対する全き従順という点で「的をはずし」ました。完全さを失ったゆえに,アダムは不完全な子孫しか生み出すことができませんでした。昔,ある人が悟りをもって,「だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができようか,ひとりもない」と述べたとおりです。―ヨブ 14:4,口語訳。
それでも,受け継いだ不完全さということだけで,人類の直面している問題すべてをじゅうぶんに説明できるわけではありません。男女を問わず,たとえ不完全でも人間は他の人に対して深い思いやりを示すことができるではありませんか。同胞を助けようとして,命を捨てることさえいとわなかった人も少なくないではありませんか。すべての人を破滅に陥れるような道から離れることを人々や国々に訴える,憂いにみちた人々の発言を,わたしたちは何度も耳にしているではありませんか。それにもかかわらず,世界は狂気の道を進もうとするかにみえます。それはなぜですか。
目に見えない,強力な霊者の影響
世界に強い影響を及ぼしている勢力が,人間の領域の外にあるのではないでしょうか。まさにそのとおりであると感じている人は,決して少なくありません。ナチ時代の恐怖について,アーノルド・ウェーバーは,「ある種の勢力……超人間の集団的な力が地から湧いて出た」かのようであったと述べています。アンドルー・M・グリーレイがニューヨーク・タイムズ・マガジーン(1973年2月4日号)誌上に述べているとおり,今日の世界において行なわれてきた非人間的な行為は,悪を行なう人間の性向とはけたはずれのものです。
「悪の程度は,それにかかわった人々の悪意と比例するものではない。殺人者の多くは,悪ではなくて善を望む,ふつうの善意を持った人々である。……悪行は悪意から生ずるよりも,あやまち,誤算,人力の限界から生ずる場合がはるかに多い」。
しかし悪を行なう人間の傾向から推してひどすぎるように思われる暴虐を人間が行なうのは,だれのせいですか。人は何か超人間の力が存在するのを感じても,それが何であるかを見極めることはできません。しかし聖書はこの力が何であるかを明らかにしているのみならず,いつ,そしてどのようにそれが人間の事柄に影響しはじめたかを示しています。
聖書によれば,地球のできる前から,理知のある霊者が存在していました。(ヨブ 38:6,7)そのうちのひとりが神に敵対し,また最初の人間そしてつまりは全人類を支配しようとたくらみました。そのたくらみを成し遂げるため,その者は悪意をいだいて神をそしりました。(創世 3:1-6)その理由で聖書はのちにこの者をサタンすなわち「さからう者」また悪魔すなわち「そしる者」と呼んでいます。この反逆者にそそのかされて最初の人間が神に反逆しただけでなく,他の霊者も神に反逆したのです。(ペテロ第一 3:19,20。ユダ 6)これら不従順な霊者は,「悪霊」と呼ばれるようになりました。―ヤコブ 2:19。
聖書を読むとわかるように,サタンと悪霊は,悪の“霊”すなわち神の律法をことさら無視している人類の世にしみ込んだ支配的な精神の根源です。(エフェソス 2:2。ヨハネ第一 5:19)このような悪い精神がどれほど強い力を及ぼすかは,暴動に加わる人々がどうなるかを考えても理解できるでしょう。暴徒の集団も個人的にみれば,全部の人が残酷で乱暴なわけではありません。自分では平和愛好者であると唱え,表面的にはそのような人に見えることさえあるでしょう。ところが,ひとたび『暴徒の精神』に巻き込まれると,ふだんは法律を守る市民が狂った男女のように行動し,自分たちと同じ人間を襲って殺したり,物品を破壊したりします。その多くは,あとで深く恥じるようになり,自分のしたことが信じられない人々なのです。
人間同志の恐るべき残酷さを考えると,神の律法を無視する不完全な人間の罪深い傾向に,悪霊がつけ込んでいるという聖書の説明を受け入れるのは理にかなっていないでしょうか。過去および20世紀の惨事を説明するどんな理由が,ほかにあり得ますか。
欠けている,神との正しい関係
人間が不完全であり,またサタンと悪霊に影響されるのは,創造者である神との正しい関係を人間が失ったためです。次のような事実はそれを示す確かな証拠となっています。すなわち聖書に記された神の律法を無視すると,必ず問題が増えるということです。たとえば,聖書には性の不道徳を非とする戒めが明白に記されています。(コリント第一 6:9,10)その戒めを無視するとどうなりますか。性病,望まない妊娠,破壊された家庭,別居と離婚が増加します。
全体として見れば人間は神の導きを得ていないため,やみの中でつまずいています。神のご意志を行なおうとする人でさえ,自分の不完全さと今の体制のために限界を感じています。
わたしたち人間にとって真に必要なのは,人間の創造者との完全な一致を可能にする取り決めです。わたしたちは受け継いだ弱さと不完全さ,加えてその苦痛に満ちた結果である病気,老齢,死から解放されることが必要です。どんな人,組織,国家もこの解放をもたらすことはできません。すると,人間は絶望的な状態におかれているということですか。それとも人間の直面する重大問題すべてからわたしたちが解放されることは可能ですか。
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農業経営者は飢える人々を助けたくても,作物をただで与えるわけにはいかない
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公害は悪である。しかし現在の経済体制において,その解決は容易ではない
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自分が望むような人間になることでは,人々はいつも的をはずしているように見える。それはなぜか
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暴徒の心理は人々の行動を狂わせる。今世紀の非人間的な行為は何のせいか?