聖書理解の助け ― アッシリア(その一)
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
アッシリア(その一)。この名称は,メソポタミヤ平野の北端,つまり現今のイラクの国の北辺部を占めていた古代の国家に当てはまります。基本的には,この国はチグリス川と小ザブ川とで形成される三角形の地域に横たわっており,大体においてこれらの川が西方と南方の境界となり,一方古代アルメニアの山々が北方の境界,それにザグロス山脈とメディアの地が東方の境界となっていました。しかし,注意すべきこととして,これらの境界はかなり流動的で,バビロンが衰退したときには,アッシリアは小ザブ川の南に広がりました。ところが,アッシリアの政治的運命が低迷し,バビロンのそれが優勢になったとき,アッシリアは後退しました。このような変動は他の境界にも当てはまり,特にチグリス川の境界がそうでした。初めのころ,アッシリアはその川の西方に勢力を伸ばしていたからです。もちろん,アッシリア帝国はそれよりもはるかに広大な地域を擁しました。
アッシリアとバビロンの間にはその歴史を通じて密接な関係が続きました。この両者は,それぞれの領土の国境となる実際の分界線などの何もない地域を共同で占有する隣接国家でした。とはいえ,アッシリア本土の地域はほとんどが高地で,概して地勢がけわしく,気候はバビロニアよりもさわやかなところでした。人々はバビロニア人よりも精力的で攻撃的な性格を持っていたようです。浮き彫りには,顔色は黒く,濃いまゆ毛と堂々たるあごひげを生やし,よく目立つ鼻のある,屈強な体格の持ち主として描かれています。
チグリス川の西に位置していた,アッシリア本土唯一の都市アッシュールは,この地域の最初の首都であったと考えられています。しかし,その後,ニネベが最も著名な首都となりました。一方,カラやコルサバードも時おり,アッシリアの帝王によって首都として用いられました。アッシリアの北部には地中海や小アジアに通ずる通商路が走っており,アルメニアやウルミア湖に至る,ほかの通商路も,この地から分岐していました。アッシリアの戦いの多くは,これらの通商路を支配したり,支配権を確保したりするために行なわれました。
軍事主義
アッシリアは本質的に軍事強国で,その偉業を描いた歴史的遺物で残っているものは,恐るべき残忍性と強欲を示すものです。その武勇な帝王の一人,アッシュールナシルパルは,反抗する都市に対する処罰を次のように説明しています。
「わたしは彼の都市の城門の前に,それよりも高い柱を建て,反乱を起こした首領らすべての皮をはぎ,彼らの皮でその柱を覆った。ある者らを,わたしはその柱の中に閉じ込め,ある者らを柱の上でくいに突き刺した……また,わたしは役人ども,反逆した王室の役人どもの手足を切断した……
「彼らの中から捕らえた多くのとりこを,わたしは火で焼き,多くの者を生け捕りにした。そのある者らの鼻や耳や指を切り落とし,その多くの者の目を見えなくさせた。わたしは生きた者どもで一本の柱を,頭でもう一本の柱を作り,彼らの頭を都の周りの木の幹に縛りつけた。彼らの若者や乙女らを火で焼いた。
「二十人の男を,わたしは生け捕りにして,彼の王宮の壁に閉じ込めた……
「彼らの戦士の残りの者らを,わたしはユーフラテスのさばくで,のどの渇きで死に絶えさせた。……」
浮き彫りにはしばしば,鼻やくちびるに刺し通されたかぎに結ばれた綱で引かれる捕虜や,槍の先で刺されて目をつぶされている捕虜が描かれています。このようにアッシリアの戦いにはその特徴として,残忍な仕方で責めさいなむ処置がしばしば見られ,彼らは厚かましくもそれを誇り,丹念に記録しました。その残忍さが知られたことは,軍事上彼らに有利に働き,彼らの攻撃の進路にいる人々の心を恐怖でぞっとさせ,しばしば抵抗力を崩壊させました。アッシリアは預言者ナホムによって適切にも,「ライオンの巣くつ」,またその首都ニネベは「流血の都市」として描写されています。―ナホム 2:11,12; 3:1,新。
アッシリアの宗教
アッシリアの宗教は大方,バビロンから受け継がれたものでした。アッシリア独自の国家的な神アッシュールは至上者とみなされはしたものの,バビロンが宗教上の主要な中心地とみなされました。アッシリアの王はアッシュールの大祭司を務めました。A・H・レイヤードがアッシリアの王宮の廃きょで発見し,今日では大英博物館に保存されている一つの印章は,アッシュール神を三つの頭を持つものとして表わしています。アッシリア人の礼拝の中では,五つ組の神,つまり五体の神はもとより,三つ組の神に対する信仰は顕著なものがありました。主要な三つ組は,天を表わすアネルと,人や獣や鳥の住む地域を表わすベルと,地上と地下の水を表わすエアとで構成されていました。二番目の三つ組は,月を意味するシンと,太陽を意味するシャマシュと,あらしの神であるラマンとで成っていました。もっとも,ラマンの場所はしばしば,三日月によって象徴される星の女神,イシュタルで満ちていました。(列王紀略下 23章5,11節と比べなさい。)次いで,五つの惑星を表わす五体の神々があります。三位一体のグループを構成する神々について注解した,「アンガー聖書辞典」(102ページ)はこう述べています。「時として,これらの神々は,各々を順番に他に対する至上の地位に引き上げるような言い回しで,別々に呼び掛けられている」。しかし,その万神殿には,町々の守護神となっている多数の神々を含め,ほかの無数の下級の神々が祭られていました。ニスロクについても言及されていますが,セナケリブはこれを礼拝していた時に暗殺されました。―イザヤ 37:37,38。
これらの神々に関連して行なわれていた宗教は,精霊説的な宗教でした。つまり,アッシリア人は,あらゆる物体および自然現象は精霊によって生気を与えられると信じていました。この宗教は周囲の国々で広く行なわれていた,ほかの自然崇拝とはある程度異なっていて,戦争は国家的宗教のこの上ない真正な表現でした。ですから,ティグラト・ピレセル一世はその戦いについて,「我が主,アッシュールはわたしをしきりに促した」と言いました。一方,アッシュールバニパルはその年代記の中でこう言っています。「アッシュール,シン,シャマシュ,ラマン,ベル,ナブ,ニネベのイシュタル,ニニブ,ネルガルおよびヌスクの命令によって,わたしはマナイの地に入り,勝利を得て進軍し,その地を通った」。サルゴンはいつも,戦争に行く前にイシュタルの助けを願い求めました。軍隊は,木製か金属製と思われる象徴物を棒の上部に取り付けた,神々の軍旗の後ろに従って進軍しました。犠牲としてささげられた動物の肝臓を調べたり,鳥の飛び方や惑星の位置などによって確かめられる吉凶のしるしは大いに重視されました。W・B・ライトの著書,「古代都市」(25ページ)はこう述べています。「戦いは国家の仕事であり,祭司たちは絶えず戦争を扇動した。彼らは主として,征服して得た分捕り物で養われており,分捕り物は他の人々に分けられる前に,決まって一定の割合で祭司たちにあてがわれた。強奪者たちのこの戦いは,極めて宗教的なものだったからである」。
文化,文学および法律
しかし,アッシリア人は単なる未開人ではありませんでした。彼らは荘厳な王宮を建て,その内壁には戦争や平和の情景を大変写実的に力強く描写した彫刻の施された石板を取り付けました。重さ36トン余もある一つの石灰岩を刻んで彫った人頭有翼の雄牛像が王宮の入口を飾っていました。彼らの使った円筒印章には,複雑な彫刻が施されています。彼らの鋳造技術は,彼らが冶金術の相当の知識を有していたことを示唆しています。帝王たちは水道橋を建造し,かんがい方式を開発して,多くの国から取り寄せた草木や動物を配した王室用の植物園や動物園を造り出しました。それら王宮建造物は大抵,非常によく設計された排水施設があったことや衛生状態が大変良好だったことを証拠立てています。
特に興味深いのは,アッシリアのある帝王たちの建てた大規模な図書館です。それらの図書館には,主要な歴史的事件,宗教上の情報,法律および商業上の事柄を述べた,楔形文字の刻まれた粘土板,角柱,円筒印章などが何万個も納められていました。もっとも,アッシリア史のある時期の年代を付したある法律はやはり,度々この国を特徴づけるものとなったか酷さを示しています。ある種の犯罪に対する処罰として手足の切断が行なわれました。例えば,奴隷女はベールを付けて人前に出ることは禁じられ,この法令を犯した女は両耳を切り取られなければなりませんでした。結婚した女性のために法律上の保護を与えるものはありませんでした。このことは次のように述べたある法律からも分かります。「銘板に刻記されている既婚婦人に関する刑罰はさておき,夫はその妻をむち打ったり,その髪の毛を引き抜いたり,両耳を裂いたり,傷つけたりしてもよい。このことには法律上の罪は(関係してい)ない」。
聖書および一般の歴史
聖書の記録の中でアッシリアのことが最初に言及されている箇所は,創世記 2章14節で,そこでは元々,「エデンから」出ていた川の四つの源流の一つであったヒデケル川(チグリス川)が,モーセによれば,その時代に,「アッシリアの東に流れる」川として述べられています。―創世 2:10,14,新。
この地の名称は,セムの子アシュルから取られました。(創世 10:22)ですから,大洪水後間もなく,セム人がこの地に住んだようです。ところが,この地は早くから侵入を受けました。というのは,ハムの孫ニムロデがアッシリアに入り,「ニネベ,レホボト・イル,カラ,そしてニネベとカラとの間のレセン」を建て,「これは大きな都市である」と記されているからです。(創世 10:11,12。ミカ 5章6節と比べなさい。)これが,バベルの塔の建造と,それに伴って生じた言語の混乱の後のことかどうかは記されていません。(創世 11:1-9)それにしても,この創世記 10章の中で,様々の「国語」のことが既に指摘されています。(創世 10:5,20,31,新)いずれにしても,アッシリアの首都ニネベがバビロンから発達したことは確かで,一般の歴史もこの点で一致しています。後代になって,アブラハムの子イシマエルの子孫の部族が,遊牧民として移動しながらアッシリアにまで達したことが述べられています。―創世 25:18。
アッシリアの土地から幾千枚もの粘土板が取り出された結果として,相当数のアッシリアの帝王の名が知られるようになり,歴史家はこの国の全般的な歴史についてある程度の結論に達しています。(ティグラト・ピレセル一世の治世の後の)西暦前1100-900年ごろの時期はアッシリア衰退の期間と見られていますが,これがしばしば,ダビデの治下(西暦前1077-1037年)でイスラエル国家の境界が拡張され,さらにソロモンの統治下(西暦前1037-997年)でその勢力範囲が一層拡大するための都合の良い状況であったと言われています。もちろん,このような拡大は本来,神の支持によるもので,アッシリアの弱体化に依存していたわけではありません。―サムエル後 8,10章。列王上 4:21-24。
聖書の歴史に関係しているアッシリアの歴史を考慮するに際し,ここでは,アッシリア歴代の帝王の治世の始まりと終わりの年代を定めることは行なわれていません。むしろ,それらの帝王はユダとイスラエルの様々の王たちとの関係において示されており,ユダとイスラエルの王たちの治世は各々の名のあとに示されています。
アッシュールナシルパルとシャルマヌエセル三世
無情な戦役と残忍さで知られたアッシュールナシルパルの治世中に,アッシリアによる侵略がイスラエルに迫りはじめたことについては既に述べました。種々の碑文は,同王がユーフラテスを渡り,北シリアを侵略し,フェニキアの諸都市から貢物を要求したことを示しています。その後継者,シャルマヌエセル三世は,イスラエルの北王国と直接接触したことを記録している最初の王です。アッシリアの記録によれば,シャルマヌエセルはオロンテス河畔のカルカルに進攻し,そこでダマスカスのハダド・エゼルの軍を含め,幾人かの王の連合軍と戦ったと伝えられています。イスラエルのアハブ王は,その連合軍の王たちの一人として挙げられる,と多くの人に考えられています。戦いの結果は,勝敗を決しがたいものがありました。ニムルード出土のシャルマヌエセルのブラック・オベリスク(黒い方尖柱)には,エヒウ(西暦前約905-876年)が同王に貢物をささげた後代の王として挙げられており,明らかにエヒウの使者がこのアッシリアの帝王に貢物を渡している様子を描いた浮き彫りが見られます。
シャルマヌエセル三世の後継者,シャムシ・アダド五世に次いで,アダド・ニラリ三世がアッシリアの王座に就きました。碑文によれば,彼はベン・ハダド(列王上 19:15。列王下 8:12-15)の後継者,ハザエルの治世中にダマスカスを攻撃したと伝えられていますが,このハザエルはエヒウ王(西暦前905-876年)およびイスラエルのエホアハズ王(西暦前876-860年)の治世中,また恐らくそれ以後まで支配したと思われます。(列王下 10:31-34; 13:1-3)彼はまた,『オムリの国』(イスラエルの北王国)を進貢国として含めていますが,オムリという名がこのような後代にも用いられているのは,サマリアを築いた,かの強力なイスラエルの王の大胆な行為が依然として記憶されていたためでした。―列王上 16:23-27。
アッシリアに対するヨナの任務
西暦前9世紀の半ばのある時(西暦前844年ごろ),預言者ヨナはある任務を帯びてアッシリアの首都ニネベに派遣され,来たるべき滅亡について警告した結果,その王を含め,その全市の人々が警告に答え応じて悔い改めました。歴史の記録によれば,アダド・ニラリ三世の後,シャルマヌエセル四世,アッシュール・ダン三世およびアッシュール・ニラリ五世の三人の王が跡を継ぎましたが,ヨナ書の中で言及されている王が,これら三人のうち,その一人であるにしても,どの王かは分かりません。しかし,この時期がアッシリアの攻勢については衰退期だったということは興味深い事柄です。